正解はひとつじゃない?
独特な幸福感
詳細は書かないけどわたしの家族のことですこし頑張らないといけないことがあった。
きっと那智さんに出会う前のわたしだったら、全部自分で抱え込んで本質的な解決を先送りしていたようなこと。
問題提起をして、自分の感情を伝え、その後フォローする。
大前提は家族の良好、基本思考は『那智さんならどうするか』で奮い立たせるものは『那智さんに胸を張って報告できるか』。
はじめから終わり方まで、わたしの中では大事なことは全部やった。
翌日。
このことをお話し…しないでも大丈夫なような気がしていた。
いちおう解決しているけど、多少は心配をかけることになると思ったから。
わたしも少し大人になったものだ(笑)
昔だったら、まず、問題の部分だけお話しして、どう解決するかを相談してから、昨夜行った行動を開始した。
少し成長してからは、自分なりにやったことを報告して、これでよかたのか確認していた。
そのときに、よかったこと足りなかったことを評価してもらっていた。
ほぼ足りないことはないほどにできるようになって、最近はほとんど事後報告『問題なし』のハンコをいただいて安心する、そんな状態にまでなっていた。
それが、今回はお話ししなくても大丈夫かなっと思えるほどになったわけだ、だから、ずいぶん大人になった(笑)
でも、まあ、結局時間があったからお話ししたんだけど^^
そのとき自分はほとんど心にダメージを受けていなかったし、わたしの中では問題解決していたので、これはむしろ報告して喜んでもらえるのではないかという気持ちもあってお話しした。
喜んでもらえて、きっと、きちんと解決できたわたしを見たら安心してくれるんじゃないかなって思ったのです。
最後のフォローも含めて、完璧ってよろこんでもらえた。
おそらく、那智さんの理想とする『正解』とほとんど一致していたのでしょう。
なんでも妄信することはよくないけど、那智さんのやり方が自分の身に付いてわたしなりの納得できる問題解決に導けたのだから、この一致はとても感慨深くうれしい。
那智さんは出会った頃、わたしと感性が合うと言ってくれていた。
それは音楽や本のような形のあるものではなく、ほとんど目に見えない感覚的なもののようで、まだお互いの好きなアーチストさえ知らない頃から、そんなふうにいう那智さんがちょっぴり不思議だった。
きっと選ぶ言葉や間合いのようなもののことなんだろうなと思っていた。
もしかしたら、『正解』もそうなのかもしれない。
自分が正しいと思うこと。(那智さんは、それを『正しい』ではなく『好き、キライ』というけど)
人にとって正しいと思うことはひとつじゃない。
宗教や文化、もっと簡単に読んだ本や映画によっても人の『正解』はそれぞれあるかもしれない。
わたしが那智さんに相談して、実践できて、報告して、修正を受け入れられたのは、根本の『正解』が合っていたからなんじゃないかなって思う。
『正解』が違う人がいたとして、その人に那智さんがわたしにしたことと同じことをされても、もしかしたら、心から採用しようと思えなかったかもしれないし、それだと『実践できて、その後の修正』にまで発展しなかったと思う。
わたしには言語化できず、さらに実践できずにいた『正解』があったのだ。
那智さんは、それとほとんど一致する『正解』を持っていて、わたしにわかりやすく教えてくてた。
そもそも一致していたのだから、そのやり方はわたしにとって、慣れない大変さはあれど信じて遂行することができたのだと思う。
あなたを信じる。
言葉にするのは簡単だ。
だけど、実際これをし続けるのは難しい。
その難しいことのひとつに、感性の相性は重要なことのような気がする。
互いの『正解』が違うとどんなに言葉を尽くしても理解してもらえないことはやっぱりある。
最初は逐一報告と相談していたわたしが「お話ししなくても大丈夫かもしれない」と思えるくらいにまでなれたのは、那智さんの技量と根気強さと、『正解』が一緒だったという感性の相性の力なんじゃないかなって思うのだ。
なかなか感慨深いので、ちょっぴり徒然なエントリーでした^^
後日談。
このエントリーをほぼ書き終わったある日、たまたまお酒の席でご一緒したお友達のこの話題を出してみた。
「『正解』の相性が合っているから那智さんのアドバイスを受け入れられるのではないか」というわたしにわたしたちふたりを知る友人は
それは、那智さんがりん子さんの持っているものを使ったからじゃない?
と、また違う視点で話してくれた。
持っていないものを要求されても「無理!!」って思うけど、那智さんはりん子さんの持っているものの中から「はい、これとこれ使って〜」ってアドバイスしたから、受け入れられただけでしょ。
と、エントリーを丸ごとひっくり返すようなご意見(笑)
なるほど、たしかに人にアドバイスするのは簡単だとしても、泳げない人に「まず向こう岸まで泳いで」なんてアドバイスしてもそれは無理というもの。
泳げないけど、歩くのが得意な人だったら遠回りの迂回路を歩かせて目的地まで行かせるとか、工作が得意だったら簡易イカダでも作って向こう岸まで渡らせるとか、その人の力に合わせた『正解』があるはずだよね。
那智さんは、わたしの持っているものを見つけて使わせることが上手だったのかもしれない。
だから、すんなりとアドバイスを吸収することができたのだとしたら、それは那智さんの観察力の賜物ということになりますね^^
まあ、結局、どちらでもかまわないのだけど、ひとつの出来事からいろいろな答えが出たので、全部書いちゃいました^^
「等式」感想です。りん子の「持っているもの」少なかったですよ~(笑)当時はですね。「正解・好き」を提示して、なぜそうするかの説明と、やり方の説明、どうしたらやる気になるのかの説明、など、気の遠くなるような会話でした。でも、楽しかったな~。日々、成長するような感覚は。
私が育て好きなのは自負しているし、最初の頃はりん子も慣れていないので判断を間違えて、私がたしなめると、よく泣いていました。決して責める訳ではないのだけれど、りん子自身が悔しかったのと、私の思いや期待に応えられない悲しさがあったのだと思います。あの頃はね~かわいかったな~
今はね~偉そうにしている訳ではないのだけれど、殆ど完璧なのでつまらないですね~(笑)稀に齟齬があるとしても自覚していたりしているので確認したりして気を使う。自覚しているりん子を責めることはしたくないのでね。笑えるのは、私の言いたいことを、私よりも理解しているような気さえする。
懐かしい思いがするエントリーでした。具体性がないと読んでいる人は理解しにくいと思いますが、私は具体的に書かれていない分、大きく重い感じがして感慨深いものがあります。だらだらと書いていますが私がうれしいのでしょうね。深夜ののろけで失礼しました。
詳細は書かないけどわたしの家族のことですこし頑張らないといけないことがあった。
きっと那智さんに出会う前のわたしだったら、全部自分で抱え込んで本質的な解決を先送りしていたようなこと。
問題提起をして、自分の感情を伝え、その後フォローする。
大前提は家族の良好、基本思考は『那智さんならどうするか』で奮い立たせるものは『那智さんに胸を張って報告できるか』。
はじめから終わり方まで、わたしの中では大事なことは全部やった。
翌日。
このことをお話し…しないでも大丈夫なような気がしていた。
いちおう解決しているけど、多少は心配をかけることになると思ったから。
わたしも少し大人になったものだ(笑)
昔だったら、まず、問題の部分だけお話しして、どう解決するかを相談してから、昨夜行った行動を開始した。
少し成長してからは、自分なりにやったことを報告して、これでよかたのか確認していた。
そのときに、よかったこと足りなかったことを評価してもらっていた。
ほぼ足りないことはないほどにできるようになって、最近はほとんど事後報告『問題なし』のハンコをいただいて安心する、そんな状態にまでなっていた。
それが、今回はお話ししなくても大丈夫かなっと思えるほどになったわけだ、だから、ずいぶん大人になった(笑)
でも、まあ、結局時間があったからお話ししたんだけど^^
そのとき自分はほとんど心にダメージを受けていなかったし、わたしの中では問題解決していたので、これはむしろ報告して喜んでもらえるのではないかという気持ちもあってお話しした。
喜んでもらえて、きっと、きちんと解決できたわたしを見たら安心してくれるんじゃないかなって思ったのです。
