徒然に「苦悩」
独り言
解離性同一性障害、いわゆる多重人格というもの。
20代の頃、この障害にとても興味を持ちいろいろな本を読んだ。
とはいえ、難しい文献などには縁のないわたしは精神科医が一般向けに読みやすく書かれているものやノンフィクションくらいしか読んでいないのだけど、でも国内外問わず書店で見かける本はひと通り読んだ。
特に海外の事例は身体的精神的性的虐待の数々あまりに過酷な生活環境のものが多かった。
そんな中生き延びる子供たちの絶望を思い、周囲の大人たちに対する怒りで胸が苦しくなりながら本を閉じそうになったことも何度もあった。
それでも読んだのは、生きるために幼い子が人格を増やし、人格によって筆跡やアレルギー反応まで変えてしまう脳の不思議がわたしを惹きつけたからだ。
でも、それだけじゃない心の奥に気づくとき、わたしはわたしを恐ろしく思うのだ。
わたしは、数々の虐待行為の描写に性的興奮に似たようなものを感じていた。
母親から泡立て器を性器に突っ込まれた幼女に、父親に首まで埋まられおしっこをかけられた少年に、生まれてから数年間地下室で椅子に縛り付けられて保護されるまで一度もその部屋から出ることが許されず歩くことも話すこともままならない、話せるのはスラングと言われる種類のいくつかだけの少女に、わたしはわたしを投影していた。
(一番最後のお話は解離性同一性障害の本じゃなかったな)
そこでしか生きることのできない小さなわたしがあらゆる虐待行為を受ける。
大人からの暴力とセックス受けることが生き延びる術。
そんな想像の子供が自分なのだ、そして、そこに性的興奮を憶える。
自分でいうのもなんだけどわたしは基本的に優しい人だと思っている。
たぶん共感性が強いほうで、人の痛みや悲しみに自分の心を重ねて歯がゆく苦しくなることも多いほうだと思う。
いちおう、善良な人でいるつもりだ(笑)
テレビで虐待やいじめなどのニュースを見るたび、なんともいえない怒りが湧き、やるせない思いを感じる。
だから、大人たちへの怒りやご本人の幸福を願う気持ちは嘘偽りなく存在するはずなのに性的にうずいてしまうことに気づいたとき、恥ずかしくて情けなくて、恐ろしくて、それでも読まずにはいられない自分に心底困惑していた。
人として許されない行為、日常では怒りを憶えるような行為、犯罪やそれに近い行為に性的興奮を憶え、どうしても叶えたい、それに近づきたいと思ってしまうとき、これがマゾというものだとしたら本当に途方に暮れてしまう。
縛られてみたい、恥ずかしい思いをしたいくらいで収まってくれない底に触れる。
普通のりん子が許せないことにマゾのりん子が興奮し、叶えてくれとモンスターが暴れるたびにわたしはわたしのマゾを嫌悪感とともに一生懸命奥底に押し込んでおこうと必死だった。
そんなお話を友達にした。
やはり同じように被虐行為にご自分を投影され同じように恐怖や嫌悪感を持っていたその人は共感してくれた。
そして、こんな言葉を添えてくれた。
でも、救われるのは矢印が自分に向いていることだよね
これはわたしにとって救いの言葉だった。
那智さんはわたしのモンスターを肯定してくれることで安心させ幸福にしてくれたけど、この思考はまた違う種類の救いの言葉だ。
わたしは過酷な虐待行為をされている自分に興奮している。
虐待をしている側や虐待を見ている側に自分を投影しているのではなく、自分に矢印を向けて興奮しているのだ。
自分に矢印が向いている。
小さな子供の自分が酷い扱いを受けていることに興奮する嫌悪感や恐怖は、自分が被害者でいられるのだ。
そう考えると、もしかしたらマゾの苦悩よりサディストのそれのほうが遥かに大きくつらいものなのではないだろうか。
犯罪や虐待行為に興奮し、それを叶えたいと願ってしまう自分に出会うとき人として良識を持ち善良であればあるほど苦悩は大きいのかもしれないと思った。
矢印が他者に向いているサディストの苦悩。
那智さんはどう思うかなとと思って聞いてみた。
たぶん、那智さんはサド的嗜好はものすごく大きいほうではないと思っている。
どちらかというと加虐より支配欲のほうが強いはずなんだ。
だから、わたしが想像するほどの『苦悩』はないかなと思っていたけど、案の定、やはり加虐嗜好ゆえの苦悩はほとんどなかったということだ。
まあ、常に現実的な思考で『叶えちゃダメ』なものと割り切る性格も功を奏しているとも思うけど。
小さい頃は多少あったと思うけど、どんなに酷いことを考えても、それをしないと決めていれば嫌悪感とか苦悩にはならないよ
だって、『しない』と自分が決めればいいんだからね
俺なんか、あらゆる犯罪を妄想ではしてきたよ(笑)
でも、それは妄想だからね
那智さんは加虐嗜好より支配欲が強いはずだから、そう割り切れるのかな。
それとも性格的なことかな。
