右耳
非日常的な日常
ヘッドセットを付けたままスーパーのトイレに向かう。
今日は那智さんがひとりでお仕事をしているから、わたしの仕事帰りの移動中ずっとお電話できていた。
普通に歩きながらのヘッドセットはちょっと恥ずかしいからしないけど、会話を控えたほうがいい電車などの時にはこちらもヘッドセットに切り替えて、とりあえず繋がっている状態を作る(どんだけ繋がっていたんだ、わたし!?)
おしっこがしたかった。
トイレに行きたいけれど、一旦切るかヘッドセットに切り替えるか判断を任せた。
ヘッドセットにしたら?
どちらかというと、『流れ』でそう答えを出してくれた感じ。
これは最早、感覚のマヒなのか、それとも、まあ、あることなのか、判断できなくなってしまっているのだけど、日頃わたしたちは繋がっていられるときは、繋がったままわたしもトイレに行かせてもらうことはままあるのだ*^^*
自分の排泄している最中、大好きな人と電話が繋がっているということはとてもとても恥ずかしいので、積極的に『繋がっていて、いて!!』とまではいかないが、それでもわたしの中ではそれさえも許容してくれていることの喜びのほうが最近は密かに大きくなってしまっている。
おしっこのとき、繋がってくれている。
そんな感じだ。
だからこのときもふたりにとって、いつもの『流れ』という感じだった。
言われるままにヘッドセットに切り替えて、トイレに向かう。
おしっこのときさえも繋がっていられる喜びで。
駐車場を横切っていますよ〜。
なんとなく実況中継、ヘッドセットで話すと端から見たら独り言言っているみたいで恥ずかしいから、小さな声でコソコソと。
じゃあ、りん子、久々にオナニーしようか^^
ええ?
ぜんぜん欲情していませんけど!?
こういう指示はとてもひさしぶりだ。
欲情もしていないしそんな会話一切していなかったし、ひさしぶりの展開に一瞬怯む。
それでもここのトイレの形状や閑散具合を思い出そうとしている。
ひさしぶりのことで、なんだか脳みその動きがぎこちない。
ああ、言い方変えてあげるね。
りん子、トイレでオナニーしなさい。
ああ、命令してくれた。
滅多にしない命令。
本当は、いちおうわたしもマゾなので^^;
命令に胸を掴まれる。
那智さんはほとんど命令をしない人なので、わたしは命令飢え^^
よけいにその口調に濡れる。
そして命令は免罪符だ。
トイレでオナニーをすることに快感を覚えるわたしの罪の意識を背負ってくれるのだ。
はい。
小さな声をヘッドセットのマイクに向ける。
トイレへの道。
前を親子連れがいる。
トイレに入ったら宣言するんだよ『オナニーの声を聞いてください』って。
はい。
視界の親子連れ。
那智さん、人がいたら?
人がいたら宣言はしないでいいよ。
宣言するしないは関係なく、どうかこの親子連れがトイレに行かないでほしいと願う。
トイレに向かうT字路、親子連れは右にトイレのある左にわたし。
よかった、いやらしいわたしに関わらないで済む。
個室に入る。
すぐ、人の気配?
吐息のような声で『人が来ました』。
じゃあ、宣言はいらないからはじめて。
便座に腰掛けストッキングと下着をおろし、指を這わせる。
さほど濡れていなかった。
いつの間にか人の気配がなくなっている。
もしかしたら、隣りの男性用トイレから漏れていた音だったのかもしれない。
すこし安堵。
クリトリスに指を押し当てるとおまんこが脈打つ。
それが心臓や足先に波及する。
どんどん濡れていく。
右耳で外の気配を探り。
左耳からは那智さんの気配。
おまんこからの波に全部飲み込まれそうになるけれど、人の理性はそう簡単に己を手放してはくれないのだ。
気持ちよく快感を覚えるけれど右耳は冷静だ。
快楽の熱と右耳の冷ややかさの狭間、もどかしい。
今度会ったときは、外でしようね、外で触ってあげる。
ああ、冷静な右耳を裏切るようなひと言。
お外で那智さんに触ってもらう。
なり振りかまわずそれを欲する自分を想像して、その堕ちていく自分に欲情する。
右耳はスーパーのBGMが聞こえている。
そんなに簡単に手放せない。
イクために伸ばした足の爪先がドアの隙間から見えてしまわないか、冷静な右耳が思う。
そして快感と冷静のヒリヒリする表裏の中、二度目のイクの許可を得る。
ヘッドセットを付けたままスーパーのトイレに向かう。
今日は那智さんがひとりでお仕事をしているから、わたしの仕事帰りの移動中ずっとお電話できていた。
普通に歩きながらのヘッドセットはちょっと恥ずかしいからしないけど、会話を控えたほうがいい電車などの時にはこちらもヘッドセットに切り替えて、とりあえず繋がっている状態を作る(どんだけ繋がっていたんだ、わたし!?)
おしっこがしたかった。
トイレに行きたいけれど、一旦切るかヘッドセットに切り替えるか判断を任せた。
ヘッドセットにしたら?
どちらかというと、『流れ』でそう答えを出してくれた感じ。
これは最早、感覚のマヒなのか、それとも、まあ、あることなのか、判断できなくなってしまっているのだけど、日頃わたしたちは繋がっていられるときは、繋がったままわたしもトイレに行かせてもらうことはままあるのだ*^^*
自分の排泄している最中、大好きな人と電話が繋がっているということはとてもとても恥ずかしいので、積極的に『繋がっていて、いて!!』とまではいかないが、それでもわたしの中ではそれさえも許容してくれていることの喜びのほうが最近は密かに大きくなってしまっている。
おしっこのとき、繋がってくれている。
そんな感じだ。
だからこのときもふたりにとって、いつもの『流れ』という感じだった。
言われるままにヘッドセットに切り替えて、トイレに向かう。
おしっこのときさえも繋がっていられる喜びで。
駐車場を横切っていますよ〜。
なんとなく実況中継、ヘッドセットで話すと端から見たら独り言言っているみたいで恥ずかしいから、小さな声でコソコソと。
じゃあ、りん子、久々にオナニーしようか^^
ええ?
