上手に説明できない
独特な幸福感
また悲しくなってしまった。
似たような性癖を持ち、客観的に見て私なんかよりも過激なことをしている女性のサイトを見て、悲しくなってしまった。
いわゆる「変態」的なことを目の当たりにしたときに、みなさんはどんな感情を持つのだろう。
「変態!!」と目を背けて、そのまま無関係なこととして、忘れてしまうのだろうか。
「信じられない」と軽蔑して、日常に戻るのだろうか。
私は、悲しくなってしまうのだ。
なぜこんなにいつも同じように悲しくなってしまうのか、一生懸命考えてみた。
これから書くことは、すべて推測で書いていますので、一方向の意見になってしまうと思います。
そして、それは、彼らを批判しているものではなく、私だったら悲しいということを軸に書いています。
人は、それぞれ幸せを感じる基準が違う、オリジナルでも幸せの基準を持っている人の方が最終的には幸福かもしれない。
下腹部に「奴隷」と大きく刺青を入れる。
SM(に限定しても、しなくてもいけど)のような少数派な性癖を持つと、どうしても表と裏ができる。
表りん子、元の人格。表面的にも内面的にも一般社会を生きている・
裏りん子、「何もかも(これは、家庭や仕事などの実質的なことというよりは、プライドや理性、尊厳のような象徴的なもののほうが大きい)捨ててしまいたい」と思い、半身くらい捨てている状態。
どちらも私で、オセロみたいにクルって変わるわけじゃなくて、捨てるのが半身のときもあれば、片足くらいのときもある。
だから、はっきりと線引きできるのではないけど、表裏は存在する。
その下腹部に刺青を入れるだけを取っていうのではないが、それに代表されるように「一般社会で生きにくくなる」行為を多くしている人。
私が悲しくなるのは、そんな女性を見たときだ。
特殊とはいえハプニングバーなどで、複数の男性に抱かれている女性を見ても悲しくならないのは、それは快感を求めているだけで、「生きにくい道」を選んでいるわけではないからだ。
この「一般社会を生きにくくする」というのは、裏の部分が表を上回っているのだと思うのだ。
その人だって、洋服を着ればお買い物もできるし、仕事もできるのだから、表面上は一般社会を生きている。
でも、温泉にはいけないだろうなとか、結婚や出産はどうするのだろうと極端に選択肢を減らし、根底の何かを捨ててしまわないと、表は上回れないと思う。
私は、表りん子を愛してほしい。
表りん子が愛されているから、那智さんの前だけで裏りん子にもなれる。
だから、表が存在(もしくは主要)しなければ、裏りん子は成り立たないと思うのだ。
だけど、彼女たちは表が極端に少ない(推測です)はずで、そうなると、表ではなく裏の彼女を愛されていることになるのではないか。
それが悲しいのだ。
本当は、誰だって元の自分を愛してほしいはず。
だけど、裏だから愛されていると私が勝手に感じてしまうから、悲しいのだ。
那智さんに話したら「裏が本来の自分って思っているのかもしれないよ、それは、わからない」と言われた。
確かに、そう。
だから、私が勝手に推測して、彼女たちに軽蔑も哀れみも持たず、私が勝手に悲しいのだ。
(まあ、裏が本来の自分という事実だけでも「生きにくい」でしょうと、労いたくなるけど。)
表の元人格を愛されていないと感じて悲しいのだ。
それと、依存度の高い人ほど、裏の比重が重くなることに抵抗が少ない気もして、それもやるせない。
私も、とても依存体質だ。
だから、まかり間違えば彼女たちのように、裏の比重が増す可能性があると思うのだ。
たまたま那智さんが、表りん子が好きで(私に限らず、ギャップを好む那智さんには裏だけなんてつまらないことでしょうけど)、その表りん子の幸せを考えてくれる人だったから、私は少しずつ自分に自身を持って幸せになれている。
もしかして、那智さんが裏りん子だけを望んだら、私の天秤は大きく裏りん子に傾いてしまいそうな気がするから、彼女たちに少し共感してしまっているのかもしれない。(この共感も勝手な推測によるものです)
現に、この話をしたときに那智さんが「もし、俺とりん子が結婚していて、俺がちょっと不自由だけど刺青を入れようっていったら、どうする?入れるだろ?それと同じなだけじゃないかな。」と聞いてきた。
私は、こくんと頷いて、刺青を入れる様を想像できてしまう。(これも結婚できているわけじゃなから、推測だし甘美な妄想にすぎないけど)
でも、それだって、もともと表りん子を散々愛してくれたからそこに行けるわけで・・そうなると彼女たちは散々表を愛された結果、裏主体に見える生き方をしているのだろうか。
結局、わからないです。
今日は、結論が出なくてごめんなさい。
幸せは、人それぞれだ。
那智さんが、表りん子がいて裏がある私を愛してくれて、安堵する。
でも、散々愛された結果、裏を選ぶことになる愛って、本当にあるのだろうか。
あるのなら、一瞬だけ、羨ましい。
私の悲しさは、表を愛されていないと想像してしまうことと、依存の強い女性の顛末を見ているような苦しさと。
もしかしたら、ほんの少しの叶わない思いなのかもしれない。
