感情教育1
惹かれ合う理由
「感情教育」なんて、また大袈裟なタイトルにしてしまいました。
大好きな中山可穂さんの小説のタイトルです。
まあ、この小説のタイトルもフランスの古典にあるらしいのですが。
そんなことは気にしない!
いつも大袈裟な表現ばかりしていることも自認しています。
世の中にはもっと「感情を抑制せざるを得ない辛い状況」の人は、たくさんいるだろうことも理解している。
それでも、とても個人的なレベルで物を言っているので、「感情教育」と言ってしまおう!
心の片隅で「そんな大袈裟な〜」とツッコミを入れながら。
私が那智さんに負の感情を表せるようになるまでをお話しします。
(また個人的なことで長くなるかな?いつも思い付くままに書いているので、先が読めません。どうかお付き合いくださいませ)
テレクラで知り合って、会うまでに9日間、その間のお電話で「尊敬」しているいう感情が芽生えた。
会って、「白旗を挙げて」委ねようと決意した。
その間も、それ以降も、ずっと那智さんは言っている「嘘は付かないで。素直でいて。」
そして、私も嘘を付かず本心を見られる状態が心地よいから、素直な心でいようと思う。
もちろん、大人同士だから素直に表現するでも、言葉は選ぶ(きっとこの言葉選びも「合う」要素なのだろう)
嘘やごまかしは一回犯したら、それを重ねないといけない。
その心にシミを残す行為は絶対にしたくないと思うほど、那智さんとの信頼関係は重要になっていた。
それでも最初から「淋しい」や「悲しい」、「それはいやだ」と表現できていたわけではない。
問題が起きるたびに、根気よく教えられ、包んでくれたからできるようになったのだ。
はじめは、ほんの少し負の感情を表現してみた。
口数を少なくしてみる、意味ありげに「那智さん〜」と呼んでみる。
そうすると(忙しいときは除いて)「どうした?」って聞いてくれる。
この気付いて手を差しのべてくれることは、とても幸せ。
その時に訴えたいことが自分で理解できていれば、「どうした?」を合図に訴えることができる。
でも、私の良い癖か悪い癖か、わからないけど「淋しい理由」などを頭の中で整理してちゃんと伝えられる状態になっていないと「淋しい」と言えないのだ。
なぜかというと、もともと不穏な空気が苦手で、感情をむき出しにして相手が困惑するのを避けたいがために、整理して伝えようとしてしまうのだ。
だから、こういう場合は「どうした?」と聞いてもらっても「なんでもありません」と答えてしまう。
それでも、ほんの少しだけ、黙ったりしているんだから那智さんにとっては厄介なだけだ。
ある時、何が原因か忘れてしまったが、そんな状態になってしまった。
「どうした?」
「なんでもありません」
「じゃあ、なんで黙っているの?」
「よくわかりません」
そのまま電話は終わった。
なぜ「淋しい」と言えないのだろう。
淋しい原因がわかっていないから、訴えることはできない。
それでも那智さんが時間に余裕があるときなら一緒に探ってくれるのだが、今日は忙しそうだから、なおさら言えない。
那智さんが忙しいこと、それなのに手間を取らせてしまったこと、上手に訴えられないこと、いろんなことが私をうつむかせる。
気分を変えようと、買い物に出るけど、雨が降っていて、余計に悲しさが増す。
傘を差してトボトボと歩いていると、ジーンズのお尻のポケットに入れた携帯が振動して那智さんからの電話を知らせてくれる。
私は救われた思いで携帯を手にする。
時間を作ってくれたようだ。
でも、少し厳しいことも言われる。
「俺がりん子の落ち込んだ心に、付き合えるときは付き合うけど、ダメなときに、いちいち探るのは時間の無駄だ。俺もりん子が何が言いたいのかわからずに、気になるだけの状態はいやだ。」
確かに、その通りだ。
でも、「私は気付いて手を差しのべてくれること」が幸せなんだ。
そして、「自分の心が整理できていないと訴えられない」のだ、と伝える。
買い物に来たスーパーに到着したが、人がたくさんいる中では話せない。
だって、涙が流れている。
スーパーの近くの公園に行く。
雨の中、傘を差し、泣きながらしゃがみ込む。
「きちんと整理して「淋しい」を訴えるのは間違いじゃない。でも、もっと手前の「淋しい」だけでも伝えなさい。そのとき俺が付き合えなくても、りん子は淋しいと理解できているほうがずっと二人にとって良いことだから。もしかしたら「いまは付き合えない」という時もあるかもしれない。でも、知っておいてもらえるほうが安心だろ?」
泣きながら、でも、この涙が幸福の涙に変わっていくのを実感する。