ぜんぜん欲情していませんけど!?
こういう指示はとてもひさしぶりだ。
欲情もしていないしそんな会話一切していなかったし、ひさしぶりの展開に一瞬怯む。
それでもここのトイレの形状や閑散具合を思い出そうとしている。
ひさしぶりのことで、なんだか脳みその動きがぎこちない。
ああ、言い方変えてあげるね。
りん子、トイレでオナニーしなさい。
ああ、命令してくれた。
滅多にしない命令。
本当は、いちおうわたしもマゾなので^^;
命令に胸を掴まれる。
那智さんはほとんど命令をしない人なので、わたしは命令飢え^^
よけいにその口調に濡れる。
そして命令は免罪符だ。
トイレでオナニーをすることに快感を覚えるわたしの罪の意識を背負ってくれるのだ。
はい。
小さな声をヘッドセットのマイクに向ける。
トイレへの道。
前を親子連れがいる。
トイレに入ったら宣言するんだよ『オナニーの声を聞いてください』って。
はい。
視界の親子連れ。
那智さん、人がいたら?
人がいたら宣言はしないでいいよ。
宣言するしないは関係なく、どうかこの親子連れがトイレに行かないでほしいと願う。
トイレに向かうT字路、親子連れは右にトイレのある左にわたし。
よかった、いやらしいわたしに関わらないで済む。
個室に入る。
すぐ、人の気配?
吐息のような声で『人が来ました』。
じゃあ、宣言はいらないからはじめて。
便座に腰掛けストッキングと下着をおろし、指を這わせる。
さほど濡れていなかった。
いつの間にか人の気配がなくなっている。
もしかしたら、隣りの男性用トイレから漏れていた音だったのかもしれない。
すこし安堵。
クリトリスに指を押し当てるとおまんこが脈打つ。
それが心臓や足先に波及する。
どんどん濡れていく。
右耳で外の気配を探り。
左耳からは那智さんの気配。
おまんこからの波に全部飲み込まれそうになるけれど、人の理性はそう簡単に己を手放してはくれないのだ。
気持ちよく快感を覚えるけれど右耳は冷静だ。
快楽の熱と右耳の冷ややかさの狭間、もどかしい。
今度会ったときは、外でしようね、外で触ってあげる。
ああ、冷静な右耳を裏切るようなひと言。
お外で那智さんに触ってもらう。
なり振りかまわずそれを欲する自分を想像して、その堕ちていく自分に欲情する。
右耳はスーパーのBGMが聞こえている。
そんなに簡単に手放せない。
イクために伸ばした足の爪先がドアの隙間から見えてしまわないか、冷静な右耳が思う。
そして快感と冷静のヒリヒリする表裏の中、二度目のイクの許可を得る。
どっちを選ぶ?
非日常的な日常
えっと、わたしたちの性的行為のお話ではないのだけど、排泄関係の話題なのでカテゴリはこれで^^
排泄の描写はないけれど、いちおうお気を付けくださいね^^
唐突に
ちょっと想像してみてください。
スカトロをするとき、手に取ったり体に塗ったり、舐めたり食したり。
想像だよ!!
するしないじゃなくて、ただの想像だからちょっと頑張ってみて(笑)
相手の排泄物と自分のそれだったら
どっちがいい?
ああ、いきなり、無理!?
じゃあ、これはどうでしょう。
これなら想像のハードル下がる?(笑)
ちょっと排泄物で汚れた下着を洗面所で手洗いするとしよう。
相手の排泄物がちょこっとついたトランクスを洗うのと、自分のそれを洗うとしたら。
どっちがいい?
と、ここからわたしの他愛ない思考を書こうと思うのですが、どうか戯れ言と大目に見てくださいませ。
せっかくなので皆さんご自身の答えを出してから読んでみましょう〜^^
ちなみにわたしは『那智さんの』がいい^^
那智さんの最終目標(?)は『自分のうんこをおいしそうに食べるりん子』だ。
ここには性的嗜好ももちろんあるけど、自分のそれを喜ぶことで愛情や『独占欲』を満たしているのだと思う。
(あたなのうんこが食べたいと女に思わせたいって、これって裏返せばかなり深い愛情を求めているなと思うのよ、那智さん^^)
わたしは那智さんの教育の賜物で彼の排泄物を汚い物だと思わないようになってしまっているけれど(苦手な味だな〜とかきっついな〜とかは思うけど 笑)、じゃあ、自分の物でもそうかと言えば、断然NO^^;
自分のうんちはキライじゃないけど(この感覚ご理解いただける?)、やっぱり『汚い物』だ。
できれば触りたくない。
どうしたって『那智さんのだから』ということが重要になってくる。
ということで、相手の物を選んだ人は従度が高いとしよう。
じゃあ、反対に、自分のパンツ洗うほうがいいよぉと思ったあなた!!(笑)
以前ね、どこかの本で自分の鼻くそを食べる人について『自己愛が強い』と書いてあったのを読んだことがある。
まあ、なんとなくわかるよね。
ということは、自分の排泄物を選ぶ人は自己愛が強いということは想像に容易い。
加えてね。
相手のを選ぶことって、実は、ちょっと免罪符になっていると思うのです。
『いえ、わたしスカトロなんて全然無理なんだけど、でもお相手のだから嬉しいのです』って、変態行為を愛情というオブラートに包んで美しいお話にできる。
相手のうんこで喜ぶ女と自分のうんこで喜ぶ女だとしたらどちらが被虐感が強いだろうか。
免罪符がない分、後者だと思う。
SM的一般論でマゾはナルシストっていうし、さらに被虐感の強いほうを選ぶわけだ。
被虐感の強いほうを選ぶナルシスト^^
ときどき登場する『歪んだ自己愛』ね^^
自分の物を選ぶ人は、マゾ度が高いだろうと。
選ぶものによって従度とマゾ度がわかるかもしれないな〜なんて思うのでした^^
あ、そうそう、もうひとつあった。
それは…見ず知らずの人の!!
