否応なくマゾ
りん子的独り言(生意気)
今回は、たくさん私のために。
そして、『その関係』で苦しいと感じている人に。
いつものように、同じ名称を指してしまっていますが、どんな関係に於いてもそれで満たされている方には向けていません。
苦しい人へ。
私ジャンプしてみるから、一緒にどう?とお誘いです^^
お誘い最後のほうにしているから、最後まで読んでみてくださいね。
少し前こんなメールをいただいた。
『自分はMなのかわからない』
その方は元々SMの世界に興味もなく当然パートナーもいないのだけど、不思議と私のブログに共感してくださって読んでいるうちに、自分はどうなんだろうと考えたのだそうです。
その方へのお返事に私はこう書きました。
『きっとMではないでしょう』って。
例えば、セックスの刺激でSM的なことをするとして、どちらの役割なら楽しめるかなと考えるなら『Mなの?』と想像してみることは楽しいことだと思うけど。
そうじゃなくて、嗜好や性癖でいうなら違うだろうと。
だって、性癖っていうのは、考える間もなく湧いてしまうものだと思うから。
小さい頃から変なことが気になって心がざわざわして、思春期を迎える頃にははっきりと『変なことに興奮する』ことを覚えていた。
もしかしたらこれは人には言わないほうがいいんじゃないか。
それで興奮するのだから、自己嫌悪するし、私はどうなっちゃうんだろうと恐怖さえ感じていた。
電車で痴漢に遭ったとき、怖くて悲しくて気持ち悪くて逃げたけど、後から興奮してしまってトイレでオナニーをしてしまったとき、自分が情けなくて大嫌いで、痴漢した犯人と私自身ふたりから傷つけられているようだった。
(痴漢は犯罪です。ただいまは被害を訴えたいのではなく、性癖ってこういうこというんじゃない?という一例で書いています。)
こんなのなくなってほしい。
そう思っても、消しても消しても湧いてくる、それが性癖というのであって、どうなんだろう?と考える時点で違うのだと思うのです。
マゾは、否応なくマゾなんだろうと。
ただ、その方が『薬指の刺青』を読みながら共感してくださるポイントはいろいろあると思うので、彼女の『否応なく求めてしまう』ものが性癖であって願望なんだよね。
それが父性やわんこかもしれないし、もしかしたらお仕事のことかもしれない。
自分が『否応なく求めるもの』に名前が付くとすっきりするから、彼女のそれを探るヒントになればいいなとお返事しました。
名前が付くと安心する。
そうなんだよね。
なぜこんなことに興奮するんだろう。
なぜそれが頭から離れないんだろう。
大人になるにつれて、これも大きくなってしまったらどうしよう。
その得体の知れないモンスターに名前が付いていた。
それがSMで、私側はマゾだった。
(『私について(性癖1、2)』)
体の不調に病名がわかるとなんとなくホッとするよね。
それと同じように、とても安堵した記憶がある。(逆に、叶えられないよねと目眩がした記憶もある^^;)
恐ろしい想像する私はおかしいんじゃなくて、マゾだったんだ。
名前が私を安心させた。
那智さんと出会って3ヶ月ほどで『今後SMという言葉を極力使わないように。SMを意識することもダメ』と言われた。
なんで?私、マゾなんだよ。
やっと叶えてもらえるのに。
とてもショックだった。
それは那智さんがSMを意識することなく自然にできることが嬉しくて、ふたりの愛し合う形としてSMという概念に捕われたくないという気持ちからだと教えてもらって、少しずつそうなれてきた。
(『意識するな』)
関係に名前は必要ない。
ふたりで作るもの。
それが那智さんの考え方だった。
それはブログをはじめる時にも念を押されたんだ。
『SMを前面に出さない』って。
便宜上それを使うのはかまわないけど、基本的に自分たちはSMをしているんじゃないし、SでもMでもないというスタンスでいること。
どこかにカテゴライズされることは安心かもしれないけど、それはイコール『こうでなければならない』という枷になる。
りん子が自由な主張をするためにはMでないほうがいいって。
だから、『りん子的独り言』を書くときも対象を限定したり、ふたりのしていることをSM『的』と表現したりしている。
そして、最近、また那智さんにブログのスタンスを改めて認識してもらうようにエントリーなり注釈なり付けたらどうかと提案されている。
