連れションはキライ
りん子的独り言(エラそう)
これから書くことは誤解を招いてしまいそうなことで、ちょっとためらうのだけど。
私はこうだということが言いたいだけで、それ以外を否定するつもりはないと思っていただけるとありがたいです。
また、主に実生活でのことを書くので、ネット環境の場合とは違うつもりでいることもご理解ください。
連れションが苦手だ。
女で連れションっていうのも変かな。
もちろん学生の頃だってお友達と一緒にトイレに行っていたから、それがダメと言ってるのではなくて。
『一緒にトイレに行こ〜』ということから連想される付き合い方が苦手。
だから、なるべくそういう付き合いは避けるようにしている。
こういうと割と賛同を得られることが多い。
みんな『連れション』から想像される『べったりと群れる』ことに対して抵抗感があるのだろう。
ただ、多分わたしの『連れション苦手』はかなり群を抜いていると思う。
なぜかというと『連れション』や『群れる』というマイナスな言葉だけでなく、もっと良い印象を感じさせる言葉にも『連れション』を連想して付き合いを選んでいるからだ。
『連れション』の定義がすごく広いみたいなんだ。
だから、実生活の私は極端に女友達が少ない。
遥よこうさんの本を読んで。
私が、一見良い印象を与える関係さえも『連れション』を連想して付き合いを狭めていること。
それ故に、女友達が少ないこと。
このふたつに気づいたので、私にとっての友達とうことを書きたいと思う。
遥ようこさんの『女ともだち』を読んだ。
この人の本は、フェミニズムのフェの字もわからない私に『生きにくさ』の理由をわかりやすく教えてくれた。
『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』をはじめ、数冊読んだ。
『女ともだち』は納得できることとできないこととあったけど、『女に必要なのは女友達と、応援いてくれる男性』ということが書かれている。
その一部で。
木原光知子さんとの交流が書かれていた。
木原さんは遥ようこさんを見込んでいたようで、彼女はとてもお世話になったそうだ。
そこで目上の人、後輩、人との付き合い方や仕事への姿勢、生き方を学ぶ。
男ばかりの中で全力で地位を築いた木原さんは、さすがに迫力のある生き方を彼女に伝授するのだ。
でも、その中で『あれ?』と思う話があった。
『友達というのは、友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』と言っている。
Aと木原さんは友達で、Aは木原さんを介してBと知り合いになる。
ある日木原さんとBが仲違いして絶縁した。
しばらくして、BがAに会いに行ったら、私は木原さんの友達だからあなたとは付き合えないと門前払いしたそうだ。
木原さんはそれがとても嬉しかったそうなのだ。
木原さんたちの付き合いの深さや絶縁の理由がわからないので、恐らく、とても重大なことだったと想像するので、私が想像したこととは次元が違うと思うけど。
この『友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』という言葉に、私は違和感を覚えた。
『友達の味方は、自分の味方』という一見響きの良い言葉に『連れション』を連想してしまったのだ。
木原さんの言葉からは離れているとは思うけど、何度も私は『味方意識』がおかしな方向に転がることを体験している。
そのたびに、『良い響きの言葉』に潜む怖さを体感する。
高校を卒業して最初に就職したところは女ばかりの職場だった。
高卒の女ばかりが集まるので、まあ、それはそれは中学生時代の理不尽な上下関係がそのまま残ったようなところだった。
新入社員は、研那智期間が終わったら別の店舗に移動が決まってる移動組とそのまま残る残留組とに、それぞれ4人ずつ分かれていた。
移動組だった私は化粧っけのない子供っぽい新入社員だったので、全然先輩たちに目をつけられることもなく、むしろ可愛がられたほうだったけど。
ちょっと派手な子たちは『生意気』と言われ、子供のいじめのような仕打ちをされていた。
特に、残留組の『ジョー』(今日は、若草物語で^^;)は、化粧も上手だし、如才ない立ち回りがかえって鼻につくようで何かと風当たりが強かった。
確かに、ひと言多い感じや先輩さえ持っていないようなブランド物を持っていたりして、もうちょっと気を付けた方がいいのにな〜(特に女の園では)と、人ごとながらヒヤヒヤしていた。
ある日、先輩大勢と私の同僚移動組の『ベス』が休憩室にいて、ジョーの話になって盛り上がっていた。
私もその部屋にいたのだけど、その輪には入らずに一人でいた。
ベスは、新入社員だけでいるとき、知らないブランド品や遊びのスポットの話を自慢げにして如何にジョーが生意気な態度でいるか、先輩たちが盛り上がるのをいいことに、あれこれと話していた。
先輩たちはそれを聞いて、今度どんな仕打ちをジョーにするかで、また盛り上がっていた。
休憩時間が終わって、ベスと2人きりになった私は、こっそりとベスに話した。
私たちは3ヶ月すればここからいなくなるけど、ジョーはずっといるわけで今後のことを考えたら、あまり先輩たちの前でジョーのことを悪く言わないほうがいいのではないかな。
悪いところがあるなら、直接ジョーに言って直すなり考えるなりしてもらえばいい。
そうじゃないただのうわさ話なら、軽はずみに先輩たちに言わないほうがいいんじゃない?
『ふ〜ん』とその場では、ベスはそれ以上何も言わなかった。
その日の帰り道。
同じ移動組の同僚『メグ』と『エイミー』がすごい剣幕で私を呼び止めた。
「ねえ、りん子、あんたはどっちの味方なの?!」って。
どうやら、ベスはメグとエイミーに訴えたらしいのだ。
「りん子は、ジョーの味方をした」と。
味方?
びっくりした。
敵か味方かという気持ちで、ベスに話したつもりはない。
先輩だけで言うのはしかたないとしても、ジョーのためにも、そしてベス自身のためにも加わるべきじゃない。
そこに敵も味方もない。
それを説明してもどうもその価値観は通用しないみたいで、その場では私が『裏切り者』になっていた。
1対多数は卑怯だということが伝えられないもどかしい思いをした。
遥ようこさんのお話とこれが一緒だとは思わないけど。
木原さんの言葉を読んで、この新入社員時代の出来事を思い出してしまった。
そうか、敵か味方かという概念で友情を計るなら、私は友達が少ないのは当然なんだ。
だって、私は『味方だから』という感覚が好きじゃないのだもの。
なぜかというと、味方を作るということは、敵もできるということだよね。
そして、その味方と敵のパワーバランスが崩れると、『味方』はあっという間に『壁』になってしまう。
ブログ3周年の時に、村上春樹さんの『常に卵の側に』というスピーチのことを書いた。(『 hotに3周年御礼』)
どんなに間違っていても、壁(多数)に潰される卵(個)がいるなら常に卵の側にいるということ。
この感性が好きだ。
微力でも、そうしていたいと思ってる。
正しいとされていることでも、善意から発生したことでも、それが多数になれば脅威になるのだ。
『味方』のような響きの良い言葉が、瞬く間に壁の脅威になるのを私は何度も見ている。
学校でも職場でも、子供の親の関係でも。
例えば。
給食が食べられなくて、こっそり捨てようとしている子がいたとして、それを見つけた子が『悪いことしてる』と指摘したとする。
それを聞いた友達やクラスメイトは、捨てようとした子を一斉に非難するようなこと。
中には『謝れ』なんて言い出す子もいたりして。
もっと小さなコミュニティーでも、あるよね。
子供の親が集まって、ふと『○○君乱暴だよね』という話題になると、そこから○○君やその親を目の敵にするようなバランスが生まれる。
翌日からの公園の空気が少し変わったりする。
給食を捨てた子も乱暴する子も、悪いかもしれない。
でも、悪いところがあれば個別に指摘すればいいだけのこと、それを集団で非難することは次元が違うと思うのだ。
私はこういう時、巨大な壁が卵を押し潰そうとする感覚を覚える。
『味方』をはじめとする響きの良い言葉でできたコミュニティーが、何かをきっかけに『壁』に変わっていく可能性を孕んでいるなら、そこに身を置きたくないと思う。
もちろん、『壁』にならない良識を持った『味方』関係を作っている方もいるでしょう。
また、ときには『壁』になったとしても、それと同じくらい助け合ったりして頼りになる『仲間』もいるはずで。
それを否定しているのではないのですよ。
いちおう知り合いはたくさんいる。
困ったときに助け合うお付き合いもある。
元の職場や学校関係のコミュニティーだってある。
こういうのを友達というなら、それなりにいるけど。
やはり味方という感覚はないな。
だから『あなたの味方は私の味方』と思えることが友達だと言われれば、誰も友達じゃない。
誰の味方にもならないし、誰の味方にもなる、そういう感覚。
卵になっているから必然的に味方になるということはあっても、はじめから味方かどうかは付き合いの基準にならないのだ。
