精神的SMから派生したこと1 9:45追記あり
りん子的独り言(生意気)
エントリー内赤字で追記をしました。
今日は『精神的SM』にいただいた毒蜘蛛さんのコメントへのレスをエントリーにいたします。
毒蜘蛛さん宛てに書きはじめてどんどんエントリーになっていきますので、最初は毒蜘蛛さんへのメッセージになりますが、これも含めてエントリーです^^
ですから、毒蜘蛛さんはコメントの義理はありませんよ^^
毒蜘蛛さん
コメントありがとうございます。
日頃の『りん子的独り言(生意気)』のときは、主張はするけどできるだけ『否定せず』書くように努めています。
◯◯批判ではなく、わたし側の女性にヒントになるように。
でも、『140字もどき』はそのハードルを下げていてかなり偏った批判を書いてしまっていますので、その対象の人にとっては不快な思いをさせてしまう可能性は高いはずです。
わたしはエントリーを書くときにいろいろな人を思い浮かべます。
それぞれの内容によって思い浮かべる人は違いますが、その人たちに恥ずかしくないように書けているかって。
『140字もどき』のときももちろん思い浮かぶのですが、すこしだけいつもより「書きますよ(ごめんねとは思わないようにしています)」とちょっと気合い入れます。
あのエントリーを書きながら思い描く人は何人かいて、その中に毒蜘蛛さんもいました。
『SMは手段』と公言されていることを知っていたからです。
その毒蜘蛛さんからコメントをいただけただけでもありがたいのに、そのコメントに悪意が感じられないこともとてもうれしく思いました。
『精神的SM』の他の方へのコメントレスにも書きましたが、わたしが本当に言いたかったのは『Sじゃない人がご主人様をしていることはの批判』なんかじゃなくて、『言っていることとやっていることが違う』ことへの残念な気持ちだったわけですが、そこまで明確に読み取ってくださっているのではないにしても、おそらく、毒蜘蛛さんは、少なくとも『等式』を読んでくださっている人のご意見だと思えたことがありがたく、うれしかったです。
また、一方的なエントリーの場合は毒蜘蛛さんのように反対側からの悪意のないご意見というものは、風通しをよくすると思いますので助かります。
そんな気持ちも書きたい、この際(?)他にもいろいろ書きたいと思い、コメントレスをエントリーにすることにいたしました。
毒蜘蛛さん、ありがとうございます。
と長い前振り^^
毒蜘蛛さんは『罰』や『褒美』、自覚を促すためにSM行為を行うそうです。
そのような理由付けがないとSM行為はただの暴力行為になってしまうからだということです。
SM行為を暴力にしないために『罰』や『褒美』の目的のための手段と位置付けている毒蜘蛛さんのようなスタンスの『する側』の視点はどう思うかというコメントでした。
たしかに、暴力行為を己の快楽だけで行うことはとても危険ですから、手段として冷静に行うことは危険を回避する方法のひとつとして、こちら側も理解できます。
ですから、ただの暴力としてSM行為を行わないというスタンスは、身を任せる側としてはひとつの安心の要素ではあります。
まず。
このお話を進めるにあたり、毒蜘蛛さんとわたし(たち)の前提がまったく違うことはとても大事なこのなので、あらためて明記します。
毒蜘蛛さんと毒蜘蛛さんの求める女性はSM行為を『したくない人』と『されたくない人』の組み合わせで、那智さんとわたしは『したい人』と『されたい人』の組み合わせだということです。
なぜかというと、毒蜘蛛さんはSM行為が『罰』になりえるからです。
『褒美』という側面もあるそうですが、たとえば鞭は罰だけど、縛りはご褒美というようなことなのかな。(ちょっとここが情報不足で自信持って書けないです)
だとしても、罰という側面があるのであれば、罰=マイナスのことをいう認識があるわけで、『したくない人されたくない人』と言えますよね。
もちろんわたしたちだって、できないことややってはいけないことはあるけれど、全般を通してSM行為をしたいしされたいし、互いに性的興奮を憶えているわけで、やはり毒蜘蛛さんとSM行為に対する前提が違います。
ですから、『したくない人』『されたくない人』の組み合わせであれば、SM行為を『罰』や『褒美』のための手段であることは、あり得るのだと思います。
(やっぱり褒美は、ちょっと自信持って書けない、だって罰と褒美が同一になることがわからないので^^;)
だから、する側のスタンスとして『SM行為は目的ではなく手段』はあり得る、がコメントをいただいて一考した答えです。
毒蜘蛛さんとわたしたちは、そもそもSM行為に対する前提が違うという認識のもと、自分の好みの方法で自分のしたいことを楽しみましょう^^
補足でもうちょっと詰めると。
SM行為を『したくない人とされたい人』と『したい人とされたくない人』の組み合わせもありますよね。
『したくない人とされたい人』の場合、されたい人にSM行為をするわけで、これでは『罰』にはなりません。
また、『したい人とされたくない人』の場合は、したい人なんだからS嗜好ありなので、SM行為自体目的にもなりますから、SM行為は目的ではなく手段とは言えません。
ですから、この2組の場合はSM行為は『罰』を与える手段というのは辻妻合わないから、このお話を進めるにあたっては除外します。
まあ、物事ははっきり線引きできるものではありませんけど、危険なこともお任せするこちら側としてはする側から『なんとなく』というグレーゾーンを認められてしまうのは怖いので、あえてはっきり線引きしますね。
また、ここには、なぜ『罰』や『褒美』や自覚を促すことにSM行為を用いる必要があるのかという疑問は残ります。
人を変えたいと思うとき、Mだろうが関係なく一番必要なことは対話だと思うからです。
(これについては、また別の機会に詳しく^^)
と、ここからは、わたしたちのSM行為について。
というか那智さんのということがメインになるかな。
那智さんの考えを聞いてわたしなりに解釈したいつもの感じですので、毒蜘蛛さんへのレスとは切り離してお読みくださいませ^^
補足ですが、毒蜘蛛さんへのお返事を書くにあたり、『SM行為に対する前提が違う(『したい されたい』と『したくない されたくない』の組み合わせ)』という大きな柱は那智さんが立てたので、そこも含めて那智さんの柱とわたしの考えとご理解ください。
那智さんは少年の頃から縛られた女性に性的な興奮を憶え、好きな女の子にうんこを食べさせたいと思っていました。
思春期の頃、性的に惹かれるものはSMものでした。
これをS嗜好というなら、那智さんはS的嗜好を持った人です。
ただ那智さんは、おそらく生粋のサディスト(?)というわけではないので、とにかく暴力行為がしたい本当に嫌がっている姿を見て興奮するというわけではないのです。
自分が施すSM行為でその先に快楽を得ている女性を見たい、それで支配欲や肯定されたい欲を満たしたい。
そういう欲が強いのです。
ですから、わたしに鞭を打つとき、おしっこと飲ませるとき(飲尿ってSM?笑)、泣いたり厳しそうな表情をしたりしても、最後には幸福なり快感なりを味わうことが必要になってくるし、それが満足です。
そう考えると那智さんがわたしにSM行為をするのは、それで幸福にしたいという目的を持ってするわけで、じつは、手段であるともいえます。
毒蜘蛛さんとの違いは、互いにそれを求めているもの同士が行っているので、そこに『罰』や『褒美』の意味はなく、意味をつけるならその行為で互いに満たされ幸福になるためということになります。
(褒美の意味もないよ、だって那智さんもしたいことなんだからね、わかりますよね)
また一般的には暴力行為にあたるようなことを、好きな女に自由に行うために『可愛がる』行為と位置付け、これにより【SM行為における矛盾】も解消しているわけです。
ですから、那智さんは手段としてSM行為をしているといことでは毒蜘蛛さん他の男性と同じといえば同じです^^
『罰』(したくない、されたくない組み合わせ)か『可愛がる』(したい、されたい組み合わせ)か、目的が違うことですね。
すごーーーく大局的に見れば、『罰を与え、良好な関係を作る』、『可愛がり、良好な関係を作る』ということで『良好な関係を作る』という目的は同じかもしれないけど、毒蜘蛛さんのコメントにはそこまで明記されていなかったから、違うってことにしますよ(笑)
ただ、『したい人』である那智さんですから、サディスティックな欲望はもちろんあるわけで、それをためらいなく行うためにわたしが快感を味わえるように時間をかけて仕向けていきました。
わたしだって最初からいろいろなことが快感になったわけではないので、那智さんの調教(笑)の結果、鞭で【あの世界に行き】、那智さんの排泄物で興奮を憶えるようになりました。
感想の補足にも書きましたが、最初は『気持ちよくなりな』という可愛がる感情からスタートしますが、そんなふうにわたしが感じはじめて、そこからサディスティックな欲望で鞭を打つことを楽しめるそうです。
ですから、厳密にいうと手段であり、目的でもあるというのが正解です。
これが暴力行為にならない、那智さんのSM行為の手段と目的です。
そもそも前提(したいか、したくないか)から違っているのだから、どちらが正しいかなんて決められるものじゃないですよね。
どちらが、好きか、ということだけですね^^
で、わたしは『罰』なんてほしくないし(笑)、可愛がってもらいたし、那智さんのサディスティックな欲望にも触れたいので、那智さん流のSM行為が好きなわけです。
もう一度言いますが、『SMは目的ではなく手段』という男性を否定しているわけではありません。
精神のSMとかいいながら、いつのまにかSM行為をしなくなっちゃう『言ってることとやってることが違う』ことに違和感を感じたということなのですから。
(もしかしたら、『精神のSM』と『目的ではなく手段』を一緒に書かないほうが正解だったかもしれません。手段のみなさま、ごめんなさい!!)
