素直に伝えるということ
りん子的独り言(エラそう)
父性の海に抱かれながら、心の中のことを素直に伝える。
なんとも魅力的なこと。
それはいやだとか、それは傷つくとか、悲しいとか。
私のように、自分にとって不快に思うという感情を相手に伝えるのが苦手で、それを伝えるくらいならその関係が深まらなくてもかまわないと思ってしまうような女には、それらを素直に伝えられるということは、新しい世界が開けたようでとてもとても魅力的な魔法のようだ。
だけど、それは、なんでも解決「ドラえもんのポケット」だけではない、労力もいるのだ。
もちろん圧倒的に「幸せ甘受」の方が大きいのはわかってるけど、あえて(?)魔法じゃないところも、ちょっと披露。
まず、負の感情を出し慣れていない、故の生みの苦労(?)。
「ああ、それは悲しい」と思っても、「いま忙しそうだし…」とか「この前もぐずってしまったし…」とか、何か障害があるとついいつものクセで「いいや、私が我慢すれば」「黙っとくほうがいいかも」と、逃げ腰になってしまう。
でも、それは心に小さくシミを残すことになって、いままでの失敗を繰り返してしまうだけ。
だから、慣れないことを「えいっ」とする苦労。
いま忙しいなら、諦めずに「悲しい」を保存しておいてでも、ちゃんと伝える。
誰でも負の感情を伝えることはパワーがいるはず、さらにそれが特に苦手な私は逃げてしまったほうが楽だったりもする。
それを、踏み止まって、深呼吸して「えいっ」と、生む。
もうひとつ、伝えることに段々慣れてきて、それを受け止めてもらえていると、今度はエスカレートしてしまう危惧。
受け止めてもらえると言っても「なんでもいいよ〜」というのではない。
存在を肯定した状態で、冷静に判断を下すというような感じ。
だから、間違ってるときはそう言われるし、「ふ〜ん」ですまされてしまうこともある。
それでも上下しない感情で「受け止める」姿勢を取り続けてくれることには、感謝しつつもつい甘えが出てしまうのだ。
悲しいことを悲しいと、怒ってることを怒ってると素直に伝えることと、その負の感情をぶつけて発散することを混同してしまってはいけないのだ。
つい受け止めてもらえることをいいことに、「那智さんを傷つけたく」なってしまう。
その悲しみが那智さんの言動や誤解など直接の原因であっても、それ以外の私のバイオリズムのせいでも、素直に伝えるという大義名分を掲げて「八つ当たり」をしてしまいたくなる。
そこで、また踏み止まる。
私がしなければならないことは、心を伝えること、故意に傷つけることを言ったり八つ当たりしたりは、心じゃなくて、発散方法だ。
そして、そういう方法で発散しても、何も残らない。
だから、勢いで言ってしまいたくなる理不尽な言動をグッと堪えて、心を伝える。
それでも、人間は感情の生き物。
頭でわかっていても、どうしても理不尽をぶつけたくなってしまうこともある。
だから、そういうときは「ごめんなさい、理不尽なこと言います」と言ってから、筋の通らないわがままや八つ当たりをするのだ(笑)
受け入れてくれることに対する自制。
これもけっこうパワーがいる。
甘えるも悲しいも頭に来ているも言う、しゃくりあげて泣いて訴えてもいい。
でも、それを発散にしない。
心がけてること。
メソメソもグズグズも変態も、全部ひっくるめて愛してもらうんだから、これくらいの自制はしなくちゃ、なのです^^;
父性の海に抱かれて素直に心を伝えることの代え難い魅力のために、ほんの少しの努力がいるのでした。
父性の海に抱かれながら、心の中のことを素直に伝える。
なんとも魅力的なこと。
それはいやだとか、それは傷つくとか、悲しいとか。
私のように、自分にとって不快に思うという感情を相手に伝えるのが苦手で、それを伝えるくらいならその関係が深まらなくてもかまわないと思ってしまうような女には、それらを素直に伝えられるということは、新しい世界が開けたようでとてもとても魅力的な魔法のようだ。
だけど、それは、なんでも解決「ドラえもんのポケット」だけではない、労力もいるのだ。
もちろん圧倒的に「幸せ甘受」の方が大きいのはわかってるけど、あえて(?)魔法じゃないところも、ちょっと披露。
まず、負の感情を出し慣れていない、故の生みの苦労(?)。
「ああ、それは悲しい」と思っても、「いま忙しそうだし…」とか「この前もぐずってしまったし…」とか、何か障害があるとついいつものクセで「いいや、私が我慢すれば」「黙っとくほうがいいかも」と、逃げ腰になってしまう。
でも、それは心に小さくシミを残すことになって、いままでの失敗を繰り返してしまうだけ。
だから、慣れないことを「えいっ」とする苦労。
いま忙しいなら、諦めずに「悲しい」を保存しておいてでも、ちゃんと伝える。
誰でも負の感情を伝えることはパワーがいるはず、さらにそれが特に苦手な私は逃げてしまったほうが楽だったりもする。
それを、踏み止まって、深呼吸して「えいっ」と、生む。
もうひとつ、伝えることに段々慣れてきて、それを受け止めてもらえていると、今度はエスカレートしてしまう危惧。
受け止めてもらえると言っても「なんでもいいよ〜」というのではない。
存在を肯定した状態で、冷静に判断を下すというような感じ。
だから、間違ってるときはそう言われるし、「ふ〜ん」ですまされてしまうこともある。
それでも上下しない感情で「受け止める」姿勢を取り続けてくれることには、感謝しつつもつい甘えが出てしまうのだ。
悲しいことを悲しいと、怒ってることを怒ってると素直に伝えることと、その負の感情をぶつけて発散することを混同してしまってはいけないのだ。
つい受け止めてもらえることをいいことに、「那智さんを傷つけたく」なってしまう。
その悲しみが那智さんの言動や誤解など直接の原因であっても、それ以外の私のバイオリズムのせいでも、素直に伝えるという大義名分を掲げて「八つ当たり」をしてしまいたくなる。
そこで、また踏み止まる。
私がしなければならないことは、心を伝えること、故意に傷つけることを言ったり八つ当たりしたりは、心じゃなくて、発散方法だ。
そして、そういう方法で発散しても、何も残らない。
だから、勢いで言ってしまいたくなる理不尽な言動をグッと堪えて、心を伝える。
それでも、人間は感情の生き物。
頭でわかっていても、どうしても理不尽をぶつけたくなってしまうこともある。
だから、そういうときは「ごめんなさい、理不尽なこと言います」と言ってから、筋の通らないわがままや八つ当たりをするのだ(笑)
受け入れてくれることに対する自制。
これもけっこうパワーがいる。
甘えるも悲しいも頭に来ているも言う、しゃくりあげて泣いて訴えてもいい。
でも、それを発散にしない。
心がけてること。
メソメソもグズグズも変態も、全部ひっくるめて愛してもらうんだから、これくらいの自制はしなくちゃ、なのです^^;
父性の海に抱かれて素直に心を伝えることの代え難い魅力のために、ほんの少しの努力がいるのでした。
死を意識する
りん子的独り言(エラそう)
今日はお休みの人が多いかしら!?
