排尿(06/12/12)
宝物
『非日常的な日常』
私はいろんな場所におしっこをする。
洗面器、ビールジョッキ、コンビにのビニール袋、紙おむつの中。
もちろん普通にトイレですることの方が多いのだけど、ほとんど全部那智さんに見てもらう、そして、拭いてもらう。
那智さんは、私におしっこを飲ませる時には「飲ませたい」「飲ませてあげる」という可愛がる感情が働いている。
では、私のおしっこをする姿をほぼ全部(お店の中とかはなしでね)見るのは、どんな感情が働いているのだろう。
本当にほぼ毎回だ。
見ていないのは、数年の付き合いで2、3回あるかないか。
タバコを吸っていても、ベッドでくつろいでいても、遅れてでも来てくれる。
くつろいでいる時などは、申し訳ないから「いいですよ、ひとりで行きますから。」ともじもじして言うけど、よいしょと腰を上げて来てくれる。
何か取り込み中の時は「まだ、ダメ」と我慢させたりもする。
それで、おしっこが出ている様子を見て、私をからかったり気持ちよくさせたりする場合もるけど、足も開かせずただ眺めていて、最後拭くだけなんてこともある。
これは、どんな感情なのでしょう。
多分、はじめのころは「恥ずかしがるりん子」を見るのが楽しかったはずだ。
現に、とても恥ずかしかった。
付き合って間もないころ「このまま一年間くらいおしっこをするところを見て拭いて、その後自分で拭かせたらどんな気持ちになると思う?」と聞かれたことがあった。
「多分、寂しいと思ってしまうと思います」と答えた。
「自分で拭くことが、恥ずかしくなるはずだよ。」というお返事。
そのときは、そうか、もっと恥ずかしくなるためにしているんだなと思った。
それは間違いではない、でも、やっぱり私の答えが私の気持ちに一番近かったと思う。
「寂しい」のだ。
見てもらえなくて、拭いてもらえないと、寂しいの。
いつからそう思うようになったのかははっきりしないけど、きっと私がそう感じるのと同じように那智さんの中でも、おしっこをする姿を見る拭くことの意味合いが変わって来ているのではないかしら。
恥ずかしがらせたいは、もちろんあるでしょうけど、「委ねさせ、委ねている」私たちの関係の象徴のような行為になっているように思う。
小さい子の世話をしているみたいな行為。
だから、毎回見る、見てあげる、とにかくチラッとでも見る(笑)
先にトイレに入っていて「そろそろ出ます〜那智さ〜ん」なんて呼ぶ(笑)
いやらしい空気ではなく、なんだか微笑ましいくらいだ。
もし私たちが夫婦だったら、そんな毎回付き合っていられませんね、なんて言ってみたり。
それでも、微笑ましくならずに、性的な空気になる時もある。
おしっこしてもいいですか?
ホテルの入って、すぐにトイレに行きたくなってしまった。
「洗面器、持って来て」
今日は洗面器なんだ。
バスルームから洗面器を持って来て、畳の上に置く。
こぼさないようにしないと。
なるべく洗面器から離れないように、腰を落として膝を閉じて、どちらかというと洗面器の上に正座に近い格好でしゃがむ。
足を広げてと言われないかぎりは、飛び散らないようにこの体勢でしよう。
体の少し前に手を付いて、僅かに前傾姿勢で洗面器の上に跨がる。
もう少しで、おしっこがでそうだ。
あっ不思議、私この体勢でおしっこをしようとしているだけなのに、どうしようとっても感じてきている。
目の前のベッドに那智さんが腰掛けてこちらを見ているだけで、猫が猫トイレにおしっこをするよな格好をしているだけで、どうしてこんなに気持ち良いのだろう。
何度となく那智さんにおしっこをする姿を見せていて、恥ずかしく嬉しく、なんだか気持ち良いと感じていたことはあるけど、こんなにはっきりと体が震えるほどに快感を覚えたことはなかった。
不思議、いつもと同じ排泄行為なのに、感情がリンクすると体の快感に跳ね上がる。
心が気持ち良いが、体が気持ち良いになる瞬間。
これって、やっぱり進化?成長?しているのかな。
那智さんのいう、快感の記憶の積み重ねなのかな。
だからといって、これから先いつもいつもおしっこするたびに、こんなになるわけじゃないから、体って不思議。
だけど、それをまた、待ち望んでしまうことだけは、確かなこと。
『非日常的な日常』
私はいろんな場所におしっこをする。
洗面器、ビールジョッキ、コンビにのビニール袋、紙おむつの中。
もちろん普通にトイレですることの方が多いのだけど、ほとんど全部那智さんに見てもらう、そして、拭いてもらう。
那智さんは、私におしっこを飲ませる時には「飲ませたい」「飲ませてあげる」という可愛がる感情が働いている。
では、私のおしっこをする姿をほぼ全部(お店の中とかはなしでね)見るのは、どんな感情が働いているのだろう。
本当にほぼ毎回だ。
見ていないのは、数年の付き合いで2、3回あるかないか。
タバコを吸っていても、ベッドでくつろいでいても、遅れてでも来てくれる。
くつろいでいる時などは、申し訳ないから「いいですよ、ひとりで行きますから。」ともじもじして言うけど、よいしょと腰を上げて来てくれる。
何か取り込み中の時は「まだ、ダメ」と我慢させたりもする。