最後のフォローも含めて、完璧ってよろこんでもらえた。
おそらく、那智さんの理想とする『正解』とほとんど一致していたのでしょう。
なんでも妄信することはよくないけど、那智さんのやり方が自分の身に付いてわたしなりの納得できる問題解決に導けたのだから、この一致はとても感慨深くうれしい。
那智さんは出会った頃、わたしと感性が合うと言ってくれていた。
それは音楽や本のような形のあるものではなく、ほとんど目に見えない感覚的なもののようで、まだお互いの好きなアーチストさえ知らない頃から、そんなふうにいう那智さんがちょっぴり不思議だった。
きっと選ぶ言葉や間合いのようなもののことなんだろうなと思っていた。
もしかしたら、『正解』もそうなのかもしれない。
自分が正しいと思うこと。(那智さんは、それを『正しい』ではなく『好き、キライ』というけど)
人にとって正しいと思うことはひとつじゃない。
宗教や文化、もっと簡単に読んだ本や映画によっても人の『正解』はそれぞれあるかもしれない。
わたしが那智さんに相談して、実践できて、報告して、修正を受け入れられたのは、根本の『正解』が合っていたからなんじゃないかなって思う。
『正解』が違う人がいたとして、その人に那智さんがわたしにしたことと同じことをされても、もしかしたら、心から採用しようと思えなかったかもしれないし、それだと『実践できて、その後の修正』にまで発展しなかったと思う。
わたしには言語化できず、さらに実践できずにいた『正解』があったのだ。
那智さんは、それとほとんど一致する『正解』を持っていて、わたしにわかりやすく教えてくてた。
そもそも一致していたのだから、そのやり方はわたしにとって、慣れない大変さはあれど信じて遂行することができたのだと思う。
あなたを信じる。
言葉にするのは簡単だ。
だけど、実際これをし続けるのは難しい。
その難しいことのひとつに、感性の相性は重要なことのような気がする。
互いの『正解』が違うとどんなに言葉を尽くしても理解してもらえないことはやっぱりある。
最初は逐一報告と相談していたわたしが「お話ししなくても大丈夫かもしれない」と思えるくらいにまでなれたのは、那智さんの技量と根気強さと、『正解』が一緒だったという感性の相性の力なんじゃないかなって思うのだ。
なかなか感慨深いので、ちょっぴり徒然なエントリーでした^^
後日談。
このエントリーをほぼ書き終わったある日、たまたまお酒の席でご一緒したお友達のこの話題を出してみた。
「『正解』の相性が合っているから那智さんのアドバイスを受け入れられるのではないか」というわたしにわたしたちふたりを知る友人は
それは、那智さんがりん子さんの持っているものを使ったからじゃない?
と、また違う視点で話してくれた。
持っていないものを要求されても「無理!!」って思うけど、那智さんはりん子さんの持っているものの中から「はい、これとこれ使って〜」ってアドバイスしたから、受け入れられただけでしょ。
と、エントリーを丸ごとひっくり返すようなご意見(笑)
なるほど、たしかに人にアドバイスするのは簡単だとしても、泳げない人に「まず向こう岸まで泳いで」なんてアドバイスしてもそれは無理というもの。
泳げないけど、歩くのが得意な人だったら遠回りの迂回路を歩かせて目的地まで行かせるとか、工作が得意だったら簡易イカダでも作って向こう岸まで渡らせるとか、その人の力に合わせた『正解』があるはずだよね。
那智さんは、わたしの持っているものを見つけて使わせることが上手だったのかもしれない。
だから、すんなりとアドバイスを吸収することができたのだとしたら、それは那智さんの観察力の賜物ということになりますね^^
まあ、結局、どちらでもかまわないのだけど、ひとつの出来事からいろいろな答えが出たので、全部書いちゃいました^^
「等式」感想です。りん子の「持っているもの」少なかったですよ~(笑)当時はですね。「正解・好き」を提示して、なぜそうするかの説明と、やり方の説明、どうしたらやる気になるのかの説明、など、気の遠くなるような会話でした。でも、楽しかったな~。日々、成長するような感覚は。
私が育て好きなのは自負しているし、最初の頃はりん子も慣れていないので判断を間違えて、私がたしなめると、よく泣いていました。決して責める訳ではないのだけれど、りん子自身が悔しかったのと、私の思いや期待に応えられない悲しさがあったのだと思います。あの頃はね~かわいかったな~
今はね~偉そうにしている訳ではないのだけれど、殆ど完璧なのでつまらないですね~(笑)稀に齟齬があるとしても自覚していたりしているので確認したりして気を使う。自覚しているりん子を責めることはしたくないのでね。笑えるのは、私の言いたいことを、私よりも理解しているような気さえする。
懐かしい思いがするエントリーでした。具体性がないと読んでいる人は理解しにくいと思いますが、私は具体的に書かれていない分、大きく重い感じがして感慨深いものがあります。だらだらと書いていますが私がうれしいのでしょうね。深夜ののろけで失礼しました。
さげまん
りん子的独り言(エラそう)
今日は、仕事に関して『デキる』や『ステイタス』や『稼いでいる』などなどを一緒くたにするのはお許しいただいてのエントリーです。
じつは、那智さんはめちゃくちゃ仕事人間というほどの人ではない。
いや、いま小規模ながらも一番上のポジションを任されているし、けっこう人心掌握術に長けているから那智さんなりのルールや仁義に従う仕事のスタンスはある一定の信頼を勝ち得るはずなので、仕事ができないということではまったくないのだけど。
たとえば有名企業とか、医者とか教授とか、いわゆるエリートと言われるようなステイタスからは縁遠いお仕事をされている。
世界を股にかけたビジネスマンでもないし、カタカナの業界でもないし、いままでもお仕事がうまくいかなかったことだって知っている。
とても大事な時期は夜中まで作業をすることもあるけど、日頃はそれなりの時間に帰宅して晩酌したりフィットネスに通ったりする時間的にも精神的にも余裕があるはずだ。
だから、ものすごいビジネスマンというわけではない。
ゆえに大金持ちというわけでもない(笑)
コストパフォーマンスに合ったお店を選ぶし、ほとんどのものには拘りなく100円ショップで済ませてしまえる。(あ、たぶん、すごいお金持ちでも、あまりこの辺は変わらないかも 笑)
わたしが支払うことだってある。
いかに低価格で楽しむか、なんていうものわたしたちの間ではお遊びのひとつにもなっている。
お誕生日に高価なディナーもプレゼントもない。
年末になんとなく恒例になっているディナーもお仕事で使っているところだから、かなりお客様価格にしてもらっているくらいだもの^^;(いや、価格じゃなくてお客様量だ、ものすごくたくさんの料理を楽しませてくれる)
だけど、わたしは、それになんら不満はない。
仕事がデキる男は、そりゃあ魅力的だ。
女性の皆さんも『仕事がデキる男はステキ』と思っている人も多いよね。
デキるに越したことはないけれど、高価なディナーもステキだけど、物事には正負両面があるわけで『仕事』でいろいろな負がごまかされていることはないだろうか。
わたしは医者と付き合っている
休暇でバリ島に連れて行ってもらった
なーんて、口にするのは気持ちよさそうって思うけど、わたしが那智さんに求めるものはじつはそこではないのだ。
わたしが那智さんに求めるものは、一定の良好な機嫌を保ち続けてくれることや変わらないことなどがあるけど、お仕事に繋がるようなことでいえば『バカみたいに濃厚なコミュニケーション』を取り続けてもらえる環境にあること。
環境がかわっていまより繋がれなくなるのはイヤだし。
海外赴任なんてある大企業になんて勤めてくれなくてもいい。
いまよりエラくならなくてもいいし、いまより高給取りにならなくてもいい。
名刺の名前よりかまってくれる時間。
ブランド品より、チャットで『わん』と呼んだら『おすわり』とお返事くれる余裕^^
これ以上エラくならないでというわたしはきっと『さげまん』。
きっといい女は、男の仕事を優先させて支えるのだろう。
そういう人は『あげまん』^^
それで需要と供給が合っているならいいけれど、でも、どこかで仕事がいろいろなものの免罪符になっていていないだろうか。
仕事だからと我慢してることを『仕事がデキる人はカッコいい』でごまかしているところはない?