これは究極の被虐。
見ず知らずの人間の排泄物を喜んで欲する。
免罪符もなく自己愛もなく、ただただ被虐(あ、でも、そこにも歪んだ自己愛はあると思うけどね^^)
ということで、選択肢を増やそう。
スカトロをするとき。
相手のと
自分のと
見ず知らずのオジサンのだったら
どれがいい?
これで従度とマゾ度がわかるかも?^^
免罪符を使わずに自分のって言えることはちょっと潔くて好きだし、マゾの端くれとしてはマゾ度が高いのも、ちょっと憧れるのであった(笑)
ところで那智さんは当然マゾではないので、この質問の場合は『りん子の』になる。
かつてうんこまみれになったわたしを顔色ひとつ変えずキレイにしてくれたりしている様子を見ると頷ける。
で、当然『自分のなんて触るのもイヤに決まってるだろ!!』なわけだ。
わたしの手のひらに収まっているご自分の『それ』を見ながら
りん子の手を持ってこのまま顔に『だ〜』ってしたり、胸に『で〜』としたりしたいんだけどなぁ…
というセリフを何度か聞いている。
でも、それはためらうようだ。
だってわたしの体に塗ろうとすれば、自分の『それ』にイヤでも触れてしまうものね。
かくして、わたしは塗り塗りされることはなく、もうちょっとハードルの高い『食する』に照準を当てられ、その道を歩んでいるのだ。(牛歩だけど)
気がつけば、従度が高いはずなのに行為はけっこう変態度が高いというねじれ国会みたいな状態になっている^^
<関連エントリー>
那智さんの排泄物が栄養ってくらいにしたい『独占欲』
『徒然に「独占欲」のこと』
変態のわたしに感じるという『歪んだ自己愛』
『変な次元の二者択一』
『徒然に「露出のこと」』
以下、排泄関係のエントリーをリンクします。
ご覧になる際はお気を付けください。
排泄まみれのわたし
『一番困ったこと1 2 3』
ついでにいくつか載せちゃう〜!!(なんかヤケ 笑)
『心の変化1 2』
『夏の旅行7』
えっと、わたしたちの性的行為のお話ではないのだけど、排泄関係の話題なのでカテゴリはこれで^^
排泄の描写はないけれど、いちおうお気を付けくださいね^^
唐突に
ちょっと想像してみてください。
スカトロをするとき、手に取ったり体に塗ったり、舐めたり食したり。
想像だよ!!
するしないじゃなくて、ただの想像だからちょっと頑張ってみて(笑)
相手の排泄物と自分のそれだったら
どっちがいい?
ああ、いきなり、無理!?
じゃあ、これはどうでしょう。
これなら想像のハードル下がる?(笑)
ちょっと排泄物で汚れた下着を洗面所で手洗いするとしよう。
相手の排泄物がちょこっとついたトランクスを洗うのと、自分のそれを洗うとしたら。
どっちがいい?
と、ここからわたしの他愛ない思考を書こうと思うのですが、どうか戯れ言と大目に見てくださいませ。
せっかくなので皆さんご自身の答えを出してから読んでみましょう〜^^
ちなみにわたしは『那智さんの』がいい^^
那智さんの最終目標(?)は『自分のうんこをおいしそうに食べるりん子』だ。
ここには性的嗜好ももちろんあるけど、自分のそれを喜ぶことで愛情や『独占欲』を満たしているのだと思う。
(あたなのうんこが食べたいと女に思わせたいって、これって裏返せばかなり深い愛情を求めているなと思うのよ、那智さん^^)
わたしは那智さんの教育の賜物で彼の排泄物を汚い物だと思わないようになってしまっているけれど(苦手な味だな〜とかきっついな〜とかは思うけど 笑)、じゃあ、自分の物でもそうかと言えば、断然NO^^;
自分のうんちはキライじゃないけど(この感覚ご理解いただける?)、やっぱり『汚い物』だ。
できれば触りたくない。
どうしたって『那智さんのだから』ということが重要になってくる。
ということで、相手の物を選んだ人は従度が高いとしよう。
じゃあ、反対に、自分のパンツ洗うほうがいいよぉと思ったあなた!!(笑)
以前ね、どこかの本で自分の鼻くそを食べる人について『自己愛が強い』と書いてあったのを読んだことがある。
まあ、なんとなくわかるよね。
ということは、自分の排泄物を選ぶ人は自己愛が強いということは想像に容易い。
加えてね。
相手のを選ぶことって、実は、ちょっと免罪符になっていると思うのです。
『いえ、わたしスカトロなんて全然無理なんだけど、でもお相手のだから嬉しいのです』って、変態行為を愛情というオブラートに包んで美しいお話にできる。
相手のうんこで喜ぶ女と自分のうんこで喜ぶ女だとしたらどちらが被虐感が強いだろうか。
免罪符がない分、後者だと思う。
SM的一般論でマゾはナルシストっていうし、さらに被虐感の強いほうを選ぶわけだ。
被虐感の強いほうを選ぶナルシスト^^
ときどき登場する『歪んだ自己愛』ね^^
自分の物を選ぶ人は、マゾ度が高いだろうと。
選ぶものによって従度とマゾ度がわかるかもしれないな〜なんて思うのでした^^
あ、そうそう、もうひとつあった。
それは…見ず知らずの人の!!
これは究極の被虐。
見ず知らずの人間の排泄物を喜んで欲する。
免罪符もなく自己愛もなく、ただただ被虐(あ、でも、そこにも歪んだ自己愛はあると思うけどね^^)
ということで、選択肢を増やそう。
スカトロをするとき。
相手のと
自分のと
見ず知らずのオジサンのだったら
どれがいい?
