It's new
りん子的独り言(生意気)
那智さんと付き合い出してから、那智さんはわたしやわたしたちの関係に名前を付けてくれなかった。
自分にはそういう性癖があるのを自覚して、辞書で「奴隷」とか「拷問」とか「拘束」とか見つけてはどきどきしてた。
「ご主人様」とか「主従」とか、淡い憧れを抱いていた。
その一方で、「牝豚」とかいう言葉に傷付き、「仕える」「調教」とかいう言葉に疑いを持っていた。
どうも、SMで使われる言葉に憧れを持つくせに、コスプレのような気恥ずかしさを感じていた。
だから、那智さんが、そういう既存の形を好まずに自然にしてくれていたことはありがたかった。
それでも、憧れはあるし、特殊なことをするのに何か言い訳が欲しくて、心の半分のわたしは何か名前を付けたくてしょうがなかった。
那智さんはわたしのご主人様?飼い主?サディスト?どれも違うと否定され、どれも違うとわたしも思った。
恋人?夫?伴侶?、どれも事実じゃないし、どれかだけに当てはめるのは難しい。
「道標」
あるとき、そう名付けた。
そう、那智さんはわたしの道標。
何かあったときに「那智さんならどうするか」、自分の判断に自信がないわたしの判断基準。
ひとりで歩いているときの、ちょっと先を示してくれる安心のもと。
なんとなく名称があると落ち着いた。
那智さんに認知されてるかどうかわからないけど、このブログにもそう書いていた。
最近、ちょっと変わってきたかな?と思ってます。
だから、2008年は名称変更。(道標もそうでしたけど、この名称は普段ほとんど影を潜めてます^^)
那智さんはわたしの「大樹」(きゃー、はずかしーーーーー)
那智さんはわたしのおっきな樹。
わたしは太い幹に寄りかかる。
雨や強い日差しから守り、根は優しい枕になる。
甘い果実を与えてくれて、枝に鳥を呼び美しい歌声を聞かせてくれてわたしを楽しませてくれる。
高い所に登って、見たこともない景色を見せてくれ、ジャンプして飛び降りる勇気をくれる。
わたしの大切な感情は、那智さんの根っこの上に成り立ってる。
わたしは幸せそうに笑い、眠り、歌う。
でも、寄りかかってるだけじゃないの。
樹の痛んだところは那智復して、必要な栄養を補給するのだ。
わたしは、わたしに安息や快適や快楽をくれるそれを全身全霊で守り寄り添うのだ。
もらってばかりじゃない、わたしもちゃんといっぱい与えてる。
いままでだってそう思っていたけど、最近実感してるかな。
そう思うと関係はもっと楽。
もらってばかりじゃないといらぬ遠慮をしないでいられるのだ。
だから、道標とはちょっと違うと思って、那智さんはわたしの「安息の大きな樹」。
と、ここまでノロケて。
末尾に新年のご挨拶、お許しくださいね。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年もずっとこんな感じでいきます^^どうか、お付き合いくださいませ。
今年はどんなことになるかしら!?
那智さんと付き合い出してから、那智さんはわたしやわたしたちの関係に名前を付けてくれなかった。
自分にはそういう性癖があるのを自覚して、辞書で「奴隷」とか「拷問」とか「拘束」とか見つけてはどきどきしてた。
「ご主人様」とか「主従」とか、淡い憧れを抱いていた。
その一方で、「牝豚」とかいう言葉に傷付き、「仕える」「調教」とかいう言葉に疑いを持っていた。
どうも、SMで使われる言葉に憧れを持つくせに、コスプレのような気恥ずかしさを感じていた。
だから、那智さんが、そういう既存の形を好まずに自然にしてくれていたことはありがたかった。
それでも、憧れはあるし、特殊なことをするのに何か言い訳が欲しくて、心の半分のわたしは何か名前を付けたくてしょうがなかった。
那智さんはわたしのご主人様?飼い主?サディスト?どれも違うと否定され、どれも違うとわたしも思った。
恋人?夫?伴侶?、どれも事実じゃないし、どれかだけに当てはめるのは難しい。
「道標」
あるとき、そう名付けた。
そう、那智さんはわたしの道標。
何かあったときに「那智さんならどうするか」、自分の判断に自信がないわたしの判断基準。
ひとりで歩いているときの、ちょっと先を示してくれる安心のもと。
なんとなく名称があると落ち着いた。
那智さんに認知されてるかどうかわからないけど、このブログにもそう書いていた。
最近、ちょっと変わってきたかな?と思ってます。
だから、2008年は名称変更。(道標もそうでしたけど、この名称は普段ほとんど影を潜めてます^^)
那智さんはわたしの「大樹」(きゃー、はずかしーーーーー)
那智さんはわたしのおっきな樹。
わたしは太い幹に寄りかかる。
雨や強い日差しから守り、根は優しい枕になる。
甘い果実を与えてくれて、枝に鳥を呼び美しい歌声を聞かせてくれてわたしを楽しませてくれる。
高い所に登って、見たこともない景色を見せてくれ、ジャンプして飛び降りる勇気をくれる。
わたしの大切な感情は、那智さんの根っこの上に成り立ってる。
わたしは幸せそうに笑い、眠り、歌う。
でも、寄りかかってるだけじゃないの。
樹の痛んだところは那智復して、必要な栄養を補給するのだ。
わたしは、わたしに安息や快適や快楽をくれるそれを全身全霊で守り寄り添うのだ。
もらってばかりじゃない、わたしもちゃんといっぱい与えてる。
いままでだってそう思っていたけど、最近実感してるかな。
そう思うと関係はもっと楽。
もらってばかりじゃないといらぬ遠慮をしないでいられるのだ。
だから、道標とはちょっと違うと思って、那智さんはわたしの「安息の大きな樹」。
と、ここまでノロケて。
末尾に新年のご挨拶、お許しくださいね。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年もずっとこんな感じでいきます^^どうか、お付き合いくださいませ。
今年はどんなことになるかしら!?
