叩き壊す
りん子的独り言(エラそう)
幼い頃からモヤモヤしていたものに『マゾ』という名前がついていて、幸せな恋愛ができない原因は『父』だったから『父性』を求めた。
とにかく、こんなふうに自分に起こる不具合に名前がついていると思うと、なんとなく安心するもの。
原因不明の不調に病名がつくと安心するように。
だけど、幸せになりきれない恋愛をくり返す原因は親、もしくは生い立ちにあると思い『アダルトチルドレン』という言葉を頼りにしてみたけど、どうも違うみたいだったり、那智さんとの性行為を重ねるうちに単に被虐嗜好というわけではなさそうだし、名前の通りではないという壁にぶつかる。
結局、被虐だけではなく、もっと大きい括りで『性的欲求』の強さも含まれているみたいで、埋めても埋めても『父性』を欲するところをみるとどうやら父だけが原因ではないくわたしは『そういう人』だったと理解していくように、自分のことを知っていく。
自分を何かに当てはめることは安心する。
だけど、人間、そんなに容易く枠に収まるものではないのだ。
最初は何かに当てはめるほうが思考が進みやすいけど、ある時期が来たら、そこからまた一歩外に出る。
違和感を無視せずカテゴライズされた温床から外れてみる。
そうして自由な視界を取り戻すと、また別の自分が見えてくる。
そして、いつか、またそこからも出る。
人生は自分を知る冒険だ。
新しい自分に出会っても、また外に出る、視界を広げることでことで新しい自分に出会う。
ずっと自分を覆う殻を壊して知ることのくり返し。
若い頃から自分を把握できている人もいるかもしれないけれど、わたしはきっとずっとこうやって『自分』を知る小さな世界を冒険していくのだろう。
自分探しの旅って言葉はしっくり来ない。
意味合いは同じだと思うのだけど、ニュアンスとしてこの言葉には探した先に自分以外の誰か(もしくは何か)がいて、それになんとかしてもらうっていう、ちょっと他力本願なイメージがあるからかな。
だから、わたしはいつも自分を知るって書くようにしているの^^
ひとり、自分の海に潜るイメージ。
何かの枠に自分を当てはめてしまうことは自由に潜る邪魔をしているように思うのです。
最初はね、名前がついていていいんだけど、それが完全ではないと思って。
いつでも叩き壊して外に出る心づもりでいたいです^^
幼い頃からモヤモヤしていたものに『マゾ』という名前がついていて、幸せな恋愛ができない原因は『父』だったから『父性』を求めた。
とにかく、こんなふうに自分に起こる不具合に名前がついていると思うと、なんとなく安心するもの。
原因不明の不調に病名がつくと安心するように。
だけど、幸せになりきれない恋愛をくり返す原因は親、もしくは生い立ちにあると思い『アダルトチルドレン』という言葉を頼りにしてみたけど、どうも違うみたいだったり、那智さんとの性行為を重ねるうちに単に被虐嗜好というわけではなさそうだし、名前の通りではないという壁にぶつかる。
結局、被虐だけではなく、もっと大きい括りで『性的欲求』の強さも含まれているみたいで、埋めても埋めても『父性』を欲するところをみるとどうやら父だけが原因ではないくわたしは『そういう人』だったと理解していくように、自分のことを知っていく。
自分を何かに当てはめることは安心する。
だけど、人間、そんなに容易く枠に収まるものではないのだ。
最初は何かに当てはめるほうが思考が進みやすいけど、ある時期が来たら、そこからまた一歩外に出る。
違和感を無視せずカテゴライズされた温床から外れてみる。
そうして自由な視界を取り戻すと、また別の自分が見えてくる。
そして、いつか、またそこからも出る。
人生は自分を知る冒険だ。
新しい自分に出会っても、また外に出る、視界を広げることでことで新しい自分に出会う。
ずっと自分を覆う殻を壊して知ることのくり返し。