だから、世の中には『言ってることとやってることが違う』ことなく、一貫してSM行為を手段として行っている男性もいるはずです。
だとしたら、こちら側は自分はSM行為を『されたくない人』なのか『されたい人』か、『罰』がいいのか『可愛がる』がいいのか、オプションで時折サディスティックな欲望も見せてほしいのか(笑)、見極める必要がありますよね^^
以上が、いただいたコメントのお返事とそこから長々思ったことです。
ということで、1エントリー稼がせていただいちゃいました。
毒蜘蛛さんに感謝です。
そして、これにはまだ続きがあります(笑)
かつてのわたしのような『依存体質』ちゃんたちへの、いつもの『りん子的独り言』です^^
だから、2エントリー分、稼いじゃう〜〜(笑)
クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
『精神的SM』
SM行為における矛盾っぽいものを集めました、ちょっと違うのもあるかもしれないけど、とりあえず^^
『奴隷願望の矛盾』
『恋心も支配して♪』
『『絶対服従』のまやかしと『尊重』という逃げ』
『SMのスイッチ』
『スイッチのないSM』
『真のSMって!?』
『M女余り?』
依存体質ちゃん
『M女の種類』
いろいろな人を思い浮かべたりな、こんな気持ちで書いてます
『覚悟を決める時間』
『読み逃げOK』
『りん子的独り言って』
『かつてのわたしに』
「等式」感想です。私には幼い頃より性的に憧れるものがあった。正確には性的と判断つかない位幼い頃から本能の欲求見たいなものがあった。それがなんなのか理解出来た時は嬉しかったと同時に絶望した。一生その欲求を満たすことは難しいと思ったからだ。性的な情報はたくさんあるが選ぶのではなく、
自分の中から出る欲求や欲望に従って欲しいと思う。相手が必要なそれが多いとは思うから難しいこともあるかもしれないが、性的な欲求や欲望を満たす環境は今は整っていると思う。
エントリー内赤字で追記をしました。
今日は『精神的SM』にいただいた毒蜘蛛さんのコメントへのレスをエントリーにいたします。
毒蜘蛛さん宛てに書きはじめてどんどんエントリーになっていきますので、最初は毒蜘蛛さんへのメッセージになりますが、これも含めてエントリーです^^
ですから、毒蜘蛛さんはコメントの義理はありませんよ^^
毒蜘蛛さん
コメントありがとうございます。
日頃の『りん子的独り言(生意気)』のときは、主張はするけどできるだけ『否定せず』書くように努めています。
◯◯批判ではなく、わたし側の女性にヒントになるように。
でも、『140字もどき』はそのハードルを下げていてかなり偏った批判を書いてしまっていますので、その対象の人にとっては不快な思いをさせてしまう可能性は高いはずです。
わたしはエントリーを書くときにいろいろな人を思い浮かべます。
それぞれの内容によって思い浮かべる人は違いますが、その人たちに恥ずかしくないように書けているかって。
『140字もどき』のときももちろん思い浮かぶのですが、すこしだけいつもより「書きますよ(ごめんねとは思わないようにしています)」とちょっと気合い入れます。
あのエントリーを書きながら思い描く人は何人かいて、その中に毒蜘蛛さんもいました。
『SMは手段』と公言されていることを知っていたからです。
その毒蜘蛛さんからコメントをいただけただけでもありがたいのに、そのコメントに悪意が感じられないこともとてもうれしく思いました。
『精神的SM』の他の方へのコメントレスにも書きましたが、わたしが本当に言いたかったのは『Sじゃない人がご主人様をしていることはの批判』なんかじゃなくて、『言っていることとやっていることが違う』ことへの残念な気持ちだったわけですが、そこまで明確に読み取ってくださっているのではないにしても、おそらく、毒蜘蛛さんは、少なくとも『等式』を読んでくださっている人のご意見だと思えたことがありがたく、うれしかったです。
また、一方的なエントリーの場合は毒蜘蛛さんのように反対側からの悪意のないご意見というものは、風通しをよくすると思いますので助かります。
そんな気持ちも書きたい、この際(?)他にもいろいろ書きたいと思い、コメントレスをエントリーにすることにいたしました。
毒蜘蛛さん、ありがとうございます。
と長い前振り^^
毒蜘蛛さんは『罰』や『褒美』、自覚を促すためにSM行為を行うそうです。
そのような理由付けがないとSM行為はただの暴力行為になってしまうからだということです。
SM行為を暴力にしないために『罰』や『褒美』の目的のための手段と位置付けている毒蜘蛛さんのようなスタンスの『する側』の視点はどう思うかというコメントでした。
たしかに、暴力行為を己の快楽だけで行うことはとても危険ですから、手段として冷静に行うことは危険を回避する方法のひとつとして、こちら側も理解できます。
ですから、ただの暴力としてSM行為を行わないというスタンスは、身を任せる側としてはひとつの安心の要素ではあります。
まず。
このお話を進めるにあたり、毒蜘蛛さんとわたし(たち)の前提がまったく違うことはとても大事なこのなので、あらためて明記します。
毒蜘蛛さんと毒蜘蛛さんの求める女性はSM行為を『したくない人』と『されたくない人』の組み合わせで、那智さんとわたしは『したい人』と『されたい人』の組み合わせだということです。
なぜかというと、毒蜘蛛さんはSM行為が『罰』になりえるからです。
『褒美』という側面もあるそうですが、たとえば鞭は罰だけど、縛りはご褒美というようなことなのかな。(ちょっとここが情報不足で自信持って書けないです)
だとしても、罰という側面があるのであれば、罰=マイナスのことをいう認識があるわけで、『したくない人されたくない人』と言えますよね。
もちろんわたしたちだって、できないことややってはいけないことはあるけれど、全般を通してSM行為をしたいしされたいし、互いに性的興奮を憶えているわけで、やはり毒蜘蛛さんとSM行為に対する前提が違います。
ですから、『したくない人』『されたくない人』の組み合わせであれば、SM行為を『罰』や『褒美』のための手段であることは、あり得るのだと思います。
(やっぱり褒美は、ちょっと自信持って書けない、だって罰と褒美が同一になることがわからないので^^;)
だから、する側のスタンスとして『SM行為は目的ではなく手段』はあり得る、がコメントをいただいて一考した答えです。
毒蜘蛛さんとわたしたちは、そもそもSM行為に対する前提が違うという認識のもと、自分の好みの方法で自分のしたいことを楽しみましょう^^
補足でもうちょっと詰めると。
SM行為を『したくない人とされたい人』と『したい人とされたくない人』の組み合わせもありますよね。
『したくない人とされたい人』の場合、されたい人にSM行為をするわけで、これでは『罰』にはなりません。
また、『したい人とされたくない人』の場合は、したい人なんだからS嗜好ありなので、SM行為自体目的にもなりますから、SM行為は目的ではなく手段とは言えません。
ですから、この2組の場合はSM行為は『罰』を与える手段というのは辻妻合わないから、このお話を進めるにあたっては除外します。
まあ、物事ははっきり線引きできるものではありませんけど、危険なこともお任せするこちら側としてはする側から『なんとなく』というグレーゾーンを認められてしまうのは怖いので、あえてはっきり線引きしますね。
また、ここには、なぜ『罰』や『褒美』や自覚を促すことにSM行為を用いる必要があるのかという疑問は残ります。
人を変えたいと思うとき、Mだろうが関係なく一番必要なことは対話だと思うからです。
(これについては、また別の機会に詳しく^^)
と、ここからは、わたしたちのSM行為について。
というか那智さんのということがメインになるかな。
那智さんの考えを聞いてわたしなりに解釈したいつもの感じですので、毒蜘蛛さんへのレスとは切り離してお読みくださいませ^^
補足ですが、毒蜘蛛さんへのお返事を書くにあたり、『SM行為に対する前提が違う(『したい されたい』と『したくない されたくない』の組み合わせ)』という大きな柱は那智さんが立てたので、そこも含めて那智さんの柱とわたしの考えとご理解ください。
那智さんは少年の頃から縛られた女性に性的な興奮を憶え、好きな女の子にうんこを食べさせたいと思っていました。
思春期の頃、性的に惹かれるものはSMものでした。
これをS嗜好というなら、那智さんはS的嗜好を持った人です。
ただ那智さんは、おそらく生粋のサディスト(?)というわけではないので、とにかく暴力行為がしたい本当に嫌がっている姿を見て興奮するというわけではないのです。
自分が施すSM行為でその先に快楽を得ている女性を見たい、それで支配欲や肯定されたい欲を満たしたい。
そういう欲が強いのです。
ですから、わたしに鞭を打つとき、おしっこと飲ませるとき(飲尿ってSM?笑)、泣いたり厳しそうな表情をしたりしても、最後には幸福なり快感なりを味わうことが必要になってくるし、それが満足です。
そう考えると那智さんがわたしにSM行為をするのは、それで幸福にしたいという目的を持ってするわけで、じつは、手段であるともいえます。
毒蜘蛛さんとの違いは、互いにそれを求めているもの同士が行っているので、そこに『罰』や『褒美』の意味はなく、意味をつけるならその行為で互いに満たされ幸福になるためということになります。
(褒美の意味もないよ、だって那智さんもしたいことなんだからね、わかりますよね)
また一般的には暴力行為にあたるようなことを、好きな女に自由に行うために『可愛がる』行為と位置付け、これにより【SM行為における矛盾】も解消しているわけです。
ですから、那智さんは手段としてSM行為をしているといことでは毒蜘蛛さん他の男性と同じといえば同じです^^
『罰』(したくない、されたくない組み合わせ)か『可愛がる』(したい、されたい組み合わせ)か、目的が違うことですね。
すごーーーく大局的に見れば、『罰を与え、良好な関係を作る』、『可愛がり、良好な関係を作る』ということで『良好な関係を作る』という目的は同じかもしれないけど、毒蜘蛛さんのコメントにはそこまで明記されていなかったから、違うってことにしますよ(笑)
ただ、『したい人』である那智さんですから、サディスティックな欲望はもちろんあるわけで、それをためらいなく行うためにわたしが快感を味わえるように時間をかけて仕向けていきました。
わたしだって最初からいろいろなことが快感になったわけではないので、那智さんの調教(笑)の結果、鞭で【あの世界に行き】、那智さんの排泄物で興奮を憶えるようになりました。
感想の補足にも書きましたが、最初は『気持ちよくなりな』という可愛がる感情からスタートしますが、そんなふうにわたしが感じはじめて、そこからサディスティックな欲望で鞭を打つことを楽しめるそうです。
ですから、厳密にいうと手段であり、目的でもあるというのが正解です。
これが暴力行為にならない、那智さんのSM行為の手段と目的です。
そもそも前提(したいか、したくないか)から違っているのだから、どちらが正しいかなんて決められるものじゃないですよね。
どちらが、好きか、ということだけですね^^
で、わたしは『罰』なんてほしくないし(笑)、可愛がってもらいたし、那智さんのサディスティックな欲望にも触れたいので、那智さん流のSM行為が好きなわけです。
もう一度言いますが、『SMは目的ではなく手段』という男性を否定しているわけではありません。
精神のSMとかいいながら、いつのまにかSM行為をしなくなっちゃう『言ってることとやってることが違う』ことに違和感を感じたということなのですから。
(もしかしたら、『精神のSM』と『目的ではなく手段』を一緒に書かないほうが正解だったかもしれません。手段のみなさま、ごめんなさい!!)
だから、世の中には『言ってることとやってることが違う』ことなく、一貫してSM行為を手段として行っている男性もいるはずです。
だとしたら、こちら側は自分はSM行為を『されたくない人』なのか『されたい人』か、『罰』がいいのか『可愛がる』がいいのか、オプションで時折サディスティックな欲望も見せてほしいのか(笑)、見極める必要がありますよね^^
以上が、いただいたコメントのお返事とそこから長々思ったことです。
ということで、1エントリー稼がせていただいちゃいました。
毒蜘蛛さんに感謝です。
そして、これにはまだ続きがあります(笑)
かつてのわたしのような『依存体質』ちゃんたちへの、いつもの『りん子的独り言』です^^
だから、2エントリー分、稼いじゃう〜〜(笑)
クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
『精神的SM』
SM行為における矛盾っぽいものを集めました、ちょっと違うのもあるかもしれないけど、とりあえず^^
『奴隷願望の矛盾』
『恋心も支配して♪』
『『絶対服従』のまやかしと『尊重』という逃げ』
『SMのスイッチ』
『スイッチのないSM』
『真のSMって!?』
『M女余り?』
依存体質ちゃん
『M女の種類』
いろいろな人を思い浮かべたりな、こんな気持ちで書いてます
『覚悟を決める時間』
『読み逃げOK』
『りん子的独り言って』
『かつてのわたしに』
「等式」感想です。私には幼い頃より性的に憧れるものがあった。正確には性的と判断つかない位幼い頃から本能の欲求見たいなものがあった。それがなんなのか理解出来た時は嬉しかったと同時に絶望した。一生その欲求を満たすことは難しいと思ったからだ。性的な情報はたくさんあるが選ぶのではなく、
自分の中から出る欲求や欲望に従って欲しいと思う。相手が必要なそれが多いとは思うから難しいこともあるかもしれないが、性的な欲求や欲望を満たす環境は今は整っていると思う。
精神的SMから派生したこと2
りん子的独り言(生意気)
前エントリーから、さらに話は飛躍します。
いつもの『りん子的独り言』^^
わたしのような女性(以下、依存体質)へのヒントになればと思う気持ちで書きます。
ですから、毒蜘蛛さんのレスではないと思ってください(引き続きコメントの義理なしです^^)
SMは目的ではなく手段。
『罰』や『褒美』や自覚を促す行為として行うことでただの暴力にならないようにする。
毒蜘蛛さんのように、SM行為を手段として使う男性はある程度いると思っています。
那智さんがするSM行為も、互いが幸福になるための手段という側面もありますから、目的は何にしろ手段でSM行為を行うことはあり得るのでしょう。
調教という言葉が適切かは置いといて、とにかく、対象である女性を変えるためにSM行為をするのですよね。
主側の意に沿わないことをしたから罰として叩く?