それで不本意に『あげまん』にならざるを得ないのであれば、それは残念だ。
仕事がデキる男はステキだ。
回らないお寿司を食べさせてくれることや高い車に乗っていることは、魅力に映るだろうし、ちょっと自慢だよね^^
きっと那智さんのことなので、いまより忙しくなっても、たくさん稼ぐような職種についても、コミュニケーションを取る努力をしてくれるでしょうし、その余裕は残せる人だと思うのですが、いかんせん、わたしの求めるコミュニケーション量が膨大なので。
だから、那智さんはめちゃくちゃ仕事人間じゃなくてもかまわないのだ^^
それを保持するために、わたしは喜んで『さげまん』になろうと思うのです。
「等式」感想です。今日のエントリーで疑うのは『バカみたいに濃厚なコミュニケーション』を取り続けてもらえる環境にあること。りん子が求める、濃厚と言うのは繋がっている「時間的量」では思わない。だって「量」が「質」を駆逐すると、りん子は考えないと思うから。
昨日はテンパっていたので、電話している時に、いつもなら忙しいので切るよと宣言する。でも、無言でも気にならない位(りん子の存在を感じない)忙しかったのでそのままにしていてもご機嫌なりん子には閉口したが、それならば、隠しマイクで十分満足出来る事になる。(笑)
今日は、仕事に関して『デキる』や『ステイタス』や『稼いでいる』などなどを一緒くたにするのはお許しいただいてのエントリーです。
じつは、那智さんはめちゃくちゃ仕事人間というほどの人ではない。
いや、いま小規模ながらも一番上のポジションを任されているし、けっこう人心掌握術に長けているから那智さんなりのルールや仁義に従う仕事のスタンスはある一定の信頼を勝ち得るはずなので、仕事ができないということではまったくないのだけど。
たとえば有名企業とか、医者とか教授とか、いわゆるエリートと言われるようなステイタスからは縁遠いお仕事をされている。
世界を股にかけたビジネスマンでもないし、カタカナの業界でもないし、いままでもお仕事がうまくいかなかったことだって知っている。
とても大事な時期は夜中まで作業をすることもあるけど、日頃はそれなりの時間に帰宅して晩酌したりフィットネスに通ったりする時間的にも精神的にも余裕があるはずだ。
だから、ものすごいビジネスマンというわけではない。
ゆえに大金持ちというわけでもない(笑)
コストパフォーマンスに合ったお店を選ぶし、ほとんどのものには拘りなく100円ショップで済ませてしまえる。(あ、たぶん、すごいお金持ちでも、あまりこの辺は変わらないかも 笑)
わたしが支払うことだってある。
いかに低価格で楽しむか、なんていうものわたしたちの間ではお遊びのひとつにもなっている。
お誕生日に高価なディナーもプレゼントもない。
年末になんとなく恒例になっているディナーもお仕事で使っているところだから、かなりお客様価格にしてもらっているくらいだもの^^;(いや、価格じゃなくてお客様量だ、ものすごくたくさんの料理を楽しませてくれる)
だけど、わたしは、それになんら不満はない。
仕事がデキる男は、そりゃあ魅力的だ。
女性の皆さんも『仕事がデキる男はステキ』と思っている人も多いよね。
デキるに越したことはないけれど、高価なディナーもステキだけど、物事には正負両面があるわけで『仕事』でいろいろな負がごまかされていることはないだろうか。
わたしは医者と付き合っている
休暇でバリ島に連れて行ってもらった
なーんて、口にするのは気持ちよさそうって思うけど、わたしが那智さんに求めるものはじつはそこではないのだ。
わたしが那智さんに求めるものは、一定の良好な機嫌を保ち続けてくれることや変わらないことなどがあるけど、お仕事に繋がるようなことでいえば『バカみたいに濃厚なコミュニケーション』を取り続けてもらえる環境にあること。
環境がかわっていまより繋がれなくなるのはイヤだし。
海外赴任なんてある大企業になんて勤めてくれなくてもいい。
いまよりエラくならなくてもいいし、いまより高給取りにならなくてもいい。
名刺の名前よりかまってくれる時間。
ブランド品より、チャットで『わん』と呼んだら『おすわり』とお返事くれる余裕^^
これ以上エラくならないでというわたしはきっと『さげまん』。
きっといい女は、男の仕事を優先させて支えるのだろう。
そういう人は『あげまん』^^
それで需要と供給が合っているならいいけれど、でも、どこかで仕事がいろいろなものの免罪符になっていていないだろうか。
仕事だからと我慢してることを『仕事がデキる人はカッコいい』でごまかしているところはない?
それで不本意に『あげまん』にならざるを得ないのであれば、それは残念だ。
仕事がデキる男はステキだ。
回らないお寿司を食べさせてくれることや高い車に乗っていることは、魅力に映るだろうし、ちょっと自慢だよね^^
きっと那智さんのことなので、いまより忙しくなっても、たくさん稼ぐような職種についても、コミュニケーションを取る努力をしてくれるでしょうし、その余裕は残せる人だと思うのですが、いかんせん、わたしの求めるコミュニケーション量が膨大なので。
だから、那智さんはめちゃくちゃ仕事人間じゃなくてもかまわないのだ^^
それを保持するために、わたしは喜んで『さげまん』になろうと思うのです。
「等式」感想です。今日のエントリーで疑うのは『バカみたいに濃厚なコミュニケーション』を取り続けてもらえる環境にあること。りん子が求める、濃厚と言うのは繋がっている「時間的量」では思わない。だって「量」が「質」を駆逐すると、りん子は考えないと思うから。
昨日はテンパっていたので、電話している時に、いつもなら忙しいので切るよと宣言する。でも、無言でも気にならない位(りん子の存在を感じない)忙しかったのでそのままにしていてもご機嫌なりん子には閉口したが、それならば、隠しマイクで十分満足出来る事になる。(笑)
徒然に「デコレーション」
独り言
次回お出かけのためにひとりファッションショーをしながら、那智さんに「こんなのどうですか?」と画像を送って遊んでいた。
たまたま背の低いテーブルにカメラを置いて、すこし下から見上げるような角度で撮ったので、やけにスタイルよく写って、びっくり。
加齢により重力に負けてしまっている様々な部位が、なんだかないもののように写るのだ。
わ、わたしじゃないみたいで、気持ちいい〜♪
楽しくなってどんどん低い位置からの画像を撮ってみた。
しまいには床に置いて舐めるように^^
その中から何枚か那智さんに送るけど、なんだか反応がイマイチ。
ちょっとつまらない(笑)
その理由を聞いてみると
下から撮ったら良く写るに決まっているから
だそうだ。
たしかに、下から撮ったらスタイル良く撮れる。
でも、それは那智さんからしたら『ウソ』なのだ。
ウソはダメらしい^^;
俺はりん子を撮るとき多少は良く写るよう少し下から撮るようにはするけど、下から撮ったとわかるくらいにはしていないだろ
だから、本来のりん子のまま、良く撮れることもあるし、イマイチなのもある
でも、その良く撮れたものはりん子自身の良さなわけだ
なるほど。
とても見栄えの良いウソものよりも本物の中で最良が本当の良さだと思っているのだ。
だからですね、ときどき写真を撮るときに、よそで見かけるようなライティングや構図なんかを凝ってくれたらいいのにと思うけど、ほぼ素の状態で撮るのは。
本物の中の最良の価値。
たしかに、それはとてもよくわかる。
だけど、女心としては、すこしでも見栄えよく写ってほしいと思うし、そんな自分にうっとりする気持ちもあるし、たとえそれが『ウソ』だとしてもちょっぴり自慢したい気持ちもある。
あんまり気に入ったので画像付きでツイートしていいかと聞いたら「下から撮ったマジックです」と明記したらいいよと釘を刺されてしまった(苦笑)
もちろん個人差はあると承知の上で、どうやら、これは男女でわけてみたら面白いのではないだろうか?
たとえば、男性はいわゆるナチュラルメイクを好み、女性はつけまつ毛やアイラインや変身するようなメイクを好む、また、ネイルに凝るのも、あれはきっと女性の間ではウケはいいでしょうけど、あまり凝り過ぎるものは男性は敬遠しそうだよね。
もしかしたら、男性はナチュラル、女性はデコレーションが好きということなのだろうか。
と、簡単に答えに辿り着いてしまいそうなんだけど、ちょっと待って?
たとえば、水商売の女性などはかなりデコレーションしているよね?
古くは花魁だって、そういうことだよね?