それで、おしっこが出ている様子を見て、私をからかったり気持ちよくさせたりする場合もるけど、足も開かせずただ眺めていて、最後拭くだけなんてこともある。
これは、どんな感情なのでしょう。
多分、はじめのころは「恥ずかしがるりん子」を見るのが楽しかったはずだ。
現に、とても恥ずかしかった。
付き合って間もないころ「このまま一年間くらいおしっこをするところを見て拭いて、その後自分で拭かせたらどんな気持ちになると思う?」と聞かれたことがあった。
「多分、寂しいと思ってしまうと思います」と答えた。
「自分で拭くことが、恥ずかしくなるはずだよ。」というお返事。
そのときは、そうか、もっと恥ずかしくなるためにしているんだなと思った。
それは間違いではない、でも、やっぱり私の答えが私の気持ちに一番近かったと思う。
「寂しい」のだ。
見てもらえなくて、拭いてもらえないと、寂しいの。
いつからそう思うようになったのかははっきりしないけど、きっと私がそう感じるのと同じように那智さんの中でも、おしっこをする姿を見る拭くことの意味合いが変わって来ているのではないかしら。
恥ずかしがらせたいは、もちろんあるでしょうけど、「委ねさせ、委ねている」私たちの関係の象徴のような行為になっているように思う。
小さい子の世話をしているみたいな行為。
だから、毎回見る、見てあげる、とにかくチラッとでも見る(笑)
先にトイレに入っていて「そろそろ出ます〜那智さ〜ん」なんて呼ぶ(笑)
いやらしい空気ではなく、なんだか微笑ましいくらいだ。
もし私たちが夫婦だったら、そんな毎回付き合っていられませんね、なんて言ってみたり。
それでも、微笑ましくならずに、性的な空気になる時もある。
おしっこしてもいいですか?
ホテルの入って、すぐにトイレに行きたくなってしまった。
「洗面器、持って来て」
今日は洗面器なんだ。
バスルームから洗面器を持って来て、畳の上に置く。
こぼさないようにしないと。
なるべく洗面器から離れないように、腰を落として膝を閉じて、どちらかというと洗面器の上に正座に近い格好でしゃがむ。
足を広げてと言われないかぎりは、飛び散らないようにこの体勢でしよう。
体の少し前に手を付いて、僅かに前傾姿勢で洗面器の上に跨がる。
もう少しで、おしっこがでそうだ。
あっ不思議、私この体勢でおしっこをしようとしているだけなのに、どうしようとっても感じてきている。
目の前のベッドに那智さんが腰掛けてこちらを見ているだけで、猫が猫トイレにおしっこをするよな格好をしているだけで、どうしてこんなに気持ち良いのだろう。
何度となく那智さんにおしっこをする姿を見せていて、恥ずかしく嬉しく、なんだか気持ち良いと感じていたことはあるけど、こんなにはっきりと体が震えるほどに快感を覚えたことはなかった。
不思議、いつもと同じ排泄行為なのに、感情がリンクすると体の快感に跳ね上がる。
心が気持ち良いが、体が気持ち良いになる瞬間。
これって、やっぱり進化?成長?しているのかな。
那智さんのいう、快感の記憶の積み重ねなのかな。
だからといって、これから先いつもいつもおしっこするたびに、こんなになるわけじゃないから、体って不思議。
だけど、それをまた、待ち望んでしまうことだけは、確かなこと。
飲尿(06/12/12)
宝物
『非日常的な日常』
私はいろんな所で那智さんのおしっこを飲む。
バスルームやお部屋の中、ベッドの上。
バスルームやソファに腰掛けた那智さんの足の間に収まって飲む時は、ちょっと気が楽。
万が一こぼしても安心だから。
ソファの置いてある床が絨毯だったら、ダメだけど。
お布団の上や、那智さんがお洋服を着ているときは、汚してしまってはいけないからちょっと気を使う。
もともと、那智さんが私におしっこを飲ませるという行為は「飲ませたい」からと「あげる♪」という気持ちから発生している。
そして、それを受け入れさせることも重要。
もっというと、それを喜ぶそれに感じることが、前提。
何事においても、苦痛や恐怖の後に、喜びや快感が生まれないと、那智さんはつまらないのだ。
だから、おしっこも飲める量と判断したときに飲ませることが多い。
「はい、飲めたね、嬉しいね」
「ちょっと、多かったけど、嬉しかったね」
みたいな感じだ。
全部飲まないとお仕置きとか、便器としてのりん子とか、そういうことではないのだ。
そして、飲んだ後の私の満足そうな誇らしいような、でも照れくさそうな表情も好きらしい。
だから、無理矢理大量接種ということは、あまりしない。
それでも、最近は私もだんだん慣れてきているようで、那智さんも安心しているのかわからないけど、勢いを調整してくれない。
以前は、私の飲み込む具合を見ながら、出していてくれたけど、最近はベッドや座椅子に体を預けて「はい、おしっこ〜」と言ったっきり、勢いよくおしっこをする。
ごくごくと飲む。
自分の舌で量を調節しながら、ごくごくと飲む。
こんなときに、こぼしてはいけない場所だと、ちょっと気を使う。
基本的に飲めそうな量のときだけだから、いつも通りにごくごくとしていればいいのだけど、思いのほか量が多かったときとか、味が濃いときはちょっとつらい。
