世界平和
独特な幸福感
もう5年、もしかしたら7、8年くらい前かもしれない。
那智さんがこんな話をしてくれた。
たしか、『那智さんとわたしの意見がどうしても合わなかったら』みたいな会話からの話だったような気がする。
基本、最終的には那智さんの意見に従うほうがしあわせなんだけど、何でも無理をするのは関係を歪めるわけで、できるだけ納得して意見を合わせていたきたものだよね。
そんなタラレバに
どんなに話し合っても意見を合わせることができなかったらね
もう、なんでもいいから新しい価値観を作るんだ
『世界平和』なんてめちゃくちゃな観点からでもいいから(笑)
新しい価値観をもとに共通の考えにするんだ
相手を大切に思うことが大前提で、どうしても意見が合わない場合は、無理矢理でも『意見を合わせる』ことが重要なんだよ
お互いを大切に思い、良好な関係を続けたいと思い、たくさん話し合っても着地点が見つけられなければ、無理矢理新しい価値観を作り、そこに着地させる。
普通は、自分の意見を曲げることはよくないことだけど、相手を傷つけたくないという前提に立ち話し尽くすほど話した後であれば、残る良好な解決策はこうだというのだ。
無理矢理でも新しい価値観を作って着地させる、なんて、普通はしないよね。
この意見は合いませんでしたねで、それも大人としては平和的解決だもの。
だけど、おそらく、那智さんの理想とする『とても大切な人』との関わり方は、最終的に『着地できたね』とすることなのだろう。
わたしのような同化していたい相手が那智さんの好みであれば尚更なのかもしれない。
当時、言っていることは理解できるけど、イマイチ実感できなかった。
これが数年前のこと。
充電やいろいろを経て、わたしの更新作業は落ち着いていた。
大げさにいうと『無限ループ』のような状態。
多少の産みの苦しみや爽快感や感動はあれど、比較的穏やかに、どちらかというと淡々と、二ヶ月分予約投稿を積み重ねていることもよりそういう気持ちにさせていたのかもしれない。
とにかく感情の振れ幅が少なく、書くことが当たり前のような状態だった。
これは非常にラクなんだけど、でも、那智さんにとってはあまり楽しいものではないのではないかなと、時折思い出したように感じていた。
ちょっとのことでひーひーあわあわしているわたしの文章のほうが那智さんは好きだろうし、楽しいはず、わたしの感情の落ち着きがどれだけ文章に表れているかわからないけど、書いている本人がそのように感じているのだから、きっと那智さんもそうだろうって想像していたのだ。
ときどき、思い出したように「那智さん、いまの『等式』楽しいですか?」と聞いていた。
これは『等式』に限らず、成長することへの幸福と不安の感情なのだろうな。
(ここ、詳細端折る 笑)
あの日も、その思いが漠然とわき上がってきた。
とても低く静かに生産しているエントリー、那智さん、楽しいだろうか。
もしかして、これが延々と続き、感想を書き続けることが負担になってはいないだろうか。
そんなふうに思い、問いかけてみた。
そんなことないよ
すこし前には『あれ?』と感じることはあったけど、最近は充実しているんじゃない?
この質問をすると、たいがい、このようなお返事をしてくれる。
その言葉通りなんだろう。
初期の『惹かれ合う理由』の怒濤の更新や『りん子的独り言』でコメントの応酬(これは旧時代なのでいまは表示されていないです)のような大きな波はない。
大爆笑も大感動もないけど、日々の楽しみ。
書いているわたしのテンションと同じなのだろう。
那智さんに楽しんでほしいという気持ちが『楽しいと思ってほしい(そして、それを伝えてほしい)』というちょっとだけエゴな気持ちに変化しているなと思う。
忙しい中、お話しできるタイムリミットが迫り、この日、この話題はフェイドアウトしていった。
その午後、『上着』を書いた。
たぶん、わたしは那智さんに「いまの『等式』が楽しいし、好き」と肯定してほしいのだろう。
那智さんに楽しんでもらいたいという気持ちは本物、更新作業がツライわけではないし、むしろ穏やかなんだ。
一日置きで長く続けるを指針にしたら、この穏やかな心は本当にラクなのだからむしろプラスなの。
きっとちょっとのエゴをよしよししてもらいたかったんだ。
でも、那智さんとお話ししても、「楽しいと言って」とお願いして言ってもらっても、きっとビンゴにはならない。
だって、甘えなんだもん。
忙しい那智さんに甘えられるのは、さっきまでのお話しで充分だ。
だったら、恥ずかしいけどリアルタイムで泣き言書いて読者の皆さまに助けてもらおうって思ったのです。
翌朝。
恥ずかしがりながらも、これについて話し合った。
那智さんは
更新頻度を落すか、また充電期間を設けるか、とにかく、わたしが書きたいというテンションが上がるように提案してくれる。
一週間に一度?
書き溜めしている二ヶ月分から書き足さず、あえて底を尽かせて、そこからどういう気持ちになるか考える?
でもね、那智さん、違うんですよ。
わたしは『無限ループ』なのです(笑)
だから、書けないでも書きたくないでもないんです。
クオリティは置いておいて、書くことはまったく問題ないのです。
でも、それを那智さんが楽しいのかが問題なのです。
だからね、書くテンションを上げるようにする必要はないの。
テンションを上げる方向で話すのは、『いまのテンションじゃないほうがいい』と取りかねないので、むしろ、いまのわたしには逆効果なのです。
頻度を変えるなら、もう『等式』やめませんか?
やめて、わたし、那智さんのためだけに一日置きに書きますよ(笑)
けして投げやりな気持ちではなく、更新頻度を下げてテンションを上げる努力をして続けることに意味があるように思えなかった。
もう、充分過ぎるほど、『ブログ』というものをやっている自負もある。
たぶん、いつおしまいにしても、すごーーーく寂しいけど、やり切った感はある。
(すごーーーく寂しいんだよ、この話し持ちかけながらウルウルしていたから)
それに更新頻度を下げるのは那智さんの日々の楽しみを減らすことになるのだ。
いっそ公開せず、那智さんのためだけに書きますよ。
だってクオリティは別で『無限ループ』なんだもん(笑)
那智さんの提案とわたしの求めるものが、どうも噛み合ない。
噛み合ないから、こんな提案までしてしまった。
那智さんは、わたしがテンションが上がらず書くのが楽しくないと思っていて、それをなんとか楽しくさせてくれようと提案している。
わたしは日々那智さんの楽しみをお届けしたいのだけど、いまのわたしのテンションで書いていることを肯定してくれれば、心地よく書けるとお願いしている。
なかなか平行線だった。
ふたりの意見が平行線のときは大抵『相手を思うゆえ』なことが多い。
那智さんは『わたしが楽しく書けるように』、わたしは『那智さんに日々更新をお届けしたい』この平行線。
このとき、那智さんはちょっとだけ勘違いをしていた。
わたしがいまのテンションがツライと感じていると思っていたのだ。
(まあ、散々、書けない〜とぐずってきた過去があるからね^^;)
だから、楽しくテンションを上げて書けるようにと頻度を下げる提案してくれていた。
那智さん、わたしたち噛み合っていないですよね
お互い、相手のことを考えている、毎度のパターンです^^;
わたし、書きたくないわけじゃないんですよ
那智さんが楽しいと思ってくれると安心するというだけのことなのです
やめる覚悟まで話が及び、那智さんも自分の捉え方が勘違いだったかもと気づいてきて、そこから、いまの『等式』の楽しさに注目して話を展開してくれた。
たしかに、以前のテンションとは違うかもしれないけど、最近もおもしろいよ
『スタンプ』なんて、感想にも書いたけど照れくさくてさ、こういうのエントリーで読んで、感想を書くことで俺もりん子も楽しんでる
普段の会話で聞けないこと、知ることができないことを『等式』と感想で知ることができる
それはとても貴重なことだ
ああ、なるほど!!
これが新しい価値観だ。
着地できた。
『等式』は記録だ。
いままでだって記録という側面はあったけど、今日できた価値観はもっと『記録』だ(意味不明!)