私は、巨大な壁を食い止める力もないし、壁になる神経もない。
大概、卵と一緒に傷つくか、卵まで壁と迎合して、私だけ潰れるかだ。
ということで、私は『壁』になるのも、誰かを卵にするのもイヤなので、それを避けるために一見良い印象を与える言葉にも怖さを察知してしまうらしい。
だから、『友達の味方は自分の味方』という基準が友達だということに違和感を覚えたのですね。
で、矛盾してるけど、そんな私にも実生活で数少ない『味方』の友達はいる。
味方かどうかで選んでいるのではなくて、いざとなったら絶対に味方しようと思える友達だ。
なぜ、その人たちにはそう思えるかというと。
彼女たちも、また『味方』という概念で友情を育まない人たちだから。
そういう人たちは基本的に『連れション』意識がすごく低いから、グループにはならず個で付き合う人たち。『壁』になる可能性が低い人たちなんだ。
でもって、『味方ね』という付き合いをしない人というのは、割と素っ気ないのだ。
だって、連れションしないのだもの、ひとりでトイレ行っちゃう^^;
近くに住んでいる人とか、比較的交流はあるけど。
ちょっと離れた所に住んでる人なんて、年に1、2回メールをするくらい。
近況なんて、知らない。
ただ、とても大事な局面にはまず連絡をくれるから、それでいいのだ。
(だからね、1年振りに連絡が来て『離婚しようと思ってる』なんて言われる)
多分、木原さんもこれくらいの深さの話をしていたと思うのだけど、どうも私の周りで起こる『味方意識』はもう少し軽いように感じられるから、違和感なんだよね。
『味方』になると公言するのって、本当はすごい責任とパワーがいるはずで。
そう簡単に表に出せるものではないともう思うのだ。
私は数少ない友達のために、それを使いたい。
自分が壁にならないために『連れション』というマイナスイメージだけじゃない、『味方』などなどの響きの良い言葉も判断基準にして選んでいるんだな。
そんなふうに壁になる危険性を排除して、壁にならない個と友情を育むという方法でいる。
でも、こういうスタンスはあまり好かれない^^;
だって、人って『あなたの味方』と言ってくれる人たちのほうが、嬉しいものね。
だから少ないことに納得したんだよね。
良いか悪いか別にして、改めて私の友達付き合いを認識したのでした。
私が、ここで『M女さんの味方だ』とか言えるのは、比較的『壁』と『卵』がわかりやすいからなんんじゃないかな。
だから、ここのほうがお友達多い?(笑)
多分、こういうことを言う私とわかってて許容してくれていると(恐る恐る)思っているから^^
私が仲良くしたいと思う人や面白いと思うことに対して、できるだけ素直にしていられるのだ。
だから、実生活の付き合い方より、もしかしたら伸び伸びとしているかもしれないです。
だって、実生活で『常に卵の側に!!』なんて声高に言っていたら変な人って思われちゃう。
ここでは、すでに『変態』だから、いいのだ^^
なんて、こんな話したら、ここでもお友達減っちゃうかもしれないね^^;
『壁』になりたくなくて。
誰の味方でもないし、誰の味方でもある。
これが私の付き合い方。
そして、それでいいと思っている。
だから、私は連れションがキライだ。
これから書くことは誤解を招いてしまいそうなことで、ちょっとためらうのだけど。
私はこうだということが言いたいだけで、それ以外を否定するつもりはないと思っていただけるとありがたいです。
また、主に実生活でのことを書くので、ネット環境の場合とは違うつもりでいることもご理解ください。
連れションが苦手だ。
女で連れションっていうのも変かな。
もちろん学生の頃だってお友達と一緒にトイレに行っていたから、それがダメと言ってるのではなくて。
『一緒にトイレに行こ〜』ということから連想される付き合い方が苦手。
だから、なるべくそういう付き合いは避けるようにしている。
こういうと割と賛同を得られることが多い。
みんな『連れション』から想像される『べったりと群れる』ことに対して抵抗感があるのだろう。
ただ、多分わたしの『連れション苦手』はかなり群を抜いていると思う。
なぜかというと『連れション』や『群れる』というマイナスな言葉だけでなく、もっと良い印象を感じさせる言葉にも『連れション』を連想して付き合いを選んでいるからだ。
『連れション』の定義がすごく広いみたいなんだ。
だから、実生活の私は極端に女友達が少ない。
遥よこうさんの本を読んで。
私が、一見良い印象を与える関係さえも『連れション』を連想して付き合いを狭めていること。
それ故に、女友達が少ないこと。
このふたつに気づいたので、私にとっての友達とうことを書きたいと思う。
遥ようこさんの『女ともだち』を読んだ。
この人の本は、フェミニズムのフェの字もわからない私に『生きにくさ』の理由をわかりやすく教えてくれた。
『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』をはじめ、数冊読んだ。
『女ともだち』は納得できることとできないこととあったけど、『女に必要なのは女友達と、応援いてくれる男性』ということが書かれている。
その一部で。
木原光知子さんとの交流が書かれていた。
木原さんは遥ようこさんを見込んでいたようで、彼女はとてもお世話になったそうだ。
そこで目上の人、後輩、人との付き合い方や仕事への姿勢、生き方を学ぶ。
男ばかりの中で全力で地位を築いた木原さんは、さすがに迫力のある生き方を彼女に伝授するのだ。
でも、その中で『あれ?』と思う話があった。
『友達というのは、友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』と言っている。
Aと木原さんは友達で、Aは木原さんを介してBと知り合いになる。
ある日木原さんとBが仲違いして絶縁した。
しばらくして、BがAに会いに行ったら、私は木原さんの友達だからあなたとは付き合えないと門前払いしたそうだ。
木原さんはそれがとても嬉しかったそうなのだ。
木原さんたちの付き合いの深さや絶縁の理由がわからないので、恐らく、とても重大なことだったと想像するので、私が想像したこととは次元が違うと思うけど。
この『友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』という言葉に、私は違和感を覚えた。
『友達の味方は、自分の味方』という一見響きの良い言葉に『連れション』を連想してしまったのだ。
木原さんの言葉からは離れているとは思うけど、何度も私は『味方意識』がおかしな方向に転がることを体験している。
そのたびに、『良い響きの言葉』に潜む怖さを体感する。
高校を卒業して最初に就職したところは女ばかりの職場だった。
高卒の女ばかりが集まるので、まあ、それはそれは中学生時代の理不尽な上下関係がそのまま残ったようなところだった。
新入社員は、研那智期間が終わったら別の店舗に移動が決まってる移動組とそのまま残る残留組とに、それぞれ4人ずつ分かれていた。
移動組だった私は化粧っけのない子供っぽい新入社員だったので、全然先輩たちに目をつけられることもなく、むしろ可愛がられたほうだったけど。
ちょっと派手な子たちは『生意気』と言われ、子供のいじめのような仕打ちをされていた。
特に、残留組の『ジョー』(今日は、若草物語で^^;)は、化粧も上手だし、如才ない立ち回りがかえって鼻につくようで何かと風当たりが強かった。
確かに、ひと言多い感じや先輩さえ持っていないようなブランド物を持っていたりして、もうちょっと気を付けた方がいいのにな〜(特に女の園では)と、人ごとながらヒヤヒヤしていた。
ある日、先輩大勢と私の同僚移動組の『ベス』が休憩室にいて、ジョーの話になって盛り上がっていた。
私もその部屋にいたのだけど、その輪には入らずに一人でいた。
ベスは、新入社員だけでいるとき、知らないブランド品や遊びのスポットの話を自慢げにして如何にジョーが生意気な態度でいるか、先輩たちが盛り上がるのをいいことに、あれこれと話していた。
先輩たちはそれを聞いて、今度どんな仕打ちをジョーにするかで、また盛り上がっていた。
休憩時間が終わって、ベスと2人きりになった私は、こっそりとベスに話した。
私たちは3ヶ月すればここからいなくなるけど、ジョーはずっといるわけで今後のことを考えたら、あまり先輩たちの前でジョーのことを悪く言わないほうがいいのではないかな。
悪いところがあるなら、直接ジョーに言って直すなり考えるなりしてもらえばいい。
そうじゃないただのうわさ話なら、軽はずみに先輩たちに言わないほうがいいんじゃない?
『ふ〜ん』とその場では、ベスはそれ以上何も言わなかった。
その日の帰り道。
同じ移動組の同僚『メグ』と『エイミー』がすごい剣幕で私を呼び止めた。
「ねえ、りん子、あんたはどっちの味方なの?!」って。
どうやら、ベスはメグとエイミーに訴えたらしいのだ。
「りん子は、ジョーの味方をした」と。
味方?