そのデコレートした女性を求めて集まるのは男性だ。
そういえば、以前、聖子ちゃんのウソ泣きはウソ泣きだとわかっていても、ウソ泣きをしてまで媚びたいという気持ちがプラスに作用するというエントリーを書いたことがあるけど、これだってある意味デコレーションだよね。
(『徒然に「ぶりっこ」』)
だとしたら、男性だって立派にデコレーション好きだということになりはしないか。
もしかしたら、男性は自分の女にはナチュラルを求めて、非日常ではデコを求めるということだとしたら、ちょっと納得。
ところで、わたしは常々、女のデコはじつは男性を意識したものではなくて、同性の目を意識していると思っている。
極端にいうと同性に対する威嚇なんじゃないかとさえ思う。
水商売の女性が競って髪を盛るのも、女子高生のルーズソックスの長さも(古いけど^^;)、あれは同性に対して『あなた、あたしの勝てる?』という威嚇して競っているんじゃないかと。
ただ、女を商品として見る男性は、手をかけているほうに商品価値を見いだすから、結果的には男性に対するアピールになっているのだけど、根本は女性同士の縄張り争いなんじゃないかな〜と思っているのだ(これは、男性はもちろん、女性からもあまり賛同を得られない持論 笑)
ということは、結局、女のデコは男のためのものではないということになるのかな。
う〜ん、何が言いたいのか、まとまらなくなっちゃった^^
でも、いいの。
だって、このエントリーはツイートしそびれた、下から舐めるように撮った『ウソ』のデコレート画像を載せて悦に入るための口実エントリーなんだもの(笑)
ということで、那智さんに不評だった『ウソ』画像載せちゃお〜。
このポーズはいろいろな弊害をないものにしてくれます(笑)
さて、わたしはこのデコレーションは誰のためにしているのでしょう。
同性の目?
それとも、男性?
やっぱり那智さん?
わー、もしかしたら、わたしのため。
自己満足かもしれない!!
デコレーションは、結局自己満足ってことなのかな〜^^
「等式」感想です。んんん、女性は誰の為にデコするのか、よく解らないので、自分の気持ちを表します。りん子の化粧について。①私が見てきれいだと思いたい時②他者にきれいだと思わせたい時。この2つの場合があり、①はナチュラル②は濃い化粧をリクエストします。
まれに、繁華街をキャパ嬢(年増の)のような格好で歩く時には断然、②ですね~。りん子からメイクについて聞かれた時は「口紅くらい」はみたいな答えが多いと思います。プロのセミヌード写真良いですね、完全ヌードにりん子挑戦する?(笑)
次回お出かけのためにひとりファッションショーをしながら、那智さんに「こんなのどうですか?」と画像を送って遊んでいた。
たまたま背の低いテーブルにカメラを置いて、すこし下から見上げるような角度で撮ったので、やけにスタイルよく写って、びっくり。
加齢により重力に負けてしまっている様々な部位が、なんだかないもののように写るのだ。
わ、わたしじゃないみたいで、気持ちいい〜♪
楽しくなってどんどん低い位置からの画像を撮ってみた。
しまいには床に置いて舐めるように^^
その中から何枚か那智さんに送るけど、なんだか反応がイマイチ。
ちょっとつまらない(笑)
その理由を聞いてみると
下から撮ったら良く写るに決まっているから
だそうだ。
たしかに、下から撮ったらスタイル良く撮れる。
でも、それは那智さんからしたら『ウソ』なのだ。
ウソはダメらしい^^;
俺はりん子を撮るとき多少は良く写るよう少し下から撮るようにはするけど、下から撮ったとわかるくらいにはしていないだろ
だから、本来のりん子のまま、良く撮れることもあるし、イマイチなのもある
でも、その良く撮れたものはりん子自身の良さなわけだ
なるほど。
とても見栄えの良いウソものよりも本物の中で最良が本当の良さだと思っているのだ。
だからですね、ときどき写真を撮るときに、よそで見かけるようなライティングや構図なんかを凝ってくれたらいいのにと思うけど、ほぼ素の状態で撮るのは。
本物の中の最良の価値。
たしかに、それはとてもよくわかる。
だけど、女心としては、すこしでも見栄えよく写ってほしいと思うし、そんな自分にうっとりする気持ちもあるし、たとえそれが『ウソ』だとしてもちょっぴり自慢したい気持ちもある。
あんまり気に入ったので画像付きでツイートしていいかと聞いたら「下から撮ったマジックです」と明記したらいいよと釘を刺されてしまった(苦笑)
もちろん個人差はあると承知の上で、どうやら、これは男女でわけてみたら面白いのではないだろうか?
たとえば、男性はいわゆるナチュラルメイクを好み、女性はつけまつ毛やアイラインや変身するようなメイクを好む、また、ネイルに凝るのも、あれはきっと女性の間ではウケはいいでしょうけど、あまり凝り過ぎるものは男性は敬遠しそうだよね。
もしかしたら、男性はナチュラル、女性はデコレーションが好きということなのだろうか。
と、簡単に答えに辿り着いてしまいそうなんだけど、ちょっと待って?
たとえば、水商売の女性などはかなりデコレーションしているよね?
古くは花魁だって、そういうことだよね?
そのデコレートした女性を求めて集まるのは男性だ。
そういえば、以前、聖子ちゃんのウソ泣きはウソ泣きだとわかっていても、ウソ泣きをしてまで媚びたいという気持ちがプラスに作用するというエントリーを書いたことがあるけど、これだってある意味デコレーションだよね。
(『徒然に「ぶりっこ」』)
だとしたら、男性だって立派にデコレーション好きだということになりはしないか。
もしかしたら、男性は自分の女にはナチュラルを求めて、非日常ではデコを求めるということだとしたら、ちょっと納得。
ところで、わたしは常々、女のデコはじつは男性を意識したものではなくて、同性の目を意識していると思っている。
極端にいうと同性に対する威嚇なんじゃないかとさえ思う。
水商売の女性が競って髪を盛るのも、女子高生のルーズソックスの長さも(古いけど^^;)、あれは同性に対して『あなた、あたしの勝てる?』という威嚇して競っているんじゃないかと。
ただ、女を商品として見る男性は、手をかけているほうに商品価値を見いだすから、結果的には男性に対するアピールになっているのだけど、根本は女性同士の縄張り争いなんじゃないかな〜と思っているのだ(これは、男性はもちろん、女性からもあまり賛同を得られない持論 笑)
ということは、結局、女のデコは男のためのものではないということになるのかな。
う〜ん、何が言いたいのか、まとまらなくなっちゃった^^
でも、いいの。
だって、このエントリーはツイートしそびれた、下から舐めるように撮った『ウソ』のデコレート画像を載せて悦に入るための口実エントリーなんだもの(笑)
ということで、那智さんに不評だった『ウソ』画像載せちゃお〜。
このポーズはいろいろな弊害をないものにしてくれます(笑)
さて、わたしはこのデコレーションは誰のためにしているのでしょう。
同性の目?
それとも、男性?
やっぱり那智さん?
わー、もしかしたら、わたしのため。
自己満足かもしれない!!
デコレーションは、結局自己満足ってことなのかな〜^^
「等式」感想です。んんん、女性は誰の為にデコするのか、よく解らないので、自分の気持ちを表します。りん子の化粧について。①私が見てきれいだと思いたい時②他者にきれいだと思わせたい時。この2つの場合があり、①はナチュラル②は濃い化粧をリクエストします。
まれに、繁華街をキャパ嬢(年増の)のような格好で歩く時には断然、②ですね~。りん子からメイクについて聞かれた時は「口紅くらい」はみたいな答えが多いと思います。プロのセミヌード写真良いですね、完全ヌードにりん子挑戦する?(笑)
さげまんふたたび
独特な幸福感
『さげまん』ではまるで那智さんがケチで仕事のできない男と取られかねないことを書いてしまいました。
伝えたいことは別のところにあったわけで、那智さんもそれはわかってくれていますが、わたし自身が言い訳したくなってしまったので、緊急フォローエントリー。
と、何をどうこねくり回しても、結局、ノロケですけれど^^;
わたしはできるだけ那智さんとつながっていたい。
電話でもチャットでもメールでも。
中でも電話でつながっていられることはとても嬉しい。
朝のお電話タイムがおしまいになればほとんどは終了なのだけど、ときどきお仕事場にひとりの場合もあるので、状況によってはその間もつながっていられることもある。
仕事の集中度合いによってはお返事が上の空だったりほとんど無言だったりするけれど、お仕事の電話の声や息づかいが伝わる電話でつながれることはしあわせな時間。
できるだけ味わっていたいな〜と思う。
でも、仮にひとりで通話できる環境だったとしても、その時間は那智さんの裁量によって決められるのだ。
まず、とても集中しないといけない場合は当然切る。
あまり集中しなくていい場合や、内容によって集中度合いにバラつきがあるときは、比較的つながっていてくれる。
その場合はけっこう黙っている時間も長いこともあるし、その都度変化する集中度合いにわたしも合わせて会話する。
一番長くつながっていられるのは頭を使わない作業のとき、こういうときは那智さんの退屈しのぎという役割りもあるので、割りとたっぷりつながれる。
こんなふうに、そのときの仕事の状況によって
一旦切るよ〜(はーい^^)
とか
これ1本吸ったらおしまい(はい〜;;)
とか
なんかしゃべれよ〜(笑)(はいっ!!)