わたしたちの日々を残し、お互いの気持ちを知るための記録。
それを那智さんは楽しんでくれている。
新しい価値観で楽しみを表現してくれたから、今日から『等式』におけるわたしたちの共通認識ができた。
『記録』なのだから特別テンションを上げる必要もない、いまのままを残せばいいんだ。
そう思えたら一気にラクになった。
いまのわたしのまま、那智さんに『記録』を楽しんでもらえる。
お互いが相手を思い、それでもどんなに話し合っても意見が合わなければ新しい価値観を作って無理矢理でも着地させる。
数年前、那智さんが話してくれた方法はこういうことだったんだと数年経ってやっと実感できた。
皆さまにはリアルタイムの泣き言にお付き合いくださって、本当に本当にありがとうございます。
いろいろな方から『好き』を表明していただけて、恥ずかしながら泣き言を書いた甲斐がありました。
表明してくれた方はもちろん、あえて表明しなかったり心配な気持ちになってくれた方々にも感謝の気持ちです。
(皆さんのコメントなど読んで那智さんもとてもよろこんでいました)
『やめる、そして、那智さんのためだけに書く』なんて言ってはいたものの、それは最終的なギリギリの選択であって、本当は読んでくれる人たちがいるから続けられることは、わたし自身が一番よくわかっています。
そんな選択を言葉にしてしまって、ごめんなさいとも思っています。
ということで。
『等式』はすったもんだしながらもいままで通り、そのときのテンションを受け入れつつ続けていきます^^
「ぎゃーぎゃ」言ったり、淡々としていたり、明らかにやっつけ仕事なときもあるでしょう。
『記録』を残す観点に立って更新していきますので、どうぞ、お付き合いください。
リアルタイムの泣き言をしたので、ほぼリアルタイムのご報告でした。
ありがとう〜〜〜♪
『世界平和』の観点に立たずに済んで、ひとまず、よかった(笑)
<関連エントリー>
世界平和!!
『繋いだ手の行方』
「等式」感想です。皆様、本当にありがとうございます。等式の存在についてのお話を聞くことが出来て、大変うれしく思います。文中、「成長することへの幸福と不安の感情」とありますが、ここはりん子のせつなくかわいい部分です。(笑)
もう5年、もしかしたら7、8年くらい前かもしれない。
那智さんがこんな話をしてくれた。
たしか、『那智さんとわたしの意見がどうしても合わなかったら』みたいな会話からの話だったような気がする。
基本、最終的には那智さんの意見に従うほうがしあわせなんだけど、何でも無理をするのは関係を歪めるわけで、できるだけ納得して意見を合わせていたきたものだよね。
そんなタラレバに
どんなに話し合っても意見を合わせることができなかったらね
もう、なんでもいいから新しい価値観を作るんだ
『世界平和』なんてめちゃくちゃな観点からでもいいから(笑)
新しい価値観をもとに共通の考えにするんだ
相手を大切に思うことが大前提で、どうしても意見が合わない場合は、無理矢理でも『意見を合わせる』ことが重要なんだよ
お互いを大切に思い、良好な関係を続けたいと思い、たくさん話し合っても着地点が見つけられなければ、無理矢理新しい価値観を作り、そこに着地させる。
普通は、自分の意見を曲げることはよくないことだけど、相手を傷つけたくないという前提に立ち話し尽くすほど話した後であれば、残る良好な解決策はこうだというのだ。
無理矢理でも新しい価値観を作って着地させる、なんて、普通はしないよね。
この意見は合いませんでしたねで、それも大人としては平和的解決だもの。
だけど、おそらく、那智さんの理想とする『とても大切な人』との関わり方は、最終的に『着地できたね』とすることなのだろう。
わたしのような同化していたい相手が那智さんの好みであれば尚更なのかもしれない。
当時、言っていることは理解できるけど、イマイチ実感できなかった。
これが数年前のこと。
充電やいろいろを経て、わたしの更新作業は落ち着いていた。
大げさにいうと『無限ループ』のような状態。
多少の産みの苦しみや爽快感や感動はあれど、比較的穏やかに、どちらかというと淡々と、二ヶ月分予約投稿を積み重ねていることもよりそういう気持ちにさせていたのかもしれない。
とにかく感情の振れ幅が少なく、書くことが当たり前のような状態だった。
これは非常にラクなんだけど、でも、那智さんにとってはあまり楽しいものではないのではないかなと、時折思い出したように感じていた。
ちょっとのことでひーひーあわあわしているわたしの文章のほうが那智さんは好きだろうし、楽しいはず、わたしの感情の落ち着きがどれだけ文章に表れているかわからないけど、書いている本人がそのように感じているのだから、きっと那智さんもそうだろうって想像していたのだ。
ときどき、思い出したように「那智さん、いまの『等式』楽しいですか?」と聞いていた。
これは『等式』に限らず、成長することへの幸福と不安の感情なのだろうな。
(ここ、詳細端折る 笑)
あの日も、その思いが漠然とわき上がってきた。
とても低く静かに生産しているエントリー、那智さん、楽しいだろうか。
もしかして、これが延々と続き、感想を書き続けることが負担になってはいないだろうか。
そんなふうに思い、問いかけてみた。
そんなことないよ
すこし前には『あれ?』と感じることはあったけど、最近は充実しているんじゃない?
この質問をすると、たいがい、このようなお返事をしてくれる。
その言葉通りなんだろう。
初期の『惹かれ合う理由』の怒濤の更新や『りん子的独り言』でコメントの応酬(これは旧時代なのでいまは表示されていないです)のような大きな波はない。
大爆笑も大感動もないけど、日々の楽しみ。
書いているわたしのテンションと同じなのだろう。
那智さんに楽しんでほしいという気持ちが『楽しいと思ってほしい(そして、それを伝えてほしい)』というちょっとだけエゴな気持ちに変化しているなと思う。
忙しい中、お話しできるタイムリミットが迫り、この日、この話題はフェイドアウトしていった。
その午後、『上着』を書いた。
たぶん、わたしは那智さんに「いまの『等式』が楽しいし、好き」と肯定してほしいのだろう。
那智さんに楽しんでもらいたいという気持ちは本物、更新作業がツライわけではないし、むしろ穏やかなんだ。
一日置きで長く続けるを指針にしたら、この穏やかな心は本当にラクなのだからむしろプラスなの。
きっとちょっとのエゴをよしよししてもらいたかったんだ。
でも、那智さんとお話ししても、「楽しいと言って」とお願いして言ってもらっても、きっとビンゴにはならない。
だって、甘えなんだもん。
忙しい那智さんに甘えられるのは、さっきまでのお話しで充分だ。
だったら、恥ずかしいけどリアルタイムで泣き言書いて読者の皆さまに助けてもらおうって思ったのです。
翌朝。
恥ずかしがりながらも、これについて話し合った。
那智さんは
更新頻度を落すか、また充電期間を設けるか、とにかく、わたしが書きたいというテンションが上がるように提案してくれる。
一週間に一度?
書き溜めしている二ヶ月分から書き足さず、あえて底を尽かせて、そこからどういう気持ちになるか考える?
でもね、那智さん、違うんですよ。
わたしは『無限ループ』なのです(笑)
だから、書けないでも書きたくないでもないんです。
クオリティは置いておいて、書くことはまったく問題ないのです。
でも、それを那智さんが楽しいのかが問題なのです。
だからね、書くテンションを上げるようにする必要はないの。
テンションを上げる方向で話すのは、『いまのテンションじゃないほうがいい』と取りかねないので、むしろ、いまのわたしには逆効果なのです。
頻度を変えるなら、もう『等式』やめませんか?
やめて、わたし、那智さんのためだけに一日置きに書きますよ(笑)
けして投げやりな気持ちではなく、更新頻度を下げてテンションを上げる努力をして続けることに意味があるように思えなかった。
もう、充分過ぎるほど、『ブログ』というものをやっている自負もある。
たぶん、いつおしまいにしても、すごーーーく寂しいけど、やり切った感はある。
(すごーーーく寂しいんだよ、この話し持ちかけながらウルウルしていたから)
それに更新頻度を下げるのは那智さんの日々の楽しみを減らすことになるのだ。
いっそ公開せず、那智さんのためだけに書きますよ。
だってクオリティは別で『無限ループ』なんだもん(笑)
那智さんの提案とわたしの求めるものが、どうも噛み合ない。
噛み合ないから、こんな提案までしてしまった。
那智さんは、わたしがテンションが上がらず書くのが楽しくないと思っていて、それをなんとか楽しくさせてくれようと提案している。
わたしは日々那智さんの楽しみをお届けしたいのだけど、いまのわたしのテンションで書いていることを肯定してくれれば、心地よく書けるとお願いしている。
なかなか平行線だった。
ふたりの意見が平行線のときは大抵『相手を思うゆえ』なことが多い。
那智さんは『わたしが楽しく書けるように』、わたしは『那智さんに日々更新をお届けしたい』この平行線。
このとき、那智さんはちょっとだけ勘違いをしていた。
わたしがいまのテンションがツライと感じていると思っていたのだ。
(まあ、散々、書けない〜とぐずってきた過去があるからね^^;)
だから、楽しくテンションを上げて書けるようにと頻度を下げる提案してくれていた。
那智さん、わたしたち噛み合っていないですよね
お互い、相手のことを考えている、毎度のパターンです^^;
わたし、書きたくないわけじゃないんですよ
那智さんが楽しいと思ってくれると安心するというだけのことなのです
やめる覚悟まで話が及び、那智さんも自分の捉え方が勘違いだったかもと気づいてきて、そこから、いまの『等式』の楽しさに注目して話を展開してくれた。
たしかに、以前のテンションとは違うかもしれないけど、最近もおもしろいよ
『スタンプ』なんて、感想にも書いたけど照れくさくてさ、こういうのエントリーで読んで、感想を書くことで俺もりん子も楽しんでる
普段の会話で聞けないこと、知ることができないことを『等式』と感想で知ることができる
それはとても貴重なことだ
ああ、なるほど!!