びっくりした。
敵か味方かという気持ちで、ベスに話したつもりはない。
先輩だけで言うのはしかたないとしても、ジョーのためにも、そしてベス自身のためにも加わるべきじゃない。
そこに敵も味方もない。
それを説明してもどうもその価値観は通用しないみたいで、その場では私が『裏切り者』になっていた。
1対多数は卑怯だということが伝えられないもどかしい思いをした。
遥ようこさんのお話とこれが一緒だとは思わないけど。
木原さんの言葉を読んで、この新入社員時代の出来事を思い出してしまった。
そうか、敵か味方かという概念で友情を計るなら、私は友達が少ないのは当然なんだ。
だって、私は『味方だから』という感覚が好きじゃないのだもの。
なぜかというと、味方を作るということは、敵もできるということだよね。
そして、その味方と敵のパワーバランスが崩れると、『味方』はあっという間に『壁』になってしまう。
ブログ3周年の時に、村上春樹さんの『常に卵の側に』というスピーチのことを書いた。(『 hotに3周年御礼』)
どんなに間違っていても、壁(多数)に潰される卵(個)がいるなら常に卵の側にいるということ。
この感性が好きだ。
微力でも、そうしていたいと思ってる。
正しいとされていることでも、善意から発生したことでも、それが多数になれば脅威になるのだ。
『味方』のような響きの良い言葉が、瞬く間に壁の脅威になるのを私は何度も見ている。
学校でも職場でも、子供の親の関係でも。
例えば。
給食が食べられなくて、こっそり捨てようとしている子がいたとして、それを見つけた子が『悪いことしてる』と指摘したとする。
それを聞いた友達やクラスメイトは、捨てようとした子を一斉に非難するようなこと。
中には『謝れ』なんて言い出す子もいたりして。
もっと小さなコミュニティーでも、あるよね。
子供の親が集まって、ふと『○○君乱暴だよね』という話題になると、そこから○○君やその親を目の敵にするようなバランスが生まれる。
翌日からの公園の空気が少し変わったりする。
給食を捨てた子も乱暴する子も、悪いかもしれない。
でも、悪いところがあれば個別に指摘すればいいだけのこと、それを集団で非難することは次元が違うと思うのだ。
私はこういう時、巨大な壁が卵を押し潰そうとする感覚を覚える。
『味方』をはじめとする響きの良い言葉でできたコミュニティーが、何かをきっかけに『壁』に変わっていく可能性を孕んでいるなら、そこに身を置きたくないと思う。
もちろん、『壁』にならない良識を持った『味方』関係を作っている方もいるでしょう。
また、ときには『壁』になったとしても、それと同じくらい助け合ったりして頼りになる『仲間』もいるはずで。
それを否定しているのではないのですよ。
いちおう知り合いはたくさんいる。
困ったときに助け合うお付き合いもある。
元の職場や学校関係のコミュニティーだってある。
こういうのを友達というなら、それなりにいるけど。
やはり味方という感覚はないな。
だから『あなたの味方は私の味方』と思えることが友達だと言われれば、誰も友達じゃない。
誰の味方にもならないし、誰の味方にもなる、そういう感覚。
卵になっているから必然的に味方になるということはあっても、はじめから味方かどうかは付き合いの基準にならないのだ。
私は、巨大な壁を食い止める力もないし、壁になる神経もない。
大概、卵と一緒に傷つくか、卵まで壁と迎合して、私だけ潰れるかだ。
ということで、私は『壁』になるのも、誰かを卵にするのもイヤなので、それを避けるために一見良い印象を与える言葉にも怖さを察知してしまうらしい。
だから、『友達の味方は自分の味方』という基準が友達だということに違和感を覚えたのですね。
で、矛盾してるけど、そんな私にも実生活で数少ない『味方』の友達はいる。
味方かどうかで選んでいるのではなくて、いざとなったら絶対に味方しようと思える友達だ。
なぜ、その人たちにはそう思えるかというと。
彼女たちも、また『味方』という概念で友情を育まない人たちだから。
そういう人たちは基本的に『連れション』意識がすごく低いから、グループにはならず個で付き合う人たち。『壁』になる可能性が低い人たちなんだ。
でもって、『味方ね』という付き合いをしない人というのは、割と素っ気ないのだ。
だって、連れションしないのだもの、ひとりでトイレ行っちゃう^^;
近くに住んでいる人とか、比較的交流はあるけど。
ちょっと離れた所に住んでる人なんて、年に1、2回メールをするくらい。
近況なんて、知らない。
ただ、とても大事な局面にはまず連絡をくれるから、それでいいのだ。
(だからね、1年振りに連絡が来て『離婚しようと思ってる』なんて言われる)
多分、木原さんもこれくらいの深さの話をしていたと思うのだけど、どうも私の周りで起こる『味方意識』はもう少し軽いように感じられるから、違和感なんだよね。
『味方』になると公言するのって、本当はすごい責任とパワーがいるはずで。
そう簡単に表に出せるものではないともう思うのだ。
私は数少ない友達のために、それを使いたい。
自分が壁にならないために『連れション』というマイナスイメージだけじゃない、『味方』などなどの響きの良い言葉も判断基準にして選んでいるんだな。
そんなふうに壁になる危険性を排除して、壁にならない個と友情を育むという方法でいる。
でも、こういうスタンスはあまり好かれない^^;
だって、人って『あなたの味方』と言ってくれる人たちのほうが、嬉しいものね。
だから少ないことに納得したんだよね。
良いか悪いか別にして、改めて私の友達付き合いを認識したのでした。
私が、ここで『M女さんの味方だ』とか言えるのは、比較的『壁』と『卵』がわかりやすいからなんんじゃないかな。
だから、ここのほうがお友達多い?(笑)
多分、こういうことを言う私とわかってて許容してくれていると(恐る恐る)思っているから^^
私が仲良くしたいと思う人や面白いと思うことに対して、できるだけ素直にしていられるのだ。
だから、実生活の付き合い方より、もしかしたら伸び伸びとしているかもしれないです。
だって、実生活で『常に卵の側に!!』なんて声高に言っていたら変な人って思われちゃう。
ここでは、すでに『変態』だから、いいのだ^^
なんて、こんな話したら、ここでもお友達減っちゃうかもしれないね^^;
『壁』になりたくなくて。
誰の味方でもないし、誰の味方でもある。
これが私の付き合い方。
そして、それでいいと思っている。
だから、私は連れションがキライだ。
あっちょんぶりけ
独特な幸福感
那智さんの遊び方は私の核心を突く。
「いいんです〜、くっつきたかっただけですから〜!!」
なんでこんな発言になったのか忘れてしまったのだけど、ベッドで腕枕をしながら、なにやら軽くむくれる私。
多分、何かからかわれたりしたんだと思う。
いいもん、いいもんと若干すね気味に那智さんの胸に顔を埋めてからかわれたことの照れ隠しをしようとすると。
那智さんの手が鼻に伸びて、豚鼻しようとする。
「やめてください〜」
顔を背けて胸に突進。
「いいじゃん」
「いやです〜、だって、いつでもかわいいと思ってほしいのですよ。」
そんな会話をしながらも、手はしつこく私の鼻を追う。
『きゃあきゃあ』いいながら逃げる。
まあ、いちゃいちゃしてるだけなんだけどね^^;
しばらくして、ターゲットが鼻から頬に変わった。
指で両頬を押さえてぎゅーっと寄せようとしているのだ。
わかります?
頬が真ん中に寄せられて、唇がぶにゅ〜っと尖るの。
ピノコのあっちょんぶりけだ。
豚鼻も見られたくないけど、あっちょんぶりけも絶対イヤ!!
必死に逃げるも、那智さんの力にはかなわずぶちゅ〜っとされる。
でも、自由な両手でマスクのように覆って、やられながらも見えないように防御。
「やめてください、那智さ〜ん;;」
口元を手で覆いながら、逃げる。
「なんで?」
「だって、不細工になる;;」
「そう?可愛いじゃん」
ほら、よく小さい子が泣いたときに、その子の口に手を当てて遊ぶだろ?
それみたいで可愛いじゃん。
わかります?
子供が『わあ〜ん』と泣いてるときに、手を口に当てて『ぱふぱふ』とさせるの。
『わあ〜ん』が『わぁ、わぁ、わぁ』となるやつ。
真剣に泣いてる子供に大人が可愛さあまってふざけてしまう、あれ。
口を『ぶ〜っ』と尖らせて「くっつきたかっただけなんです〜」って言ったら小さい子みたいで可愛いじゃん。
そんなことをイメージしてのあっちょんぶりけだったそうだ。
ずるいのだ、那智さん。
もちろん彼の好みでもあるのだから、策略としての『ずるさ』だけじゃないのはわかってるけど。
ずるい。
『女の子』持ち出されたら、気持ちが傾くに決まってるではないか。
私は、那智さんの小さな女の子になりたいのだもの。(『全肯定12』)
案の定、抵抗しながらも『いいかも』とうっとりしだしてしまっている。
ピノコのあっちょんぶりけ。
それをして『ぶ〜っ』とむくれて訴えたら、那智さんの小さな女の子になって可愛いと思ってもらえるのだろうか。
そう思ってもらいたい、女の子になりたい。
手のひらのマスクで口元を隠しながら、これを取っ払って『ぶにゅ〜』とした顔を見てもらうことを想像してしまう。
那智さんの女の子。
ああ、キラキラお星様がちりばめられた甘い時間。
「口元見せて」
ちょっとお星様女の子を想像してしまっていたから、つい手をどかしてしまった。
でも、さすがに顔を全部見せるのは恥ずかしい。
だから、今度は目元を隠してみた。
手のひらで目を隠しているけれど。
那智さんには『ぶ〜』の口元が丸見え。
うう、恥ずかしい、でも、これは那智さんが可愛いと思う女の子だ。
うっとりしていたいから、無理矢理うっとりに片足を突っ込む。
「あ〜、可愛い、可愛い、ほら、こうやっているから『くっつきたかっただけ』って言ってみ」
あ〜ん、恥ずかしいよ〜。
でも、かわいいんだよね?
うん、もしかしたら、かわいいのかも…。
そんなことないよ、冷静に想像してごらん、りん子。
でも、那智さん、かわいいって言ってる。
きっと、ピノコのあっちょんぶりけみたいに、いたいけな口元になっているのかもしれない。
そうじゃなかったら、那智さん、かわいいなんて言わないもの。
うん、かわいいんだ。
そして、言葉を発して甘えてみせれば、私は那智さんの『かわいい女の子』になれるんだ。
ピノコの私…お星様をちりばめた甘い時間。
心は揺れる。
『女の子』の誘惑に負けて。
あっちょんぶりけを晒して、目元だけ隠したままで、言ってみる。
「ぐっつきたくわぁっただけでずぅ〜(訳:くっつきたかっただけです〜)」
だめーーーーーーー!!!
