悲劇妄想
独特な幸福感
わたしたちのどちらかが死ぬまでに、わたしたちはあと何回会えるのだろう。
毎日会えないのは不倫の宿命。
会える日を楽しみに日々を穏やかにすごすことは責務。
あと何回?
あるときこんな妄想をした。
那智さんが余命宣告されるのだ。
りん子、ごめんな、俺あと半年しか一緒にいてあげられない
那智さんはほんのすこし笑みを浮かべながら、でも真剣にやさしく抱きしめてくれる。
いやだ、那智さん、そんなの!!
本当は余命短い那智さんのほうが悲しいのに、そんなこと関係なく自分勝手に泣く。
俺はいなくなるけど、りん子大丈夫だろ?
俺っていう存在があっただけで、りん子は大丈夫だよ
大丈夫じゃないです
肌に触れたり声を聞いたりしないとダメ!!
やっぱり会えないと意味がないの!!
そういって那智さんの腕の中で泣きじゃくるわたし。
バカなわたしはときどきこんなふうに悲劇妄想をしてひとりうるうるしてしまう。
那智さんはそんなわたしを『悲劇になりたい症候群』って笑うけど、たしかにそうだけど^^;
だけど、これは、ほんのちょっと訓練なんだ。
年齢や男女差やもろもろでわたしのほうが残る確率は圧倒的に高いので、そのときの訓練。
いや、訓練というのは、こういうことじゃないね^^;
じゃあ、訓練しよう。
いまこの瞬間から、わたしは思考回路を切り替える。
電話で声を聞いているときもチャットであれこれお話ししているときも、全部『会っている』ことにする。
いやだ、会わなきゃ意味がない!!そう否定したい自分もいるけど、簡単に切り替えられないかもしれないけど、切り替える。
声を聞き那智さんの肌の質感を思い出し、物音から那智さんの仕草を感じ、文字から表情を知る。
目を閉じて那智さんの存在や空気や振動を焼き付ける。
あと何回会えるか、じゃあ、思考回路を切り替えてその回数を増やす。
ひとりになったとき、存在を感じられるように訓練する。
そんな想像をしてひとり切なくうるうる。
ねえ、那智さん。
だってね、週1回会えたとして、ひと月4回、一年で約50回。
20年生きたとして、あと200回しか会えないのですよ。
たった200回ですよ!!
那智さんとあと200回しか会えない、一緒に暮らしていたら1年にも満たない。
だからね、会えない日も繋がっているときには会っていることにします。
そうだね、それはいい考え。
俺は最近、すこしそんな感覚でいるよ。
…、ところで、200回っておかしくない?
50回×20年…
…あ!!
1000回です…。
やった、まだ1000回は会えるのですね!!
りん子、バカすぎ。
わたしったら、悲劇妄想すぎて暗算まで悲劇にしてしまった^^;
ということで、わたしはあと1000回も那智さんに会える!!
だから、『会わなきゃ意味がない』に戻します(笑)
というのは冗談で。
この新しい思考回路は、いつかきっと役に立つ、はず^^
悲劇妄想はいろいろバカな事態を引き起こすけど、ときどき役に立つはずなんだ^^
<関連エントリー>
『生きる』
『生きてる(笑)』
『その瞬間からひとりで立てるように』
「等式」感想です。基本的に欲望や望みって限りがないよね、「折り合いをつける」とか「納得する」とか気持ちを整理するような言葉もあるけれどね。我々、二人が未来を考える「欲望」のゴールは何種類があるんだろうね。
わたしたちのどちらかが死ぬまでに、わたしたちはあと何回会えるのだろう。
毎日会えないのは不倫の宿命。
会える日を楽しみに日々を穏やかにすごすことは責務。
あと何回?
あるときこんな妄想をした。
那智さんが余命宣告されるのだ。
りん子、ごめんな、俺あと半年しか一緒にいてあげられない
那智さんはほんのすこし笑みを浮かべながら、でも真剣にやさしく抱きしめてくれる。
いやだ、那智さん、そんなの!!
本当は余命短い那智さんのほうが悲しいのに、そんなこと関係なく自分勝手に泣く。
俺はいなくなるけど、りん子大丈夫だろ?
俺っていう存在があっただけで、りん子は大丈夫だよ
大丈夫じゃないです
肌に触れたり声を聞いたりしないとダメ!!
やっぱり会えないと意味がないの!!