もしかしたら、性的に比較的自由だった男と不自由な文化にいた女との違いが、性的な妄想に対するハードルを変えているのかもしれない。
ということは、性別として性にタブーが多かった女であって矢印が他者に向いているS女性が一番苦悩していることになる?と想像してみたことを那智さんに話してみるけど、それには賛同いただけなかった。
たしかに、ブログでしか情報はないけれどS女性たちの苦悩ってあまり見たことがないような気がする。
もちろんまったく苦悩がないとは思えないから、立場的に苦悩を表に出せないという苦労もあるとは思うけど、逆にM男性のほうがマゾ的嗜好を持つ苦悩がありそうなイメージもある。
ということは、性差ではなく性癖で苦悩の大きさは変わるのだろうか。
これに関して那智さんの漠然とした考察が納得いく感じがした。
曰く、する側は自分がするしないを決めることができるから苦悩は少なく、される側は非人道的なことを『してほしい』と思う、ある意味他人任せにしないと叶わないことが嫌悪感や罪悪感や恐怖を増やしているのではないか。
なるほど、わたしたち側は、それを表明することではじめて願望が叶う一歩になる。
変態行為をしてほしい、見知らぬ男に輪姦されたい、こんなふうにあり得ない願望を言葉にしないと叶わないということは嫌悪感が増すし、他人任せだからどんな結果になるかもわからないことが恐怖に繋がっているのかもしれない。
単純に、虐待的行為を『したい』より『してほしい』のほうが罪深いのかも、漠然とした想像だけでもうなずける気がする。
上手に考察しきれていないし説明不足だけど、能動か受動かの違いが苦悩の差に表れているのかもしれないね。
ということで、不完全燃焼の徒然にいたします(笑)
どちらが大きいかわからないけど、なければないに越したことのない性癖をパートナーやお友達と分かち合うことでプラスに思えるようになれることはうれしい。
だからね、たまにはサディストである苦悩なんていうのもS側からお聞きしてみたいなって思うのでした^^
クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
『心惹かれること』
『夢見る頃をすぎても1』
『壊れた日』
『いろんな涙4』
『否応なくマゾ』
『O』
「等式」感想です。うーん、(性的に)興奮してはいけない場面で 興奮することは多くの人が経験しているのではないかな。私は少なくとも経験している、ここで、これを想像するのは人否認だろとかね。冒頭、性的ににカッコを付けたが、性的な興奮なのか、別の興奮なのかが判断つかない時もある。(笑)
解離性同一性障害、いわゆる多重人格というもの。
20代の頃、この障害にとても興味を持ちいろいろな本を読んだ。
とはいえ、難しい文献などには縁のないわたしは精神科医が一般向けに読みやすく書かれているものやノンフィクションくらいしか読んでいないのだけど、でも国内外問わず書店で見かける本はひと通り読んだ。
特に海外の事例は身体的精神的性的虐待の数々あまりに過酷な生活環境のものが多かった。
そんな中生き延びる子供たちの絶望を思い、周囲の大人たちに対する怒りで胸が苦しくなりながら本を閉じそうになったことも何度もあった。
それでも読んだのは、生きるために幼い子が人格を増やし、人格によって筆跡やアレルギー反応まで変えてしまう脳の不思議がわたしを惹きつけたからだ。
でも、それだけじゃない心の奥に気づくとき、わたしはわたしを恐ろしく思うのだ。
わたしは、数々の虐待行為の描写に性的興奮に似たようなものを感じていた。
母親から泡立て器を性器に突っ込まれた幼女に、父親に首まで埋まられおしっこをかけられた少年に、生まれてから数年間地下室で椅子に縛り付けられて保護されるまで一度もその部屋から出ることが許されず歩くことも話すこともままならない、話せるのはスラングと言われる種類のいくつかだけの少女に、わたしはわたしを投影していた。
(一番最後のお話は解離性同一性障害の本じゃなかったな)
そこでしか生きることのできない小さなわたしがあらゆる虐待行為を受ける。
大人からの暴力とセックス受けることが生き延びる術。
そんな想像の子供が自分なのだ、そして、そこに性的興奮を憶える。
自分でいうのもなんだけどわたしは基本的に優しい人だと思っている。
たぶん共感性が強いほうで、人の痛みや悲しみに自分の心を重ねて歯がゆく苦しくなることも多いほうだと思う。
いちおう、善良な人でいるつもりだ(笑)
テレビで虐待やいじめなどのニュースを見るたび、なんともいえない怒りが湧き、やるせない思いを感じる。
だから、大人たちへの怒りやご本人の幸福を願う気持ちは嘘偽りなく存在するはずなのに性的にうずいてしまうことに気づいたとき、恥ずかしくて情けなくて、恐ろしくて、それでも読まずにはいられない自分に心底困惑していた。