若い頃から自分を把握できている人もいるかもしれないけれど、わたしはきっとずっとこうやって『自分』を知る小さな世界を冒険していくのだろう。
自分探しの旅って言葉はしっくり来ない。
意味合いは同じだと思うのだけど、ニュアンスとしてこの言葉には探した先に自分以外の誰か(もしくは何か)がいて、それになんとかしてもらうっていう、ちょっと他力本願なイメージがあるからかな。
だから、わたしはいつも自分を知るって書くようにしているの^^
ひとり、自分の海に潜るイメージ。
何かの枠に自分を当てはめてしまうことは自由に潜る邪魔をしているように思うのです。
最初はね、名前がついていていいんだけど、それが完全ではないと思って。
いつでも叩き壊して外に出る心づもりでいたいです^^
『女の子』の正体(仮)
りん子的独り言(エラそう)
最近、HSP(Highly Sensitive Person)という言葉を知った。
直訳すると「敏感すぎる人」という意味。
病気や障害というものではなく『資質』くらいのものだと認識していますが、とにかく些細なことでも敏感に感じ取ってしまう人を指すそうです。
その刺激とは視覚や聴覚などの五感や、人の感情などの第六感的なものと様々で普通の人にはスルーできるような刺激が負担のかかるほどの刺激になってしまうらしい。
ただ、5人に1人はその資質を持っているそうなので、強弱はあれ、案外多いのかもしれない。
大きな音に必要以上に驚いたり、洋服のタグのチクチクが過剰に気になったり、人の感情を察知する能力に長けているゆえに悪意や怒りを敏感に察知して、それに触れると激しく動揺したり、感受性が豊かだといえば聞こえはいいけれど、それが過ぎる性質を指している。
わたしの話になるけど、他の人からしたら大したことないことでもとても気になったり傷ついたりしてきて、自分は弱い人間だと思ってきたけど、あるときそれはただ単にアンテナの感度が良すぎるからではないかと気づいた。
そして、それは悪いことばかりではなく良いこともたくさん拾えるから、それほど卑下することはないと思えるようになったことはエントリーに書いてある。(『チューニング』)
それからは、自分のこのアンテナの感度がむしろ好きになり、それと共に、自分を知ることで対処法も考えられるようになった。
いまでも相変わらず、大きな音や驚くことは苦手だし、チクチクも気になるし、イライラしている人のそばにいると動悸が起こるけど、対処法がわかればずっと生きることがラクになっている。
(電車で隣りの人が貧乏ゆすりしているだけで、ドキドキしちゃうんだよね)
HSPの度合いが強い人は食べ物にも反応したり、人ごみなどで疲労も激しいようだから、わたしの場合はせいぜい『その傾向がある』程度のものだと思っている。
HSPそのものだとは思わないけど、わたしのアンテナの感度と同じような概念があり、名称がついたことになんだかとても安堵した。
こじつけを承知で言わせていただけば、赤ちゃんのときから夜泣きが激しかったり、小さい頃は登校拒否していたりしたのは、もしかしたら、外部からの刺激に過敏に反応してしまっていたのかもしれないななんて思ったりする。
とにかく、自分の不具合に名前がつくのは、安心するね^^
でも、前エントリーにも書いたように、名前がついたからそれでおしまいではないと思っています。
名前がついた安心感は、そこから人を動けなくします。
無意識のうちに今度はそれに自分を当てはめようとしてしまうからです。
安心感を得ることは最初のうちは大切だけど、ある時期を過ぎたら、そこから動かないのはあまり幸せなやり方ではないですよね。
同じようなところはあるけど違うところもある。
じゃあ、違うところの、それはなんだろうって、また海に潜る。
自分を知る壮大な冒険^^
何かに当てはめてしまうのはラクだし安心だけど、自分を知るチャンスを逃しているんだよ、それはとってももったいないのだ^^
自分の内側で七転八倒して見つけ出した『アンテナ』と似た概念があった。