そうか、私はちゃんと説明できなくても「淋しい」と訴えていいんだ。
解決のための訴えではなく、知ってもらうためだけの訴えがあることに、はじめて気が付く。
訴えるだけでいい。
それを那智さんは、柔らかいクッションのように、受け止めてくれる。
解決は時間がある時にしてくれるはずだから、安心してクッションに心を預けていればいいんだ。
冷たい雨の中、大人の女が傘を差して泣いている。
端から見たらおかしい光景だろう。
それでも、この幸福の涙を流せる心地よさを止めることはできない。
雨で周りに人がいないことを祈りながら、携帯を耳に当て那智さんの声を聞きながら、那智さんの毛布に包まれていた。
それから、私は「淋しいです。」と伝えられるようになっている。
那智さんの理想はもうワンランク上の付き合い。
感情を上手に表現する訓練は、このあとも続くのでした。
今度、それもお話しさせてくださいね。
「感情教育」なんて、また大袈裟なタイトルにしてしまいました。
大好きな中山可穂さんの小説のタイトルです。
まあ、この小説のタイトルもフランスの古典にあるらしいのですが。
そんなことは気にしない!
いつも大袈裟な表現ばかりしていることも自認しています。
世の中にはもっと「感情を抑制せざるを得ない辛い状況」の人は、たくさんいるだろうことも理解している。
それでも、とても個人的なレベルで物を言っているので、「感情教育」と言ってしまおう!
心の片隅で「そんな大袈裟な〜」とツッコミを入れながら。
私が那智さんに負の感情を表せるようになるまでをお話しします。
(また個人的なことで長くなるかな?いつも思い付くままに書いているので、先が読めません。どうかお付き合いくださいませ)
テレクラで知り合って、会うまでに9日間、その間のお電話で「尊敬」しているいう感情が芽生えた。
会って、「白旗を挙げて」委ねようと決意した。
その間も、それ以降も、ずっと那智さんは言っている「嘘は付かないで。素直でいて。」
そして、私も嘘を付かず本心を見られる状態が心地よいから、素直な心でいようと思う。
もちろん、大人同士だから素直に表現するでも、言葉は選ぶ(きっとこの言葉選びも「合う」要素なのだろう)
嘘やごまかしは一回犯したら、それを重ねないといけない。
その心にシミを残す行為は絶対にしたくないと思うほど、那智さんとの信頼関係は重要になっていた。
それでも最初から「淋しい」や「悲しい」、「それはいやだ」と表現できていたわけではない。
問題が起きるたびに、根気よく教えられ、包んでくれたからできるようになったのだ。
はじめは、ほんの少し負の感情を表現してみた。
口数を少なくしてみる、意味ありげに「那智さん〜」と呼んでみる。
そうすると(忙しいときは除いて)「どうした?」って聞いてくれる。
この気付いて手を差しのべてくれることは、とても幸せ。
その時に訴えたいことが自分で理解できていれば、「どうした?」を合図に訴えることができる。
でも、私の良い癖か悪い癖か、わからないけど「淋しい理由」などを頭の中で整理してちゃんと伝えられる状態になっていないと「淋しい」と言えないのだ。
なぜかというと、もともと不穏な空気が苦手で、感情をむき出しにして相手が困惑するのを避けたいがために、整理して伝えようとしてしまうのだ。
だから、こういう場合は「どうした?」と聞いてもらっても「なんでもありません」と答えてしまう。
それでも、ほんの少しだけ、黙ったりしているんだから那智さんにとっては厄介なだけだ。
ある時、何が原因か忘れてしまったが、そんな状態になってしまった。
「どうした?」
「なんでもありません」
「じゃあ、なんで黙っているの?」
「よくわかりません」
そのまま電話は終わった。
なぜ「淋しい」と言えないのだろう。
淋しい原因がわかっていないから、訴えることはできない。
それでも那智さんが時間に余裕があるときなら一緒に探ってくれるのだが、今日は忙しそうだから、なおさら言えない。
那智さんが忙しいこと、それなのに手間を取らせてしまったこと、上手に訴えられないこと、いろんなことが私をうつむかせる。
気分を変えようと、買い物に出るけど、雨が降っていて、余計に悲しさが増す。
傘を差してトボトボと歩いていると、ジーンズのお尻のポケットに入れた携帯が振動して那智さんからの電話を知らせてくれる。
私は救われた思いで携帯を手にする。
時間を作ってくれたようだ。
でも、少し厳しいことも言われる。
