畏怖の念
独特な幸福感
わたしは那智さんを少し怖いと思う。
とてもとても優しい人だ。
感情的になることも声を荒げることもない。
『不機嫌』というのをほとんど見たこともない。
ある一定の良好なテンションを7年間保ったままだ。
当然、『捨てる』をチラつかせるようなことなんて皆無。
だけど、怖い。
わたしたちの間ではオナニーのときに宣言と報告をすることが約束になっている。
でも何十回に一回(うわ、何十回っていうと年がら年中してるみたい!!)くらい、恥ずかしいとか自己嫌悪とかで約束を破ってしまうことがあるのだけど。
そのときも『それは悲しいな。どうして破ったの?』と変わらぬテンションで聞く。
何が原因でわたしがそうしたかを知り、これからは約束を守れるように解決してくれるのだ。
恐らく、那智さんは、約束を守れないとりん子が悲しいだろうということが重要なんだと思う。
約束を守らなくても、叱られることもないし厳しいお仕置きもない。
だけど、わたしは約束を破ったことを後悔する。
そして、少しだけ那智さんを怖いと思う。
たまに悲しくなる。
その時の那智さんの状況によるけど、基本的にこちらが『悲しいことを訴えている』と自覚していれば、かなりとことん付き合ってくれる。
どこにわたしの悲しいがあって、それを払拭するにはどうすればいいか。
お仕事の合間を縫って、ランチに誘ってくれて、解決することを付き合ってくれる。
そして、それが解決した後、改まって聞いてくる。
『りん子は、どの話で浮上できた?』
『その話は前もしたよね?じゃあ、他には?』
『この数時間のお話しで新しい発見はあった?』
『うん、それなら納得』
わたしの悲しいの原因や解決方法を探り、いつか同じようなことが起きたときのサンプルにしようとしているのだ。
そして、それは、この悲しいとぐずったことが、正当な理由があるのかただのぐずりなのか判断しようとしている。
もしただのぐずりなら、それを自覚できているかどうか、自覚できていなければ気をつけることと注意はされる。(わたしたちの間でぐずることはいいの^^;自覚できていないことが問題なのだ)
こちらは頭フル回転だ。
心を振り返り、言葉を尽くし伝え、もし間違っていたらごめんなさいをする。
誤摩化せない真摯な鋭い観察に、こんな時も、怖いと思う。
多分、那智さんはわたしを信頼していたいのだ。
だから『あれ?』と思ったことをスルーせず、誤解を解き、また信頼する。
わたしは那智さんを信頼している。
1人の人を心から信頼することは安心できて心強い。
この人は、わたしを傷つけようと思うことはないと信じて付き合うことはとても心地よいものだ。
それと、同じように。
うまく言えないけど。
信頼されることも、とてもとても気持ちがいいのだ。
りん子のいうことにウソはない、那智さんを傷つけようとは思っていないと信じられていることは、きちんとしなくてはと襟を正す気持ちになると同時に、ものすごく気持ちがいい。
自分の『魂(大げさだけど^^;)』が、信頼されているということでどんどん真っ白な美しいものになっていくように感じる。
誰も歩いていない雪のように、ふわふわの綿菓子のように。
その感覚は気持ちがいいのだ。
このわたしを信頼してくれる、信頼される気持ち良さをくれる那智さんを裏切ってはいけないと思う。
裏切ってはいけないというと良心や責任感のように思われるかもしれなけど、違うの。
那智さんにウソをついたり裏切ったりするのは、あの真っ白なふわふわな気持ちよくしてもらった魂に土足で踏み込むような行為に思える。
それはわたし自身の魂を汚すような怖さなのだ。
だからわたしは、わたしのためにウソをつきたくないし、裏切りたくないと思う。
わたしに信頼される心地よさを教えてくれて。
ウソをつかない清々しさを味わわせ続けてくれる。
そのためのその真摯な目や姿勢を持ち続けてくれる那智さんをとても尊敬している。
その尊敬が、圧倒的なものを前にして感じる『怖い』という感情をも引き出しているんだ。
言葉が正しいかわからないけど、これは畏怖の念。
那智さんは、とても優しい。
厳しい躾もお仕置きも、捨てるなんてこともない。
だけど、そんなことがなくても裏切りたくないと思わせ、従いたいと思わせる。
あなたのものでいさせてほしいと思わせてくれる。
背の高いわたしは並ぶと目線は少し下を向く、ヒールなんて履いたら尚更だ。
だけどいつもいつも見上げている、まぶしいものを見るように少し目を細めて。
尊敬と安心と、ちょっと圧倒されるような気持ちで。
そんな那智さんを、ほんの少し怖いを思う。
わたしは那智さんを少し怖いと思う。