これが新しい価値観だ。
着地できた。
『等式』は記録だ。
いままでだって記録という側面はあったけど、今日できた価値観はもっと『記録』だ(意味不明!)
わたしたちの日々を残し、お互いの気持ちを知るための記録。
それを那智さんは楽しんでくれている。
新しい価値観で楽しみを表現してくれたから、今日から『等式』におけるわたしたちの共通認識ができた。
『記録』なのだから特別テンションを上げる必要もない、いまのままを残せばいいんだ。
そう思えたら一気にラクになった。
いまのわたしのまま、那智さんに『記録』を楽しんでもらえる。
お互いが相手を思い、それでもどんなに話し合っても意見が合わなければ新しい価値観を作って無理矢理でも着地させる。
数年前、那智さんが話してくれた方法はこういうことだったんだと数年経ってやっと実感できた。
皆さまにはリアルタイムの泣き言にお付き合いくださって、本当に本当にありがとうございます。
いろいろな方から『好き』を表明していただけて、恥ずかしながら泣き言を書いた甲斐がありました。
表明してくれた方はもちろん、あえて表明しなかったり心配な気持ちになってくれた方々にも感謝の気持ちです。
(皆さんのコメントなど読んで那智さんもとてもよろこんでいました)
『やめる、そして、那智さんのためだけに書く』なんて言ってはいたものの、それは最終的なギリギリの選択であって、本当は読んでくれる人たちがいるから続けられることは、わたし自身が一番よくわかっています。
そんな選択を言葉にしてしまって、ごめんなさいとも思っています。
ということで。
『等式』はすったもんだしながらもいままで通り、そのときのテンションを受け入れつつ続けていきます^^
「ぎゃーぎゃ」言ったり、淡々としていたり、明らかにやっつけ仕事なときもあるでしょう。
『記録』を残す観点に立って更新していきますので、どうぞ、お付き合いください。
リアルタイムの泣き言をしたので、ほぼリアルタイムのご報告でした。
ありがとう〜〜〜♪
『世界平和』の観点に立たずに済んで、ひとまず、よかった(笑)
<関連エントリー>
世界平和!!
『繋いだ手の行方』
「等式」感想です。皆様、本当にありがとうございます。等式の存在についてのお話を聞くことが出来て、大変うれしく思います。文中、「成長することへの幸福と不安の感情」とありますが、ここはりん子のせつなくかわいい部分です。(笑)
「いく」という悪しき慣行
140字もどき
わたしは性の達人でもないし医学的なこともまったく知りません、ただひたすらわたしの経験と想像だけで書きます。
ですから、断定して書きますが、その状況に当てはまっている人を否定しているわけではありません。
『140字もどき』だから、いろいろ大目に見てね^^
男性の射精の『いく』が『上り詰め、頂点に達して、落ちる』だとしたら、女性にとってのそれはクリトリスでオーガズムを得ることだ。
これを『いく』とするならば、それ以外の『いく』表記はすべて違うものだと思っておいたほうがいい。
中でいく、脳でいく、声を聞いただけでいく、これらはどれも射精やクリトリスのように明確に体が頂点に達して(落ちる)わけではないのだ。
中でいくのは当たる場所によってはそれに近いものもあるし、セックスの体位によってはクリトリスも刺激してそのいくと混ざって『いく』になる場合もあるし、最近ではおまんこの周り全体がクリトリスのような快感を得るようになっているので、セックスをしながらおまんこ全体がクリトリスのいくに近い状態になることはあるけど、それでも射精のような放物線を描きはっきりした爆発があるわけではない。
だから、中でいくことは、射精とクリトリスの『いく』と同じだと思わないほうがいい。
(むしろ、中のほうは気持ちよさは持続する)
まして、脳や声だけでなんていうのは、まったく違うもの。
以前のエントリーにも書いたけど、ほとんどのいくは『その気』になっているだけなのだ。
相手による暗示と自己暗示と自己陶酔。
もし何かしらの才能があるとしたら『暗示にかかりやすい』人だというだけだと思っておいたほうがいい。
セックスをして気持ちがいいとは感じるだけでクリトリスのような爆発的な頂点にはならない人も『その気』になればいっていると言えるかもしれないし、好きな男の声を聞いて胸がきゅんとなって子宮がうずいたら、それも『その気』を加えたらいっていることになるのだ。
世の中に氾濫しているイクや逝くやイくを鵜呑みにしないほうがいい。
その縛りは不必要な縛り。
『等式』の中でわたしは昔より『イク』という表現を使わなくなっている。
それはなぜかというと、当初感じていた『イク』より、中も脳もずっとずっと気持ちがよくなっているからだ。
射精やクリトリスのような放物線と頂点を描かないエクスタシーをたくさんたくさん教えてもらい、あの頃の表現に疑問を抱くようになり『イク』に対して慎重に表現したいと思っている。
『イク』と表現しないのは、それ以外の表現ができるほど様々な快感を感じているからなのだ。
そして、かつて『中でいったことがない』ことがコンプレックスに感じていたわたしのような女性がたくさんいると感じているからでもある。
このコンプレックスは『いく』という悪しき慣行の産物。
わたしの変態仲間の女性はセックスで床がびしょ濡れになるほど水分を漏らす。
それが潮とかいうヤツかどうかはわからないけど、彼女は『いく』とは表現していないし、その後ぐったりなんてしないで彼氏と一緒になってせっせと床を拭いている^^
(彼女のフラットなところは魅力だ)
わたしも痣だらけになるほど叩かれても気絶することもない。
2度ほど、そのままウトウトしてしまったことがあるけど、ほとんどは数分だけゴロンとさせてもらったら、那智さんと一緒にサクサクとお風呂に入れる。
人間、そんなに意識なくさないし、いきまくってぐったりなんてならないのだ。
なるとしたら、陶酔しているだけ。
だからね、いかないことをコンプレックスに思うのはやめよう。
何度もいきまくっている女性は、きっと『気持ちいい〜』という感覚が継続しているだけのことで、声を聞いただけでいっちゃう女性は『声を聞いてきゅんとした』ことをいくと表現しているだけだと思おう。
もちろん、それらを『いく』と表現することを否定しているわけではない。
お相手が暗示をかけるのが上手だったりこちら側が感性豊かだったりしたら、それだけでエクスタシーを得ていることだってあるかもしれない。
わたしだって、鞭で意識が混濁して体がガクガク震えるときもあるし、それは『いく』と表現したいなと思うこともある。
浣腸をかけるとクリトリスが敏感になって、トクトクと脈を打つことも『いく』かもしれない。
乳首への刺激だけで脳天まで快感になるなんて、那智さんの開拓と『その気』にさせてもらっている最たるものだ。
それらも人によっては『いく』かもしれないし、わたしのようにまどろっこしく表現するかもしれない。
(那智さんには『イク』とお伝えしていることのほうが多いけど 笑)
何をどう感じ、表現するのは自由だ。
だけど、わたしは『いく』ことへの悪しき慣行をなくしたい。
わたしも含め、しょせん、その気になっているだけのこと。
その気になりやすい人は快感を得るのも早いかもしれないけど、かつてのわたしのようにその気になりにくい女はね、開発する楽しみがあるというもの(笑)
開発する楽しみを殿方に味わってもらうために、その気になりにくい女はきっと大事な存在だよ^^
女も、そして男も『女のいく』の呪縛から解かれたほうがきっと幸せだと思うのだ。
<関連エントリー>
『徒然に「イクこと」1 2 3』
絶叫だけがイクじゃない
『静かな自慰』
『声あげなくても感じているよ』
でも、訓練してもらえばクリトリスで連続でイクこともできます^^
『徒然に「電マ」』
「等式」感想です。りん子は8年間、私の許可がないとイケない、だから普段からイクことに対して意識している。イクことを焦らして許可しないと、泣いたり、怒ったり、いじけたり、するりん子の言うことには私は重さを感じる。(笑)
りん子(^-^)10年です、那智さん…。
りん子(^-^)8年間はブログです(笑)
わたしは性の達人でもないし医学的なこともまったく知りません、ただひたすらわたしの経験と想像だけで書きます。