ゆっくり休んで、日々の疲れを取ってくださいね〜。
そんなさわやかな休日の朝には相応しくないお話です。
気を付けてね。
わたしが務めていたころ、まだ高校を卒業して間もなくて学生気分のまま働きはじめたようなころ。
同じ部署にはアルバイトの大学生が何人もいた。
年も近く学生気分のわたしたちは、上司や他の年上の社員よりもずっと身近に感じられて、よく遊んでいた。
忘年会や新年会、夏はバーベキュー、遊園地にも行った。
クラスの仲良しグループみたいだった。(まあ、その中で色恋もあるので、すったもんだもありましたけど)
もう20年も前の話。
先日、その中のひとりから十数年ぶりに連絡があった。
他のひとりのS君が入院してるので、励ましたいから久しぶりに会わないかって。
そんなメールをもらって「あはは、なんだかんだかこつけて、Mちゃんに会いたいんじゃないの!?」とわたしがいまでも連絡を取っている当時アルバイトの間で「シンデレラ」だったMちゃんと、彼らの色恋を思い出したりして、仲介役を嘆いたりしてみた。
そうこうしてるうちにあらためて連絡が来た。
それは、とてもショックな内容だった。
S君は癌に侵されているのだそうだ。
数年前に発病し、入退院を繰り返し、内蔵のいろんな部分を取り除いて、それでもダメで抗がん剤治療をしていたそうだ。
一ヶ月ほど前は、まだメールを打てるような状態で「来月退院できるから」ということだったので、それを聞いて「励ます会」を企画したらしい。
でも、ここ2、3日で状況は変わり、もうモルヒネを打つという段階になってしまったそうだ。
要するに、手の施しようがなく、あとは痛みを感じないように麻薬で意識を麻痺させるしか道がないということ。
この1、2週間がやまなの。
だから、もう退院はもちろんメールを打つこともできないと、S君の奥さんから連絡があったのだそうだ。
とても、とても、ショックだった。
わたしには、あの元気だったS君しか記憶にない。
面白味ないくらい真面目な人で、穏やかな人だった。
卒業して大きな企業に勤めたことまでは知ってる。
信じられない。
わたしよりちょっと年上だったから、まだ40そこそこのはず。
また別な話で、先日も、元同僚の奥様が心臓病で危険な状態だと聞いた。
40半ば、それまではごく普通に生活していて、急な発症だったそうだ。
その人とも会社のバーベキュー大会でご一緒したことがある。
わたしのアルバムにはその時まだ赤ちゃんだった長男くんと一緒に写ってる集合写真だってある。
「死」というものを意識せざるを得ない場面に直面すると、「明日は我が身、日々をちゃんと生きよう」と襟を正す気持ちになるのは当然なんだけど。
なんだか、そんなきれいな感情じゃないものも湧く。
悔しい。
なんだかとても悔しいなあ。
壁に思い切り何かを投げつけて八つ当たりしたい気分。
元気な姿しか記憶にない方の「死」のイメージは、津波がすべてを飲み込むのをなす術無く凝視しているような気分。
途方に暮れて、悔しい。
当人やご家族の無念に比べたら、そんなのセンチメンタルな感情に過ぎないのだろうけど。
「戦争は日常を奪う」と書いてあるのを読んだことがある。
平和を奪うなんて漠然とした美しいものじゃなくて、もっと生々しい日常を奪う。
普通に食べて、テレビを観て笑って、お風呂に入って寝て、そんな日常。
人は日常を奪われると、気が狂いそうになるのではないかな。
身近な大切な人の「闘病」や「死」は、それに近いのかもしれない。
日常を奪われても、それでも狂わずに生きてる方々に頭が下がります。
S君たちとお酒飲んではしゃいでいたころよりも、確実に「死」を意識する年齢になっている。
失いたくないもの、残していくもの、大切なものが年を追うごとに増えてる、死を意識すると余計にそれらは大切なものとして、わたしの目の前に並び、困ったものねとため息をつく。
でも、何も知らずにはしゃげていた頃よりも、きっとわたしは幸せ。
あんまり結論出てないのだけど、やっぱりわたしはわたしの周りの大切な人を後悔することなく毎日愛するしかないのかな〜。
そう思って、脈絡なく那智さんに「愛してます」とメールを打つ。
あっ、それと、健康診断ね(笑)これも大事と最近は思う。
「死」を意識する場面に遭ったとき、自分の「死」?大切な人の「死」?どちらを思って胸が苦しくなるのでしょう?
両方は両方なんだけど、どちらかと言えば、わたしは、どっちかな…?
不謹慎にもそんなこと考えちゃった。
今日はお休みの人が多いかしら!?