これで従度とマゾ度がわかるかも?^^
免罪符を使わずに自分のって言えることはちょっと潔くて好きだし、マゾの端くれとしてはマゾ度が高いのも、ちょっと憧れるのであった(笑)
ところで那智さんは当然マゾではないので、この質問の場合は『りん子の』になる。
かつてうんこまみれになったわたしを顔色ひとつ変えずキレイにしてくれたりしている様子を見ると頷ける。
で、当然『自分のなんて触るのもイヤに決まってるだろ!!』なわけだ。
わたしの手のひらに収まっているご自分の『それ』を見ながら
りん子の手を持ってこのまま顔に『だ〜』ってしたり、胸に『で〜』としたりしたいんだけどなぁ…
というセリフを何度か聞いている。
でも、それはためらうようだ。
だってわたしの体に塗ろうとすれば、自分の『それ』にイヤでも触れてしまうものね。
かくして、わたしは塗り塗りされることはなく、もうちょっとハードルの高い『食する』に照準を当てられ、その道を歩んでいるのだ。(牛歩だけど)
気がつけば、従度が高いはずなのに行為はけっこう変態度が高いというねじれ国会みたいな状態になっている^^
<関連エントリー>
那智さんの排泄物が栄養ってくらいにしたい『独占欲』
『徒然に「独占欲」のこと』
変態のわたしに感じるという『歪んだ自己愛』
『変な次元の二者択一』
『徒然に「露出のこと」』
以下、排泄関係のエントリーをリンクします。
ご覧になる際はお気を付けください。
排泄まみれのわたし
『一番困ったこと1 2 3』
ついでにいくつか載せちゃう〜!!(なんかヤケ 笑)
『心の変化1 2』
『夏の旅行7』
設計図
独特な幸福感
最近カテゴリー悩みます^^
お風呂から上がってベッドにでーん。
耳〜
はーい
膝枕して綿棒で耳掃除
右耳から
はんたーい
はーい
ごろんと向きを変えて左耳
はい、おしまーい
次は仰向けにごろーん
おしっこ〜
はーい
大の字の那智さんに顔を埋めてゴクゴクゴク。
その後裏返るのは、『マッサージ〜』の合図。
那智さん、眠ってしまったら何分後に起こします?
15分
即答。
これが20分のときもあるし、40分のときもある。
時間は様々だけどだいたいいつも、即答だ。
流れだけ見ていれば那智さん物凄く極楽みたいだけど、実は時間を把握して、配分やその後のスケジュールが頭の中にあるんだよね。
絶対服従というわけではないからわたしの希望は聞くし、わたしも意見するけれど、那智さんは基本『答えを持っている』人だ。
こういう時間という日常のことから、生き方や考え方、ふたりの付き合う形や進む方向など、とにかくいろいろ「答えを持っている』。
思いつくままに質問を投げかけるとほとんど、すぐ答えが返ってくる。
だって、ほら、この『薬指の刺青』のりん子が質問するんだよ!!
『そこ気にする!?』みたいな小さいことや『いまさら、それいう!?』みたいな面倒なこと、たーくさんありそうじゃない?
それにいちいち答えを持っている。
基本即座に答えてくれる。
何年も前に出した答えと、全然別の角度からの質問の答えがたまたま繋がっていたりなんてこともあって、その整合性を目の当たりにしていると行き当たりばったりで答えていないのはわかる。
ブレないなと思う。
きっと、那智さんは設計図を持っているのだろう。
時間配分のような実務から付き合う形や指針のような土台まで、ふたりの付き合いの設計図を書いているのは那智さんだな〜って思う。
おそらくその設計図があるから即答できるのだ。
投げかけられた質問やトラブルに対して、この設計図を元に答えを出しているからブレない。
わたしも一緒にペンキを塗ったりトンカチで釘を打ったりしているけれど、設計図は那智さんが作ったのだ。
基本的にふたりの間に起こることは那智さんが全権を握っている。
設計者で現場監督だ^^
主従ってなんだろう?
『100組いれば100通り』とか『カップルの数だけ』なんて言葉を時々目にする。
きっとそうなんだろう。
だから、この質問に意味はなくて単なる話題提供だけど。
もしかしたら、この設計図作りと現場監督を片方に委ねることも主従という説明になるのかなって思ったりした^^
それが性的なことや精神的なこと、シーンは様々だったとしても、主と呼ばれる人は設計者&現場監督なんじゃないかな〜^^
中には、従さんがお母さんがやんちゃ坊主をあやすみたいに舵取りしてるように見える主従さんを見かけると、どっちが設計士なんだろう?なんて思ったりすることもあるけれど。
まあ、それこそそれぞれの形なんだろうけれど。
できることなら大事な『わたし』、よい設計士さんに設計していただいてしっかり現場監督、ステキな建築をお願いしたいものですね。
いや、うちは主従じゃないけれども^^;(主従って言ってみたい夜もあるのだ 笑)
で、こんなお話をしながら
那智さん設計者ですね〜、わたし建造物!?(笑)
ちょっとずつちょっとずつ手を加えて、サグラダファミリアみたい!?
と、ちょっといい気分で聞いてみたら
ううん、どちらかというと、もうほぼ完成していんだけどまだ未完成のところがあったり、時々ほころんで那智理したりしてるイメージかな
ですって。
なーんだ、わたしは芸術にはほど遠いらしい(笑)
ということで、わたしは一時期話題になった疑惑の姉○物件?
那智さんにたくさん耐震補強工事をお願いしているのか^^;
最近カテゴリー悩みます^^
お風呂から上がってベッドにでーん。
耳〜
はーい
膝枕して綿棒で耳掃除
右耳から
はんたーい
はーい
ごろんと向きを変えて左耳
はい、おしまーい
次は仰向けにごろーん
おしっこ〜
はーい
大の字の那智さんに顔を埋めてゴクゴクゴク。
その後裏返るのは、『マッサージ〜』の合図。
那智さん、眠ってしまったら何分後に起こします?