那智さんが仰向けにベッドに横になっている。
正確には少し体を斜めに傾けて、仰向け。
私は背中側から覆いかぶさるようにして、おしっこを飲む。
今日二度目のおしっこだ。
この体勢は飲みづらかった。
加えて、味が濃い。
今日のはじめのおしっこはあんまり味がなくて、「独特な幸福感」の「味覚障害」じゃなけけど、「美味しいかも」なんて思えていたのだけど、二度目は苦い味。
体勢と味のつらさで、めずらしく飲み込めず「おえ」ってこぼしそうになってしまった。
久しぶりに那智さんが勢いを調整してくれて、こぼさずに全部飲めた。
今日のは大変だったな〜、でも、全部飲めて幸せ。
「なんだか嬉しそうだよ。」
からかうように那智さんが言う。
こういうとき、ほとんど私は「うふふ」と照れ笑いをして、うつむくのだけど、時々反撃に出るときもある。
どちらも、私にとっては自然な反応だ。
このときは、ちょっと反撃モード。
「でも、那智さんはこれを喜ぶほうがいいのですよね。辛くていやいやでも『ご主人様の命令だから』って我慢して飲むよりも、嬉しそうに飲むほうがいいのですよね♪』
「まあ、そうだね。」
「じゃあ、嬉しそうでよかったですね!!」
やった、一本取った気分。
その瞬間、那智さんの手が私の下半身にのびてきた。
そして、あっという間に気持ち良くされて、私は恥ずかしい声を上げて、最後は恥ずかしくうつむく。
あ〜あ、やっぱり最後はどんな方法でも、私が「うつむく」ようになっちゃうんだ。
それが、那智さんの満足で、そうならないと終わりにならない(笑)
これが、二人のベストポジションなのでしょう。
『非日常的な日常』
私はいろんな所で那智さんのおしっこを飲む。
バスルームやお部屋の中、ベッドの上。
バスルームやソファに腰掛けた那智さんの足の間に収まって飲む時は、ちょっと気が楽。
万が一こぼしても安心だから。
ソファの置いてある床が絨毯だったら、ダメだけど。
お布団の上や、那智さんがお洋服を着ているときは、汚してしまってはいけないからちょっと気を使う。
もともと、那智さんが私におしっこを飲ませるという行為は「飲ませたい」からと「あげる♪」という気持ちから発生している。
そして、それを受け入れさせることも重要。
もっというと、それを喜ぶそれに感じることが、前提。
何事においても、苦痛や恐怖の後に、喜びや快感が生まれないと、那智さんはつまらないのだ。
だから、おしっこも飲める量と判断したときに飲ませることが多い。
「はい、飲めたね、嬉しいね」
「ちょっと、多かったけど、嬉しかったね」
みたいな感じだ。
全部飲まないとお仕置きとか、便器としてのりん子とか、そういうことではないのだ。
そして、飲んだ後の私の満足そうな誇らしいような、でも照れくさそうな表情も好きらしい。
だから、無理矢理大量接種ということは、あまりしない。
それでも、最近は私もだんだん慣れてきているようで、那智さんも安心しているのかわからないけど、勢いを調整してくれない。
以前は、私の飲み込む具合を見ながら、出していてくれたけど、最近はベッドや座椅子に体を預けて「はい、おしっこ〜」と言ったっきり、勢いよくおしっこをする。
ごくごくと飲む。
自分の舌で量を調節しながら、ごくごくと飲む。
こんなときに、こぼしてはいけない場所だと、ちょっと気を使う。
基本的に飲めそうな量のときだけだから、いつも通りにごくごくとしていればいいのだけど、思いのほか量が多かったときとか、味が濃いときはちょっとつらい。
那智さんが仰向けにベッドに横になっている。
正確には少し体を斜めに傾けて、仰向け。
私は背中側から覆いかぶさるようにして、おしっこを飲む。
今日二度目のおしっこだ。
この体勢は飲みづらかった。
加えて、味が濃い。
今日のはじめのおしっこはあんまり味がなくて、「独特な幸福感」の「味覚障害」じゃなけけど、「美味しいかも」なんて思えていたのだけど、二度目は苦い味。
体勢と味のつらさで、めずらしく飲み込めず「おえ」ってこぼしそうになってしまった。
久しぶりに那智さんが勢いを調整してくれて、こぼさずに全部飲めた。
今日のは大変だったな〜、でも、全部飲めて幸せ。
「なんだか嬉しそうだよ。」
からかうように那智さんが言う。
こういうとき、ほとんど私は「うふふ」と照れ笑いをして、うつむくのだけど、時々反撃に出るときもある。
どちらも、私にとっては自然な反応だ。
このときは、ちょっと反撃モード。
「でも、那智さんはこれを喜ぶほうがいいのですよね。辛くていやいやでも『ご主人様の命令だから』って我慢して飲むよりも、嬉しそうに飲むほうがいいのですよね♪』
「まあ、そうだね。」
「じゃあ、嬉しそうでよかったですね!!」
やった、一本取った気分。
その瞬間、那智さんの手が私の下半身にのびてきた。
そして、あっという間に気持ち良くされて、私は恥ずかしい声を上げて、最後は恥ずかしくうつむく。
あ〜あ、やっぱり最後はどんな方法でも、私が「うつむく」ようになっちゃうんだ。
それが、那智さんの満足で、そうならないと終わりにならない(笑)
