存在だけでうれしい
独り言
『拍手』と『拍手コメント』。
これは、コメントするほどでもないけど拍手の気持ちになってくれたり、レスは必要ないけどちょっと言いたいなんていうときに使っていると思う。
もしかしたら『読んだよ』の印を付けてくれているのかもしれない。
拍手にコメントをいただければどなたがどのエントリーにくれたのかわかるんだけど、拍手だけだとそれはわからないんだよね。
どなたかな〜と知りたい気持ちはあるけれど、拍手をくれたことだけでも嬉しい。
ただ、たとえば最新や直近のエントリーの拍手数は変わらないのに、その日の拍手数が増えていることがあると、過去のどのエントリーを読んでポチッとしてくれたのかな〜と、とても知ってみたいと思っていた。
それが,最近(というか、いまごろになって?)どのエントリーに拍手をつけてくれたのかわかる方法を知ったのです。
それを使ってみると。
拍手をくれた過去エントリーのタイトルが表示される。
だいたいタイトルを見ればどんな内容だったか思い出せる。
ピンと来なければ飛んで確認してみる。
ここしばらくそういうひっそりと拍手をくれた数が多かったから、どのエントリーを読んでくださったのかわかるようになって、とてもうれしい。
同じ人かどうかわからないけど、その人(たち)の足跡をそーっとなぞっているみたいで静かな共感をひとり楽しんでいました。
ありがとうございます。
ときどき感想などいただけると嬉しいです。
基本的に拍手コメントや鍵コメにはレスをしないことにしているので(『はじめまして』をお読みください)、非公開でレスが必要な場合はメールでお知らせくださいね。
『一杯やりましょう^^』なんていうのもね^^
コメントをいただくと携帯に通知が来るのだけど、旧ブログのそれらを少し整理していました。
どれもわたしの宝物。
会ったことがある人は名前と顔、会ったことがない人は名前と人柄、それぞれ思い浮かべる。
不思議だよね。
こういう人がいて、こんなお話して。
その人が『いる(もしくは、いた)』というだけで、なんとなく心が温かくなる。
『元気かな、元気でいるといいな』と思える人がいることはとても幸せだ。
那智さんからの『おはよう』はわたしのエネルギー。
その後お話しできなくても繋がっているという事実はわたしを安心させてくれる。
24時間いつでも送っていいアドレスもあるんだけど、実際そこにいてくれるということは贅沢だとしてもやっぱり格段にうれしい。
『おはよう』メールが届くと、もう、尻尾ぶんぶん、クチバシちゅんちゅん(わんこと文鳥ミックス^^)、おしっこチビってしまう勢いで喜ぶ。
血液の流れる速度がイキイキして、汚れたメガネを拭いたように景色が明るくなる。
『変わらない』は那智さんの信条だけど、おそらく8年以上も変わらずにいてくれるのは日々おしっこチビリそうなほどメールを喜ぶ女がいるからだと、ちょっぴり自負している。
ただこのおしっこチビリは可愛いといえば可愛いけど、厄介といえば厄介。
なぜなら、プラスに振れる量が大きいということはマイナスに振れるのだって大きいからだ。
例えば。
本当は『おはよう』できるはずなのに、し忘れてたり〜、何か別の用事をしていて後回しになっていたり〜、と本来もらえる時間よりも遅くなってしまったりする。
ううん、基本的に普段メールもらえる時間帯にないと『タイミング悪いのかな』とか思えるのだけど、例えばちょっとしか繋がれないとわかっているたきなんかに『ごめん、忘れてた。おはよう』なんてくれちゃった日には!!
うわあ、ホントはもっと早く『おはよう』だったの!?
ということは、わたしは何分損をしたの!?
あああ、あと一生のうちに何万分繋がれるかわからないのに、そのうちの何十分損をしたの〜〜〜〜(これはさすがに大げさだけど^^;)
どどーーんと落ち込む。
メールをしなかった那智さんを責めたくなる。
『おはよう』の重要性は何度か伝えてるのだけどたまーに抜けちゃうらしいのだ。
だから、その都度諦めず、如何に那智さんからのメールがわたしにとって幸福をもたらしてくれるかお伝えする。
ここは『素直』に。
メールを忘れるのはわたしのことが好きじゃないからだ
と拗ねず
じゃあ、もういい!!メールなんていらない!!
とへそを曲げず
別にメールなくても平気ですよ
と冷めた態度を取らず
ただ、『寂しかった』と伝えるのだ。
そしてもうひとつ大事なことも付け加える。
那智さん。
あなたからのメールが生き甲斐くらいに思うわたしがいいなら、メールが遅れてこの世の終わりのようにガッカリすることもしかたがないと思ってくださいね。
メール忘れちゃったんだ〜、まあ、そういうこともありますよね^^なんて平気な人は、メールにおしっこチビッたりしないものです!!
そうなったら淋しいでしょ^^
と。
そう思いません?