とてもとても優しい人だ。
感情的になることも声を荒げることもない。
『不機嫌』というのをほとんど見たこともない。
ある一定の良好なテンションを7年間保ったままだ。
当然、『捨てる』をチラつかせるようなことなんて皆無。
だけど、怖い。
わたしたちの間ではオナニーのときに宣言と報告をすることが約束になっている。
でも何十回に一回(うわ、何十回っていうと年がら年中してるみたい!!)くらい、恥ずかしいとか自己嫌悪とかで約束を破ってしまうことがあるのだけど。
そのときも『それは悲しいな。どうして破ったの?』と変わらぬテンションで聞く。
何が原因でわたしがそうしたかを知り、これからは約束を守れるように解決してくれるのだ。
恐らく、那智さんは、約束を守れないとりん子が悲しいだろうということが重要なんだと思う。
約束を守らなくても、叱られることもないし厳しいお仕置きもない。
だけど、わたしは約束を破ったことを後悔する。
そして、少しだけ那智さんを怖いと思う。
たまに悲しくなる。
その時の那智さんの状況によるけど、基本的にこちらが『悲しいことを訴えている』と自覚していれば、かなりとことん付き合ってくれる。
どこにわたしの悲しいがあって、それを払拭するにはどうすればいいか。
お仕事の合間を縫って、ランチに誘ってくれて、解決することを付き合ってくれる。
そして、それが解決した後、改まって聞いてくる。
『りん子は、どの話で浮上できた?』
『その話は前もしたよね?じゃあ、他には?』
『この数時間のお話しで新しい発見はあった?』
『うん、それなら納得』
わたしの悲しいの原因や解決方法を探り、いつか同じようなことが起きたときのサンプルにしようとしているのだ。
そして、それは、この悲しいとぐずったことが、正当な理由があるのかただのぐずりなのか判断しようとしている。
もしただのぐずりなら、それを自覚できているかどうか、自覚できていなければ気をつけることと注意はされる。(わたしたちの間でぐずることはいいの^^;自覚できていないことが問題なのだ)
こちらは頭フル回転だ。
心を振り返り、言葉を尽くし伝え、もし間違っていたらごめんなさいをする。
誤摩化せない真摯な鋭い観察に、こんな時も、怖いと思う。
多分、那智さんはわたしを信頼していたいのだ。
だから『あれ?』と思ったことをスルーせず、誤解を解き、また信頼する。
わたしは那智さんを信頼している。
1人の人を心から信頼することは安心できて心強い。
この人は、わたしを傷つけようと思うことはないと信じて付き合うことはとても心地よいものだ。
それと、同じように。
うまく言えないけど。
信頼されることも、とてもとても気持ちがいいのだ。
りん子のいうことにウソはない、那智さんを傷つけようとは思っていないと信じられていることは、きちんとしなくてはと襟を正す気持ちになると同時に、ものすごく気持ちがいい。
自分の『魂(大げさだけど^^;)』が、信頼されているということでどんどん真っ白な美しいものになっていくように感じる。
誰も歩いていない雪のように、ふわふわの綿菓子のように。
その感覚は気持ちがいいのだ。
このわたしを信頼してくれる、信頼される気持ち良さをくれる那智さんを裏切ってはいけないと思う。
裏切ってはいけないというと良心や責任感のように思われるかもしれなけど、違うの。
那智さんにウソをついたり裏切ったりするのは、あの真っ白なふわふわな気持ちよくしてもらった魂に土足で踏み込むような行為に思える。
それはわたし自身の魂を汚すような怖さなのだ。
だからわたしは、わたしのためにウソをつきたくないし、裏切りたくないと思う。
わたしに信頼される心地よさを教えてくれて。
ウソをつかない清々しさを味わわせ続けてくれる。
そのためのその真摯な目や姿勢を持ち続けてくれる那智さんをとても尊敬している。
その尊敬が、圧倒的なものを前にして感じる『怖い』という感情をも引き出しているんだ。
言葉が正しいかわからないけど、これは畏怖の念。
那智さんは、とても優しい。
厳しい躾もお仕置きも、捨てるなんてこともない。
だけど、そんなことがなくても裏切りたくないと思わせ、従いたいと思わせる。
あなたのものでいさせてほしいと思わせてくれる。
背の高いわたしは並ぶと目線は少し下を向く、ヒールなんて履いたら尚更だ。
だけどいつもいつも見上げている、まぶしいものを見るように少し目を細めて。
尊敬と安心と、ちょっと圧倒されるような気持ちで。
そんな那智さんを、ほんの少し怖いを思う。
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