これが、二人のベストポジションなのでしょう。
壊れた日(06/11/20)
宝物
『非日常的な日常』
今日は手首をひとつに束ねられ梁に吊される。
私は両手を高く上げ、全身を晒す。
以前、はじめてSMをした時に手首が痺れて一週間も取れず、その後も皮膚感覚がおかしくなってしまったという怖い思いをしたから(「惹かれ合う理由」の「はじめての旅」に書いてあります)、手首を縛られるということは私にとって不安が伴う行為だ。
梁から手首に繋がる一本の縄を束ねた両手で握り、体重を掛けても手首が締まっていかないようにする。
お湯を沸かしているから、今日も熱湯だ。
さっき湧いたばかりだから、今なら火傷してしまうかもしれない。
もちろん那智さんもそのことは承知しているから、アルミのポットからコーヒーカップに移して、少し冷ましてくてる。
自分の指をカップに入れて、まだ熱いと判断した那智さんは、更にもうひとつのカップに移し替えている。
今度は確認しないようだ。
また、スプーンですくって、私にお湯をかける。
少し、冷めすぎてしまったみたいだ。
熱いけど、我慢できる熱さなだけだ。
2、3度かけて、私の反応がいまひとつのことに気付き、改めて自分の腕にお湯を垂らしている那智さん。
案の定、熱湯ではなくなっているらしい。
「ごめんね、ぬるくなってたね。」
ポットのお湯を、注ぎ足して、また、自分で確認。
納得のいく熱さになったようだ。
私に近づいてくる。
仕切直した後は、離れたところからかけるなんて甘い行為はしてくれない。
至近距離で、私に垂らす。
胸、乳首、お腹、おまんこ、太股。
「うわあああああ」
叫び声を上げずにはいられない、熱さに身を捩る。
けれど、私はこっちのほうがいいんだ。
適度な熱さで、雰囲気で熱がるなんて、いや。
本気で熱いと、呻きたいのだ。
那智さんの手によって、翻弄されることが何よりの喜びだ。
ギリギリに追い詰められて、はじめて翻弄されるのだ。
熱湯が終わる空気で、一瞬安堵の表情を作ったことが発端なのか、それとも、最初からそのつもりだったのか、那智さんは鞭を取り出してきた。
痛いバラ鞭だ。
とても、怖い。
はじめは、正面からだ。
脇腹に巻き込む鞭の先端が、ナイフのように皮膚を痛めつける。
今日は、いつもにまして間隔は狭い、矢継ぎ早に振り下ろされる。
後ろを向かされてからは、更に容赦ない。
バラ鞭を捻って、一本の太い鞭にして打つ。
重く強い衝撃が背中に響く。
痛い。
体がよろけるほどの、衝撃だ。
立て続けに、2、3発同じ場所を狙い、今度はバラにしてその周辺を打つ。
一本分の衝撃を受けた皮膚に、今度はバラにした細かい先端が刺さる。
飛び上がるほど痛い。
同じようにお尻や太股、息つく暇もないほどに、鞭の雨を降らせてくる。
文字通り、息もできないほどだ。
痛い、痛くてたまらない、いったいいつまで続くのか、私の限界はどこにあって、誰が限界を決めるのか。
私は、多分、我慢強いほうだ。だから、いままでずっと私の限界は那智さんが決めると覚悟して、実行できていた。
那智さんのしてくれることは、幸せに繋がると思っている私は、基本的に那智さんの決めた限界まで我慢するほうが気持ち良くて幸せなんだ。
だけど、この時ばかりは、もう、限界がきているように感じてしまった。
絶え間なく、続く鞭の痛みに、叫んでも体を捩っても、どうすることもできない。
「やめて」と言えば、酷くなる。
でも、「痛すぎます」のセーフティーワードは使いたくない。
無我夢中の私は、「ごめんなさい、ごめんなさい」と叫びながら、体を回転させ那智さんの方に振り返り、後退りして訴える。
「痛すぎますは言いたくないの、だけど、もう痛くてしょうがないの!!!」
地団駄を踏んでヒステリックに泣き叫ぶ。
涙と一緒に鼻水も出ている、口を開けて叫び続けているから、微かに涎も垂れているかもしれない。
そんなことはもうどうでもいい。
何かの線が切れてしまったように、ただただ泣き叫ぶ。
那智さんが、近寄ってきて「りん子、壊れちゃったみたい」とだけ言って、肩に手を置き、また私を後ろ向きにされる。
終わりじゃないんだ。
掌で数発、靴べらで数発、一番酷く打たれた部分に追い打ちをかけるように、打つ。
もう、私の意識はどこかへ飛んでいってしまった。
痛いはずなのに、痛くない。
記憶にあるのは、目に映る壁に取り付けられていた「エアコン」、そして、重い衝撃と共に揺れる体。
涙は流れていたかもしれない、声は上げていないと思う。
すべてが、自分の外側で起きているような、不思議な感覚だ。
最後に、鞭で数発。
もう、痛みで体を捩ることはない、鞭の重みで小さくよろめくだけだ。
鞭や吊りから解放されても、私はずっと壊れたままだった。
ふわふわして、まったく現実ではない世界を漂っていた。
ぼんやりと、後処理をする那智さんに「寝ころんでいいですか?」と聞くことが精一杯。
壊れたような、飛んでいってしまったような、この非現実的な感覚を浮遊しながら、味わっていた。
この出来事は、那智さんに「新しい扉」の存在を知らしてしまった。
那智さんも、痛みで壊れて無反応になる状態ははじめてのことだったから、多少不安になって、今日はここでおしまいにしたらしい。