また悲しくなってしまった。
似たような性癖を持ち、客観的に見て私なんかよりも過激なことをしている女性のサイトを見て、悲しくなってしまった。
いわゆる「変態」的なことを目の当たりにしたときに、みなさんはどんな感情を持つのだろう。
「変態!!」と目を背けて、そのまま無関係なこととして、忘れてしまうのだろうか。
「信じられない」と軽蔑して、日常に戻るのだろうか。
私は、悲しくなってしまうのだ。
なぜこんなにいつも同じように悲しくなってしまうのか、一生懸命考えてみた。
これから書くことは、すべて推測で書いていますので、一方向の意見になってしまうと思います。
そして、それは、彼らを批判しているものではなく、私だったら悲しいということを軸に書いています。
人は、それぞれ幸せを感じる基準が違う、オリジナルでも幸せの基準を持っている人の方が最終的には幸福かもしれない。
下腹部に「奴隷」と大きく刺青を入れる。
SM(に限定しても、しなくてもいけど)のような少数派な性癖を持つと、どうしても表と裏ができる。
表りん子、元の人格。表面的にも内面的にも一般社会を生きている・
裏りん子、「何もかも(これは、家庭や仕事などの実質的なことというよりは、プライドや理性、尊厳のような象徴的なもののほうが大きい)捨ててしまいたい」と思い、半身くらい捨てている状態。
どちらも私で、オセロみたいにクルって変わるわけじゃなくて、捨てるのが半身のときもあれば、片足くらいのときもある。
だから、はっきりと線引きできるのではないけど、表裏は存在する。
その下腹部に刺青を入れるだけを取っていうのではないが、それに代表されるように「一般社会で生きにくくなる」行為を多くしている人。
私が悲しくなるのは、そんな女性を見たときだ。
特殊とはいえハプニングバーなどで、複数の男性に抱かれている女性を見ても悲しくならないのは、それは快感を求めているだけで、「生きにくい道」を選んでいるわけではないからだ。
この「一般社会を生きにくくする」というのは、裏の部分が表を上回っているのだと思うのだ。
その人だって、洋服を着ればお買い物もできるし、仕事もできるのだから、表面上は一般社会を生きている。
でも、温泉にはいけないだろうなとか、結婚や出産はどうするのだろうと極端に選択肢を減らし、根底の何かを捨ててしまわないと、表は上回れないと思う。
私は、表りん子を愛してほしい。
表りん子が愛されているから、那智さんの前だけで裏りん子にもなれる。
だから、表が存在(もしくは主要)しなければ、裏りん子は成り立たないと思うのだ。
だけど、彼女たちは表が極端に少ない(推測です)はずで、そうなると、表ではなく裏の彼女を愛されていることになるのではないか。
それが悲しいのだ。
本当は、誰だって元の自分を愛してほしいはず。
だけど、裏だから愛されていると私が勝手に感じてしまうから、悲しいのだ。
那智さんに話したら「裏が本来の自分って思っているのかもしれないよ、それは、わからない」と言われた。
確かに、そう。
だから、私が勝手に推測して、彼女たちに軽蔑も哀れみも持たず、私が勝手に悲しいのだ。
(まあ、裏が本来の自分という事実だけでも「生きにくい」でしょうと、労いたくなるけど。)
表の元人格を愛されていないと感じて悲しいのだ。
それと、依存度の高い人ほど、裏の比重が重くなることに抵抗が少ない気もして、それもやるせない。
私も、とても依存体質だ。
だから、まかり間違えば彼女たちのように、裏の比重が増す可能性があると思うのだ。
たまたま那智さんが、表りん子が好きで(私に限らず、ギャップを好む那智さんには裏だけなんてつまらないことでしょうけど)、その表りん子の幸せを考えてくれる人だったから、私は少しずつ自分に自身を持って幸せになれている。
もしかして、那智さんが裏りん子だけを望んだら、私の天秤は大きく裏りん子に傾いてしまいそうな気がするから、彼女たちに少し共感してしまっているのかもしれない。(この共感も勝手な推測によるものです)
現に、この話をしたときに那智さんが「もし、俺とりん子が結婚していて、俺がちょっと不自由だけど刺青を入れようっていったら、どうする?入れるだろ?それと同じなだけじゃないかな。」と聞いてきた。
私は、こくんと頷いて、刺青を入れる様を想像できてしまう。(これも結婚できているわけじゃなから、推測だし甘美な妄想にすぎないけど)
でも、それだって、もともと表りん子を散々愛してくれたからそこに行けるわけで・・そうなると彼女たちは散々表を愛された結果、裏主体に見える生き方をしているのだろうか。
結局、わからないです。
今日は、結論が出なくてごめんなさい。
幸せは、人それぞれだ。
那智さんが、表りん子がいて裏がある私を愛してくれて、安堵する。
でも、散々愛された結果、裏を選ぶことになる愛って、本当にあるのだろうか。
あるのなら、一瞬だけ、羨ましい。
私の悲しさは、表を愛されていないと想像してしまうことと、依存の強い女性の顛末を見ているような苦しさと。
もしかしたら、ほんの少しの叶わない思いなのかもしれない。