あなたが生き甲斐と尻尾ぶんぶんさせたいなら、メールを忘れられて海より深く落ち込むことも許容しないといけない。
物事は正負両方あるもの。
だから落ち込むことは仕方がないのです。
と、お伝え申し上げる(笑)
最近は、ずいぶん浮上する思考回路ができていて以前より早く浮上できるようにはなったと思うけど、それでも落ち込むことと、その深さは、たぶん8年間、ほとんど変わっていない(笑)
でもって、かならず悲しかったことを一言でも伝えないと浮上できないので、たぶんわたしはずっとそういう女だ^^;
那智さん以外の人には『元気かな』と思えるだけで幸せなんて思えるのにねぇ。
恋愛感情は人から思慮深さを奪うものなのかもしれないね^^;
今朝の「等式」感想です。
おはようコールを薬で考えるとその「効果・効用」と、「副作用」があるのですよ。副作用は投薬する時間を間違えると副作用が起こる、しかし、投薬時間の変更を事前通告しておけば問題ないし、投薬できない、理由があれば問題ないのですが、嘘は付かないとの原則があるので、「忘れた」と言わなきゃいけない。(笑)
この件でりん子の言うことに無理がない、筋が通っている。私自身が、りん子に対し出来る事と、出来ないことがあるよねと、よく言いました。(今は当然のお互いの認識になっていますが)
『拍手』と『拍手コメント』。
これは、コメントするほどでもないけど拍手の気持ちになってくれたり、レスは必要ないけどちょっと言いたいなんていうときに使っていると思う。
もしかしたら『読んだよ』の印を付けてくれているのかもしれない。
拍手にコメントをいただければどなたがどのエントリーにくれたのかわかるんだけど、拍手だけだとそれはわからないんだよね。
どなたかな〜と知りたい気持ちはあるけれど、拍手をくれたことだけでも嬉しい。
ただ、たとえば最新や直近のエントリーの拍手数は変わらないのに、その日の拍手数が増えていることがあると、過去のどのエントリーを読んでポチッとしてくれたのかな〜と、とても知ってみたいと思っていた。
それが,最近(というか、いまごろになって?)どのエントリーに拍手をつけてくれたのかわかる方法を知ったのです。
それを使ってみると。
拍手をくれた過去エントリーのタイトルが表示される。
だいたいタイトルを見ればどんな内容だったか思い出せる。
ピンと来なければ飛んで確認してみる。
ここしばらくそういうひっそりと拍手をくれた数が多かったから、どのエントリーを読んでくださったのかわかるようになって、とてもうれしい。
同じ人かどうかわからないけど、その人(たち)の足跡をそーっとなぞっているみたいで静かな共感をひとり楽しんでいました。
ありがとうございます。
ときどき感想などいただけると嬉しいです。
基本的に拍手コメントや鍵コメにはレスをしないことにしているので(『はじめまして』をお読みください)、非公開でレスが必要な場合はメールでお知らせくださいね。
『一杯やりましょう^^』なんていうのもね^^
コメントをいただくと携帯に通知が来るのだけど、旧ブログのそれらを少し整理していました。
どれもわたしの宝物。
会ったことがある人は名前と顔、会ったことがない人は名前と人柄、それぞれ思い浮かべる。
不思議だよね。
こういう人がいて、こんなお話して。
その人が『いる(もしくは、いた)』というだけで、なんとなく心が温かくなる。
『元気かな、元気でいるといいな』と思える人がいることはとても幸せだ。
那智さんからの『おはよう』はわたしのエネルギー。
その後お話しできなくても繋がっているという事実はわたしを安心させてくれる。
24時間いつでも送っていいアドレスもあるんだけど、実際そこにいてくれるということは贅沢だとしてもやっぱり格段にうれしい。
『おはよう』メールが届くと、もう、尻尾ぶんぶん、クチバシちゅんちゅん(わんこと文鳥ミックス^^)、おしっこチビってしまう勢いで喜ぶ。
血液の流れる速度がイキイキして、汚れたメガネを拭いたように景色が明るくなる。
『変わらない』は那智さんの信条だけど、おそらく8年以上も変わらずにいてくれるのは日々おしっこチビリそうなほどメールを喜ぶ女がいるからだと、ちょっぴり自負している。
ただこのおしっこチビリは可愛いといえば可愛いけど、厄介といえば厄介。
なぜなら、プラスに振れる量が大きいということはマイナスに振れるのだって大きいからだ。
例えば。
本当は『おはよう』できるはずなのに、し忘れてたり〜、何か別の用事をしていて後回しになっていたり〜、と本来もらえる時間よりも遅くなってしまったりする。
ううん、基本的に普段メールもらえる時間帯にないと『タイミング悪いのかな』とか思えるのだけど、例えばちょっとしか繋がれないとわかっているたきなんかに『ごめん、忘れてた。おはよう』なんてくれちゃった日には!!
うわあ、ホントはもっと早く『おはよう』だったの!?
ということは、わたしは何分損をしたの!?
あああ、あと一生のうちに何万分繋がれるかわからないのに、そのうちの何十分損をしたの〜〜〜〜(これはさすがに大げさだけど^^;)
どどーーんと落ち込む。
メールをしなかった那智さんを責めたくなる。
『おはよう』の重要性は何度か伝えてるのだけどたまーに抜けちゃうらしいのだ。
だから、その都度諦めず、如何に那智さんからのメールがわたしにとって幸福をもたらしてくれるかお伝えする。
ここは『素直』に。
メールを忘れるのはわたしのことが好きじゃないからだ
と拗ねず
じゃあ、もういい!!メールなんていらない!!
とへそを曲げず
別にメールなくても平気ですよ
と冷めた態度を取らず
ただ、『寂しかった』と伝えるのだ。
そしてもうひとつ大事なことも付け加える。
那智さん。
あなたからのメールが生き甲斐くらいに思うわたしがいいなら、メールが遅れてこの世の終わりのようにガッカリすることもしかたがないと思ってくださいね。
メール忘れちゃったんだ〜、まあ、そういうこともありますよね^^なんて平気な人は、メールにおしっこチビッたりしないものです!!
そうなったら淋しいでしょ^^
と。
そう思いません?