そういって那智さんの腕の中で泣きじゃくるわたし。
バカなわたしはときどきこんなふうに悲劇妄想をしてひとりうるうるしてしまう。
那智さんはそんなわたしを『悲劇になりたい症候群』って笑うけど、たしかにそうだけど^^;
だけど、これは、ほんのちょっと訓練なんだ。
年齢や男女差やもろもろでわたしのほうが残る確率は圧倒的に高いので、そのときの訓練。
いや、訓練というのは、こういうことじゃないね^^;
じゃあ、訓練しよう。
いまこの瞬間から、わたしは思考回路を切り替える。
電話で声を聞いているときもチャットであれこれお話ししているときも、全部『会っている』ことにする。
いやだ、会わなきゃ意味がない!!そう否定したい自分もいるけど、簡単に切り替えられないかもしれないけど、切り替える。
声を聞き那智さんの肌の質感を思い出し、物音から那智さんの仕草を感じ、文字から表情を知る。
目を閉じて那智さんの存在や空気や振動を焼き付ける。
あと何回会えるか、じゃあ、思考回路を切り替えてその回数を増やす。
ひとりになったとき、存在を感じられるように訓練する。
そんな想像をしてひとり切なくうるうる。
ねえ、那智さん。
だってね、週1回会えたとして、ひと月4回、一年で約50回。
20年生きたとして、あと200回しか会えないのですよ。
たった200回ですよ!!
那智さんとあと200回しか会えない、一緒に暮らしていたら1年にも満たない。
だからね、会えない日も繋がっているときには会っていることにします。
そうだね、それはいい考え。
俺は最近、すこしそんな感覚でいるよ。
…、ところで、200回っておかしくない?
50回×20年…
…あ!!
1000回です…。
やった、まだ1000回は会えるのですね!!
りん子、バカすぎ。
わたしったら、悲劇妄想すぎて暗算まで悲劇にしてしまった^^;
ということで、わたしはあと1000回も那智さんに会える!!
だから、『会わなきゃ意味がない』に戻します(笑)
というのは冗談で。
この新しい思考回路は、いつかきっと役に立つ、はず^^
悲劇妄想はいろいろバカな事態を引き起こすけど、ときどき役に立つはずなんだ^^
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『生きる』
『生きてる(笑)』
『その瞬間からひとりで立てるように』
「等式」感想です。基本的に欲望や望みって限りがないよね、「折り合いをつける」とか「納得する」とか気持ちを整理するような言葉もあるけれどね。我々、二人が未来を考える「欲望」のゴールは何種類があるんだろうね。
記録
140字もどき
6時間回しっぱなしで撮影したりするけど、基本的に那智さんはSMや性行為中に撮影しない、動画も画像も。
どちらかというと、鞭の痕や尻尾画像をわたしがリクエストして撮ってもらうほうが多いけど、それでも最中ということは少ない。
撮影で興奮できたらいいのだけど、カメラを向けられた時点で撮影が行為の中心になってしまって気持ちが醒めてしまから、わたしもないほうがいい。
画として残すと鮮明な思い出になるだろうからすこしうらやましいと思う気持ちもゼロではないけど、わたしたちの場合、撮影が主な行為になってしまうより行為そのもので互いの幸福や快感を感じたいのだ。
画に残らないから、わたしは感覚と感情と快感の記憶を頼りに文字にして『等式』に残す。
写真に劣らないくらい鮮明に、と思いながら。
6時間回しっぱなしで撮影したりするけど、基本的に那智さんはSMや性行為中に撮影しない、動画も画像も。
どちらかというと、鞭の痕や尻尾画像をわたしがリクエストして撮ってもらうほうが多いけど、それでも最中ということは少ない。
撮影で興奮できたらいいのだけど、カメラを向けられた時点で撮影が行為の中心になってしまって気持ちが醒めてしまから、わたしもないほうがいい。
画として残すと鮮明な思い出になるだろうからすこしうらやましいと思う気持ちもゼロではないけど、わたしたちの場合、撮影が主な行為になってしまうより行為そのもので互いの幸福や快感を感じたいのだ。
画に残らないから、わたしは感覚と感情と快感の記憶を頼りに文字にして『等式』に残す。
写真に劣らないくらい鮮明に、と思いながら。
エロ
140字もどき
ブログやTwitterで画像を載せているときに、ときどき「あんまりエロくなくてすみません」なんて謝っているのを見かけることがあるけど、そんなに謝らなくていいのになぁと思う。
それは誰に向かって発しているのかな。
特定の誰か?
それとも不特定の人たち?