でも、そこに扉があって、その扉を開くことを知って、その中を覗いてしまった。
一度、経験したら、那智さんはもう不安に思わないだろう。
この次は、これから先は、確実にその中に入って行く。
那智さんによって翻弄されたい。
それが私の望みだ。
そして、幸か不幸か私は那智さんのする行為を喜べる、心と体の持ち主のようだ。
「O嬢の物語」を読んで、鞭で打たれて皮膚が裂ける場面で、感じていた私。
追い詰められたいという、持て余し気味だったこの性癖を那智さんに出会うことで、はじめて持っていて良かったと思う。
この扉は、どこに続いているのだろう。
未知の領域だ。
でも、後戻りはできないことだけは、わかっている。
『非日常的な日常』
今日は手首をひとつに束ねられ梁に吊される。
私は両手を高く上げ、全身を晒す。
以前、はじめてSMをした時に手首が痺れて一週間も取れず、その後も皮膚感覚がおかしくなってしまったという怖い思いをしたから(「惹かれ合う理由」の「はじめての旅」に書いてあります)、手首を縛られるということは私にとって不安が伴う行為だ。
梁から手首に繋がる一本の縄を束ねた両手で握り、体重を掛けても手首が締まっていかないようにする。
お湯を沸かしているから、今日も熱湯だ。
さっき湧いたばかりだから、今なら火傷してしまうかもしれない。
もちろん那智さんもそのことは承知しているから、アルミのポットからコーヒーカップに移して、少し冷ましてくてる。
自分の指をカップに入れて、まだ熱いと判断した那智さんは、更にもうひとつのカップに移し替えている。
今度は確認しないようだ。
また、スプーンですくって、私にお湯をかける。
少し、冷めすぎてしまったみたいだ。
熱いけど、我慢できる熱さなだけだ。
2、3度かけて、私の反応がいまひとつのことに気付き、改めて自分の腕にお湯を垂らしている那智さん。
案の定、熱湯ではなくなっているらしい。
「ごめんね、ぬるくなってたね。」
ポットのお湯を、注ぎ足して、また、自分で確認。
納得のいく熱さになったようだ。
私に近づいてくる。
仕切直した後は、離れたところからかけるなんて甘い行為はしてくれない。
至近距離で、私に垂らす。
胸、乳首、お腹、おまんこ、太股。
「うわあああああ」
叫び声を上げずにはいられない、熱さに身を捩る。
けれど、私はこっちのほうがいいんだ。
適度な熱さで、雰囲気で熱がるなんて、いや。
本気で熱いと、呻きたいのだ。
那智さんの手によって、翻弄されることが何よりの喜びだ。
ギリギリに追い詰められて、はじめて翻弄されるのだ。
熱湯が終わる空気で、一瞬安堵の表情を作ったことが発端なのか、それとも、最初からそのつもりだったのか、那智さんは鞭を取り出してきた。
痛いバラ鞭だ。
とても、怖い。
はじめは、正面からだ。
脇腹に巻き込む鞭の先端が、ナイフのように皮膚を痛めつける。
今日は、いつもにまして間隔は狭い、矢継ぎ早に振り下ろされる。
後ろを向かされてからは、更に容赦ない。
バラ鞭を捻って、一本の太い鞭にして打つ。
重く強い衝撃が背中に響く。
痛い。
体がよろけるほどの、衝撃だ。
立て続けに、2、3発同じ場所を狙い、今度はバラにしてその周辺を打つ。
一本分の衝撃を受けた皮膚に、今度はバラにした細かい先端が刺さる。
飛び上がるほど痛い。
同じようにお尻や太股、息つく暇もないほどに、鞭の雨を降らせてくる。
文字通り、息もできないほどだ。
痛い、痛くてたまらない、いったいいつまで続くのか、私の限界はどこにあって、誰が限界を決めるのか。
私は、多分、我慢強いほうだ。だから、いままでずっと私の限界は那智さんが決めると覚悟して、実行できていた。
那智さんのしてくれることは、幸せに繋がると思っている私は、基本的に那智さんの決めた限界まで我慢するほうが気持ち良くて幸せなんだ。
だけど、この時ばかりは、もう、限界がきているように感じてしまった。
絶え間なく、続く鞭の痛みに、叫んでも体を捩っても、どうすることもできない。
「やめて」と言えば、酷くなる。
でも、「痛すぎます」のセーフティーワードは使いたくない。
無我夢中の私は、「ごめんなさい、ごめんなさい」と叫びながら、体を回転させ那智さんの方に振り返り、後退りして訴える。
「痛すぎますは言いたくないの、だけど、もう痛くてしょうがないの!!!」
地団駄を踏んでヒステリックに泣き叫ぶ。
涙と一緒に鼻水も出ている、口を開けて叫び続けているから、微かに涎も垂れているかもしれない。
そんなことはもうどうでもいい。
何かの線が切れてしまったように、ただただ泣き叫ぶ。
那智さんが、近寄ってきて「りん子、壊れちゃったみたい」とだけ言って、肩に手を置き、また私を後ろ向きにされる。
終わりじゃないんだ。
掌で数発、靴べらで数発、一番酷く打たれた部分に追い打ちをかけるように、打つ。
もう、私の意識はどこかへ飛んでいってしまった。
痛いはずなのに、痛くない。
記憶にあるのは、目に映る壁に取り付けられていた「エアコン」、そして、重い衝撃と共に揺れる体。
涙は流れていたかもしれない、声は上げていないと思う。