「俺がりん子の落ち込んだ心に、付き合えるときは付き合うけど、ダメなときに、いちいち探るのは時間の無駄だ。俺もりん子が何が言いたいのかわからずに、気になるだけの状態はいやだ。」
確かに、その通りだ。
でも、「私は気付いて手を差しのべてくれること」が幸せなんだ。
そして、「自分の心が整理できていないと訴えられない」のだ、と伝える。
買い物に来たスーパーに到着したが、人がたくさんいる中では話せない。
だって、涙が流れている。
スーパーの近くの公園に行く。
雨の中、傘を差し、泣きながらしゃがみ込む。
「きちんと整理して「淋しい」を訴えるのは間違いじゃない。でも、もっと手前の「淋しい」だけでも伝えなさい。そのとき俺が付き合えなくても、りん子は淋しいと理解できているほうがずっと二人にとって良いことだから。もしかしたら「いまは付き合えない」という時もあるかもしれない。でも、知っておいてもらえるほうが安心だろ?」
泣きながら、でも、この涙が幸福の涙に変わっていくのを実感する。
そうか、私はちゃんと説明できなくても「淋しい」と訴えていいんだ。
解決のための訴えではなく、知ってもらうためだけの訴えがあることに、はじめて気が付く。
訴えるだけでいい。
それを那智さんは、柔らかいクッションのように、受け止めてくれる。
解決は時間がある時にしてくれるはずだから、安心してクッションに心を預けていればいいんだ。
冷たい雨の中、大人の女が傘を差して泣いている。
端から見たらおかしい光景だろう。
それでも、この幸福の涙を流せる心地よさを止めることはできない。
雨で周りに人がいないことを祈りながら、携帯を耳に当て那智さんの声を聞きながら、那智さんの毛布に包まれていた。
それから、私は「淋しいです。」と伝えられるようになっている。
那智さんの理想はもうワンランク上の付き合い。
感情を上手に表現する訓練は、このあとも続くのでした。
今度、それもお話しさせてくださいね。
感情教育2
惹かれ合う理由
理由が説明できなくても「淋しい」と言っていい。
これを少しずつできるようになってきて、随分と楽になってきた。
人間、訴えるだけで救われるもののようだ。
那智さんも、私の心を探ることなく把握できて、快適なはずだ。
「淋しい」「それはいやだ」と訴えることはできてきた。
もうひとつ、対処に困っていたのは、「那智さんの意見を素直に受け入れられず、どう感情を持っていってよいかわからない」状態。
ほとんどのことは、那智さんの言うことは納得できる。
ただ、納得できていても、感情がついていかれず「モヤモヤ」して、「はい、その通りです。」と言えないときがあるのだ。
「淋しい」などの、はっきりした負の感情よりも、もう少し漠然としたいろんな要素が混じったような「モヤモヤ」した感情。
これなんて、不穏な空気が苦手な私は、どうやって収めてよいかわからず、困る。
ある時、私の作ったビーフシチューを那智さんに食べさせる機会があった。
那智さんは「美味しい、美味しくない」をはっきり言う人で、本当は私の手料理を振る舞うことはためらうのだけど。
案の定「しょっぱい」と言われてしまった。
このビーフシチューは、那智さんのために作ったのではない。
少し前に作ったもので、何度か火を通すうちに煮詰まってしょっぱくなってしまったことは否めない。
それでも、少し傷つく。
那智さんはいつも言う。
私に対して、「これを言ったら機嫌悪くなるかなとか思って付き合いたくないから、嘘は付かない。面倒だから言うのやめようと思わずに話せる唯一の人間がりん子だ。」と。
これは、私の自信になる。
相手の顔色を伺ってばかりいた私が安心していられるのは、那智さんは本当のことを言ってくれているからだ。
だから、その「しょっぱい」も、那智さんが嘘を付かずに言ってくれたことだ。
私は、那智さんが言う内容を選んで私と接して欲しくはない(言葉を選ぶのは大事ですけどね)。
ここで私がしょげたり、不機嫌になったり、悲しがっては、那智さんが面倒になって本当のことを言ってくれなくなってしまうのではないか、と危惧して、なんとかその意見を受け入れ、素直に自分なりに消化して、この場をいやな空気にしたくない。
「これは、りん子が俺のために作ったものではないから、あまり言いたくないけれど「しょっぱい」。なぜ言うかというと、本当のことを言っていたいし、りん子に俺の好みも知ってほしいからだ。」
わかっています。
私だって、那智さんが言いたいことをセーブしてほしくない。
でも、私も悲しい。
こんなとき、どうしたらいいのだろう。
「これからは、気を付けますね♪」とかわいく言えばいいの?