よいこでいたい
独特な幸福感
久しぶりに那智さんの声が聞けた。
と言っても、数日ぶり?
わたしはもう、変なテンションで那智さんにからんでしまう。(この場合、じゃれつくとか可愛らしい表現じゃ間に合わない 笑)
年末、恐らく最後のメールで「よいこでいるんだよ」って言われた。
そうしたら、わたしはよいこでいるんだ、よいこでいられるんだ。
穏やかに機嫌良く声の聞けない数日間を過ごす。
もし、寂しくなっても、ひねくれたり、何かに当たったりしないで、「寂しい」気持ちをパソコンメールに送ったり次に伝えられるときまで抱きしめて、過ごす。
これがちゃんとできてると、次に繋がれたときに超甘ったれモード全開で「声聞きたかったですぅ」ってできるんだ。
いじけたりしてると、甘ったれモードになるの難しいものね。
で、その「よいこ」で過ごす時間が長い程、繋がったときに変なテンションでからんでしまうようだ。
「那智さ〜ん。」
もう、この場合「おたむぅたぁ〜ん」くらいな、我ながら仰天するような発音(笑)
「はい、はい。」
「声聞きたかったですぅ。」
「はい、はい。」
「もう、死にそうでしたぁ。」
「大げさ〜。」
「那智さんはぁ、わたしの声聞きたかったですか〜?」
「聞きたかったです。」
「ほんとに?どれくらい?那智さん、わたしのこと愛してる?ほんとに?…ごめんなさい、わたし変なテンション^^;」
訳わからない、意味のない質問を繰り返し、変なテンションでからむ。(酔っぱらいのよう)
「いい子でいました。」
「そう、えらかったね。」
「ところでさ、したくなってないの?」
長ーい沈黙。
「蓋してます。」
「即答しないってことは、したいんだ!?」
「だから、蓋してます。」
「漏れてるよ。」
「蓋してるって自覚してるのだから、蓋の中に何があるかってことくらいわかってます。でも、蓋しないとつらいから蓋してて、それで蓋できてたんですよ!!」
蓋、連呼。
「うそ、漏れてるよ。」
「じゃあ、那智さんにいま、ちょっと開けられちゃったんです。」
「で、漏れてるね。」
「うう。」
「はい、時間、じゃあね。」
歩きながらの電話。
わたしは路上で、恐らく赤面してしまっている。
変なテンションのまま、別なモードまでオンされてしまった。
ため息をついて、携帯を切る。
ああ、自分でもわかるくらい、はしたない顔になってる。
いけない、いけない、ここは路上。
この表情は那智さんに会うまで蓋をしてなきゃ。
でも、まだしばらく会えないのよね。
那智さん、蓋開けるの、ちょっと早過ぎます。
もう一回、よいこでいるように言ってくれないかな〜。
久しぶりに那智さんの声が聞けた。
と言っても、数日ぶり?
わたしはもう、変なテンションで那智さんにからんでしまう。(この場合、じゃれつくとか可愛らしい表現じゃ間に合わない 笑)
年末、恐らく最後のメールで「よいこでいるんだよ」って言われた。
そうしたら、わたしはよいこでいるんだ、よいこでいられるんだ。
穏やかに機嫌良く声の聞けない数日間を過ごす。
もし、寂しくなっても、ひねくれたり、何かに当たったりしないで、「寂しい」気持ちをパソコンメールに送ったり次に伝えられるときまで抱きしめて、過ごす。
これがちゃんとできてると、次に繋がれたときに超甘ったれモード全開で「声聞きたかったですぅ」ってできるんだ。
いじけたりしてると、甘ったれモードになるの難しいものね。
で、その「よいこ」で過ごす時間が長い程、繋がったときに変なテンションでからんでしまうようだ。
「那智さ〜ん。」
もう、この場合「おたむぅたぁ〜ん」くらいな、我ながら仰天するような発音(笑)
「はい、はい。」
「声聞きたかったですぅ。」
「はい、はい。」
「もう、死にそうでしたぁ。」
「大げさ〜。」
「那智さんはぁ、わたしの声聞きたかったですか〜?」
「聞きたかったです。」
「ほんとに?どれくらい?那智さん、わたしのこと愛してる?ほんとに?…ごめんなさい、わたし変なテンション^^;」
訳わからない、意味のない質問を繰り返し、変なテンションでからむ。(酔っぱらいのよう)
「いい子でいました。」
「そう、えらかったね。」
「ところでさ、したくなってないの?」
長ーい沈黙。
「蓋してます。」
「即答しないってことは、したいんだ!?」
「だから、蓋してます。」
「漏れてるよ。」
「蓋してるって自覚してるのだから、蓋の中に何があるかってことくらいわかってます。でも、蓋しないとつらいから蓋してて、それで蓋できてたんですよ!!」
蓋、連呼。
「うそ、漏れてるよ。」
「じゃあ、那智さんにいま、ちょっと開けられちゃったんです。」
「で、漏れてるね。」
「うう。」
「はい、時間、じゃあね。」
歩きながらの電話。
わたしは路上で、恐らく赤面してしまっている。
変なテンションのまま、別なモードまでオンされてしまった。
ため息をついて、携帯を切る。
ああ、自分でもわかるくらい、はしたない顔になってる。
いけない、いけない、ここは路上。
この表情は那智さんに会うまで蓋をしてなきゃ。
でも、まだしばらく会えないのよね。
那智さん、蓋開けるの、ちょっと早過ぎます。
もう一回、よいこでいるように言ってくれないかな〜。
伝わりますように
りん子的独り言(生意気)
自分の心に嘘をつくのが得意だった。
嘘っていうと意図的な感じがするから、少し違うのかもしれないな。
自分の心に蓋をするのは得意とか、快不快を感じるのが下手とか、そんな感じかな。
なにが原因かわからないけど。
自己肯定感のなさや『愛される価値がない』という無価値感からだと思う。