あなたが生き甲斐と尻尾ぶんぶんさせたいなら、メールを忘れられて海より深く落ち込むことも許容しないといけない。
物事は正負両方あるもの。
だから落ち込むことは仕方がないのです。
と、お伝え申し上げる(笑)
最近は、ずいぶん浮上する思考回路ができていて以前より早く浮上できるようにはなったと思うけど、それでも落ち込むことと、その深さは、たぶん8年間、ほとんど変わっていない(笑)
でもって、かならず悲しかったことを一言でも伝えないと浮上できないので、たぶんわたしはずっとそういう女だ^^;
那智さん以外の人には『元気かな』と思えるだけで幸せなんて思えるのにねぇ。
恋愛感情は人から思慮深さを奪うものなのかもしれないね^^;
今朝の「等式」感想です。
おはようコールを薬で考えるとその「効果・効用」と、「副作用」があるのですよ。副作用は投薬する時間を間違えると副作用が起こる、しかし、投薬時間の変更を事前通告しておけば問題ないし、投薬できない、理由があれば問題ないのですが、嘘は付かないとの原則があるので、「忘れた」と言わなきゃいけない。(笑)
この件でりん子の言うことに無理がない、筋が通っている。私自身が、りん子に対し出来る事と、出来ないことがあるよねと、よく言いました。(今は当然のお互いの認識になっていますが)
バカ^^
りん子的独り言(エラそう)
那智さん、ひとりのお仕事場。
一緒にお仕事をしているおばさまは出先からの出社なので午後からだそう。
こういうときは状況が許せば電話で繋がってくれる(通話無料さまさまです)
このおばさま、どうやら人付き合いに於いて固定観念を持ってしまう人のようで、最初の那智さんの印象がよくなかったのか、長いこと困った人だったようだ。
何かというとそのときの機嫌で左右したり、もしかしたらほんの少し那智さんを敵視していたくらいなんじゃないだろうか。
那智さんは円滑に物事を進めるように努めはしても、心にもないお世辞を言ったりご機嫌を取ったりしない人だ。
わたしはビジネスパートナーとしてあなたと上手くやっていきたい。
個人的な感情は置いておいても、ビジネスパートナーとしてあたなに悪意は持っていない。
おそらく心にもないお世辞を言ったりご機嫌を取ったりすることは那智さんにとっては『ビジネスパートナー』として真摯な付き合い方ではないのでしょうね。
お世辞やおべんちゃらを言うことは相手に嘘をついていることになって、長い目で見れば信頼を遠ざけていることになるというスタンスの人なのだ。
こういうスタンス、実はあまり即効性はない。
長い時間かけてゆっくり氷を溶かすように、野良猫の警戒心を解くように、似たようなことを何度の繰り返して、この人の言っていることに嘘はないと思えるようになるのだろう。
なかなか手強いおばさまで手を焼いていたようなんだけど、わたしが日頃『女は共感したいのだ!!』と訴えていることが役に立っているようで、最近はずいぶん仕事をしやすくなっているそうなのです。
(まあ、それはひとつのテクニックに過ぎなくて、結局は那智さんの付き合い方の力だと思う。相手に仕事で成果をあげる面白さをわかってもらうようにして、一緒に仕事をすることで利益があることを伝え続けたっていってたしね)
おばさまの世間話に共感。
『○○のケーキおいしいのよ〜』と聞けば、それを見かけたら買ってみて『おいしかったですよ〜』や『私は○味のほうがよかったな〜』とかとにかく共感。
(この場合、同じものをおいしいと言わなくてもいいのだ。○○のケーキの共有で充分^^)
また別の機会にたまたま見つけたらお土産に買っていく。
こんな些細な共感の積み重ねをしているとおばさまの固定観念も徐々に変化していったそうで、いまは随分仕事がやりやすくなったようだ。
たしかに、平日代休を取ってデートしていると、おばさまからの業務連絡の電話が以前より頻繁になっている気がするし、携帯から漏れ聞こえる声のトーンが前の刺々しいものではなくなって、なんだか半音上がっているようにさえ感じる。(このあたりは、わたしのヤキモチで多少割増し^^)
まあ、とにかく、那智さんがお仕事をしやすくなったのだから、わたしも大喜びだ^^
わたしの訴えていたことがお役に立てたのだから、より嬉しい^^
無料通話で時々話したり、お仕事したり。
おばさまがいない時間を幸せに過ごしていた。
なぁ、りん子、これどう思う?
『○○で迷ってしまい、なかなか駅に辿りつけず、いまやっと着きました。これから○線に乗って出勤します。』だって
おばさまから出勤予定を知らせる連絡があったのだ。
なんでですか?帰社時間がある程度読めたら報告するのはいいことじゃないですか?
でもさ。
時間を知らせるだけでいいんだから、『○○で迷って』なんて必要ないだろ?
なるほどね〜。
業務連絡に雑談は必要ないってわけですね^^
でもそれは彼女なりの気遣いかもしれませんよ、話題提供(笑)
わかるけどさ〜
俺、なんて返事すりゃあいいの?
ちょうどいい、りん子だったらどうする?
共感推進派のわたしに意見を聞いているのですね。
『それは大変でしたね。電車でゆっくりできるといいですね〜』(無理!!)
『○○はちょっと通路が複雑ですからね、私も最初は迷いましたよ。』(そんなこと言うの!?)
結局、そんな女心をくすぐる(?)返信はさすがにできず『お疲れ様です〜』と苦肉の策で『〜』だけ付けて返信したそうだ。
ってことは普段は『お疲れ様です』だけなんですね。
まあ仕事だからいいけど、それで喜ぶタイプなのだから、たまには何か付け加えたほうがいいんじゃないですか?
そんなもん?
まあ、それで喜ぶ場合もありますよね^^
まったく、女ってバカだよな〜(笑)
(女性読者さんを敵に回すことを承知で原文のまま掲載!!)
那智さんは、わたしがにわかフェミなのを知っていて、そう言えばムキになると思ってわざと言うときがある。
もう。
それなら言わせてもらいますが。
まあ、那智さん、すごい!!
那智さんに頼んでやっぱり正解だった〜!!
頼りになるな〜。
次もぜったい那智さんに頼っちゃお♪
なんて、言われたら、ちょっと大変なことでもいい気分でやっちゃいません?
…、やる(笑)
男ってバカですよね〜(笑)
(数少ない男性読者さんを敵に回す覚悟で原文のまま掲載!!)
たしかに^^;
男も女も、バカなのだ^^
バカかどうかは性別では計れない。
まあ、概ねの傾向として、女は共感してもらうと喜んで、男はヨイショに弱いということかな。
これ以上話すと、わたしのにわかフェミが『キーキー』言い出すので、この辺の面白話でおしまい^^
ときどき登場する『にわかフェミ』いつか、わたしのフェミ感(?)みたいなものをエントリーしようと思っているのだけど、勉強不足と理論構築が不得意ゆえ、なかなか書かず仕舞い。
いつかエントリーできるといいなと、いちおう思っております^^;
<関連エントリー>
『女は共感したい生き物である』
『那智さんに足りないもの』
『心と事実』
でも実は、あまり共感得意じゃないわたし^^
『さみしいは誰のもの』
今朝の「等式」感想ですか?