SM的なことをしているけれど、自分たちはSでもMでもなくてSMもしていない。
那智とりん子の形だって。
それは先に書いたように『自由に主張できるように』ということと、もうひとつ。
私の書く『りん子的独り言』を読んで、そんな苦しい人がいるの!?と驚いているのだ。
私から聞く『世のSMや主従』と那智さんのスタンスがあまりにもかけ離れていて、それとこれを一緒にすることにとても違和感を感じているのだそう。
(那智さんは、ほとんどよそのブログを読まないのです。情報は『りん子的独り言』なので余計になんだけどね^^;)
しばらく前にこの提案をされてから、ずっと首を縦に振れずにいた。
なぜなら、私は『マゾ』だという気持ちを捨てることができなかった。
(もちろん捨てろとは言われていないけど)
SMは意識していない、わんこも鞭も手を繋いだりキスをしたりと同じことでしている。
それはわかってる。
だけど、じゃあマゾじゃありませんと注釈を付けることができなかった。
それは、ずっとずっと私も怖がらせたモンスターの名前だったから。
名前をつけることで、やっと安心できたのだもの。
厄介だけどいまの私を作った重要な一部でもあるわけで、それを意識しないようにするのは、『安心感』を手放すようで、怖かった。
那智さんとの関係が深くなるにつれて。
確かに、私の求めていたものは被虐だけではないと思えている。
ただの被虐は傷つく。
大切にしてもらいながら酷いことをしてほしい。
犬気質で娘願望もあるようだ。
ただただ変態なんじゃないかと驚愕してしまうこともある。
(『被虐の種類』『犬気質』『原体験』『全肯定1、2』などなど^^)
いまでも、自分はなんなのかわかっていない。
ただ、マゾだけじゃないことは理解できている。
だから、寂しいような怖いような不安な気持ちだけど。
一度名前を手放してみようと思う。
20年、30年、拠り所にしていた名前。
マゾだと思うけど、それは私を作る濃いものではあるが、一部だ。
一部を名前にすることをやめよう。
いま、やっとそう思えてきている。
最初に『SMを意識するな』と言われてから、私は他者と比べることから解放された。
そして、マゾという名前を意識から外すことで、もっと自由になれるなら馴染んだ名前を手放してみようと思えてきている。
そう決心させてくれたのは、メールをくれた人。
『どうなんだろう?』と考えるくらいなら、そんな名称ないでいいよね。
その方は、特別悩んでいるわけではないけれど。
その方の疑問に象徴されるように、名前や『ありもしない定義』が自由を奪っている可能性があるのではないかと、改めて感じたのです。
『Mなんだから』ということで本意とは違う思いをしている人がいるなら。
『奴隷はこうじゃなきゃいけない』と『ありもしない定義』で苦しんでいる人がいるなら。
(それで満たされている人はいいのですよ)
そんな名前捨ててしまおう。
どこかに属するのは安心する。
S側も、どこかで聞いたことがあるような『奴隷とは』をなぞるほうがお手軽だよね。
だけど、『○○とは』ではなくて、『私は、私たちは』にするべきだ。
SもMも主も奴隷も関係ない。
私はどうしたいかで考えるべきで、それには名前は必要ないし。
私たちはどうしたいかで付き合えば『○○さんみたいに』なんて他者と比較するような要求なんて起こらないはずだ。
私の、私たちの、オリジナルができあがってから、はじめて便宜上の『名前』を付ければいいんじゃないかな。
(『なんて呼ぼう』なんてエントリーもありました)
とても恥ずかしいのだけど(恥ずかしいけど、書くよ〜)
実はこれを書きながら涙腺が緩んでしまっている。
気を抜いたら泣いてしまいそうだ。
ずっと私を苦しめたモンスター、名前を付けて馴染むほどになった『マゾ』。
否応なくマゾだと感じ続けていた私の濃い一部。
それを心の中で手放すことはボロボロになった大事な毛布を捨てるようで、なんだかとても寂しい。
だけど、自己主張する上でその名前が障害になるなら、私の自由のために手放そうと思う。
性癖は涙が出るくらい真剣なことなんだ。
だから、一生懸命向き合って、なんとか叶えたくてもがく。
叶ったときは、至上の喜びだ。
性癖でないなら、それを喜びに変えることはとてもとても難しいものなんだよ。