になるわけです。
そんな悲喜こもごも(?)の時間。
わたしにはご褒美のパターンがもうひとつある。
それは、わたしが寝ている間もつながっていられる時間。
那智さんの気配をイヤフォンから感じながらソファに寝転んでうとうとする。
ほとんど那智さんの意識の外にいるわたし、それでも那智さんの気配がわたしを包むような時間。
仕事をしている飼い主と同じ部屋の窓際でお昼寝をするわんこだ。
でも、このパターン、いままで3回、あるかないか、とても貴重なパターンなのだ。
「ちょっとお昼寝します〜」というと「じゃあね〜」と切られる。
ご褒美のような時間をいただけず、わたしはちょっぴり残念な気持ちになる。
まあ、それ以外でもたくさんつながっていてくれるから叶わないことに不服をいうつもりはまったくないのだけど、集中度合いによっては黙っていてもつながっていることもよくあるので、それと変わりないのになぜ切らないといけないかと聞くと
だって、寝られないだろ?
のだそうだ。
那智さん、わたし那智さんの気配を感じながら寝たいんですよ〜
と希望を伝えも
じゃあね〜
とあっさり切られてしまう。
まあ、昼寝するってこちらがいってるんだから至極当然な判断なので、こちらも従うより他ない(当たり前だ^^;)、だから貴重なご褒美。
この日は朝から那智さんお忙しそうだった。
一緒に働いているおばさんがお休みで朝イチからずっとつながることができているのだけど、次から次に電話は鳴り、なにやら依頼はあるし、トラブル発生してそれに対処もしないといけないみたいだった。
「トラブル〜♪」と、ホントはけっこう大変そうなのに節をつけて教えてくれたり、途中締め切りが迫っている仕事を思い出して「やべ〜(笑)」と慌ててみたり、ずいぶん大変そうだった。
(特に、締め切りに気づいてからは 笑)
わたしの話題提供にもほとんど上の空。
空返事の理由はわかっているし、そういう状況だからあえてたくさん話題を提供するのも控えてただ互いに黙って自分のことをしている。
ときどき、「今日は暑いですね〜」とか「りん子〜」なんていう程度。
日頃はそれでも話題提供を意識するのだけど、今日は本当に忙しそうでこうやって黙っているほうが那智さんにとってもよさそうだし、わたしもちょっと肩の力を抜いていられるのでほとんど黙々とただつながっていた。
それでも、那智さんの声や『音』が聞こえてくることは、本当に幸せ。
そうそう、昨日、ちょっと寝不足だったし、いま話題提供の必要はなさそうだし、お昼寝させてもらっちゃおうかな。
しかも、今日のこの流れでいったら、そのままつながっていられそう^^
那智さん、わたし少しお昼寝しますね
「電話、どうします?」と聞いたほうがいいような気もしたけど、そーっとそこには触れず^^;
かなり上の空の「はーい」のお返事、で、ものすごく久しぶりのご褒美の時間になったのだ。
ソファに寝転び目を閉じる。
まだ夏の日差しはまぶしいけれど、窓から入る風はさわやかで心地よい。
イヤフォンからは那智さんの『音』。
キーボードを打ち、資料をめくり、電話を受ける。
すっと眠りに落ちそうになると電話の声が聞こえてきて、ふわっと浅いところまで引っぱりあげられる、それもうれしい。
那智さんのポケットの中でうとうとしているような幸福に、思わず、よだれ(笑)
はあ、わたし、眠り浅いと思っていたけど、一瞬ホントに眠っちゃったみたい。
滅多にないご褒美の時間だった。
それにしても、今日は忙しそうにも関わらずずっとつながっていてくれた。
普段、とても忙しいときは切るのに。
不思議に思い問いかけてみる。
那智さん、今日、ほとんどわたしの存在無視でしたね〜
無視だね〜
お忙しそうだったのに、どうして切らなかったのですか?
お昼寝の間も
りん子に集中する気がないから(笑)
なるほど!!
今日は忙しいレベルがすごーく高かったのですね!!
いつもだったら忙しくて集中しなければいけないときは、さすがにわたしの存在は集中の邪魔になるから切るのだけど、今日はあまりに忙し過ぎてわたしの存在を意識から外すことに決めたから、逆につながっていられたのですね。
あまりに忙しいときは、そういう方法を選んでくれるわけだ。
(で、この片手間感に萌え^^)
『さげまん』の感想で
りん子は『量』より『質』を選ぶはずだから、『バカみたいに濃厚なコミュニケーション』は時間的な量を言っているとは思わない。
というようなことを言っていた。
おそらく、那智さんはこの日のように『ただつながっている』ことでわたしがどれほど幸せを感じているのか、いまひとつピンと来ないのだろう。
那智さんの想像する『質のよいコミュニケーション』とは言い難いのかもしれない。
だけど、わたしはとても幸せだった。
この日はたくさんつながっていてくれた。
ときどきの呼びかけに上の空なりに「はーい」と返事を返してくれたり、集中から一瞬解放されるときは「おーい」と呼びかけてくれて話に付き合いってくれたり、本当に集中するときは黙々としながら、たとえわたしに集中する気がないと割り切られていても、とにかくずっと(笑)
それが意識から外されてほとんど無視状態にも関わらずわたしが幸せでいられたのは、那智さんがずっとわたしに対していつも通りでいてくれたからだ。
締め切りが迫っていてもトラブルが発生しても、本人が感想で「テンパってた」と言っていることがウソのようにいつも通りでいてくれた。
忙しいことは伝わるけど、それで機嫌が悪くなるわけでもないしこちらに当たるわけでもない。
きっと日頃からどの程度、どのレベルでつながるかを判断する基準のひとつに『いつも通り』があるのかもしれない。
いつも通り『できるときはできるし、できないときはできない』。
那智さん自身無理せず、いつも通りの那智さんでいられるように判断する。
いま電話していたら仕事に集中できない→そしたらすこし違う機嫌になってしまうかも→切る。
このメールは重要→読む間は集中、でも、その後は多少りん子に集中できる→しばらく無言&空返事。
ああ、もう今日はすんごく忙しい!!→りん子に気を使わないと決めることで、りん子に対してはいつも通りでいられる→今回の対応^^
こんなふうに、わたしに対していつも通りのテンションでいられる状態を那智さん自身が判断して、その通り対応してくれるのだ。
それが伝わっているから、お仕事の邪魔していないかなとか、なんかイライラしているみたいでイヤだなとか、こちらにマイナス感情を持たせることがないのではないでしょうか。
そうすると、わたしにとってとても質の良い幸福な時間ができる。
たしかに量より質だろう。
濃く深い会話で互いを知ることもできるし、関係も深まる。
だけど、実りある会話だけが質じゃないよね。
犬が膝に抱かれてうたた寝するような、こちらが気を使うことなく自然に身を任せていられる時間も上質な時間だ。
じつは、わたしの『バカみたいに濃厚なコミュニケーション』は上質で長時間を指しているのだ!!