厳しいですね~りん子に対して「女はバカ」なんて言うのは挑発なのですがこのエントリー通り、やり込められてしまいました。(笑)
那智さん、ひとりのお仕事場。
一緒にお仕事をしているおばさまは出先からの出社なので午後からだそう。
こういうときは状況が許せば電話で繋がってくれる(通話無料さまさまです)
このおばさま、どうやら人付き合いに於いて固定観念を持ってしまう人のようで、最初の那智さんの印象がよくなかったのか、長いこと困った人だったようだ。
何かというとそのときの機嫌で左右したり、もしかしたらほんの少し那智さんを敵視していたくらいなんじゃないだろうか。
那智さんは円滑に物事を進めるように努めはしても、心にもないお世辞を言ったりご機嫌を取ったりしない人だ。
わたしはビジネスパートナーとしてあなたと上手くやっていきたい。
個人的な感情は置いておいても、ビジネスパートナーとしてあたなに悪意は持っていない。
おそらく心にもないお世辞を言ったりご機嫌を取ったりすることは那智さんにとっては『ビジネスパートナー』として真摯な付き合い方ではないのでしょうね。
お世辞やおべんちゃらを言うことは相手に嘘をついていることになって、長い目で見れば信頼を遠ざけていることになるというスタンスの人なのだ。
こういうスタンス、実はあまり即効性はない。
長い時間かけてゆっくり氷を溶かすように、野良猫の警戒心を解くように、似たようなことを何度の繰り返して、この人の言っていることに嘘はないと思えるようになるのだろう。
なかなか手強いおばさまで手を焼いていたようなんだけど、わたしが日頃『女は共感したいのだ!!』と訴えていることが役に立っているようで、最近はずいぶん仕事をしやすくなっているそうなのです。
(まあ、それはひとつのテクニックに過ぎなくて、結局は那智さんの付き合い方の力だと思う。相手に仕事で成果をあげる面白さをわかってもらうようにして、一緒に仕事をすることで利益があることを伝え続けたっていってたしね)
おばさまの世間話に共感。
『○○のケーキおいしいのよ〜』と聞けば、それを見かけたら買ってみて『おいしかったですよ〜』や『私は○味のほうがよかったな〜』とかとにかく共感。
(この場合、同じものをおいしいと言わなくてもいいのだ。○○のケーキの共有で充分^^)
また別の機会にたまたま見つけたらお土産に買っていく。
こんな些細な共感の積み重ねをしているとおばさまの固定観念も徐々に変化していったそうで、いまは随分仕事がやりやすくなったようだ。
たしかに、平日代休を取ってデートしていると、おばさまからの業務連絡の電話が以前より頻繁になっている気がするし、携帯から漏れ聞こえる声のトーンが前の刺々しいものではなくなって、なんだか半音上がっているようにさえ感じる。(このあたりは、わたしのヤキモチで多少割増し^^)
まあ、とにかく、那智さんがお仕事をしやすくなったのだから、わたしも大喜びだ^^
わたしの訴えていたことがお役に立てたのだから、より嬉しい^^
無料通話で時々話したり、お仕事したり。
おばさまがいない時間を幸せに過ごしていた。
なぁ、りん子、これどう思う?
『○○で迷ってしまい、なかなか駅に辿りつけず、いまやっと着きました。これから○線に乗って出勤します。』だって
おばさまから出勤予定を知らせる連絡があったのだ。
なんでですか?帰社時間がある程度読めたら報告するのはいいことじゃないですか?
でもさ。
時間を知らせるだけでいいんだから、『○○で迷って』なんて必要ないだろ?
なるほどね〜。
業務連絡に雑談は必要ないってわけですね^^
でもそれは彼女なりの気遣いかもしれませんよ、話題提供(笑)
わかるけどさ〜
俺、なんて返事すりゃあいいの?
ちょうどいい、りん子だったらどうする?
共感推進派のわたしに意見を聞いているのですね。
『それは大変でしたね。電車でゆっくりできるといいですね〜』(無理!!)
『○○はちょっと通路が複雑ですからね、私も最初は迷いましたよ。』(そんなこと言うの!?)
結局、そんな女心をくすぐる(?)返信はさすがにできず『お疲れ様です〜』と苦肉の策で『〜』だけ付けて返信したそうだ。
ってことは普段は『お疲れ様です』だけなんですね。
まあ仕事だからいいけど、それで喜ぶタイプなのだから、たまには何か付け加えたほうがいいんじゃないですか?
そんなもん?
まあ、それで喜ぶ場合もありますよね^^
まったく、女ってバカだよな〜(笑)
(女性読者さんを敵に回すことを承知で原文のまま掲載!!)
那智さんは、わたしがにわかフェミなのを知っていて、そう言えばムキになると思ってわざと言うときがある。
もう。
それなら言わせてもらいますが。
まあ、那智さん、すごい!!
那智さんに頼んでやっぱり正解だった〜!!
頼りになるな〜。
次もぜったい那智さんに頼っちゃお♪
なんて、言われたら、ちょっと大変なことでもいい気分でやっちゃいません?
…、やる(笑)
男ってバカですよね〜(笑)
(数少ない男性読者さんを敵に回す覚悟で原文のまま掲載!!)
たしかに^^;
男も女も、バカなのだ^^
バカかどうかは性別では計れない。
まあ、概ねの傾向として、女は共感してもらうと喜んで、男はヨイショに弱いということかな。
これ以上話すと、わたしのにわかフェミが『キーキー』言い出すので、この辺の面白話でおしまい^^
ときどき登場する『にわかフェミ』いつか、わたしのフェミ感(?)みたいなものをエントリーしようと思っているのだけど、勉強不足と理論構築が不得意ゆえ、なかなか書かず仕舞い。
いつかエントリーできるといいなと、いちおう思っております^^;
<関連エントリー>
『女は共感したい生き物である』
『那智さんに足りないもの』
『心と事実』
でも実は、あまり共感得意じゃないわたし^^
『さみしいは誰のもの』
今朝の「等式」感想ですか?