まあ、百歩譲って、エロい画像を載せますと約束しているなら謝るのもわからなくもないけど。
そもそも万人が等しくエロいと思うものなんてあるのかな。
画像主が『エロくなくて』と謝っている画像にものすごい興奮する人もいるかもしれないし、逆に画像主が渾身のエロを提供しても微動だにしない人もいるはずで、そうなると毎回必ず誰かに謝らないといけなくなっちゃう^^;
(画像の傾向はあるから、似たものをエロいと思う人が集っているのでしょうけどね)
謝る心理と謝らせる雰囲気を作る心理ってなんだろうね。
好きな本を書く作家さんのことを、その本以外で知りたいと思う。
顔写真や経歴やインタビューなどの生の声。
本来は作品だけで評価されるべきなのに、作家さんのパーソナリティがわかるほうがより作品への興味も湧いてくるものだ。
親近感というのは魅力なんだよね。
画像を載せている人のところに画像を褒めたり次を期待したりするコメントを見ると、ちょっと不思議に思っていた。
もちろん、わたしも含め、素人が被写体で素人が撮った(もしくはセルフ)写真なんて、たかがしれてるし、もっとキレイなものや、もっと過激なものや、もっとリアルなものはいまのネット環境だったらたーくさんある。
それなのにどうしてたかがブログの小さな画像を褒めたり疼いたりするのだろうって。
でね、その作家さんへの感覚を思いだして妙に納得したのだ。
きっとコメントする人は、その画像がお好みであることは当然なんだろうけど、その本人の書いた文章を読んだり、コメントしてやり取りをしたりしてより近い存在になることが画像への興味につながるのだろう。
わたしも時々画像を載せる。
プロフィール画像は那智さんが担当してくれているけど、いちおうモデル(?)はわたしだ^^;
反応をもらえることは嬉しい。
肯定的なコメントをいただくと、自分の体の一部を載せることや、それが露出だったり鞭の痕だったりの異常行為に対する罪悪感も和らぐ。
だけど、これはちょっと危険だなと感じる。
最初は見せたい気持ちだった。
ギャラリーができて、その人たちから何かしらのリアクションがある。
リアクションはうれしいから、つい、リクエストに応えたり、より良い反応をもらそうな画像になっていったりする。
そうしているうちに、いつのまにか姿の見えない誰かたちにコントロールされてしまっていることもあり得るよね。
きっと、コメントしているほうは、無意識にコントロールの快感を味わっているのではないかな。
一概にはいえないけど、特に性的な場面で責任を負う必要のない誰かにコントロールされるのは、あまり幸福なことではないと思うし、そこに依存してしまうとなかなかやめられなくてどんどんエスカレートしそうだから、ちょっと危険だなって思うのです。
「ごめんなさい」する必要なんてまったくないのにね。
それに、万人受けするエロなんて、あんまり面白くないような気がするけど、どうでしょう?
<関連エントリー>
『負に巣食う人々』
『コントロール』
『だから私は嫌われる(笑)』
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それは誰に向かって発しているのかな。
特定の誰か?
それとも不特定の人たち?
まあ、百歩譲って、エロい画像を載せますと約束しているなら謝るのもわからなくもないけど。
そもそも万人が等しくエロいと思うものなんてあるのかな。
画像主が『エロくなくて』と謝っている画像にものすごい興奮する人もいるかもしれないし、逆に画像主が渾身のエロを提供しても微動だにしない人もいるはずで、そうなると毎回必ず誰かに謝らないといけなくなっちゃう^^;
(画像の傾向はあるから、似たものをエロいと思う人が集っているのでしょうけどね)
謝る心理と謝らせる雰囲気を作る心理ってなんだろうね。
好きな本を書く作家さんのことを、その本以外で知りたいと思う。
顔写真や経歴やインタビューなどの生の声。
本来は作品だけで評価されるべきなのに、作家さんのパーソナリティがわかるほうがより作品への興味も湧いてくるものだ。
親近感というのは魅力なんだよね。
画像を載せている人のところに画像を褒めたり次を期待したりするコメントを見ると、ちょっと不思議に思っていた。
もちろん、わたしも含め、素人が被写体で素人が撮った(もしくはセルフ)写真なんて、たかがしれてるし、もっとキレイなものや、もっと過激なものや、もっとリアルなものはいまのネット環境だったらたーくさんある。
それなのにどうしてたかがブログの小さな画像を褒めたり疼いたりするのだろうって。
でね、その作家さんへの感覚を思いだして妙に納得したのだ。
きっとコメントする人は、その画像がお好みであることは当然なんだろうけど、その本人の書いた文章を読んだり、コメントしてやり取りをしたりしてより近い存在になることが画像への興味につながるのだろう。
わたしも時々画像を載せる。
プロフィール画像は那智さんが担当してくれているけど、いちおうモデル(?)はわたしだ^^;
反応をもらえることは嬉しい。
肯定的なコメントをいただくと、自分の体の一部を載せることや、それが露出だったり鞭の痕だったりの異常行為に対する罪悪感も和らぐ。
だけど、これはちょっと危険だなと感じる。
最初は見せたい気持ちだった。
ギャラリーができて、その人たちから何かしらのリアクションがある。
リアクションはうれしいから、つい、リクエストに応えたり、より良い反応をもらそうな画像になっていったりする。
そうしているうちに、いつのまにか姿の見えない誰かたちにコントロールされてしまっていることもあり得るよね。
きっと、コメントしているほうは、無意識にコントロールの快感を味わっているのではないかな。
一概にはいえないけど、特に性的な場面で責任を負う必要のない誰かにコントロールされるのは、あまり幸福なことではないと思うし、そこに依存してしまうとなかなかやめられなくてどんどんエスカレートしそうだから、ちょっと危険だなって思うのです。
「ごめんなさい」する必要なんてまったくないのにね。
それに、万人受けするエロなんて、あんまり面白くないような気がするけど、どうでしょう?