それはわたしをとても安心させてくれた。
でも、その殻もまた叩き壊して、もっとわたしを知っていくんだ^^
ところで、わたしの場合、アンテナの感度に気づいたこともそれも悪くないと思えるようになったのも、那智さんのおかげだ。
那智さんは出会った本当にはじめの頃から「りん子の感性はいい」と言い続けてくれたから自分の感受性について思考を巡らすことができた。
那智さんはわたしの『外側』だと書いたことがある。
それ以外にも何か実体のない感覚的なものを那智さんに守ってもらっていることを『父性』や『女の子』と名付けて書いてきた。
那智さんに感じていたものは、もしかしたら、このわたしの敏感すぎる特性を認め伸ばし、そして守ってもらっていることだったのだろう。
那智さんと似たような男性もいるだろうし、那智さんより良い部分を持っている男性もいるだろう、だけど『那智さん』がいいのは、わたしのこの部分をプラスだと捉えてくれているからなのだろうな。
そして、わたしが那智さんと一緒にいてこんなにもこんなにも安心するのは、ほとんど完璧に那智さんはわたしに対して怒りやイライラの感情をぶつけないから。
そして、それと同じくらい、ほとんど完璧にわたしに対して悪意を持たないでいてくれるからだ。
自分を知っていくことは好きな人の好きな理由も知ることができる。
そんな利点もあるのだ^^
このHSPという概念(わたしにとってはあくまでも『概念』です^^)、まだちょっと明確に言語化できていないからモヤモヤしているけれど、ずいぶん、これが『核』のように思えてきている。
敏感過ぎる感受性、『女の子』はこれかもしれない。
わたしと同じように些細なことを敏感に感じ取ってしまう人。
昔から「弱い」とか「神経質」とか言われてきた人。
もしかしたら、これかもしれないね。
だとしたら、それは弱いのではなく感度がいいだって思えるといいよね。
人の心の機微に気づける人だと思えるといいよね。
自分をダメな人だと思わないでいたいね。
マイナスなことに敏感だけど、人よりも多くプラスのことにも気づけるのだと信じ、その能力を思う存分活かして豊かに生きましょうね。
で、もっと自分を知る冒険を続けよう^^
<関連エントリー>
チューニング
成績表
球体
海の底
「等式」感想です。難しいです。「弱い」「神経質」な人とわがまま、協調性が無い人と区別が出来るのか?そして、周囲はそれを区別し対応するべきなのか?HSPの人がそのまま生きていけるのかは環境が許容するかではないか、ダメなら自分が慣れてアンテナの感度を下げる努力をしないと生きにくい。
りん子と共にいると、彼女のアンテナの感度を下げるか、多少大変な状況を甘受するかの選択を迫られる場面が希にある。99%甘受している。(笑)
りん子(^-^)HSPかどうかというより、負でしかなかったものに正の側面があるのではないかと探り当てたものと同じような概念があったということが、わたしにとっては重要でした。 だって、案外、大雑把なところもあったりするからね、敏感だけじゃなかったりなんだもん(笑)
最近、HSP(Highly Sensitive Person)という言葉を知った。
直訳すると「敏感すぎる人」という意味。
病気や障害というものではなく『資質』くらいのものだと認識していますが、とにかく些細なことでも敏感に感じ取ってしまう人を指すそうです。
その刺激とは視覚や聴覚などの五感や、人の感情などの第六感的なものと様々で普通の人にはスルーできるような刺激が負担のかかるほどの刺激になってしまうらしい。
ただ、5人に1人はその資質を持っているそうなので、強弱はあれ、案外多いのかもしれない。
大きな音に必要以上に驚いたり、洋服のタグのチクチクが過剰に気になったり、人の感情を察知する能力に長けているゆえに悪意や怒りを敏感に察知して、それに触れると激しく動揺したり、感受性が豊かだといえば聞こえはいいけれど、それが過ぎる性質を指している。