厳しいですね~りん子に対して「女はバカ」なんて言うのは挑発なのですがこのエントリー通り、やり込められてしまいました。(笑)
『O』
独り言
文学少女ではなかったわたしがポツポツ本を読むようになったのは20代半ばくらいからだ。
幼い頃から自分には性的に興奮するポイントがあることは自覚していたけど、そのモヤモヤしたものに輪郭をつけ形取ることでなんとかガス抜きをしていたのは絵を描くことだった。
といっても所詮小学生の描く絵なんてたかが知れているので、なかなか妄想を描いて満足するなんて状況にはほど遠かったけど^^;
ほとんど本に触れずに大人になったわたしは、妄想の世界が本の中にあることさえ思い至らなかったのだよね。
本を読みはじめたのは一度目の結婚をおしまいにしてからだったと思う。
たしか、ひとりで過ごす時間の使い方に本を選んでみたんだ。
最初はメジャーな小説だったけど、そのうち興味が沸く分野を自覚していってドキュメンタリーや○○学みたいなものも読むようになった。
後を追うように、わたしが幼い頃から妄想していた世界が、ちょっと手を伸ばせば叶うかもしれないということを知る。
それまでわたしは『SM』というものはエロ小説の中のことで男性がお金を払ってしか実現できないものだと思っていたんだよね。
(『私について(性癖12』)
人はゲンキンなもので、叶うかもしれないと思ったらより具体的に知りたいと思い、行動を起こすもの。
ふと辺りを見回せば、それらしき読み物は書店にいくつかあるということに気づいて、それ以降手に取れる程度のものはひと通り読んだ。(村上龍さんが限界^^;だからわたしは団鬼六さんの本も読んでいないのです)
『O嬢の物語』を知ったのは、その後だった。
一時期ある大きなブックセンターに立ち寄って隣りのカフェでお茶をすることがマイブームになっていたことがあった。
本を買うというより、写真集を眺めめずらしい本を探し、面白そうなものを見つける、家の近くの図書館で借りるための仕込みという感じだったので、その日も同じようにあれこれ物色していた。
画集や写真集、サブカルチャーっぽいものを扱ったコーナーだったと思う。
平積みになったそれらの中で、拘束された女性の後ろ姿のイラストが表紙の本があった。
A4くらいの大きさで背景が薄ピンクだった記憶がある。
薄ピンクの丸くくり抜かれた円の中にその女性の姿があった(いま思えば『O』の文字をかたどっていたんだろうね)
。
視界に入って一瞬にして惹かれたけど、明らかに一般的なジャンルの本でないことはわかるのでひとまず通り過ぎる。
なにせ『トパーズ』が手に取れる限界だったのだからね、じっくり眺めるなんて無理な世界。
ウロウロっと他を見て、何食わぬ顔でもう一度その平積みのコーナーに戻る。
前を通り過ぎて、一周回って、また戻る。
平積みの前を行ったり来たり。
まるでエロ本を前にした中学生だ^^;
タイトルは『O嬢の物語』。
どうやらそれは漫画のようだった。
なんで漫画だと判別できたのか記憶が定かじゃないんだ。
帯にコマ割りのイラストが描かれていたような気もするし、もしかしたら意を決してページをめくってみたのかもしれない。
とにかく何往復かして得られた情報は、それだけだった。
当時はそれほどネットも普及していなかったし、わたしに至っては日常ほとんどパソコンに触ったこともなかったのでブックセンターでみかけた『O嬢の物語』がいったい何なのか知る方法もなかったけれど、どうしても気になったので図書館で調べてみることにした。
そしたら図書館の検索に同じタイトルの本があるではないか。
あの表紙に描かれたような世界に触れることができるかと色めき立つ。
でも、それは通常の本棚になく書庫に保管されているので用紙に必要事項を記入して受付に申し出なくてはならなかった。
ふう、神様はなかなかその世界をわたしに見せてはくれない(笑)
それでも人はどうしても手に入れたいもののためには行動を起こすもの。
『トパーズ』が限界のわたしだったけど、ここは恥ずかしいとか人の目とかを気にする回路を切って、『O嬢の物語』と記入した用紙を受付に提出した。
はじめて触れた『O嬢の物語』。
とても古い本で、薄らと茶色く黄ばんだページは昔の本の印字、所々かがり糸が緩んでいてテープで補正してあった。
現代小説しか読んでいなかったわたしには古い翻訳された文章はとてもとても読みづらく、またその頃のヨーロッパの文化にも疎かったので、調度品や装飾の描写などを思い描くのは至難の業。
もうキャンディキャンディやらベルばらやら、めちゃくちゃな知識を総動員して必死に描いていた。
張り型なんて言葉もはじめて聞いたのだもの。
『き、きっと、あれのことだよね…?』なんて思いながら読んだっけ。
いまならネットで探せばいろいろな文字とヴィジュアル両方でたくさん知識を得られるので想像しやすいだろうけど、当時のわたしはホントに知らないことだらけだった。
焼き印や鞭で皮膚が裂かれるシーン。
情景描写が主で淡々と描かれていて、『O』自身の感情まではっきり読み取れずもどかしい気持ちになった記憶があるけど、もしかしたらそれだからこそすんなりと自分と『O』を重ねることができたのかもしれない。
それ以前に読んでいたSM的な小説で感じたような女性を蔑む印象がなかったのも、受け入れやすかったのだと思う。
(『蔑む』もね、興奮のひとつではあるのだけど、けっこう紙一重なのね)
それから澁澤龍彦さんの翻訳を読んだけど、わたしの中の『O嬢の物語』はブックセンターで見た表紙と最初の本の印象が強い。
表紙を見たときのざわざわする感覚。
図書館で用紙を差し出した緊張感。
古い印字の補正されたページ。
それを見つけて手に取るまでの時間が、絵を描いて妄想していた子供の頃のもどかしい気持ちに似ているからだろう。
なんだか、わたしを拒んでいるような、それでもずっと求めてやまないものの正体のような感じだった。
それがわたしの『O嬢の物語』の思い出。
もう何年も読んでいない。
また図書館で借りてみようか。
あの頃より知識が増えてもっと楽しめるかもしれないし、たぶん手に取る限界は『トパーズ』よりはすこし進化しているはずだからね^^
この前ツイッターサーフィンしていて(こんな言葉ある!?)、おそらくあの表紙をイラストをアイコンにされている方を見つけて、懐かしくなったので、思い出話でした^^
追伸
正しい知識よりも当時の思い出を書きたかったので、書き終わってからちょっと検索してみたら、やっぱり漫画ありましたね。
しかも、上下巻。
うん、たしか、ピンクの後ろ姿の表紙の他にももう一冊あったような記憶があります。
本も何人もの翻訳版があって、その後やなんかもいろいろ。
改めて、わたしは知らないことが多いなぁと思います。
だけど、そんな自分も好きだったりします。
豊富とはいい難い知識の数の女の考えたことや感じたことっていうのも面白いかなと思うので、これからも少ない知識と、想像力を駆使して楽しんでいこう~。
今朝の「等式」感想です。
本をあまり読まない人への指南書みたいでしたね、経験的に同じ本を何年か何十年か経過して再び読むのは楽しいのは理解できますが、こんな風に解説されると意図的に昔、読んだ本を読みたくなってしまう。大昔読んだ石坂洋次郎なんて良いかもしれない。
あと、今ならりん子は羞恥関係では「不自然」が目立ち、一番恥ずかしいと言う理屈を理解しているので、どんなエロ本でもお道具でも一直線で購入出来そうな気がします。理屈の話ですが。(笑)
りん子(^-^)今日のエントリー、『O嬢の物語』について書いた。書きながら思ったけど、わたし和風より、こちらの世界のSMのほうが好きかも。うーん、単純に長襦袢よりコルセットとピンヒールが好きくらいの感覚だけど。那智さんはどうなんだろう?