その発声で現実に引き戻された。
幸せな那智さんの腕から力一杯逃げる;;
「やっぱり、だめです〜〜〜〜!!かわいくない〜〜〜!!!」
あり得ない、あり得ない!!
いい年した大人声の私が言っても、気色悪いだけだ!!!
女の子なんかじゃない。
どちらかというと、モザイクと音声を変えてテレビ出演した『犯人をよく知る人物A』的な何かだ。
だって、目線と声色が変わっているのだもの;;
憧れの6歳児にはほど遠い。
那智さんの『女の子扱い』に目がくらんで、存在として『かわいい』と見た目が『かわいい』を混同してしまった。
よく私はこの罠に陥る^^;
「なーんで?かわいいじゃん(笑)」
ううん、かわいくない;;
それにしてもね、那智さん。
那智さんの『女の子みたい』に私が弱いの知ってますよね。
うん。
わざとやってます?
ちょっとだけね、でも俺も好きなんだよな。
こうやって、那智さんの遊び方は私の核心を突き。
なんとなく、自分がピノコか『チビ猫』か『ハイジ』か何かになれるような錯覚を起こしてしまう。
だって、那智さんの『女の子』すごく幸せなんだもの。
そして、その甘い誘惑に負け、勝手に『存在としてかわいい』を『見た目の愛くるしさ』に変換してしまって、つい自分を6歳児にしてしまう。
そして、その度現実に引き戻されて、苦笑するしかない。
わかってるの。
那智さんは。
最初は抵抗していたことを自分の導きによって受け入れるりん子。
抵抗したり甘えたり受け入れたりを素直に反応するりん子。
が、かわいいと思って言っているのであって。
私が、6歳児としてかわいいと言っているわけではないのだよね。
だけど、女の子は私の琴線。
目がくらんでしまうからつい思惑通りに動いてしまう。
それをわかってて口にする那智さんをずるいと思うのだ。
あ〜、ピノコの道は遠い。
一生辿り着けないような気がしてきた。
いや、『ような気がする』じゃないな。
辿り着けないことに早く気づくべきかもしれない(笑)
それでも那智さんの遊び方は私の核心を突き、そのたび心は浮かれ。
ないないと思いつつも、私の女の子道(?)は続くのでした♪
那智さんの遊び方は私の核心を突く。
「いいんです〜、くっつきたかっただけですから〜!!」
なんでこんな発言になったのか忘れてしまったのだけど、ベッドで腕枕をしながら、なにやら軽くむくれる私。
多分、何かからかわれたりしたんだと思う。
いいもん、いいもんと若干すね気味に那智さんの胸に顔を埋めてからかわれたことの照れ隠しをしようとすると。
那智さんの手が鼻に伸びて、豚鼻しようとする。
「やめてください〜」
顔を背けて胸に突進。
「いいじゃん」
「いやです〜、だって、いつでもかわいいと思ってほしいのですよ。」
そんな会話をしながらも、手はしつこく私の鼻を追う。
『きゃあきゃあ』いいながら逃げる。
まあ、いちゃいちゃしてるだけなんだけどね^^;
しばらくして、ターゲットが鼻から頬に変わった。
指で両頬を押さえてぎゅーっと寄せようとしているのだ。
わかります?
頬が真ん中に寄せられて、唇がぶにゅ〜っと尖るの。
ピノコのあっちょんぶりけだ。
豚鼻も見られたくないけど、あっちょんぶりけも絶対イヤ!!
必死に逃げるも、那智さんの力にはかなわずぶちゅ〜っとされる。
でも、自由な両手でマスクのように覆って、やられながらも見えないように防御。
「やめてください、那智さ〜ん;;」
口元を手で覆いながら、逃げる。
「なんで?」
「だって、不細工になる;;」
「そう?可愛いじゃん」
ほら、よく小さい子が泣いたときに、その子の口に手を当てて遊ぶだろ?
それみたいで可愛いじゃん。
わかります?
子供が『わあ〜ん』と泣いてるときに、手を口に当てて『ぱふぱふ』とさせるの。
『わあ〜ん』が『わぁ、わぁ、わぁ』となるやつ。
真剣に泣いてる子供に大人が可愛さあまってふざけてしまう、あれ。
口を『ぶ〜っ』と尖らせて「くっつきたかっただけなんです〜」って言ったら小さい子みたいで可愛いじゃん。
そんなことをイメージしてのあっちょんぶりけだったそうだ。
ずるいのだ、那智さん。
もちろん彼の好みでもあるのだから、策略としての『ずるさ』だけじゃないのはわかってるけど。
ずるい。
『女の子』持ち出されたら、気持ちが傾くに決まってるではないか。
私は、那智さんの小さな女の子になりたいのだもの。(『全肯定12』)
案の定、抵抗しながらも『いいかも』とうっとりしだしてしまっている。
ピノコのあっちょんぶりけ。
それをして『ぶ〜っ』とむくれて訴えたら、那智さんの小さな女の子になって可愛いと思ってもらえるのだろうか。
そう思ってもらいたい、女の子になりたい。
手のひらのマスクで口元を隠しながら、これを取っ払って『ぶにゅ〜』とした顔を見てもらうことを想像してしまう。
那智さんの女の子。
ああ、キラキラお星様がちりばめられた甘い時間。
「口元見せて」
ちょっとお星様女の子を想像してしまっていたから、つい手をどかしてしまった。
でも、さすがに顔を全部見せるのは恥ずかしい。
だから、今度は目元を隠してみた。
手のひらで目を隠しているけれど。
那智さんには『ぶ〜』の口元が丸見え。
うう、恥ずかしい、でも、これは那智さんが可愛いと思う女の子だ。
うっとりしていたいから、無理矢理うっとりに片足を突っ込む。
「あ〜、可愛い、可愛い、ほら、こうやっているから『くっつきたかっただけ』って言ってみ」
あ〜ん、恥ずかしいよ〜。
でも、かわいいんだよね?
うん、もしかしたら、かわいいのかも…。
そんなことないよ、冷静に想像してごらん、りん子。
でも、那智さん、かわいいって言ってる。
きっと、ピノコのあっちょんぶりけみたいに、いたいけな口元になっているのかもしれない。
そうじゃなかったら、那智さん、かわいいなんて言わないもの。
うん、かわいいんだ。
そして、言葉を発して甘えてみせれば、私は那智さんの『かわいい女の子』になれるんだ。
ピノコの私…お星様をちりばめた甘い時間。
心は揺れる。
『女の子』の誘惑に負けて。
あっちょんぶりけを晒して、目元だけ隠したままで、言ってみる。
「ぐっつきたくわぁっただけでずぅ〜(訳:くっつきたかっただけです〜)」
だめーーーーーーー!!!
その発声で現実に引き戻された。
幸せな那智さんの腕から力一杯逃げる;;
「やっぱり、だめです〜〜〜〜!!かわいくない〜〜〜!!!」
あり得ない、あり得ない!!
いい年した大人声の私が言っても、気色悪いだけだ!!!
女の子なんかじゃない。
どちらかというと、モザイクと音声を変えてテレビ出演した『犯人をよく知る人物A』的な何かだ。
だって、目線と声色が変わっているのだもの;;
憧れの6歳児にはほど遠い。
那智さんの『女の子扱い』に目がくらんで、存在として『かわいい』と見た目が『かわいい』を混同してしまった。
よく私はこの罠に陥る^^;
「なーんで?かわいいじゃん(笑)」
ううん、かわいくない;;
それにしてもね、那智さん。
那智さんの『女の子みたい』に私が弱いの知ってますよね。
うん。
わざとやってます?
ちょっとだけね、でも俺も好きなんだよな。
こうやって、那智さんの遊び方は私の核心を突き。
なんとなく、自分がピノコか『チビ猫』か『ハイジ』か何かになれるような錯覚を起こしてしまう。
だって、那智さんの『女の子』すごく幸せなんだもの。
そして、その甘い誘惑に負け、勝手に『存在としてかわいい』を『見た目の愛くるしさ』に変換してしまって、つい自分を6歳児にしてしまう。
そして、その度現実に引き戻されて、苦笑するしかない。
わかってるの。
那智さんは。
最初は抵抗していたことを自分の導きによって受け入れるりん子。
抵抗したり甘えたり受け入れたりを素直に反応するりん子。
が、かわいいと思って言っているのであって。
私が、6歳児としてかわいいと言っているわけではないのだよね。
だけど、女の子は私の琴線。
目がくらんでしまうからつい思惑通りに動いてしまう。
それをわかってて口にする那智さんをずるいと思うのだ。
あ〜、ピノコの道は遠い。
一生辿り着けないような気がしてきた。
いや、『ような気がする』じゃないな。
辿り着けないことに早く気づくべきかもしれない(笑)
それでも那智さんの遊び方は私の核心を突き、そのたび心は浮かれ。
ないないと思いつつも、私の女の子道(?)は続くのでした♪
独特な幸福のススメ^^
独特な幸福感
SMは意識するなと言われていて、私自身もそう思えるようになってはいるものの。(『意識するな』)
縛ったり叩いたりとSM的行為はしているし、自分はマゾヒストなんだろうな〜くらいには思ってる。
主従という概念はわからないけど、多分、ちょっと違うと思うし、那智さんはそれさえも意識していないはず。
だけど、『対等で上下』などという理解しづらい関係であるわけで、ノーマルだとは胸を張って言えない。
(『対等で上下』)
じゃあ、いったいなんなんだ?