『愛される価値がない』というところからも見えるように、特に恋愛に於いて心に蓋をすることが多かったと思う。
相手が楽しそうにすると、自分も楽しい。
相手が不機嫌になると、不機嫌な態度を取られたこちらの気持ちは置いといて、それを解決しようと躍起になる。
こちらに当たられたりしても、それは『自分のせい』と不快に蓋をしてしまう。
そして、あるとき突然その相手が嫌いになってしまうのだ。
それは、ずっとずっと自分の心を偽っていたから、本心に気づくのにとても時間がかかっていたということ。
那智さんに出会って、無価値感を埋めてもらうと、自分の不快に気づけるようになった。
そして、その那智さんに自己主張することを推進され、わたしは那智さんに対して不快を伝えることができるようになった。
そこで、はじめて、ああ、わたしは自分の心に嘘をつくのが得意だったなと思えたのです。
もうひとつ。
那智さんと付き合って認識を改めたことがある。
それは、わたしには『奴隷願望』はないということ。
『被虐願望』があるのはわかっていた。
それと同時に、圧倒的な力に支配され跪きたいという願望もあった。
これが『奴隷願望』だと思っていた。(そういう言葉しかなかったからね)
それらを混ぜて『M』とか『マゾ』なんだろうと思っていた。
はじめて会った人に『愛奴』といわれもピンと来なくて。
二度目の人に『おまえは奴隷だ』といわれ、奴隷には遅刻の謝罪さえもないのだと知らしめられて、それに疑問を持ち。
三度目の人に支配とはほど遠いセックスの前戯としてのSM的行為をされても、空しい。
支配されたい、従いたいはずなのに、『奴隷』から来る理不尽な扱いには傷つく。(傷ついていたことに気がつくのも、ずっと後なんだけどね)
で、これも那智さんに出会って『大切にされながら酷いことをされて』。
那智さんの数少ない命令だった『素直に伝える』を繰り返して。
わたしは自分の心にたくさん触るように努めた。
那智さんがわたしの心に、わたしよりもずっと触ってくれて、ずっと大事に扱ってくれるから、わたしも自分の心に触れる経験が積めたのだと思う。
心に触る。
『ほんとはいやなんじゃない?』『無理をしていない?』
それで、ああ、わたしが持っていたのは『奴隷願望』ではなくて『従属願望』『依存願望』なんだと自覚できたのです。(父性とか同化とか、ほかにもいろいろ自覚したけど^^;)
自分の心を偽ることが得意だということがわかって、自分の求めていたものが『奴隷』じゃなくて『依存』だったと気づいたときには、なんて驚き腑に落ちたことか。
わたしは、那智さんに出会えたからわかったのだけど、那智さんに出会う前にヒントがあったら、もしかしたらいくつかの傷つくことは避けられたかもしれない。
解決方法はわからなくても、苦しいことの原因がわかるだけでも解決の一歩になるものね。
ブログを始めたのは、吐き出したかったから、ノロケたかったから。
そして、少しだけど『こういう付き合い方もある』というひとつのサンプルになればいいなと、わたしのように自分の心に蓋をして苦しい人がいるならば、その人のヒントになれればいいなと、生意気にも思ってしまったから。
ちゃんと自分の心に触れられる人からしたらわかりにくいことかもしれないし、もしかしたらわたしだけなのかもしれないけれど。
快不快がわかりにくく、自分の心を偽ってしまって苦しい気持ちってあるんだ。
その、わたしはひとつの『サンプル』。
かつてのわたしのように。
SMでも普通の恋愛ででも、自分の心に蓋をして全面的に相手の都合に合わせてしまっていないだろうか。
そんな人がいたら、気づくヒントにしてほしいと思って書いている。
ひとりでも多くの、わたしのような女性に。
自分の心に触ってあげようって、エールを贈っている。
いつも、批判的な記事を書くときに。
前置きを書いています。
『主従関係を成立させている人に言っているのではなくて、わたしのような自己肯定できず奴隷願望と依存を混同してしまっている人に』と。
『かつてのわたしのような人に』
前エントリー『言葉』のときに、その前置きをつけるのを忘れて、しかもそのスタンスから表現方法が外れてしまっていました。
限られた人へのヒントにしたかったのに、前置きがないとそれはすべての人に対する批判的な意見になってしまう。
その大事なコンセンサスを得ずに書いてしまったのです。
それにより不快な思いをさせてしまった人がいるとするならば、申し訳ないことだったととても反省しています。
主従という関係や奴隷という立場で幸福を得られている方には、良い方に巡り会えてよかったねって、祝福の気持ちです。
ですから、どなたも批判しているつもりもなく、傷つけるつもりもないことが伝わってくれるといいなと思っています。
言葉はとっても難しい。
本意ではなくても人を傷つけてしまうこともある。
でも、自分の心を偽らないようにするために『言葉』はとても有効だと思っています。
だから、諦めないでいたい。
これからも『りん子的独り言』で批判的な意見を書くこともあると思う。
誰も傷つけたくないし、自分を偽りたくもないということを前置きにして。
たくさんのコメントや気遣いをありがとうございました。
これからもよろしくお願いします^^
最後に。
幸せな言葉を贈りたい。
以前登場した可穂さん。
彼女は、この冬、ご主人様とお別れしました。
一度別れてからも、なかなか切り捨てることができず、とてもとても苦しんでいました。
それだけ、依存が絡んだ主従(恋愛?)は断ち切るのが大変なんですよね。
そして、先日完全にお別れしたのだそうです。