だからね、那智さん、わたしは量より質じゃなくて、『量と質』なのです^^
で、あなたはそれをわたしに与えてくださっているのです。
ということで、わたしは『量と質』がほしいから、やっぱりさげまんでいようと思います^^
<関連エントリー>
コミュニケーション、いろいろ。
『片手間』
『片手間のわけ』
『電波』
『会話の達人』
『罪作りな人』
『わたしの願い事』
できるときはできるし、できないときはできない
リンク貼り間違えていました、これが正解^^
『白旗を挙げた日』
「等式」感想です。このエントリーが「ケチ・仕事ができない」フォローになるのか?(笑)まるで、私の文章のように最初の命題と結論が一致していないのではと思う。。エントリーに無い情報を1つ、りん子と電話でつながっている時に私が聞き返す回数がとても多い、酷い時には同じ話を3回もさせる、
さすがに3回目は謝りながらですが、1回の聞き返しなんて完全に普通、集中が弱く、仕事も大事、りん子の話も聞きたい時はどちらも優先させようとすると、どうしても、仕事が勝つので聞き返す。その時は無意識に近いのですがね。そこで、りん子が怒らないから、このコミュニケーションが成立する。
『さげまん』ではまるで那智さんがケチで仕事のできない男と取られかねないことを書いてしまいました。
伝えたいことは別のところにあったわけで、那智さんもそれはわかってくれていますが、わたし自身が言い訳したくなってしまったので、緊急フォローエントリー。
と、何をどうこねくり回しても、結局、ノロケですけれど^^;
わたしはできるだけ那智さんとつながっていたい。
電話でもチャットでもメールでも。
中でも電話でつながっていられることはとても嬉しい。
朝のお電話タイムがおしまいになればほとんどは終了なのだけど、ときどきお仕事場にひとりの場合もあるので、状況によってはその間もつながっていられることもある。
仕事の集中度合いによってはお返事が上の空だったりほとんど無言だったりするけれど、お仕事の電話の声や息づかいが伝わる電話でつながれることはしあわせな時間。
できるだけ味わっていたいな〜と思う。
でも、仮にひとりで通話できる環境だったとしても、その時間は那智さんの裁量によって決められるのだ。
まず、とても集中しないといけない場合は当然切る。
あまり集中しなくていい場合や、内容によって集中度合いにバラつきがあるときは、比較的つながっていてくれる。
その場合はけっこう黙っている時間も長いこともあるし、その都度変化する集中度合いにわたしも合わせて会話する。
一番長くつながっていられるのは頭を使わない作業のとき、こういうときは那智さんの退屈しのぎという役割りもあるので、割りとたっぷりつながれる。
こんなふうに、そのときの仕事の状況によって
一旦切るよ〜(はーい^^)
とか
これ1本吸ったらおしまい(はい〜;;)
とか
なんかしゃべれよ〜(笑)(はいっ!!)
になるわけです。
そんな悲喜こもごも(?)の時間。
わたしにはご褒美のパターンがもうひとつある。
それは、わたしが寝ている間もつながっていられる時間。
那智さんの気配をイヤフォンから感じながらソファに寝転んでうとうとする。
ほとんど那智さんの意識の外にいるわたし、それでも那智さんの気配がわたしを包むような時間。
仕事をしている飼い主と同じ部屋の窓際でお昼寝をするわんこだ。
でも、このパターン、いままで3回、あるかないか、とても貴重なパターンなのだ。
「ちょっとお昼寝します〜」というと「じゃあね〜」と切られる。
ご褒美のような時間をいただけず、わたしはちょっぴり残念な気持ちになる。
まあ、それ以外でもたくさんつながっていてくれるから叶わないことに不服をいうつもりはまったくないのだけど、集中度合いによっては黙っていてもつながっていることもよくあるので、それと変わりないのになぜ切らないといけないかと聞くと
だって、寝られないだろ?
のだそうだ。
那智さん、わたし那智さんの気配を感じながら寝たいんですよ〜
と希望を伝えも
じゃあね〜
とあっさり切られてしまう。
まあ、昼寝するってこちらがいってるんだから至極当然な判断なので、こちらも従うより他ない(当たり前だ^^;)、だから貴重なご褒美。
この日は朝から那智さんお忙しそうだった。
一緒に働いているおばさんがお休みで朝イチからずっとつながることができているのだけど、次から次に電話は鳴り、なにやら依頼はあるし、トラブル発生してそれに対処もしないといけないみたいだった。
「トラブル〜♪」と、ホントはけっこう大変そうなのに節をつけて教えてくれたり、途中締め切りが迫っている仕事を思い出して「やべ〜(笑)」と慌ててみたり、ずいぶん大変そうだった。
(特に、締め切りに気づいてからは 笑)
わたしの話題提供にもほとんど上の空。
空返事の理由はわかっているし、そういう状況だからあえてたくさん話題を提供するのも控えてただ互いに黙って自分のことをしている。
ときどき、「今日は暑いですね〜」とか「りん子〜」なんていう程度。
日頃はそれでも話題提供を意識するのだけど、今日は本当に忙しそうでこうやって黙っているほうが那智さんにとってもよさそうだし、わたしもちょっと肩の力を抜いていられるのでほとんど黙々とただつながっていた。
それでも、那智さんの声や『音』が聞こえてくることは、本当に幸せ。
そうそう、昨日、ちょっと寝不足だったし、いま話題提供の必要はなさそうだし、お昼寝させてもらっちゃおうかな。
しかも、今日のこの流れでいったら、そのままつながっていられそう^^
那智さん、わたし少しお昼寝しますね
「電話、どうします?」と聞いたほうがいいような気もしたけど、そーっとそこには触れず^^;
かなり上の空の「はーい」のお返事、で、ものすごく久しぶりのご褒美の時間になったのだ。
ソファに寝転び目を閉じる。
まだ夏の日差しはまぶしいけれど、窓から入る風はさわやかで心地よい。
イヤフォンからは那智さんの『音』。
キーボードを打ち、資料をめくり、電話を受ける。
すっと眠りに落ちそうになると電話の声が聞こえてきて、ふわっと浅いところまで引っぱりあげられる、それもうれしい。
那智さんのポケットの中でうとうとしているような幸福に、思わず、よだれ(笑)
はあ、わたし、眠り浅いと思っていたけど、一瞬ホントに眠っちゃったみたい。
滅多にないご褒美の時間だった。
それにしても、今日は忙しそうにも関わらずずっとつながっていてくれた。
普段、とても忙しいときは切るのに。
不思議に思い問いかけてみる。
那智さん、今日、ほとんどわたしの存在無視でしたね〜
無視だね〜
お忙しそうだったのに、どうして切らなかったのですか?
お昼寝の間も
りん子に集中する気がないから(笑)
なるほど!!
今日は忙しいレベルがすごーく高かったのですね!!
いつもだったら忙しくて集中しなければいけないときは、さすがにわたしの存在は集中の邪魔になるから切るのだけど、今日はあまりに忙し過ぎてわたしの存在を意識から外すことに決めたから、逆につながっていられたのですね。
あまりに忙しいときは、そういう方法を選んでくれるわけだ。
(で、この片手間感に萌え^^)
『さげまん』の感想で
りん子は『量』より『質』を選ぶはずだから、『バカみたいに濃厚なコミュニケーション』は時間的な量を言っているとは思わない。
というようなことを言っていた。
おそらく、那智さんはこの日のように『ただつながっている』ことでわたしがどれほど幸せを感じているのか、いまひとつピンと来ないのだろう。
那智さんの想像する『質のよいコミュニケーション』とは言い難いのかもしれない。
だけど、わたしはとても幸せだった。
この日はたくさんつながっていてくれた。
ときどきの呼びかけに上の空なりに「はーい」と返事を返してくれたり、集中から一瞬解放されるときは「おーい」と呼びかけてくれて話に付き合いってくれたり、本当に集中するときは黙々としながら、たとえわたしに集中する気がないと割り切られていても、とにかくずっと(笑)
それが意識から外されてほとんど無視状態にも関わらずわたしが幸せでいられたのは、那智さんがずっとわたしに対していつも通りでいてくれたからだ。
締め切りが迫っていてもトラブルが発生しても、本人が感想で「テンパってた」と言っていることがウソのようにいつも通りでいてくれた。
忙しいことは伝わるけど、それで機嫌が悪くなるわけでもないしこちらに当たるわけでもない。
きっと日頃からどの程度、どのレベルでつながるかを判断する基準のひとつに『いつも通り』があるのかもしれない。
いつも通り『できるときはできるし、できないときはできない』。
那智さん自身無理せず、いつも通りの那智さんでいられるように判断する。
いま電話していたら仕事に集中できない→そしたらすこし違う機嫌になってしまうかも→切る。
このメールは重要→読む間は集中、でも、その後は多少りん子に集中できる→しばらく無言&空返事。
ああ、もう今日はすんごく忙しい!!→りん子に気を使わないと決めることで、りん子に対してはいつも通りでいられる→今回の対応^^
こんなふうに、わたしに対していつも通りのテンションでいられる状態を那智さん自身が判断して、その通り対応してくれるのだ。
それが伝わっているから、お仕事の邪魔していないかなとか、なんかイライラしているみたいでイヤだなとか、こちらにマイナス感情を持たせることがないのではないでしょうか。
そうすると、わたしにとってとても質の良い幸福な時間ができる。
たしかに量より質だろう。
濃く深い会話で互いを知ることもできるし、関係も深まる。
だけど、実りある会話だけが質じゃないよね。
犬が膝に抱かれてうたた寝するような、こちらが気を使うことなく自然に身を任せていられる時間も上質な時間だ。
じつは、わたしの『バカみたいに濃厚なコミュニケーション』は上質で長時間を指しているのだ!!