Mっぽいからというだけで何をしてもいいわけない。
『今日から奴隷ね』と言われて、『はい、そうですか』となれるものでもない。
求められたからという理由だけで、簡単に性癖は生まれないし、嗜好を作れるわけないんだ。
否応なくマゾ。
否応なく、奴隷。
性癖や嗜好は、求めてやまないもの。
消しても消しても湧いてしまう求めているものが、あなたの本意なんだと思う。
求められてなれるものじゃない。
それは不本意というものだ。
もしかして苦しいのは、求めていないものの名前をつけられているからなんじゃないだろうか。
その名前に縛られて苦しい人がいるなら、そんな名前捨ててしまおう。
自分だけの名前を作るのだ。
作ってくれる人と。
私も、手放すから。
手放すというと大げさかもしれないね、意識しないように努力する。
それは私の一部ではあるけれど、私じゃないって。
でも、これからもブログの中では自分をM女と書くかもしれない。
それはわかりやすい記号だからね。
だけど、那智さんと私を作っているものは、もっと複雑でもっと多彩でもっと『独特な幸福』。(『独特な幸福のススメ』)
ちょっと感傷的な私。
(多分、数日後アップするから、余計恥ずかしいかも^^でも、いいよね『薬指』っぽくて)
否応なくマゾだと思う私も、それを手放してみる。
だから、苦しいなら、人から付けられた既存の名前なんか捨てちゃえばいい、あなたが自由でいるために。
私を作っていた『M』は。
マゾのMで。
娘のMで。
モンスターのMで。
りん子の『M』。
ですよね、那智さん。
あ、ついでに女の『O』も入れとこ^^
あ〜ん、アルファベットいっぱい。
全部ひっくるめて。
やっぱり私は、『りん子』だ。
あなたの求めてやまないものはなに?
被虐?
支配?
それとも、依存先?父性?
もしかしたら、極々普通の温かい愛情だったりして。
それを含めて、あなたを作るものはなんだろう。
それを考えるのは、苦しかったりつらかったりするかもしれないけど、きっと悪いことじゃないと思うのです。
知れば不必要な名前は捨てられる。
そして、少し自由を手に入れることができるはず。
今回は、たくさん私のために。
そして、『その関係』で苦しいと感じている人に。
いつものように、同じ名称を指してしまっていますが、どんな関係に於いてもそれで満たされている方には向けていません。
苦しい人へ。
私ジャンプしてみるから、一緒にどう?とお誘いです^^
お誘い最後のほうにしているから、最後まで読んでみてくださいね。
少し前こんなメールをいただいた。
『自分はMなのかわからない』
その方は元々SMの世界に興味もなく当然パートナーもいないのだけど、不思議と私のブログに共感してくださって読んでいるうちに、自分はどうなんだろうと考えたのだそうです。
その方へのお返事に私はこう書きました。
『きっとMではないでしょう』って。
例えば、セックスの刺激でSM的なことをするとして、どちらの役割なら楽しめるかなと考えるなら『Mなの?』と想像してみることは楽しいことだと思うけど。
そうじゃなくて、嗜好や性癖でいうなら違うだろうと。
だって、性癖っていうのは、考える間もなく湧いてしまうものだと思うから。
小さい頃から変なことが気になって心がざわざわして、思春期を迎える頃にははっきりと『変なことに興奮する』ことを覚えていた。
もしかしたらこれは人には言わないほうがいいんじゃないか。
それで興奮するのだから、自己嫌悪するし、私はどうなっちゃうんだろうと恐怖さえ感じていた。
電車で痴漢に遭ったとき、怖くて悲しくて気持ち悪くて逃げたけど、後から興奮してしまってトイレでオナニーをしてしまったとき、自分が情けなくて大嫌いで、痴漢した犯人と私自身ふたりから傷つけられているようだった。
(痴漢は犯罪です。ただいまは被害を訴えたいのではなく、性癖ってこういうこというんじゃない?という一例で書いています。)
こんなのなくなってほしい。
そう思っても、消しても消しても湧いてくる、それが性癖というのであって、どうなんだろう?と考える時点で違うのだと思うのです。
マゾは、否応なくマゾなんだろうと。
ただ、その方が『薬指の刺青』を読みながら共感してくださるポイントはいろいろあると思うので、彼女の『否応なく求めてしまう』ものが性癖であって願望なんだよね。