りん子は今日、都会のど真ん中でビスチェ姿で道を闊歩(かっぽ)し注目を集めそれが嬉しかったのでこんなことを書いているのでしょう。(笑)
りん子(^-^)那智さん、またそんなネタばらしを!なんて言いながら(笑)書きながら思ったことなので今日のこととは切り離してくださいませ。強いていえば、和装より洋装が似合うと思っているからだったりして?←相変わらず着物の苦手意識^^;
りん子(^-^)ちょっと真面目に。たぶん、長襦袢の色気よりもコルセットの気高い感じが好きなのだと思う。ずいぶん前に読んだから記憶違いかもしれないけど、『O嬢の物語』からは奴隷から連想させる忠誠や従順は感じられなかったのだよね。気高さ、だった記憶があるんだ。それが好き。
文学少女ではなかったわたしがポツポツ本を読むようになったのは20代半ばくらいからだ。
幼い頃から自分には性的に興奮するポイントがあることは自覚していたけど、そのモヤモヤしたものに輪郭をつけ形取ることでなんとかガス抜きをしていたのは絵を描くことだった。
といっても所詮小学生の描く絵なんてたかが知れているので、なかなか妄想を描いて満足するなんて状況にはほど遠かったけど^^;
ほとんど本に触れずに大人になったわたしは、妄想の世界が本の中にあることさえ思い至らなかったのだよね。
本を読みはじめたのは一度目の結婚をおしまいにしてからだったと思う。
たしか、ひとりで過ごす時間の使い方に本を選んでみたんだ。
最初はメジャーな小説だったけど、そのうち興味が沸く分野を自覚していってドキュメンタリーや○○学みたいなものも読むようになった。
後を追うように、わたしが幼い頃から妄想していた世界が、ちょっと手を伸ばせば叶うかもしれないということを知る。
それまでわたしは『SM』というものはエロ小説の中のことで男性がお金を払ってしか実現できないものだと思っていたんだよね。
(『私について(性癖12』)
人はゲンキンなもので、叶うかもしれないと思ったらより具体的に知りたいと思い、行動を起こすもの。
ふと辺りを見回せば、それらしき読み物は書店にいくつかあるということに気づいて、それ以降手に取れる程度のものはひと通り読んだ。(村上龍さんが限界^^;だからわたしは団鬼六さんの本も読んでいないのです)
『O嬢の物語』を知ったのは、その後だった。
一時期ある大きなブックセンターに立ち寄って隣りのカフェでお茶をすることがマイブームになっていたことがあった。
本を買うというより、写真集を眺めめずらしい本を探し、面白そうなものを見つける、家の近くの図書館で借りるための仕込みという感じだったので、その日も同じようにあれこれ物色していた。
画集や写真集、サブカルチャーっぽいものを扱ったコーナーだったと思う。
平積みになったそれらの中で、拘束された女性の後ろ姿のイラストが表紙の本があった。
A4くらいの大きさで背景が薄ピンクだった記憶がある。
薄ピンクの丸くくり抜かれた円の中にその女性の姿があった(いま思えば『O』の文字をかたどっていたんだろうね)
。
視界に入って一瞬にして惹かれたけど、明らかに一般的なジャンルの本でないことはわかるのでひとまず通り過ぎる。
なにせ『トパーズ』が手に取れる限界だったのだからね、じっくり眺めるなんて無理な世界。
ウロウロっと他を見て、何食わぬ顔でもう一度その平積みのコーナーに戻る。
前を通り過ぎて、一周回って、また戻る。
平積みの前を行ったり来たり。
まるでエロ本を前にした中学生だ^^;
タイトルは『O嬢の物語』。
どうやらそれは漫画のようだった。
なんで漫画だと判別できたのか記憶が定かじゃないんだ。
帯にコマ割りのイラストが描かれていたような気もするし、もしかしたら意を決してページをめくってみたのかもしれない。
とにかく何往復かして得られた情報は、それだけだった。
当時はそれほどネットも普及していなかったし、わたしに至っては日常ほとんどパソコンに触ったこともなかったのでブックセンターでみかけた『O嬢の物語』がいったい何なのか知る方法もなかったけれど、どうしても気になったので図書館で調べてみることにした。
そしたら図書館の検索に同じタイトルの本があるではないか。
あの表紙に描かれたような世界に触れることができるかと色めき立つ。
でも、それは通常の本棚になく書庫に保管されているので用紙に必要事項を記入して受付に申し出なくてはならなかった。
ふう、神様はなかなかその世界をわたしに見せてはくれない(笑)
それでも人はどうしても手に入れたいもののためには行動を起こすもの。
『トパーズ』が限界のわたしだったけど、ここは恥ずかしいとか人の目とかを気にする回路を切って、『O嬢の物語』と記入した用紙を受付に提出した。
はじめて触れた『O嬢の物語』。
とても古い本で、薄らと茶色く黄ばんだページは昔の本の印字、所々かがり糸が緩んでいてテープで補正してあった。
現代小説しか読んでいなかったわたしには古い翻訳された文章はとてもとても読みづらく、またその頃のヨーロッパの文化にも疎かったので、調度品や装飾の描写などを思い描くのは至難の業。
もうキャンディキャンディやらベルばらやら、めちゃくちゃな知識を総動員して必死に描いていた。
張り型なんて言葉もはじめて聞いたのだもの。