わたしの話になるけど、他の人からしたら大したことないことでもとても気になったり傷ついたりしてきて、自分は弱い人間だと思ってきたけど、あるときそれはただ単にアンテナの感度が良すぎるからではないかと気づいた。
そして、それは悪いことばかりではなく良いこともたくさん拾えるから、それほど卑下することはないと思えるようになったことはエントリーに書いてある。(『チューニング』)
それからは、自分のこのアンテナの感度がむしろ好きになり、それと共に、自分を知ることで対処法も考えられるようになった。
いまでも相変わらず、大きな音や驚くことは苦手だし、チクチクも気になるし、イライラしている人のそばにいると動悸が起こるけど、対処法がわかればずっと生きることがラクになっている。
(電車で隣りの人が貧乏ゆすりしているだけで、ドキドキしちゃうんだよね)
HSPの度合いが強い人は食べ物にも反応したり、人ごみなどで疲労も激しいようだから、わたしの場合はせいぜい『その傾向がある』程度のものだと思っている。
HSPそのものだとは思わないけど、わたしのアンテナの感度と同じような概念があり、名称がついたことになんだかとても安堵した。
こじつけを承知で言わせていただけば、赤ちゃんのときから夜泣きが激しかったり、小さい頃は登校拒否していたりしたのは、もしかしたら、外部からの刺激に過敏に反応してしまっていたのかもしれないななんて思ったりする。
とにかく、自分の不具合に名前がつくのは、安心するね^^
でも、前エントリーにも書いたように、名前がついたからそれでおしまいではないと思っています。
名前がついた安心感は、そこから人を動けなくします。
無意識のうちに今度はそれに自分を当てはめようとしてしまうからです。
安心感を得ることは最初のうちは大切だけど、ある時期を過ぎたら、そこから動かないのはあまり幸せなやり方ではないですよね。
同じようなところはあるけど違うところもある。
じゃあ、違うところの、それはなんだろうって、また海に潜る。
自分を知る壮大な冒険^^
何かに当てはめてしまうのはラクだし安心だけど、自分を知るチャンスを逃しているんだよ、それはとってももったいないのだ^^
自分の内側で七転八倒して見つけ出した『アンテナ』と似た概念があった。
それはわたしをとても安心させてくれた。
でも、その殻もまた叩き壊して、もっとわたしを知っていくんだ^^
ところで、わたしの場合、アンテナの感度に気づいたこともそれも悪くないと思えるようになったのも、那智さんのおかげだ。
那智さんは出会った本当にはじめの頃から「りん子の感性はいい」と言い続けてくれたから自分の感受性について思考を巡らすことができた。
那智さんはわたしの『外側』だと書いたことがある。
それ以外にも何か実体のない感覚的なものを那智さんに守ってもらっていることを『父性』や『女の子』と名付けて書いてきた。
那智さんに感じていたものは、もしかしたら、このわたしの敏感すぎる特性を認め伸ばし、そして守ってもらっていることだったのだろう。
那智さんと似たような男性もいるだろうし、那智さんより良い部分を持っている男性もいるだろう、だけど『那智さん』がいいのは、わたしのこの部分をプラスだと捉えてくれているからなのだろうな。
そして、わたしが那智さんと一緒にいてこんなにもこんなにも安心するのは、ほとんど完璧に那智さんはわたしに対して怒りやイライラの感情をぶつけないから。
そして、それと同じくらい、ほとんど完璧にわたしに対して悪意を持たないでいてくれるからだ。
自分を知っていくことは好きな人の好きな理由も知ることができる。
そんな利点もあるのだ^^
このHSPという概念(わたしにとってはあくまでも『概念』です^^)、まだちょっと明確に言語化できていないからモヤモヤしているけれど、ずいぶん、これが『核』のように思えてきている。
敏感過ぎる感受性、『女の子』はこれかもしれない。