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『コントロール』
『だから私は嫌われる(笑)』
調教の定義
りん子的独り言(生意気)
今日はわたしの『調教』の定義の話です。
わたしなりの解釈なので、他の方がどう定義しようと、どう使おうと、それを否定するつもりはありません。
別にわたしは国語の先生でもないし、間違った日本語もよく使ってしまうけど、それでも、できるだけ自分の言葉で伝えたいと思っています。
だから『調教』に限らず、言葉の響きや耳障りの良さやみんなが使っているからという理由で自分で考えずに使うことへの、ちょっと抵抗もあったりします。
特に、自分にとってとても大事なことを指すならなおさら。
でね、自分で考えず使うと矛盾や疑問にぶち当たったとき思考停止に陥る危険性があって、解決するための思考が起こりにくいと思うのです。
だから、ちょっとだけ、一石投じる気持ちで。
丸投げっぽいからカテゴリは『140字もどき』にしようかと思ったけど、一石投じる気持ちがあるから『りん子的独り言(生意気)』にします。
『調教』。
もはや本来の意味よりもSM用語としての『調教』のほうがポピュラーなんじゃないかって思うこの言葉。
鞭や緊縛のようなSM行為とされるものはもちろん、お外でスカートをめくっても調教だし、電マを使うのも調教。
フェラチオなんて、いまどき一般のセックスでも普通の行為も調教だったりする。
はたして、調教とはなんぞや!?
わたしが鞭であの世界に行かれるのも、那智さんのおしっこをおいしくいただけるのも、何も特殊能力が備わっていたわけではない。(もし、何か特殊があるとしたら、そういう行為に憧れを抱いていたという嗜好くらいかな)
すべて那智さんの訓練の賜物。
【食べ物を口移しでいただくことが基本仕様になってしまった時間】も、那智さんが仕向けてくれた。
『最高のシナリオ』で書いたように、いまわたしは那智さんが誰を抱こうが、まったく問題ない。
どうぞどうぞお好きなようにと思っている。
なんなら、何かお手伝いいたしましょうか?とさえ思う。
継続した関係は受け入れ難いけど、3Pや他の女性を好きに抱きたいと思っても、わたしは快くお手伝いするし、送り出せる。
ハプバーに行って、滅多にないけど那智さんが「あの子いいかも〜」と気に入った女性がいたら、その気になってもらえないかわたしはなんとかその女性と仲良くなろうとする。
嬉々として女性のところに行く自分を、鵜飼いの鵜だなって思うほどだ(笑)
(まあ、でも、だいたい那智さんがいいなと思う女性はハプバー初体験みたいな『慣れていない』人なので、なかなか難しい^^;)
最高のシナリオを見せてくれたおかげで(?)那智さんが誰を抱いても大丈夫、那智さんの喜びはわたしの喜び、楽しんでいただきたいと思うほど。
これって、じつはものすごい調教じゃないだろうか!!
苦痛を喜びに変えられるようになる。
できなかったことができるようになる。
那智さんの思ったようにわたしを変化させる。(鵜飼いの鵜は那智さんの思惑とは違うでしょうけど^^)
でも、これらどれを指してもわたしたちは『調教』とは呼ばない。
その時々で『訓練』とか『仕向ける』とか『育てる』とか『慣らされる』とかいう。
ということは、それぞれ概念はあるでしょうけど、結局、『調教』という言葉を使いたいか、どうかの差しかないような気がする。
ついでに、たとえば、『鞭で快感を得るようになる』ではなくて『鞭などの苦痛に耐えることが調教』なんて場合もあって、本来調教は訓練して『できるようになる』ことだと思うので、そうなると、まったく本来の意味とは違うものになっているよね。
まあ、それでも使いたいと思ったり、これが調教だと思うことが好きだということはあるでしょうし、否定しません。
ただ、自分たちの『育てる』や『訓練』と『調教』とは何が違うんだろう?って思うのだ。
鞭で飛べるわたしを見て、誰も『立派に調教されましたね』とは言わないし、『厳しい調教に耐えている』とも言ってくれない。(ホントはちょっと言ってほしい 笑)
主従に憧れているわたしはじゃっかん残念でもあるので何か違いを見つけたいと、ちょっと躍起になってみる^^;
で、辞書を引いてみた。
『動物を目的に応じて訓練すること。』
だそうだ。
うん、納得!!
ポイントは『動物』だ。
ようは『人に非ず』なわけだ。
パートナーを、奴隷さんを、M女さんを、対等ではなく人以下という位置づけをしているとしたら、調教はうなずける。
カップルの間に於いてのことで、わたしがその女性を人以下と思っているわけではありません(ここ重要です!!)