ゆっくり休んで、日々の疲れを取ってくださいね〜。
そんなさわやかな休日の朝には相応しくないお話です。
気を付けてね。
わたしが務めていたころ、まだ高校を卒業して間もなくて学生気分のまま働きはじめたようなころ。
同じ部署にはアルバイトの大学生が何人もいた。
年も近く学生気分のわたしたちは、上司や他の年上の社員よりもずっと身近に感じられて、よく遊んでいた。
忘年会や新年会、夏はバーベキュー、遊園地にも行った。
クラスの仲良しグループみたいだった。(まあ、その中で色恋もあるので、すったもんだもありましたけど)
もう20年も前の話。
先日、その中のひとりから十数年ぶりに連絡があった。
他のひとりのS君が入院してるので、励ましたいから久しぶりに会わないかって。
そんなメールをもらって「あはは、なんだかんだかこつけて、Mちゃんに会いたいんじゃないの!?」とわたしがいまでも連絡を取っている当時アルバイトの間で「シンデレラ」だったMちゃんと、彼らの色恋を思い出したりして、仲介役を嘆いたりしてみた。
そうこうしてるうちにあらためて連絡が来た。
それは、とてもショックな内容だった。
S君は癌に侵されているのだそうだ。
数年前に発病し、入退院を繰り返し、内蔵のいろんな部分を取り除いて、それでもダメで抗がん剤治療をしていたそうだ。
一ヶ月ほど前は、まだメールを打てるような状態で「来月退院できるから」ということだったので、それを聞いて「励ます会」を企画したらしい。
でも、ここ2、3日で状況は変わり、もうモルヒネを打つという段階になってしまったそうだ。
要するに、手の施しようがなく、あとは痛みを感じないように麻薬で意識を麻痺させるしか道がないということ。
この1、2週間がやまなの。
だから、もう退院はもちろんメールを打つこともできないと、S君の奥さんから連絡があったのだそうだ。
とても、とても、ショックだった。
わたしには、あの元気だったS君しか記憶にない。
面白味ないくらい真面目な人で、穏やかな人だった。
卒業して大きな企業に勤めたことまでは知ってる。
信じられない。
わたしよりちょっと年上だったから、まだ40そこそこのはず。
また別な話で、先日も、元同僚の奥様が心臓病で危険な状態だと聞いた。
40半ば、それまではごく普通に生活していて、急な発症だったそうだ。
その人とも会社のバーベキュー大会でご一緒したことがある。
わたしのアルバムにはその時まだ赤ちゃんだった長男くんと一緒に写ってる集合写真だってある。
「死」というものを意識せざるを得ない場面に直面すると、「明日は我が身、日々をちゃんと生きよう」と襟を正す気持ちになるのは当然なんだけど。
なんだか、そんなきれいな感情じゃないものも湧く。
悔しい。
なんだかとても悔しいなあ。
壁に思い切り何かを投げつけて八つ当たりしたい気分。
元気な姿しか記憶にない方の「死」のイメージは、津波がすべてを飲み込むのをなす術無く凝視しているような気分。
途方に暮れて、悔しい。
当人やご家族の無念に比べたら、そんなのセンチメンタルな感情に過ぎないのだろうけど。
「戦争は日常を奪う」と書いてあるのを読んだことがある。
平和を奪うなんて漠然とした美しいものじゃなくて、もっと生々しい日常を奪う。
普通に食べて、テレビを観て笑って、お風呂に入って寝て、そんな日常。
人は日常を奪われると、気が狂いそうになるのではないかな。
身近な大切な人の「闘病」や「死」は、それに近いのかもしれない。
日常を奪われても、それでも狂わずに生きてる方々に頭が下がります。
S君たちとお酒飲んではしゃいでいたころよりも、確実に「死」を意識する年齢になっている。
失いたくないもの、残していくもの、大切なものが年を追うごとに増えてる、死を意識すると余計にそれらは大切なものとして、わたしの目の前に並び、困ったものねとため息をつく。
でも、何も知らずにはしゃげていた頃よりも、きっとわたしは幸せ。
あんまり結論出てないのだけど、やっぱりわたしはわたしの周りの大切な人を後悔することなく毎日愛するしかないのかな〜。
そう思って、脈絡なく那智さんに「愛してます」とメールを打つ。
あっ、それと、健康診断ね(笑)これも大事と最近は思う。
「死」を意識する場面に遭ったとき、自分の「死」?大切な人の「死」?どちらを思って胸が苦しくなるのでしょう?
両方は両方なんだけど、どちらかと言えば、わたしは、どっちかな…?
不謹慎にもそんなこと考えちゃった。
奇跡なんてない
りん子的独り言(エラそう)
今日は「りん子節」全開です。
那智さんと出会って、わたしの人生は大きく変わった。
いままで知らなかった、安心や快感を知り。
人と深く誠実に付き合うということを知った。
ふたりの間に誤解や問題が起きたとき。
それまでのわたしだったら当たり障りないように、わたしが黙り、そこで深く関わることをやめてしまっていたようなことでも、あきらめず、互いに伝え聞き、理解するように努力することを教えてもらった。
その解決や歩み寄りの経験を積むことで、人と関わることに自信が持てるようになってきた。
まだまだ弱く、よく那智さんに助けてもらわないとダメだけど、絶対強くなっているはずだ。
そして、そんなに手こずらせているわたしだけど、愛される価値があると思えるようになっていることも、とても大きい。
悲しくて、ごめんなさいと思いつつ、それでも自分を卑下することなくめそめそと泣けるのは、とてもとても幸せなこと。
それは、価値があると思えているから。
その経験の積み重ねもわたしをすこしずつ、堂々と自由にしてくれる。
ブログでは、そのことをたくさん書いてる。
だから、那智さんは白馬に乗った王子様^^;
だけど、それは違う。
先日、知り合いのS男性が「りん子ちゃんは、最近強くなった。」とほめてくれた。
問題解決の経験を積み、その自信が強さになってるのでは?と上に書いたようなことを言い当ててくれた。
そして、「それは、那智さんのおかげだね。」と、那智さんも喜ぶようなことを言ってくれた。
わたしも嬉しくて、その場では「そうですね。」と答えたけど、あとになって、それは違うって思った。
違うって言い方は違うかな、それだけじゃないということです。
那智さんに出会ってわたしは大きく変わった。
でも、それは、いきなり降って湧いたミラクルでもラッキーでもないの。
わたしには、那智さんと出会う以前からひとり、わたしに深く関わってくれた人がいました。