わたしと同じように些細なことを敏感に感じ取ってしまう人。
昔から「弱い」とか「神経質」とか言われてきた人。
もしかしたら、これかもしれないね。
だとしたら、それは弱いのではなく感度がいいだって思えるといいよね。
人の心の機微に気づける人だと思えるといいよね。
自分をダメな人だと思わないでいたいね。
マイナスなことに敏感だけど、人よりも多くプラスのことにも気づけるのだと信じ、その能力を思う存分活かして豊かに生きましょうね。
で、もっと自分を知る冒険を続けよう^^
<関連エントリー>
チューニング
成績表
球体
海の底
「等式」感想です。難しいです。「弱い」「神経質」な人とわがまま、協調性が無い人と区別が出来るのか?そして、周囲はそれを区別し対応するべきなのか?HSPの人がそのまま生きていけるのかは環境が許容するかではないか、ダメなら自分が慣れてアンテナの感度を下げる努力をしないと生きにくい。
りん子と共にいると、彼女のアンテナの感度を下げるか、多少大変な状況を甘受するかの選択を迫られる場面が希にある。99%甘受している。(笑)
りん子(^-^)HSPかどうかというより、負でしかなかったものに正の側面があるのではないかと探り当てたものと同じような概念があったということが、わたしにとっては重要でした。 だって、案外、大雑把なところもあったりするからね、敏感だけじゃなかったりなんだもん(笑)
痴女もの(笑)
140字もどき
わたしがたまーに、ごくたまーに見ているエロ動画サイト、そういうサイトは怖いというわたしに那智さんが『危なくない』と出会ってはじめの頃に教えてもらってから唯一見ているサイトがある。
だから、かれこれ10年は見ている。
ある意味マニアだ(笑)
で、ふと感じるのだけど、どうも最近の傾向として『痴女もの』が増えているように感じる。
いや、昔から『女教師の誘惑』とか『義母の魔力に』なんていうのはあったと思うのだけど、『痴女』という言葉の定着と比例するように積極的な女性に責められるモノの割合いが増しているのだ。
(わたしのおかずカテではないので内容の詳細はわからないけどね!)
昔は、男性が責める構図のほうが圧倒的に多くて、たまに積極的な看護婦さんやら隣りの奥さんやらがいたくらいだったのに、このところヘタしたら4割くらい『痴女』系なんじゃないかって思うほどだ(ちょっと大げさな見積もり^^)
これってね、案外時代背景を映し出しているんじゃないかって思っておりまして、草食系なんて言われてひさしいけれど、アダルト分野でも受動を好む男性が増えているのではないでしょうか。
ただ一見、日本の性社会に多様性が生まれたように思うけど、結局のところはマグロな男性が増えただけで、むしろ一般性社会の風俗化が進んでいるだけなんじゃないかと、ちょっと残念な気分になったりもしちゃうけど^^;
まあ、男性向けのサイトだから男性主体は当然だけど、案外だいたいこんな感じなんじゃないかな〜とも思うのです。
「等式」感想です。「おかずカテ」とはなんでしょう?(笑)
「等式」感想2です。受動的な男性が増えた分、能動的な女性が増えたなら需給バランスがとれるけれど、りん子どうなの?かまってちゃんが増えると相対的に私の出番が増えそうで嬉しいです。(笑)
わたしがたまーに、ごくたまーに見ているエロ動画サイト、そういうサイトは怖いというわたしに那智さんが『危なくない』と出会ってはじめの頃に教えてもらってから唯一見ているサイトがある。
だから、かれこれ10年は見ている。
ある意味マニアだ(笑)
で、ふと感じるのだけど、どうも最近の傾向として『痴女もの』が増えているように感じる。
いや、昔から『女教師の誘惑』とか『義母の魔力に』なんていうのはあったと思うのだけど、『痴女』という言葉の定着と比例するように積極的な女性に責められるモノの割合いが増しているのだ。
(わたしのおかずカテではないので内容の詳細はわからないけどね!)