おまえは従う立場だと自覚をさせるためにみじめな思いをさせる?(踏むとか、かなぁ 尊敬する男にされるのは単に嬉しいことだけど)
もしかしたら、痛いことをすることでぎりぎりの精神状態にして、そこから「よくがんばった」みたいな流れを作り、がんばったご褒美もらえてうっとりみたな洗脳っぽいこととか、恐怖心を与えて萎縮させ媚を売るようにさせるようなDVやストックホルム症候群っぽい、これも洗脳みたいなことをしている人もいるかもしれない。
(DVやストックホルム症候群の説明わたしなりにざっくりと、恐怖から生き延びるために対象である恐怖に好意的な感情を持ってしまう脳の働きね)
まあ、その方法の是非は問わないけど。
『奴隷の定義』などで書いている奴隷嗜好の人(人格無視されたい人ね)以外で、奴隷や従う側、幅を広げてペットや犬になりたいと思っている女性の中にはある一定数『依存体質』さんがいると思います。
かつてのわたしのようなといっている『依存体質』。
自己肯定感が乏しくて、自分には愛される価値がないと感じている。
だから、人の顔色や機嫌が思考の中心にあって、それで物事を判断してしまうから、どんどん自分がなくなるし、相手からは都合のいい女になってしまう。
無価値感から自分の快不快がわからず、うっすら不快を感じても相手の顔色を伺ってしまうから見て見ぬふりをして閉じ込めるのだけど、結局溜め込みすぎてしまってある日どかーんと爆発しちゃう。
だから、ものすごく相手にべったりしていたのに、いきなり大嫌いになったりしちゃうのだ。
それって、結局、最初から相手が好きじゃなかったんだよね。
すがれる依存先がほしかっただけ、依存先がなくなるのが怖いから媚を売っていただけ、だから、あるとき急に冷めちゃうんだ。
と、『依存体質』の特性を上げたら止まらないのだけど(笑)
そんな『依存体質』ちゃんがいるとして、今日はその人たちに向けて書きますので、きちんと自分で立てている方や人格無視の奴隷嗜好を満たしてらっしゃる方、またそのパートナーの方たちのことは指していないとお思いくださいませ。
『依存体質』は、自分が肯定できないから、自分以外の柱がほしいと思うのです。
わたしを支えてくれて「大丈夫だよ」と安心させてくれる柱。
それが『ご主人様』とか『主』とか『主従』とかで叶うような気がするのです。
だって、『あるじ』だし、全部支配してくれるんだもんね。
そもそも、誰かに従いたいって思う時点で自分で立っていられない表れでもある。
中には、日頃はきちんと立っているからこそ、その時間だけ委ねたいという人もいると思うけど、全部支配なんて言葉に目が眩むのは依存したい証拠だよね(だって、支配って寄りかかることだもんね)
でもね、そこにね、罰とかお仕置きとか調教とかがあるようなんだけど、じつはわたしのような『依存体質』がまず絶対的に必要なことは、罰でもお仕置きでも、変えることを意味する調教でもないんだ。
必要なのは、肯定。
それも尋常じゃないほどの全肯定、しかも、一度や二度じゃまったく足りない、いままでの人生と同じ濃度くらいの有り余るほどの肯定。
足下不安定の『依存体質』には、まず、とにかくたくさんの肯定が必要なんだ。
君はいいこだ。
どんな君も大好きだ。
もっと寄りかかっていいよ、たくさんメールしておいで。
こういう全肯定のシャワーを浴び続けぬくぬく飽きるほど安心させてもらって、はじめて、自分で立てるようになる。
変えるなら、まず、ここからスタートなんだ。
ひとりの女を自分好みに変えたいと思うなら、そこに罰もお仕置きもいらない。
それらは彼女たちを萎縮させ、どんどん自己否定を強めていくだけのマイナス行為。
『依存体質』のひとりの女性を変えたいなら、溢れんばかりの肯定と、その後の対話しかないのではないだろうか。
自分を罰することで安心する自罰を求める人もいると思うんだけど、そのような人にも、やはり全肯定が一番必要なのだと思う。
全部肯定されて、安心して、そこから人格ではなく、事柄限定で「これはいけないね」という罰を与えてもらって安心するはアリだと思うけどね。
とにかく、『依存体質』には罰やお仕置きから連想されるマイナス行為ではなく、肯定のようなプラスの行為が必要なの。
いま『等式』を読んでいる人からしたらりん子はけっこうしっかりしてて、自分の足で立てているって思われているかもしれない。
でも、『等式』初期の頃はまだまだ自分に自信が持てなくて、周囲を気遣い過ぎるほど気遣っていたり、落ち込んで那智さんに泣きついたなんてエントリーもけっこうあったりするから、じつは、つい最近までバリバリの立ててない女だったのだ。
『等式』をはじめたのは那智さんとお付き合い3年目くらいだから、その前の3年なんて、さらにぐらぐら不安定だったわけ。
でも、いまでも『依存体質』には変わりないけど、いまのわたしは『等式』のりん子と大差ないほど自分の足で立てるようになっている。
それでも、まだたくさん那智さんに泣きついて頼っているけど、那智さんがいてくれる安心感はわたしにふんばる力をくれている(けっこう外面いいから、ホントはそこそこぐずってます、いまでも 笑)
10年前から格段に自分の足で立てている。
仕事だって、そうだ。
那智さんの強力な後押しで、わたしはいまの仕事ができるようになった。
那智さんがいなかったらこの仕事には就いていなかったのだから、わたしの人生を大きく変えてもらったことになる。
イクふりばかりで冷めていたセックスも、いまでは鞭で笑い、おしっこをよろこんで飲み、深い深い快感を憶えるようになっている。
那智さんと知り合ってから、わたしは見違えるほど成長したし変わった。
きっと那智さんにとっても快適な女になったはずだ(マッサージもフェラチオも那智さん好みになったし^^)
でも、那智さんは一度たりともわたしに罰やお仕置きを与えていないし、調教なんてもしていない。
肯定し、聞き、説明し、話し合い、適正な評価をくれる。
一緒に幸福になろうと上の立場の責任において、舵取りをしてくれただけだ。
そして、その都度わたしは幸福を味わっている。
わたしはずっと生きやすくなり、同じくらい那智さんの幸せを願い快適を感じてほしいと思うようになるのだ。
そこには、那智さんを慕う気持ちももちろんついてくる。
そのひとつの表現が『等式』だ。
7年間、1日置きに更新し続けていることが、わたしが書きたいからだと思ったら大間違いだ(反面、大正解でもある 笑)
これは那智さんへのラブレター。
わたしたちがここに存在していたという証でもあるし、日々の那智さんの楽しみでもある。
ふたりのためと言えば、もちろん、その通りだけど、でも、【那智さんへのラブレター】なのだ。
じつは、けっこうな忠誠心の表れだったりするんだよ。
日々、オナニーの報告をする奴隷さんたちとなんら代わりない(笑)
でも、そこには罰もお仕置きも調教も存在しない。
あったのは肯定だ。
(あ、お遊びでお仕置きごっこくらいはあるけど 笑)
【恐怖】なんかなくても、人を変えることはできるし慕い続けることはできるのだ。
だから、わたしはずっとずっと書いている。
『依存体質』だと思う女性は奴隷になってもほしいものは手に入らないよ、ご主人様ができても不安のままだよ。
あなたは『娘』のような存在になって父性からの肯定をもらったほうがいい。
中には『ご主人様』と名乗っても『父性』を持っている人もいるかもしれないので、ご主人様が全部『依存体質』と合わないとは言えないけど、まあ、じゃあ、紛らわしいからご主人様なんて名前にしないでほしいものです。
『依存体質』には全肯定が必要。
だから、絶対服従やら調教やらは幸福にはなれない、選ばないほうがいい。
『ご主人様と奴隷』から連想される市場ではきっとほしいものは見つけられないよ^^
『依存体質』のみなさんは、適正な市場をちゃんと見極めよう。
思い切り依存させてください。
そしたら、あなたの可愛い女になります。
こんなプロフィールを掲げても怯まない男が『依存体質』ちゃんには必要なのだと思うのです。
奴隷や従者を求める男性の手を煩わせないためにも、『依存体質』のみなさんは相手探しのヒントにしてくださいね^^
自己肯定感が持てなくてつい自分を低くしてしまう『依存体質』は、まず『こちらから与える、尽くしたら愛される』自分を低くするようなようなポジションを選んじゃいけないんだよ。
『暗闇の安息』(あえて、文中リンク)
ところで『父性』っていう市場、あるのかなぁ。
『父性』ってけっこう男性側が大変だから、そんな市場存在してくれていないのかな。
父性掲示板、作ってみます?那智さん^^
クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
依存体質いろいろまとめてあるかな
『『等式』のえこひいき』
『奴隷の定義』
ぐずぐずの頃のわたし、お手数おかけしました、那智さん^^;
『感情教育12』
『ぐずりweek1234』
『お疲れさまでした!』
『価値がある』
お仕事後押し
『職業選択1 2 3 4 5 6』
『等式』は那智さんへのラブレター
『『あなたのために』はしない』
『暗闇にならない『あなたのため』』
『社会性』
恐怖を与えなくても従えるのだ
『畏怖の念』
「等式」感想です。精神的SMから派生したこと2。出会った頃のりん子は意図的か無意識か解らないが真っ白、印象としては小学校5年生を相手にしている感じ。でも、私に不満は無かった、ほとんど0から教える事が出来たから。真っ白と言ったがその上には、うわべのプライドや甘えのぐずぐずがたっぷりかかっていた。それを全肯定と適正な評価と同じ事柄でも繰り返し褒める指導が必要だった。本当に信頼してくれていたのであろう、箸の上げ下ろし迄、私に聞いてきた。どこまで頼って良いのか、まるで試すように、同じ事柄の繰り返しにはダメ出ししたが、どんな事を聞かれても答えていたとおもう。(笑)
前エントリーから、さらに話は飛躍します。
いつもの『りん子的独り言』^^
わたしのような女性(以下、依存体質)へのヒントになればと思う気持ちで書きます。
ですから、毒蜘蛛さんのレスではないと思ってください(引き続きコメントの義理なしです^^)
SMは目的ではなく手段。
『罰』や『褒美』や自覚を促す行為として行うことでただの暴力にならないようにする。
毒蜘蛛さんのように、SM行為を手段として使う男性はある程度いると思っています。
那智さんがするSM行為も、互いが幸福になるための手段という側面もありますから、目的は何にしろ手段でSM行為を行うことはあり得るのでしょう。
調教という言葉が適切かは置いといて、とにかく、対象である女性を変えるためにSM行為をするのですよね。
主側の意に沿わないことをしたから罰として叩く?