ですから、断定して書きますが、その状況に当てはまっている人を否定しているわけではありません。
『140字もどき』だから、いろいろ大目に見てね^^
男性の射精の『いく』が『上り詰め、頂点に達して、落ちる』だとしたら、女性にとってのそれはクリトリスでオーガズムを得ることだ。
これを『いく』とするならば、それ以外の『いく』表記はすべて違うものだと思っておいたほうがいい。
中でいく、脳でいく、声を聞いただけでいく、これらはどれも射精やクリトリスのように明確に体が頂点に達して(落ちる)わけではないのだ。
中でいくのは当たる場所によってはそれに近いものもあるし、セックスの体位によってはクリトリスも刺激してそのいくと混ざって『いく』になる場合もあるし、最近ではおまんこの周り全体がクリトリスのような快感を得るようになっているので、セックスをしながらおまんこ全体がクリトリスのいくに近い状態になることはあるけど、それでも射精のような放物線を描きはっきりした爆発があるわけではない。
だから、中でいくことは、射精とクリトリスの『いく』と同じだと思わないほうがいい。
(むしろ、中のほうは気持ちよさは持続する)
まして、脳や声だけでなんていうのは、まったく違うもの。
以前のエントリーにも書いたけど、ほとんどのいくは『その気』になっているだけなのだ。
相手による暗示と自己暗示と自己陶酔。
もし何かしらの才能があるとしたら『暗示にかかりやすい』人だというだけだと思っておいたほうがいい。
セックスをして気持ちがいいとは感じるだけでクリトリスのような爆発的な頂点にはならない人も『その気』になればいっていると言えるかもしれないし、好きな男の声を聞いて胸がきゅんとなって子宮がうずいたら、それも『その気』を加えたらいっていることになるのだ。
世の中に氾濫しているイクや逝くやイくを鵜呑みにしないほうがいい。
その縛りは不必要な縛り。
『等式』の中でわたしは昔より『イク』という表現を使わなくなっている。
それはなぜかというと、当初感じていた『イク』より、中も脳もずっとずっと気持ちがよくなっているからだ。
射精やクリトリスのような放物線と頂点を描かないエクスタシーをたくさんたくさん教えてもらい、あの頃の表現に疑問を抱くようになり『イク』に対して慎重に表現したいと思っている。
『イク』と表現しないのは、それ以外の表現ができるほど様々な快感を感じているからなのだ。
そして、かつて『中でいったことがない』ことがコンプレックスに感じていたわたしのような女性がたくさんいると感じているからでもある。
このコンプレックスは『いく』という悪しき慣行の産物。
わたしの変態仲間の女性はセックスで床がびしょ濡れになるほど水分を漏らす。
それが潮とかいうヤツかどうかはわからないけど、彼女は『いく』とは表現していないし、その後ぐったりなんてしないで彼氏と一緒になってせっせと床を拭いている^^
(彼女のフラットなところは魅力だ)
わたしも痣だらけになるほど叩かれても気絶することもない。
2度ほど、そのままウトウトしてしまったことがあるけど、ほとんどは数分だけゴロンとさせてもらったら、那智さんと一緒にサクサクとお風呂に入れる。
人間、そんなに意識なくさないし、いきまくってぐったりなんてならないのだ。
なるとしたら、陶酔しているだけ。
だからね、いかないことをコンプレックスに思うのはやめよう。
何度もいきまくっている女性は、きっと『気持ちいい〜』という感覚が継続しているだけのことで、声を聞いただけでいっちゃう女性は『声を聞いてきゅんとした』ことをいくと表現しているだけだと思おう。
もちろん、それらを『いく』と表現することを否定しているわけではない。
お相手が暗示をかけるのが上手だったりこちら側が感性豊かだったりしたら、それだけでエクスタシーを得ていることだってあるかもしれない。
わたしだって、鞭で意識が混濁して体がガクガク震えるときもあるし、それは『いく』と表現したいなと思うこともある。
浣腸をかけるとクリトリスが敏感になって、トクトクと脈を打つことも『いく』かもしれない。
乳首への刺激だけで脳天まで快感になるなんて、那智さんの開拓と『その気』にさせてもらっている最たるものだ。
それらも人によっては『いく』かもしれないし、わたしのようにまどろっこしく表現するかもしれない。
(那智さんには『イク』とお伝えしていることのほうが多いけど 笑)
何をどう感じ、表現するのは自由だ。
だけど、わたしは『いく』ことへの悪しき慣行をなくしたい。
わたしも含め、しょせん、その気になっているだけのこと。
その気になりやすい人は快感を得るのも早いかもしれないけど、かつてのわたしのようにその気になりにくい女はね、開発する楽しみがあるというもの(笑)
開発する楽しみを殿方に味わってもらうために、その気になりにくい女はきっと大事な存在だよ^^
女も、そして男も『女のいく』の呪縛から解かれたほうがきっと幸せだと思うのだ。
<関連エントリー>
『徒然に「イクこと」1 2 3』
絶叫だけがイクじゃない
『静かな自慰』
『声あげなくても感じているよ』
でも、訓練してもらえばクリトリスで連続でイクこともできます^^
『徒然に「電マ」』
「等式」感想です。りん子は8年間、私の許可がないとイケない、だから普段からイクことに対して意識している。イクことを焦らして許可しないと、泣いたり、怒ったり、いじけたり、するりん子の言うことには私は重さを感じる。(笑)
りん子(^-^)10年です、那智さん…。
りん子(^-^)8年間はブログです(笑)
日記
独り言
あまり長続きしないほうだ。
フィットネスも習い事も那智さん以前の恋愛も。
小さい頃から『やりたい!!』と思い立ってやるところまでは早いのに、いざ始めると、どれも『やりたいこと』ではなくなっている^^;
恋愛も同じ。
カーッと熱を上げるけど、あるとき急に冷めてしまって、いったいこの男性のどこが好きだったんだろう?とまで思ってしまう。
これって性格的に欠陥があるとは思うんだけど、那智さんや『等式』は長続きしているところを見るときっと好きなものは普通に続くのだよね。
ということは、わたしの性格的欠陥は『長続きしない』ではなく『本当の好きがわかっていない』ことだったのかなと、いま書きながら思った。
そういえば、わりと好きなものはずっと好きでいる。
台湾料理もステーキハウスもいつも同じメニューがいいし、好きな服はかなり着倒してしまうしね。
好きなものはずっと好き、飽きない性格なんだ、本来は。
この年になってこうやって自分のことを知っていく、言語化するって大事だね〜^^
と、脈絡なく書いておりますが。
じつは三日坊主の代名詞でもある日記もわりと長く続いたほうなのだ。
とはいえ、中学から20才すぎくらいまでなので、8、9年というところなのでノート何十冊なんて人からしたら、たいしたことではないけれど、わたしにしては続いたほうだ。
ということは、好きだったんだね^^
好きなもの、好きな人は長続きする、当たり前のことか^^;
で、その日記、長続きした理由のひとつは毎日を義務づけなかったこともある。
好きなときに書く、書きたいことがあったら書く、そんなふうにしていたから続けられたのだろうな。
だいたい1年で1冊のペースだったと思う。
社会人になってからはペースも落ちたから平均してだけど、だから全部で8冊くらいにはなっているんじゃないかな。
あまりに羞恥の歴史ゆえ、押し入れの天袋の奥の奥に『封印』してあるので引っぱり出す勇気はないのだけど、たしかそれくらい。
毎回好きなノートを選んでいた。
超シンプルなものとか、お気に入りのイラストやキャラクターとか、同じノートを使い続ける拘り派ではなかった。
で、ああ、これは羞恥歴史なんだけど、毎回タイトルをつけていのよ!!
いま、記憶に残っているのは3冊分。
ひとつは『りん子の青春日記』的なオリジナルタイトル(あんまり恥ずかしいから本物はナイショ^^;)、で、途中から歌のタイトルをそのまま使っていたんだ。
覚えているのはね〜。
『sweet memorise』ご存知聖子ちゃんの、あのペンギンキャラクターのCMソングのタイトル。
もうひとつは、『Almost Paradise』、ひー、恥ずかしい^^;
これは当時流行った映画の挿入歌だ!!