15分
即答。
これが20分のときもあるし、40分のときもある。
時間は様々だけどだいたいいつも、即答だ。
流れだけ見ていれば那智さん物凄く極楽みたいだけど、実は時間を把握して、配分やその後のスケジュールが頭の中にあるんだよね。
絶対服従というわけではないからわたしの希望は聞くし、わたしも意見するけれど、那智さんは基本『答えを持っている』人だ。
こういう時間という日常のことから、生き方や考え方、ふたりの付き合う形や進む方向など、とにかくいろいろ「答えを持っている』。
思いつくままに質問を投げかけるとほとんど、すぐ答えが返ってくる。
だって、ほら、この『薬指の刺青』のりん子が質問するんだよ!!
『そこ気にする!?』みたいな小さいことや『いまさら、それいう!?』みたいな面倒なこと、たーくさんありそうじゃない?
それにいちいち答えを持っている。
基本即座に答えてくれる。
何年も前に出した答えと、全然別の角度からの質問の答えがたまたま繋がっていたりなんてこともあって、その整合性を目の当たりにしていると行き当たりばったりで答えていないのはわかる。
ブレないなと思う。
きっと、那智さんは設計図を持っているのだろう。
時間配分のような実務から付き合う形や指針のような土台まで、ふたりの付き合いの設計図を書いているのは那智さんだな〜って思う。
おそらくその設計図があるから即答できるのだ。
投げかけられた質問やトラブルに対して、この設計図を元に答えを出しているからブレない。
わたしも一緒にペンキを塗ったりトンカチで釘を打ったりしているけれど、設計図は那智さんが作ったのだ。
基本的にふたりの間に起こることは那智さんが全権を握っている。
設計者で現場監督だ^^
主従ってなんだろう?
『100組いれば100通り』とか『カップルの数だけ』なんて言葉を時々目にする。
きっとそうなんだろう。
だから、この質問に意味はなくて単なる話題提供だけど。
もしかしたら、この設計図作りと現場監督を片方に委ねることも主従という説明になるのかなって思ったりした^^
それが性的なことや精神的なこと、シーンは様々だったとしても、主と呼ばれる人は設計者&現場監督なんじゃないかな〜^^
中には、従さんがお母さんがやんちゃ坊主をあやすみたいに舵取りしてるように見える主従さんを見かけると、どっちが設計士なんだろう?なんて思ったりすることもあるけれど。
まあ、それこそそれぞれの形なんだろうけれど。
できることなら大事な『わたし』、よい設計士さんに設計していただいてしっかり現場監督、ステキな建築をお願いしたいものですね。
いや、うちは主従じゃないけれども^^;(主従って言ってみたい夜もあるのだ 笑)
で、こんなお話をしながら
那智さん設計者ですね〜、わたし建造物!?(笑)
ちょっとずつちょっとずつ手を加えて、サグラダファミリアみたい!?
と、ちょっといい気分で聞いてみたら
ううん、どちらかというと、もうほぼ完成していんだけどまだ未完成のところがあったり、時々ほころんで那智理したりしてるイメージかな
ですって。
なーんだ、わたしは芸術にはほど遠いらしい(笑)
ということで、わたしは一時期話題になった疑惑の姉○物件?
那智さんにたくさん耐震補強工事をお願いしているのか^^;
選択肢のひとつ
りん子的独り言(エラそう)
とてもデリケートな話題なんだけど書こうと思う。
あえて詳細を調べずニュースの記憶だけを頼りに書くことをご了承ください。
なぜなら、その事件そのものを指しているわけでもなく誰かを糾弾したいわけでもなく、痛ましい事件から思うことを書きたいということをご理解ください。
すこし前、小学生の自殺が報じられた。
クラスで孤立して言葉による暴力や給食をひとりで食べたりしていたらしい。
親も学校に再三改善を求め、それなりに対応していたらしいけど、命を救えることはできなかった。
(ごめんなさい、これくらいしか詳細を知らない)
とても心が痛む出来事。
小学生で命を絶つ選択をしたその子の心を思うととても辛いし、残された関係者はどこかで好転できなかったか自責しながら考えるだろうなと、それもやるせない。
こういうことはどこにでもたくさんあることで、その個々に対応の仕方はあるだろうし、わたしも自分の子供が同じような目に遭ったらこんな呑気なこと言っていられないだろう。
即解決の方法はないと思うけど。
だけど。
こういう子が『ひとりでいることは恥ずかしいことでもみじめなことでもなく、劣っていることでもない』って思えていたら、どんなに気持ちがラクだっただろう。
って、思う。
わたしが中学生の頃かな『シカト』という忌み嫌う言葉が使われ出した。
あの頃から集団でいることとひとりでいることに優劣ができた気がする。
もちろん昔から村八分とかあったし、仲間はずれなんていまに始まったことではないよね。
むしろ教育によって『差別』はなくなっているくらいだっただろう。
でも、うまく言えないけど、あの言葉が使われ出した頃から(それがきっかけじゃないけどね)ひとりを作る優越感とひとりでいることの劣等感が育ってきているように感じるのだ。
学生の頃、クラスメイトから呼び出し喰らったことがある。
それまで別の子をシカトしていたのが、その子も含めて急に矛先がわたしに向いたのだ。
そんな人たちの中にいたくないから、わたしのことムカついてもいいからさっさと仲間から外してくれと、せいせいしていたけど、ひとつだけ『明日、お弁当のとき、どうしようかな、ひとりかなぁ』とちょっぴり気がかりだった。
それでもクラスにはひとりで行動している子もいて、クラスでは『○ちゃん、またひとりで本読んでるよ〜』なんていうのんびりした空気もまだ存在していたから、まあなんとかなるなとちょっと余裕はあったと思う。
那智さんはわたしと干支半周くらいの年の差がある。
もともと『ひとりでいること』を許容できる人だったと思うので、那智さんからしたら何をそんな当然のこと?と思っているかもしれない。
でも、その数年の環境の違いは大きいと感じる。
那智さんと同世代の友人が何人かいるけど、一様に『ひとりの劣等感や恐怖感』は薄い。
懐古主義ではないけれど、昔のほうが社会はひとりを許容する余裕があり、異端や変わり者も社会で普通に存在していたと思う。
干支半周でも違いを感じるくらいだ。
恐らくあの頃に比べたら格段に『ひとりでいることの恐怖』は増しているように思う。
わたしは、あまり気の利いた付き合いというのが上手くないらしい。
社交や適度な距離というのが苦手だ。
何度か書いているけれど、『卵の側にいたい』と思うし『個々に一本一本繋がっている』のが好きだ。