その人は、わたしにずっと「プライドを持て」と言い続けてくれた。
「りん子は、譲歩からスタートするんだから、大げさなくらいプライドを持たないとダメ」
男を増長させるような恋愛を繰り返すわたしを、わたし以上に心配して、ずっと言い続けてくれた人。
だって、プライド持てないんだもの、できないものはできない。
と、それをできない自分とできないことをいうその人と両方を、もどかしいような焦るような気持ちで責めてしまうこともあった。
でも、ばかな恋愛を繰り返し、夫のちょっと感情的なものの言い方にいちいち怯える自分をなんとかしたくて、たくさんもがいた。
いっぱい本を読んだ。
DV、AC、心理学、フェミニズム。
自分の問題点はなにか、一生懸命自分の心と向き合った。
その間も、その人はわたしに付き合ってくれて、いつもいつもプライドを持てと言い続けてくれた。
わたしの心の中を探ることに付き合ってもくれた。
そして、岩月謙司さんの本と出会ったのと同じころに、那智さんに出会うのだ。
だから、もしかしたら、あの時期でなければ、出会っていてもお互い惹かれ合わなかったかもしれない。
あの、ばかな繰り返しとなんとかしたくて自分と向き合う作業があったから、那智さんに出会ったときに、惹かれ合えたのではないか。
一人の人に出会っただけで、人生ががらりと変わるなんてことないと思う。
そこに至るまでの傷や格闘が、関わってくれた人が、その出会いの下地を作るのではないかしら。
だから、わたしは、わたしにプライドを持てと言い続けてくれた彼女に感謝している。
あきらめず、心を探った自分を、ちょっとほめたい^^
ここに登場してくれるすみれさん。
彼女も、同じじゃないかなって思う。
すみれさんは、わたしたちに出会ったころ、ちょっと大きな失恋をした。
そして、わたしたちと会い、そこから新しい出会いを模索した。
最初はうまくいかず、ずいぶんわたしに泣きついてきた。(ごめん、すみれさん)
自分はどうしたいか、自分の心を探ろう。
それをちゃんと自覚していれば、新しい出会いが、それに近いか遠いか判断できる。
つい、相手に合わせてしまいがちなすみれさんに、わたしはずっと言い続けた。
那智さんは、すみれさんとのことを「一度」と決めていた。
それは、最初からの約束だった。
セックスフレンドでもないし、お互い恋愛感情があるのでもない(その瞬間似たようなものはあったかもしれない)、思惑を果たすことが目的だから、ずるずる関係を続けることはすみれさんのためにもよくないし、彼女もそれを望んでないから。
だから、その「一度」が終わったら、直接やり取りをすることを控えていた。(基本的に「りん子のお友達」というスタンスを通してくれていた)
でも、このうまくいなかない時期、わたしを通し、わたしと一緒になって、ずいぶんすみれさんに関わった。
ときには、きついことも言ったかもしれない。
すみれさんは、わたしたちの意見を聞き、自分の考えを整理して、わたしたちに反論するときもあった。
そうして、すみれさん自身が、自分がどうなりたいかはっきりしだしたころ、新しい出会いに恵まれたのです。
いま、すみれさんは、よいかたとお付き合いをはじめることができて、ときどき話してくれる「ノロケ」は、こちらも嬉しくなってしまうものです。
以前のすみれさんは自分が我慢すればという思いが強い人だったから、人との摩擦を避けていたそうですが、いまの彼女は、きちんと伝える努力をするようになっているようです。
ずいぶんとお付き合いされているかたを手こずらせてはいないか、ちょっと責任を感じています(笑)
それを受け止めてくれるかただったようで、感謝です。
もしかしたら、わたしの「プライドを持て」と言い続けてくれた人のような役割りを、わたしもできたのかもしれないと思うと、嬉しい。
すみれさんも、彼に出会ったことが、ラッキーだっただけじゃない。
そこに至までに、彼女は自分と向き合い闘ってた。
彼に出会う素地を作ったのだ。
だから、無駄なんてないのですね。
出会えないことは、出会うための下地を作る期間だと思いたい。
わたしは、その先に那智さんがいてくれるなんて思ってもみなかった。
でも、とにかくもがいてた。
それは、傷付いたり泣いたり諦めたりしたけど、無駄じゃなかったのよね。
そのときにどう生きるか。
最近のすみれさんは、とても自信を持てているようで、なんだかとっても頼もしい。
彼のことをメールで話してくれる様子は、とってもかわいらしい。
そこで、ふと感じる。
もしかしたら、最初は彼女が「薬指の刺青」を頼りにしていた分、頼り頼られるという役割り分担が生じていたかもしれないけど、ふと気づけば、いまは対等だ。
同じ目線で付き合える関係って、とても気持ちが良い。
男女もSとMも関係ない。
対等であることが基本の関係は、とても気持ちが良い。
那智さんとわたし、すみれさんと彼、そして、すみれさんとわたしの出会いもミラクルだとは思ってない。
そこから抜け出したいと思い、周りを見渡したのだ。
ヒントはきっと転がってる。
もしくは、もがいて望めば時間はかかってもヒントは見るかる。
宝くじだって、買わなきゃ当たらないものね^^(わたしは、買う派じゃないけど)
今日は「りん子節」全開です。
那智さんと出会って、わたしの人生は大きく変わった。
いままで知らなかった、安心や快感を知り。
人と深く誠実に付き合うということを知った。
ふたりの間に誤解や問題が起きたとき。
それまでのわたしだったら当たり障りないように、わたしが黙り、そこで深く関わることをやめてしまっていたようなことでも、あきらめず、互いに伝え聞き、理解するように努力することを教えてもらった。
その解決や歩み寄りの経験を積むことで、人と関わることに自信が持てるようになってきた。
まだまだ弱く、よく那智さんに助けてもらわないとダメだけど、絶対強くなっているはずだ。
そして、そんなに手こずらせているわたしだけど、愛される価値があると思えるようになっていることも、とても大きい。
悲しくて、ごめんなさいと思いつつ、それでも自分を卑下することなくめそめそと泣けるのは、とてもとても幸せなこと。
それは、価値があると思えているから。
その経験の積み重ねもわたしをすこしずつ、堂々と自由にしてくれる。
ブログでは、そのことをたくさん書いてる。
だから、那智さんは白馬に乗った王子様^^;