当事者以外がその女性を下に見ていい権利はないですから。
だから、カップル間に於いての位置づけとして、動物と同等、人以下である場合に『調教』という言葉を使うなら、とてもスッキリ納得です。
これならわたしたちのそれは『調教』ではないですね。
対等な人間同士、主導権を握る者と握られる者の間の訓練になるよね。
わたしにとっての『調教』の定義は、相手を動物同等(人以下)に見ている関係、もしくは、その時間だけ動物同等(人以下)の扱いを受けるコンセンサスを得ている関係の場合。
プラス、その言葉を使いたい人^^
ということで、納得です^^
いちいち辞書を引きながら生活するわけにはいかないので、本来の意味とは違う使い方をしてしまう言葉はたくさんある。
でも、もともとあった言葉、たとえば『調教』や、『奴隷』も『主従』もそうですよね、そういう言葉を用いて新しい事柄を表すとき、それがなんとなくの共通語みたいになっているとき、人は自分に都合良く解釈してしまうところがあると思う。
それはそれでぜんぜんかまわないのだけど、せめて、自分にとって重要な事柄なら、その解釈を自分なりの言葉に表せられるといいと思う。
パートナーと同じ言葉を共有するなら解釈を一致させる努力はしたほうがいいと思う。
問題や矛盾が起きたときに解決する糸口になるはずだ。
そのたったひとりの大切な相手に自分の身を任せるつもりなら、なおさら共通認識をしていたいよね。
<関連エントリー>
食べ物を口移しでいただくことが基本仕様になってしまった時間
『躾け』
鵜飼いの鵜
『週末用』
『奴隷の定義』
『M女の種類』
「等式」感想です。完璧なエントリーだね~「その通り」で、特に言うことは無いのだけれど、敢えて突っ込むとすれば、「調教」と言う言葉がSM的使用の方が一般的であると言う下りぐらいかな。
ここまで書いて、Googleしたら、エロの記述の方が上位に出ていた、でも、ネットにおけるエロの強さを考えると仕方ないこと、一般的とは言えないのでは。(笑)
今日はわたしの『調教』の定義の話です。
わたしなりの解釈なので、他の方がどう定義しようと、どう使おうと、それを否定するつもりはありません。
別にわたしは国語の先生でもないし、間違った日本語もよく使ってしまうけど、それでも、できるだけ自分の言葉で伝えたいと思っています。
だから『調教』に限らず、言葉の響きや耳障りの良さやみんなが使っているからという理由で自分で考えずに使うことへの、ちょっと抵抗もあったりします。
特に、自分にとってとても大事なことを指すならなおさら。
でね、自分で考えず使うと矛盾や疑問にぶち当たったとき思考停止に陥る危険性があって、解決するための思考が起こりにくいと思うのです。
だから、ちょっとだけ、一石投じる気持ちで。
丸投げっぽいからカテゴリは『140字もどき』にしようかと思ったけど、一石投じる気持ちがあるから『りん子的独り言(生意気)』にします。
『調教』。
もはや本来の意味よりもSM用語としての『調教』のほうがポピュラーなんじゃないかって思うこの言葉。
鞭や緊縛のようなSM行為とされるものはもちろん、お外でスカートをめくっても調教だし、電マを使うのも調教。
フェラチオなんて、いまどき一般のセックスでも普通の行為も調教だったりする。
はたして、調教とはなんぞや!?
わたしが鞭であの世界に行かれるのも、那智さんのおしっこをおいしくいただけるのも、何も特殊能力が備わっていたわけではない。(もし、何か特殊があるとしたら、そういう行為に憧れを抱いていたという嗜好くらいかな)
すべて那智さんの訓練の賜物。
【食べ物を口移しでいただくことが基本仕様になってしまった時間】も、那智さんが仕向けてくれた。
『最高のシナリオ』で書いたように、いまわたしは那智さんが誰を抱こうが、まったく問題ない。
どうぞどうぞお好きなようにと思っている。
なんなら、何かお手伝いいたしましょうか?とさえ思う。
継続した関係は受け入れ難いけど、3Pや他の女性を好きに抱きたいと思っても、わたしは快くお手伝いするし、送り出せる。
ハプバーに行って、滅多にないけど那智さんが「あの子いいかも〜」と気に入った女性がいたら、その気になってもらえないかわたしはなんとかその女性と仲良くなろうとする。
嬉々として女性のところに行く自分を、鵜飼いの鵜だなって思うほどだ(笑)
(まあ、でも、だいたい那智さんがいいなと思う女性はハプバー初体験みたいな『慣れていない』人なので、なかなか難しい^^;)
最高のシナリオを見せてくれたおかげで(?)那智さんが誰を抱いても大丈夫、那智さんの喜びはわたしの喜び、楽しんでいただきたいと思うほど。
これって、じつはものすごい調教じゃないだろうか!!