切り捨てることができず揺れていた時期よりも完全に終わったいまのほうが、ずっとずっと虚無感に苛まれて辛そうです。
だから、そんな可穂さんに。
可穂さんの心、なでなで^^
ゆっくり休んで、今度はわたしなんかじゃなくてリアルなすてきな男性になでなでしてもらえるように、自分を大事にしてね。
一歩踏み出した可穂さんに祝福♪
自分の心に嘘をつくのが得意だった。
嘘っていうと意図的な感じがするから、少し違うのかもしれないな。
自分の心に蓋をするのは得意とか、快不快を感じるのが下手とか、そんな感じかな。
なにが原因かわからないけど。
自己肯定感のなさや『愛される価値がない』という無価値感からだと思う。
『愛される価値がない』というところからも見えるように、特に恋愛に於いて心に蓋をすることが多かったと思う。
相手が楽しそうにすると、自分も楽しい。
相手が不機嫌になると、不機嫌な態度を取られたこちらの気持ちは置いといて、それを解決しようと躍起になる。
こちらに当たられたりしても、それは『自分のせい』と不快に蓋をしてしまう。
そして、あるとき突然その相手が嫌いになってしまうのだ。
それは、ずっとずっと自分の心を偽っていたから、本心に気づくのにとても時間がかかっていたということ。
那智さんに出会って、無価値感を埋めてもらうと、自分の不快に気づけるようになった。
そして、その那智さんに自己主張することを推進され、わたしは那智さんに対して不快を伝えることができるようになった。
そこで、はじめて、ああ、わたしは自分の心に嘘をつくのが得意だったなと思えたのです。
もうひとつ。
那智さんと付き合って認識を改めたことがある。
それは、わたしには『奴隷願望』はないということ。
『被虐願望』があるのはわかっていた。
それと同時に、圧倒的な力に支配され跪きたいという願望もあった。
これが『奴隷願望』だと思っていた。(そういう言葉しかなかったからね)
それらを混ぜて『M』とか『マゾ』なんだろうと思っていた。
はじめて会った人に『愛奴』といわれもピンと来なくて。
二度目の人に『おまえは奴隷だ』といわれ、奴隷には遅刻の謝罪さえもないのだと知らしめられて、それに疑問を持ち。
三度目の人に支配とはほど遠いセックスの前戯としてのSM的行為をされても、空しい。
支配されたい、従いたいはずなのに、『奴隷』から来る理不尽な扱いには傷つく。(傷ついていたことに気がつくのも、ずっと後なんだけどね)
で、これも那智さんに出会って『大切にされながら酷いことをされて』。
那智さんの数少ない命令だった『素直に伝える』を繰り返して。
わたしは自分の心にたくさん触るように努めた。
那智さんがわたしの心に、わたしよりもずっと触ってくれて、ずっと大事に扱ってくれるから、わたしも自分の心に触れる経験が積めたのだと思う。
心に触る。
『ほんとはいやなんじゃない?』『無理をしていない?』
それで、ああ、わたしが持っていたのは『奴隷願望』ではなくて『従属願望』『依存願望』なんだと自覚できたのです。(父性とか同化とか、ほかにもいろいろ自覚したけど^^;)
自分の心を偽ることが得意だということがわかって、自分の求めていたものが『奴隷』じゃなくて『依存』だったと気づいたときには、なんて驚き腑に落ちたことか。
わたしは、那智さんに出会えたからわかったのだけど、那智さんに出会う前にヒントがあったら、もしかしたらいくつかの傷つくことは避けられたかもしれない。
解決方法はわからなくても、苦しいことの原因がわかるだけでも解決の一歩になるものね。
ブログを始めたのは、吐き出したかったから、ノロケたかったから。
そして、少しだけど『こういう付き合い方もある』というひとつのサンプルになればいいなと、わたしのように自分の心に蓋をして苦しい人がいるならば、その人のヒントになれればいいなと、生意気にも思ってしまったから。
ちゃんと自分の心に触れられる人からしたらわかりにくいことかもしれないし、もしかしたらわたしだけなのかもしれないけれど。
快不快がわかりにくく、自分の心を偽ってしまって苦しい気持ちってあるんだ。
その、わたしはひとつの『サンプル』。
かつてのわたしのように。
SMでも普通の恋愛ででも、自分の心に蓋をして全面的に相手の都合に合わせてしまっていないだろうか。
そんな人がいたら、気づくヒントにしてほしいと思って書いている。
ひとりでも多くの、わたしのような女性に。
自分の心に触ってあげようって、エールを贈っている。
いつも、批判的な記事を書くときに。
前置きを書いています。
『主従関係を成立させている人に言っているのではなくて、わたしのような自己肯定できず奴隷願望と依存を混同してしまっている人に』と。
『かつてのわたしのような人に』
前エントリー『言葉』のときに、その前置きをつけるのを忘れて、しかもそのスタンスから表現方法が外れてしまっていました。
限られた人へのヒントにしたかったのに、前置きがないとそれはすべての人に対する批判的な意見になってしまう。
その大事なコンセンサスを得ずに書いてしまったのです。
それにより不快な思いをさせてしまった人がいるとするならば、申し訳ないことだったととても反省しています。
主従という関係や奴隷という立場で幸福を得られている方には、良い方に巡り会えてよかったねって、祝福の気持ちです。
ですから、どなたも批判しているつもりもなく、傷つけるつもりもないことが伝わってくれるといいなと思っています。
言葉はとっても難しい。
本意ではなくても人を傷つけてしまうこともある。