『き、きっと、あれのことだよね…?』なんて思いながら読んだっけ。
いまならネットで探せばいろいろな文字とヴィジュアル両方でたくさん知識を得られるので想像しやすいだろうけど、当時のわたしはホントに知らないことだらけだった。
焼き印や鞭で皮膚が裂かれるシーン。
情景描写が主で淡々と描かれていて、『O』自身の感情まではっきり読み取れずもどかしい気持ちになった記憶があるけど、もしかしたらそれだからこそすんなりと自分と『O』を重ねることができたのかもしれない。
それ以前に読んでいたSM的な小説で感じたような女性を蔑む印象がなかったのも、受け入れやすかったのだと思う。
(『蔑む』もね、興奮のひとつではあるのだけど、けっこう紙一重なのね)
それから澁澤龍彦さんの翻訳を読んだけど、わたしの中の『O嬢の物語』はブックセンターで見た表紙と最初の本の印象が強い。
表紙を見たときのざわざわする感覚。
図書館で用紙を差し出した緊張感。
古い印字の補正されたページ。
それを見つけて手に取るまでの時間が、絵を描いて妄想していた子供の頃のもどかしい気持ちに似ているからだろう。
なんだか、わたしを拒んでいるような、それでもずっと求めてやまないものの正体のような感じだった。
それがわたしの『O嬢の物語』の思い出。
もう何年も読んでいない。
また図書館で借りてみようか。
あの頃より知識が増えてもっと楽しめるかもしれないし、たぶん手に取る限界は『トパーズ』よりはすこし進化しているはずだからね^^
この前ツイッターサーフィンしていて(こんな言葉ある!?)、おそらくあの表紙をイラストをアイコンにされている方を見つけて、懐かしくなったので、思い出話でした^^
追伸
正しい知識よりも当時の思い出を書きたかったので、書き終わってからちょっと検索してみたら、やっぱり漫画ありましたね。
しかも、上下巻。
うん、たしか、ピンクの後ろ姿の表紙の他にももう一冊あったような記憶があります。
本も何人もの翻訳版があって、その後やなんかもいろいろ。
改めて、わたしは知らないことが多いなぁと思います。
だけど、そんな自分も好きだったりします。
豊富とはいい難い知識の数の女の考えたことや感じたことっていうのも面白いかなと思うので、これからも少ない知識と、想像力を駆使して楽しんでいこう~。
今朝の「等式」感想です。
本をあまり読まない人への指南書みたいでしたね、経験的に同じ本を何年か何十年か経過して再び読むのは楽しいのは理解できますが、こんな風に解説されると意図的に昔、読んだ本を読みたくなってしまう。大昔読んだ石坂洋次郎なんて良いかもしれない。
あと、今ならりん子は羞恥関係では「不自然」が目立ち、一番恥ずかしいと言う理屈を理解しているので、どんなエロ本でもお道具でも一直線で購入出来そうな気がします。理屈の話ですが。(笑)
りん子(^-^)今日のエントリー、『O嬢の物語』について書いた。書きながら思ったけど、わたし和風より、こちらの世界のSMのほうが好きかも。うーん、単純に長襦袢よりコルセットとピンヒールが好きくらいの感覚だけど。那智さんはどうなんだろう?
りん子は今日、都会のど真ん中でビスチェ姿で道を闊歩(かっぽ)し注目を集めそれが嬉しかったのでこんなことを書いているのでしょう。(笑)
りん子(^-^)那智さん、またそんなネタばらしを!なんて言いながら(笑)書きながら思ったことなので今日のこととは切り離してくださいませ。強いていえば、和装より洋装が似合うと思っているからだったりして?←相変わらず着物の苦手意識^^;
りん子(^-^)ちょっと真面目に。たぶん、長襦袢の色気よりもコルセットの気高い感じが好きなのだと思う。ずいぶん前に読んだから記憶違いかもしれないけど、『O嬢の物語』からは奴隷から連想させる忠誠や従順は感じられなかったのだよね。気高さ、だった記憶があるんだ。それが好き。
露出の快感
非日常的な日常
『冷蔵庫の大掃除 2』というエントリーを書いたことがあります。
途中まで書いたりテーマだけ書いて保存してある素材たち、結局何が言いたかったのかいまとなっては謎な『下書き状態』をまとめてエントリーにしました。
これらはいわゆる『素材』たちが主だったのだけど、他にも日の目を見ていない『下書き状態』があります。
それは、ほぼ完成しているのだけど、あと一歩仕上がってないとか、書いていたときといまのテンションが合わなくて表に出していないもの。
9月は連休やら諸々でちょっとゆっくり更新の気持ちになれずにいるので、ここでほぼ完成エントリーを一挙大放出!!
みなさんは、普段と何が違っていて完成に至らないのかわからないと思いますが、書いている本人としては『ほぼ完成』な物で恐縮です!!という気持ちでアップしますので、よろしくお願いします^^
普段との違いがあるかないかは、わたしのみぞ知るですけど(笑)
しばらくお付き合いくださいませ〜^^
『ほぼ完成品大放出』期間中、この前置きを最初に掲載しておきます。
露出行為をする人の快感はどこにあるのだろう。
夜の駐車場で全裸の四つん這いだったり、居酒屋さんのテーブルで胸を露出したり。
大胆な行為にドキドキハラハラを味わう。
外気に肌が触れる解放感。
恥ずかしい姿に羞恥心が刺激されて興奮する。
どれもわかる気がする。
じゃあ、わたしは?