苦痛を喜びに変えられるようになる。
できなかったことができるようになる。
那智さんの思ったようにわたしを変化させる。(鵜飼いの鵜は那智さんの思惑とは違うでしょうけど^^)
でも、これらどれを指してもわたしたちは『調教』とは呼ばない。
その時々で『訓練』とか『仕向ける』とか『育てる』とか『慣らされる』とかいう。
ということは、それぞれ概念はあるでしょうけど、結局、『調教』という言葉を使いたいか、どうかの差しかないような気がする。
ついでに、たとえば、『鞭で快感を得るようになる』ではなくて『鞭などの苦痛に耐えることが調教』なんて場合もあって、本来調教は訓練して『できるようになる』ことだと思うので、そうなると、まったく本来の意味とは違うものになっているよね。
まあ、それでも使いたいと思ったり、これが調教だと思うことが好きだということはあるでしょうし、否定しません。
ただ、自分たちの『育てる』や『訓練』と『調教』とは何が違うんだろう?って思うのだ。
鞭で飛べるわたしを見て、誰も『立派に調教されましたね』とは言わないし、『厳しい調教に耐えている』とも言ってくれない。(ホントはちょっと言ってほしい 笑)
主従に憧れているわたしはじゃっかん残念でもあるので何か違いを見つけたいと、ちょっと躍起になってみる^^;
で、辞書を引いてみた。
『動物を目的に応じて訓練すること。』
だそうだ。
うん、納得!!
ポイントは『動物』だ。
ようは『人に非ず』なわけだ。
パートナーを、奴隷さんを、M女さんを、対等ではなく人以下という位置づけをしているとしたら、調教はうなずける。
カップルの間に於いてのことで、わたしがその女性を人以下と思っているわけではありません(ここ重要です!!)
当事者以外がその女性を下に見ていい権利はないですから。
だから、カップル間に於いての位置づけとして、動物と同等、人以下である場合に『調教』という言葉を使うなら、とてもスッキリ納得です。
これならわたしたちのそれは『調教』ではないですね。
対等な人間同士、主導権を握る者と握られる者の間の訓練になるよね。
わたしにとっての『調教』の定義は、相手を動物同等(人以下)に見ている関係、もしくは、その時間だけ動物同等(人以下)の扱いを受けるコンセンサスを得ている関係の場合。
プラス、その言葉を使いたい人^^
ということで、納得です^^
いちいち辞書を引きながら生活するわけにはいかないので、本来の意味とは違う使い方をしてしまう言葉はたくさんある。
でも、もともとあった言葉、たとえば『調教』や、『奴隷』も『主従』もそうですよね、そういう言葉を用いて新しい事柄を表すとき、それがなんとなくの共通語みたいになっているとき、人は自分に都合良く解釈してしまうところがあると思う。
それはそれでぜんぜんかまわないのだけど、せめて、自分にとって重要な事柄なら、その解釈を自分なりの言葉に表せられるといいと思う。
パートナーと同じ言葉を共有するなら解釈を一致させる努力はしたほうがいいと思う。
問題や矛盾が起きたときに解決する糸口になるはずだ。
そのたったひとりの大切な相手に自分の身を任せるつもりなら、なおさら共通認識をしていたいよね。
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食べ物を口移しでいただくことが基本仕様になってしまった時間
『躾け』
鵜飼いの鵜
『週末用』
『奴隷の定義』
『M女の種類』
「等式」感想です。完璧なエントリーだね~「その通り」で、特に言うことは無いのだけれど、敢えて突っ込むとすれば、「調教」と言う言葉がSM的使用の方が一般的であると言う下りぐらいかな。
ここまで書いて、Googleしたら、エロの記述の方が上位に出ていた、でも、ネットにおけるエロの強さを考えると仕方ないこと、一般的とは言えないのでは。(笑)
マグカップ
独特な幸福感
なんでも那智さんと一緒がいいわたし。
その程度たるや、おそばに置いていただきたいなんてしおらしいものとはほど遠い。
ポケットでもカバンでも、なんでもいいから小さくなって那智さんの近くにいつでもいたい。
究極は那智さんにめり込んで体の中にすっぽり入ってしまいたいほどだ。
那智さんの持ち物か一部になってしまいたいほどの同化願望。
この同化願望は、単に『願望』だけではすまされない。
実害(主に那智さんにとって?)は様々。
同化だから、那智さんにはたくさんわたしのことを知っておいてほしいし、那智さんのことはたくさん知っていたい。
誰にも義務付けられていないけど、お昼寝するときシャワー浴びるとき、お知らせする。
(これが必ず毎回じゃなくて気分でしたりしなかったりするから、よけいに厄介。)
那智さんの【タバコの回数】を肌で知っていたいし、お昼何を召し上がったか聞いてしまう。
当然、おそろいの物も持っていたい。