だけど、それは違う。
先日、知り合いのS男性が「りん子ちゃんは、最近強くなった。」とほめてくれた。
問題解決の経験を積み、その自信が強さになってるのでは?と上に書いたようなことを言い当ててくれた。
そして、「それは、那智さんのおかげだね。」と、那智さんも喜ぶようなことを言ってくれた。
わたしも嬉しくて、その場では「そうですね。」と答えたけど、あとになって、それは違うって思った。
違うって言い方は違うかな、それだけじゃないということです。
那智さんに出会ってわたしは大きく変わった。
でも、それは、いきなり降って湧いたミラクルでもラッキーでもないの。
わたしには、那智さんと出会う以前からひとり、わたしに深く関わってくれた人がいました。
その人は、わたしにずっと「プライドを持て」と言い続けてくれた。
「りん子は、譲歩からスタートするんだから、大げさなくらいプライドを持たないとダメ」
男を増長させるような恋愛を繰り返すわたしを、わたし以上に心配して、ずっと言い続けてくれた人。
だって、プライド持てないんだもの、できないものはできない。
と、それをできない自分とできないことをいうその人と両方を、もどかしいような焦るような気持ちで責めてしまうこともあった。
でも、ばかな恋愛を繰り返し、夫のちょっと感情的なものの言い方にいちいち怯える自分をなんとかしたくて、たくさんもがいた。
いっぱい本を読んだ。
DV、AC、心理学、フェミニズム。
自分の問題点はなにか、一生懸命自分の心と向き合った。
その間も、その人はわたしに付き合ってくれて、いつもいつもプライドを持てと言い続けてくれた。
わたしの心の中を探ることに付き合ってもくれた。
そして、岩月謙司さんの本と出会ったのと同じころに、那智さんに出会うのだ。
だから、もしかしたら、あの時期でなければ、出会っていてもお互い惹かれ合わなかったかもしれない。
あの、ばかな繰り返しとなんとかしたくて自分と向き合う作業があったから、那智さんに出会ったときに、惹かれ合えたのではないか。
一人の人に出会っただけで、人生ががらりと変わるなんてことないと思う。
そこに至るまでの傷や格闘が、関わってくれた人が、その出会いの下地を作るのではないかしら。
だから、わたしは、わたしにプライドを持てと言い続けてくれた彼女に感謝している。
あきらめず、心を探った自分を、ちょっとほめたい^^
ここに登場してくれるすみれさん。
彼女も、同じじゃないかなって思う。
すみれさんは、わたしたちに出会ったころ、ちょっと大きな失恋をした。
そして、わたしたちと会い、そこから新しい出会いを模索した。
最初はうまくいかず、ずいぶんわたしに泣きついてきた。(ごめん、すみれさん)
自分はどうしたいか、自分の心を探ろう。
それをちゃんと自覚していれば、新しい出会いが、それに近いか遠いか判断できる。
つい、相手に合わせてしまいがちなすみれさんに、わたしはずっと言い続けた。
那智さんは、すみれさんとのことを「一度」と決めていた。
それは、最初からの約束だった。
セックスフレンドでもないし、お互い恋愛感情があるのでもない(その瞬間似たようなものはあったかもしれない)、思惑を果たすことが目的だから、ずるずる関係を続けることはすみれさんのためにもよくないし、彼女もそれを望んでないから。
だから、その「一度」が終わったら、直接やり取りをすることを控えていた。(基本的に「りん子のお友達」というスタンスを通してくれていた)
でも、このうまくいなかない時期、わたしを通し、わたしと一緒になって、ずいぶんすみれさんに関わった。
ときには、きついことも言ったかもしれない。
すみれさんは、わたしたちの意見を聞き、自分の考えを整理して、わたしたちに反論するときもあった。
そうして、すみれさん自身が、自分がどうなりたいかはっきりしだしたころ、新しい出会いに恵まれたのです。
いま、すみれさんは、よいかたとお付き合いをはじめることができて、ときどき話してくれる「ノロケ」は、こちらも嬉しくなってしまうものです。
以前のすみれさんは自分が我慢すればという思いが強い人だったから、人との摩擦を避けていたそうですが、いまの彼女は、きちんと伝える努力をするようになっているようです。
ずいぶんとお付き合いされているかたを手こずらせてはいないか、ちょっと責任を感じています(笑)
それを受け止めてくれるかただったようで、感謝です。
もしかしたら、わたしの「プライドを持て」と言い続けてくれた人のような役割りを、わたしもできたのかもしれないと思うと、嬉しい。
すみれさんも、彼に出会ったことが、ラッキーだっただけじゃない。
そこに至までに、彼女は自分と向き合い闘ってた。
彼に出会う素地を作ったのだ。
だから、無駄なんてないのですね。
出会えないことは、出会うための下地を作る期間だと思いたい。
わたしは、その先に那智さんがいてくれるなんて思ってもみなかった。
でも、とにかくもがいてた。
それは、傷付いたり泣いたり諦めたりしたけど、無駄じゃなかったのよね。
そのときにどう生きるか。
最近のすみれさんは、とても自信を持てているようで、なんだかとっても頼もしい。
彼のことをメールで話してくれる様子は、とってもかわいらしい。
そこで、ふと感じる。
もしかしたら、最初は彼女が「薬指の刺青」を頼りにしていた分、頼り頼られるという役割り分担が生じていたかもしれないけど、ふと気づけば、いまは対等だ。
同じ目線で付き合える関係って、とても気持ちが良い。
男女もSとMも関係ない。
対等であることが基本の関係は、とても気持ちが良い。
那智さんとわたし、すみれさんと彼、そして、すみれさんとわたしの出会いもミラクルだとは思ってない。
そこから抜け出したいと思い、周りを見渡したのだ。
ヒントはきっと転がってる。
もしくは、もがいて望めば時間はかかってもヒントは見るかる。
宝くじだって、買わなきゃ当たらないものね^^(わたしは、買う派じゃないけど)
手を繋ぐには
りん子的独り言(エラそう)
「繋いだ手」と「繋いだ手の行方」の補足です。
那智さんの考え方。
手を繋いだふたりが違う方向を向いてしまったり、それによって手が離れてしまいそうになったら。
手を伸ばす。
手を伸ばして、けして繋いだ手を離さない。
それは、相手と向き合い理解し合い、歩み寄ること。
手を一瞬でも離したら、たとえ一瞬でも向き合うことを放棄したことと、心にシミを残すことになる。