だからね、那智さん、わたしは量より質じゃなくて、『量と質』なのです^^
で、あなたはそれをわたしに与えてくださっているのです。
ということで、わたしは『量と質』がほしいから、やっぱりさげまんでいようと思います^^
<関連エントリー>
コミュニケーション、いろいろ。
『片手間』
『片手間のわけ』
『電波』
『会話の達人』
『罪作りな人』
『わたしの願い事』
できるときはできるし、できないときはできない
リンク貼り間違えていました、これが正解^^
『白旗を挙げた日』
「等式」感想です。このエントリーが「ケチ・仕事ができない」フォローになるのか?(笑)まるで、私の文章のように最初の命題と結論が一致していないのではと思う。。エントリーに無い情報を1つ、りん子と電話でつながっている時に私が聞き返す回数がとても多い、酷い時には同じ話を3回もさせる、
さすがに3回目は謝りながらですが、1回の聞き返しなんて完全に普通、集中が弱く、仕事も大事、りん子の話も聞きたい時はどちらも優先させようとすると、どうしても、仕事が勝つので聞き返す。その時は無意識に近いのですがね。そこで、りん子が怒らないから、このコミュニケーションが成立する。
徒然に「社会」のこと
りん子的独り言(エラそう)
SMをしているけど、ラブラブな日常も書くし、アダルトカテゴリでも我が子のことも書く。
まったく制限のないブログ。
だから、自由に書きたいことを書きます、今日も^^
いじめによる子供の自殺があると、本当に心が痛むし腹立たしい。
見ず知らずの子供でもそう思うのだから、家族の怒りや無念を想像すると、想像することさえ失礼なんじゃないかと反省してしまうほどだ。
本当にやるせなくて、たまらない。
少年の痛ましい事件を見て。
日頃、思っていた『いじめ』について書きました。
何度も書き直して、なんだかまとまりも勢いもないものになっちゃった^^;
我が子が小さい頃。
ある教材をお下がりでいただいたことがあった。
ほら、キャラクターが出てきて歯磨きを教えたり、ひらがなの勉強したりするの、あるでしょ。
そこについていたビデオでこんな教えをしていた。
公園にトラとウサギが遊んでいて、後からカラスが来る。
トラとウサギはカラスに気づくけど、そのまま砂場で遊んでいた。
一緒に遊びたいカラスはしばらくそばをウロウロしたり一人でブランコに乗ったりしている。
そこに指導するおねえさんが登場して。
「そういうときは「入れて」っていうんだよ」って教える。
カラスは入れてと言って一緒に遊ぶのだ。
うん、これは正解。
自分の要求をきちんと言葉にすることは大事なことだ。
そうすれば、可能性はたくさん広がる。
それを子供が知るのは正解。
だけど、ちょっとだけ、イヤだった。
だって、最初にそこにいることや二人だという情報だけ見たらトラとウサギはこの場合、有利な立場にある。
極端に言わせてもらえば、強者だよね。
わたしは強者が弱者に手を差し伸べる構図のほうが好きだ、弱者が強者に気遣わないといけない構図がキライだ。
だから、この場合トラとウサギが「一緒に遊ぶ?」ということも正解のひとつだよね
強さを作る教育も大切だけど、手を差し伸べる優しさを作る教育も同じくらい大切だと思うのだけど、子育てをしていて、子育て環境の中でそちらに触れている量の少なさは実感する。
強者が手を差し伸べる、その美意識を個々に持てる文化や社会が成熟した大人の社会だと思う。
日本は階級社会ではないから、強者と弱者の区別はつきにくいですよね。
でも、わたしはできるだけ自分の判断で手を差し伸べるべき立場にあるかアンテナを張っていたいと思う。
年齢?
腕力?
いろいろ強者と弱者の計り方はあるでしょうけど、わたしなりの基準のひとつは『複数と個』。
『複数と個』になったら強弱の判断ができると思っています。
だから、さっきのトラとウサギは強者、個のカラスに一歩歩みよることが優しさで強さでだと思う。
いわゆる『いじめ』も、わたしなりの定義がありまして。
基本的に『1対複数』を指しています。
1対1は意地悪な子とかケンカとかだと思っているの、まだ逃げ道はある気がする。
それが1対2になったら、いじめだと定義しています。
(中には1対1でも1対複数に値するもの、それ以上のものもあると思うけど、基本の定義として)
だから、強者が弱者につらい思いをさせるいじめ(という言葉さえ不快)の構図は、まったくの未熟な行いだと、ハッキリ認識したい。
力が強い子が殴るのも、集団でひとりを無視するのも、強者が力を誇示するやり方は、子供っぽくて恥ずかしいこと。
そして、弱いものを攻撃する人は憂さ晴らしをしているのだよね。
じつは鬱屈したものを抱えていてるのだと思う。
だから、いじめをしている子は自分に鬱屈したものを抱えているとみんなに言っているようなものなのだ。
親か兄弟かそれ以外の要素か、とにかく、自分が別の強者に抑圧されている弱者側にいるのだと気づいてほしい。
いじめをしている側は、いじめることで自分の本質を人に見せちゃってる。
(ときどき、性的ないじめの記事などを読むと、いじめる側の性的興味がバレバレで恥ずかしくないのか!?と思うほどです)
いじめは悪いこと、たしかにそうだけど。
集団で攻撃するには子供っぽいこと。
弱いものを攻撃するのは、自分も別なところでいじめられていると公言しているようなこと。
いじめられている子は、いじめられていることを恥ずかしいことだと感じていると思うけど、じつは、いじめているほうがとても恥ずかしいことをしているのだと、思う。
いじめはとーっても恥ずかしいこと。
こんなふうにたくさんの人が思えたらいいのに。
最後に。
日頃から、ネット上に広がる情報の渦にはあまり触れないようにしているのだけど、今回はちょっと引き込まれてしまった。
加害者とされる少年や家族がずいぶん叩かれていて、ネットというのはこういうものなんだなと、あらためて感じました。
ネットなどで加害少年と家族や教師が個人攻撃に遭っているのを見ると、なんとも言えない恐ろしさや焦りみたいなものを感じていました。
たしかに集団でひとりを攻撃し死に至るようなこと、それを責任逃れのように隠匿する体質は、どれも許されることではないけれど、いつの間にか正義が大きな集団となって、本来の解決とは違う様相を呈してくるのを刻々と見てしまっていて、怖かった。
ある瞬間からオセロがひっくり返るように強者から弱者に変わることはよくあること。
だから、わたしはいつも『卵の側にいたい』と思っている。
でも、でも、正直に言ってしまうと、あまりに凄惨な出来事や犯罪行為をいじめという言葉で隠蔽していた大人たちの報道を見てしまうと、その正義がひっくり返る様子にほんのわずかに溜飲を下げている自分もいることもたしかだった。
日頃エラそうに『卵の側に』と書いているクセに、その溜飲を下げている自分をもうひとりの自分が見ていて、ホントに情けなく、とても恥ずかしかった。
情けないけど、わたしはそこまでデキた人間ではないらしい。
それでも、そこに気づき、自分を恥じることならできる。
そして、無関係の人間が正義の鉄拳を振り下ろす恐ろしさも省みることをしたいと思う。
(ただ、今回、いろいろ動かしたのは無関係の人たちの勢いだということも言えなくないので、複雑ではあります)
完璧には無理だとしても、様々な場面でいまは自分のほうが『強く』いられていると判断したら、手を差し伸べられる人でいたいと、思いを巡らせた数週間でした。
緊急避難としてテレビやネットでいじめられている子に対して解決策を教えることは大事だけど、本当は弱い立場が強くなるよりも、『強者は弱者に手を差し伸べる』ということが長く広くたくさんの人の心に浸透したらいいなと夢を見る。