いま、思い出しても、ぜんぜん夢中になった映画じゃないし思い入れのある曲でもないのに、なんでこれにしたのかまったくもって不明。
ただ、当時、直訳して『ほとんど天国』ってどういう意味だ!?と思っていた記憶はあるのでいまも記憶に残っている。
もしかしたら、あのバラードにうっとりしていた可能性もあるから、トホホだ。
たしか、他にも歌のタイトルはあったはず、そのときの好きな曲や思い出とリンクするタイトルなんかで選んでいたな。
タイトルだけでもそうなんだから、内容なんて、もう、羞恥の極み。
熱しやすく冷めやすい恋愛を繰り返していたのだから、これでもかってほど男の子が登場していた。
とはいえ、かなり奥手の女子中高校生だったので恋愛というには幼い感情だったけど。
部活の先輩が好きだと書いてあったと思えば、つまずいたときに「大丈夫?」と声をかけてくれたクラスメイトのK
君にいきなり恋をして、もう先輩のことなんてどうでもよくなるし、そうかと思えば、夢に登場してきたアイドルのファンになってしまったり、片思いよりどりみどり、日々恋に落ちていた^^;
片思いばかりなところもトホホだけど、先輩からK君に鞍替えするときも、『先輩は憧れの人、わたしには遠い存在だったんだ』的なキレイごとの言い訳に酔いしれていて、ただ単に優しい言葉に目移りしたってだけなのに、もう、ホントりん子しっかりしろ!!と往復ビンタしてやりたい。
毎度毎度運命の人に出会い、急激に冷め、すぐ次の一生片思いでもいい!!と思う人に巡り会う。
これで次々男の子を虜にして蝶のようにヒラヒラ遊んでいたら、それなりにカッコいいけど、ひたすら片思い、ポエムを書き、ユーミンを聴いてはため息をつき、情けないったらありゃしない。
さすがに本人もこの性格を自覚していき、いつからか1冊ノートが終わるときに、この1冊の間に何人の男の子が好きになったか数えて記すことが恒例行事になってしまっていたほどの大バカぶり。
ふう。
どんなにエントリーの資料になろうとも、やっぱり、恥ずかし過ぎて押し入れから取り出す勇気はない。
ところで、那智さんは最近、どうも物忘れが激しくなってきたのだそうだ。
やはり寄る年波には勝てないのか、それとも、たまたまいろいろ抱えてしまっているからか、『あれ、どこいったかな』ということが頻発している。
那智さんとわたし、ちょっと似ているところがあって、わりと定位置に物を戻さないみたいなんだ。
わたしは【ギャンブル】と思っているのでなくなる率は高いんだけど、那智さんの場合は、おそらく、記憶に残せるという自負がそうさせているみたいなので、いままではそこそこ問題ないみたいだったのだ。
でも、このところ、その記憶に残るが危ういらしい。
記憶というのはハッキリとした記憶と、自分ならあそこかあそこに置くだろうという経験測からの記憶(記憶って言わないかな^^;)があると思うのだけど、那智さんの場合もともと後者を頼りにしていた節があって、それが最近ちょこちょこハズレてしまっているのだそうだ。
あるはずのところにない。
いくつかしまいそうなところを当たってみてもない。
ただ、それは『失くした』とは言わないそうだ。
なぜなら、ここまでは持っていた記憶はあったりするから。
ここか、もうひとつのお仕事場のどこかにある、それは失くしたとは言わず、いまは見当たらないになる。
だから、半年でも1年でも見当たらない状態のものもあるかもしれないのね。
現に、数ヶ月後に見つけたりしている^^
そういうことを聞いても、ちょっとは気になるけど、まあ、那智さんが不便していなかれば、あとは本人がなんとかするだろうと思って、それほど気にかけていないのだけど(とても困っていたら、すごく心配しちゃうけど)、先日、お道具を入れた袋が見当たらないと聞いたときには、さすがに『いや、それはちょっと待って!!』という気持ちになってしまった。
通帳が見当たらないと聞いたときよりも衝撃(笑)
誰かに見つかったらどうするのですか!!
でも、犯罪に繋がるものじゃないから、平気でしょ(笑)
まあ、たしかに、鞭もバイブも洗濯バサミも人殺しには使いません。
それでも、誰かに見つからないほうがいいに決まってます。
そんな心配はもちろんだけど、やはり、わたしが一番心を揺さぶられたのは、ゴムのバラ鞭だった。
角が削れるほど打たれた。
あれには本当にたくさんの思い入れがある。
それがなくなってしまったら本当に悲しいと思うのだ。
けして、責めてもらえないからとか、わたしが決死の覚悟でラブホに取りに行ったのに!!とか、そういう邪念からの気持ちではない(ない)
特別思い入れのある鞭だから。
きっとそのうち見つかってくれるとは思うけど、それまでちょっと残念で心配な気持ちは残るな。
(だから、邪念はないって 笑)
あのとき、もうひとつの仕事場に人がいるのわかっていたから、ここに置いていったのは覚えているんだよな
どこに入れたのか、思い出せないんだよ(笑)
記憶を辿る那智さん。
わたしもスマホの日記アプリに書いている簡単な日記を振り返り、那智さんの記憶を辿るお手伝いをする。
そう、昔のように何かあったときだけ、本当にメモ程度に残していたんだ。
それでも、結局わからずじまいだったけど、これは今後使えるかもしれないと那智さんに日記をオススメしてみた。
毎日書くのではなくて、ホントにひと言、何かあったときに記しておくだけで後々役に立つことありますよ。
そういって、わたしが使っているアプリを紹介する。
わたし、滅多に人に物をススメないんだけど、那智さんが困っているのなら話しは別(邪念、じゃなくてね しつこい 笑)。
ちょっと二の足を踏む那智さんに聞いてみる。
那智さん、日記つけたことありますか?
ない
即答!!
3日と続かない
断言!!
そうですよね。
那智さんと日記、どう考えても結びつきませんよね^^;
でも、いい機会だから、やってみるよ
そういってアプリをダウンロードしてくれた。
慣れるまでは付き合うように言われたので、お帰りのタイミングにお声かけしてみよう^^
でもね、過ぎた日を思い出せるのってけっこう楽しいものですよ。
ブログのネタにもなりますし^^
ということで、那智さん人生初の日記。
どれだけ続くかわかりませんが、皆さんもどうか応援して差し上げてくださいませ^^
このエントリー、那智さんに日記をオススメする下りが楽しかったので「ネタにならない?」と提案されたから書きはじめてみたけど、結局、わたしの羞恥歴史のほうが本題みたいになっちゃった^^;
追伸
お道具袋は無事見つかりました。
お仕事場の仮眠室のベッド、お布団の中に入っていたそうです。
お仕事場に急遽来客があって咄嗟にベッドにガサッと隠したのだけど、それを忘れていたそうです。
大事に至らなくてホッとしているけど、これって、急に母親が部屋に入ってきて咄嗟にエロ本を隠す『中学生的思考回路』の名残みたいですよね^^
<関連エントリー>
アホな子どもでした^^;
『妄想少女』
『ギャンブル』
「等式」感想です。日記は11月26日から書いていませんが、一応続いています。しかし、昔のズリネタは本形式でしたのでかなり、かさばりました。今は、きっと、パソコンだと思うので管理は楽ですが、履歴やCooki(スペル知りません)はこまりますよね。今の私も同じで履歴を残さない設定にしている私もかなり不自然です。(笑)
あまり長続きしないほうだ。
フィットネスも習い事も那智さん以前の恋愛も。
小さい頃から『やりたい!!』と思い立ってやるところまでは早いのに、いざ始めると、どれも『やりたいこと』ではなくなっている^^;
恋愛も同じ。
カーッと熱を上げるけど、あるとき急に冷めてしまって、いったいこの男性のどこが好きだったんだろう?とまで思ってしまう。
これって性格的に欠陥があるとは思うんだけど、那智さんや『等式』は長続きしているところを見るときっと好きなものは普通に続くのだよね。
ということは、わたしの性格的欠陥は『長続きしない』ではなく『本当の好きがわかっていない』ことだったのかなと、いま書きながら思った。
そういえば、わりと好きなものはずっと好きでいる。
台湾料理もステーキハウスもいつも同じメニューがいいし、好きな服はかなり着倒してしまうしね。
好きなものはずっと好き、飽きない性格なんだ、本来は。
この年になってこうやって自分のことを知っていく、言語化するって大事だね〜^^
と、脈絡なく書いておりますが。
じつは三日坊主の代名詞でもある日記もわりと長く続いたほうなのだ。
とはいえ、中学から20才すぎくらいまでなので、8、9年というところなのでノート何十冊なんて人からしたら、たいしたことではないけれど、わたしにしては続いたほうだ。
ということは、好きだったんだね^^
好きなもの、好きな人は長続きする、当たり前のことか^^;
で、その日記、長続きした理由のひとつは毎日を義務づけなかったこともある。
好きなときに書く、書きたいことがあったら書く、そんなふうにしていたから続けられたのだろうな。
だいたい1年で1冊のペースだったと思う。
社会人になってからはペースも落ちたから平均してだけど、だから全部で8冊くらいにはなっているんじゃないかな。
あまりに羞恥の歴史ゆえ、押し入れの天袋の奥の奥に『封印』してあるので引っぱり出す勇気はないのだけど、たしかそれくらい。
毎回好きなノートを選んでいた。
超シンプルなものとか、お気に入りのイラストやキャラクターとか、同じノートを使い続ける拘り派ではなかった。
で、ああ、これは羞恥歴史なんだけど、毎回タイトルをつけていのよ!!
いま、記憶に残っているのは3冊分。
ひとつは『りん子の青春日記』的なオリジナルタイトル(あんまり恥ずかしいから本物はナイショ^^;)、で、途中から歌のタイトルをそのまま使っていたんだ。
覚えているのはね〜。
『sweet memorise』ご存知聖子ちゃんの、あのペンギンキャラクターのCMソングのタイトル。
もうひとつは、『Almost Paradise』、ひー、恥ずかしい^^;
これは当時流行った映画の挿入歌だ!!