「じゃあ、私の手料理なんて期待しないで、奥さんの召し上がっていれば〜」と冗談っぽく皮肉を言えばいいの?
せっかく、伝えてくれた那智さんの感想にたいして、どんな感情を持ったらいいのかわからずに、グチャグチャになってしまう。
「那智さんに本当のことを言ってもらいたいから、素直になりたいです。でも、一生懸命素直になろうとしても、モヤモヤしてどうすることもできません。」
どうにもならない感情をどう表して良いかわからず、頭を抱えてしゃがみ込むしかできない。
「それでいいんだよ。」
「モヤモヤして、どうしようもないって言えばいい。俺も本当のことを言った、それによってりん子が素直になれず困っている、お互いに、その素直な気持ちを言えればそれでいいだよ。」
「お互い言えれば、それで安心するよね。」
「これがbetterな解決方法じゃなくて、bestなんだよ。いままで、こういう話し合いは電話ですることが多かっただろ?だから、この機会を待っていたんだ。一緒にいるときにある意味「衝突」したかった。一度一緒にいるときに「bestな解決方法」がわかれば、これからは大丈夫だろ。」
私は何度この幸福の涙を流しただろう。
那智さんは道標だ。
私を、強く、自由に、幸福にしてくれる道標。
那智さんがしゃがみ込む足元に、背が高い私が膝を抱え、小さくうずくまる。
よしよしと包み込むように背中を優しく叩いてくれる。
那智さんは、私に負の感情をきちんと表して良いことを教えてくれた。
いまは那智さんにはできるようになっている。
訓練して、私の周りの大切な人、嘘を付いて付き合いたくない人にも、徐々にできるようになるだろう。
姉にも、できるようになってきているはずだ。
歪んだシスターコンプレックスから、解放される日はもうきているのかもしれない。
理由が説明できなくても「淋しい」と言っていい。
これを少しずつできるようになってきて、随分と楽になってきた。
人間、訴えるだけで救われるもののようだ。
那智さんも、私の心を探ることなく把握できて、快適なはずだ。
「淋しい」「それはいやだ」と訴えることはできてきた。
もうひとつ、対処に困っていたのは、「那智さんの意見を素直に受け入れられず、どう感情を持っていってよいかわからない」状態。
ほとんどのことは、那智さんの言うことは納得できる。
ただ、納得できていても、感情がついていかれず「モヤモヤ」して、「はい、その通りです。」と言えないときがあるのだ。
「淋しい」などの、はっきりした負の感情よりも、もう少し漠然としたいろんな要素が混じったような「モヤモヤ」した感情。
これなんて、不穏な空気が苦手な私は、どうやって収めてよいかわからず、困る。
ある時、私の作ったビーフシチューを那智さんに食べさせる機会があった。
那智さんは「美味しい、美味しくない」をはっきり言う人で、本当は私の手料理を振る舞うことはためらうのだけど。
案の定「しょっぱい」と言われてしまった。
このビーフシチューは、那智さんのために作ったのではない。
少し前に作ったもので、何度か火を通すうちに煮詰まってしょっぱくなってしまったことは否めない。
それでも、少し傷つく。
那智さんはいつも言う。
私に対して、「これを言ったら機嫌悪くなるかなとか思って付き合いたくないから、嘘は付かない。面倒だから言うのやめようと思わずに話せる唯一の人間がりん子だ。」と。
これは、私の自信になる。
相手の顔色を伺ってばかりいた私が安心していられるのは、那智さんは本当のことを言ってくれているからだ。
だから、その「しょっぱい」も、那智さんが嘘を付かずに言ってくれたことだ。
私は、那智さんが言う内容を選んで私と接して欲しくはない(言葉を選ぶのは大事ですけどね)。
ここで私がしょげたり、不機嫌になったり、悲しがっては、那智さんが面倒になって本当のことを言ってくれなくなってしまうのではないか、と危惧して、なんとかその意見を受け入れ、素直に自分なりに消化して、この場をいやな空気にしたくない。
「これは、りん子が俺のために作ったものではないから、あまり言いたくないけれど「しょっぱい」。なぜ言うかというと、本当のことを言っていたいし、りん子に俺の好みも知ってほしいからだ。」
わかっています。
私だって、那智さんが言いたいことをセーブしてほしくない。
でも、私も悲しい。
こんなとき、どうしたらいいのだろう。
「これからは、気を付けますね♪」とかわいく言えばいいの?
