スイッチのないSM
りん子的独り言(生意気)
那智さんにもスイッチは存在していた。
たしか3回目に会ったとき、ロウソクをしたんだ。
このとき両手を拘束して床に転がしたわたしに「見えたら怖いね」と新聞紙をかけて目隠しをした那智さんの表情はいま思い出しても『Sモード』顔だった!!(笑)
そして、きっとわたしもMスイッチを入れていた。
なぜなら、それ以前に和ろうそくを経験していたわたしは赤い低温ロウソクが本当はそれほど怖くなかった、でも、震えたから。
演技をしたつもりはないのでわざと怖がったわけではないけれど、こういう場面では怖がるほうが互いに良い、怖がること真剣に味わうるというMスイッチが入っていたもの。
ところが、いまわたしとの間にはそれは存在していない、というか、那智さんがなくした。
那智さんはもともと演技や型にはまるみたいなことは窮屈だと感じていたので、SMを意識せずわたしとより自然にSM行為ができたほうがラクだと思ったのだ。
ラクなものは楽しいし自由度も増す、そのほうが飽きないから長く楽しむことができる。
那智さんはわたしとの付き合いを長く継続させたい(というか、付き合うならきちんとという考えは元々あった人だけどね)という気持ちがそういう方向に進めたのかもしれない。
たしか4回目にホテルに行ったとき「りん子といると自然でいられてうれしい」故に「自然にSMがしたい」と那智さん宣言したんだ、そして、その後『意識するな』の忠告があって、いまのわたしたちが作られた。
それからSMの最中にわたしはベタベタに甘えるし、那智さんはオナラするし、わたしたちは笑い合う。
厳しい空気にしなくても笑っちゃっても醒めることもなく、SM行為を続け、そして快感を味わっている。
だから、どんな状況でもふたりで満足できて幸福を感じ続けられている。
これは那智さんがスイッチをなくすと宣言して実行した賜物だ。
じゃあ、なぜ、わたしたちはスイッチがなくても醒めることがないのだろう。
手を繋ぐように鞭を打ち、排泄物を手に乗せ、ごく自然にSM行為ができるのだろう。
もちろん、人として尊敬できるということと好意(わたしの場合は強烈な恋愛感情だけど)を持てていることは大前提で。
それはひとつはやはり『SMを意識するな』という意識付けが大きい。
なんでも名前を付けると、どうしても定義のようなものがついて回り『◯◯でなければならない』という縛りが生まれる。
だから、那智さんは自分たちのしていることはSM的行為ではあるけれどSMをしている意識は待たせず、SMから連想させる『◯◯でなければならない』という固定観念を排除した。
Sが最中に笑ってもいいよね。
Mも甘えてもいいよね。
そこに屈辱感なんかなくても、キスをするのと変わらない気持ちで顔を踏まれてもいいよね。
こんなふうに『◯◯とは』を排除していくこと。
そして、もうひとつは。
その行為の根底にあるものが『可愛がる』ことだと明確にしたことも重要だと思う。
何度も書いているけどSM(『奴隷』的なこともね)は矛盾を孕んでいる。
Mにとって被虐は快感なわけだからSがする加虐行為は望むところなのだ、だから、一見酷いことだったとしても、Mにとっては酷いことにならない。
いくら『奴隷に快楽はない』と言っても、その場所に奴隷さんが通うのだから何かしらの快はあるわけで、ご主人様は『快楽を与えている』存在になる。
だから『奴隷に快楽はない』は成立しないのだ。
(本当は喜ばしいことなのに)痛くて泣く、恥ずかしくて抵抗する。
(本当は喜ばしているのに)命令として強制する。
これらの矛盾や無理をオブラートに包み、場合によってはその世界観に酔うようにすることがスイッチだと思う。
でも、那智さんはSMの矛盾を解消するため、また非常識と思われる行為をわたしに自然にするために、それは『可愛がっている』ということにしたのだ。
厳しい雰囲気を作らなくても、何かしらお仕置きの理由付けをしなくても、可愛がっているのだから「痛くてもよかったね〜」になるし、ふたりの間では非常識が非常識ではなくなる。
SMを意識しないこと、『可愛がる』行為にすること、このふたつがスイッチを存在させなくてもSM行為を幸福に継続できる方法なのです。
そして、こんなふうに先を見据えて早い段階から方針を打ち出し、結果を残す、それにより深い幸福と快感をくれ続ける那智さんに対する尊敬と愛情も継続して、上下を保つこともできるのです。
スイッチのないSMの結果はスイッチのない上下関係も作るのですね^^
スイッチのないSM、けっこう幸福ですけど、いかがでしょう^^
<関連エントリー>
ロウソクの思い出
