夢見る頃をすぎても1『波動』
独特な幸福感
解離性同一障害という言葉を知っていますか。
多重人格といえばピンとくるかと思いますが。
多重人格といえば単に気分屋とか裏表があるという性格を指しているみたいだけど、解離性同一障害とはちゃんとした障害のひとつ。(ちゃんとしたというと語弊があるかもしれないけど病は苦しんでいる人がいるということです)
その存在を知ったのは、たしか20才前後だった。
一時期本で有名になったビリーミリガン本人の治療の様子がテレビのニュースで流れていたんだ。
気弱そうな青年の眼球が細かく左右に震えた後、表情が一変する。
周囲を睨みつけるように見回し指をポキポキと鳴らす凄みのある表情に変化する様子はとても数秒前の青年とは思えないものだった。
何の予備知識もなく見たその変化に軽く震えるような衝撃を受けてしまって、一時期それに関する本をたくさん読んだ。
何がそんなにわたしを惹きつけたのだろう。
いまはたくさん情報があるでしょうから20年前わたしが読んだ情報は正しいものではないかもしれないけど、その当時の知識と感情で書かせていただきますね。
自分の中に別の人格ができる。
それは幼い頃、劣悪な環境ゆえ『こんな酷いことをされるのはわたしじゃない』と脳が別人格を作ることで大人からの酷い虐待などから身を守ろうとする無抵抗な子供の自衛手段。
同じような境遇でもそういう手段を取らない脳を持った子もいるだろうし、中には人の死を見ただけで衝撃を受けて別人格ができてしまう子もいるそうなので、誰でもなるわけではないし、必ず虐待されたということでもない。
知恵熱が出やすい子とそうじゃない子がいるように、そうなりやすい子というものもあるのだろうね。
とにかく幼い子供が自分を守るために別人格を作る。
暴力を受けているときは痛みを感じない子供になり、性的な虐待に遭ってしまった場合は大人の女性になってやりすごす。
抵抗したいときは乱暴な男性になる。
絵の好きな男の子や歌が好きな女の子。
そうやっていろいろな場面で助けてくれる人格を作るのだ。
主人格が現実から逃れるために意識を眠らせている間に、様々な人格が生まれ補っている。
ということは交代人格が出ている間は主人格は記憶がないのだ。
だから見覚えのないカード請求があったり、知らない街にいたりと大人になってから特にトラブルにな本人を苦しめる。
それぞれ名前や年齢や特徴も様々で、筆跡や利き腕も違ったりする、アレルギー反応まで違うと書かれていたから、演技や気分で人格を変えてみせているのではないのだろう。
わたしはその人が生き抜くための脳の不思議に魅了された。
(もっと語ろうと思えば尽きないのだけど、たくさん端折ります^^;ただ、何度も言うけどこれは性格の問題とかではなく障害であること。当人が一番苦しんでいるのだということは記しておきます)
先日、その解離性同一障害の女性の個展を見に行った。
主人格である『私』と交代人格の子が共同で作品を作ったのだ。
交代人格が撮った写真に『私』が詩を付けるというものだった。
この個展に関する記事を読んだとき絶対見に行こうと思った。
そして、多分、泣くなって^^;
最近は熱も醒めたけれど一時期追い求めていたものに直接触れること、これはおそらくわたしの心をぐわんぐわんと揺さぶるはずだと想像できたから。
そりゃあ、その場にいたら泣くだろうと^^;
果たして。
個展は記事になったので最終日になっていきなり盛況。
小さな民家を改造したギャラリーにはひっきりなしに人が訪れていた。
もう入った途端に涙が溢れてしまって、どうしようもなかった。
人がいるから泣くわけにはいかず嗚咽を我慢しすぎて頭痛までする始末。
波動。
長く魅了されていたものに直接触れるということは、それだけで心を震わす。
人格を認められて最後には明るい写真になっていたと解説されていたけど、たしかに影のような写真から花や空などの明るいものに変わっているけど。
どうしてもわたしにはただの明るい作品とは感じられなかった。