弱者に手を差し伸べる社会。
わたしもまだまだ失敗することもあるけど、でも、心に留めて、わたしの近くからそうしていきたい。
<関連エントリー>
『hotに3周年御礼♪』
『連れションはキライ』
『善意』
『成績表』
『球体』
「等式」感想です。感想を2回程書いたのですが、没です。難しいですね、いじめを考えるとどうしても「勇気」がテーマになります。いじめを「やめなよ」と言う勇気、「やめて」と言う勇気、誰かに「相談する」勇気、勇気は自分自身に勝つことで、他者との比較ではない。このぐらいかな~
SMをしているけど、ラブラブな日常も書くし、アダルトカテゴリでも我が子のことも書く。
まったく制限のないブログ。
だから、自由に書きたいことを書きます、今日も^^
いじめによる子供の自殺があると、本当に心が痛むし腹立たしい。
見ず知らずの子供でもそう思うのだから、家族の怒りや無念を想像すると、想像することさえ失礼なんじゃないかと反省してしまうほどだ。
本当にやるせなくて、たまらない。
少年の痛ましい事件を見て。
日頃、思っていた『いじめ』について書きました。
何度も書き直して、なんだかまとまりも勢いもないものになっちゃった^^;
我が子が小さい頃。
ある教材をお下がりでいただいたことがあった。
ほら、キャラクターが出てきて歯磨きを教えたり、ひらがなの勉強したりするの、あるでしょ。
そこについていたビデオでこんな教えをしていた。
公園にトラとウサギが遊んでいて、後からカラスが来る。
トラとウサギはカラスに気づくけど、そのまま砂場で遊んでいた。
一緒に遊びたいカラスはしばらくそばをウロウロしたり一人でブランコに乗ったりしている。
そこに指導するおねえさんが登場して。
「そういうときは「入れて」っていうんだよ」って教える。
カラスは入れてと言って一緒に遊ぶのだ。
うん、これは正解。
自分の要求をきちんと言葉にすることは大事なことだ。
そうすれば、可能性はたくさん広がる。
それを子供が知るのは正解。
だけど、ちょっとだけ、イヤだった。
だって、最初にそこにいることや二人だという情報だけ見たらトラとウサギはこの場合、有利な立場にある。
極端に言わせてもらえば、強者だよね。
わたしは強者が弱者に手を差し伸べる構図のほうが好きだ、弱者が強者に気遣わないといけない構図がキライだ。
だから、この場合トラとウサギが「一緒に遊ぶ?」ということも正解のひとつだよね
強さを作る教育も大切だけど、手を差し伸べる優しさを作る教育も同じくらい大切だと思うのだけど、子育てをしていて、子育て環境の中でそちらに触れている量の少なさは実感する。
強者が手を差し伸べる、その美意識を個々に持てる文化や社会が成熟した大人の社会だと思う。
日本は階級社会ではないから、強者と弱者の区別はつきにくいですよね。
でも、わたしはできるだけ自分の判断で手を差し伸べるべき立場にあるかアンテナを張っていたいと思う。
年齢?
腕力?
いろいろ強者と弱者の計り方はあるでしょうけど、わたしなりの基準のひとつは『複数と個』。
『複数と個』になったら強弱の判断ができると思っています。
だから、さっきのトラとウサギは強者、個のカラスに一歩歩みよることが優しさで強さでだと思う。
いわゆる『いじめ』も、わたしなりの定義がありまして。
基本的に『1対複数』を指しています。
1対1は意地悪な子とかケンカとかだと思っているの、まだ逃げ道はある気がする。
それが1対2になったら、いじめだと定義しています。
(中には1対1でも1対複数に値するもの、それ以上のものもあると思うけど、基本の定義として)
だから、強者が弱者につらい思いをさせるいじめ(という言葉さえ不快)の構図は、まったくの未熟な行いだと、ハッキリ認識したい。
力が強い子が殴るのも、集団でひとりを無視するのも、強者が力を誇示するやり方は、子供っぽくて恥ずかしいこと。
そして、弱いものを攻撃する人は憂さ晴らしをしているのだよね。
じつは鬱屈したものを抱えていてるのだと思う。
だから、いじめをしている子は自分に鬱屈したものを抱えているとみんなに言っているようなものなのだ。
親か兄弟かそれ以外の要素か、とにかく、自分が別の強者に抑圧されている弱者側にいるのだと気づいてほしい。
いじめをしている側は、いじめることで自分の本質を人に見せちゃってる。
(ときどき、性的ないじめの記事などを読むと、いじめる側の性的興味がバレバレで恥ずかしくないのか!?と思うほどです)
いじめは悪いこと、たしかにそうだけど。
集団で攻撃するには子供っぽいこと。
弱いものを攻撃するのは、自分も別なところでいじめられていると公言しているようなこと。
いじめられている子は、いじめられていることを恥ずかしいことだと感じていると思うけど、じつは、いじめているほうがとても恥ずかしいことをしているのだと、思う。
いじめはとーっても恥ずかしいこと。
こんなふうにたくさんの人が思えたらいいのに。
最後に。
日頃から、ネット上に広がる情報の渦にはあまり触れないようにしているのだけど、今回はちょっと引き込まれてしまった。
加害者とされる少年や家族がずいぶん叩かれていて、ネットというのはこういうものなんだなと、あらためて感じました。
ネットなどで加害少年と家族や教師が個人攻撃に遭っているのを見ると、なんとも言えない恐ろしさや焦りみたいなものを感じていました。
たしかに集団でひとりを攻撃し死に至るようなこと、それを責任逃れのように隠匿する体質は、どれも許されることではないけれど、いつの間にか正義が大きな集団となって、本来の解決とは違う様相を呈してくるのを刻々と見てしまっていて、怖かった。
ある瞬間からオセロがひっくり返るように強者から弱者に変わることはよくあること。
だから、わたしはいつも『卵の側にいたい』と思っている。
でも、でも、正直に言ってしまうと、あまりに凄惨な出来事や犯罪行為をいじめという言葉で隠蔽していた大人たちの報道を見てしまうと、その正義がひっくり返る様子にほんのわずかに溜飲を下げている自分もいることもたしかだった。
日頃エラそうに『卵の側に』と書いているクセに、その溜飲を下げている自分をもうひとりの自分が見ていて、ホントに情けなく、とても恥ずかしかった。
情けないけど、わたしはそこまでデキた人間ではないらしい。
それでも、そこに気づき、自分を恥じることならできる。
そして、無関係の人間が正義の鉄拳を振り下ろす恐ろしさも省みることをしたいと思う。
(ただ、今回、いろいろ動かしたのは無関係の人たちの勢いだということも言えなくないので、複雑ではあります)
完璧には無理だとしても、様々な場面でいまは自分のほうが『強く』いられていると判断したら、手を差し伸べられる人でいたいと、思いを巡らせた数週間でした。
緊急避難としてテレビやネットでいじめられている子に対して解決策を教えることは大事だけど、本当は弱い立場が強くなるよりも、『強者は弱者に手を差し伸べる』ということが長く広くたくさんの人の心に浸透したらいいなと夢を見る。
弱者に手を差し伸べる社会。
わたしもまだまだ失敗することもあるけど、でも、心に留めて、わたしの近くからそうしていきたい。
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『hotに3周年御礼♪』
『連れションはキライ』
『善意』
『成績表』
『球体』
「等式」感想です。感想を2回程書いたのですが、没です。難しいですね、いじめを考えるとどうしても「勇気」がテーマになります。いじめを「やめなよ」と言う勇気、「やめて」と言う勇気、誰かに「相談する」勇気、勇気は自分自身に勝つことで、他者との比較ではない。このぐらいかな~