人として許されない行為、日常では怒りを憶えるような行為、犯罪やそれに近い行為に性的興奮を憶え、どうしても叶えたい、それに近づきたいと思ってしまうとき、これがマゾというものだとしたら本当に途方に暮れてしまう。
縛られてみたい、恥ずかしい思いをしたいくらいで収まってくれない底に触れる。
普通のりん子が許せないことにマゾのりん子が興奮し、叶えてくれとモンスターが暴れるたびにわたしはわたしのマゾを嫌悪感とともに一生懸命奥底に押し込んでおこうと必死だった。
そんなお話を友達にした。
やはり同じように被虐行為にご自分を投影され同じように恐怖や嫌悪感を持っていたその人は共感してくれた。
そして、こんな言葉を添えてくれた。
でも、救われるのは矢印が自分に向いていることだよね
これはわたしにとって救いの言葉だった。
那智さんはわたしのモンスターを肯定してくれることで安心させ幸福にしてくれたけど、この思考はまた違う種類の救いの言葉だ。
わたしは過酷な虐待行為をされている自分に興奮している。
虐待をしている側や虐待を見ている側に自分を投影しているのではなく、自分に矢印を向けて興奮しているのだ。
自分に矢印が向いている。
小さな子供の自分が酷い扱いを受けていることに興奮する嫌悪感や恐怖は、自分が被害者でいられるのだ。
そう考えると、もしかしたらマゾの苦悩よりサディストのそれのほうが遥かに大きくつらいものなのではないだろうか。
犯罪や虐待行為に興奮し、それを叶えたいと願ってしまう自分に出会うとき人として良識を持ち善良であればあるほど苦悩は大きいのかもしれないと思った。
矢印が他者に向いているサディストの苦悩。
那智さんはどう思うかなとと思って聞いてみた。
たぶん、那智さんはサド的嗜好はものすごく大きいほうではないと思っている。
どちらかというと加虐より支配欲のほうが強いはずなんだ。
だから、わたしが想像するほどの『苦悩』はないかなと思っていたけど、案の定、やはり加虐嗜好ゆえの苦悩はほとんどなかったということだ。
まあ、常に現実的な思考で『叶えちゃダメ』なものと割り切る性格も功を奏しているとも思うけど。
小さい頃は多少あったと思うけど、どんなに酷いことを考えても、それをしないと決めていれば嫌悪感とか苦悩にはならないよ
だって、『しない』と自分が決めればいいんだからね
俺なんか、あらゆる犯罪を妄想ではしてきたよ(笑)
でも、それは妄想だからね
那智さんは加虐嗜好より支配欲が強いはずだから、そう割り切れるのかな。
それとも性格的なことかな。
もしかしたら、性的に比較的自由だった男と不自由な文化にいた女との違いが、性的な妄想に対するハードルを変えているのかもしれない。
ということは、性別として性にタブーが多かった女であって矢印が他者に向いているS女性が一番苦悩していることになる?と想像してみたことを那智さんに話してみるけど、それには賛同いただけなかった。
たしかに、ブログでしか情報はないけれどS女性たちの苦悩ってあまり見たことがないような気がする。
もちろんまったく苦悩がないとは思えないから、立場的に苦悩を表に出せないという苦労もあるとは思うけど、逆にM男性のほうがマゾ的嗜好を持つ苦悩がありそうなイメージもある。
ということは、性差ではなく性癖で苦悩の大きさは変わるのだろうか。
これに関して那智さんの漠然とした考察が納得いく感じがした。
曰く、する側は自分がするしないを決めることができるから苦悩は少なく、される側は非人道的なことを『してほしい』と思う、ある意味他人任せにしないと叶わないことが嫌悪感や罪悪感や恐怖を増やしているのではないか。
なるほど、わたしたち側は、それを表明することではじめて願望が叶う一歩になる。
変態行為をしてほしい、見知らぬ男に輪姦されたい、こんなふうにあり得ない願望を言葉にしないと叶わないということは嫌悪感が増すし、他人任せだからどんな結果になるかもわからないことが恐怖に繋がっているのかもしれない。
単純に、虐待的行為を『したい』より『してほしい』のほうが罪深いのかも、漠然とした想像だけでもうなずける気がする。
上手に考察しきれていないし説明不足だけど、能動か受動かの違いが苦悩の差に表れているのかもしれないね。
ということで、不完全燃焼の徒然にいたします(笑)
どちらが大きいかわからないけど、なければないに越したことのない性癖をパートナーやお友達と分かち合うことでプラスに思えるようになれることはうれしい。
だからね、たまにはサディストである苦悩なんていうのもS側からお聞きしてみたいなって思うのでした^^
クリックしていただけるとよろこびます^^
<関連エントリー>
『心惹かれること』
『夢見る頃をすぎても1』
『壊れた日』
『いろんな涙4』
『否応なくマゾ』
『O』
