感情教育1
惹かれ合う理由
「感情教育」なんて、また大袈裟なタイトルにしてしまいました。
大好きな中山可穂さんの小説のタイトルです。
まあ、この小説のタイトルもフランスの古典にあるらしいのですが。
そんなことは気にしない!
いつも大袈裟な表現ばかりしていることも自認しています。
世の中にはもっと「感情を抑制せざるを得ない辛い状況」の人は、たくさんいるだろうことも理解している。
それでも、とても個人的なレベルで物を言っているので、「感情教育」と言ってしまおう!
心の片隅で「そんな大袈裟な〜」とツッコミを入れながら。
私が那智さんに負の感情を表せるようになるまでをお話しします。
(また個人的なことで長くなるかな?いつも思い付くままに書いているので、先が読めません。どうかお付き合いくださいませ)
テレクラで知り合って、会うまでに9日間、その間のお電話で「尊敬」しているいう感情が芽生えた。
会って、「白旗を挙げて」委ねようと決意した。
その間も、それ以降も、ずっと那智さんは言っている「嘘は付かないで。素直でいて。」
そして、私も嘘を付かず本心を見られる状態が心地よいから、素直な心でいようと思う。
もちろん、大人同士だから素直に表現するでも、言葉は選ぶ(きっとこの言葉選びも「合う」要素なのだろう)
嘘やごまかしは一回犯したら、それを重ねないといけない。
その心にシミを残す行為は絶対にしたくないと思うほど、那智さんとの信頼関係は重要になっていた。
それでも最初から「淋しい」や「悲しい」、「それはいやだ」と表現できていたわけではない。
問題が起きるたびに、根気よく教えられ、包んでくれたからできるようになったのだ。
はじめは、ほんの少し負の感情を表現してみた。
口数を少なくしてみる、意味ありげに「那智さん〜」と呼んでみる。
そうすると(忙しいときは除いて)「どうした?」って聞いてくれる。
この気付いて手を差しのべてくれることは、とても幸せ。
その時に訴えたいことが自分で理解できていれば、「どうした?」を合図に訴えることができる。
でも、私の良い癖か悪い癖か、わからないけど「淋しい理由」などを頭の中で整理してちゃんと伝えられる状態になっていないと「淋しい」と言えないのだ。
なぜかというと、もともと不穏な空気が苦手で、感情をむき出しにして相手が困惑するのを避けたいがために、整理して伝えようとしてしまうのだ。
だから、こういう場合は「どうした?」と聞いてもらっても「なんでもありません」と答えてしまう。
それでも、ほんの少しだけ、黙ったりしているんだから那智さんにとっては厄介なだけだ。
ある時、何が原因か忘れてしまったが、そんな状態になってしまった。
「どうした?」
「なんでもありません」
「じゃあ、なんで黙っているの?」
「よくわかりません」
そのまま電話は終わった。
なぜ「淋しい」と言えないのだろう。
淋しい原因がわかっていないから、訴えることはできない。
それでも那智さんが時間に余裕があるときなら一緒に探ってくれるのだが、今日は忙しそうだから、なおさら言えない。
那智さんが忙しいこと、それなのに手間を取らせてしまったこと、上手に訴えられないこと、いろんなことが私をうつむかせる。
気分を変えようと、買い物に出るけど、雨が降っていて、余計に悲しさが増す。
傘を差してトボトボと歩いていると、ジーンズのお尻のポケットに入れた携帯が振動して那智さんからの電話を知らせてくれる。
私は救われた思いで携帯を手にする。
時間を作ってくれたようだ。
でも、少し厳しいことも言われる。
「俺がりん子の落ち込んだ心に、付き合えるときは付き合うけど、ダメなときに、いちいち探るのは時間の無駄だ。俺もりん子が何が言いたいのかわからずに、気になるだけの状態はいやだ。」
確かに、その通りだ。
でも、「私は気付いて手を差しのべてくれること」が幸せなんだ。
そして、「自分の心が整理できていないと訴えられない」のだ、と伝える。
買い物に来たスーパーに到着したが、人がたくさんいる中では話せない。
だって、涙が流れている。
スーパーの近くの公園に行く。
雨の中、傘を差し、泣きながらしゃがみ込む。
「きちんと整理して「淋しい」を訴えるのは間違いじゃない。でも、もっと手前の「淋しい」だけでも伝えなさい。そのとき俺が付き合えなくても、りん子は淋しいと理解できているほうがずっと二人にとって良いことだから。もしかしたら「いまは付き合えない」という時もあるかもしれない。でも、知っておいてもらえるほうが安心だろ?」
泣きながら、でも、この涙が幸福の涙に変わっていくのを実感する。
そうか、私はちゃんと説明できなくても「淋しい」と訴えていいんだ。
解決のための訴えではなく、知ってもらうためだけの訴えがあることに、はじめて気が付く。
訴えるだけでいい。
それを那智さんは、柔らかいクッションのように、受け止めてくれる。
解決は時間がある時にしてくれるはずだから、安心してクッションに心を預けていればいいんだ。
冷たい雨の中、大人の女が傘を差して泣いている。
端から見たらおかしい光景だろう。
それでも、この幸福の涙を流せる心地よさを止めることはできない。
雨で周りに人がいないことを祈りながら、携帯を耳に当て那智さんの声を聞きながら、那智さんの毛布に包まれていた。
それから、私は「淋しいです。」と伝えられるようになっている。
那智さんの理想はもうワンランク上の付き合い。
感情を上手に表現する訓練は、このあとも続くのでした。
今度、それもお話しさせてくださいね。
「感情教育」なんて、また大袈裟なタイトルにしてしまいました。
大好きな中山可穂さんの小説のタイトルです。
まあ、この小説のタイトルもフランスの古典にあるらしいのですが。
そんなことは気にしない!