おまえは従う立場だと自覚をさせるためにみじめな思いをさせる?(踏むとか、かなぁ 尊敬する男にされるのは単に嬉しいことだけど)
もしかしたら、痛いことをすることでぎりぎりの精神状態にして、そこから「よくがんばった」みたいな流れを作り、がんばったご褒美もらえてうっとりみたな洗脳っぽいこととか、恐怖心を与えて萎縮させ媚を売るようにさせるようなDVやストックホルム症候群っぽい、これも洗脳みたいなことをしている人もいるかもしれない。
(DVやストックホルム症候群の説明わたしなりにざっくりと、恐怖から生き延びるために対象である恐怖に好意的な感情を持ってしまう脳の働きね)
まあ、その方法の是非は問わないけど。
『奴隷の定義』などで書いている奴隷嗜好の人(人格無視されたい人ね)以外で、奴隷や従う側、幅を広げてペットや犬になりたいと思っている女性の中にはある一定数『依存体質』さんがいると思います。
かつてのわたしのようなといっている『依存体質』。
自己肯定感が乏しくて、自分には愛される価値がないと感じている。
だから、人の顔色や機嫌が思考の中心にあって、それで物事を判断してしまうから、どんどん自分がなくなるし、相手からは都合のいい女になってしまう。
無価値感から自分の快不快がわからず、うっすら不快を感じても相手の顔色を伺ってしまうから見て見ぬふりをして閉じ込めるのだけど、結局溜め込みすぎてしまってある日どかーんと爆発しちゃう。
だから、ものすごく相手にべったりしていたのに、いきなり大嫌いになったりしちゃうのだ。
それって、結局、最初から相手が好きじゃなかったんだよね。
すがれる依存先がほしかっただけ、依存先がなくなるのが怖いから媚を売っていただけ、だから、あるとき急に冷めちゃうんだ。
と、『依存体質』の特性を上げたら止まらないのだけど(笑)
そんな『依存体質』ちゃんがいるとして、今日はその人たちに向けて書きますので、きちんと自分で立てている方や人格無視の奴隷嗜好を満たしてらっしゃる方、またそのパートナーの方たちのことは指していないとお思いくださいませ。
『依存体質』は、自分が肯定できないから、自分以外の柱がほしいと思うのです。
わたしを支えてくれて「大丈夫だよ」と安心させてくれる柱。
それが『ご主人様』とか『主』とか『主従』とかで叶うような気がするのです。
だって、『あるじ』だし、全部支配してくれるんだもんね。
そもそも、誰かに従いたいって思う時点で自分で立っていられない表れでもある。
中には、日頃はきちんと立っているからこそ、その時間だけ委ねたいという人もいると思うけど、全部支配なんて言葉に目が眩むのは依存したい証拠だよね(だって、支配って寄りかかることだもんね)
でもね、そこにね、罰とかお仕置きとか調教とかがあるようなんだけど、じつはわたしのような『依存体質』がまず絶対的に必要なことは、罰でもお仕置きでも、変えることを意味する調教でもないんだ。
必要なのは、肯定。
それも尋常じゃないほどの全肯定、しかも、一度や二度じゃまったく足りない、いままでの人生と同じ濃度くらいの有り余るほどの肯定。
足下不安定の『依存体質』には、まず、とにかくたくさんの肯定が必要なんだ。
君はいいこだ。
どんな君も大好きだ。
もっと寄りかかっていいよ、たくさんメールしておいで。
こういう全肯定のシャワーを浴び続けぬくぬく飽きるほど安心させてもらって、はじめて、自分で立てるようになる。
変えるなら、まず、ここからスタートなんだ。
ひとりの女を自分好みに変えたいと思うなら、そこに罰もお仕置きもいらない。
それらは彼女たちを萎縮させ、どんどん自己否定を強めていくだけのマイナス行為。
『依存体質』のひとりの女性を変えたいなら、溢れんばかりの肯定と、その後の対話しかないのではないだろうか。
自分を罰することで安心する自罰を求める人もいると思うんだけど、そのような人にも、やはり全肯定が一番必要なのだと思う。
全部肯定されて、安心して、そこから人格ではなく、事柄限定で「これはいけないね」という罰を与えてもらって安心するはアリだと思うけどね。
とにかく、『依存体質』には罰やお仕置きから連想されるマイナス行為ではなく、肯定のようなプラスの行為が必要なの。
いま『等式』を読んでいる人からしたらりん子はけっこうしっかりしてて、自分の足で立てているって思われているかもしれない。
でも、『等式』初期の頃はまだまだ自分に自信が持てなくて、周囲を気遣い過ぎるほど気遣っていたり、落ち込んで那智さんに泣きついたなんてエントリーもけっこうあったりするから、じつは、つい最近までバリバリの立ててない女だったのだ。
『等式』をはじめたのは那智さんとお付き合い3年目くらいだから、その前の3年なんて、さらにぐらぐら不安定だったわけ。
でも、いまでも『依存体質』には変わりないけど、いまのわたしは『等式』のりん子と大差ないほど自分の足で立てるようになっている。
それでも、まだたくさん那智さんに泣きついて頼っているけど、那智さんがいてくれる安心感はわたしにふんばる力をくれている(けっこう外面いいから、ホントはそこそこぐずってます、いまでも 笑)
10年前から格段に自分の足で立てている。
仕事だって、そうだ。
那智さんの強力な後押しで、わたしはいまの仕事ができるようになった。
那智さんがいなかったらこの仕事には就いていなかったのだから、わたしの人生を大きく変えてもらったことになる。
イクふりばかりで冷めていたセックスも、いまでは鞭で笑い、おしっこをよろこんで飲み、深い深い快感を憶えるようになっている。
那智さんと知り合ってから、わたしは見違えるほど成長したし変わった。
きっと那智さんにとっても快適な女になったはずだ(マッサージもフェラチオも那智さん好みになったし^^)
でも、那智さんは一度たりともわたしに罰やお仕置きを与えていないし、調教なんてもしていない。
肯定し、聞き、説明し、話し合い、適正な評価をくれる。
一緒に幸福になろうと上の立場の責任において、舵取りをしてくれただけだ。
そして、その都度わたしは幸福を味わっている。
わたしはずっと生きやすくなり、同じくらい那智さんの幸せを願い快適を感じてほしいと思うようになるのだ。
そこには、那智さんを慕う気持ちももちろんついてくる。
そのひとつの表現が『等式』だ。
7年間、1日置きに更新し続けていることが、わたしが書きたいからだと思ったら大間違いだ(反面、大正解でもある 笑)
これは那智さんへのラブレター。
わたしたちがここに存在していたという証でもあるし、日々の那智さんの楽しみでもある。
ふたりのためと言えば、もちろん、その通りだけど、でも、【那智さんへのラブレター】なのだ。
じつは、けっこうな忠誠心の表れだったりするんだよ。
日々、オナニーの報告をする奴隷さんたちとなんら代わりない(笑)
でも、そこには罰もお仕置きも調教も存在しない。
あったのは肯定だ。
(あ、お遊びでお仕置きごっこくらいはあるけど 笑)
【恐怖】なんかなくても、人を変えることはできるし慕い続けることはできるのだ。
だから、わたしはずっとずっと書いている。
『依存体質』だと思う女性は奴隷になってもほしいものは手に入らないよ、ご主人様ができても不安のままだよ。
あなたは『娘』のような存在になって父性からの肯定をもらったほうがいい。
中には『ご主人様』と名乗っても『父性』を持っている人もいるかもしれないので、ご主人様が全部『依存体質』と合わないとは言えないけど、まあ、じゃあ、紛らわしいからご主人様なんて名前にしないでほしいものです。
『依存体質』には全肯定が必要。
だから、絶対服従やら調教やらは幸福にはなれない、選ばないほうがいい。
『ご主人様と奴隷』から連想される市場ではきっとほしいものは見つけられないよ^^
『依存体質』のみなさんは、適正な市場をちゃんと見極めよう。
思い切り依存させてください。
そしたら、あなたの可愛い女になります。
こんなプロフィールを掲げても怯まない男が『依存体質』ちゃんには必要なのだと思うのです。
奴隷や従者を求める男性の手を煩わせないためにも、『依存体質』のみなさんは相手探しのヒントにしてくださいね^^
自己肯定感が持てなくてつい自分を低くしてしまう『依存体質』は、まず『こちらから与える、尽くしたら愛される』自分を低くするようなようなポジションを選んじゃいけないんだよ。
『暗闇の安息』(あえて、文中リンク)
ところで『父性』っていう市場、あるのかなぁ。
『父性』ってけっこう男性側が大変だから、そんな市場存在してくれていないのかな。
父性掲示板、作ってみます?那智さん^^
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依存体質いろいろまとめてあるかな
『『等式』のえこひいき』
『奴隷の定義』
ぐずぐずの頃のわたし、お手数おかけしました、那智さん^^;
『感情教育12』
『ぐずりweek1234』
『お疲れさまでした!』
『価値がある』
お仕事後押し
『職業選択1 2 3 4 5 6』
『等式』は那智さんへのラブレター
『『あなたのために』はしない』
『暗闇にならない『あなたのため』』
『社会性』
恐怖を与えなくても従えるのだ
『畏怖の念』
「等式」感想です。精神的SMから派生したこと2。出会った頃のりん子は意図的か無意識か解らないが真っ白、印象としては小学校5年生を相手にしている感じ。でも、私に不満は無かった、ほとんど0から教える事が出来たから。真っ白と言ったがその上には、うわべのプライドや甘えのぐずぐずがたっぷりかかっていた。それを全肯定と適正な評価と同じ事柄でも繰り返し褒める指導が必要だった。本当に信頼してくれていたのであろう、箸の上げ下ろし迄、私に聞いてきた。どこまで頼って良いのか、まるで試すように、同じ事柄の繰り返しにはダメ出ししたが、どんな事を聞かれても答えていたとおもう。(笑)
徒然に「苦悩」
独り言
解離性同一性障害、いわゆる多重人格というもの。
20代の頃、この障害にとても興味を持ちいろいろな本を読んだ。
とはいえ、難しい文献などには縁のないわたしは精神科医が一般向けに読みやすく書かれているものやノンフィクションくらいしか読んでいないのだけど、でも国内外問わず書店で見かける本はひと通り読んだ。
特に海外の事例は身体的精神的性的虐待の数々あまりに過酷な生活環境のものが多かった。
そんな中生き延びる子供たちの絶望を思い、周囲の大人たちに対する怒りで胸が苦しくなりながら本を閉じそうになったことも何度もあった。
それでも読んだのは、生きるために幼い子が人格を増やし、人格によって筆跡やアレルギー反応まで変えてしまう脳の不思議がわたしを惹きつけたからだ。
でも、それだけじゃない心の奥に気づくとき、わたしはわたしを恐ろしく思うのだ。
わたしは、数々の虐待行為の描写に性的興奮に似たようなものを感じていた。
母親から泡立て器を性器に突っ込まれた幼女に、父親に首まで埋まられおしっこをかけられた少年に、生まれてから数年間地下室で椅子に縛り付けられて保護されるまで一度もその部屋から出ることが許されず歩くことも話すこともままならない、話せるのはスラングと言われる種類のいくつかだけの少女に、わたしはわたしを投影していた。
(一番最後のお話は解離性同一性障害の本じゃなかったな)
そこでしか生きることのできない小さなわたしがあらゆる虐待行為を受ける。
大人からの暴力とセックス受けることが生き延びる術。
そんな想像の子供が自分なのだ、そして、そこに性的興奮を憶える。
自分でいうのもなんだけどわたしは基本的に優しい人だと思っている。
たぶん共感性が強いほうで、人の痛みや悲しみに自分の心を重ねて歯がゆく苦しくなることも多いほうだと思う。
いちおう、善良な人でいるつもりだ(笑)
テレビで虐待やいじめなどのニュースを見るたび、なんともいえない怒りが湧き、やるせない思いを感じる。
だから、大人たちへの怒りやご本人の幸福を願う気持ちは嘘偽りなく存在するはずなのに性的にうずいてしまうことに気づいたとき、恥ずかしくて情けなくて、恐ろしくて、それでも読まずにはいられない自分に心底困惑していた。
人として許されない行為、日常では怒りを憶えるような行為、犯罪やそれに近い行為に性的興奮を憶え、どうしても叶えたい、それに近づきたいと思ってしまうとき、これがマゾというものだとしたら本当に途方に暮れてしまう。
縛られてみたい、恥ずかしい思いをしたいくらいで収まってくれない底に触れる。
普通のりん子が許せないことにマゾのりん子が興奮し、叶えてくれとモンスターが暴れるたびにわたしはわたしのマゾを嫌悪感とともに一生懸命奥底に押し込んでおこうと必死だった。
そんなお話を友達にした。
やはり同じように被虐行為にご自分を投影され同じように恐怖や嫌悪感を持っていたその人は共感してくれた。
そして、こんな言葉を添えてくれた。
でも、救われるのは矢印が自分に向いていることだよね
これはわたしにとって救いの言葉だった。
那智さんはわたしのモンスターを肯定してくれることで安心させ幸福にしてくれたけど、この思考はまた違う種類の救いの言葉だ。
わたしは過酷な虐待行為をされている自分に興奮している。
虐待をしている側や虐待を見ている側に自分を投影しているのではなく、自分に矢印を向けて興奮しているのだ。
自分に矢印が向いている。