『対等で上下』もわかりにくいと思うけど。
多分、SMをしている方や主従関係を築いている方や、ましてノーマルな方には、共感しにくいこともたくさんあるはず。
『お外わんこ』も。(いろいろあるあら今日は『最良の選択』)
『女の子』も。(『毛布』)
『排泄物関係』も。
わかるような、わからないような、ということもたくさんありますよね。
とても主観的な喜び、理解しづらいじゃれ合いと愛情を書いているので、読んでくださる方の理解度はその人の感覚によって大きく左右すると思います。(でも、読んでくれて、ありがとう^^)
まさしく『独特な幸福感』。
それなのに、なぜ、皆さん来てくださるのでしょう?
自分に都合良く解釈させていただければ。
恐らく、その『幸福感』に共感してくださっているのではないかと思うのです。
やっていることは何がいいんだかわからなくても。
楽しんでくださっている方の多くは、互いを尊重し合い、どちらかが我慢をするような関係ではない中での『幸福感』に共鳴してくれているんじゃないかな〜と思うのです。
で、いろいろな側面を書いてるので、時々理解できたり、共鳴が増したりして、楽しみを増やしてくださっているのかなと、希望的観測で思ってます。
そもそも、幸福感は独特でいいのですよね。
もちろん他者を傷つけることは避けたいけど、そうじゃない種類のものであれば、独特でいいはず。
あの人が『これ』で幸せだから、私もそれで幸せになれるだろう。
そんなことはない。
お金や愛や仕事や趣味や、どれの何に幸せを感じられるかは人と同じである必要はない。
きっと、きっと、私たちの『独特な幸福感』の『独特』さには賛否両論あるでしょうけど、『独特な幸福』を書いていることを楽しんでいただけているのではないかな〜と思います。
那智さんはいま海外出張中で、今日帰国予定です。
出張先から送られてきたメール。
これが、とんでもなく『独特な幸福』でして、それを載せちゃうための前振り↑でした(笑)
書いた那智さんも恥ずかしいでしょけど、私も恥ずかしい^^
でも、嬉しいから載せちゃう。
前エントリー『あっちょんぶりけ』をアップした夜、そのメールが届いた。
そのメールの全文を紹介します。
ちょっと引くよ〜^^ね、那智さん。
りん子へ
今日も一日よい子でいましたか。
お父さんはお仕事で外国です。
りん子が今日も一日よい子でいてくれることを祈っていました。
明後日、お父さんはりん子のところへ帰ります。
きっとよい子で留守番をしているりん子へ、とっても良いおみやげをと考えていますが、なかなか良い物がありません。
お父さんおそろいのブレスレットはどうですか。
色々なものがありますが、りん子はどれが気に入ってくれるかと考えるとなかなか選ぶことができません。
帰って最初の休みには、りん子の大好きなおちんちんをりん子のおまんこに入れてあげます。
楽しみに待っていてね。
りん子はお父さんが帰ったら何をしてほしいですか、お父さんに教えてください。
じゃ、お父さんが帰るまでよい子にしていること。
約束しようね。
きゃーー、恥ずかしすぎるーーー。
めずらしく長めのメールと送信時間で酔っぱらいさんなのは想像がつく。(酔っぱらいさん『朗読奴隷1、2)
『あっちょんぶりけ』の『女の子』できゃあきゃあなってる私に更に追い打ちをかけようとしているのもわかる。
だけど、りん子が喜ぶし、きゃあきゃあなって面白いからという理由でけじゃなくて、多分、那智さんは私を『女の子扱い』することが好きなのだ。
かなり酔った勢いの冗談で、でも、すこーし濃度の濃い嗜好も含まれているのだと思う。
で、那智さんの嗜好は置いといて。
この『娘扱い』が、私にとってあまりにもドンピシャで。
泣いてしまいそうなほど。
スキップしたいくらい嬉しくて。
喜んでいる自分が恥ずかしくて。
朝イチから、心鷲掴み。
足の指先まで力が入っちゃう状態でした。
なぜかって、言葉の端々に那智さんらしい父性が感じられるのだもの。
『よい子』という言葉に、機嫌良く『はい!!』と思えるし。
『お仕事』に子供に向けている感じがして。
『帰ったら一緒に遊園地行こうね』と約束してくれているような娘扱いのセックス。
小児性愛でも近親相姦でもない父性に抱かれること、そこにエロスを加える快感。(『全肯定1、2』)
(かっこよく書いてますけど、おちんちんにおまんこってあたりが那智さんらしいです^^;)
最後の『約束しようね』なんて言われた日には、『はい、はい!!約束する〜〜〜♪』と大喜びの6歳児だ。
那智さんの父性の実力発揮だ(笑)
もう、私はこのメールが嬉しくて、嬉しくて。
気持ちは明るくなるわ。
抱いてほしくなるわ。
那智さんが日本にいない時間を充実したものにしようと思えるのでした。
これが琴線に触れる人は、いるのかな…^^;
いてくれたら嬉しいけど、いなくても、『独特な幸福』ということには共鳴してくれるといいなと思ってます。
自分はマゾで支配してほしくて。
SMをしたりや奴隷になれば幸せだと思っていた。
だけど、ちょっと違うみたいで。
那智さんと付き合うことで、知らなかった『独特の幸福』を発掘してもらってる。
もともと持っていたものかどうかはわからない。
どちらかというと、那智さんとふたりで作り上げたもののような気がする。
何が正解で、どれが正しいか。
理解不能なことだとしても。
それは自分が幸せかどうかだよね。
『独特な幸福感』がいいと思うのだ。
って、エラソーなこと言ってますけど『お父さん』で喜ぶ、私。
大きな心で見守ってやってくださいませm^^m
那智さんは今日帰国。
よい子にしていましたから、りん子と遊んでね、お父さん(笑)
SMは意識するなと言われていて、私自身もそう思えるようになってはいるものの。(『意識するな』)
縛ったり叩いたりとSM的行為はしているし、自分はマゾヒストなんだろうな〜くらいには思ってる。
主従という概念はわからないけど、多分、ちょっと違うと思うし、那智さんはそれさえも意識していないはず。
だけど、『対等で上下』などという理解しづらい関係であるわけで、ノーマルだとは胸を張って言えない。
(『対等で上下』)
じゃあ、いったいなんなんだ?
『対等で上下』もわかりにくいと思うけど。
多分、SMをしている方や主従関係を築いている方や、ましてノーマルな方には、共感しにくいこともたくさんあるはず。
『お外わんこ』も。(いろいろあるあら今日は『最良の選択』)
『女の子』も。(『毛布』)
『排泄物関係』も。
わかるような、わからないような、ということもたくさんありますよね。
とても主観的な喜び、理解しづらいじゃれ合いと愛情を書いているので、読んでくださる方の理解度はその人の感覚によって大きく左右すると思います。(でも、読んでくれて、ありがとう^^)
まさしく『独特な幸福感』。
それなのに、なぜ、皆さん来てくださるのでしょう?