えっと、これは、那智さんとわたしの付き合いかたなので、一般論ではないです。
いろんなカップルはいて、手を離してもまた元に戻れるという強い絆や手は繋がずにずっと並走することで良い関係を築けていたり、人それぞれだと思ってます。
わたしたちは、手を離したくないということです。
だから、手をびよ〜んと伸ばす。
柔軟に、理解したいという気持ちのもとに手を伸ばす。
理解したいと思う気持ちが大切。
そして、もうひとつ。
手を伸ばすということは。「自分の立ち位置は変えない」ということ。
それも大事だと那智さんはいう。
手を繋ぐことに固執するのではないということ。
自分の立ち位置はしっかりと据える。
相手に引きずられたり流されたりせず、また、相手を無理矢理こちら側に引っ張ったりはしない。
自分は自分の信じる位置にしっかりと立ち、そして、手を伸ばし、相手と向き合う。
これは、那智さん的にはポイントなんですって。
確かに、わたしがどんなにぐるぐるになっても、那智さんは折れない。
わたしの機嫌を取るために、主張や考え方を変えたりしない。
その代わり、わたしの言い分が正しかったり、上手な落としどころを見つけたら、あっさりと動いてくれる。
逆に、「俺の言うことを聞け」というふうに、那智さん側にぐいっと引っ張ることもしない。
従いたい願望のあるわたしのような女には「従え」って言えば、簡単なのに。
あくまでも、対話。
自分の立ち位置を変えず、腰を据えて手を伸ばしてくれるのだ。
だからこそ、わたしも素直になれるのね。
適当に折れてくれちゃったり、命令されたら、対等に思われてないと感じるものね。
その「立ち位置」を変えないことが、重要なのだそう。
それは、イコール「りん子も、立ち位置を動くな」ということに繋がるのだ。
わたしは弱い。
すぐ、こちらが悪くないのに「ごめんなさい」って歩み寄ってしまうし、逆に、耐えられずすぐ「もう、いい」とパーンッと手を離してしまう。
そのわたしに「立ち位置を変えず、手を伸ばせ」と言っているのだ。
那智さん自身がそうすることで、わたしにそれを見せ、長い時間かけてわたしに教えている。
多分、少しずつできているはずだ。
立ち位置を変えず、手を伸ばす。
その方法が正解なのか、それはわからない。
どんな方法で繋がるか、積み重ねるか、人それぞれ。
その人なりのオリジナルを見つけられればいいよね。
わたしの場合、まずは、自分の立ち位置確認。
これが一番難しかったりして^^;(わたしも頑張ろ〜)
「繋いだ手」と「繋いだ手の行方」の補足です。
那智さんの考え方。
手を繋いだふたりが違う方向を向いてしまったり、それによって手が離れてしまいそうになったら。
手を伸ばす。
手を伸ばして、けして繋いだ手を離さない。
それは、相手と向き合い理解し合い、歩み寄ること。
手を一瞬でも離したら、たとえ一瞬でも向き合うことを放棄したことと、心にシミを残すことになる。
えっと、これは、那智さんとわたしの付き合いかたなので、一般論ではないです。
いろんなカップルはいて、手を離してもまた元に戻れるという強い絆や手は繋がずにずっと並走することで良い関係を築けていたり、人それぞれだと思ってます。
わたしたちは、手を離したくないということです。
だから、手をびよ〜んと伸ばす。
柔軟に、理解したいという気持ちのもとに手を伸ばす。
理解したいと思う気持ちが大切。
そして、もうひとつ。
手を伸ばすということは。「自分の立ち位置は変えない」ということ。
それも大事だと那智さんはいう。
手を繋ぐことに固執するのではないということ。
自分の立ち位置はしっかりと据える。
相手に引きずられたり流されたりせず、また、相手を無理矢理こちら側に引っ張ったりはしない。
自分は自分の信じる位置にしっかりと立ち、そして、手を伸ばし、相手と向き合う。
これは、那智さん的にはポイントなんですって。
確かに、わたしがどんなにぐるぐるになっても、那智さんは折れない。
わたしの機嫌を取るために、主張や考え方を変えたりしない。
その代わり、わたしの言い分が正しかったり、上手な落としどころを見つけたら、あっさりと動いてくれる。
逆に、「俺の言うことを聞け」というふうに、那智さん側にぐいっと引っ張ることもしない。
従いたい願望のあるわたしのような女には「従え」って言えば、簡単なのに。
あくまでも、対話。
自分の立ち位置を変えず、腰を据えて手を伸ばしてくれるのだ。
だからこそ、わたしも素直になれるのね。
適当に折れてくれちゃったり、命令されたら、対等に思われてないと感じるものね。
その「立ち位置」を変えないことが、重要なのだそう。
それは、イコール「りん子も、立ち位置を動くな」ということに繋がるのだ。
わたしは弱い。
すぐ、こちらが悪くないのに「ごめんなさい」って歩み寄ってしまうし、逆に、耐えられずすぐ「もう、いい」とパーンッと手を離してしまう。
そのわたしに「立ち位置を変えず、手を伸ばせ」と言っているのだ。
那智さん自身がそうすることで、わたしにそれを見せ、長い時間かけてわたしに教えている。
多分、少しずつできているはずだ。
立ち位置を変えず、手を伸ばす。
その方法が正解なのか、それはわからない。
どんな方法で繋がるか、積み重ねるか、人それぞれ。
その人なりのオリジナルを見つけられればいいよね。
わたしの場合、まずは、自分の立ち位置確認。
これが一番難しかったりして^^;(わたしも頑張ろ〜)
信じることに慣れるのだ(5/20追記と変更あり)
りん子的独り言(エラそう)
ちょっと追記と変更しました。
気づいてくださるかな〜。
っていうか、もう一度読んでくれる奇特なかたはいらっしゃるかしら!!と思いつつ、ペコリです。
書くときに、ときどき「わたしのような女は」という言い方をします。
はっきりとした「基準」があるわけじゃなくて、かなりぼんやりした「わたし像」。
性癖や生い立ちやネガティブな部分や、使う場面もそれぞれだから、このエントリーの「わたしのような」には共感できるけど、こちらのそれはちょっと理解できない、なんていうのも、きっとあると思います。
今日、これから書こうとしてることも、感覚的なことだからどれくらいの人が理解や共感をしてくださるのか、自分の筆力も含めて、不安^^;
まず第一に「女」って書いてるのだから、男性には無理かな!?
なんて、前置きばっかりしてないで、行ってみよう!!