小さな子供の自分が酷い扱いを受けていることに興奮する嫌悪感や恐怖は、自分が被害者でいられるのだ。
そう考えると、もしかしたらマゾの苦悩よりサディストのそれのほうが遥かに大きくつらいものなのではないだろうか。
犯罪や虐待行為に興奮し、それを叶えたいと願ってしまう自分に出会うとき人として良識を持ち善良であればあるほど苦悩は大きいのかもしれないと思った。
矢印が他者に向いているサディストの苦悩。
那智さんはどう思うかなとと思って聞いてみた。
たぶん、那智さんはサド的嗜好はものすごく大きいほうではないと思っている。
どちらかというと加虐より支配欲のほうが強いはずなんだ。
だから、わたしが想像するほどの『苦悩』はないかなと思っていたけど、案の定、やはり加虐嗜好ゆえの苦悩はほとんどなかったということだ。
まあ、常に現実的な思考で『叶えちゃダメ』なものと割り切る性格も功を奏しているとも思うけど。
小さい頃は多少あったと思うけど、どんなに酷いことを考えても、それをしないと決めていれば嫌悪感とか苦悩にはならないよ
だって、『しない』と自分が決めればいいんだからね
俺なんか、あらゆる犯罪を妄想ではしてきたよ(笑)
でも、それは妄想だからね
那智さんは加虐嗜好より支配欲が強いはずだから、そう割り切れるのかな。
それとも性格的なことかな。
もしかしたら、性的に比較的自由だった男と不自由な文化にいた女との違いが、性的な妄想に対するハードルを変えているのかもしれない。
ということは、性別として性にタブーが多かった女であって矢印が他者に向いているS女性が一番苦悩していることになる?と想像してみたことを那智さんに話してみるけど、それには賛同いただけなかった。
たしかに、ブログでしか情報はないけれどS女性たちの苦悩ってあまり見たことがないような気がする。
もちろんまったく苦悩がないとは思えないから、立場的に苦悩を表に出せないという苦労もあるとは思うけど、逆にM男性のほうがマゾ的嗜好を持つ苦悩がありそうなイメージもある。
ということは、性差ではなく性癖で苦悩の大きさは変わるのだろうか。
これに関して那智さんの漠然とした考察が納得いく感じがした。
曰く、する側は自分がするしないを決めることができるから苦悩は少なく、される側は非人道的なことを『してほしい』と思う、ある意味他人任せにしないと叶わないことが嫌悪感や罪悪感や恐怖を増やしているのではないか。
なるほど、わたしたち側は、それを表明することではじめて願望が叶う一歩になる。
変態行為をしてほしい、見知らぬ男に輪姦されたい、こんなふうにあり得ない願望を言葉にしないと叶わないということは嫌悪感が増すし、他人任せだからどんな結果になるかもわからないことが恐怖に繋がっているのかもしれない。
単純に、虐待的行為を『したい』より『してほしい』のほうが罪深いのかも、漠然とした想像だけでもうなずける気がする。
上手に考察しきれていないし説明不足だけど、能動か受動かの違いが苦悩の差に表れているのかもしれないね。
ということで、不完全燃焼の徒然にいたします(笑)
どちらが大きいかわからないけど、なければないに越したことのない性癖をパートナーやお友達と分かち合うことでプラスに思えるようになれることはうれしい。
だからね、たまにはサディストである苦悩なんていうのもS側からお聞きしてみたいなって思うのでした^^
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『心惹かれること』
『夢見る頃をすぎても1』
『壊れた日』
『いろんな涙4』
『否応なくマゾ』
『O』
「等式」感想です。うーん、(性的に)興奮してはいけない場面で 興奮することは多くの人が経験しているのではないかな。私は少なくとも経験している、ここで、これを想像するのは人否認だろとかね。冒頭、性的ににカッコを付けたが、性的な興奮なのか、別の興奮なのかが判断つかない時もある。(笑)
解離性同一性障害、いわゆる多重人格というもの。
20代の頃、この障害にとても興味を持ちいろいろな本を読んだ。
とはいえ、難しい文献などには縁のないわたしは精神科医が一般向けに読みやすく書かれているものやノンフィクションくらいしか読んでいないのだけど、でも国内外問わず書店で見かける本はひと通り読んだ。
特に海外の事例は身体的精神的性的虐待の数々あまりに過酷な生活環境のものが多かった。
そんな中生き延びる子供たちの絶望を思い、周囲の大人たちに対する怒りで胸が苦しくなりながら本を閉じそうになったことも何度もあった。
それでも読んだのは、生きるために幼い子が人格を増やし、人格によって筆跡やアレルギー反応まで変えてしまう脳の不思議がわたしを惹きつけたからだ。
でも、それだけじゃない心の奥に気づくとき、わたしはわたしを恐ろしく思うのだ。
わたしは、数々の虐待行為の描写に性的興奮に似たようなものを感じていた。
母親から泡立て器を性器に突っ込まれた幼女に、父親に首まで埋まられおしっこをかけられた少年に、生まれてから数年間地下室で椅子に縛り付けられて保護されるまで一度もその部屋から出ることが許されず歩くことも話すこともままならない、話せるのはスラングと言われる種類のいくつかだけの少女に、わたしはわたしを投影していた。
(一番最後のお話は解離性同一性障害の本じゃなかったな)
そこでしか生きることのできない小さなわたしがあらゆる虐待行為を受ける。
大人からの暴力とセックス受けることが生き延びる術。
そんな想像の子供が自分なのだ、そして、そこに性的興奮を憶える。
自分でいうのもなんだけどわたしは基本的に優しい人だと思っている。
たぶん共感性が強いほうで、人の痛みや悲しみに自分の心を重ねて歯がゆく苦しくなることも多いほうだと思う。
いちおう、善良な人でいるつもりだ(笑)
テレビで虐待やいじめなどのニュースを見るたび、なんともいえない怒りが湧き、やるせない思いを感じる。
だから、大人たちへの怒りやご本人の幸福を願う気持ちは嘘偽りなく存在するはずなのに性的にうずいてしまうことに気づいたとき、恥ずかしくて情けなくて、恐ろしくて、それでも読まずにはいられない自分に心底困惑していた。
人として許されない行為、日常では怒りを憶えるような行為、犯罪やそれに近い行為に性的興奮を憶え、どうしても叶えたい、それに近づきたいと思ってしまうとき、これがマゾというものだとしたら本当に途方に暮れてしまう。
縛られてみたい、恥ずかしい思いをしたいくらいで収まってくれない底に触れる。
普通のりん子が許せないことにマゾのりん子が興奮し、叶えてくれとモンスターが暴れるたびにわたしはわたしのマゾを嫌悪感とともに一生懸命奥底に押し込んでおこうと必死だった。
そんなお話を友達にした。
やはり同じように被虐行為にご自分を投影され同じように恐怖や嫌悪感を持っていたその人は共感してくれた。
そして、こんな言葉を添えてくれた。
でも、救われるのは矢印が自分に向いていることだよね
これはわたしにとって救いの言葉だった。
那智さんはわたしのモンスターを肯定してくれることで安心させ幸福にしてくれたけど、この思考はまた違う種類の救いの言葉だ。
わたしは過酷な虐待行為をされている自分に興奮している。
虐待をしている側や虐待を見ている側に自分を投影しているのではなく、自分に矢印を向けて興奮しているのだ。
自分に矢印が向いている。
小さな子供の自分が酷い扱いを受けていることに興奮する嫌悪感や恐怖は、自分が被害者でいられるのだ。
そう考えると、もしかしたらマゾの苦悩よりサディストのそれのほうが遥かに大きくつらいものなのではないだろうか。
犯罪や虐待行為に興奮し、それを叶えたいと願ってしまう自分に出会うとき人として良識を持ち善良であればあるほど苦悩は大きいのかもしれないと思った。
矢印が他者に向いているサディストの苦悩。
那智さんはどう思うかなとと思って聞いてみた。
たぶん、那智さんはサド的嗜好はものすごく大きいほうではないと思っている。
どちらかというと加虐より支配欲のほうが強いはずなんだ。
だから、わたしが想像するほどの『苦悩』はないかなと思っていたけど、案の定、やはり加虐嗜好ゆえの苦悩はほとんどなかったということだ。
まあ、常に現実的な思考で『叶えちゃダメ』なものと割り切る性格も功を奏しているとも思うけど。
小さい頃は多少あったと思うけど、どんなに酷いことを考えても、それをしないと決めていれば嫌悪感とか苦悩にはならないよ
だって、『しない』と自分が決めればいいんだからね
俺なんか、あらゆる犯罪を妄想ではしてきたよ(笑)
でも、それは妄想だからね
那智さんは加虐嗜好より支配欲が強いはずだから、そう割り切れるのかな。
それとも性格的なことかな。
もしかしたら、性的に比較的自由だった男と不自由な文化にいた女との違いが、性的な妄想に対するハードルを変えているのかもしれない。
ということは、性別として性にタブーが多かった女であって矢印が他者に向いているS女性が一番苦悩していることになる?と想像してみたことを那智さんに話してみるけど、それには賛同いただけなかった。
たしかに、ブログでしか情報はないけれどS女性たちの苦悩ってあまり見たことがないような気がする。
もちろんまったく苦悩がないとは思えないから、立場的に苦悩を表に出せないという苦労もあるとは思うけど、逆にM男性のほうがマゾ的嗜好を持つ苦悩がありそうなイメージもある。
ということは、性差ではなく性癖で苦悩の大きさは変わるのだろうか。
これに関して那智さんの漠然とした考察が納得いく感じがした。
曰く、する側は自分がするしないを決めることができるから苦悩は少なく、される側は非人道的なことを『してほしい』と思う、ある意味他人任せにしないと叶わないことが嫌悪感や罪悪感や恐怖を増やしているのではないか。
なるほど、わたしたち側は、それを表明することではじめて願望が叶う一歩になる。
変態行為をしてほしい、見知らぬ男に輪姦されたい、こんなふうにあり得ない願望を言葉にしないと叶わないということは嫌悪感が増すし、他人任せだからどんな結果になるかもわからないことが恐怖に繋がっているのかもしれない。
単純に、虐待的行為を『したい』より『してほしい』のほうが罪深いのかも、漠然とした想像だけでもうなずける気がする。
上手に考察しきれていないし説明不足だけど、能動か受動かの違いが苦悩の差に表れているのかもしれないね。
ということで、不完全燃焼の徒然にいたします(笑)
どちらが大きいかわからないけど、なければないに越したことのない性癖をパートナーやお友達と分かち合うことでプラスに思えるようになれることはうれしい。
だからね、たまにはサディストである苦悩なんていうのもS側からお聞きしてみたいなって思うのでした^^
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『夢見る頃をすぎても1』
『壊れた日』
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『O』
「等式」感想です。うーん、(性的に)興奮してはいけない場面で 興奮することは多くの人が経験しているのではないかな。私は少なくとも経験している、ここで、これを想像するのは人否認だろとかね。冒頭、性的ににカッコを付けたが、性的な興奮なのか、別の興奮なのかが判断つかない時もある。(笑)
徒然に「電マ」
非日常的な日常
電マ。
電気マッサージ機。
なんていうか、あまりにも本来の使用方法とは違う使われ方がポピュラーになりすぎて電マさん本人も苦笑だろうなと想像してしまうもの。
ミニやミニミニなんていうのも登場して、もはや彼らにとっては生まれつき凝りをほぐすなんていう生き方は知らないのではないかと切ない気持ちにすらなる。
生まれたときからアヒルとして育てられたら、自分もアヒルだと疑わない白鳥のように。
ミニ電マさんはきっとそういう使用目的になんの疑いも持たず精を出してくれているのかもしれない。
マッサージチェアさんやツボ押しくんなどに「君は本来凝りをほぐすためのものだったんだよ」と言われようものなら、驚きとともにきっとこけし型の己の姿を恨むかもしれない。
そんなことないんだよ。
あなたのおかげでたくさんの人が他では得られない気持ちよさをお手軽に感じさせてもらっているんだから、堂々と胸を張って!!
と、バカな妄想はおいといて^^;
アダルトカテゴリのみなさま^^
電マ、使っていますか?(笑)
中には電動機具に頼ることを良しとされない方もいらっしゃると思うのですが、それでも普及率は高いアダルトグッズではないかしら。
那智さんがいま持っているのは2代目(ですよね?)。
初代電マは、わたしと知り合う前から持っていたもの、だからかれこれ10年以上前に手に入れたもののよう。
おそらく当時はいまほどポピュラーではなかったと思うし、那智さんが持っていたのは本当の電気マッサージ機だったから、もしかしたらアダルトグッズとしては商品化されていなかったかもしれない。
それがね、アダルト用に作られたものじゃないから、けっこう強烈なの!!
わかるよね?
弱が弱じゃない!!
そして、強がものすごく強!!
だって、本来は凝りをほぐす目的に作られているわけだから、強弱はあれど、敏感なところに触れても大丈夫な弱より弱レベルが甘い、そして、頑固な凝りをほぐすために強は思いっきり強!!!