自分に都合良く解釈させていただければ。
恐らく、その『幸福感』に共感してくださっているのではないかと思うのです。
やっていることは何がいいんだかわからなくても。
楽しんでくださっている方の多くは、互いを尊重し合い、どちらかが我慢をするような関係ではない中での『幸福感』に共鳴してくれているんじゃないかな〜と思うのです。
で、いろいろな側面を書いてるので、時々理解できたり、共鳴が増したりして、楽しみを増やしてくださっているのかなと、希望的観測で思ってます。
そもそも、幸福感は独特でいいのですよね。
もちろん他者を傷つけることは避けたいけど、そうじゃない種類のものであれば、独特でいいはず。
あの人が『これ』で幸せだから、私もそれで幸せになれるだろう。
そんなことはない。
お金や愛や仕事や趣味や、どれの何に幸せを感じられるかは人と同じである必要はない。
きっと、きっと、私たちの『独特な幸福感』の『独特』さには賛否両論あるでしょうけど、『独特な幸福』を書いていることを楽しんでいただけているのではないかな〜と思います。
那智さんはいま海外出張中で、今日帰国予定です。
出張先から送られてきたメール。
これが、とんでもなく『独特な幸福』でして、それを載せちゃうための前振り↑でした(笑)
書いた那智さんも恥ずかしいでしょけど、私も恥ずかしい^^
でも、嬉しいから載せちゃう。
前エントリー『あっちょんぶりけ』をアップした夜、そのメールが届いた。
そのメールの全文を紹介します。
ちょっと引くよ〜^^ね、那智さん。
りん子へ
今日も一日よい子でいましたか。
お父さんはお仕事で外国です。
りん子が今日も一日よい子でいてくれることを祈っていました。
明後日、お父さんはりん子のところへ帰ります。
きっとよい子で留守番をしているりん子へ、とっても良いおみやげをと考えていますが、なかなか良い物がありません。
お父さんおそろいのブレスレットはどうですか。
色々なものがありますが、りん子はどれが気に入ってくれるかと考えるとなかなか選ぶことができません。
帰って最初の休みには、りん子の大好きなおちんちんをりん子のおまんこに入れてあげます。
楽しみに待っていてね。
りん子はお父さんが帰ったら何をしてほしいですか、お父さんに教えてください。
じゃ、お父さんが帰るまでよい子にしていること。
約束しようね。
きゃーー、恥ずかしすぎるーーー。
めずらしく長めのメールと送信時間で酔っぱらいさんなのは想像がつく。(酔っぱらいさん『朗読奴隷1、2)
『あっちょんぶりけ』の『女の子』できゃあきゃあなってる私に更に追い打ちをかけようとしているのもわかる。
だけど、りん子が喜ぶし、きゃあきゃあなって面白いからという理由でけじゃなくて、多分、那智さんは私を『女の子扱い』することが好きなのだ。
かなり酔った勢いの冗談で、でも、すこーし濃度の濃い嗜好も含まれているのだと思う。
で、那智さんの嗜好は置いといて。
この『娘扱い』が、私にとってあまりにもドンピシャで。
泣いてしまいそうなほど。
スキップしたいくらい嬉しくて。
喜んでいる自分が恥ずかしくて。
朝イチから、心鷲掴み。
足の指先まで力が入っちゃう状態でした。
なぜかって、言葉の端々に那智さんらしい父性が感じられるのだもの。
『よい子』という言葉に、機嫌良く『はい!!』と思えるし。
『お仕事』に子供に向けている感じがして。
『帰ったら一緒に遊園地行こうね』と約束してくれているような娘扱いのセックス。
小児性愛でも近親相姦でもない父性に抱かれること、そこにエロスを加える快感。(『全肯定1、2』)
(かっこよく書いてますけど、おちんちんにおまんこってあたりが那智さんらしいです^^;)
最後の『約束しようね』なんて言われた日には、『はい、はい!!約束する〜〜〜♪』と大喜びの6歳児だ。
那智さんの父性の実力発揮だ(笑)
もう、私はこのメールが嬉しくて、嬉しくて。
気持ちは明るくなるわ。
抱いてほしくなるわ。
那智さんが日本にいない時間を充実したものにしようと思えるのでした。
これが琴線に触れる人は、いるのかな…^^;
いてくれたら嬉しいけど、いなくても、『独特な幸福』ということには共鳴してくれるといいなと思ってます。
自分はマゾで支配してほしくて。
SMをしたりや奴隷になれば幸せだと思っていた。
だけど、ちょっと違うみたいで。
那智さんと付き合うことで、知らなかった『独特の幸福』を発掘してもらってる。
もともと持っていたものかどうかはわからない。
どちらかというと、那智さんとふたりで作り上げたもののような気がする。
何が正解で、どれが正しいか。
理解不能なことだとしても。
それは自分が幸せかどうかだよね。
『独特な幸福感』がいいと思うのだ。
って、エラソーなこと言ってますけど『お父さん』で喜ぶ、私。
大きな心で見守ってやってくださいませm^^m
那智さんは今日帰国。
よい子にしていましたから、りん子と遊んでね、お父さん(笑)
心のまま
独り言
胸にズキュンと来るお話をふたついただいた。
これだけ自分の心の中を晒していると、読んでいる方のアンテナのどこかには引っかかり似たようなものを感じ取ってくださるようで、何人かの方が同じような思いをお話ししてくれる。
家庭環境や生い立ち、現在の状況などなど。
『はじめまして』の方もいるし、ずっと前にコメントをくれた人もいたりする。
その方々のお話を聞かせていただくと、みんな様々な傷や葛藤を抱えながらも一生懸命生きていこうとしているな〜と感じて応援したい気持ちになります。
先日いただいたメールもそんな素敵なものだった。
詳しい内容はもちろん書きませんが、つらい経験を乗り越えながら前向きに暮らしている様子を話してくださいました。
彼女が前向きに暮らしていかれるのに、ご主人様の存在がとても力になっているそうです。
文章からも、その真摯なお付き合いが伝わりました。
こういうお話を聞かせていただくと。
祝福、祝福〜♪と思うのと同時に。
なにか『ズキュン』と来るのです。
なんていうのかな、彼女の気持ちにちょっとだけシンクロしてしまうという感じ。
それが良いことなのか良くないのかわからないけど『ズキュン』とくる。
そこでふと立ち止まるの。
私が。
生い立ちや心の闇を書き、そこから見つけたことを書いていることで、誰かに悲しい思いをさせていないだろうか。
見つけたことを整理したいと思い、似たような人のヒントになればと思って書いているけど、もしかして、誰かの心に土足で踏み込むようなことになっていないか。
そして。
性癖や願望を満たすために足掻いていたことでわかる矛盾や疑問を書くことで誰かを悲しませていないだろうか。
苦しいならそのカラクリに気づいて、引き返せると卵さんに向けて書いているつもりだけど、同じ『主従』や『奴隷』という言葉を持ち出していることで、彼女のような救われている人まで傷つけていないか。
祈るような気持ちで自問自答した。
彼女の身に起きたこととそんなことも感じさせない明るさを目にして、彼女自身の頑張りとご主人様の存在の大きさが感じられ『ズキュン』ときて、祝福とともに、自問自答する良い機会を与えてくださった彼女に感謝なのです。
それと同じ時期にもうひとついただいたのは拍手コメント。
(コンタクト取れないので無断でネタにさせていただくことをお許しくださいね、ありがとうございます)
その方は私の書くことを『快感の壷やへこみを一つ一つ素直に提示している』ところがいいと言ってくれています。
ノーマルだというその方が『否定したり違うと思うこと自体、書いていることが理解できていることで、実は多くの人の心の隅にあるのではないか』と感じてくださって、その隅にある物を『惜しげもなく晒している強さ』を感じると言ってくれました。
そして『嘘が無い文章を読む快感を味わって』くださっているそうです。
この言葉に『ズキュン』^^
も〜、勝手に表に出したいくらいの拍手コメントでした。
最初の彼女のメールで自問自答しながら、それでも私はここで様々なことを書いていくだろうと思いました。
誰も悲しませるつもりはなくて、もし棘があったとしても、それを抜いたあと前を向いてもらえるように、そうやって書いていこうと襟を正してもらいました。
そして、拍手コメント。
『嘘がない』というのは那智さんがブログをはじめるときに特に意識させたことでした。
信じてもらえるように全部書けと。
さすがに全部は無理だとしても、書かれていることは嘘じゃないと信じてもらえるように努めてきました。
出来事はもちろん、それに付随する気持ちもできる限り嘘は書かないようにしました。
だから、嬉しいもイヤも書いてる。
それが伝わっているとしたら、それはとても嬉しいこと。
嘘を書かずにいたことで。
最初の彼女のような方からメールをもらい自分を振り返る機会を得ることができた。
そして、嘘のないことを理解してくれていることを知らせてもらい。
できるだけ自分の心に素直にいることで、また私は居心地の良い場所を作ることができたように思います。
実は、ちょっと毒エントリー下書きしていたんです^^
だけど、ちょっと立ち止まる良い機会を与えてもらえたので、書いてみました。
日々のノロケも時々浮かぶ毒も、私。
時に立ち止まり。
誰かを傷つけていないか自問して、だけど、素直に。
心のままにいる努力をしたい。
誰も傷つけないなんて無理なことかもしれない。
でも、どうか、私の吐く毒は、苦しい思いをさせている『壁』に向かっているのだということが伝わりますように。
そう祈りつつ。
次は『りん子的独り言』の予定なので^^;
なんだか真摯な言葉をいただいたから、悲しませることなく、でも、嘘はつかずにいたいなと思って。
胸にズキュンと来るお話をふたついただいた。
これだけ自分の心の中を晒していると、読んでいる方のアンテナのどこかには引っかかり似たようなものを感じ取ってくださるようで、何人かの方が同じような思いをお話ししてくれる。
家庭環境や生い立ち、現在の状況などなど。
『はじめまして』の方もいるし、ずっと前にコメントをくれた人もいたりする。
その方々のお話を聞かせていただくと、みんな様々な傷や葛藤を抱えながらも一生懸命生きていこうとしているな〜と感じて応援したい気持ちになります。
先日いただいたメールもそんな素敵なものだった。
詳しい内容はもちろん書きませんが、つらい経験を乗り越えながら前向きに暮らしている様子を話してくださいました。
彼女が前向きに暮らしていかれるのに、ご主人様の存在がとても力になっているそうです。
文章からも、その真摯なお付き合いが伝わりました。
こういうお話を聞かせていただくと。
祝福、祝福〜♪と思うのと同時に。
なにか『ズキュン』と来るのです。
なんていうのかな、彼女の気持ちにちょっとだけシンクロしてしまうという感じ。
それが良いことなのか良くないのかわからないけど『ズキュン』とくる。
そこでふと立ち止まるの。
私が。
生い立ちや心の闇を書き、そこから見つけたことを書いていることで、誰かに悲しい思いをさせていないだろうか。
見つけたことを整理したいと思い、似たような人のヒントになればと思って書いているけど、もしかして、誰かの心に土足で踏み込むようなことになっていないか。
そして。
性癖や願望を満たすために足掻いていたことでわかる矛盾や疑問を書くことで誰かを悲しませていないだろうか。
苦しいならそのカラクリに気づいて、引き返せると卵さんに向けて書いているつもりだけど、同じ『主従』や『奴隷』という言葉を持ち出していることで、彼女のような救われている人まで傷つけていないか。
祈るような気持ちで自問自答した。
彼女の身に起きたこととそんなことも感じさせない明るさを目にして、彼女自身の頑張りとご主人様の存在の大きさが感じられ『ズキュン』ときて、祝福とともに、自問自答する良い機会を与えてくださった彼女に感謝なのです。
それと同じ時期にもうひとついただいたのは拍手コメント。
(コンタクト取れないので無断でネタにさせていただくことをお許しくださいね、ありがとうございます)
その方は私の書くことを『快感の壷やへこみを一つ一つ素直に提示している』ところがいいと言ってくれています。
ノーマルだというその方が『否定したり違うと思うこと自体、書いていることが理解できていることで、実は多くの人の心の隅にあるのではないか』と感じてくださって、その隅にある物を『惜しげもなく晒している強さ』を感じると言ってくれました。
そして『嘘が無い文章を読む快感を味わって』くださっているそうです。
この言葉に『ズキュン』^^
も〜、勝手に表に出したいくらいの拍手コメントでした。
最初の彼女のメールで自問自答しながら、それでも私はここで様々なことを書いていくだろうと思いました。
誰も悲しませるつもりはなくて、もし棘があったとしても、それを抜いたあと前を向いてもらえるように、そうやって書いていこうと襟を正してもらいました。
そして、拍手コメント。
『嘘がない』というのは那智さんがブログをはじめるときに特に意識させたことでした。
信じてもらえるように全部書けと。
さすがに全部は無理だとしても、書かれていることは嘘じゃないと信じてもらえるように努めてきました。
出来事はもちろん、それに付随する気持ちもできる限り嘘は書かないようにしました。
だから、嬉しいもイヤも書いてる。
それが伝わっているとしたら、それはとても嬉しいこと。
嘘を書かずにいたことで。
最初の彼女のような方からメールをもらい自分を振り返る機会を得ることができた。
そして、嘘のないことを理解してくれていることを知らせてもらい。
できるだけ自分の心に素直にいることで、また私は居心地の良い場所を作ることができたように思います。
実は、ちょっと毒エントリー下書きしていたんです^^
だけど、ちょっと立ち止まる良い機会を与えてもらえたので、書いてみました。
日々のノロケも時々浮かぶ毒も、私。
時に立ち止まり。
誰かを傷つけていないか自問して、だけど、素直に。
心のままにいる努力をしたい。
誰も傷つけないなんて無理なことかもしれない。
でも、どうか、私の吐く毒は、苦しい思いをさせている『壁』に向かっているのだということが伝わりますように。
そう祈りつつ。
次は『りん子的独り言』の予定なので^^;
なんだか真摯な言葉をいただいたから、悲しませることなく、でも、嘘はつかずにいたいなと思って。
恋心も支配して♪
りん子的独り言(生意気)
あ〜、素朴な疑問を思いついてしまった^^;
SMや主従関係のブログを徘徊していて時々目にする言葉たち。
その中のふたつ。
もし、このふたつが同時に存在していたら?