那智さんと知り合って最初の三日間は、とにかく物凄い量と質の長電話をした。
「惹かれ合う理由」の「出会い」のころ、一日5、6時間と書いてあったように思うけど、もしかしたら、もうちょっといっぱいだったかもしれない。
さすがに、社会人として、そんな状況いつまでも続けるわけにはいかないので、那智さんも「落とすのに必死(笑)」だったその三日間以降は、少し落ち着いてはきた。
それでも、一日数時間、そうだなぁ、3、4時間は話していたかな。
毎日続いたそれが、2週間ほどして徐々に減り出した。
毎晩、毎晩、2時間は話していたのに、ある日を境に「話せない夜(もしくは、ほんのちょっとだけしか話せない)」ができたのだ。
当然と言えば当然よね、那智さんにも那智さんの生活パターンがある。
那智さんは、お世話になっている先輩の男性のお付き合いで週数回フィットネスに通っていたのだ。
わたしとの電話で、もう2週間もそれを断っていたのだ、「さすがに、これ以上付き合い悪くはできない」そう言って、いままでの生活パターンに戻していった。
根拠なく、その夜がずっと続くと思っていたわたしは、驚いてしまった。
驚き、そして、悪い癖の「マイナス思考」が働くのだ。
「わたしに対する好きが減ってしまったの?」
那智さんはいつもわたしにこう言う。
「できるときはできるし、できないときはできない」
メールも電話も。
「だから、臆することなく、メールも電話も、寄っかかることもしていい」と。
実際、わたしのいっぱいのメール、忙しいときはほとんどスルー。
電話も「いまはダメ」とか「いまは、りん子に20%だけどそれでよければ」とか言われる。(ちなみに20%のときはかなり空返事^^;わたしの独り言状態。それでも繋がっていたいわたしって…)
でも、一段落して「できるとき」になったら、返してくれる。(メールはくだらない内容が多いので、けっこう返信は少ないけど)
何度も聞いた。
わたしが寄りかかることが負担にならない?
その負担がいずれ大きくなって、好きが減ってしまわない?
何度も答えてくれた。
「できるときはできるし、できないときはできないっていう、だから、心配しないで寄りかかればいい。」
多分、その那智さんの言っていることは、本当のことだろう。
そのときのわたしも、そう感じていたはずだ。
だけど、何度も何度も聞いてしまった。
そして、いつもいつも同じ答えをもらっていた。
わたしは、その言葉を、一生懸命自分に言い聞かせて、マイナス思考を断ち切ろうとした。
おまじないのように。
寄りかかり、ダメなときは待ち、また寄りかかれるときに疑わずに寄りかかる。
その間も、何度も聞いた。
そして、何度も答えてもらった。
こんなに両手を広げてくれている那智さんに、大丈夫だと感じさせてくれている那智さんに、なぜ、何度も同じようなことを繰り返し聞いてしまっていたのだろう。
いま、思えば。
わたしは、あのとき「那智さんが信じられなかった」のではないと思う。
信じることに慣れていなかったんだ。
これって、似ているようで、違うと思いませんか。
この感覚、理解されるだろうか。
わたしのような女は、疑い深いとか人を信じられないとかじゃなくて。
信じることに慣れてないの。
なんていうのかな、具体的に「なに」を信じることに慣れてないというより。
信じるという行為に、慣れてない、という感じかな。
あなたを信用していないのではなくて。
あなたの言ってることは嘘じゃないとわかった上で、ただ「慣れてない」だけ。
疑う余地のないほどいっぱい信じさせてもらえてるはずなのに、それでも不安に思うのは、「信じていいの?」「寄りかかってもいいの?」と何度も確認してしまうのは、誰のせいでもなくて、ただ慣れていないだけ。
信じるたための材料を全部そろえてもらっている。
あとは、それを体験して、自分の感覚にしみ込ませるために繰り返しの慣れる作業をしてるようなもの。
たとえば。
「富士山は高い」と知っていることと、実際に裾野に立ち仰ぎ見たときに感じる迫力。
そこではじめて「富士山は高い」という言葉が自分のものになるような。(違うかな…!?)
信じるに値するだけのものをもらってる、それなのに不安になることを責めずに、ただ慣れていないだけだと思いたい。
自分の感覚にしみ込ませてる最中なんだ。
似たようなことを何度も何度も聞いてしまうのは、信じる練習をしてるだけなの。
だから、わたしは祈るように那智さんに何度も聞いた。
あなたのせいじゃない、わたしが不慣れなだけ。
どうか、信じることに慣れさせてください。
慣れるまで、付き合ってください。
あのときは、こんな風に自分の心を言語化できていなかったけど、多分、那智さんのもそんな感覚が伝わっていたのではないかしら。
だから、付き合ってくれたのでしょう。
その、一見面倒なキャッチボールに付き合ってくれた那智さんをありがたいと思う。(もちろん、那智さんは那智さんのスタンスは変えずに、付き合ってくれた)
でも、わたしは、あなたと関係を作っていくために、信じることに慣れたかったの。
だから、投げ返してくれるボールを、素直に受け取り、また返す。
同じようなやり取りを繰り返していくたびに、人は慣れてくるものだ。
慣れるのにちょっと時間がかかっても、付き合ってくれれば、いつかは慣れるもの。
出会った頃、那智さんの生活パターンによって、減った電話(それだって、いっぱいだけどね)。
負担をかけていないか、不安に思った気持ち。
マイナス思考に陥りそうなとき、スタンスは変えずに「大丈夫」と同じ答えを繰り返してくれた。
だから、わたしは、信じることに慣れることができたのだ。
「信じることに慣れてないだけ」と言語化できたいま。
慣れてないんだ!!と開き直ることはよくないけど、信じられず不安な気持ちになり、「信じられない自分」を必要以上に責めてしまう、かつてのわたしに教えてあげたい。
慣れてないだけだから、慣れれば大丈夫って。
そして、恐らくほとんどが大丈夫だったと信じてるけど、そりゃあ、ちょっとは「面倒くせ〜」と思ったことがあるかもしれないかつての那智さんにも、教えてあげたい。
わたしのような女と付き合うの、ちょっとここ面倒かもしれないけど、ちゃんと慣れさせてくれれば、あとはけっこう「いい子」になりますよって(笑)
ちょっと追記と変更しました。
気づいてくださるかな〜。
っていうか、もう一度読んでくれる奇特なかたはいらっしゃるかしら!!と思いつつ、ペコリです。
書くときに、ときどき「わたしのような女は」という言い方をします。
はっきりとした「基準」があるわけじゃなくて、かなりぼんやりした「わたし像」。
性癖や生い立ちやネガティブな部分や、使う場面もそれぞれだから、このエントリーの「わたしのような」には共感できるけど、こちらのそれはちょっと理解できない、なんていうのも、きっとあると思います。
今日、これから書こうとしてることも、感覚的なことだからどれくらいの人が理解や共感をしてくださるのか、自分の筆力も含めて、不安^^;
まず第一に「女」って書いてるのだから、男性には無理かな!?