昔は、男性が責める構図のほうが圧倒的に多くて、たまに積極的な看護婦さんやら隣りの奥さんやらがいたくらいだったのに、このところヘタしたら4割くらい『痴女』系なんじゃないかって思うほどだ(ちょっと大げさな見積もり^^)
これってね、案外時代背景を映し出しているんじゃないかって思っておりまして、草食系なんて言われてひさしいけれど、アダルト分野でも受動を好む男性が増えているのではないでしょうか。
ただ一見、日本の性社会に多様性が生まれたように思うけど、結局のところはマグロな男性が増えただけで、むしろ一般性社会の風俗化が進んでいるだけなんじゃないかと、ちょっと残念な気分になったりもしちゃうけど^^;
まあ、男性向けのサイトだから男性主体は当然だけど、案外だいたいこんな感じなんじゃないかな〜とも思うのです。
「等式」感想です。「おかずカテ」とはなんでしょう?(笑)
「等式」感想2です。受動的な男性が増えた分、能動的な女性が増えたなら需給バランスがとれるけれど、りん子どうなの?かまってちゃんが増えると相対的に私の出番が増えそうで嬉しいです。(笑)
好きに使う
140字もどき
あのね、この間感じたのだけれど、おまんこしているりん子を見ていると満足する。
そして、馬に鞭を入れるように気合いを入れるの。
この間は覚めている自分と夢中なりん子のコントラストがおもしろかった(笑)
りん子だけで快感を貪らせて没頭させても大丈夫になったから冷静でいられる。
それで心からいい子いい子できるから、安心(笑)
自分のことをあまり考えなくりん子を見ることができるのが良いかもしれない。
ある日、チャットにポツポツと語ってくれた言葉。
たとえば、痛いことや単純にセックスの快感だけだったとしても、那智さんはここにきてやっと、SM的表現でいうところの『好きに使う』ことができることができるようになってきたのだとと思う。
ずっとずっと前は、わたしがセックスで感じられるように、痛いことに慣れ快感に繋げられるように、様子を見たりいろいろな方法を試したりしていた。
ある時期からずいぶんセックスでも痛みでも感じられるようになってきたから、ずいぶん安心していろいろできるようになってきたけど、おそらく、まだ気を使っていたのだと思う。
その気遣いというのは、那智さんもわたしと同じステージに立つような気遣いなのだろう。
もちろん、那智さんがわたしのように理性を失うようなテンションになるということではないのだけど、なんていうか、『並走しているよ』というテンションを作っていたのだと思う。
そうすることで、わたしが安心して快感に没頭できるから。
で、このチャットでお話ししてくれたことは、そのもう一段階進んだ状態のようで、それがうれしかったらしいのです。
たぶん、わたしが深く快感に没頭できるようになれたから、那智さんは、自分のことを省みる必要がなくなったのだろう。
そうなればなるほど『冷静』になる那智さんって不思議。
もしかしたら、いっそう『素』になれるという表現のほうが近いかもしれないな。
もともと、那智さんはしたいようにしてきた。
那智さんのやりたい方法でわたしを可愛がり、変えてきた。
だから、『好きに』といえば、ずっと前から好きにしていたのだけど、きっとそれがもっと進むと、わたしに対してだけではなく、自分のことも好きにしていられるようになるようなのだ。
わたしを夢中にさせればさせるほど、自分は素をたのしめる。
ちょっと那智さんらしい『好きに』するだなと思うのです^^
「等式」感想です。思い返すと、りん子だけを行為に対し夢中にさせるのは不安に思うだろうと、最初の頃に考えた想いを最近まで引きずっていただけでしょう。(笑)しかし、このエントリー解ってもらえるかな?