交代人格からの救いを求めるような、それでいて逃れられない虚無感のような暗闇が波動になってわたしに押し寄せてくるのだ。
その方たちも作品もまったく否定するつもりもないし、一般の人よりもある程度は知識もあるので心から穏やかに眠れる日が来ることを願っている。
だけど、これは触れてはいけないもののように感じてしまった。
瞳を黒く塗りつぶした絵を見ているようだった。
長年追い求めていたものに触れる感動ではない波動が脆弱なところに踏み込んてくる。
目に見えない波動によろめくわたしは、その交代人格の『女の子』を思うのだ。
個展の最後には交代人格の女の子の言葉が書かれていた。
『主人格にとって自分の存在が迷惑じゃなかった』『生きていてよかった』と語っている。
これを読んだとき、涙がより溢れてしまった。
わたしの中の『女の子』を強烈に意識した。
よろめくような波動の大きな理由はこれだ。
弱くもろいところだ。
解離性同一障害の治療は、人格の統合。
過去の辛いことをちゃんと認めることからはじめるのだ。
辛い思いを引き受けた人格の『存在を認めて』『辛かったことを理解して』、『もう安心だよ』と教えてあげる。
こうすることで役目を終えた交代人格は統合されるらしい。(ただ、実際はとても難しい作業のようだ)
わたしはいつか統合して消えていく交代人格の運命、不安やせつなさを想像する。
そして同時に自分の中の小さな『女の子』の存在を強く感じ、無力な女の子が不安気に打ち震えている姿を鮮明に思い描き、交代人格にそれを重ねていた。
わたしの『女の子』は、いる。
そしてきっと撫でてほしくて、隅っこのほうで泣いている。
その存在と不在を強く感じた夕暮れ時だった。
実際に障害と向き合い戦っている人には、軽々しく共感してはいけないことは充分承知の上で。
『存在を認め』『辛さを理解し』『安心を教える』。
この一点のみにおいて。
この個展を見た数日後、似たようなことを経験をする。
それは、わたしの『女の子』をもう一度抱きしめるための道だった。
解離性同一障害という言葉を知っていますか。
多重人格といえばピンとくるかと思いますが。
多重人格といえば単に気分屋とか裏表があるという性格を指しているみたいだけど、解離性同一障害とはちゃんとした障害のひとつ。(ちゃんとしたというと語弊があるかもしれないけど病は苦しんでいる人がいるということです)
その存在を知ったのは、たしか20才前後だった。
一時期本で有名になったビリーミリガン本人の治療の様子がテレビのニュースで流れていたんだ。
気弱そうな青年の眼球が細かく左右に震えた後、表情が一変する。
周囲を睨みつけるように見回し指をポキポキと鳴らす凄みのある表情に変化する様子はとても数秒前の青年とは思えないものだった。
何の予備知識もなく見たその変化に軽く震えるような衝撃を受けてしまって、一時期それに関する本をたくさん読んだ。
何がそんなにわたしを惹きつけたのだろう。
いまはたくさん情報があるでしょうから20年前わたしが読んだ情報は正しいものではないかもしれないけど、その当時の知識と感情で書かせていただきますね。
自分の中に別の人格ができる。
それは幼い頃、劣悪な環境ゆえ『こんな酷いことをされるのはわたしじゃない』と脳が別人格を作ることで大人からの酷い虐待などから身を守ろうとする無抵抗な子供の自衛手段。
同じような境遇でもそういう手段を取らない脳を持った子もいるだろうし、中には人の死を見ただけで衝撃を受けて別人格ができてしまう子もいるそうなので、誰でもなるわけではないし、必ず虐待されたということでもない。
知恵熱が出やすい子とそうじゃない子がいるように、そうなりやすい子というものもあるのだろうね。
とにかく幼い子供が自分を守るために別人格を作る。
暴力を受けているときは痛みを感じない子供になり、性的な虐待に遭ってしまった場合は大人の女性になってやりすごす。
抵抗したいときは乱暴な男性になる。
絵の好きな男の子や歌が好きな女の子。
そうやっていろいろな場面で助けてくれる人格を作るのだ。