いま、思い出しても、ぜんぜん夢中になった映画じゃないし思い入れのある曲でもないのに、なんでこれにしたのかまったくもって不明。
ただ、当時、直訳して『ほとんど天国』ってどういう意味だ!?と思っていた記憶はあるのでいまも記憶に残っている。
もしかしたら、あのバラードにうっとりしていた可能性もあるから、トホホだ。
たしか、他にも歌のタイトルはあったはず、そのときの好きな曲や思い出とリンクするタイトルなんかで選んでいたな。
タイトルだけでもそうなんだから、内容なんて、もう、羞恥の極み。
熱しやすく冷めやすい恋愛を繰り返していたのだから、これでもかってほど男の子が登場していた。
とはいえ、かなり奥手の女子中高校生だったので恋愛というには幼い感情だったけど。
部活の先輩が好きだと書いてあったと思えば、つまずいたときに「大丈夫?」と声をかけてくれたクラスメイトのK
君にいきなり恋をして、もう先輩のことなんてどうでもよくなるし、そうかと思えば、夢に登場してきたアイドルのファンになってしまったり、片思いよりどりみどり、日々恋に落ちていた^^;
片思いばかりなところもトホホだけど、先輩からK君に鞍替えするときも、『先輩は憧れの人、わたしには遠い存在だったんだ』的なキレイごとの言い訳に酔いしれていて、ただ単に優しい言葉に目移りしたってだけなのに、もう、ホントりん子しっかりしろ!!と往復ビンタしてやりたい。
毎度毎度運命の人に出会い、急激に冷め、すぐ次の一生片思いでもいい!!と思う人に巡り会う。
これで次々男の子を虜にして蝶のようにヒラヒラ遊んでいたら、それなりにカッコいいけど、ひたすら片思い、ポエムを書き、ユーミンを聴いてはため息をつき、情けないったらありゃしない。
さすがに本人もこの性格を自覚していき、いつからか1冊ノートが終わるときに、この1冊の間に何人の男の子が好きになったか数えて記すことが恒例行事になってしまっていたほどの大バカぶり。
ふう。
どんなにエントリーの資料になろうとも、やっぱり、恥ずかし過ぎて押し入れから取り出す勇気はない。
ところで、那智さんは最近、どうも物忘れが激しくなってきたのだそうだ。
やはり寄る年波には勝てないのか、それとも、たまたまいろいろ抱えてしまっているからか、『あれ、どこいったかな』ということが頻発している。
那智さんとわたし、ちょっと似ているところがあって、わりと定位置に物を戻さないみたいなんだ。
わたしは【ギャンブル】と思っているのでなくなる率は高いんだけど、那智さんの場合は、おそらく、記憶に残せるという自負がそうさせているみたいなので、いままではそこそこ問題ないみたいだったのだ。
でも、このところ、その記憶に残るが危ういらしい。
記憶というのはハッキリとした記憶と、自分ならあそこかあそこに置くだろうという経験測からの記憶(記憶って言わないかな^^;)があると思うのだけど、那智さんの場合もともと後者を頼りにしていた節があって、それが最近ちょこちょこハズレてしまっているのだそうだ。
あるはずのところにない。
いくつかしまいそうなところを当たってみてもない。
ただ、それは『失くした』とは言わないそうだ。
なぜなら、ここまでは持っていた記憶はあったりするから。
ここか、もうひとつのお仕事場のどこかにある、それは失くしたとは言わず、いまは見当たらないになる。
だから、半年でも1年でも見当たらない状態のものもあるかもしれないのね。
現に、数ヶ月後に見つけたりしている^^
そういうことを聞いても、ちょっとは気になるけど、まあ、那智さんが不便していなかれば、あとは本人がなんとかするだろうと思って、それほど気にかけていないのだけど(とても困っていたら、すごく心配しちゃうけど)、先日、お道具を入れた袋が見当たらないと聞いたときには、さすがに『いや、それはちょっと待って!!』という気持ちになってしまった。
通帳が見当たらないと聞いたときよりも衝撃(笑)
誰かに見つかったらどうするのですか!!
でも、犯罪に繋がるものじゃないから、平気でしょ(笑)
まあ、たしかに、鞭もバイブも洗濯バサミも人殺しには使いません。
それでも、誰かに見つからないほうがいいに決まってます。
そんな心配はもちろんだけど、やはり、わたしが一番心を揺さぶられたのは、ゴムのバラ鞭だった。
角が削れるほど打たれた。
あれには本当にたくさんの思い入れがある。
それがなくなってしまったら本当に悲しいと思うのだ。
けして、責めてもらえないからとか、わたしが決死の覚悟でラブホに取りに行ったのに!!とか、そういう邪念からの気持ちではない(ない)
特別思い入れのある鞭だから。
きっとそのうち見つかってくれるとは思うけど、それまでちょっと残念で心配な気持ちは残るな。
(だから、邪念はないって 笑)
あのとき、もうひとつの仕事場に人がいるのわかっていたから、ここに置いていったのは覚えているんだよな
どこに入れたのか、思い出せないんだよ(笑)
記憶を辿る那智さん。
わたしもスマホの日記アプリに書いている簡単な日記を振り返り、那智さんの記憶を辿るお手伝いをする。
そう、昔のように何かあったときだけ、本当にメモ程度に残していたんだ。
それでも、結局わからずじまいだったけど、これは今後使えるかもしれないと那智さんに日記をオススメしてみた。
毎日書くのではなくて、ホントにひと言、何かあったときに記しておくだけで後々役に立つことありますよ。
そういって、わたしが使っているアプリを紹介する。
わたし、滅多に人に物をススメないんだけど、那智さんが困っているのなら話しは別(邪念、じゃなくてね しつこい 笑)。
ちょっと二の足を踏む那智さんに聞いてみる。
那智さん、日記つけたことありますか?
ない
即答!!
3日と続かない
断言!!
そうですよね。
那智さんと日記、どう考えても結びつきませんよね^^;
でも、いい機会だから、やってみるよ
そういってアプリをダウンロードしてくれた。
慣れるまでは付き合うように言われたので、お帰りのタイミングにお声かけしてみよう^^
でもね、過ぎた日を思い出せるのってけっこう楽しいものですよ。
ブログのネタにもなりますし^^
ということで、那智さん人生初の日記。
どれだけ続くかわかりませんが、皆さんもどうか応援して差し上げてくださいませ^^
このエントリー、那智さんに日記をオススメする下りが楽しかったので「ネタにならない?」と提案されたから書きはじめてみたけど、結局、わたしの羞恥歴史のほうが本題みたいになっちゃった^^;
追伸
お道具袋は無事見つかりました。
お仕事場の仮眠室のベッド、お布団の中に入っていたそうです。
お仕事場に急遽来客があって咄嗟にベッドにガサッと隠したのだけど、それを忘れていたそうです。
大事に至らなくてホッとしているけど、これって、急に母親が部屋に入ってきて咄嗟にエロ本を隠す『中学生的思考回路』の名残みたいですよね^^
<関連エントリー>
アホな子どもでした^^;
『妄想少女』
『ギャンブル』
「等式」感想です。日記は11月26日から書いていませんが、一応続いています。しかし、昔のズリネタは本形式でしたのでかなり、かさばりました。今は、きっと、パソコンだと思うので管理は楽ですが、履歴やCooki(スペル知りません)はこまりますよね。今の私も同じで履歴を残さない設定にしている私もかなり不自然です。(笑)
映画と小説(追記あり)
独り言
小説が映画になるっていうのはたーくさんあるよね。
でも、わたしはあまり映画を観るほうじゃないし小説も偏ったものしか読まないから、このケースを意識してみたことはないんだけど、けっこうたくさんあるはず。
知らずに観ているけど原作が存在していたなんてこと、きっとたくさんあるんだろうな。
両方とも見たというケースでサクッと思い出せるのは『ミザリー』と『羊たちの沈黙』のふた作品。
たしか、『ミザリー』は先に映画を観てから小説を読んで羊たちの沈黙は小説を読んだ後映画を観たんだ。
キャシー・ベイツの鬼気迫る演技を思い出しながら文字を追っていくのはより生々しく感じられたし、後から細かい仕掛けや心理描写が読めるのは映画の補足みたいだった。
でも、いや〜〜、小説のほうが残酷じゃん!!と思ったり、ひそかに漂うスティーブン・キングのユーモアは小説にしかないなぁと作家の意図との相違に気づいたりとか、いろいろ種明かしだった。
先に小説を読んだ『羊たちの沈黙』は逆の意味の種明かし。
レクターの拘束具の描写や精神病院の様子を読みながら、その形状や色合いを想像し、『皮を剥ぐ』なんてシーンでは怖くてゾクゾクしながらすごーーく想像してた^^;
その想像が映像で見て、ひとつひとつ種明かし。
心理的な攻防も予備知識があったぶん、より深く観ることができたと思う。
総じて、どうしたって何百ページもある小説を2時間で収めようとして駆け足になってしまうから小説のほうが『おもしろい』とは思うけど、両方知っているというのはたくさんの種明かしができることに変わりない。
いま、じつは、ちょっとその両方で迷っていることがある。
『ミザリー』も『羊たちの沈黙』もたまたま読んだ小説が映画になっていたり、映画を観た後に原作を読んでみようと思ったりの偶然の産物なんだけど、いま、わたしにはその両方が目の前に並んでいて「どっちを先にする?」と問いかけられているのだ。
わたしは映画もドラマもあまり見ないけど(今年話題のあまちゃんも半沢直樹も見ていない^^;)、三谷幸喜さんは好きで見ている。
わたしの『最高のシナリオ』ドラマ部門は『王様のレストラン』なのは未だに不動の地位を保っている。
その三谷幸喜さんの映画が公開になるのだ。
そして、原作の小説はすでに書店に並んで、ずいぶん経っている。
映画公開が話題になった頃、図書館で予約をしたら何百とすでに予約が入っていて、まあ、映画と本、どっちが先かなぁと悠長にかまえていたら、1年経って公開を2ヶ月後に控えても、まだ何十人待ち状態。
このままだと映画公開のほうが先になりそうだ。
まあ、それは最初から選択肢のひとつだったのだけど、人って『ダメよ』って決まると惜しいと思ってしまう生き物。
なんだか妙に小説を読みたくなってしまった。
しかも徐々にキャストが発表されたり、予告ムービーも登場したりしてくると、『水曜どうでしょう』好きとしては大泉洋さんの秀吉がどんな人物に描かれているか気になるし、三谷幸喜さん本人の配役の解説を読むと「そうそう、佐藤浩市さんって二枚目以外もいいんだよね〜」とも思うし、配役を思い描きながら小説を読んだら、さぞかしおもしろいだろうと、さらに読みたくなる。
でもね〜、この手の喜劇はどんでん返しもあったりして、それは知らないほうが絶対たのしいんだ。
どんでん返しは文字より映像のほうがインパクトがあると思うんだ。
でもさぁ、けっこう小細工利かせたりしていそうだから、そういうのを小説を読んで知っておいてもいいかもよ〜。
ひとりで揺れに揺れているわけです。
ということで、映画公開と小説、目の前に両方並んでいたら、どうする?