それが父性やわんこかもしれないし、もしかしたらお仕事のことかもしれない。
自分が『否応なく求めるもの』に名前が付くとすっきりするから、彼女のそれを探るヒントになればいいなとお返事しました。
名前が付くと安心する。
そうなんだよね。
なぜこんなことに興奮するんだろう。
なぜそれが頭から離れないんだろう。
大人になるにつれて、これも大きくなってしまったらどうしよう。
その得体の知れないモンスターに名前が付いていた。
それがSMで、私側はマゾだった。
(『私について(性癖1、2)』)
体の不調に病名がわかるとなんとなくホッとするよね。
それと同じように、とても安堵した記憶がある。(逆に、叶えられないよねと目眩がした記憶もある^^;)
恐ろしい想像する私はおかしいんじゃなくて、マゾだったんだ。
名前が私を安心させた。
那智さんと出会って3ヶ月ほどで『今後SMという言葉を極力使わないように。SMを意識することもダメ』と言われた。
なんで?私、マゾなんだよ。
やっと叶えてもらえるのに。
とてもショックだった。
それは那智さんがSMを意識することなく自然にできることが嬉しくて、ふたりの愛し合う形としてSMという概念に捕われたくないという気持ちからだと教えてもらって、少しずつそうなれてきた。
(『意識するな』)
関係に名前は必要ない。
ふたりで作るもの。
それが那智さんの考え方だった。
それはブログをはじめる時にも念を押されたんだ。
『SMを前面に出さない』って。
便宜上それを使うのはかまわないけど、基本的に自分たちはSMをしているんじゃないし、SでもMでもないというスタンスでいること。
どこかにカテゴライズされることは安心かもしれないけど、それはイコール『こうでなければならない』という枷になる。
りん子が自由な主張をするためにはMでないほうがいいって。
だから、『りん子的独り言』を書くときも対象を限定したり、ふたりのしていることをSM『的』と表現したりしている。
そして、最近、また那智さんにブログのスタンスを改めて認識してもらうようにエントリーなり注釈なり付けたらどうかと提案されている。
SM的なことをしているけれど、自分たちはSでもMでもなくてSMもしていない。
那智とりん子の形だって。
それは先に書いたように『自由に主張できるように』ということと、もうひとつ。
私の書く『りん子的独り言』を読んで、そんな苦しい人がいるの!?と驚いているのだ。
私から聞く『世のSMや主従』と那智さんのスタンスがあまりにもかけ離れていて、それとこれを一緒にすることにとても違和感を感じているのだそう。
(那智さんは、ほとんどよそのブログを読まないのです。情報は『りん子的独り言』なので余計になんだけどね^^;)
しばらく前にこの提案をされてから、ずっと首を縦に振れずにいた。
なぜなら、私は『マゾ』だという気持ちを捨てることができなかった。
(もちろん捨てろとは言われていないけど)
SMは意識していない、わんこも鞭も手を繋いだりキスをしたりと同じことでしている。
それはわかってる。
だけど、じゃあマゾじゃありませんと注釈を付けることができなかった。
それは、ずっとずっと私も怖がらせたモンスターの名前だったから。
名前をつけることで、やっと安心できたのだもの。
厄介だけどいまの私を作った重要な一部でもあるわけで、それを意識しないようにするのは、『安心感』を手放すようで、怖かった。
那智さんとの関係が深くなるにつれて。
確かに、私の求めていたものは被虐だけではないと思えている。
ただの被虐は傷つく。
大切にしてもらいながら酷いことをしてほしい。
犬気質で娘願望もあるようだ。
ただただ変態なんじゃないかと驚愕してしまうこともある。
(『被虐の種類』『犬気質』『原体験』『全肯定1、2』などなど^^)
いまでも、自分はなんなのかわかっていない。
ただ、マゾだけじゃないことは理解できている。
だから、寂しいような怖いような不安な気持ちだけど。
一度名前を手放してみようと思う。
20年、30年、拠り所にしていた名前。
マゾだと思うけど、それは私を作る濃いものではあるが、一部だ。
一部を名前にすることをやめよう。
いま、やっとそう思えてきている。