「等式」感想です。うーん、(性的に)興奮してはいけない場面で 興奮することは多くの人が経験しているのではないかな。私は少なくとも経験している、ここで、これを想像するのは人否認だろとかね。冒頭、性的ににカッコを付けたが、性的な興奮なのか、別の興奮なのかが判断つかない時もある。(笑)
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COMMENT
初めてコメントいたします
私は「複数に犯される」ということに
性的興奮を覚える者です
これは自分だけではどうにもならないこと
他者がいて初めて叶うこと
矢印は自分に向いているのだけれど
それを叶えるのは自分ではないというジレンマに
叶えて初めて陥り
また新たな困惑の中にいます
私は「複数に犯される」ということに
性的興奮を覚える者です
これは自分だけではどうにもならないこと
他者がいて初めて叶うこと
矢印は自分に向いているのだけれど
それを叶えるのは自分ではないというジレンマに
叶えて初めて陥り
また新たな困惑の中にいます
SのワタシとMのわたしと。
愛舞音さん
はじめまして、ようこそおいでくださいました♪
矢印は自分に向けているけれど、それを叶えるのは自分ではないというジレンマ、わたしの言いたかったことはこの言葉でした。
ブログという媒体と通しただけで、これを共有することができたことに感激しますし、愛舞音さんの感性に感謝します。
苦悩は苦悩に変わりないんだけど、コメントをいただいてわたしなりに解消方法を想像しました。
長くなりそうですし、できれば他の人にも読んでいただきたいのでエントリーにさせていただきたく思います
お願いします。
キーポイントは『人』です^^
勝手にエントリーにする方向にしてしまって申し訳ありませんが、できるだけ早くアップしますね^^
はじめまして、ようこそおいでくださいました♪
矢印は自分に向けているけれど、それを叶えるのは自分ではないというジレンマ、わたしの言いたかったことはこの言葉でした。
ブログという媒体と通しただけで、これを共有することができたことに感激しますし、愛舞音さんの感性に感謝します。
苦悩は苦悩に変わりないんだけど、コメントをいただいてわたしなりに解消方法を想像しました。
長くなりそうですし、できれば他の人にも読んでいただきたいのでエントリーにさせていただきたく思います
お願いします。
キーポイントは『人』です^^
勝手にエントリーにする方向にしてしまって申し訳ありませんが、できるだけ早くアップしますね^^
ゆう。さん
このエントリーはコメントいただけない種類のものだと思っていたので、コメントいただけて驚いているし、とてもうれしいです。
こういう内容に反応していただける人がいるということはブログをやってきた恩恵です^^
わたしはいつも『される側』にしか投影していないし、性的興奮も憶えないんです。
ホント、いろいろですよね^^、で、それがいいですよね^^
このエントリーはコメントいただけない種類のものだと思っていたので、コメントいただけて驚いているし、とてもうれしいです。
こういう内容に反応していただける人がいるということはブログをやってきた恩恵です^^
わたしはいつも『される側』にしか投影していないし、性的興奮も憶えないんです。
ホント、いろいろですよね^^、で、それがいいですよね^^
ひらめきで出た言葉でしたが
私とりん子さまと似た部分があるのかもしれませんね
この言葉からどんな言葉が導かれるのか
とても楽しみです
私は自分の想いはうまく言葉に出来ないほうなので
(それでもたまにこんなひらめきが舞い降りることも)
こちらのブログを読んで
ああそういうことなのかと思うことが
とても多くあるのです
私とりん子さまと似た部分があるのかもしれませんね
この言葉からどんな言葉が導かれるのか
とても楽しみです
私は自分の想いはうまく言葉に出来ないほうなので
(それでもたまにこんなひらめきが舞い降りることも)
こちらのブログを読んで
ああそういうことなのかと思うことが
とても多くあるのです
愛舞音さん
的外れかもしれませんが、わたしの考えをアップしましたのでよかったらご覧くださいませ。
1エントリー分稼いじゃったです(笑)、ありがとうございます^^
あ、あと『さま』はやめてください^^;テレます(笑)
わたしもみなさんのこと『さん』にしていますので、同じにしてくださると落ち着きます^^
的外れかもしれませんが、わたしの考えをアップしましたのでよかったらご覧くださいませ。
1エントリー分稼いじゃったです(笑)、ありがとうございます^^
あ、あと『さま』はやめてください^^;テレます(笑)
わたしもみなさんのこと『さん』にしていますので、同じにしてくださると落ち着きます^^