しかも大きいときているので、クリの周辺全部を強烈に振動させるかなりの苦痛だった。
いま思えば、よくあれに耐えたなぁと思うけど、もしかしたらあの頃よりわたしのそこが鍛えられたとも考えられるので、もう、その辺は曖昧にしておこうと、遠い目…。
で、いま使っているのが2代目。
ミニのほう。
こちらはアダルト用に強弱全体が低め設定だし、おまんこ全体を震わせるような居心地悪さはないので、わたしとしてはありがたい。
女性のみなさんはご理解いただけると思うけど、クリで一度イクとそのすぐ後は敏感になっていて刺激を加えられるの苦痛ですよね。
しばらく、放っておいて〜って思う。
わたしもそうなんだけど、那智さんがそんなのおかまいなしでずっと当て続けていた。
もう苦痛で苦痛で発狂しそうなんだけど、しばらくすると次大きな波が来て、さらに大きなエクスタシーを迎えることができるのです。
とはいえ、初期の頃は毎回それが来るとも限らないし、どれだけ待てば来るかもわからないし、不安もつきまとうし、やっぱり苦痛のほうが大きいけど、まあ、那智さんを信じて委ねるしかなかった。
それがミニになって何年か繰り返すうちに、快感の訪れ方が変わってきたんだ。
いまはね。
まず、すぐ一回イク。
そのまま当てていると、一回イッた状態のままイクのが持続する。
ああ、ちょっと苦痛になってきたと感じはじめたところで、次の一波が来る。
一回目の絶頂に覆いかぶせるように、さらに大きな絶頂を迎える。
そして、最初のイクと次の大きなイクが持続した状態から、また苦痛を感じはじめると、第3波が来て1と2の波を覆い尽くすのです。
1、2、3と3つ分のエクスタシーと1から3と3倍のエクスタシー、だから単純計算すると最初の9倍のそれを味わうような感じなのです(数学的に合っている? 笑)
で、だいたい、この3回が限度かな、そこからはほとんど苦痛の時間になっちゃう。
快感が強い分苦痛も強いのだけど、徐々に快感が落ち着くに比例して苦痛も若干落ち着くかな。
それでもじんじんと痺れているクリは敏感だし苦しいし、ちょっと落ち着いた様子を見ると、那智さん、体勢を整えピンポイントでまた直に当てて刺激するんだ。
これでうまくいけば最初の3波状態が来てくれるのだけど、ダメな場合はずっと苦痛の我慢。
その先、また快感が来るかどうかはその時次第という感じかな。
と、やけに細かく説明してしまったけど^^;
いや、なんでこんなことを書いたかというと。
先日、時間があまりないときに那智さんが電マを使ってくれたのだけど、あまり時間がないからいつもよりわたしをヘトヘトにしないようにしてくれたんだよね。
だから、弱気味を多様してくれたわけです。
そしたらね、この3波の快感をきっちり味わえて、なおかつ苦痛も少なかったんだ。
それで、じゃあ、普段の中とか強をすることに意味があるのかなって思ったの。
同じような快感を得られるなら、苦痛は少ないほうがいい、よね。
ただ、毎回じゃないし頻度は少ないのだけど、強の苦痛で絶叫している中、最上級の快感(というか狂気に近い?)が来るときもあるから、快感のレベルがまるっきり一緒というわけでもないのですけど、その少ない可能性のためにあの苦痛を味わうにはリスクが高い気もする。
そんなことを那智さんにお話ししてみた。
たしかに、そうだな
苦痛が大きい分快感も大きいならやる意味はあるけど、快感のレベルが同じなら苦痛は少ないほうがいいよな
那智さんは、わたしに苦痛だけを味わわせたいわけじゃないくて、苦痛の後に快感が来ないと意味がないのだから、同じ快感を味わうなら苦痛は少ないほうがいいと思うのは自然なこと。
どうなのかなぁという感じてぼんやり考えているよう。
声の大きさは強のほうが大きいけど、あれは苦痛を堪えているからなんだよな
一概に快感の声の大きさとはいえないんだよね
「そうですね」と答えながら。
ああ、わたしは苦痛も必要なんだって思った。
苦痛は苦痛だ、ないほうがいいに決まっている。
だけど、絶叫しないと耐えられないような苦痛を那智さんによって与えられ、無我夢中になる。
その先に快感があるに越したことはないけど、もし得られない場合があったとしても、大声で叫んで地団駄を踏んで、無我夢中になる時間がわたしには必要なんだ。
それを那智さんからもらいたい。
もういや、くたくた、あんなのなくてもいい。
と思う、次の瞬間から半ばパニック状態のあの恍惚を焦がれるような気持ちになる。
でも、りん子、あれもいいんじゃない?
同じこと思っていましたね。
はい、わたしもそう思ってました
つらいけど、わたしはあの状態が必要みたいです
だから、またいつかは強いのでしてください
マゾだからというのかわからない。
マゾかどうか、それは関係ない。
でも、ただ気持ちいいだけばかりでは、どうもダメなようなのだ。
わたしは快感も無我夢中も絶叫も大暴れも、感情や感覚の大きな揺れのどれも全部那智さんの手で作り出してほしいのだなって、まったく気持ちいいだけでいいのにって、ちょっとため息。
そんなちょっとため息な感じを書きたかったために、なぜか電マの快感を詳細まで書いてしまうのが『等式』(笑)
でも、なかなかここまで細かく書いている人そんなにいないから、参考文献として何かの役に立つかもしれないからいいよね^^;
電マで一回イッた後、さらに続けられて苦痛を味わっている人。
訓練のしかたによっては、その先に大きな快感が来るようになりますから、パートナーさんに上手に訓練してもらってくださいね〜。
(と、ピンポイントな励まし^^)
クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
電マさんいろいろ
『この苦痛、ご存知ですか?』
『人体の不思議パート2』
『痛いのいや』
『いじめっこ』
『お泊まり4』
『パプバーを茶の間化する』
『使用目的』
『雪景色5』
「等式」感想です。電マ使用の時にりん子が発する声には自信があります。ほぼ確実に大絶叫が周囲の部屋と廊下に聞こえていること。(笑)
電マ。
電気マッサージ機。
なんていうか、あまりにも本来の使用方法とは違う使われ方がポピュラーになりすぎて電マさん本人も苦笑だろうなと想像してしまうもの。
ミニやミニミニなんていうのも登場して、もはや彼らにとっては生まれつき凝りをほぐすなんていう生き方は知らないのではないかと切ない気持ちにすらなる。
生まれたときからアヒルとして育てられたら、自分もアヒルだと疑わない白鳥のように。
ミニ電マさんはきっとそういう使用目的になんの疑いも持たず精を出してくれているのかもしれない。
マッサージチェアさんやツボ押しくんなどに「君は本来凝りをほぐすためのものだったんだよ」と言われようものなら、驚きとともにきっとこけし型の己の姿を恨むかもしれない。
そんなことないんだよ。
あなたのおかげでたくさんの人が他では得られない気持ちよさをお手軽に感じさせてもらっているんだから、堂々と胸を張って!!
と、バカな妄想はおいといて^^;
アダルトカテゴリのみなさま^^
電マ、使っていますか?(笑)
中には電動機具に頼ることを良しとされない方もいらっしゃると思うのですが、それでも普及率は高いアダルトグッズではないかしら。
那智さんがいま持っているのは2代目(ですよね?)。
初代電マは、わたしと知り合う前から持っていたもの、だからかれこれ10年以上前に手に入れたもののよう。
おそらく当時はいまほどポピュラーではなかったと思うし、那智さんが持っていたのは本当の電気マッサージ機だったから、もしかしたらアダルトグッズとしては商品化されていなかったかもしれない。
それがね、アダルト用に作られたものじゃないから、けっこう強烈なの!!
わかるよね?
弱が弱じゃない!!
そして、強がものすごく強!!
だって、本来は凝りをほぐす目的に作られているわけだから、強弱はあれど、敏感なところに触れても大丈夫な弱より弱レベルが甘い、そして、頑固な凝りをほぐすために強は思いっきり強!!!
しかも大きいときているので、クリの周辺全部を強烈に振動させるかなりの苦痛だった。
いま思えば、よくあれに耐えたなぁと思うけど、もしかしたらあの頃よりわたしのそこが鍛えられたとも考えられるので、もう、その辺は曖昧にしておこうと、遠い目…。
で、いま使っているのが2代目。
ミニのほう。
こちらはアダルト用に強弱全体が低め設定だし、おまんこ全体を震わせるような居心地悪さはないので、わたしとしてはありがたい。
女性のみなさんはご理解いただけると思うけど、クリで一度イクとそのすぐ後は敏感になっていて刺激を加えられるの苦痛ですよね。
しばらく、放っておいて〜って思う。
わたしもそうなんだけど、那智さんがそんなのおかまいなしでずっと当て続けていた。
もう苦痛で苦痛で発狂しそうなんだけど、しばらくすると次大きな波が来て、さらに大きなエクスタシーを迎えることができるのです。
とはいえ、初期の頃は毎回それが来るとも限らないし、どれだけ待てば来るかもわからないし、不安もつきまとうし、やっぱり苦痛のほうが大きいけど、まあ、那智さんを信じて委ねるしかなかった。
それがミニになって何年か繰り返すうちに、快感の訪れ方が変わってきたんだ。
いまはね。
まず、すぐ一回イク。
そのまま当てていると、一回イッた状態のままイクのが持続する。
ああ、ちょっと苦痛になってきたと感じはじめたところで、次の一波が来る。
一回目の絶頂に覆いかぶせるように、さらに大きな絶頂を迎える。
そして、最初のイクと次の大きなイクが持続した状態から、また苦痛を感じはじめると、第3波が来て1と2の波を覆い尽くすのです。
1、2、3と3つ分のエクスタシーと1から3と3倍のエクスタシー、だから単純計算すると最初の9倍のそれを味わうような感じなのです(数学的に合っている? 笑)
で、だいたい、この3回が限度かな、そこからはほとんど苦痛の時間になっちゃう。
快感が強い分苦痛も強いのだけど、徐々に快感が落ち着くに比例して苦痛も若干落ち着くかな。
それでもじんじんと痺れているクリは敏感だし苦しいし、ちょっと落ち着いた様子を見ると、那智さん、体勢を整えピンポイントでまた直に当てて刺激するんだ。
これでうまくいけば最初の3波状態が来てくれるのだけど、ダメな場合はずっと苦痛の我慢。
その先、また快感が来るかどうかはその時次第という感じかな。
と、やけに細かく説明してしまったけど^^;
いや、なんでこんなことを書いたかというと。
先日、時間があまりないときに那智さんが電マを使ってくれたのだけど、あまり時間がないからいつもよりわたしをヘトヘトにしないようにしてくれたんだよね。
だから、弱気味を多様してくれたわけです。
そしたらね、この3波の快感をきっちり味わえて、なおかつ苦痛も少なかったんだ。
それで、じゃあ、普段の中とか強をすることに意味があるのかなって思ったの。
同じような快感を得られるなら、苦痛は少ないほうがいい、よね。
ただ、毎回じゃないし頻度は少ないのだけど、強の苦痛で絶叫している中、最上級の快感(というか狂気に近い?)が来るときもあるから、快感のレベルがまるっきり一緒というわけでもないのですけど、その少ない可能性のためにあの苦痛を味わうにはリスクが高い気もする。
そんなことを那智さんにお話ししてみた。
たしかに、そうだな
苦痛が大きい分快感も大きいならやる意味はあるけど、快感のレベルが同じなら苦痛は少ないほうがいいよな
那智さんは、わたしに苦痛だけを味わわせたいわけじゃないくて、苦痛の後に快感が来ないと意味がないのだから、同じ快感を味わうなら苦痛は少ないほうがいいと思うのは自然なこと。
どうなのかなぁという感じてぼんやり考えているよう。
声の大きさは強のほうが大きいけど、あれは苦痛を堪えているからなんだよな
一概に快感の声の大きさとはいえないんだよね
「そうですね」と答えながら。
ああ、わたしは苦痛も必要なんだって思った。
苦痛は苦痛だ、ないほうがいいに決まっている。
だけど、絶叫しないと耐えられないような苦痛を那智さんによって与えられ、無我夢中になる。
その先に快感があるに越したことはないけど、もし得られない場合があったとしても、大声で叫んで地団駄を踏んで、無我夢中になる時間がわたしには必要なんだ。
それを那智さんからもらいたい。
もういや、くたくた、あんなのなくてもいい。
と思う、次の瞬間から半ばパニック状態のあの恍惚を焦がれるような気持ちになる。
でも、りん子、あれもいいんじゃない?