ちょっと矛盾を感じてしまった。
そうなると書かずにはいられない^^;
それらが同時に書かれているのを直接見たわけではなく、想像しての疑問なのでどなたかを指しているのではないことをご理解くださいませ。
またいつものように、その関係で幸せを感じられている方には当てはまらない話です。
かつての私のように、無価値感からくる依存願望を奴隷願望と混同してしまって、苦しんでいる人へのヒントのつもりで書いてます。
(『伝わりますように』にいっぱい定義が書いてあります^^;)
SMや主従に恋愛感情はありか、なしか。
時々見られるお題ですよね?
付き合い方によっていろいろあるようです。
性癖を満たすことを優先するのに恋情はむしろ邪魔な感情だと思ってる方もいるでしょうし。
主従や奴隷を持つ方の中にも、恋愛感情は調教の妨げになるとよくないものとして扱われていたりもしますよね。
どれもありなんだろうなと、私にしてはめずらしくここは比較的寛容なんです(笑)
まあ、恋情は厄介ではあるけれどそれも含めて得られる満足が好きなので、私自身で言えば『あり』なんですけど。
それぞれの目的を果たすために選んでいかれればいいと思ってます。
ですから、ここで是非を問うつもりはないのですね。
性癖優先の方は、恐らくそれでコンセンサスを得られているのでしょうから、ちょっと置いといて。
(『もうひとつの秘訣』)
イメージですけど。
がっちり主従さんやご主人様と奴隷さんの中に多く見られるように思います。
多分。
厳しい主従(具体的にわからないけど)には主従愛や忠誠心は求めても、主に対して普通の男性に感じるような恋情を持つことは関係値に於いてご法度なのかな。
それに、『多頭』などの複数をする場合に恋情は嫉妬に繋がるし、それ以外の場面でも、ないほうが男性側としてもコントロールしやすいのかもしれない。
なんて思う。
この、『主従関係に恋愛感情はいらない』という言葉がひとつ。
それと、もうひとつは。
主従関係ではよーく見られる言葉だから、ここで話題に出すのとってもためらうのだけど。
どうか『それで苦しい思いをされている人』に対してだけの疑問だと理解してくださいね。
私もずっと憧れていたのだけど。
『心も体も支配する』や『すべてを曝け出す』なんていう被支配欲を満たしてくれそうな言葉。
これは私のような、誰かに依存していたいと思う女には魔法のような言葉なんですよね。
得体の知れない不安を全部解消してくれるような気がしてついすがってしまいだたくなるような言葉。
不安定を解消するために依存先をもとめているわけで、支配してくれるのならこの不安まで操ってもらえるような。
すべてを晒していいなら、このグラグラしている心も吐き出していいカタルシスのような。
魔法の言葉。
だから、よく目にするのかな。
(私は勝手に『奴隷願望』さんよりも『依存願望』さんのほうが多いと読んでいる^^)
まあ、これも、それによって主と従の求めるものが、求めやすくなると思うのでコントロールしたい男性からしたら有効的な言葉だと思う。
コントロールしやすくなるような種類の言葉ふたつ。
『主従に恋愛感情はなし』
『心も体も支配する。すべてを曝け出す』
う〜ん、重箱の隅をつつくようで申し訳ないけど。
このふたつ並べると矛盾を感じてしまう。
あくまでも同居していたらの話なんだけどね。
だって。
恋愛感情も心だよね?
女だもん、立派に恋情あるよね。
恋心の『心』はどうするんだろ?
支配してくれないのかな。
恋愛感情も含めて、支配してくれないと『すべて』にならないんじゃない?
これだと『恋愛感情以外のすべてを支配する』になるよね。
もし、このふたつが同時に存在しているなら、変じゃない?
『宣誓書』というのを書いたことがある。
エントリーにもしてるけど。(『奴隷誓約書』)
那智さんがどこかから『奴隷誓約書』フォーマットを引っ張り出してきて、『那智、りん子』と名前だけ差し替えたのだ。
奴隷用に作られたものだったから『至らぬ点があれば厳しく正していただき』とか『捨てられる覚悟を』とか、なんだかちょっと重い内容だった。
私の望んでいるのと違うな〜と思いながら読んでいたけど、一番『それはなし!!』と思ったのが。
『女の幸せを捨てて、奴隷として〜』という一文だった。
私、女として、恋い焦がれたいし愛したいし、可愛がられたいもの。
だから、その一文は真っ先に消した^^
那智さんも、たまたま見つけたフォーマット程度のものだったので、内容の那智正に関してはまったく問題なかったけど、那智正しまくりの不思議な宣誓書が出来上がったのだった。
私が望んでいるものと、男性が『奴隷』に求めるものには大きな大きな隔たりがあるのはわかるけど^^;
M女さんブログを拝見して。
『恋愛感情なし』のような、何かしら感情を制限する言葉を見るとその宣誓書の『女の幸せを捨てて』という一文を思い出す。
例えば、
会いたいのにこちらからは言えないとか。
もっとかまってほしいけど、それを言うのはわがままだとか。
(お忙しくて会えないつらさというよりも、その感情を持つ、表現することがダメと言うことね)
恋情や女心から派生する感情を制限させることと。
『心も体も支配する』『すべてを曝け出す』ということを同居させるのは矛盾が生じると思う。
だって、最初にも書いたけど。
恋心だって心だし、恋情だって曝け出させてほしいよね?
すべてと言っているのなら、ね。
心を支配すると言われ、すべてを曝け出していいと言われているのに。
女心を制限されるのは矛盾してるし、その矛盾は女性を苦しめる。
恋愛感情なし、女の幸せを捨てられず苦しんでいるなら、それだって『心』だよ。
『なし』とか『捨てろ』とかM女さん任せにしないで、きっちりコントロールしてほしいと思うのだ。
恋情も女心もきちんと抱えて支配してくれる方の奴隷さんなら、これは当てはまらないけどね。
もしかしたら。
一旦恋愛感情も丸抱えにして支配して、支配したのちにそれだけなくなるようにコントロールしてくれるようなスゴわざやを持っていて、それで『すべて』と言えているのなら矛盾しないと思うけど。
時々、女心故に苦しんでいる人を見かけると。
もし『すべて』と言っているなら、ご主人様なんとかしてあげなさいよ!!って思ってしまうのだ。
なんだかね、苦しいことはM女さんに対処させて、いいとこ取りな感じがして。
捨てられず苦しいのはちゃんと支配できていないご主人様のせいでしょ。
M女さん自身がそんなふうに思えたら、自分を責めずに済むのにねなんて思う。
感情を制限するなら、『支配』や『すべて』の範囲ももっと具体的に示してくれたほうが信じられる。
あなたのここを支配するって。
僕に恋しちゃいけないよ。
あなたのすべては支配するつもりはないけど、性的な部分はコントロールしていっぱい淫乱にしてあげる。
なーんてほうが、実はステキだったりして^^;
もしくは、その人にとっての『支配』や『すべて』の定義を伝えるべき。
俺の支配は『お前が恋情を捨てられず苦しむこと』を言うのだ、だから苦しめ〜、わはは〜。
みたいに敢えて非道な支配の定義を示して、それが魔法の言葉ではないことをわからせてくれるほうが、誠実なんじゃないだろうか。
依存願望は心も体も支配してほしいんだ。
だって、グラグラする足元を依存先を得ることで安定させられるように思えるから。
(ほんとは自分で立たなきゃいけないのよ。だけど、安定してから立つ力も養えると思うのです)
そして、何らかの感情制限も被支配感を満たしてくれそうで、私のような女は弱い。
だけど、ちょっと視点を変えてみれば、このふたつは単に都合よくコントロールさせるための言葉なだけなんじゃない?