でも、自分の心を偽らないようにするために『言葉』はとても有効だと思っています。
だから、諦めないでいたい。
これからも『りん子的独り言』で批判的な意見を書くこともあると思う。
誰も傷つけたくないし、自分を偽りたくもないということを前置きにして。
たくさんのコメントや気遣いをありがとうございました。
これからもよろしくお願いします^^
最後に。
幸せな言葉を贈りたい。
以前登場した可穂さん。
彼女は、この冬、ご主人様とお別れしました。
一度別れてからも、なかなか切り捨てることができず、とてもとても苦しんでいました。
それだけ、依存が絡んだ主従(恋愛?)は断ち切るのが大変なんですよね。
そして、先日完全にお別れしたのだそうです。
切り捨てることができず揺れていた時期よりも完全に終わったいまのほうが、ずっとずっと虚無感に苛まれて辛そうです。
だから、そんな可穂さんに。
可穂さんの心、なでなで^^
ゆっくり休んで、今度はわたしなんかじゃなくてリアルなすてきな男性になでなでしてもらえるように、自分を大事にしてね。
一歩踏み出した可穂さんに祝福♪
もうひとつの秘訣
りん子的独り言(生意気)
「はじまりは体、なりゆきは心」
山田詠美さんの「熱帯安楽椅子」という小説でこんな言葉があった(はず)。
これを読んだときも、いまも、わたしはこの言葉が好きだし、これもありだと思ってる。
「秘訣」というエントリーで、心の交流のないセックスは女を傷付けると書きました。
それと矛盾するようなこの言葉にもわたしは納得をしています。
それは、そういう側面もあると思っているからです。
那智さんに、これから書くエントリーについてチラッと話したら「言ってることが違う」とブーイングでした。
さて、相反するような「お題」でどこまでまとまるでしょうか?
ただ、心に浮かんだことをまとめたいという欲求だけで、書きはじめます。
すべて、わたしだったらということで書きます、だから「女」と書きながら、それは主に「私」です。
他の女性はわからないので、主観で書くことをお許しください。
「はじまりは体、なりゆきは心」
女にだって性欲はある。
気持ち良くなりたいと思い、それを漠然と体が求めてしまうことだってある。
ただ、女には「○○にしてほしい」という漠然とした性の対象があることが多いかな。
それでも、まだSMをしたことのないころ「誰でもいいから、手首を拘束してほしい」と切実に思ったこともあるので、純粋に性欲はあるのでしょう。(拘束が性欲か、ちょっと疑問ですけど)
だけど、女自身も、男性も、世間も、女の性欲「気持ち良くなりたい」と思う気持ちをあまり歓迎していないと思う。
「いまどきは」とよく言うけど、それでもその考え方は根深いのではないかしら。
女自身がそれに縛られて、上手に自己表現や自己満足ができずにいたら、それは残念なこと。
わたしが那智さんと出会ったのは「出会い系」だ。
でも、SMという特殊なカテゴリーだった。
もしかしたら、特殊なカテゴリーだったから、わたしは飛び込むことができたのかもしれない。
なぜかというと、それが大義名分だったからだ。
「気持ちいいことをしたいからセックスの相手を探す」というより、「どうしても閉じ込めることができない性癖を満たすために相手を探す」と言ったほうが、聞こえがいい?
聞こえがいいかどうかはわからないけど、女の性欲を肯定できない「女自身」のわたしには都合が良かった。
だから、わたしも立派に「はじまりは体」だったのだ。
大切なのは、自分がどうしたいか、どうなりたいかという「ビジョン」なのではないかな。
「気持ち良くなりたい」
「甘えながら抱かれたい」
「いってみたい」
なんでもいい、ちょっと未来の自分を想像するのだ。(セックスで、ちょっと未来もないけど^^;)
女にも性欲がある。
気持ち良くなりたいと思ってる、胸を張って思い描いていい。
「SMがしたい」という性癖があったから、「ビジョン」を描き易かったのだと思ってる。
SMもノーマルも関係なく、女性も「縛り」を解いて、自分がどうなりたいか目的を見極めたい。
そして、それを提示して、相手を見極める。
似たような目的の二人が出会えば、「愛情」とは違うはじまり方ではあったとしても、その目的を果たすために互いを探るだろう。
自分を見せ、相手を見て、どうしたらビジョンに近づけるか相手を思い、頭を使うだろう。
そこから、生まれるものもあると思う。
それも「心の交流」なのではないでしょうか。
わたしのように「那智さんじゃなきゃだめ」とか「唯一無二の存在」なんて、大げさなことだけが「心の交流」ではないと思う。
心の交流は、そんなに難しいものでもなく、自分がどうしたいか自覚し、それをちゃんと示すことで叶っていくのではないかなって思うのです。
だから、はじまりは体でも、傷付かずに関係を作ることもできる。
気持ち良くなりたいと素直に思っていい。
でも、「ビジョン」ってそんなに簡単に見つけられるものでもない。
わたしは「SM」のはずだったけど、叩いてみたら「父性」とか何とかいろいろ出て来て、自分の望んでいたことの深く大きいことに驚かされた。
だから、最初の「ビジョン」は、ほんとのきっかけだっただけで、当たっているような外れてたような、感じだものね。
見つけられればそれを提示すればいいし、漠然としてしまっているなら、「いまは漠然としてる、模索中」と自覚していればいい。
ただ、何か見つかったら、女自身の「縛り」から自分を解き放ち素直にして、同じ目的の人を捜す。
そうすれば、お互いを求め大切な関係になれるのではないかしら。
さてさて、わたしは何が言いたかったの?