同じこと思っていましたね。
はい、わたしもそう思ってました
つらいけど、わたしはあの状態が必要みたいです
だから、またいつかは強いのでしてください
マゾだからというのかわからない。
マゾかどうか、それは関係ない。
でも、ただ気持ちいいだけばかりでは、どうもダメなようなのだ。
わたしは快感も無我夢中も絶叫も大暴れも、感情や感覚の大きな揺れのどれも全部那智さんの手で作り出してほしいのだなって、まったく気持ちいいだけでいいのにって、ちょっとため息。
そんなちょっとため息な感じを書きたかったために、なぜか電マの快感を詳細まで書いてしまうのが『等式』(笑)
でも、なかなかここまで細かく書いている人そんなにいないから、参考文献として何かの役に立つかもしれないからいいよね^^;
電マで一回イッた後、さらに続けられて苦痛を味わっている人。
訓練のしかたによっては、その先に大きな快感が来るようになりますから、パートナーさんに上手に訓練してもらってくださいね〜。
(と、ピンポイントな励まし^^)
クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
電マさんいろいろ
『この苦痛、ご存知ですか?』
『人体の不思議パート2』
『痛いのいや』
『いじめっこ』
『お泊まり4』
『パプバーを茶の間化する』
『使用目的』
『雪景色5』
「等式」感想です。電マ使用の時にりん子が発する声には自信があります。ほぼ確実に大絶叫が周囲の部屋と廊下に聞こえていること。(笑)
「苦悩」のコメントレスにかえて「かけ算」
りん子的独り言(生意気)
このエントリーは『徒然に「苦悩」』にいただいたコメントから派生したものです。
いただいたコメントがヒントになることはときどきあるけど、コメントのお返事に相当するものはできるだけ早いほうがいいので、アップするのがすぐになっています。
最近、コメントからエントリーができるケースが増えて、2ヶ月分予約投稿のループを破りまくっていますが(笑)、それは2ヶ月後のお楽しみということで、こういう機会に恵まれるブログであることがうれしく思います。
コメントをくださった愛舞音さん。
いただいたコメントをヒントにわたしの考えを書きました。
文末に愛舞音さんに向けたコメントレスのようなものを書きますが、このエントリー自体は、日頃のわたしの考えを書いたものですので、こちらへのコメントは義理には思わないでくださいね。
こういう考え方もあるのね〜と思っていただくだけで充分です^^
すべての被虐嗜好者がそうかはわからないけど。
わたしの【被虐嗜好】は矛盾や葛藤に満ちている。
酷いことをされたい。
ちょっと乱暴なセックスから拷問のようなものまで。
見ず知らずの男に、普段なら眉をひそめて敬遠するような不潔な男たちに、聴衆の蔑みの視線に、人格なんてまったく無視されるか、あるとしたら『わたし』ではなく『女』や『穴』に向けられる短絡的な欲望。
そんな願望を持つ一方で、それを叶えるのは自分ではなく『する側』の存在が必要。
もちろん加虐側も相手がいないと成立しないのだけど、虐待的行為の渦中に身を投じない限り叶わないという、恐怖や嫌悪感はわたしを困惑させる。
危険に身を投じる恐怖との葛藤。
そして、これこそすべてのマゾが感じているとは言えないのだけど、上手にそこをクリアしている人もいると思うんだけど。
被虐行為を望むクセに、それにより【傷ついて】しまうのだ。
そもそも被虐なんだから体を傷つけてしまうことはあるはずだし、それにプラスして心に傷を負ってしまう。
人を人もと思わない行為を求めているのに、人格無視はわたしの心を傷つける。
痴漢は許せない行為なのに、そんな男は軽蔑の対象なのに、それで濡れてしまう自分への嫌悪感。
見知らぬ男たちの餌食になりたいクセに、そんな男たちに対する嫌悪感。
那智さんにわたしを蔑んでと思う気持ちがあっても、仮にそれをされたら傷つくし、してしまえる那智さんへの好きがぜったい減る。
尊重されないような行為を求めるのに、尊重してくれない男以外のセックスは傷つく。
尊重されたいのに、尊重されていては叶わない。
このジレンマ。
那智さんが大好きなままわたしの被虐願望を叶えるには『可愛がる』や『大切にしながら酷いこと』というスタンスがベストだということにいまは着地しているし、これが満足ではあるけれど、ふと、死と隣り合わせの恐怖や人格を無視される絶望への憧れが頭をもたげるとき、わたしのような恐がりで弱虫のマゾは、葛藤を抱えているなと思うのだ。
(でも、逆に、それを選ばずにいられていることにも安堵しています)
先日、那智さんと鞭の時間でものすごい一体感を感じるときがあった。
わたしを可愛がりながら打ち、それの呼応するように鞭で快感に溺れる。
わたしが感じれば感じるほど、那智さんも徐々に可愛がるスタンスから加虐の楽しみに変化していった。
思い切り打つ、打つことを楽しむ。
わたしはそれを受け、打たれることで益々快感が増える。
いままでより加虐と被虐の色が濃くなり、方向がピッタリ一致するような時間だった。
もちろん、そういうときだってふたりにとって『可愛がる』行為ではあったけど、その先の、逃げられない恐怖、虐待行為が終わらない絶望の片鱗を見た思いだった。
また、別の機会。
ある変態さんカップルとご一緒することがあった。
窓口になった女性とはメールなどでお互いある程度仲良くなっていたけど、男性とは2回お会いした程度の短いお付き合いのカップルだった(互いの変態を披露しているので、すでに深いといえば深いので、『短い』)
詳細は後日ですが(笑)
3人に囲まれ、那智さんに電マをされるとき、いつものお守り代わりに抱えた枕を男性から「こんなの持ってちゃダメ(笑)」と取り上げられた。
いや、あの苦痛にはお守り必要なのに!!と思いながら、そのまま怒濤の責めがはじまるときの絶望感に、やはりその先の、たくさんの人の興奮や抵抗できない絶望の片鱗を感じた。
被虐願望の矛盾やジレンマ、これは解消することはない。
だから、わたしが昔から思い描いていた被虐願望が、そのままそっくり叶うことはないのだ。
きっと、叶わなくていいのだ。
だけど、こんなふうに日頃の那智さんとの快感の連続の中、ふと願望の片鱗に触れる瞬間はある、変態さんたちの交流の中で傷つかずに、でも、長いこと思い描いていた妄想にシンクロする瞬間はある。
自分を破滅させるような、相手を憎むような被虐願望は叶わない、だけど、幸福な行為の中にその片鱗を見つけることはできるのだ。
それは、なぜだろう。
きっと『人』がかけ算になってくれているのではないだろうか。
血も流さないし、浮浪者に輪姦もさせていないわたし(たち)のしていることは鬼畜さんたちからしたら大したことないかもしれない。
でも、その片鱗に触れられたのは、那智さんとの積み上げた年月や一緒に楽しもうと思ってくれる変態さんカップルの存在がかけ算になってくれたのだ。
自己嫌悪や他者に対する嫌悪感で傷ついてしまうマゾのジレンマを幸福なうちに叶えるのは『人』というかけ算の力なんじゃないだろうか。
じゃあ、その『人』って、なにか!?
誰でもいいわけじゃないよね。
りん子には那智さんがいてくれるから叶うんだよって思う人もいるかもしれないけど、そういう人にはこれから話すことは届いてくれないかもしれない。
じつは、わたしも自信がないんだ。
本を読んだり、お友達とお話ししてわたしがこの考えを持つようになったときにはすでに那智さんが存在していたから、そうじゃないケースは机上の空論になってしまうのかもしれない。
でも、それでも、被虐願望を持ち、そのジレンマに傷つくわたしと同じような女性がいるとするなら机上の空論でも理想論でもいいから活路を書きたい。
本や友達とのお話しや自分の経験と想像で書きますから、どうか、一緒に想像してください。
『心の交流』という言葉を何度か書いている。
ポスターのネコを撫でても何とも思わないけど、本物のネコを撫でると撫でているほうも気持ちいいのは、ネコがもふもふだからってだけじゃなくて、ゴロゴロ喉を鳴らしたり、安心して撫でるに任せている様子が感じられたり、そういう空気が脳を気持ちよくさせているのだよね。
こういうのを心の交流というのだそうです(これも岩月謙司さんの著書より^^)
お互いに相手を大事に思っているということが心の交流を生むのだと思う。
大恋愛じゃなきゃいけないわけじゃなくて、相手を尊重し大切なパートナーと思い合えることが心の交流。
その中には『嗜好の一致』も含まれていると思っています。
性的嗜好が一致していて同じ目的のもとより良いものにしていこうと思えば、相手と話し合い、相手を大切にしようと思いますよね。
そういうことも充分心の交流ができている。
もっというと、たとえば、ハプバーなどの場所で初対面や、その場でしか会わないような人だったとしても『その時間を互いに楽しみましょう』という認識が一致していたら、それはそれで心の交流はできていると想像します。
(現に、先の変態カップルさんとは、そのときが初めての行為だったしね)
恋愛感情の有無、付き合いの長さや形、それはいろいろでいいの、ただ、そこに相手を尊重する気持ちがあるかどうかが心の交流を作るポイントになるわけです。
ハプバーで心の交流!?って思うよね^^;
でもね、あると思う。
わたしたちが以前よく遊びにいっていたハプバーは、スタッフも常連さんもとても良い人ばかりで、女性やカップルに対する配慮をいつもしてくれていた。
行為より、まず会話をして、人と人としての交流を楽しむ。
その中から嗜好が合えばプレイに及ぶ。
そういうお店だったから不快な思いをしたことがない。
これは男性や女性の何割りかはピンと来ないかもしれないけど、いるのよ、『女を人と思っていない』男性って。
特に性的な空間ならあからさまに、上から目線の男性は多い。
そういうのがないお店だったから、その場限りであれ、わたしは心の交流ができたと思っている。
(【他のお店では、イヤな気持ち】になったことあるから、やっぱり人や雰囲気ってあるんだよね)
だから、大恋愛じゃなくてもいいのだ。
相手を尊重していい時間を過ごそうと思える人間関係や時間、その中で願望に近い行為をしていくことが、傷つかず嫌悪感もなく、そして、いつか願望のギリギリの淵の片鱗を見ることができるかもしれない。
もともとの被虐願望とはほど遠い行為かもしれないけど『人』のかけ算はマゾ的葛藤を解消してれるポイントかもしれないと思うのです。
だから、こちらを尊重してくれて自分と相手といい時間を作りたいと思える人や場所を見つける努力をしたらいいんじゃないかな。
(たとえば、尊重されないことで感じて傷つかない、もしくは傷ついてもかまわないと思う人は、そういうコミュニティに行けばいいよね、それもある意味『嗜好の一致』になるからOK^^)
こちらを尊重してくれる。
これって、SMや主従カテゴリで見つけるの、けっこう難しそうに思うんだよねぇ。
M女や奴隷って尊重や大事にしないくていい存在っぽい風潮だからね。
尊重の上の被虐行為、これって男の人で共感できる人、そんなに多くないような気がするんだよなぁ^^;
コメントをくださった愛舞音さん、ありがとうございます。
わたしは愛舞音さんのことをほとんど知りませんので、このエントリーは的外れかもしれません。
ただ、愛舞音さんの『複数に犯される』という願望は、もしかしたら複数じゃなくてもいいのかもしれない。
尊重し合えるパートナーとの時間の中、パートナーの手が複数に感じられる瞬間があるかもしれないし、性的な社交の場で愛舞音さんと良い時間を過ごしたいと思う男性が2人いるだけで、充分『複数』になるかもしれない。
被虐願望は、蔑みや屈辱が近道のように思うけど、じつは尊重し合える関係からのほうがジレンマや嫌悪感や傷を排除しながら叶える道筋なのかもしれない。
急がば回れみたいに^^
そんなふうに思います。
『人』のかけ算を意識してみるのもいいかもねって思いました^^
貼り忘れてた〜、クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
さあ、いっぱい貼るよ〜(笑)
被虐願望、いろいろ
『上手に説明できない』
『心の底と、その先にあるもの』
『妄想のうちの一部』
(なんか、わたし青い^^;)
『モンスターを抱きしめて』
『否応なくマゾ』
そのクセ傷つく
『傷つく性癖』
『諸刃の刃』
『男たちの手(もらうセックス)』
心の交流
『秘訣』
『秘訣の続き』
『もうひとつの秘訣』
他のお店でイヤな思いしたこと
『Mだからってね』