すべてが、自分の外側で起きているような、不思議な感覚だ。
最後に、鞭で数発。
もう、痛みで体を捩ることはない、鞭の重みで小さくよろめくだけだ。
鞭や吊りから解放されても、私はずっと壊れたままだった。
ふわふわして、まったく現実ではない世界を漂っていた。
ぼんやりと、後処理をする那智さんに「寝ころんでいいですか?」と聞くことが精一杯。
壊れたような、飛んでいってしまったような、この非現実的な感覚を浮遊しながら、味わっていた。
この出来事は、那智さんに「新しい扉」の存在を知らしてしまった。
那智さんも、痛みで壊れて無反応になる状態ははじめてのことだったから、多少不安になって、今日はここでおしまいにしたらしい。
でも、そこに扉があって、その扉を開くことを知って、その中を覗いてしまった。
一度、経験したら、那智さんはもう不安に思わないだろう。
この次は、これから先は、確実にその中に入って行く。
那智さんによって翻弄されたい。
それが私の望みだ。
そして、幸か不幸か私は那智さんのする行為を喜べる、心と体の持ち主のようだ。
「O嬢の物語」を読んで、鞭で打たれて皮膚が裂ける場面で、感じていた私。
追い詰められたいという、持て余し気味だったこの性癖を那智さんに出会うことで、はじめて持っていて良かったと思う。
この扉は、どこに続いているのだろう。
未知の領域だ。
でも、後戻りはできないことだけは、わかっている。
浮気の定義(06/09/09)
宝物
『独特な幸福感』
私が浮気をしたら、那智さんはきっぱりと「別れる」と言っている。
もちろん浮気の理由は聞いてくれるそうだけど、おそらく許せる理由は見つからないだろうということだ。
そこまで手をかけているという自負があるのだろう。
もちろんいままで浮気はしていない。
する気もないけれど、浮気しないで済んでいるという方が正しい。
なぜ「しないで済んでいる」が正しいかというと、那智さんが私に示す浮気の線引きが、冗談みたいに理不尽だからだ。
「この人に抱かれたい。抱かれてもいい。抱かれてみたい。」そう思った時点で浮気になるそうだ!!
「抱かれたらどうだろう?」という想像までは大丈夫。
その結果次第で浮気になってしまう可能性はありますが。
どうですか?
理不尽でしょ?
当然、那智さん側にはそんな定義は存在しないわけで、したければするのです。
現に一度水商売のお姉さんとホテルに行ったことだってある。
幸か不幸か未遂に終わって、それ以来はないはずなのですが…。
その気にならないということらしい。
とても勝手な定義だとは思うけど、「できるけど、したいと思わないからしない」というのは幸せかもしれない。
私が良いと解釈できるからだ。
「どうぞ、浮気してみてください♪きっとつまらないですよ〜」と虚勢を張って思ってみる。
過去の話であんなにやきもち焼いてるくせになぜか自信たっぷり。
で、私の方ですが、知り合ってから幸い「抱かれたい」思ったことはない。
知り合った当初は覚えていないけれど、少なくともその線引きを提示されてからは一度もない。
お酒の席で10代の男の子にオヤジのように「ウリウリ」とお酌して喜んだりはあるけれど「抱く」とは違う感覚だ。
ただ一回だけ怪しい時があった。
子供の微熱が何日も下がらす小児科や内科にかかっても「風邪だ」「扁桃腺だ」と診断はされるものの一向に良くならない。
困り果てて、子供が鼻炎でお世話になっている耳鼻科にかかる。
その先生は「アレルギー性鼻炎からくる微熱だ」と丁寧に説明してくれた。
風邪や扁桃腺の腫れと言われていた私はもうどうして良いかわからず、思わず「私は何を信じれば良いのでしょう。」とため息をついてしまった。
「僕を信じればいいのですよ。」
静かに、でもきっぱりと先生が言い切ったとき、胸が「きゅん」となってしまったのだ。
困ったときに示される断定は、ちょっとかっこいい♪と思ってしまった。
那智さんと付き合って唯一「きゅん」となった経験だ。
それ以外はない。
でも抱かれたいなんては思っていないから、浮気じゃないですよね!
抱かれたいなんて感情が起こらなくて良かった〜。
私の人生にまったく関わりない耳鼻科医さんのせいで、棒に振るわけにはいかないもの♪
それにしても理不尽な線引きだ。
それにヒヤヒヤしている私もどうかと思いますが。
『独特な幸福感』
私が浮気をしたら、那智さんはきっぱりと「別れる」と言っている。
もちろん浮気の理由は聞いてくれるそうだけど、おそらく許せる理由は見つからないだろうということだ。
そこまで手をかけているという自負があるのだろう。
もちろんいままで浮気はしていない。
する気もないけれど、浮気しないで済んでいるという方が正しい。
なぜ「しないで済んでいる」が正しいかというと、那智さんが私に示す浮気の線引きが、冗談みたいに理不尽だからだ。
「この人に抱かれたい。抱かれてもいい。抱かれてみたい。」そう思った時点で浮気になるそうだ!!
「抱かれたらどうだろう?」という想像までは大丈夫。
その結果次第で浮気になってしまう可能性はありますが。
どうですか?
理不尽でしょ?