と皆さんなりに答えを考えていただくような書き方をして、ご存知の通り、これは2ヶ月後にアップされるわけで、皆さんがこれをご覧になっている『いま』はすでに公開を終えた後。
わたしがどちらを選んだかの答えも出ているわけですね。
こんな投げかけをしているのだから、更新日を公開前にしておいてもいいのだけど、答え合わせも楽しいかと思い、ほぼはじめての『続きを読む』機能を使います!!
『続きを読む』をクリックしていただくとわたしがどうしたかが書かれています。
自分だったら?の答えを出してから読んでいただいたほうがたのしいと思いますので、是非、いま一度、ひと呼吸入れてから。
それでは『続きを読む』をどうぞ〜。
追記のお知らせ^^;
パソコンから『続きを読む』をご覧いただくにはエントリー上部タイトルか『最新記事』でタイトルをクリックするようです。
よく文末に『続きを読む』ってあるからそうなるかと思ったら、違った〜。
このテンプレートがそうならないのかな。
とにかく、わかりづらくてごめんなさい。
慣れないことはしないほうがいいね^^;
「等式」感想です。文章としては理解出来ますがその行動、マゾなのか気合いの勇士なのか。(笑) たまにはクレーム。 オマンコを伏せ字にせず、通常の名称の伏せ字は止めて欲しい。本当に解らない伏せ字ならともかく、今回は酷すぎる印象です。
小説が映画になるっていうのはたーくさんあるよね。
でも、わたしはあまり映画を観るほうじゃないし小説も偏ったものしか読まないから、このケースを意識してみたことはないんだけど、けっこうたくさんあるはず。
知らずに観ているけど原作が存在していたなんてこと、きっとたくさんあるんだろうな。
両方とも見たというケースでサクッと思い出せるのは『ミザリー』と『羊たちの沈黙』のふた作品。
たしか、『ミザリー』は先に映画を観てから小説を読んで羊たちの沈黙は小説を読んだ後映画を観たんだ。
キャシー・ベイツの鬼気迫る演技を思い出しながら文字を追っていくのはより生々しく感じられたし、後から細かい仕掛けや心理描写が読めるのは映画の補足みたいだった。
でも、いや〜〜、小説のほうが残酷じゃん!!と思ったり、ひそかに漂うスティーブン・キングのユーモアは小説にしかないなぁと作家の意図との相違に気づいたりとか、いろいろ種明かしだった。
先に小説を読んだ『羊たちの沈黙』は逆の意味の種明かし。
レクターの拘束具の描写や精神病院の様子を読みながら、その形状や色合いを想像し、『皮を剥ぐ』なんてシーンでは怖くてゾクゾクしながらすごーーく想像してた^^;
その想像が映像で見て、ひとつひとつ種明かし。
心理的な攻防も予備知識があったぶん、より深く観ることができたと思う。
総じて、どうしたって何百ページもある小説を2時間で収めようとして駆け足になってしまうから小説のほうが『おもしろい』とは思うけど、両方知っているというのはたくさんの種明かしができることに変わりない。
いま、じつは、ちょっとその両方で迷っていることがある。
『ミザリー』も『羊たちの沈黙』もたまたま読んだ小説が映画になっていたり、映画を観た後に原作を読んでみようと思ったりの偶然の産物なんだけど、いま、わたしにはその両方が目の前に並んでいて「どっちを先にする?」と問いかけられているのだ。
わたしは映画もドラマもあまり見ないけど(今年話題のあまちゃんも半沢直樹も見ていない^^;)、三谷幸喜さんは好きで見ている。
わたしの『最高のシナリオ』ドラマ部門は『王様のレストラン』なのは未だに不動の地位を保っている。
その三谷幸喜さんの映画が公開になるのだ。
そして、原作の小説はすでに書店に並んで、ずいぶん経っている。
映画公開が話題になった頃、図書館で予約をしたら何百とすでに予約が入っていて、まあ、映画と本、どっちが先かなぁと悠長にかまえていたら、1年経って公開を2ヶ月後に控えても、まだ何十人待ち状態。
このままだと映画公開のほうが先になりそうだ。
まあ、それは最初から選択肢のひとつだったのだけど、人って『ダメよ』って決まると惜しいと思ってしまう生き物。
なんだか妙に小説を読みたくなってしまった。
しかも徐々にキャストが発表されたり、予告ムービーも登場したりしてくると、『水曜どうでしょう』好きとしては大泉洋さんの秀吉がどんな人物に描かれているか気になるし、三谷幸喜さん本人の配役の解説を読むと「そうそう、佐藤浩市さんって二枚目以外もいいんだよね〜」とも思うし、配役を思い描きながら小説を読んだら、さぞかしおもしろいだろうと、さらに読みたくなる。
でもね〜、この手の喜劇はどんでん返しもあったりして、それは知らないほうが絶対たのしいんだ。
どんでん返しは文字より映像のほうがインパクトがあると思うんだ。
でもさぁ、けっこう小細工利かせたりしていそうだから、そういうのを小説を読んで知っておいてもいいかもよ〜。
ひとりで揺れに揺れているわけです。
ということで、映画公開と小説、目の前に両方並んでいたら、どうする?
と皆さんなりに答えを考えていただくような書き方をして、ご存知の通り、これは2ヶ月後にアップされるわけで、皆さんがこれをご覧になっている『いま』はすでに公開を終えた後。
わたしがどちらを選んだかの答えも出ているわけですね。
こんな投げかけをしているのだから、更新日を公開前にしておいてもいいのだけど、答え合わせも楽しいかと思い、ほぼはじめての『続きを読む』機能を使います!!