「じゃあ、私の手料理なんて期待しないで、奥さんの召し上がっていれば〜」と冗談っぽく皮肉を言えばいいの?
せっかく、伝えてくれた那智さんの感想にたいして、どんな感情を持ったらいいのかわからずに、グチャグチャになってしまう。
「那智さんに本当のことを言ってもらいたいから、素直になりたいです。でも、一生懸命素直になろうとしても、モヤモヤしてどうすることもできません。」
どうにもならない感情をどう表して良いかわからず、頭を抱えてしゃがみ込むしかできない。
「それでいいんだよ。」
「モヤモヤして、どうしようもないって言えばいい。俺も本当のことを言った、それによってりん子が素直になれず困っている、お互いに、その素直な気持ちを言えればそれでいいだよ。」
「お互い言えれば、それで安心するよね。」
「これがbetterな解決方法じゃなくて、bestなんだよ。いままで、こういう話し合いは電話ですることが多かっただろ?だから、この機会を待っていたんだ。一緒にいるときにある意味「衝突」したかった。一度一緒にいるときに「bestな解決方法」がわかれば、これからは大丈夫だろ。」
私は何度この幸福の涙を流しただろう。
那智さんは道標だ。
私を、強く、自由に、幸福にしてくれる道標。
那智さんがしゃがみ込む足元に、背が高い私が膝を抱え、小さくうずくまる。
よしよしと包み込むように背中を優しく叩いてくれる。
那智さんは、私に負の感情をきちんと表して良いことを教えてくれた。
いまは那智さんにはできるようになっている。
訓練して、私の周りの大切な人、嘘を付いて付き合いたくない人にも、徐々にできるようになるだろう。
姉にも、できるようになってきているはずだ。
歪んだシスターコンプレックスから、解放される日はもうきているのかもしれない。
怒濤の幸福 麻縄編
非日常的な日常
はじめて芽生えた憧れは「縛られる」だった。
しかも「麻縄」は特殊な世界の象徴のように思えて、特別な憧れだった。
いままでも何度か縛られることはあったが幸か不幸か麻縄は未体験。
那智さんも綿ロープしか持っていなかった。
那智さんが麻縄を用意したのは付き合って随分たってからだった。
私が憧れていることも知っていたけど、自分がその気になるまでは行動に起こさない人だ。
渡されて、手入れ方法を教えてもらって、一生懸命手入れをする。
いつ使う気になっても良いように。
でもあんまり「おねだり」みたいなことはできないから、心の中でもじもじしながら、使ってもらえる時を待つ。
購入して少ししてから、その時は訪れた。
首に縄を掛け、器用に体を縛っていく。
腕は後ろ手に組んでいる。
なぜか、二本の足だけでバランスを保つというのは心許ない。
上半身と下半身、二本の麻縄は、那智さんの施す通りお行儀良く私の体を拘束していく。
体だけではない、心も那智さんに拘束されて、動けない。
うつむいているだけだ。
すべての作業を終え、鏡の前に連れて行かれる。
目の前の鏡には、かつて私が見ていた女性がいた。
幼い頃、盗み見した大人が読む本の中にいた女性。
両親と観ていた時代劇で拘束されている女性。
レディスコミックの中の女性。
そして、それらをずっと目の当たりにしつづけていた私。
鏡を見るのが怖かった。
ずっと憧れていたことが叶う瞬間、人は少し臆病になるのかもしれない。
願いが強いほど、蓄積された想いが多く溢れ出し、それによって何かが変わってしまうことへの躊躇。
そして、麻縄の感触が想像以上にグロテスクで、それを纏った自分の姿は、いつものオレンジ色の綿ロープより遥かに生々しく、かわいらしいものから遠ざかっているようで、見るのが怖かった。
それでも、恐る恐る見ると、そこには、かつて私が嫌悪と憧れを持って目にしていた、様々な女性がいた。