ただ、男女でおそろいってなかなか難しいし、わたし自身かなり【物欲のない女】なので、何か特別物を増やしておそろいにするということに、じつは消極的だったりする。
これまたしおらしいとはほど遠い厄介者でして^^;
普段使いできなきゃ意味ないし、それで快適に、かつ、一緒感の出せるおそろいの物ってあんまりないものです。
だから、いままで継続しておそろいで持っていたものは『マグカップ』くらいしかないじゃないかな。
マグカップなら、ほとんど毎日使うしから必要な物だし、わたしが選んだ好みの物を持ってもらうのもうれしいし、お仕事している那智さんといまパソコンの前にいるわたしと同じカップでコーヒー飲んでいる〜と思うことも幸せ、おそろいグッズとしては最適なのだ。
(あ、正確には二箇所あるお仕事場のひとつの方に置いてあるので、一緒確率は1/2なんだけど、あまりそのあたりは気にならない^^;)
ただ、このマグカップ、なんだか知らないけど長持ちしてくれない。
それまで那智さんは以前付き合いっていた女子大生からもらったのを使っていて、それは10年くらい壊れずにいたのに、おそろいで欲しいの付き合って1年経つか経たないかで新しいのをプレゼントしてから、この8年で5代目くらい^^;
1年半に一度のペースで壊れている。
女子大生のは10年もったのに!!(笑)
何かの力が働いていると疑念を持ってしまいそうな壊れ率だ。
とにかく、なんだかわたしたちはマグカップに縁がない。
どちらかが壊したら、新しいのをふたつ買って、そのうちもう片方の古いほうも欠けたりしてさようなら。
4代目は那智さんが先に割ってしまった。(これは、きっと身代わりになってくれたの)
急いで、次のをふたつ買って、わたしの4代目はピンチヒッターとしてときどき登場させていた。
そのうち、なんと、わたしの5代目があっさり欠けてしまったではないか!!
わーん。
ということは、那智さん5代目、わたし4代目ということになる。
なんでも一緒でいたいわたしとしてはすごーくがっかり。
朝イチのお電話で嘆いていたら
那智さんの昔のと一緒〜って思えばいいんだよ(笑)
と…。
なんとも、子供だましな慰め方なんだけど、これで納得して幸せになれてしまうわたし^^;
その日から日々、4代目マグカップでコーヒーを飲むときに呪文のように「昔の那智さんのと一緒」と唱え、幸せになっていた。
ところが!!
先日、その4代目を落として割ってしまった!!
がーーーん。
昔の那智さんと一緒のが〜;;
こうなると、那智さんは5代目が健在なわけで新しいのを購入しない限り、那智さんと一緒感を味わえなくなってしまう。
ああ、わたしのバカ。
ほぼ1年前、5代目を欠けさせてしまったときと同じように朝イチ、今度はメールで嘆く。
マグカップ割ってしまいました〜;;
昔の那智さんと同じマグカップだったのに;;
その後の那智さんの返信。
これぞ、那智さんの真骨頂!!(笑)
割ったことが同じだね〜(笑)
またまた、まったく子供だましな返答なのだけど、何でも那智さんと一緒がいい、同化願望のわたしには大喜びのひと言。
これを父性と言わずして、なんと言おう!!(いや、本当の意味の父性は、違うけど^^;)
ショックな気持ちを「やった〜、一緒〜」という幸福な気持ちに変えてくれた。
これでご機嫌になるわたしも如何なものかと、自覚しておりますので、お許しくださいませ。
『需要と供給』というエントリーに書いたように、『そうしたい人』と『それが上手な人』は必ずしも一致しないのではないだろうか。
そういった意味でいうと、那智さんは『子供扱いしたい人』ではなくて『子供扱いが上手な人』。
ときどき『りん子的独り言』などで、奴隷と依存を混同しないほうがいいのでは?と書いているけど、いつも思うんだ。
今日のようなエントリーを読んで『く〜っ』となる人はご主人様じゃなくて、お父さんを探したらいいのにねって。
わたしは、あなたに従いたいです。
どうか、わたしのお父さんになってくだいさい。
って、それにも怯まない男性は適切な依存先になってくれるのではないかと思うのです^^
<関連エントリー>
マグカップ登場してます
『思いは通じる?』
『愛のとろろ昆布』
タバコの回数知っていたい
『タバコタイム』
物欲ないのよね〜
『メリークリスマス』
「等式」感想です。もしかしたら、りん子は子供より素直かもしれないね。子供より、子供かもしれない。だって、あんな理屈で子供は喜ばないでしょ。俺のよかったね~と思う気持ちをいつも正面で受けることが出来るのは、既に才能といえるよね。
なんでも那智さんと一緒がいいわたし。
その程度たるや、おそばに置いていただきたいなんてしおらしいものとはほど遠い。
ポケットでもカバンでも、なんでもいいから小さくなって那智さんの近くにいつでもいたい。
究極は那智さんにめり込んで体の中にすっぽり入ってしまいたいほどだ。
