心の底と、先にあるもの
独特な幸福感
それにしても、自分の本当の気持ちに気付くというのは、なんとも苦しく、なんとも清々しいものなのだろう。
自分のことなのに目から鱗が落ちるとようだ。
自分の性癖に気付いたときも、コンプレックスの元凶を見つけたときも、「ああ、そうなのか!」とスッキリするのだ。
それが、例え苦い気付きでも、一瞬は目の前が開けた感じで清々しい。
これから書くことは、重い内容だと思います。
上手にお話しできずに「?」だけが残るかもしれません。
私たちの関係に、少なからず疑問や否定の感情をお持ちの方には、不快な内容になっている可能性があります。
もし、不快に感じても責任は取れませんので、ご了承くださいね。
下腹部に刺青を入れて顔を晒している彼女(これから先、彼女のことが何度も出ると思いますが、彼女自身を批判しているわけではなく、更に、彼女を差して彼 女のことを言っているのではないことを、ご理解ください。『何かを捨て去っている』ように見える象徴としての登場です)を見て、悲しくなった理由を 10/15「上手く説明できない」に書いた。
「裏だけが愛されていると感じる」こと「依存度の高い私のような女の行き着く姿が想像されてしまう」こと、「もし、愛された結果ならば、自分の立場では叶わない」そんな理由で淋しくなっていたのだ。
その後、八竃さんのフォローで、彼女が10年ほどの歳月を重ねた末の姿だということを知り、はじめてホームページを隅から隅まで見た。
確かに月日を感じる。
ちくしょう、年月か。
私は、ずっと長い間1人の人を好きでいられなかった。
私自身も不思議なほど、あっという間に冷めるのだ(この辺りは「惹かれ合う理由」の最初のほうを読んでください)、SMのパートナーともすぐに別れる。
最初の結婚は2年で、おしまいにさせている。
だから、愛情を持って長い年月を重ねるということは、私のコンプレックスのひとつなのだ。
いま、人生ではじめて那智さんで経験をしている最中なのだ。
SM的な行為で喜ぶ性癖を持ち、その行為で「所有」されている感覚を味わうことに幸福を感じて、それが酷いほど一層従属感が増す。
本当は、そんなバロメーターは無意味とわかっていても、行為の酷さで愛情や所有度合いを想像してしまう。
私と那智さんは愛し合っている、とてもとても愛し合っている。
だけど、私がしていないことをしている人は、もっと愛し合っていることになるのか。
年月と行為。
他者と比べることに意味はない。
私の悪い性格だ、不毛な秤に掛けて、悲しくなっている。
那智さんに、会った。
着てきた服に軽い批判を向けられる。
それが原因ではないが、引き金になって、「まだ、悲しいままだ。」と伝える。
「何が、洋服が?」
ピンと来ないようだ。
「あのホームページがです。」
「まだ、言ってるの?勝手に悲しくなっていなさい。」
那智さんにとっては、取るに足らないことなのか。
それでも、半べその私に気付いて「りん子も刺青入れたいの?」と聞いてくる。
ここで、脳みそで考える前に言葉が溢れてきた。
「刺青を入れたいとは、違うのです。自分が(環境も精神も)刺青を入れられない状況が悲しいのです。刺青に限ったことではなくて、『何もかも捨て去る』状況ではない自分が悲しいのです。」
そうなのだ。
私は、下腹部に刺青を入れるわけにはいかない。
私には、私のまわりを不幸にしてはいけない責任がある。
何もかも捨て去らなければ、愛情じゃないなんてことないのに、捨て去れない自分の愛が負けている気がして悲しいのだ。
刺青を入れたいだけなのではない、いまの生活を捨てたいわけでもない、自分が両手を広げられないことが悲しいのだ。
彼女だって、付き合って数年のころには、そんな選択はなかったかもしれない。
月日と行為。
とにかく、気持ちを吐き出した。
「そうだね、りん子はそれをしていない自分の愛情が少ないと思ってしまうんだね。でもな〜、俺はああいう相手を貶める(ように見える)ことはしないな。基本は『大切にしたい』だからな。」
「でも、彼女たちも大切なんじゃないですか?」
「そうかもしれない、でも、わからない、大切は同じでも方法が違う。」
ここまで話して、少し落ち着く。
あとは、ちょっと甘えれば大丈夫そうだ。
「那智さん、私たち一番愛し合っている?」
「そうだね、一番愛し合っているし、一番仲良し。」(すみません、浮上するための会話です 汗)
その後、抱き合い、「私が、その状態じゃないことが、悲しいの」としゃくり上げて泣いて、気持ちは落ち着いた。
でも、まだ終わりではなかった。
遅いランチは、とんかつ屋さん。