主人格が現実から逃れるために意識を眠らせている間に、様々な人格が生まれ補っている。
ということは交代人格が出ている間は主人格は記憶がないのだ。
だから見覚えのないカード請求があったり、知らない街にいたりと大人になってから特にトラブルにな本人を苦しめる。
それぞれ名前や年齢や特徴も様々で、筆跡や利き腕も違ったりする、アレルギー反応まで違うと書かれていたから、演技や気分で人格を変えてみせているのではないのだろう。
わたしはその人が生き抜くための脳の不思議に魅了された。
(もっと語ろうと思えば尽きないのだけど、たくさん端折ります^^;ただ、何度も言うけどこれは性格の問題とかではなく障害であること。当人が一番苦しんでいるのだということは記しておきます)
先日、その解離性同一障害の女性の個展を見に行った。
主人格である『私』と交代人格の子が共同で作品を作ったのだ。
交代人格が撮った写真に『私』が詩を付けるというものだった。
この個展に関する記事を読んだとき絶対見に行こうと思った。
そして、多分、泣くなって^^;
最近は熱も醒めたけれど一時期追い求めていたものに直接触れること、これはおそらくわたしの心をぐわんぐわんと揺さぶるはずだと想像できたから。
そりゃあ、その場にいたら泣くだろうと^^;
果たして。
個展は記事になったので最終日になっていきなり盛況。
小さな民家を改造したギャラリーにはひっきりなしに人が訪れていた。
もう入った途端に涙が溢れてしまって、どうしようもなかった。
人がいるから泣くわけにはいかず嗚咽を我慢しすぎて頭痛までする始末。
波動。
長く魅了されていたものに直接触れるということは、それだけで心を震わす。
人格を認められて最後には明るい写真になっていたと解説されていたけど、たしかに影のような写真から花や空などの明るいものに変わっているけど。
どうしてもわたしにはただの明るい作品とは感じられなかった。
交代人格からの救いを求めるような、それでいて逃れられない虚無感のような暗闇が波動になってわたしに押し寄せてくるのだ。
その方たちも作品もまったく否定するつもりもないし、一般の人よりもある程度は知識もあるので心から穏やかに眠れる日が来ることを願っている。
だけど、これは触れてはいけないもののように感じてしまった。
瞳を黒く塗りつぶした絵を見ているようだった。
長年追い求めていたものに触れる感動ではない波動が脆弱なところに踏み込んてくる。
目に見えない波動によろめくわたしは、その交代人格の『女の子』を思うのだ。
個展の最後には交代人格の女の子の言葉が書かれていた。
『主人格にとって自分の存在が迷惑じゃなかった』『生きていてよかった』と語っている。
これを読んだとき、涙がより溢れてしまった。
わたしの中の『女の子』を強烈に意識した。
よろめくような波動の大きな理由はこれだ。
弱くもろいところだ。
解離性同一障害の治療は、人格の統合。
過去の辛いことをちゃんと認めることからはじめるのだ。
辛い思いを引き受けた人格の『存在を認めて』『辛かったことを理解して』、『もう安心だよ』と教えてあげる。
こうすることで役目を終えた交代人格は統合されるらしい。(ただ、実際はとても難しい作業のようだ)
わたしはいつか統合して消えていく交代人格の運命、不安やせつなさを想像する。
そして同時に自分の中の小さな『女の子』の存在を強く感じ、無力な女の子が不安気に打ち震えている姿を鮮明に思い描き、交代人格にそれを重ねていた。
わたしの『女の子』は、いる。
そしてきっと撫でてほしくて、隅っこのほうで泣いている。
その存在と不在を強く感じた夕暮れ時だった。
実際に障害と向き合い戦っている人には、軽々しく共感してはいけないことは充分承知の上で。
『存在を認め』『辛さを理解し』『安心を教える』。
この一点のみにおいて。
この個展を見た数日後、似たようなことを経験をする。
それは、わたしの『女の子』をもう一度抱きしめるための道だった。
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