若い頃、母親になっても、たくさんの人と仲良しグループになれないな〜とそんな自分に劣等感を覚えたこともあるけれど、あるときから苦手なことをするくらいだったら公園でも幼稚園でも自分の思う礼儀と常識をわきまえていれば、後はひとりでもいいって思うようにした。
もちろん、家族もいたし友達もいたから本当の意味のひとりではないけれど、母親の輪に入らない程度のひとりだけどね^^;
ブログをはじめて、自分の人付き合いのあり方を分析することもできて、尚更、わたしはこれがいいんだって思えている。
大人になれば、ひとりでいる劣等感や恐怖からすこしずつ解放されることもあるのだ。
それが社会全体の空気になれば、小さい子が戦々恐々とならずに済むのになって思う。
ひとりは恥ずかしいことでもみじめなことでもなく、劣っているわけでもない。
もちろんそれだけじゃ解決しないよね。
言葉の暴力やたくさん実害はあるだろう。
だけど、その子も他のクラスメイトも親も先生も、様々な暴力のある中給食の輪に入れようと躍起になるより『ひとり?それもありじゃない!?』って社会全体がそう思えていたら、その子はとっても気持ちがラクだったんじゃないだろうかって思う。
ひとりは選択肢のひとつ。
そう思える社会になればいいのにね。
でもどうしたらそうなれるのかわからないから、ここでつぶやくくらいしかできないのだけどね。
<関連エントリー>
『卵の側』とか『一本一本繋がっている』とか、わたしの好きな付き合い方いろいろ^^
『hotに3周年御礼』
『連れションはキライ』
『ここにいるよ』
『わんこは子守唄』
シカトされたり、ひとりを選んだり^^
『職業選択(前振り1 2 3』
とてもデリケートな話題なんだけど書こうと思う。
あえて詳細を調べずニュースの記憶だけを頼りに書くことをご了承ください。
なぜなら、その事件そのものを指しているわけでもなく誰かを糾弾したいわけでもなく、痛ましい事件から思うことを書きたいということをご理解ください。
すこし前、小学生の自殺が報じられた。
クラスで孤立して言葉による暴力や給食をひとりで食べたりしていたらしい。
親も学校に再三改善を求め、それなりに対応していたらしいけど、命を救えることはできなかった。
(ごめんなさい、これくらいしか詳細を知らない)
とても心が痛む出来事。
小学生で命を絶つ選択をしたその子の心を思うととても辛いし、残された関係者はどこかで好転できなかったか自責しながら考えるだろうなと、それもやるせない。
こういうことはどこにでもたくさんあることで、その個々に対応の仕方はあるだろうし、わたしも自分の子供が同じような目に遭ったらこんな呑気なこと言っていられないだろう。
即解決の方法はないと思うけど。
だけど。
こういう子が『ひとりでいることは恥ずかしいことでもみじめなことでもなく、劣っていることでもない』って思えていたら、どんなに気持ちがラクだっただろう。
って、思う。
わたしが中学生の頃かな『シカト』という忌み嫌う言葉が使われ出した。
あの頃から集団でいることとひとりでいることに優劣ができた気がする。
もちろん昔から村八分とかあったし、仲間はずれなんていまに始まったことではないよね。
むしろ教育によって『差別』はなくなっているくらいだっただろう。
でも、うまく言えないけど、あの言葉が使われ出した頃から(それがきっかけじゃないけどね)ひとりを作る優越感とひとりでいることの劣等感が育ってきているように感じるのだ。
学生の頃、クラスメイトから呼び出し喰らったことがある。
それまで別の子をシカトしていたのが、その子も含めて急に矛先がわたしに向いたのだ。
そんな人たちの中にいたくないから、わたしのことムカついてもいいからさっさと仲間から外してくれと、せいせいしていたけど、ひとつだけ『明日、お弁当のとき、どうしようかな、ひとりかなぁ』とちょっぴり気がかりだった。
それでもクラスにはひとりで行動している子もいて、クラスでは『○ちゃん、またひとりで本読んでるよ〜』なんていうのんびりした空気もまだ存在していたから、まあなんとかなるなとちょっと余裕はあったと思う。
那智さんはわたしと干支半周くらいの年の差がある。
もともと『ひとりでいること』を許容できる人だったと思うので、那智さんからしたら何をそんな当然のこと?と思っているかもしれない。
でも、その数年の環境の違いは大きいと感じる。
那智さんと同世代の友人が何人かいるけど、一様に『ひとりの劣等感や恐怖感』は薄い。
懐古主義ではないけれど、昔のほうが社会はひとりを許容する余裕があり、異端や変わり者も社会で普通に存在していたと思う。
干支半周でも違いを感じるくらいだ。
恐らくあの頃に比べたら格段に『ひとりでいることの恐怖』は増しているように思う。
わたしは、あまり気の利いた付き合いというのが上手くないらしい。
社交や適度な距離というのが苦手だ。
何度か書いているけれど、『卵の側にいたい』と思うし『個々に一本一本繋がっている』のが好きだ。
若い頃、母親になっても、たくさんの人と仲良しグループになれないな〜とそんな自分に劣等感を覚えたこともあるけれど、あるときから苦手なことをするくらいだったら公園でも幼稚園でも自分の思う礼儀と常識をわきまえていれば、後はひとりでもいいって思うようにした。
もちろん、家族もいたし友達もいたから本当の意味のひとりではないけれど、母親の輪に入らない程度のひとりだけどね^^;
ブログをはじめて、自分の人付き合いのあり方を分析することもできて、尚更、わたしはこれがいいんだって思えている。
大人になれば、ひとりでいる劣等感や恐怖からすこしずつ解放されることもあるのだ。
それが社会全体の空気になれば、小さい子が戦々恐々とならずに済むのになって思う。
ひとりは恥ずかしいことでもみじめなことでもなく、劣っているわけでもない。
もちろんそれだけじゃ解決しないよね。
言葉の暴力やたくさん実害はあるだろう。
だけど、その子も他のクラスメイトも親も先生も、様々な暴力のある中給食の輪に入れようと躍起になるより『ひとり?それもありじゃない!?』って社会全体がそう思えていたら、その子はとっても気持ちがラクだったんじゃないだろうかって思う。
ひとりは選択肢のひとつ。
そう思える社会になればいいのにね。
でもどうしたらそうなれるのかわからないから、ここでつぶやくくらいしかできないのだけどね。
<関連エントリー>
『卵の側』とか『一本一本繋がっている』とか、わたしの好きな付き合い方いろいろ^^
『hotに3周年御礼』
『連れションはキライ』
『ここにいるよ』
『わんこは子守唄』
シカトされたり、ひとりを選んだり^^
『職業選択(前振り1 2 3』
徒然に『淘汰』
独り言
ずっと昔新聞で読んだ記事にこんなようなことが書いてあった(気がする^^;)
なんだったけなぁ、すごくうる覚えなんだけど…。
たしかね
何千年も前?