知り合って間もない頃に来たことがある。
その時は、お茶のおかわりを店員さんにお願いするタイミングや、湯飲みに手を添えて飲む仕草に感動された思い出がある。
「いまは、同じことをしても、感激してくれませんよね〜。慣れちゃったんですか〜?」なんて冗談を言って、とんかつを待つ。
どこでどうなって、その話題になったのかは、覚えていない。
でも、さっきのように、熟慮しないのに、心の奥から本心が浮かび上がってきてしまったのだ。
この考えは、口にするのをためらうものだった。
SMという側面を持ち、私の心が上下することを好む那智さんに告白するには、勇気のいることだった。
驚いたり、嫌がったりして、それが快感や喜びに繋がることが魅力のひとつだろう。
これから告白することは、酷いことを望んでいると解釈されてもおかしくないからだ。
だけど、この感情は言わずにはいられない。
「私、気付きました。その考えは那智さんの好みではないかもしれない。」
「何?」
那智さんは、まっすぐに私の目を見ている。
視線は揺れない。
ここは、とんかつ屋さんだ。
隣には、学生風の男の子が4人楽しそうに話している。
私は手に持ったハンドタオルを、広げたり丸めたりしながら、那智さんの様子を伺う。
まだ、ずっと私を見ていてくれている。
思い切って告白する。
「私が、『何もかも捨て去る』状況にないことが悲しいのと、そうしようと言ってくれないことが悲しい。」
刺青を入れたいとか、家庭を壊したいとか、思っているわけじゃない。
矛盾だ。
捨て去れない、でも、捨てろと言ってくれないことが悲しい。
私は、彼女を見て、彼女にシンパシーを感じて、悲しかったのではない。
私は、言ってもらえない私自身を悲しいんでいたのだ。
那智さんの視線は揺れない。
「これで、何か変わりますか?」
「何も変わらない。覚悟を感じただけだから、むしろ嬉しいよ。簡単だ、俺が刺青を入れるよって言えば、りん子は入れるんだから。だけど、俺はそれは言わない。」
刺青を例えに出していることは、わかっている。
「俺は、りん子を大切にしたいんだ。りん子に友達と温泉に行く楽しさも味わってほしいから、言わないだけだ。」
そうじゃない方法で、確認するのだ。
証を模索するのだ。
視線を動かさず、まっすぐ私を見て、何も変わらないと言ってくれることは、本当に心強い。
「その先には、俺との結婚、または甘美な破滅があるから、りん子は惹かれるんだよ。」と帰り道にメールが来た。
那智さんは前から気付いていた、私も薄々感じていたが、このメールではじめて言語化されて、正面から向き合った。
私には「破滅願望」がある。
いや、実際に、もっと切実な問題を抱えている人はいるから、確かに甘美な妄想程度だろう。
でも、ある。
時々、那智さんは私の首を絞める。
気管は塞がず、血管を抑えるのだ。
この時、那智さんに壊される喜びを感じてしまう。
メチャクチャにされたいという願望だ。
でも、那智さんは私を壊さない。
大切に、酷いことをする。
こんな事件があったと、人に聞いた。(記事として読んだのではないから、詳細は不明です)
60代の女性が末期癌で入院していて、そこに毎日看病にくる70代の男性がいた。
この2人は夫婦ではない。
それぞれ家庭は持っていたらしいが、男性は、最初はホテル住まいをして通い、そのうち女性の住んでいたアパートに移り住み、そこから通って献身的な看病を続けた。
そのアパートは、女性の旦那さん名義だったそだから、女性は何かの理由で別居していて、尚かつ70代の男性のとも公認だったようだ。
ある日、女性は男性に絞殺される。
男性はメモを残して、姿を消す。「可哀想で、叶えてあげた」というような内容だ。
恐らく、末期癌で苦しむ女性は、男性に殺してと頼んだのだろう。
夫婦ではないこの2人には、周囲をも納得させる月日や重みがあったのかもしれない。
もし、那智さんが私を壊すなら、こんな時かもしれない。
年老いて末期癌で苦しむ私に、はじめて甘美な破滅を味わわせてくれるだろう。(実際、父を癌で亡くしている私には、これ自体甘い妄想なのもわかっていますけどね)
また、年月か。
どれくらいで、証明できるのか。
刺青も入れず、裸を晒すことなく、何もかも捨て去らずに、愛し合っていることを。
首を絞めて殺されることが幸福な関係だということを。
証明するには、何年とどんな行為が必要なのだろう。
破滅願望のある私を壊すことなく、かといってたじろぐことなく一歩も引かない。
だから、私は長生きしよう。
そして、年月を重ねた先にあるものを、那智さんと一緒に見よう。