「等式」感想です。性的な願望を満たそうとする時にどうすれば叶うかを考えると思う。でも、その願望の先にはもっと大切で、直接的である性的願望を凌駕する充足を得ることが出来ると言う事かな。本当に欲しいものはそちらの方なのかもしれない。りん子からの私に対する完璧に近い肯定を感じた時、私自身のある部分の性欲が落ち着いたと思う。追いかけられるような欲望から、楽しむ欲望に変化したとさえ思う。だから、自分自身の叶えることが難しい欲求は、意外と別の部分を充足することにより落ち着く可能性があると思う。抽象的で意味不明の発言失礼しました。(笑)
りん子(^-^)ふうん、わたしは那智さんに完璧に近い肯定をしているんだぁ。本人、ほとんど無意識(笑)たくさん与えられていたら、たくさんお返ししたくなるのは、ごく普通の心の流れということだね。そこに、忠誠を誓う言葉も意思表示も必要ないのだよね。大切な人を大切に思う気持ちだけで充分。
このエントリーは『徒然に「苦悩」』にいただいたコメントから派生したものです。
いただいたコメントがヒントになることはときどきあるけど、コメントのお返事に相当するものはできるだけ早いほうがいいので、アップするのがすぐになっています。
最近、コメントからエントリーができるケースが増えて、2ヶ月分予約投稿のループを破りまくっていますが(笑)、それは2ヶ月後のお楽しみということで、こういう機会に恵まれるブログであることがうれしく思います。
コメントをくださった愛舞音さん。
いただいたコメントをヒントにわたしの考えを書きました。
文末に愛舞音さんに向けたコメントレスのようなものを書きますが、このエントリー自体は、日頃のわたしの考えを書いたものですので、こちらへのコメントは義理には思わないでくださいね。
こういう考え方もあるのね〜と思っていただくだけで充分です^^
すべての被虐嗜好者がそうかはわからないけど。
わたしの【被虐嗜好】は矛盾や葛藤に満ちている。
酷いことをされたい。
ちょっと乱暴なセックスから拷問のようなものまで。
見ず知らずの男に、普段なら眉をひそめて敬遠するような不潔な男たちに、聴衆の蔑みの視線に、人格なんてまったく無視されるか、あるとしたら『わたし』ではなく『女』や『穴』に向けられる短絡的な欲望。
そんな願望を持つ一方で、それを叶えるのは自分ではなく『する側』の存在が必要。
もちろん加虐側も相手がいないと成立しないのだけど、虐待的行為の渦中に身を投じない限り叶わないという、恐怖や嫌悪感はわたしを困惑させる。
危険に身を投じる恐怖との葛藤。
そして、これこそすべてのマゾが感じているとは言えないのだけど、上手にそこをクリアしている人もいると思うんだけど。
被虐行為を望むクセに、それにより【傷ついて】しまうのだ。
そもそも被虐なんだから体を傷つけてしまうことはあるはずだし、それにプラスして心に傷を負ってしまう。
人を人もと思わない行為を求めているのに、人格無視はわたしの心を傷つける。
痴漢は許せない行為なのに、そんな男は軽蔑の対象なのに、それで濡れてしまう自分への嫌悪感。
見知らぬ男たちの餌食になりたいクセに、そんな男たちに対する嫌悪感。
那智さんにわたしを蔑んでと思う気持ちがあっても、仮にそれをされたら傷つくし、してしまえる那智さんへの好きがぜったい減る。
尊重されないような行為を求めるのに、尊重してくれない男以外のセックスは傷つく。
尊重されたいのに、尊重されていては叶わない。
このジレンマ。
那智さんが大好きなままわたしの被虐願望を叶えるには『可愛がる』や『大切にしながら酷いこと』というスタンスがベストだということにいまは着地しているし、これが満足ではあるけれど、ふと、死と隣り合わせの恐怖や人格を無視される絶望への憧れが頭をもたげるとき、わたしのような恐がりで弱虫のマゾは、葛藤を抱えているなと思うのだ。
(でも、逆に、それを選ばずにいられていることにも安堵しています)
先日、那智さんと鞭の時間でものすごい一体感を感じるときがあった。
わたしを可愛がりながら打ち、それの呼応するように鞭で快感に溺れる。
わたしが感じれば感じるほど、那智さんも徐々に可愛がるスタンスから加虐の楽しみに変化していった。
思い切り打つ、打つことを楽しむ。
わたしはそれを受け、打たれることで益々快感が増える。
いままでより加虐と被虐の色が濃くなり、方向がピッタリ一致するような時間だった。
もちろん、そういうときだってふたりにとって『可愛がる』行為ではあったけど、その先の、逃げられない恐怖、虐待行為が終わらない絶望の片鱗を見た思いだった。
また、別の機会。
ある変態さんカップルとご一緒することがあった。
窓口になった女性とはメールなどでお互いある程度仲良くなっていたけど、男性とは2回お会いした程度の短いお付き合いのカップルだった(互いの変態を披露しているので、すでに深いといえば深いので、『短い』)
詳細は後日ですが(笑)
3人に囲まれ、那智さんに電マをされるとき、いつものお守り代わりに抱えた枕を男性から「こんなの持ってちゃダメ(笑)」と取り上げられた。
いや、あの苦痛にはお守り必要なのに!!と思いながら、そのまま怒濤の責めがはじまるときの絶望感に、やはりその先の、たくさんの人の興奮や抵抗できない絶望の片鱗を感じた。
被虐願望の矛盾やジレンマ、これは解消することはない。
だから、わたしが昔から思い描いていた被虐願望が、そのままそっくり叶うことはないのだ。
きっと、叶わなくていいのだ。
だけど、こんなふうに日頃の那智さんとの快感の連続の中、ふと願望の片鱗に触れる瞬間はある、変態さんたちの交流の中で傷つかずに、でも、長いこと思い描いていた妄想にシンクロする瞬間はある。
自分を破滅させるような、相手を憎むような被虐願望は叶わない、だけど、幸福な行為の中にその片鱗を見つけることはできるのだ。
それは、なぜだろう。
きっと『人』がかけ算になってくれているのではないだろうか。
血も流さないし、浮浪者に輪姦もさせていないわたし(たち)のしていることは鬼畜さんたちからしたら大したことないかもしれない。
でも、その片鱗に触れられたのは、那智さんとの積み上げた年月や一緒に楽しもうと思ってくれる変態さんカップルの存在がかけ算になってくれたのだ。
自己嫌悪や他者に対する嫌悪感で傷ついてしまうマゾのジレンマを幸福なうちに叶えるのは『人』というかけ算の力なんじゃないだろうか。
じゃあ、その『人』って、なにか!?
誰でもいいわけじゃないよね。
りん子には那智さんがいてくれるから叶うんだよって思う人もいるかもしれないけど、そういう人にはこれから話すことは届いてくれないかもしれない。
じつは、わたしも自信がないんだ。
本を読んだり、お友達とお話ししてわたしがこの考えを持つようになったときにはすでに那智さんが存在していたから、そうじゃないケースは机上の空論になってしまうのかもしれない。
でも、それでも、被虐願望を持ち、そのジレンマに傷つくわたしと同じような女性がいるとするなら机上の空論でも理想論でもいいから活路を書きたい。
本や友達とのお話しや自分の経験と想像で書きますから、どうか、一緒に想像してください。
『心の交流』という言葉を何度か書いている。
ポスターのネコを撫でても何とも思わないけど、本物のネコを撫でると撫でているほうも気持ちいいのは、ネコがもふもふだからってだけじゃなくて、ゴロゴロ喉を鳴らしたり、安心して撫でるに任せている様子が感じられたり、そういう空気が脳を気持ちよくさせているのだよね。
こういうのを心の交流というのだそうです(これも岩月謙司さんの著書より^^)
お互いに相手を大事に思っているということが心の交流を生むのだと思う。
大恋愛じゃなきゃいけないわけじゃなくて、相手を尊重し大切なパートナーと思い合えることが心の交流。
その中には『嗜好の一致』も含まれていると思っています。
性的嗜好が一致していて同じ目的のもとより良いものにしていこうと思えば、相手と話し合い、相手を大切にしようと思いますよね。
そういうことも充分心の交流ができている。
もっというと、たとえば、ハプバーなどの場所で初対面や、その場でしか会わないような人だったとしても『その時間を互いに楽しみましょう』という認識が一致していたら、それはそれで心の交流はできていると想像します。
(現に、先の変態カップルさんとは、そのときが初めての行為だったしね)
恋愛感情の有無、付き合いの長さや形、それはいろいろでいいの、ただ、そこに相手を尊重する気持ちがあるかどうかが心の交流を作るポイントになるわけです。
ハプバーで心の交流!?って思うよね^^;
でもね、あると思う。
わたしたちが以前よく遊びにいっていたハプバーは、スタッフも常連さんもとても良い人ばかりで、女性やカップルに対する配慮をいつもしてくれていた。
行為より、まず会話をして、人と人としての交流を楽しむ。
その中から嗜好が合えばプレイに及ぶ。
そういうお店だったから不快な思いをしたことがない。
これは男性や女性の何割りかはピンと来ないかもしれないけど、いるのよ、『女を人と思っていない』男性って。
特に性的な空間ならあからさまに、上から目線の男性は多い。
そういうのがないお店だったから、その場限りであれ、わたしは心の交流ができたと思っている。
(【他のお店では、イヤな気持ち】になったことあるから、やっぱり人や雰囲気ってあるんだよね)
だから、大恋愛じゃなくてもいいのだ。
相手を尊重していい時間を過ごそうと思える人間関係や時間、その中で願望に近い行為をしていくことが、傷つかず嫌悪感もなく、そして、いつか願望のギリギリの淵の片鱗を見ることができるかもしれない。
もともとの被虐願望とはほど遠い行為かもしれないけど『人』のかけ算はマゾ的葛藤を解消してれるポイントかもしれないと思うのです。
だから、こちらを尊重してくれて自分と相手といい時間を作りたいと思える人や場所を見つける努力をしたらいいんじゃないかな。
(たとえば、尊重されないことで感じて傷つかない、もしくは傷ついてもかまわないと思う人は、そういうコミュニティに行けばいいよね、それもある意味『嗜好の一致』になるからOK^^)
こちらを尊重してくれる。
これって、SMや主従カテゴリで見つけるの、けっこう難しそうに思うんだよねぇ。
M女や奴隷って尊重や大事にしないくていい存在っぽい風潮だからね。
尊重の上の被虐行為、これって男の人で共感できる人、そんなに多くないような気がするんだよなぁ^^;
コメントをくださった愛舞音さん、ありがとうございます。
わたしは愛舞音さんのことをほとんど知りませんので、このエントリーは的外れかもしれません。
ただ、愛舞音さんの『複数に犯される』という願望は、もしかしたら複数じゃなくてもいいのかもしれない。
尊重し合えるパートナーとの時間の中、パートナーの手が複数に感じられる瞬間があるかもしれないし、性的な社交の場で愛舞音さんと良い時間を過ごしたいと思う男性が2人いるだけで、充分『複数』になるかもしれない。
被虐願望は、蔑みや屈辱が近道のように思うけど、じつは尊重し合える関係からのほうがジレンマや嫌悪感や傷を排除しながら叶える道筋なのかもしれない。
急がば回れみたいに^^
そんなふうに思います。
『人』のかけ算を意識してみるのもいいかもねって思いました^^
貼り忘れてた〜、クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
さあ、いっぱい貼るよ〜(笑)
被虐願望、いろいろ
『上手に説明できない』
『心の底と、その先にあるもの』
『妄想のうちの一部』
(なんか、わたし青い^^;)
『モンスターを抱きしめて』
『否応なくマゾ』
そのクセ傷つく
『傷つく性癖』
『諸刃の刃』
『男たちの手(もらうセックス)』
心の交流
『秘訣』
『秘訣の続き』
『もうひとつの秘訣』
他のお店でイヤな思いしたこと
『Mだからってね』
「等式」感想です。性的な願望を満たそうとする時にどうすれば叶うかを考えると思う。でも、その願望の先にはもっと大切で、直接的である性的願望を凌駕する充足を得ることが出来ると言う事かな。本当に欲しいものはそちらの方なのかもしれない。りん子からの私に対する完璧に近い肯定を感じた時、私自身のある部分の性欲が落ち着いたと思う。追いかけられるような欲望から、楽しむ欲望に変化したとさえ思う。だから、自分自身の叶えることが難しい欲求は、意外と別の部分を充足することにより落ち着く可能性があると思う。抽象的で意味不明の発言失礼しました。(笑)
りん子(^-^)ふうん、わたしは那智さんに完璧に近い肯定をしているんだぁ。本人、ほとんど無意識(笑)たくさん与えられていたら、たくさんお返ししたくなるのは、ごく普通の心の流れということだね。そこに、忠誠を誓う言葉も意思表示も必要ないのだよね。大切な人を大切に思う気持ちだけで充分。