あのね、この間感じたのだけれど、おまんこしているりん子を見ていると満足する。
そして、馬に鞭を入れるように気合いを入れるの。
この間は覚めている自分と夢中なりん子のコントラストがおもしろかった(笑)
りん子だけで快感を貪らせて没頭させても大丈夫になったから冷静でいられる。
それで心からいい子いい子できるから、安心(笑)
自分のことをあまり考えなくりん子を見ることができるのが良いかもしれない。
ある日、チャットにポツポツと語ってくれた言葉。
たとえば、痛いことや単純にセックスの快感だけだったとしても、那智さんはここにきてやっと、SM的表現でいうところの『好きに使う』ことができることができるようになってきたのだとと思う。
ずっとずっと前は、わたしがセックスで感じられるように、痛いことに慣れ快感に繋げられるように、様子を見たりいろいろな方法を試したりしていた。
ある時期からずいぶんセックスでも痛みでも感じられるようになってきたから、ずいぶん安心していろいろできるようになってきたけど、おそらく、まだ気を使っていたのだと思う。
その気遣いというのは、那智さんもわたしと同じステージに立つような気遣いなのだろう。
もちろん、那智さんがわたしのように理性を失うようなテンションになるということではないのだけど、なんていうか、『並走しているよ』というテンションを作っていたのだと思う。
そうすることで、わたしが安心して快感に没頭できるから。
で、このチャットでお話ししてくれたことは、そのもう一段階進んだ状態のようで、それがうれしかったらしいのです。
たぶん、わたしが深く快感に没頭できるようになれたから、那智さんは、自分のことを省みる必要がなくなったのだろう。
そうなればなるほど『冷静』になる那智さんって不思議。
もしかしたら、いっそう『素』になれるという表現のほうが近いかもしれないな。
もともと、那智さんはしたいようにしてきた。
那智さんのやりたい方法でわたしを可愛がり、変えてきた。
だから、『好きに』といえば、ずっと前から好きにしていたのだけど、きっとそれがもっと進むと、わたしに対してだけではなく、自分のことも好きにしていられるようになるようなのだ。
わたしを夢中にさせればさせるほど、自分は素をたのしめる。
ちょっと那智さんらしい『好きに』するだなと思うのです^^
「等式」感想です。思い返すと、りん子だけを行為に対し夢中にさせるのは不安に思うだろうと、最初の頃に考えた想いを最近まで引きずっていただけでしょう。(笑)しかし、このエントリー解ってもらえるかな?
ちょっと息切れ(笑)
140字もどき
ちょっぴり停滞気味なのであえて!!ほぼリアルタイムで^^
ーーーーーー
話題の号泣議員。
いろいろ意見はあると思うけど、ちょっと違う視点から。
あれ、ホントに号泣しているのか、わざとなのか、わたしの周りで意見が2分されている。
わたしはかなり疑いなくホントだと思っていた。
ただ単に感情的な子どもみたいな男の人が、自分のやったことを棚に上げて『置かれた状況』に対してヒステリックになっているのだと。
だけど、ある人は『ネタ』だというのだ。
ああやってまともじゃないことをしておけば核心部分では追求されないと踏んでの『ネタ』だということだろう。
ほんの一部を見た限りでは実際に頬が濡れているので涙は流しているからうそ泣きではないと思うけど、それでも、ああいう方法を『ネタ』に選ぶくらいだから、何かしら必死な気持ちが感極まらせて涙になったとも想像できなくもない。
まあ、わたし的には『ネタ』は信じられないのだけど…、そういう意見もあったのもたしか。
子どもみたいな男の人だってことでも、何かをごまかすためにあの方法を選ぶとしても、どっちに転んでもアウトだけど^^;
実際のとこと、どうなんだろうね。
あ、でも、こういうワイドショーネタみたいなことより、もっとちゃんと見ていないといけないことあるからね。
ブログで政治ネタは避けた方がいいと思うので(とくに『お花畑の左寄り(那智さん命名)』のわたしなので^^;)書かないけど〜。
でも、ホントはそういうほうをしっかり知るようにしましょうね〜。
これもネタってことでお許しを!!