それにしても、自分の本当の気持ちに気付くというのは、なんとも苦しく、なんとも清々しいものなのだろう。
自分のことなのに目から鱗が落ちるとようだ。
自分の性癖に気付いたときも、コンプレックスの元凶を見つけたときも、「ああ、そうなのか!」とスッキリするのだ。
それが、例え苦い気付きでも、一瞬は目の前が開けた感じで清々しい。
これから書くことは、重い内容だと思います。
上手にお話しできずに「?」だけが残るかもしれません。
私たちの関係に、少なからず疑問や否定の感情をお持ちの方には、不快な内容になっている可能性があります。
もし、不快に感じても責任は取れませんので、ご了承くださいね。
下腹部に刺青を入れて顔を晒している彼女(これから先、彼女のことが何度も出ると思いますが、彼女自身を批判しているわけではなく、更に、彼女を差して彼 女のことを言っているのではないことを、ご理解ください。『何かを捨て去っている』ように見える象徴としての登場です)を見て、悲しくなった理由を 10/15「上手く説明できない」に書いた。
「裏だけが愛されていると感じる」こと「依存度の高い私のような女の行き着く姿が想像されてしまう」こと、「もし、愛された結果ならば、自分の立場では叶わない」そんな理由で淋しくなっていたのだ。
その後、八竃さんのフォローで、彼女が10年ほどの歳月を重ねた末の姿だということを知り、はじめてホームページを隅から隅まで見た。
確かに月日を感じる。
ちくしょう、年月か。
私は、ずっと長い間1人の人を好きでいられなかった。
私自身も不思議なほど、あっという間に冷めるのだ(この辺りは「惹かれ合う理由」の最初のほうを読んでください)、SMのパートナーともすぐに別れる。
最初の結婚は2年で、おしまいにさせている。
だから、愛情を持って長い年月を重ねるということは、私のコンプレックスのひとつなのだ。
いま、人生ではじめて那智さんで経験をしている最中なのだ。
SM的な行為で喜ぶ性癖を持ち、その行為で「所有」されている感覚を味わうことに幸福を感じて、それが酷いほど一層従属感が増す。
本当は、そんなバロメーターは無意味とわかっていても、行為の酷さで愛情や所有度合いを想像してしまう。
私と那智さんは愛し合っている、とてもとても愛し合っている。
だけど、私がしていないことをしている人は、もっと愛し合っていることになるのか。
年月と行為。
他者と比べることに意味はない。
私の悪い性格だ、不毛な秤に掛けて、悲しくなっている。
那智さんに、会った。
着てきた服に軽い批判を向けられる。
それが原因ではないが、引き金になって、「まだ、悲しいままだ。」と伝える。
「何が、洋服が?」
ピンと来ないようだ。
「あのホームページがです。」
「まだ、言ってるの?勝手に悲しくなっていなさい。」
那智さんにとっては、取るに足らないことなのか。
それでも、半べその私に気付いて「りん子も刺青入れたいの?」と聞いてくる。
ここで、脳みそで考える前に言葉が溢れてきた。
「刺青を入れたいとは、違うのです。自分が(環境も精神も)刺青を入れられない状況が悲しいのです。刺青に限ったことではなくて、『何もかも捨て去る』状況ではない自分が悲しいのです。」
そうなのだ。
私は、下腹部に刺青を入れるわけにはいかない。
私には、私のまわりを不幸にしてはいけない責任がある。
何もかも捨て去らなければ、愛情じゃないなんてことないのに、捨て去れない自分の愛が負けている気がして悲しいのだ。
刺青を入れたいだけなのではない、いまの生活を捨てたいわけでもない、自分が両手を広げられないことが悲しいのだ。
彼女だって、付き合って数年のころには、そんな選択はなかったかもしれない。
月日と行為。
とにかく、気持ちを吐き出した。
「そうだね、りん子はそれをしていない自分の愛情が少ないと思ってしまうんだね。でもな〜、俺はああいう相手を貶める(ように見える)ことはしないな。基本は『大切にしたい』だからな。」
「でも、彼女たちも大切なんじゃないですか?」
「そうかもしれない、でも、わからない、大切は同じでも方法が違う。」
ここまで話して、少し落ち着く。
あとは、ちょっと甘えれば大丈夫そうだ。
「那智さん、私たち一番愛し合っている?」
「そうだね、一番愛し合っているし、一番仲良し。」(すみません、浮上するための会話です 汗)
その後、抱き合い、「私が、その状態じゃないことが、悲しいの」としゃくり上げて泣いて、気持ちは落ち着いた。
でも、まだ終わりではなかった。
遅いランチは、とんかつ屋さん。
知り合って間もない頃に来たことがある。