最初に『SMを意識するな』と言われてから、私は他者と比べることから解放された。
そして、マゾという名前を意識から外すことで、もっと自由になれるなら馴染んだ名前を手放してみようと思えてきている。
そう決心させてくれたのは、メールをくれた人。
『どうなんだろう?』と考えるくらいなら、そんな名称ないでいいよね。
その方は、特別悩んでいるわけではないけれど。
その方の疑問に象徴されるように、名前や『ありもしない定義』が自由を奪っている可能性があるのではないかと、改めて感じたのです。
『Mなんだから』ということで本意とは違う思いをしている人がいるなら。
『奴隷はこうじゃなきゃいけない』と『ありもしない定義』で苦しんでいる人がいるなら。
(それで満たされている人はいいのですよ)
そんな名前捨ててしまおう。
どこかに属するのは安心する。
S側も、どこかで聞いたことがあるような『奴隷とは』をなぞるほうがお手軽だよね。
だけど、『○○とは』ではなくて、『私は、私たちは』にするべきだ。
SもMも主も奴隷も関係ない。
私はどうしたいかで考えるべきで、それには名前は必要ないし。
私たちはどうしたいかで付き合えば『○○さんみたいに』なんて他者と比較するような要求なんて起こらないはずだ。
私の、私たちの、オリジナルができあがってから、はじめて便宜上の『名前』を付ければいいんじゃないかな。
(『なんて呼ぼう』なんてエントリーもありました)
とても恥ずかしいのだけど(恥ずかしいけど、書くよ〜)
実はこれを書きながら涙腺が緩んでしまっている。
気を抜いたら泣いてしまいそうだ。
ずっと私を苦しめたモンスター、名前を付けて馴染むほどになった『マゾ』。
否応なくマゾだと感じ続けていた私の濃い一部。
それを心の中で手放すことはボロボロになった大事な毛布を捨てるようで、なんだかとても寂しい。
だけど、自己主張する上でその名前が障害になるなら、私の自由のために手放そうと思う。
性癖は涙が出るくらい真剣なことなんだ。
だから、一生懸命向き合って、なんとか叶えたくてもがく。
叶ったときは、至上の喜びだ。
性癖でないなら、それを喜びに変えることはとてもとても難しいものなんだよ。
Mっぽいからというだけで何をしてもいいわけない。
『今日から奴隷ね』と言われて、『はい、そうですか』となれるものでもない。
求められたからという理由だけで、簡単に性癖は生まれないし、嗜好を作れるわけないんだ。
否応なくマゾ。
否応なく、奴隷。
性癖や嗜好は、求めてやまないもの。
消しても消しても湧いてしまう求めているものが、あなたの本意なんだと思う。
求められてなれるものじゃない。
それは不本意というものだ。
もしかして苦しいのは、求めていないものの名前をつけられているからなんじゃないだろうか。
その名前に縛られて苦しい人がいるなら、そんな名前捨ててしまおう。
自分だけの名前を作るのだ。
作ってくれる人と。
私も、手放すから。
手放すというと大げさかもしれないね、意識しないように努力する。
それは私の一部ではあるけれど、私じゃないって。
でも、これからもブログの中では自分をM女と書くかもしれない。
それはわかりやすい記号だからね。
だけど、那智さんと私を作っているものは、もっと複雑でもっと多彩でもっと『独特な幸福』。(『独特な幸福のススメ』)
ちょっと感傷的な私。
(多分、数日後アップするから、余計恥ずかしいかも^^でも、いいよね『薬指』っぽくて)
否応なくマゾだと思う私も、それを手放してみる。
だから、苦しいなら、人から付けられた既存の名前なんか捨てちゃえばいい、あなたが自由でいるために。
私を作っていた『M』は。
マゾのMで。
娘のMで。
モンスターのMで。
りん子の『M』。
ですよね、那智さん。
あ、ついでに女の『O』も入れとこ^^
あ〜ん、アルファベットいっぱい。
全部ひっくるめて。
やっぱり私は、『りん子』だ。
あなたの求めてやまないものはなに?
被虐?
支配?
それとも、依存先?父性?
もしかしたら、極々普通の温かい愛情だったりして。
それを含めて、あなたを作るものはなんだろう。
それを考えるのは、苦しかったりつらかったりするかもしれないけど、きっと悪いことじゃないと思うのです。
知れば不必要な名前は捨てられる。
そして、少し自由を手に入れることができるはず。