余談だけど、なぜこれを書こうかと思ったのかというと。(この余談、ちょっと長いです^^;)
なんか、ぼんやりと「心の交流」とか「出会い系」とか、バラバラに考えてて、いつか答えが出そうになったら書こうと思ってたの。
そしたら、新年早々夢を見た。
すみれさんとわたしが二人で、夏にすみれさんと行ったハプバーに行くの。
那智さんは後から合流のような設定。
すみれさんは、エッチなことはしてなかったけど、その場の雰囲気を楽しんで男性たちとおしゃべりしてる、とてもリラックスしてるようだった。
ああ、良かったすみれさん、楽しんでて。
そんなふうにして、那智さんを待っていたら、話したこともない男性がいきなりわたしに被いかぶさろうとしてきた。
なに、なに!?慌ててると、「いいだろ!?」と言ってわたしに何かしようとしてくるの。
ハプバーだから、来てる女性は何でもありと勘違いしている人のようだった。
「いえ、わたしは、後からパートナーが来ますから」と周りの空気を壊さないようにお断りすると「いいだろ!?気持ち良くしてやるよ、好きなことしてやるからさ、何してほしいか言ってみな」とか言いながら、わたしの両足首を持ち広げようとするのだ。
やだやだと抵抗するところで夢は終わった。
この夢を見て。
「心の交流」って、そんな大層なことじゃなくて、「大切にされてる」ってことだけでも充分なんだよねって思ったの。
それは、例え「体」目的だったとしても、お互いの目的が一致していればお互いを大切に思えるだろうって。
こういう一方的に自分の欲求だけを満たそうとする人との関係が「傷付く」んだよね。
それで、まとまりそうだから書きました。
新年早々の勘違い野郎の夢で書く気になるってのもどうかと思いますが、まあ、まとまった(つもり)なのである意味感謝します。
で、何が言いたかったの?りん子ちゃーん!!
まず、心の交流のないセックスは女を傷付ける、それを知る。
知っていれば、嫌な気分のもとがわかって自分を責めずに済む。
問題解決には問題点を自覚することが大切。
「秘訣」と「秘訣の続き」ではこんなことが言いたかった。
で、今回は。
「心の交流」といっても大恋愛じゃなきゃいけないってことではなくて、一見打算的かもしれないけど、目的の一致から生まれる交流もあるのではないかと。
恐らく、そこには相手を「大切」に思う気持ちが発生するのではないかと。
だって、目的達成のためのパートナーだもんね。
その目的が「体」だとしても、それを女がそう思ったとしても、なんの問題もない。
心はあとからなりゆきで育つかもしれない。
そういう「心の交流」もあるんじゃないかなと思ってます。
傷付くと自覚し、自分がどうなりたいか想像して、いまそれの何合目あたりか自覚する。
その先に何かあるかもしれない。
だから、「心の交流」はすごーく大切、だけど、それが「体」からはじまることもある。
しっかりと自分を見極めて、相手に伝えることが大切なのではないでしょうか?
そうすれば「大切にされて」傷付かないでいられるかなと。
そんなことが言いたかったのでした。
どうでしょう、矛盾してるかな、ブーイングかな。
「はじまりは体、なりゆきは心」
山田詠美さんの「熱帯安楽椅子」という小説でこんな言葉があった(はず)。
これを読んだときも、いまも、わたしはこの言葉が好きだし、これもありだと思ってる。
「秘訣」というエントリーで、心の交流のないセックスは女を傷付けると書きました。
それと矛盾するようなこの言葉にもわたしは納得をしています。
それは、そういう側面もあると思っているからです。
那智さんに、これから書くエントリーについてチラッと話したら「言ってることが違う」とブーイングでした。
さて、相反するような「お題」でどこまでまとまるでしょうか?
ただ、心に浮かんだことをまとめたいという欲求だけで、書きはじめます。
すべて、わたしだったらということで書きます、だから「女」と書きながら、それは主に「私」です。
他の女性はわからないので、主観で書くことをお許しください。
「はじまりは体、なりゆきは心」
女にだって性欲はある。
気持ち良くなりたいと思い、それを漠然と体が求めてしまうことだってある。
ただ、女には「○○にしてほしい」という漠然とした性の対象があることが多いかな。
それでも、まだSMをしたことのないころ「誰でもいいから、手首を拘束してほしい」と切実に思ったこともあるので、純粋に性欲はあるのでしょう。(拘束が性欲か、ちょっと疑問ですけど)
だけど、女自身も、男性も、世間も、女の性欲「気持ち良くなりたい」と思う気持ちをあまり歓迎していないと思う。
「いまどきは」とよく言うけど、それでもその考え方は根深いのではないかしら。
女自身がそれに縛られて、上手に自己表現や自己満足ができずにいたら、それは残念なこと。
わたしが那智さんと出会ったのは「出会い系」だ。
でも、SMという特殊なカテゴリーだった。
もしかしたら、特殊なカテゴリーだったから、わたしは飛び込むことができたのかもしれない。
なぜかというと、それが大義名分だったからだ。
「気持ちいいことをしたいからセックスの相手を探す」というより、「どうしても閉じ込めることができない性癖を満たすために相手を探す」と言ったほうが、聞こえがいい?