しかし、それは紛れもなく私だ。
いや、恥ずかしい。
下半身まで縄で拘束されたはしたない姿だ。
那智さんは気付いたかしら、麻縄の色が肌の色に溶け込んで、一瞬「剃毛」した状態が思い描けてしまったことを。
まだ未経験の恥ずかしい行為だ。
余計に恥ずかしい。
でも、嬉しい。
私はずっとこれを待っていたの。
だけど、可愛くない。
グロテスクだ。
正直に申し上げると、私の妄想に「グロテスクな私」というのがある。
嫌悪感が上回るのは分かっているくせに堕ちる私。
でも、那智さんは多分可愛い私がお好きなはずだ。
感じてはしたなくなる私は許せても、グロテスクな私は好きじゃないはずだ。
そんな考えが頭をよぎりブレーキをかける。
でも、麻縄のちくちくする不快感や、きしむ音に私は恍惚としてしまう。
さらに、鏡越しに見る那智さんの満足気な瞳が、私の心を鷲掴みにしてなぎ倒す。
那智さんに心も体も揺さぶられ、手が不自由な私はバランスを崩しひざまずく。
よろめく私はみっともないみじめな姿だろう。
可愛くない私を、次々積み重ねなければならない。
恍惚と嫌悪の行ったり来たりを繰り返した後、那智さんの足にもたれ掛かるように座らされ、更に不安定な角度で縄を後ろに引かれてしまう。
上を向かざるを得ない私の顔を被いかぶさるように覗き込む。
私を好きなように扱えて、私がこんな風にはしたなくなれる、世界で唯一の人。
なんて素敵な人なのでしょう。
そして、なんてこわい人なのでしょう。
麻縄の感触と那智さんの存在だけで、感じてしまう。
手も拘束されているから、支えられない体を那智さんの足に委ねる。
縄を引かれ仰け反らされ、だらしなく開いた口は、私の意志で閉じることはできない、言葉にならない呻き声を上げることが、唯一私に許されたことだ。
世界で一番可愛いと思ってほしい相手に、この上なく下品な姿を晒す。
この下品な姿を晒すことは、いつも私を少し傷つけるのだ。
だから、縄を解かれて赤くなった痕を見ながら、かつて私にそっと話しかけてみる。
「那智さんに見てもらえてよかったね!」心の中で小さく祝福して、恥ずかしい私をほんの少し許してみる。
願わくば、那智さんも「はしたない私」をほんの少し許してくださいますように。
はじめて芽生えた憧れは「縛られる」だった。
しかも「麻縄」は特殊な世界の象徴のように思えて、特別な憧れだった。
いままでも何度か縛られることはあったが幸か不幸か麻縄は未体験。
那智さんも綿ロープしか持っていなかった。
那智さんが麻縄を用意したのは付き合って随分たってからだった。
私が憧れていることも知っていたけど、自分がその気になるまでは行動に起こさない人だ。
渡されて、手入れ方法を教えてもらって、一生懸命手入れをする。
いつ使う気になっても良いように。
でもあんまり「おねだり」みたいなことはできないから、心の中でもじもじしながら、使ってもらえる時を待つ。
購入して少ししてから、その時は訪れた。
首に縄を掛け、器用に体を縛っていく。
腕は後ろ手に組んでいる。
なぜか、二本の足だけでバランスを保つというのは心許ない。
上半身と下半身、二本の麻縄は、那智さんの施す通りお行儀良く私の体を拘束していく。
体だけではない、心も那智さんに拘束されて、動けない。
うつむいているだけだ。
すべての作業を終え、鏡の前に連れて行かれる。
目の前の鏡には、かつて私が見ていた女性がいた。
幼い頃、盗み見した大人が読む本の中にいた女性。
両親と観ていた時代劇で拘束されている女性。
レディスコミックの中の女性。
そして、それらをずっと目の当たりにしつづけていた私。
鏡を見るのが怖かった。
ずっと憧れていたことが叶う瞬間、人は少し臆病になるのかもしれない。