当然、那智さん側にはそんな定義は存在しないわけで、したければするのです。
現に一度水商売のお姉さんとホテルに行ったことだってある。
幸か不幸か未遂に終わって、それ以来はないはずなのですが…。
その気にならないということらしい。
とても勝手な定義だとは思うけど、「できるけど、したいと思わないからしない」というのは幸せかもしれない。
私が良いと解釈できるからだ。
「どうぞ、浮気してみてください♪きっとつまらないですよ〜」と虚勢を張って思ってみる。
過去の話であんなにやきもち焼いてるくせになぜか自信たっぷり。
で、私の方ですが、知り合ってから幸い「抱かれたい」思ったことはない。
知り合った当初は覚えていないけれど、少なくともその線引きを提示されてからは一度もない。
お酒の席で10代の男の子にオヤジのように「ウリウリ」とお酌して喜んだりはあるけれど「抱く」とは違う感覚だ。
ただ一回だけ怪しい時があった。
子供の微熱が何日も下がらす小児科や内科にかかっても「風邪だ」「扁桃腺だ」と診断はされるものの一向に良くならない。
困り果てて、子供が鼻炎でお世話になっている耳鼻科にかかる。
その先生は「アレルギー性鼻炎からくる微熱だ」と丁寧に説明してくれた。
風邪や扁桃腺の腫れと言われていた私はもうどうして良いかわからず、思わず「私は何を信じれば良いのでしょう。」とため息をついてしまった。
「僕を信じればいいのですよ。」
静かに、でもきっぱりと先生が言い切ったとき、胸が「きゅん」となってしまったのだ。
困ったときに示される断定は、ちょっとかっこいい♪と思ってしまった。
那智さんと付き合って唯一「きゅん」となった経験だ。
それ以外はない。
でも抱かれたいなんては思っていないから、浮気じゃないですよね!
抱かれたいなんて感情が起こらなくて良かった〜。
私の人生にまったく関わりない耳鼻科医さんのせいで、棒に振るわけにはいかないもの♪
それにしても理不尽な線引きだ。
それにヒヤヒヤしている私もどうかと思いますが。
満足と嫌い(06/08/28)
宝物
『独特な幸福感』
「次回は『工場でちょっと露出』」なんて言っておきながら、なんだかその気分になれないので、軽い話題でお茶を濁します。
「非日常的な日常」の「矛盾は辛い」で触れましたが、那智さんは、はしたなく感じる私を作り出したいくせに、作り出したときに数%嫌いになるそうです。
この矛盾は、けっこう辛い。
だって、世界中で一番可愛いと、好きだと思ってもらいたい人に、数%嫌われる。
しかも、数%嫌いになるくらいはしたなくなるまで続けられるのです。
「少しでも、嫌われたくない。」
「でも、どうしようもないくらい気持ちがいい。」
「ああ、もう嫌われてもしょうがない〜」
って、なるのです。
自分でVTRを取っているわけじゃないから、感覚なんだけど、「昨日の私は多分凄かったかも・・」という日は、恐る恐る聞いてしまう。
「昨日の私は何%嫌いでしたか?」
そうすると、答えはその時々で違う。
「10%くらいかな・・」
「ちょっとね〜。」
「昨日は、そんな風に思わなかったな。」
などなど。
その都度一喜一憂する私に、「嫌いになる分、満足も大きいんだから、いいでしょ。この満足も得がたいものなんだよ。」となぐさめの言葉をかけてくれますが、やっぱり僅かでも嫌いはいやです。
だったら大満足なんていらないなんて言ってみるけれど、那智さんが大満足を得られることも、捨てがたい。
しかも、嫌われるようなときは、それはそれは気持ち良いのだ。
数年の付き合いで、嫌いになりやすいことと、意外と平気なことの、に違いがあるように思えてきた。
前者は、いわゆるセックスですごーく感じているときで、後者は、縛ったり叩いたり那智さんが施すことで感じてしまうとき(その延長戦上にあるセックスは大丈夫)。
(補足ですが、「いわゆるセックス」でも、乳首をつねったりなんていうのはあるんですけど)
那智さんの上に跨って、激しく腰を振ることを覚えたころなどは、おそらく前者の代表だったのではないだろうか。
ところが最近変化が起こっているような気がする。
質問の答えがだいたい「嫌いになっていないな〜。」なのだ。
何度か試すように確認するけど、同じ答え。
もしかしたら「わんこ」になったときのように、すべてを許してくれているの?
それは、嬉しいことだ。
大好きな人に気持ち良くさせられて、他の人が見たら目を背けたくなるような私になって、それを嫌いにならないでいてもらえる。(欲を言えば、その私を喜んでもらいたい)
これは、とても嬉しいこと。
確信を持ちたくて、思い切って聞いてみる。
「那智さん、最近嫌いにならないみたいですよね。」
「そうだね。」
「なぜだと思います?」
「・・・慣れたんじゃない。」
「愛情が深くなった」なんて甘い答えを期待していた私は、拍子抜け。
それでも、「愛が増えたからとか?」とかなんとか、もう少し食い下がってみる。
「だって、最初の頃より愛は増えていますよね?!変わっているとするならば、その点では?」
「うん、でも、実は最初すぐよりも、しばらくして(今までの時間の中間辺りね)からの方が、嫌いがあったかな。あの頃、覚え初めでよく感じていただろ?」
私としては、中間の頃より今のほうが感じている。
私は「遠くに行く」快感を、普通のセックスでは得られないから、それを得られる最近のほうが感じると認識していた。
だから「今のほうが、感じていますよ。感じ方の種類は違うけど。」と伝える。
この辺りが答えになりそうだ。
「そうだね。感じ方の種類で、そう思うのかもね。」
やっぱり、那智さんは「大して手を掛けていないのに、セックスではしたなくなる私」は嫌いになりやすいみたいだ。
いまでも普通に抱かれて感じることには変わりないけど、あの出会ってしばらくした頃の「発情した猿」のよう状態とは、違うのだろう。
そりゃ、猿は嫌よね。
「わんこ」なんて可愛く言っているのが、照れ臭いです(笑)
だから、正直にお伝えしました。
「そうでしたね。あの頃の私は猿でした(泣)」
嫌いにならない分、満足度も最高潮ではないのか、今度聞いてみよう。
満足度が高くて、嫌いも少しと、嫌いじゃないけど満足もそこそこ、だったら私はどちらを選ぶでしょう(選べるものじゃないけど)
満足も、大好きそんなりん子が見たい(嫌いじゃない)も両方手に入れよう!!