『not favorite』
『3回目の旅2』
毎度おなじみ
『意識するな』
SMの最中にいっぱい笑ってます^^
『笑うSM』
『SMに音楽は必要か』
『スパンキングとイラマチオもどきの間に^^』
「等式」感想です。エントリ―に関しては完璧で捕捉することすらありません。なので昨日のテレビの感想でも、バツイチ女性の10数人がsかmかを問う質問があった。夜中の番組でもないのに最近のsmイメージとして具体的な行為でなく責める人と責められる人、位の感覚で話が進んでいると思うけれど私はネット以外の交友関係でsmの具体的行為をしている人を知りません。(笑)
電車の下げビラに「長澤まさみと熱愛伊勢谷はサディスト」とある、エロでない比較的まじめな週刊誌、そんなにsmは一般的になっているのですかね。(笑)
那智さんにもスイッチは存在していた。
たしか3回目に会ったとき、ロウソクをしたんだ。
このとき両手を拘束して床に転がしたわたしに「見えたら怖いね」と新聞紙をかけて目隠しをした那智さんの表情はいま思い出しても『Sモード』顔だった!!(笑)
そして、きっとわたしもMスイッチを入れていた。
なぜなら、それ以前に和ろうそくを経験していたわたしは赤い低温ロウソクが本当はそれほど怖くなかった、でも、震えたから。
演技をしたつもりはないのでわざと怖がったわけではないけれど、こういう場面では怖がるほうが互いに良い、怖がること真剣に味わうるというMスイッチが入っていたもの。
ところが、いまわたしとの間にはそれは存在していない、というか、那智さんがなくした。
那智さんはもともと演技や型にはまるみたいなことは窮屈だと感じていたので、SMを意識せずわたしとより自然にSM行為ができたほうがラクだと思ったのだ。
ラクなものは楽しいし自由度も増す、そのほうが飽きないから長く楽しむことができる。
那智さんはわたしとの付き合いを長く継続させたい(というか、付き合うならきちんとという考えは元々あった人だけどね)という気持ちがそういう方向に進めたのかもしれない。
たしか4回目にホテルに行ったとき「りん子といると自然でいられてうれしい」故に「自然にSMがしたい」と那智さん宣言したんだ、そして、その後『意識するな』の忠告があって、いまのわたしたちが作られた。
それからSMの最中にわたしはベタベタに甘えるし、那智さんはオナラするし、わたしたちは笑い合う。
厳しい空気にしなくても笑っちゃっても醒めることもなく、SM行為を続け、そして快感を味わっている。
だから、どんな状況でもふたりで満足できて幸福を感じ続けられている。
これは那智さんがスイッチをなくすと宣言して実行した賜物だ。
じゃあ、なぜ、わたしたちはスイッチがなくても醒めることがないのだろう。
手を繋ぐように鞭を打ち、排泄物を手に乗せ、ごく自然にSM行為ができるのだろう。
もちろん、人として尊敬できるということと好意(わたしの場合は強烈な恋愛感情だけど)を持てていることは大前提で。
それはひとつはやはり『SMを意識するな』という意識付けが大きい。
なんでも名前を付けると、どうしても定義のようなものがついて回り『◯◯でなければならない』という縛りが生まれる。
だから、那智さんは自分たちのしていることはSM的行為ではあるけれどSMをしている意識は待たせず、SMから連想させる『◯◯でなければならない』という固定観念を排除した。
Sが最中に笑ってもいいよね。
Mも甘えてもいいよね。
そこに屈辱感なんかなくても、キスをするのと変わらない気持ちで顔を踏まれてもいいよね。
こんなふうに『◯◯とは』を排除していくこと。
そして、もうひとつは。
その行為の根底にあるものが『可愛がる』ことだと明確にしたことも重要だと思う。
何度も書いているけどSM(『奴隷』的なこともね)は矛盾を孕んでいる。
Mにとって被虐は快感なわけだからSがする加虐行為は望むところなのだ、だから、一見酷いことだったとしても、Mにとっては酷いことにならない。
いくら『奴隷に快楽はない』と言っても、その場所に奴隷さんが通うのだから何かしらの快はあるわけで、ご主人様は『快楽を与えている』存在になる。
だから『奴隷に快楽はない』は成立しないのだ。
(本当は喜ばしいことなのに)痛くて泣く、恥ずかしくて抵抗する。
(本当は喜ばしているのに)命令として強制する。
これらの矛盾や無理をオブラートに包み、場合によってはその世界観に酔うようにすることがスイッチだと思う。
でも、那智さんはSMの矛盾を解消するため、また非常識と思われる行為をわたしに自然にするために、それは『可愛がっている』ということにしたのだ。