願いが強いほど、蓄積された想いが多く溢れ出し、それによって何かが変わってしまうことへの躊躇。
そして、麻縄の感触が想像以上にグロテスクで、それを纏った自分の姿は、いつものオレンジ色の綿ロープより遥かに生々しく、かわいらしいものから遠ざかっているようで、見るのが怖かった。
それでも、恐る恐る見ると、そこには、かつて私が嫌悪と憧れを持って目にしていた、様々な女性がいた。
しかし、それは紛れもなく私だ。
いや、恥ずかしい。
下半身まで縄で拘束されたはしたない姿だ。
那智さんは気付いたかしら、麻縄の色が肌の色に溶け込んで、一瞬「剃毛」した状態が思い描けてしまったことを。
まだ未経験の恥ずかしい行為だ。
余計に恥ずかしい。
でも、嬉しい。
私はずっとこれを待っていたの。
だけど、可愛くない。
グロテスクだ。
正直に申し上げると、私の妄想に「グロテスクな私」というのがある。
嫌悪感が上回るのは分かっているくせに堕ちる私。
でも、那智さんは多分可愛い私がお好きなはずだ。
感じてはしたなくなる私は許せても、グロテスクな私は好きじゃないはずだ。
そんな考えが頭をよぎりブレーキをかける。
でも、麻縄のちくちくする不快感や、きしむ音に私は恍惚としてしまう。
さらに、鏡越しに見る那智さんの満足気な瞳が、私の心を鷲掴みにしてなぎ倒す。
那智さんに心も体も揺さぶられ、手が不自由な私はバランスを崩しひざまずく。
よろめく私はみっともないみじめな姿だろう。
可愛くない私を、次々積み重ねなければならない。
恍惚と嫌悪の行ったり来たりを繰り返した後、那智さんの足にもたれ掛かるように座らされ、更に不安定な角度で縄を後ろに引かれてしまう。
上を向かざるを得ない私の顔を被いかぶさるように覗き込む。
私を好きなように扱えて、私がこんな風にはしたなくなれる、世界で唯一の人。
なんて素敵な人なのでしょう。
そして、なんてこわい人なのでしょう。
麻縄の感触と那智さんの存在だけで、感じてしまう。
手も拘束されているから、支えられない体を那智さんの足に委ねる。
縄を引かれ仰け反らされ、だらしなく開いた口は、私の意志で閉じることはできない、言葉にならない呻き声を上げることが、唯一私に許されたことだ。
世界で一番可愛いと思ってほしい相手に、この上なく下品な姿を晒す。
この下品な姿を晒すことは、いつも私を少し傷つけるのだ。
だから、縄を解かれて赤くなった痕を見ながら、かつて私にそっと話しかけてみる。
「那智さんに見てもらえてよかったね!」心の中で小さく祝福して、恥ずかしい私をほんの少し許してみる。
願わくば、那智さんも「はしたない私」をほんの少し許してくださいますように。
勢いありません
独り言
いつの間にか、夏みたいになっちゃいましたね~。
昨日の引率の疲れか、昨夜那智さんとお話しできなかったからか、生理前のいつもの不安定か、「よし!!更新!!!」って感じになれません。
・・・ただの、冷めやすい性格のせい?
「酸素ください。」ってメールをしたけどなかなかお返事がいただけず、やっともらえたお返事は「あ。」の一言。
この「あ。」は合い言葉。
「愛してる。」の「あ。」(なんか照れるわ)
心から沸き上がって「あ。」のときもあるし、「はい、はい、はい。」ととりあえずの「あ。」のときもある。
いずれにしても、忙しいもしくは面倒くさい、那智さんからの愛情表現。
今日も、お忙しいようです。
時々、お遊びで「い。」とか「あいうえお。」とか送ってくれる。
だから、「あ、愛してる。い、いつまでも。う、生まれる前から。え、永遠と。お、思っている。」
とりあえず、あいうえお作文にして返信している。(作文になっていなくても、お許しを!)