『恋愛感情はいらない』と『心も体も支配する』が同居するのは矛盾があるよね?とふと疑問に思ったエントリーでした。
だってね、すべてというなら恋心も手中に収めてほしいよね^^
あ〜、素朴な疑問を思いついてしまった^^;
SMや主従関係のブログを徘徊していて時々目にする言葉たち。
その中のふたつ。
もし、このふたつが同時に存在していたら?
ちょっと矛盾を感じてしまった。
そうなると書かずにはいられない^^;
それらが同時に書かれているのを直接見たわけではなく、想像しての疑問なのでどなたかを指しているのではないことをご理解くださいませ。
またいつものように、その関係で幸せを感じられている方には当てはまらない話です。
かつての私のように、無価値感からくる依存願望を奴隷願望と混同してしまって、苦しんでいる人へのヒントのつもりで書いてます。
(『伝わりますように』にいっぱい定義が書いてあります^^;)
SMや主従に恋愛感情はありか、なしか。
時々見られるお題ですよね?
付き合い方によっていろいろあるようです。
性癖を満たすことを優先するのに恋情はむしろ邪魔な感情だと思ってる方もいるでしょうし。
主従や奴隷を持つ方の中にも、恋愛感情は調教の妨げになるとよくないものとして扱われていたりもしますよね。
どれもありなんだろうなと、私にしてはめずらしくここは比較的寛容なんです(笑)
まあ、恋情は厄介ではあるけれどそれも含めて得られる満足が好きなので、私自身で言えば『あり』なんですけど。
それぞれの目的を果たすために選んでいかれればいいと思ってます。
ですから、ここで是非を問うつもりはないのですね。
性癖優先の方は、恐らくそれでコンセンサスを得られているのでしょうから、ちょっと置いといて。
(『もうひとつの秘訣』)
イメージですけど。
がっちり主従さんやご主人様と奴隷さんの中に多く見られるように思います。
多分。
厳しい主従(具体的にわからないけど)には主従愛や忠誠心は求めても、主に対して普通の男性に感じるような恋情を持つことは関係値に於いてご法度なのかな。
それに、『多頭』などの複数をする場合に恋情は嫉妬に繋がるし、それ以外の場面でも、ないほうが男性側としてもコントロールしやすいのかもしれない。
なんて思う。
この、『主従関係に恋愛感情はいらない』という言葉がひとつ。
それと、もうひとつは。
主従関係ではよーく見られる言葉だから、ここで話題に出すのとってもためらうのだけど。
どうか『それで苦しい思いをされている人』に対してだけの疑問だと理解してくださいね。
私もずっと憧れていたのだけど。
『心も体も支配する』や『すべてを曝け出す』なんていう被支配欲を満たしてくれそうな言葉。
これは私のような、誰かに依存していたいと思う女には魔法のような言葉なんですよね。
得体の知れない不安を全部解消してくれるような気がしてついすがってしまいだたくなるような言葉。
不安定を解消するために依存先をもとめているわけで、支配してくれるのならこの不安まで操ってもらえるような。
すべてを晒していいなら、このグラグラしている心も吐き出していいカタルシスのような。
魔法の言葉。
だから、よく目にするのかな。
(私は勝手に『奴隷願望』さんよりも『依存願望』さんのほうが多いと読んでいる^^)
まあ、これも、それによって主と従の求めるものが、求めやすくなると思うのでコントロールしたい男性からしたら有効的な言葉だと思う。
コントロールしやすくなるような種類の言葉ふたつ。
『主従に恋愛感情はなし』
『心も体も支配する。すべてを曝け出す』
う〜ん、重箱の隅をつつくようで申し訳ないけど。
このふたつ並べると矛盾を感じてしまう。
あくまでも同居していたらの話なんだけどね。
だって。
恋愛感情も心だよね?
女だもん、立派に恋情あるよね。
恋心の『心』はどうするんだろ?
支配してくれないのかな。
恋愛感情も含めて、支配してくれないと『すべて』にならないんじゃない?
これだと『恋愛感情以外のすべてを支配する』になるよね。
もし、このふたつが同時に存在しているなら、変じゃない?
『宣誓書』というのを書いたことがある。
エントリーにもしてるけど。(『奴隷誓約書』)
那智さんがどこかから『奴隷誓約書』フォーマットを引っ張り出してきて、『那智、りん子』と名前だけ差し替えたのだ。
奴隷用に作られたものだったから『至らぬ点があれば厳しく正していただき』とか『捨てられる覚悟を』とか、なんだかちょっと重い内容だった。
私の望んでいるのと違うな〜と思いながら読んでいたけど、一番『それはなし!!』と思ったのが。
『女の幸せを捨てて、奴隷として〜』という一文だった。
私、女として、恋い焦がれたいし愛したいし、可愛がられたいもの。
だから、その一文は真っ先に消した^^
那智さんも、たまたま見つけたフォーマット程度のものだったので、内容の那智正に関してはまったく問題なかったけど、那智正しまくりの不思議な宣誓書が出来上がったのだった。
私が望んでいるものと、男性が『奴隷』に求めるものには大きな大きな隔たりがあるのはわかるけど^^;
M女さんブログを拝見して。
『恋愛感情なし』のような、何かしら感情を制限する言葉を見るとその宣誓書の『女の幸せを捨てて』という一文を思い出す。
例えば、
会いたいのにこちらからは言えないとか。
もっとかまってほしいけど、それを言うのはわがままだとか。
(お忙しくて会えないつらさというよりも、その感情を持つ、表現することがダメと言うことね)
恋情や女心から派生する感情を制限させることと。
『心も体も支配する』『すべてを曝け出す』ということを同居させるのは矛盾が生じると思う。
だって、最初にも書いたけど。
恋心だって心だし、恋情だって曝け出させてほしいよね?
すべてと言っているのなら、ね。
心を支配すると言われ、すべてを曝け出していいと言われているのに。
女心を制限されるのは矛盾してるし、その矛盾は女性を苦しめる。
恋愛感情なし、女の幸せを捨てられず苦しんでいるなら、それだって『心』だよ。
『なし』とか『捨てろ』とかM女さん任せにしないで、きっちりコントロールしてほしいと思うのだ。
恋情も女心もきちんと抱えて支配してくれる方の奴隷さんなら、これは当てはまらないけどね。
もしかしたら。
一旦恋愛感情も丸抱えにして支配して、支配したのちにそれだけなくなるようにコントロールしてくれるようなスゴわざやを持っていて、それで『すべて』と言えているのなら矛盾しないと思うけど。
時々、女心故に苦しんでいる人を見かけると。
もし『すべて』と言っているなら、ご主人様なんとかしてあげなさいよ!!って思ってしまうのだ。
なんだかね、苦しいことはM女さんに対処させて、いいとこ取りな感じがして。
捨てられず苦しいのはちゃんと支配できていないご主人様のせいでしょ。
M女さん自身がそんなふうに思えたら、自分を責めずに済むのにねなんて思う。
感情を制限するなら、『支配』や『すべて』の範囲ももっと具体的に示してくれたほうが信じられる。
あなたのここを支配するって。
僕に恋しちゃいけないよ。
あなたのすべては支配するつもりはないけど、性的な部分はコントロールしていっぱい淫乱にしてあげる。
なーんてほうが、実はステキだったりして^^;
もしくは、その人にとっての『支配』や『すべて』の定義を伝えるべき。
俺の支配は『お前が恋情を捨てられず苦しむこと』を言うのだ、だから苦しめ〜、わはは〜。
みたいに敢えて非道な支配の定義を示して、それが魔法の言葉ではないことをわからせてくれるほうが、誠実なんじゃないだろうか。
依存願望は心も体も支配してほしいんだ。
だって、グラグラする足元を依存先を得ることで安定させられるように思えるから。
(ほんとは自分で立たなきゃいけないのよ。だけど、安定してから立つ力も養えると思うのです)
そして、何らかの感情制限も被支配感を満たしてくれそうで、私のような女は弱い。
だけど、ちょっと視点を変えてみれば、このふたつは単に都合よくコントロールさせるための言葉なだけなんじゃない?
『恋愛感情はいらない』と『心も体も支配する』が同居するのは矛盾があるよね?とふと疑問に思ったエントリーでした。
だってね、すべてというなら恋心も手中に収めてほしいよね^^