その時は、お茶のおかわりを店員さんにお願いするタイミングや、湯飲みに手を添えて飲む仕草に感動された思い出がある。
「いまは、同じことをしても、感激してくれませんよね〜。慣れちゃったんですか〜?」なんて冗談を言って、とんかつを待つ。
どこでどうなって、その話題になったのかは、覚えていない。
でも、さっきのように、熟慮しないのに、心の奥から本心が浮かび上がってきてしまったのだ。
この考えは、口にするのをためらうものだった。
SMという側面を持ち、私の心が上下することを好む那智さんに告白するには、勇気のいることだった。
驚いたり、嫌がったりして、それが快感や喜びに繋がることが魅力のひとつだろう。
これから告白することは、酷いことを望んでいると解釈されてもおかしくないからだ。
だけど、この感情は言わずにはいられない。
「私、気付きました。その考えは那智さんの好みではないかもしれない。」
「何?」
那智さんは、まっすぐに私の目を見ている。
視線は揺れない。
ここは、とんかつ屋さんだ。
隣には、学生風の男の子が4人楽しそうに話している。
私は手に持ったハンドタオルを、広げたり丸めたりしながら、那智さんの様子を伺う。
まだ、ずっと私を見ていてくれている。
思い切って告白する。
「私が、『何もかも捨て去る』状況にないことが悲しいのと、そうしようと言ってくれないことが悲しい。」
刺青を入れたいとか、家庭を壊したいとか、思っているわけじゃない。
矛盾だ。
捨て去れない、でも、捨てろと言ってくれないことが悲しい。
私は、彼女を見て、彼女にシンパシーを感じて、悲しかったのではない。
私は、言ってもらえない私自身を悲しいんでいたのだ。
那智さんの視線は揺れない。
「これで、何か変わりますか?」
「何も変わらない。覚悟を感じただけだから、むしろ嬉しいよ。簡単だ、俺が刺青を入れるよって言えば、りん子は入れるんだから。だけど、俺はそれは言わない。」
刺青を例えに出していることは、わかっている。
「俺は、りん子を大切にしたいんだ。りん子に友達と温泉に行く楽しさも味わってほしいから、言わないだけだ。」
そうじゃない方法で、確認するのだ。
証を模索するのだ。
視線を動かさず、まっすぐ私を見て、何も変わらないと言ってくれることは、本当に心強い。
「その先には、俺との結婚、または甘美な破滅があるから、りん子は惹かれるんだよ。」と帰り道にメールが来た。
那智さんは前から気付いていた、私も薄々感じていたが、このメールではじめて言語化されて、正面から向き合った。
私には「破滅願望」がある。
いや、実際に、もっと切実な問題を抱えている人はいるから、確かに甘美な妄想程度だろう。
でも、ある。
時々、那智さんは私の首を絞める。
気管は塞がず、血管を抑えるのだ。
この時、那智さんに壊される喜びを感じてしまう。
メチャクチャにされたいという願望だ。
でも、那智さんは私を壊さない。
大切に、酷いことをする。
こんな事件があったと、人に聞いた。(記事として読んだのではないから、詳細は不明です)
60代の女性が末期癌で入院していて、そこに毎日看病にくる70代の男性がいた。
この2人は夫婦ではない。
それぞれ家庭は持っていたらしいが、男性は、最初はホテル住まいをして通い、そのうち女性の住んでいたアパートに移り住み、そこから通って献身的な看病を続けた。
そのアパートは、女性の旦那さん名義だったそだから、女性は何かの理由で別居していて、尚かつ70代の男性のとも公認だったようだ。
ある日、女性は男性に絞殺される。
男性はメモを残して、姿を消す。「可哀想で、叶えてあげた」というような内容だ。
恐らく、末期癌で苦しむ女性は、男性に殺してと頼んだのだろう。
夫婦ではないこの2人には、周囲をも納得させる月日や重みがあったのかもしれない。
もし、那智さんが私を壊すなら、こんな時かもしれない。
年老いて末期癌で苦しむ私に、はじめて甘美な破滅を味わわせてくれるだろう。(実際、父を癌で亡くしている私には、これ自体甘い妄想なのもわかっていますけどね)
また、年月か。
どれくらいで、証明できるのか。
刺青も入れず、裸を晒すことなく、何もかも捨て去らずに、愛し合っていることを。
首を絞めて殺されることが幸福な関係だということを。
証明するには、何年とどんな行為が必要なのだろう。
破滅願望のある私を壊すことなく、かといってたじろぐことなく一歩も引かない。
だから、私は長生きしよう。
そして、年月を重ねた先にあるものを、那智さんと一緒に見よう。
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