ーーーーー
こんなふうにさ、一日置きに更新していてノロケや偏った主張ばかりしているとね、案外『粗』もあったりしちゃうんだよね。
でね、普通の人だったら頭の中で留まっていることも書いちゃっているからね、一日置きってことは必要以上に読んでいる人の目に触れる機会も多かったりするんだよね(更新しているから当たり前だけど^^;)
まあ、自分の意思で書いているわけだし、公開した後は読み手の人がどう受け取ろうと自由なんだけども、たまには矛盾や辻褄合わないこともあるかもしれないし偏り過ぎちゃうこともあるかもしれないし、いけ好かないこともあるかもしれないけど、この更新頻度に免じて、ちょっとだけ大目に見てほしいな〜なんてことも思ったりいたします。
書くのも、どう読むかも自由なんだけどね。
梅雨空みたいな、ちょっとどんよりした更新でした(笑)
たまにはリアルタイムでどんよりもいいよね〜^^;
「等式」感想です。いいね♪愚痴愚痴。珍しいね、たまには楽しいのだけれど、年に何回位なら楽しく読めるのかなと想像すると2~3だと思います。あと、愚痴とボヤキは違うと思う、辞書は使いませんが、感覚的に思います。
ちょっぴり停滞気味なのであえて!!ほぼリアルタイムで^^
ーーーーーー
話題の号泣議員。
いろいろ意見はあると思うけど、ちょっと違う視点から。
あれ、ホントに号泣しているのか、わざとなのか、わたしの周りで意見が2分されている。
わたしはかなり疑いなくホントだと思っていた。
ただ単に感情的な子どもみたいな男の人が、自分のやったことを棚に上げて『置かれた状況』に対してヒステリックになっているのだと。
だけど、ある人は『ネタ』だというのだ。
ああやってまともじゃないことをしておけば核心部分では追求されないと踏んでの『ネタ』だということだろう。
ほんの一部を見た限りでは実際に頬が濡れているので涙は流しているからうそ泣きではないと思うけど、それでも、ああいう方法を『ネタ』に選ぶくらいだから、何かしら必死な気持ちが感極まらせて涙になったとも想像できなくもない。
まあ、わたし的には『ネタ』は信じられないのだけど…、そういう意見もあったのもたしか。
子どもみたいな男の人だってことでも、何かをごまかすためにあの方法を選ぶとしても、どっちに転んでもアウトだけど^^;
実際のとこと、どうなんだろうね。
あ、でも、こういうワイドショーネタみたいなことより、もっとちゃんと見ていないといけないことあるからね。
ブログで政治ネタは避けた方がいいと思うので(とくに『お花畑の左寄り(那智さん命名)』のわたしなので^^;)書かないけど〜。
でも、ホントはそういうほうをしっかり知るようにしましょうね〜。
これもネタってことでお許しを!!
ーーーーー
こんなふうにさ、一日置きに更新していてノロケや偏った主張ばかりしているとね、案外『粗』もあったりしちゃうんだよね。
でね、普通の人だったら頭の中で留まっていることも書いちゃっているからね、一日置きってことは必要以上に読んでいる人の目に触れる機会も多かったりするんだよね(更新しているから当たり前だけど^^;)
まあ、自分の意思で書いているわけだし、公開した後は読み手の人がどう受け取ろうと自由なんだけども、たまには矛盾や辻褄合わないこともあるかもしれないし偏り過ぎちゃうこともあるかもしれないし、いけ好かないこともあるかもしれないけど、この更新頻度に免じて、ちょっとだけ大目に見てほしいな〜なんてことも思ったりいたします。
書くのも、どう読むかも自由なんだけどね。
梅雨空みたいな、ちょっとどんよりした更新でした(笑)
たまにはリアルタイムでどんよりもいいよね〜^^;
「等式」感想です。いいね♪愚痴愚痴。珍しいね、たまには楽しいのだけれど、年に何回位なら楽しく読めるのかなと想像すると2~3だと思います。あと、愚痴とボヤキは違うと思う、辞書は使いませんが、感覚的に思います。