なんて、前置きばっかりしてないで、行ってみよう!!
那智さんと知り合って最初の三日間は、とにかく物凄い量と質の長電話をした。
「惹かれ合う理由」の「出会い」のころ、一日5、6時間と書いてあったように思うけど、もしかしたら、もうちょっといっぱいだったかもしれない。
さすがに、社会人として、そんな状況いつまでも続けるわけにはいかないので、那智さんも「落とすのに必死(笑)」だったその三日間以降は、少し落ち着いてはきた。
それでも、一日数時間、そうだなぁ、3、4時間は話していたかな。
毎日続いたそれが、2週間ほどして徐々に減り出した。
毎晩、毎晩、2時間は話していたのに、ある日を境に「話せない夜(もしくは、ほんのちょっとだけしか話せない)」ができたのだ。
当然と言えば当然よね、那智さんにも那智さんの生活パターンがある。
那智さんは、お世話になっている先輩の男性のお付き合いで週数回フィットネスに通っていたのだ。
わたしとの電話で、もう2週間もそれを断っていたのだ、「さすがに、これ以上付き合い悪くはできない」そう言って、いままでの生活パターンに戻していった。
根拠なく、その夜がずっと続くと思っていたわたしは、驚いてしまった。
驚き、そして、悪い癖の「マイナス思考」が働くのだ。
「わたしに対する好きが減ってしまったの?」
那智さんはいつもわたしにこう言う。
「できるときはできるし、できないときはできない」
メールも電話も。
「だから、臆することなく、メールも電話も、寄っかかることもしていい」と。
実際、わたしのいっぱいのメール、忙しいときはほとんどスルー。
電話も「いまはダメ」とか「いまは、りん子に20%だけどそれでよければ」とか言われる。(ちなみに20%のときはかなり空返事^^;わたしの独り言状態。それでも繋がっていたいわたしって…)
でも、一段落して「できるとき」になったら、返してくれる。(メールはくだらない内容が多いので、けっこう返信は少ないけど)
何度も聞いた。
わたしが寄りかかることが負担にならない?
その負担がいずれ大きくなって、好きが減ってしまわない?
何度も答えてくれた。
「できるときはできるし、できないときはできないっていう、だから、心配しないで寄りかかればいい。」
多分、その那智さんの言っていることは、本当のことだろう。
そのときのわたしも、そう感じていたはずだ。
だけど、何度も何度も聞いてしまった。
そして、いつもいつも同じ答えをもらっていた。
わたしは、その言葉を、一生懸命自分に言い聞かせて、マイナス思考を断ち切ろうとした。
おまじないのように。
寄りかかり、ダメなときは待ち、また寄りかかれるときに疑わずに寄りかかる。
その間も、何度も聞いた。
そして、何度も答えてもらった。
こんなに両手を広げてくれている那智さんに、大丈夫だと感じさせてくれている那智さんに、なぜ、何度も同じようなことを繰り返し聞いてしまっていたのだろう。
いま、思えば。
わたしは、あのとき「那智さんが信じられなかった」のではないと思う。
信じることに慣れていなかったんだ。
これって、似ているようで、違うと思いませんか。
この感覚、理解されるだろうか。
わたしのような女は、疑い深いとか人を信じられないとかじゃなくて。
信じることに慣れてないの。
なんていうのかな、具体的に「なに」を信じることに慣れてないというより。
信じるという行為に、慣れてない、という感じかな。
あなたを信用していないのではなくて。
あなたの言ってることは嘘じゃないとわかった上で、ただ「慣れてない」だけ。
疑う余地のないほどいっぱい信じさせてもらえてるはずなのに、それでも不安に思うのは、「信じていいの?」「寄りかかってもいいの?」と何度も確認してしまうのは、誰のせいでもなくて、ただ慣れていないだけ。
信じるたための材料を全部そろえてもらっている。
あとは、それを体験して、自分の感覚にしみ込ませるために繰り返しの慣れる作業をしてるようなもの。
たとえば。
「富士山は高い」と知っていることと、実際に裾野に立ち仰ぎ見たときに感じる迫力。
そこではじめて「富士山は高い」という言葉が自分のものになるような。(違うかな…!?)
信じるに値するだけのものをもらってる、それなのに不安になることを責めずに、ただ慣れていないだけだと思いたい。
自分の感覚にしみ込ませてる最中なんだ。
似たようなことを何度も何度も聞いてしまうのは、信じる練習をしてるだけなの。
だから、わたしは祈るように那智さんに何度も聞いた。
あなたのせいじゃない、わたしが不慣れなだけ。
どうか、信じることに慣れさせてください。
慣れるまで、付き合ってください。
あのときは、こんな風に自分の心を言語化できていなかったけど、多分、那智さんのもそんな感覚が伝わっていたのではないかしら。
だから、付き合ってくれたのでしょう。
その、一見面倒なキャッチボールに付き合ってくれた那智さんをありがたいと思う。(もちろん、那智さんは那智さんのスタンスは変えずに、付き合ってくれた)
でも、わたしは、あなたと関係を作っていくために、信じることに慣れたかったの。
だから、投げ返してくれるボールを、素直に受け取り、また返す。
同じようなやり取りを繰り返していくたびに、人は慣れてくるものだ。
慣れるのにちょっと時間がかかっても、付き合ってくれれば、いつかは慣れるもの。
出会った頃、那智さんの生活パターンによって、減った電話(それだって、いっぱいだけどね)。
負担をかけていないか、不安に思った気持ち。
マイナス思考に陥りそうなとき、スタンスは変えずに「大丈夫」と同じ答えを繰り返してくれた。
だから、わたしは、信じることに慣れることができたのだ。
「信じることに慣れてないだけ」と言語化できたいま。
慣れてないんだ!!と開き直ることはよくないけど、信じられず不安な気持ちになり、「信じられない自分」を必要以上に責めてしまう、かつてのわたしに教えてあげたい。
慣れてないだけだから、慣れれば大丈夫って。
そして、恐らくほとんどが大丈夫だったと信じてるけど、そりゃあ、ちょっとは「面倒くせ〜」と思ったことがあるかもしれないかつての那智さんにも、教えてあげたい。
わたしのような女と付き合うの、ちょっとここ面倒かもしれないけど、ちゃんと慣れさせてくれれば、あとはけっこう「いい子」になりますよって(笑)