厳しい雰囲気を作らなくても、何かしらお仕置きの理由付けをしなくても、可愛がっているのだから「痛くてもよかったね〜」になるし、ふたりの間では非常識が非常識ではなくなる。
SMを意識しないこと、『可愛がる』行為にすること、このふたつがスイッチを存在させなくてもSM行為を幸福に継続できる方法なのです。
そして、こんなふうに先を見据えて早い段階から方針を打ち出し、結果を残す、それにより深い幸福と快感をくれ続ける那智さんに対する尊敬と愛情も継続して、上下を保つこともできるのです。
スイッチのないSMの結果はスイッチのない上下関係も作るのですね^^
スイッチのないSM、けっこう幸福ですけど、いかがでしょう^^
<関連エントリー>
ロウソクの思い出
『not favorite』
『3回目の旅2』
毎度おなじみ
『意識するな』
SMの最中にいっぱい笑ってます^^
『笑うSM』
『SMに音楽は必要か』
『スパンキングとイラマチオもどきの間に^^』
「等式」感想です。エントリ―に関しては完璧で捕捉することすらありません。なので昨日のテレビの感想でも、バツイチ女性の10数人がsかmかを問う質問があった。夜中の番組でもないのに最近のsmイメージとして具体的な行為でなく責める人と責められる人、位の感覚で話が進んでいると思うけれど私はネット以外の交友関係でsmの具体的行為をしている人を知りません。(笑)
電車の下げビラに「長澤まさみと熱愛伊勢谷はサディスト」とある、エロでない比較的まじめな週刊誌、そんなにsmは一般的になっているのですかね。(笑)
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COMMENT
こんにちは、りん子さん*
SMスイッチ編、楽しみにしていました♪(*^^*)
この《SMスイッチ》って、大抵の場合は、日常から非日常的な時間へと没頭するための行為(とか、意識など。)を指すのですよね。
わたしもよく「Mスイッチが入ってしまいました…。」なんて使っているのですけれど、
でもそれって、ご主人様とお逢いしていないときにも入ってしまうものなので、
ここで取り上げられている意識的なスイッチとは、違うみたいです。
ご主人様はわたしを縛って遊びながら笑いますし(それどころか時々噴き出しますし!)(!!)、
わたしはベタベタに甘えてしまいますし、
……もしかしてりん子さんのところと同じスタンスなのかな、と、感じて、なんだか嬉しくなりました^^*
*
>なんでも名前を付けると、どうしても定義のようなものがついて回り『◯◯でなければならない』という縛りが生まれる。
>そこに屈辱感なんかなくても、キスをするのと変わらない気持ちで顔を踏まれてもいいよね。
うんうん、そうですよね(*^^*)
お強請りして鞭をもらって うれしくって気持ちよくてしょうがなくって、でも、
段々重くなる痛みに耐えられなくて躰が逃げてしまう――と、ご主人様に笑いながら追いかけられます。(!)
そして最終的には「変態で気持ちよくてよかったなあ。」って。(ご主人様はわたしが嫌がることはしない。)
わたしにとってはキスをおねだりするのも鞭をお強請りするのも感覚的に違いはありません。
SMが目的なのではなくって、SMが愛情表現、なのですよね♪
今回もとっても共感でした(*^^*)
SMスイッチ編、楽しみにしていました♪(*^^*)
この《SMスイッチ》って、大抵の場合は、日常から非日常的な時間へと没頭するための行為(とか、意識など。)を指すのですよね。
わたしもよく「Mスイッチが入ってしまいました…。」なんて使っているのですけれど、
でもそれって、ご主人様とお逢いしていないときにも入ってしまうものなので、
ここで取り上げられている意識的なスイッチとは、違うみたいです。
ご主人様はわたしを縛って遊びながら笑いますし(それどころか時々噴き出しますし!)(!!)、
わたしはベタベタに甘えてしまいますし、
……もしかしてりん子さんのところと同じスタンスなのかな、と、感じて、なんだか嬉しくなりました^^*
*
>なんでも名前を付けると、どうしても定義のようなものがついて回り『◯◯でなければならない』という縛りが生まれる。
>そこに屈辱感なんかなくても、キスをするのと変わらない気持ちで顔を踏まれてもいいよね。
うんうん、そうですよね(*^^*)
お強請りして鞭をもらって うれしくって気持ちよくてしょうがなくって、でも、
段々重くなる痛みに耐えられなくて躰が逃げてしまう――と、ご主人様に笑いながら追いかけられます。(!)