まだ猿に毛が生えたくらいの人類が(って、猿は毛ェ生えてる!!)別の大陸を目指して大移動したそうなんだけど、そのときの人数がね、100とかそれくらいだったというようなことが書いてあった(ような気がする^^;)
その辺りの説明はぜんぜん曖昧だから無視してください^^;
で、結局、その記事で言いたかったことは、要は人がだいたい同じ方向を向いて同じような意志で一番力を発揮できるのは100〜150人だみたいというようなことなのね。
100人より少ないと意志統一はしやすいけれど、パワーとしては弱い。
逆に150人を過ぎてくると、だんだん違う意志も生まれてきてまとまりとして、弱くなっていく。
だから人がある程度同じ気持ちで力を出すには100〜150人が適切な人数なんだって。
記事の記憶曖昧だし間違った認識かもしれないけど、わたしはこれを勝手に良いように解釈して自分に当てはめているんだ。
最近のカウンターの数字がね、ちょうど100〜150くらいなの^^
携帯からだと複数カウントされるらしいし、PCと携帯両方から見ていればその分上がるし、逆に週イチでまとめ読みとかしている人もいるだろうから、まあ純粋に閲覧人数は計れないのだけど、でも、そんなものだよね^^
きっとこれが適正で、尚かつわたしにとって心強い数字なんだろうって勝手に解釈している。
ううん、たまたま記事の人数とカウンターが同じようだからこじつけているだけ^^;
本当に思うことはちょっと別、数字じゃないんだな^^
『淘汰』なんだ^^
『薬指の刺青』をはじめて6月で丸5年になる。
たしか、開設した初日は24件だった。
それが徐々に増え、teacup時代にはありがたいことに200〜300、カウンターが回るようになっていた。
もっとたくさんの閲覧数のあるブログは山ほどあるのはわかっているけど、やっぱりカウンターが回ることは嬉しかった。(もしかしてfc2とカウント方法が違うかもしれないけど^^^;)
でも反面すこし怖かった。
SMやアダルトにカテゴライズされているのに、生い立ちを書いたり○○批判を書いたり、そのくせ自分は『とーっても幸せ』ってノロケまくっているのだもの、快く思わない人もいるだろうなって。
数字が増えれば増えるほどそのパーセンテージも上がるはずで、目に見えない負の感情にちょっと立ちすくむような気持ちになったこともあった。
コメント欄でわたしに対する批判的なコメントがついたときなどは、カウンターがグングン上がって、これも目に見えない負の何%の表れなんじゃないかなって思ったりした。
たぶんいろいろ多岐に渡って書いて、さらにノロケまくりたいわたしには200や300や、それよりもっとというのは分不相応だったんだと思う。
強い弱いじゃなくて、わたしのアンテナには手一杯だったんだと思う。
だけど人は余程の深い恨みがない限り、他者に向かう負の感情はそう長続きしないはずで、何年も続けていると当初『薬指の刺青』に負の感情を抱いていた人は、そのうちいなくなる。
負の感情を向けるより、もっと先の感情『無関心』になるのだ。
たぶん200や300の頃快く思わずに、でもなんだか気になって見てくれていた人はいつの間にかわたしに関心がなくなったのだと思う。
ここで吠えたりぐずぐずしたりノロケたりしている女なんてどーでもよくなっているはずだ。
いまの数字に落ち着いたのは他にもいろいろ理由はあるだろう。
でも確実に、何人かの生活からわたしは淘汰されいるはずだ。
そして、またわたしの知らぬ間にその人もわたしから淘汰されている。
こうしてある程度の期間同じことを続けていると良くも悪くも淘汰が生じ、何かだけが『残る』。
きっとその残ったものには価値がある。
(もしかして、ずっと負の感情を持ち続けながら読んでくれている人がいるとして、それだって長い間継続してくれるのは、価値があると思いたいです)
100〜150ということは関係なく、でもそれが数字に表れている部分もあると思う。
いまでも快く思わず、それでも見てくれている人もいるだろう(ありがとう^^)
もしかしたら内容によって快不快がある人もいるはず(ありがとう^^)
いろんな人が読んでくれていると思うけど、これだけノロケて吠えている女のブログを読み続けてくれる人たち、きっと何かしら共感したりシンパシーを感じてくれているのだと信じている。
わたしは優劣をつけることがキライだ。
誰かを同情したくないし、誰かに対して自分を卑下したくない(同情はヘタすると優越感にすり変わるものね)
残っている人たちも同じ方向を向いていると、ふとあの新聞記事を思い出し、願う。
ううん、わたしだって完璧じゃない、優劣をつけてしまうことだってあるかもしれない。
またわたしのやり方に優越感を感じ取る人もいるかもしれない。
こればかりは感性の相性なんだけど。
でもどんな形にしろ、わたしは優劣つけたくないんだと努めていることが、ひとつの方向になってくれていたらいいなと思う。
これは違う考えを排除したいということとは違うと思ってる。
『優劣をつけない』という方向を向いてくれていたら、反対意見も大歓迎です^^
ただ那智さんが大好きで、ここで日々アンテナに引っかかることをポンポン投げていることが大好きで書いている。
とにかく、数年かけて落ち着いた心強い100〜150に感謝して、徒然。
だってね。
次回からまたエロなしのノロケ話が始まるんだよ〜^^;
いつものように1mmのデートのことを3mくらいに書いちゃうんだよ〜^^;
それにお付き合いいただくための徒然だったのだ。
那智さんの老後の楽しみのための、那智さんが先に死んじゃったときの慰めのためのエントリーにどうかお付き合いくださいませ!!