あるときは「かきく。」なんてことも。
返信は「か、唐揚げ定食。き、きんぴらごぼう。く、クリームシチュー。」・・・このときは、お腹減っていたみたいです、私。
いつの間にか、夏みたいになっちゃいましたね~。
昨日の引率の疲れか、昨夜那智さんとお話しできなかったからか、生理前のいつもの不安定か、「よし!!更新!!!」って感じになれません。
・・・ただの、冷めやすい性格のせい?
「酸素ください。」ってメールをしたけどなかなかお返事がいただけず、やっともらえたお返事は「あ。」の一言。
この「あ。」は合い言葉。
「愛してる。」の「あ。」(なんか照れるわ)
心から沸き上がって「あ。」のときもあるし、「はい、はい、はい。」ととりあえずの「あ。」のときもある。
いずれにしても、忙しいもしくは面倒くさい、那智さんからの愛情表現。
今日も、お忙しいようです。
時々、お遊びで「い。」とか「あいうえお。」とか送ってくれる。
だから、「あ、愛してる。い、いつまでも。う、生まれる前から。え、永遠と。お、思っている。」
とりあえず、あいうえお作文にして返信している。(作文になっていなくても、お許しを!)
あるときは「かきく。」なんてことも。
返信は「か、唐揚げ定食。き、きんぴらごぼう。く、クリームシチュー。」・・・このときは、お腹減っていたみたいです、私。
前振りの前振り
惹かれ合う理由
那智さんと知り合って、いろんなことが変わった。
精神的、肉体的、髪型や服装など外見も、何より安定しているから雰囲気も変わっただろう。
その中で、重要なひとつ「お仕事」も変わった。
私は、いまMC業をしています。
キャリアも浅く、本数も制限しているから、素人臭さは抜けないと思いますが、贅沢なお小遣い稼ぎにはなっています。
「好きなことで、評価を得られる」充実感が、何よりも代え難い報酬です。
でも、これは私1人の力では、到達することは不可能でした。
実際に動き出したら、実務面での家族の協力なくしては、成り立たないのですが、それ以前に、那智さんのアドバイス(なんてもんじゃないプッシュ!)がなければ、踏み出すことはなかったでしょう。
しばらく、「司会者までの道」をお話しします。
ちっとも、セクシーじゃないし、「父性」のような重い話でもないかな。
奮闘記みたいになってしまうかもしれません。
でも、これも「りん子の幸せのために動く」、はじめに那智さんが掲げてくれたことの象徴的な出来事なので、書きますね。
上手に書けるかわからない上に、司会とは全然関係ない、司会を目指す前の私の話までしたくなっています・・。
それが、どう「司会業」に繋がるか、わからないけど。
いいの、私はここでは自由なんだ。(無責任というのかな!?)
繋がろうが、繋がるまいが、かまわない。
でも、上手に繋がらなかったら、ごめんなさい。
最初に謝っておきます(笑)
暑いからゆっくり着手させてくださいね♪
那智さんと知り合って、いろんなことが変わった。
精神的、肉体的、髪型や服装など外見も、何より安定しているから雰囲気も変わっただろう。
その中で、重要なひとつ「お仕事」も変わった。
私は、いまMC業をしています。
キャリアも浅く、本数も制限しているから、素人臭さは抜けないと思いますが、贅沢なお小遣い稼ぎにはなっています。
「好きなことで、評価を得られる」充実感が、何よりも代え難い報酬です。
でも、これは私1人の力では、到達することは不可能でした。
実際に動き出したら、実務面での家族の協力なくしては、成り立たないのですが、それ以前に、那智さんのアドバイス(なんてもんじゃないプッシュ!)がなければ、踏み出すことはなかったでしょう。
しばらく、「司会者までの道」をお話しします。
ちっとも、セクシーじゃないし、「父性」のような重い話でもないかな。
奮闘記みたいになってしまうかもしれません。
でも、これも「りん子の幸せのために動く」、はじめに那智さんが掲げてくれたことの象徴的な出来事なので、書きますね。
上手に書けるかわからない上に、司会とは全然関係ない、司会を目指す前の私の話までしたくなっています・・。
それが、どう「司会業」に繋がるか、わからないけど。
いいの、私はここでは自由なんだ。(無責任というのかな!?)
繋がろうが、繋がるまいが、かまわない。
でも、上手に繋がらなかったら、ごめんなさい。
最初に謝っておきます(笑)
暑いからゆっくり着手させてくださいね♪