そして最終的には「変態で気持ちよくてよかったなあ。」って。(ご主人様はわたしが嫌がることはしない。)
わたしにとってはキスをおねだりするのも鞭をお強請りするのも感覚的に違いはありません。
SMが目的なのではなくって、SMが愛情表現、なのですよね♪
今回もとっても共感でした(*^^*)
菜々子さん、こんばんは^^
菜々子さんのおっしゃる『Mスイッチ』はマゾ的な欲情のことですものね、わたしが書いた意図的に入れる、もしくは入れることが習慣化しているものとは違うと思います。
わたしだって年がら年中欲情しているわけではないので日常の自分と差があることをスイッチと言っているのではないのです^^
日常から非日常的な時間へと没頭するための行為、うん、そういうこと^^
でも、いいなぁ。
お強請りする自由も逃げちゃう自由も、笑いながら追いかける自由も、ステキ。
付き合いを長く密にするには、この自由は大切。
出会いはSMだったけどどこかの段階でこの自由に切り替えたほうが、長く密でいられるのだと思います^^
甘えるSMがあってもいいよね〜♪
菜々子さんのおっしゃる『Mスイッチ』はマゾ的な欲情のことですものね、わたしが書いた意図的に入れる、もしくは入れることが習慣化しているものとは違うと思います。
わたしだって年がら年中欲情しているわけではないので日常の自分と差があることをスイッチと言っているのではないのです^^
日常から非日常的な時間へと没頭するための行為、うん、そういうこと^^
でも、いいなぁ。
お強請りする自由も逃げちゃう自由も、笑いながら追いかける自由も、ステキ。
付き合いを長く密にするには、この自由は大切。
出会いはSMだったけどどこかの段階でこの自由に切り替えたほうが、長く密でいられるのだと思います^^
甘えるSMがあってもいいよね〜♪
夜と昼の切り替えってことなら、うちにもあると思いますが、それ以外はないかもしれません。
甘えっぱなしなだけ…かもしれませんね。
時々、スイッチ、入りっぱなしなのかもしれないなあ、なんて読んで思いました。
内容がハードだと切り替えないと辛い人もいるのかな、とか。
甘えっぱなしなだけ…かもしれませんね。
時々、スイッチ、入りっぱなしなのかもしれないなあ、なんて読んで思いました。
内容がハードだと切り替えないと辛い人もいるのかな、とか。
りん子さん、こんにちは☆
わたしは、まさにいま「スイッチ」ということで試行錯誤の真っ只中です。
わたしは、頭がかたいのかも。
固定観念に囚われすぎて
そこに縛られ、そうじゃないことが
なんだか不満に感じて……
ぐにゅぐにゅに頭を柔らかくして
もうちょっと、向き合ってみます(*^^*)
わたしは、まさにいま「スイッチ」ということで試行錯誤の真っ只中です。
わたしは、頭がかたいのかも。
固定観念に囚われすぎて
そこに縛られ、そうじゃないことが
なんだか不満に感じて……
ぐにゅぐにゅに頭を柔らかくして
もうちょっと、向き合ってみます(*^^*)
コメントを読みながら、スイッチって『それを入れないと成立しない』というのがひとつの定義かなぁって思いました。
スイッチを入れないと醒めちゃうとか、その気になれないとか。
多少の理不尽を受け入れるためにもスイッチみたいなものは有効だと思うのですが、それを明確にしてコンセンサスを取ることが大事なのでしょうね。
スイッチを入れないと醒めちゃうとか、その気になれないとか。
多少の理不尽を受け入れるためにもスイッチみたいなものは有効だと思うのですが、それを明確にしてコンセンサスを取ることが大事なのでしょうね。
詳細がわからないのだけど、たとえば、お相手は柔軟に変化していこうとしていて、ainaさんはご自分がスイッチというか固定観念に捉われているのかな?
関係性と行為は別だと思うのはどうだろう。
ご主人さま従者であることと、SM的行為がしたいという欲求。
SMカテゴリにいるものとしてはじつは、後者が満たされることはけっこう重要で、これが満たされると自然と関係性はついて来るような気がします。
的外れだったらごめんなさいなんだけど、ainaさんは関係性と行為どちらをいま求めているか考えるのもいいのかなって思いました。
関係性と行為は別だと思うのはどうだろう。
ご主人さま従者であることと、SM的行為がしたいという欲求。
SMカテゴリにいるものとしてはじつは、後者が満たされることはけっこう重要で、これが満たされると自然と関係性はついて来るような気がします。
的外れだったらごめんなさいなんだけど、ainaさんは関係性と行為どちらをいま求めているか考えるのもいいのかなって思いました。
はいd(^_^o)
スイッチのないSMって楽しいし、幸せですよね^^
スイッチのないSMって楽しいし、幸せですよね^^
わあ、賛同の挙手ありがとうございます^^
スイッチのないSM、もっと普及しないかな〜♪
スイッチのないSM、もっと普及しないかな〜♪