『続きを読む』をクリックしていただくとわたしがどうしたかが書かれています。
自分だったら?の答えを出してから読んでいただいたほうがたのしいと思いますので、是非、いま一度、ひと呼吸入れてから。
それでは『続きを読む』をどうぞ〜。
追記のお知らせ^^;
パソコンから『続きを読む』をご覧いただくにはエントリー上部タイトルか『最新記事』でタイトルをクリックするようです。
よく文末に『続きを読む』ってあるからそうなるかと思ったら、違った〜。
このテンプレートがそうならないのかな。
とにかく、わかりづらくてごめんなさい。
慣れないことはしないほうがいいね^^;
「等式」感想です。文章としては理解出来ますがその行動、マゾなのか気合いの勇士なのか。(笑) たまにはクレーム。 オマンコを伏せ字にせず、通常の名称の伏せ字は止めて欲しい。本当に解らない伏せ字ならともかく、今回は酷すぎる印象です。
抑圧
140字もどき
お笑いコンビの『受精』を題材にしたコントがテレビで放映されていた。
リアルタイムでは見ていないけど、これに抗議の電話が殺到したとネットで話題になったから後日YouTubeで観てみた。
精子と卵子が出会って受精する様子を卵子が事務的に受精を進めるコント、最後はちょっと感動っぽく終わったりして、爆笑ってものじゃないけど、そこそこおもしろかった(わたし、コントっていまいちツボに入らないんだ^^;漫才のほうが好きなの)
『射精』とか『遅漏』とか、なかかなテレビでは聞かない言葉もあったりして、たしかに家族で見ていたら気まずい空気は流れるだろうけど、だからといって、それで苦情の電話が殺到することがイマイチ理解できない。
だって、みんなそれで生まれて来たんだしね^^
もっと性教育をオープンにしたほうがいいと思っているのでわたしには理解できないのだけど、そういう基準の人もいる(しかも殺到するほど!?)のだということは想像はできる。
まあ、そのことが今日の話題じゃないので、あまり詰めない(笑)
なんかね、苦情とか苦言とか、とにかく人が人に『それはどうか?』と意見する場合って、半分くらいは、その意見する人が問題を抱えているのではないかと思っている(半分は譲歩した数字 笑 ホントはほとんどそうだと思ってる)
人は自分が我慢していたり、無理していたり、何か抑圧された状況にあると、そうじゃない人に対して文句を言いたくなるもの。
自分は我慢していると自由な人が羨ましくなる。
嫉妬がクレームになるのだ。
だいたい、自分が自由で満足していれば、人のことなんて気にならないものなんだよ^^
だからね、極論を言ってしまうと、件の抗議の電話をした人の半分(譲歩 笑)は欲求不満なんじゃないだろうか。
自分が大事にされていたりいいセックスをしていたら、人の受精のコントなんて気にならないと思うんだよね。
もちろんね、その状態の人だってクレーマーにならないでいる人がほとんどだろうし、結局はどんな境遇だろうと個々の資質が左右していることは充分理解した上で、人間のそういう心理あるよね?という話題。
で、これが単なるクレーマーならまだいいんだけど、そこに誰かが作った正論とか常識とかを振りかざしてアドバイスという体裁を整えて迫って来られるとホントに厄介。
だって、本人は正しいことしていると思っているんだもの、自分の問題に気づかずに。
わたしはとても偏ったものの見方をしているから、つい、そんなふうに見ちゃうんだ。
よそのブログでときどき見かけるんだけど。
奴隷さんがご主人様に対して、会えなかったり連絡もらえなかったりでネガティブな発言をすると見かけるコメントがある。
『あなたは恵まれている』とか『ご主人様の立場も考えて』とか言って理想の奴隷像を示して、奴隷さんの悲しい気持ちを抑えようとするんだ。
その中にけっこうな頻度で奴隷さんからのものをあったりするの。
同じ立場なのに、なぜかご主人様側に立ってコメントしているんだよね。
そういう同じ奴隷さんからのコメントとか見ると、ああ、コメント寄越した奴隷さんもきっとね、自分も会えなくて寂しいとかいろいろのネガティブ感情を、『奴隷』なんだからって我慢しているんだなって思っちゃう。
自分が抑圧されている(自ら抑圧してもいる)から、同じ事柄を吐露できることが羨ましいんだろうね、でもって、その場所に仲間として留めておきたいんだ。
わたし、つらい人にさらにがんばれっていうの見てるの苦手なんだよね。
本人がつらいんだから、だれがなんと言ったってつらいんだもん。
まして、誰かが作ったかもわからない定義に当てはめてアドバイスしているの見るとイヤな気持ちになっちゃう。
だから、そういうの見ると、ああ、コメントしたあなたも抑圧されているんだねって思って気持ちを収めるように最近はしています。
でね、それをいったら、りん子だってさんざん『主従』やら『ご主人様』やらに苦言を呈していたじゃんか〜って思いますよね^^
だって、憧れていたんだもーんって、憧れているのに那智さん『意識するな』って言ってたんだもーん、ある意味抑圧されていたんだもんね〜(笑)
わたしはちゃんと自覚していますから、お許しくださいませ。
ついでに過去形だから^^
わたしは偏っているから極端な想像だけど、自分も他人も、人の深層の心を探るのはけっこうたのしいものなのだ。
<関連エントリー>
『負に巣食う人々』
「等式」感想です。おもしろい、その通り。しかし、この考え方は那智的思考の一部のような気がします。似るのは良いのですが、悪い部分も似てしまったら困ると思い心配している。もう、これ以上似るのはやめよう~(笑)
お笑いコンビの『受精』を題材にしたコントがテレビで放映されていた。
リアルタイムでは見ていないけど、これに抗議の電話が殺到したとネットで話題になったから後日YouTubeで観てみた。
精子と卵子が出会って受精する様子を卵子が事務的に受精を進めるコント、最後はちょっと感動っぽく終わったりして、爆笑ってものじゃないけど、そこそこおもしろかった(わたし、コントっていまいちツボに入らないんだ^^;漫才のほうが好きなの)
『射精』とか『遅漏』とか、なかかなテレビでは聞かない言葉もあったりして、たしかに家族で見ていたら気まずい空気は流れるだろうけど、だからといって、それで苦情の電話が殺到することがイマイチ理解できない。
だって、みんなそれで生まれて来たんだしね^^
もっと性教育をオープンにしたほうがいいと思っているのでわたしには理解できないのだけど、そういう基準の人もいる(しかも殺到するほど!?)のだということは想像はできる。
まあ、そのことが今日の話題じゃないので、あまり詰めない(笑)
なんかね、苦情とか苦言とか、とにかく人が人に『それはどうか?』と意見する場合って、半分くらいは、その意見する人が問題を抱えているのではないかと思っている(半分は譲歩した数字 笑 ホントはほとんどそうだと思ってる)
人は自分が我慢していたり、無理していたり、何か抑圧された状況にあると、そうじゃない人に対して文句を言いたくなるもの。
自分は我慢していると自由な人が羨ましくなる。
嫉妬がクレームになるのだ。
だいたい、自分が自由で満足していれば、人のことなんて気にならないものなんだよ^^
だからね、極論を言ってしまうと、件の抗議の電話をした人の半分(譲歩 笑)は欲求不満なんじゃないだろうか。
自分が大事にされていたりいいセックスをしていたら、人の受精のコントなんて気にならないと思うんだよね。
もちろんね、その状態の人だってクレーマーにならないでいる人がほとんどだろうし、結局はどんな境遇だろうと個々の資質が左右していることは充分理解した上で、人間のそういう心理あるよね?という話題。
で、これが単なるクレーマーならまだいいんだけど、そこに誰かが作った正論とか常識とかを振りかざしてアドバイスという体裁を整えて迫って来られるとホントに厄介。
だって、本人は正しいことしていると思っているんだもの、自分の問題に気づかずに。
わたしはとても偏ったものの見方をしているから、つい、そんなふうに見ちゃうんだ。
よそのブログでときどき見かけるんだけど。
奴隷さんがご主人様に対して、会えなかったり連絡もらえなかったりでネガティブな発言をすると見かけるコメントがある。
『あなたは恵まれている』とか『ご主人様の立場も考えて』とか言って理想の奴隷像を示して、奴隷さんの悲しい気持ちを抑えようとするんだ。
その中にけっこうな頻度で奴隷さんからのものをあったりするの。
同じ立場なのに、なぜかご主人様側に立ってコメントしているんだよね。
そういう同じ奴隷さんからのコメントとか見ると、ああ、コメント寄越した奴隷さんもきっとね、自分も会えなくて寂しいとかいろいろのネガティブ感情を、『奴隷』なんだからって我慢しているんだなって思っちゃう。
自分が抑圧されている(自ら抑圧してもいる)から、同じ事柄を吐露できることが羨ましいんだろうね、でもって、その場所に仲間として留めておきたいんだ。
わたし、つらい人にさらにがんばれっていうの見てるの苦手なんだよね。
本人がつらいんだから、だれがなんと言ったってつらいんだもん。
まして、誰かが作ったかもわからない定義に当てはめてアドバイスしているの見るとイヤな気持ちになっちゃう。
だから、そういうの見ると、ああ、コメントしたあなたも抑圧されているんだねって思って気持ちを収めるように最近はしています。
でね、それをいったら、りん子だってさんざん『主従』やら『ご主人様』やらに苦言を呈していたじゃんか〜って思いますよね^^
だって、憧れていたんだもーんって、憧れているのに那智さん『意識するな』って言ってたんだもーん、ある意味抑圧されていたんだもんね〜(笑)
わたしはちゃんと自覚していますから、お許しくださいませ。
ついでに過去形だから^^
わたしは偏っているから極端な想像だけど、自分も他人も、人の深層の心を探るのはけっこうたのしいものなのだ。
<関連エントリー>
『負に巣食う人々』
「等式」感想です。おもしろい、その通り。しかし、この考え方は那智的思考の一部のような気がします。似るのは良いのですが、悪い部分も似てしまったら困ると思い心配している。もう、これ以上似るのはやめよう~(笑)