聞こえがいいかどうかはわからないけど、女の性欲を肯定できない「女自身」のわたしには都合が良かった。
だから、わたしも立派に「はじまりは体」だったのだ。
大切なのは、自分がどうしたいか、どうなりたいかという「ビジョン」なのではないかな。
「気持ち良くなりたい」
「甘えながら抱かれたい」
「いってみたい」
なんでもいい、ちょっと未来の自分を想像するのだ。(セックスで、ちょっと未来もないけど^^;)
女にも性欲がある。
気持ち良くなりたいと思ってる、胸を張って思い描いていい。
「SMがしたい」という性癖があったから、「ビジョン」を描き易かったのだと思ってる。
SMもノーマルも関係なく、女性も「縛り」を解いて、自分がどうなりたいか目的を見極めたい。
そして、それを提示して、相手を見極める。
似たような目的の二人が出会えば、「愛情」とは違うはじまり方ではあったとしても、その目的を果たすために互いを探るだろう。
自分を見せ、相手を見て、どうしたらビジョンに近づけるか相手を思い、頭を使うだろう。
そこから、生まれるものもあると思う。
それも「心の交流」なのではないでしょうか。
わたしのように「那智さんじゃなきゃだめ」とか「唯一無二の存在」なんて、大げさなことだけが「心の交流」ではないと思う。
心の交流は、そんなに難しいものでもなく、自分がどうしたいか自覚し、それをちゃんと示すことで叶っていくのではないかなって思うのです。
だから、はじまりは体でも、傷付かずに関係を作ることもできる。
気持ち良くなりたいと素直に思っていい。
でも、「ビジョン」ってそんなに簡単に見つけられるものでもない。
わたしは「SM」のはずだったけど、叩いてみたら「父性」とか何とかいろいろ出て来て、自分の望んでいたことの深く大きいことに驚かされた。
だから、最初の「ビジョン」は、ほんとのきっかけだっただけで、当たっているような外れてたような、感じだものね。
見つけられればそれを提示すればいいし、漠然としてしまっているなら、「いまは漠然としてる、模索中」と自覚していればいい。
ただ、何か見つかったら、女自身の「縛り」から自分を解き放ち素直にして、同じ目的の人を捜す。
そうすれば、お互いを求め大切な関係になれるのではないかしら。
さてさて、わたしは何が言いたかったの?
余談だけど、なぜこれを書こうかと思ったのかというと。(この余談、ちょっと長いです^^;)
なんか、ぼんやりと「心の交流」とか「出会い系」とか、バラバラに考えてて、いつか答えが出そうになったら書こうと思ってたの。
そしたら、新年早々夢を見た。
すみれさんとわたしが二人で、夏にすみれさんと行ったハプバーに行くの。
那智さんは後から合流のような設定。
すみれさんは、エッチなことはしてなかったけど、その場の雰囲気を楽しんで男性たちとおしゃべりしてる、とてもリラックスしてるようだった。
ああ、良かったすみれさん、楽しんでて。
そんなふうにして、那智さんを待っていたら、話したこともない男性がいきなりわたしに被いかぶさろうとしてきた。
なに、なに!?慌ててると、「いいだろ!?」と言ってわたしに何かしようとしてくるの。
ハプバーだから、来てる女性は何でもありと勘違いしている人のようだった。
「いえ、わたしは、後からパートナーが来ますから」と周りの空気を壊さないようにお断りすると「いいだろ!?気持ち良くしてやるよ、好きなことしてやるからさ、何してほしいか言ってみな」とか言いながら、わたしの両足首を持ち広げようとするのだ。
やだやだと抵抗するところで夢は終わった。
この夢を見て。
「心の交流」って、そんな大層なことじゃなくて、「大切にされてる」ってことだけでも充分なんだよねって思ったの。
それは、例え「体」目的だったとしても、お互いの目的が一致していればお互いを大切に思えるだろうって。
こういう一方的に自分の欲求だけを満たそうとする人との関係が「傷付く」んだよね。
それで、まとまりそうだから書きました。
新年早々の勘違い野郎の夢で書く気になるってのもどうかと思いますが、まあ、まとまった(つもり)なのである意味感謝します。
で、何が言いたかったの?りん子ちゃーん!!
まず、心の交流のないセックスは女を傷付ける、それを知る。
知っていれば、嫌な気分のもとがわかって自分を責めずに済む。
問題解決には問題点を自覚することが大切。
「秘訣」と「秘訣の続き」ではこんなことが言いたかった。
で、今回は。
「心の交流」といっても大恋愛じゃなきゃいけないってことではなくて、一見打算的かもしれないけど、目的の一致から生まれる交流もあるのではないかと。
恐らく、そこには相手を「大切」に思う気持ちが発生するのではないかと。
だって、目的達成のためのパートナーだもんね。
その目的が「体」だとしても、それを女がそう思ったとしても、なんの問題もない。
心はあとからなりゆきで育つかもしれない。
そういう「心の交流」もあるんじゃないかなと思ってます。
傷付くと自覚し、自分がどうなりたいか想像して、いまそれの何合目あたりか自覚する。
その先に何かあるかもしれない。
だから、「心の交流」はすごーく大切、だけど、それが「体」からはじまることもある。
しっかりと自分を見極めて、相手に伝えることが大切なのではないでしょうか?