『独特な幸福感』
「次回は『工場でちょっと露出』」なんて言っておきながら、なんだかその気分になれないので、軽い話題でお茶を濁します。
「非日常的な日常」の「矛盾は辛い」で触れましたが、那智さんは、はしたなく感じる私を作り出したいくせに、作り出したときに数%嫌いになるそうです。
この矛盾は、けっこう辛い。
だって、世界中で一番可愛いと、好きだと思ってもらいたい人に、数%嫌われる。
しかも、数%嫌いになるくらいはしたなくなるまで続けられるのです。
「少しでも、嫌われたくない。」
「でも、どうしようもないくらい気持ちがいい。」
「ああ、もう嫌われてもしょうがない〜」
って、なるのです。
自分でVTRを取っているわけじゃないから、感覚なんだけど、「昨日の私は多分凄かったかも・・」という日は、恐る恐る聞いてしまう。
「昨日の私は何%嫌いでしたか?」
そうすると、答えはその時々で違う。
「10%くらいかな・・」
「ちょっとね〜。」
「昨日は、そんな風に思わなかったな。」
などなど。
その都度一喜一憂する私に、「嫌いになる分、満足も大きいんだから、いいでしょ。この満足も得がたいものなんだよ。」となぐさめの言葉をかけてくれますが、やっぱり僅かでも嫌いはいやです。
だったら大満足なんていらないなんて言ってみるけれど、那智さんが大満足を得られることも、捨てがたい。
しかも、嫌われるようなときは、それはそれは気持ち良いのだ。
数年の付き合いで、嫌いになりやすいことと、意外と平気なことの、に違いがあるように思えてきた。
前者は、いわゆるセックスですごーく感じているときで、後者は、縛ったり叩いたり那智さんが施すことで感じてしまうとき(その延長戦上にあるセックスは大丈夫)。
(補足ですが、「いわゆるセックス」でも、乳首をつねったりなんていうのはあるんですけど)
那智さんの上に跨って、激しく腰を振ることを覚えたころなどは、おそらく前者の代表だったのではないだろうか。
ところが最近変化が起こっているような気がする。
質問の答えがだいたい「嫌いになっていないな〜。」なのだ。
何度か試すように確認するけど、同じ答え。
もしかしたら「わんこ」になったときのように、すべてを許してくれているの?
それは、嬉しいことだ。
大好きな人に気持ち良くさせられて、他の人が見たら目を背けたくなるような私になって、それを嫌いにならないでいてもらえる。(欲を言えば、その私を喜んでもらいたい)
これは、とても嬉しいこと。
確信を持ちたくて、思い切って聞いてみる。
「那智さん、最近嫌いにならないみたいですよね。」
「そうだね。」
「なぜだと思います?」
「・・・慣れたんじゃない。」
「愛情が深くなった」なんて甘い答えを期待していた私は、拍子抜け。
それでも、「愛が増えたからとか?」とかなんとか、もう少し食い下がってみる。
「だって、最初の頃より愛は増えていますよね?!変わっているとするならば、その点では?」
「うん、でも、実は最初すぐよりも、しばらくして(今までの時間の中間辺りね)からの方が、嫌いがあったかな。あの頃、覚え初めでよく感じていただろ?」
私としては、中間の頃より今のほうが感じている。
私は「遠くに行く」快感を、普通のセックスでは得られないから、それを得られる最近のほうが感じると認識していた。
だから「今のほうが、感じていますよ。感じ方の種類は違うけど。」と伝える。
この辺りが答えになりそうだ。
「そうだね。感じ方の種類で、そう思うのかもね。」
やっぱり、那智さんは「大して手を掛けていないのに、セックスではしたなくなる私」は嫌いになりやすいみたいだ。
いまでも普通に抱かれて感じることには変わりないけど、あの出会ってしばらくした頃の「発情した猿」のよう状態とは、違うのだろう。
そりゃ、猿は嫌よね。
「わんこ」なんて可愛く言っているのが、照れ臭いです(笑)
だから、正直にお伝えしました。
「そうでしたね。あの頃の私は猿でした(泣)」
嫌いにならない分、満足度も最高潮ではないのか、今度聞いてみよう。
満足度が高くて、嫌いも少しと、嫌いじゃないけど満足もそこそこ、だったら私はどちらを選ぶでしょう(選べるものじゃないけど)
満足も、大好きそんなりん子が見たい(嫌いじゃない)も両方手に入れよう!!