いつも大袈裟な表現ばかりしていることも自認しています。
世の中にはもっと「感情を抑制せざるを得ない辛い状況」の人は、たくさんいるだろうことも理解している。
それでも、とても個人的なレベルで物を言っているので、「感情教育」と言ってしまおう!
心の片隅で「そんな大袈裟な〜」とツッコミを入れながら。
私が那智さんに負の感情を表せるようになるまでをお話しします。
(また個人的なことで長くなるかな?いつも思い付くままに書いているので、先が読めません。どうかお付き合いくださいませ)
テレクラで知り合って、会うまでに9日間、その間のお電話で「尊敬」しているいう感情が芽生えた。
会って、「白旗を挙げて」委ねようと決意した。
その間も、それ以降も、ずっと那智さんは言っている「嘘は付かないで。素直でいて。」
そして、私も嘘を付かず本心を見られる状態が心地よいから、素直な心でいようと思う。
もちろん、大人同士だから素直に表現するでも、言葉は選ぶ(きっとこの言葉選びも「合う」要素なのだろう)
嘘やごまかしは一回犯したら、それを重ねないといけない。
その心にシミを残す行為は絶対にしたくないと思うほど、那智さんとの信頼関係は重要になっていた。
それでも最初から「淋しい」や「悲しい」、「それはいやだ」と表現できていたわけではない。
問題が起きるたびに、根気よく教えられ、包んでくれたからできるようになったのだ。
はじめは、ほんの少し負の感情を表現してみた。
口数を少なくしてみる、意味ありげに「那智さん〜」と呼んでみる。
そうすると(忙しいときは除いて)「どうした?」って聞いてくれる。
この気付いて手を差しのべてくれることは、とても幸せ。
その時に訴えたいことが自分で理解できていれば、「どうした?」を合図に訴えることができる。
でも、私の良い癖か悪い癖か、わからないけど「淋しい理由」などを頭の中で整理してちゃんと伝えられる状態になっていないと「淋しい」と言えないのだ。
なぜかというと、もともと不穏な空気が苦手で、感情をむき出しにして相手が困惑するのを避けたいがために、整理して伝えようとしてしまうのだ。
だから、こういう場合は「どうした?」と聞いてもらっても「なんでもありません」と答えてしまう。
それでも、ほんの少しだけ、黙ったりしているんだから那智さんにとっては厄介なだけだ。
ある時、何が原因か忘れてしまったが、そんな状態になってしまった。
「どうした?」
「なんでもありません」
「じゃあ、なんで黙っているの?」
「よくわかりません」
そのまま電話は終わった。
なぜ「淋しい」と言えないのだろう。
淋しい原因がわかっていないから、訴えることはできない。
それでも那智さんが時間に余裕があるときなら一緒に探ってくれるのだが、今日は忙しそうだから、なおさら言えない。
那智さんが忙しいこと、それなのに手間を取らせてしまったこと、上手に訴えられないこと、いろんなことが私をうつむかせる。
気分を変えようと、買い物に出るけど、雨が降っていて、余計に悲しさが増す。
傘を差してトボトボと歩いていると、ジーンズのお尻のポケットに入れた携帯が振動して那智さんからの電話を知らせてくれる。
私は救われた思いで携帯を手にする。
時間を作ってくれたようだ。
でも、少し厳しいことも言われる。
「俺がりん子の落ち込んだ心に、付き合えるときは付き合うけど、ダメなときに、いちいち探るのは時間の無駄だ。俺もりん子が何が言いたいのかわからずに、気になるだけの状態はいやだ。」
確かに、その通りだ。
でも、「私は気付いて手を差しのべてくれること」が幸せなんだ。
そして、「自分の心が整理できていないと訴えられない」のだ、と伝える。
買い物に来たスーパーに到着したが、人がたくさんいる中では話せない。
だって、涙が流れている。
スーパーの近くの公園に行く。
雨の中、傘を差し、泣きながらしゃがみ込む。
「きちんと整理して「淋しい」を訴えるのは間違いじゃない。でも、もっと手前の「淋しい」だけでも伝えなさい。そのとき俺が付き合えなくても、りん子は淋しいと理解できているほうがずっと二人にとって良いことだから。もしかしたら「いまは付き合えない」という時もあるかもしれない。でも、知っておいてもらえるほうが安心だろ?」
泣きながら、でも、この涙が幸福の涙に変わっていくのを実感する。
そうか、私はちゃんと説明できなくても「淋しい」と訴えていいんだ。
解決のための訴えではなく、知ってもらうためだけの訴えがあることに、はじめて気が付く。
訴えるだけでいい。
それを那智さんは、柔らかいクッションのように、受け止めてくれる。
解決は時間がある時にしてくれるはずだから、安心してクッションに心を預けていればいいんだ。
冷たい雨の中、大人の女が傘を差して泣いている。
端から見たらおかしい光景だろう。
それでも、この幸福の涙を流せる心地よさを止めることはできない。
雨で周りに人がいないことを祈りながら、携帯を耳に当て那智さんの声を聞きながら、那智さんの毛布に包まれていた。
それから、私は「淋しいです。」と伝えられるようになっている。
那智さんの理想はもうワンランク上の付き合い。
感情を上手に表現する訓練は、このあとも続くのでした。
今度、それもお話しさせてくださいね。
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