そうすれば「大切にされて」傷付かないでいられるかなと。
そんなことが言いたかったのでした。
どうでしょう、矛盾してるかな、ブーイングかな。
「わたし」
独特な幸福感
久しぶりに那智さんの声を聞いた。
ちょっと嘘。
もうすでに1回「久しぶり」には聞いてる。
久しぶりに、いつものわたしで那智さんの声を聞いた。
これが正解。
こういう話題はなるべく出すのよそうと思ってるけど、出しちゃう^^;
家族を送り出して、久しぶりに1人の朝。
いつものように朝出勤途中の那智さんと電話が繋がる。
お仕事を始めるまでの数十分が「朝の電話タイム」。
「おはようございます。」
「おはよう。」
いつものイントネーションで、歩きながらだからいつもの声の揺れ。
耳元でささやかれているみたい。
不意に足下をすくわれたように、気持ちがぐらりと崩れていく。
あまりに簡単に、急激に、劇的に、わたしの立ち位置が変わっていくようで、驚く。
マグマが溢れ出すように拭き出したこの感情は「欲情」?。
歩く吐息や足音にさえ、体が揺れる。
だけど、とても静かだ。
静かに懇々と湧き出る泉のよう。
マグマのような激しさに驚き、清流のような静けさに目を閉じる。
不思議な反応だった。
ただの欲情じゃない。
その証拠にどんどん静かな気持ちになってくる。
ツーッと涙が流れる。
ああ、わたしになった。
わたしは那智さんと一緒にいない時間も好きだ。
夫とは、仲良くやってる。
人間はいろんな側面があって「ひとりの人」なのだから、こっちがほんとでこっちが嘘なんてはっきり区別はできない。
それに「本当の自分」なんて、自分自身だってわかっていないはず。
だから、そんなに簡単に口にしたくない言葉。
陶酔しているようだし、家族に対して不誠実な言葉かもしれない。
そういうものは、ひっそりと自分の心にしまっておくべきだと思うから、簡単に口にするのは避けてる。
だけど、だけど、情熱と安堵の混ざり合ったような涙を肌で感じると、こう思わずにはいられない。
那智さん、わたしはあなたと繋がっているときが「わたし」です。
お伽噺でも陶酔でも、なんでもいい。
那智さんの庇護の元にいるときのわたしが、収まりが良い「わたし」です。
本来のわたし、です。
決して不幸ではない、むしろ楽しい数日を過ごしていても、この涙を流すたびに「ああ、わたしになれた」って安心する。
これを、ずっと欲しかったって、手にして改めて思う。
感情って面白い。
「声が聞けて嬉しい」ということだけなんだけど、きちんと見るといろんなふうに感じられる。
声が聞けて嬉しいだけじゃもったいないから、なんとか言葉を探してみるの。
それで、あのマグマと清流のような感情を言葉にしたくて、またブログを更新するの。
久しぶりに那智さんの声を聞いた。
ちょっと嘘。
もうすでに1回「久しぶり」には聞いてる。
久しぶりに、いつものわたしで那智さんの声を聞いた。
これが正解。
こういう話題はなるべく出すのよそうと思ってるけど、出しちゃう^^;
家族を送り出して、久しぶりに1人の朝。
いつものように朝出勤途中の那智さんと電話が繋がる。
お仕事を始めるまでの数十分が「朝の電話タイム」。
「おはようございます。」
「おはよう。」
いつものイントネーションで、歩きながらだからいつもの声の揺れ。
耳元でささやかれているみたい。
不意に足下をすくわれたように、気持ちがぐらりと崩れていく。
あまりに簡単に、急激に、劇的に、わたしの立ち位置が変わっていくようで、驚く。
マグマが溢れ出すように拭き出したこの感情は「欲情」?。
歩く吐息や足音にさえ、体が揺れる。
だけど、とても静かだ。
静かに懇々と湧き出る泉のよう。
マグマのような激しさに驚き、清流のような静けさに目を閉じる。
不思議な反応だった。
ただの欲情じゃない。
その証拠にどんどん静かな気持ちになってくる。
ツーッと涙が流れる。
ああ、わたしになった。
わたしは那智さんと一緒にいない時間も好きだ。
夫とは、仲良くやってる。
人間はいろんな側面があって「ひとりの人」なのだから、こっちがほんとでこっちが嘘なんてはっきり区別はできない。
それに「本当の自分」なんて、自分自身だってわかっていないはず。
だから、そんなに簡単に口にしたくない言葉。
陶酔しているようだし、家族に対して不誠実な言葉かもしれない。
そういうものは、ひっそりと自分の心にしまっておくべきだと思うから、簡単に口にするのは避けてる。
だけど、だけど、情熱と安堵の混ざり合ったような涙を肌で感じると、こう思わずにはいられない。
那智さん、わたしはあなたと繋がっているときが「わたし」です。
お伽噺でも陶酔でも、なんでもいい。
那智さんの庇護の元にいるときのわたしが、収まりが良い「わたし」です。
本来のわたし、です。
決して不幸ではない、むしろ楽しい数日を過ごしていても、この涙を流すたびに「ああ、わたしになれた」って安心する。
これを、ずっと欲しかったって、手にして改めて思う。
感情って面白い。
「声が聞けて嬉しい」ということだけなんだけど、きちんと見るといろんなふうに感じられる。
声が聞けて嬉しいだけじゃもったいないから、なんとか言葉を探してみるの。
それで、あのマグマと清流のような感情を言葉にしたくて、またブログを更新するの。