<関連エントリー>
那智さんが先に死んじゃう!?
『生きる』
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なんだったけなぁ、すごくうる覚えなんだけど…。
たしかね
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その辺りの説明はぜんぜん曖昧だから無視してください^^;
で、結局、その記事で言いたかったことは、要は人がだいたい同じ方向を向いて同じような意志で一番力を発揮できるのは100〜150人だみたいというようなことなのね。
100人より少ないと意志統一はしやすいけれど、パワーとしては弱い。
逆に150人を過ぎてくると、だんだん違う意志も生まれてきてまとまりとして、弱くなっていく。
だから人がある程度同じ気持ちで力を出すには100〜150人が適切な人数なんだって。
記事の記憶曖昧だし間違った認識かもしれないけど、わたしはこれを勝手に良いように解釈して自分に当てはめているんだ。
最近のカウンターの数字がね、ちょうど100〜150くらいなの^^
携帯からだと複数カウントされるらしいし、PCと携帯両方から見ていればその分上がるし、逆に週イチでまとめ読みとかしている人もいるだろうから、まあ純粋に閲覧人数は計れないのだけど、でも、そんなものだよね^^
きっとこれが適正で、尚かつわたしにとって心強い数字なんだろうって勝手に解釈している。
ううん、たまたま記事の人数とカウンターが同じようだからこじつけているだけ^^;
本当に思うことはちょっと別、数字じゃないんだな^^
『淘汰』なんだ^^
『薬指の刺青』をはじめて6月で丸5年になる。
たしか、開設した初日は24件だった。
それが徐々に増え、teacup時代にはありがたいことに200〜300、カウンターが回るようになっていた。
もっとたくさんの閲覧数のあるブログは山ほどあるのはわかっているけど、やっぱりカウンターが回ることは嬉しかった。(もしかしてfc2とカウント方法が違うかもしれないけど^^^;)
でも反面すこし怖かった。
SMやアダルトにカテゴライズされているのに、生い立ちを書いたり○○批判を書いたり、そのくせ自分は『とーっても幸せ』ってノロケまくっているのだもの、快く思わない人もいるだろうなって。
数字が増えれば増えるほどそのパーセンテージも上がるはずで、目に見えない負の感情にちょっと立ちすくむような気持ちになったこともあった。
コメント欄でわたしに対する批判的なコメントがついたときなどは、カウンターがグングン上がって、これも目に見えない負の何%の表れなんじゃないかなって思ったりした。
たぶんいろいろ多岐に渡って書いて、さらにノロケまくりたいわたしには200や300や、それよりもっとというのは分不相応だったんだと思う。
強い弱いじゃなくて、わたしのアンテナには手一杯だったんだと思う。
だけど人は余程の深い恨みがない限り、他者に向かう負の感情はそう長続きしないはずで、何年も続けていると当初『薬指の刺青』に負の感情を抱いていた人は、そのうちいなくなる。
負の感情を向けるより、もっと先の感情『無関心』になるのだ。
たぶん200や300の頃快く思わずに、でもなんだか気になって見てくれていた人はいつの間にかわたしに関心がなくなったのだと思う。
ここで吠えたりぐずぐずしたりノロケたりしている女なんてどーでもよくなっているはずだ。
いまの数字に落ち着いたのは他にもいろいろ理由はあるだろう。
でも確実に、何人かの生活からわたしは淘汰されいるはずだ。
そして、またわたしの知らぬ間にその人もわたしから淘汰されている。
こうしてある程度の期間同じことを続けていると良くも悪くも淘汰が生じ、何かだけが『残る』。
きっとその残ったものには価値がある。
(もしかして、ずっと負の感情を持ち続けながら読んでくれている人がいるとして、それだって長い間継続してくれるのは、価値があると思いたいです)
100〜150ということは関係なく、でもそれが数字に表れている部分もあると思う。
いまでも快く思わず、それでも見てくれている人もいるだろう(ありがとう^^)
もしかしたら内容によって快不快がある人もいるはず(ありがとう^^)
いろんな人が読んでくれていると思うけど、これだけノロケて吠えている女のブログを読み続けてくれる人たち、きっと何かしら共感したりシンパシーを感じてくれているのだと信じている。
わたしは優劣をつけることがキライだ。
誰かを同情したくないし、誰かに対して自分を卑下したくない(同情はヘタすると優越感にすり変わるものね)
残っている人たちも同じ方向を向いていると、ふとあの新聞記事を思い出し、願う。
ううん、わたしだって完璧じゃない、優劣をつけてしまうことだってあるかもしれない。
またわたしのやり方に優越感を感じ取る人もいるかもしれない。
こればかりは感性の相性なんだけど。
でもどんな形にしろ、わたしは優劣つけたくないんだと努めていることが、ひとつの方向になってくれていたらいいなと思う。
これは違う考えを排除したいということとは違うと思ってる。
『優劣をつけない』という方向を向いてくれていたら、反対意見も大歓迎です^^
ただ那智さんが大好きで、ここで日々アンテナに引っかかることをポンポン投げていることが大好きで書いている。
とにかく、数年かけて落ち着いた心強い100〜150に感謝して、徒然。
だってね。
次回からまたエロなしのノロケ話が始まるんだよ〜^^;
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