那智さんの持ち物か一部になってしまいたいほどの同化願望。
この同化願望は、単に『願望』だけではすまされない。
実害(主に那智さんにとって?)は様々。
同化だから、那智さんにはたくさんわたしのことを知っておいてほしいし、那智さんのことはたくさん知っていたい。
誰にも義務付けられていないけど、お昼寝するときシャワー浴びるとき、お知らせする。
(これが必ず毎回じゃなくて気分でしたりしなかったりするから、よけいに厄介。)
那智さんの【タバコの回数】を肌で知っていたいし、お昼何を召し上がったか聞いてしまう。
当然、おそろいの物も持っていたい。
ただ、男女でおそろいってなかなか難しいし、わたし自身かなり【物欲のない女】なので、何か特別物を増やしておそろいにするということに、じつは消極的だったりする。
これまたしおらしいとはほど遠い厄介者でして^^;
普段使いできなきゃ意味ないし、それで快適に、かつ、一緒感の出せるおそろいの物ってあんまりないものです。
だから、いままで継続しておそろいで持っていたものは『マグカップ』くらいしかないじゃないかな。
マグカップなら、ほとんど毎日使うしから必要な物だし、わたしが選んだ好みの物を持ってもらうのもうれしいし、お仕事している那智さんといまパソコンの前にいるわたしと同じカップでコーヒー飲んでいる〜と思うことも幸せ、おそろいグッズとしては最適なのだ。
(あ、正確には二箇所あるお仕事場のひとつの方に置いてあるので、一緒確率は1/2なんだけど、あまりそのあたりは気にならない^^;)
ただ、このマグカップ、なんだか知らないけど長持ちしてくれない。
それまで那智さんは以前付き合いっていた女子大生からもらったのを使っていて、それは10年くらい壊れずにいたのに、おそろいで欲しいの付き合って1年経つか経たないかで新しいのをプレゼントしてから、この8年で5代目くらい^^;
1年半に一度のペースで壊れている。
女子大生のは10年もったのに!!(笑)
何かの力が働いていると疑念を持ってしまいそうな壊れ率だ。
とにかく、なんだかわたしたちはマグカップに縁がない。
どちらかが壊したら、新しいのをふたつ買って、そのうちもう片方の古いほうも欠けたりしてさようなら。
4代目は那智さんが先に割ってしまった。(これは、きっと身代わりになってくれたの)
急いで、次のをふたつ買って、わたしの4代目はピンチヒッターとしてときどき登場させていた。
そのうち、なんと、わたしの5代目があっさり欠けてしまったではないか!!
わーん。
ということは、那智さん5代目、わたし4代目ということになる。
なんでも一緒でいたいわたしとしてはすごーくがっかり。
朝イチのお電話で嘆いていたら
那智さんの昔のと一緒〜って思えばいいんだよ(笑)
と…。
なんとも、子供だましな慰め方なんだけど、これで納得して幸せになれてしまうわたし^^;
その日から日々、4代目マグカップでコーヒーを飲むときに呪文のように「昔の那智さんのと一緒」と唱え、幸せになっていた。
ところが!!
先日、その4代目を落として割ってしまった!!
がーーーん。
昔の那智さんと一緒のが〜;;
こうなると、那智さんは5代目が健在なわけで新しいのを購入しない限り、那智さんと一緒感を味わえなくなってしまう。
ああ、わたしのバカ。
ほぼ1年前、5代目を欠けさせてしまったときと同じように朝イチ、今度はメールで嘆く。
マグカップ割ってしまいました〜;;
昔の那智さんと同じマグカップだったのに;;
その後の那智さんの返信。
これぞ、那智さんの真骨頂!!(笑)
割ったことが同じだね〜(笑)
またまた、まったく子供だましな返答なのだけど、何でも那智さんと一緒がいい、同化願望のわたしには大喜びのひと言。
これを父性と言わずして、なんと言おう!!(いや、本当の意味の父性は、違うけど^^;)
ショックな気持ちを「やった〜、一緒〜」という幸福な気持ちに変えてくれた。
これでご機嫌になるわたしも如何なものかと、自覚しておりますので、お許しくださいませ。
『需要と供給』というエントリーに書いたように、『そうしたい人』と『それが上手な人』は必ずしも一致しないのではないだろうか。
そういった意味でいうと、那智さんは『子供扱いしたい人』ではなくて『子供扱いが上手な人』。
ときどき『りん子的独り言』などで、奴隷と依存を混同しないほうがいいのでは?と書いているけど、いつも思うんだ。
今日のようなエントリーを読んで『く〜っ』となる人はご主人様じゃなくて、お父さんを探したらいいのにねって。
わたしは、あなたに従いたいです。
どうか、わたしのお父さんになってくだいさい。
って、それにも怯まない男性は適切な依存先になってくれるのではないかと思うのです^^
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