よーく見れば、下着が透けている。
スカートの裾からチラッと尻尾が出ている。
洋服を着たままおもらしをする。
一般道で四つん這いや、そうそう頭からお水をかけてもらったこともあった。
普通の中の異質。
大人として不適切なわたし。
どこか欠けていて不安気な自分に対する自己愛の快感。
そして、それを愛でてくれる那智さんの存在の快感(これ重要^^)
この自己愛と那智さんという存在の快感は露出という人目に触れることでより深くなる。
以前、『人目が気になり過ぎて自分のことで精一杯になる』というような状態を書いたことがある。
外ということが、わたしをどんどん内側に閉じ込めてくれるのだ。
SM行為の快感のひとつを言葉にするならば『自分だけの世界になれる』ことだと思う。
視覚も聴覚も皮膚感覚も鈍くなり、どんどん内に内に籠っていく、膝を抱えて深い海に沈んでいくような自分だけの世界。(完全にそうなったのは数えられるくらい。滅多になれるものじゃないんだ)
極めて自己愛の中、唯一の外界との接点が那智さんの手のひら。
露出行為は、実は外に向けているようでわたしにとっては物凄く内に向かう快感なのだ。
そこで重要なのは人の目だ。
『人目が気になり過ぎて自分のことで精一杯』でいるには人目がないと(もしくはないとは言い切れないと)成立しない。
さらに、人目がある中ででもそれをすることに互いに上下である満足感もあるだろう。
だから那智さんにとって、人里離れた山道のような誰も来ないであろう場所や、ある程度ハメを外しても大目に見てもらえる夜の歓楽街などは目的が果たせないから『つまらない』のだ。
もちろん、法に触れないことやあきらかに露出行為とわかって人に不快感を与えないようにすることがスタートだったと思う。
だから裸もないし、下着姿とかでもない(あ、下着は2回くらいある^^;)
一見『?』、気づく人は気づくし気づかない人は気づかないというちょっと変わった露出をするようになっていった。
わかる人だけがわかるという面白さ。
それを特別なことではなく日常のひとコマのように行う充実感。
大胆さを競うつもりはなく、むしろ人がやらないようなこと。
これが那智さんの好みで満足。
それで喜ぶわたしを見てより楽しくなっていったのだろう。
相乗効果だ(笑)
普通の中の異質、どこか欠けていて心許ない様子の中にホクホクとそれを喜ぶ自己愛とヒリヒリとした視線の中で内に籠る快感。
おもちゃを独り占めするような、犬を撫でるような、その存在を愛おしく思うことと思われる快感。
尻尾もわんこもお漏らしも、わたしの露出行為の快感はこんな感じ。
いろいろ見かける『露出画像』、そこに写っている女性たちはどんな快感を得ているのだろうと思う。
あ、裸でも下着姿でもないものを露出といわないのかな(笑)
<関連エントリー>
露出いろいろ^^
『上の立場の視線』
『選ばせてあげる4 5』
『制服とおもらし2 3 4』
お水かけてもらったの〜^^
『夢が叶うとき1 2 3』
似たようなことをもっと詳しく書いてた^^
『徒然に「露出のこと」』
今日の等式感想です。
心を見せる露出が私達は好きなのかなと思います。異質な行為や行動は狭い範囲の嗜好をさらし且つ少数の認識出来る人が存在する。そして、実は認識出来る人は多分その嗜好が少しでもあるから理解出来るのではないかと思う。(笑)
りん子(^-^)そうそう、那智さんは『わかる人だけにわかる』ということも、わりと大事でお好きなのですよね。
『冷蔵庫の大掃除 2』というエントリーを書いたことがあります。
途中まで書いたりテーマだけ書いて保存してある素材たち、結局何が言いたかったのかいまとなっては謎な『下書き状態』をまとめてエントリーにしました。
これらはいわゆる『素材』たちが主だったのだけど、他にも日の目を見ていない『下書き状態』があります。
それは、ほぼ完成しているのだけど、あと一歩仕上がってないとか、書いていたときといまのテンションが合わなくて表に出していないもの。
9月は連休やら諸々でちょっとゆっくり更新の気持ちになれずにいるので、ここでほぼ完成エントリーを一挙大放出!!
みなさんは、普段と何が違っていて完成に至らないのかわからないと思いますが、書いている本人としては『ほぼ完成』な物で恐縮です!!という気持ちでアップしますので、よろしくお願いします^^
普段との違いがあるかないかは、わたしのみぞ知るですけど(笑)
しばらくお付き合いくださいませ〜^^
『ほぼ完成品大放出』期間中、この前置きを最初に掲載しておきます。
露出行為をする人の快感はどこにあるのだろう。
夜の駐車場で全裸の四つん這いだったり、居酒屋さんのテーブルで胸を露出したり。
大胆な行為にドキドキハラハラを味わう。
外気に肌が触れる解放感。
恥ずかしい姿に羞恥心が刺激されて興奮する。
どれもわかる気がする。
じゃあ、わたしは?
よーく見れば、下着が透けている。
スカートの裾からチラッと尻尾が出ている。
洋服を着たままおもらしをする。
一般道で四つん這いや、そうそう頭からお水をかけてもらったこともあった。
普通の中の異質。
大人として不適切なわたし。
どこか欠けていて不安気な自分に対する自己愛の快感。
そして、それを愛でてくれる那智さんの存在の快感(これ重要^^)
この自己愛と那智さんという存在の快感は露出という人目に触れることでより深くなる。
以前、『人目が気になり過ぎて自分のことで精一杯になる』というような状態を書いたことがある。
外ということが、わたしをどんどん内側に閉じ込めてくれるのだ。
SM行為の快感のひとつを言葉にするならば『自分だけの世界になれる』ことだと思う。
視覚も聴覚も皮膚感覚も鈍くなり、どんどん内に内に籠っていく、膝を抱えて深い海に沈んでいくような自分だけの世界。(完全にそうなったのは数えられるくらい。滅多になれるものじゃないんだ)
極めて自己愛の中、唯一の外界との接点が那智さんの手のひら。
露出行為は、実は外に向けているようでわたしにとっては物凄く内に向かう快感なのだ。
そこで重要なのは人の目だ。
『人目が気になり過ぎて自分のことで精一杯』でいるには人目がないと(もしくはないとは言い切れないと)成立しない。
さらに、人目がある中ででもそれをすることに互いに上下である満足感もあるだろう。
だから那智さんにとって、人里離れた山道のような誰も来ないであろう場所や、ある程度ハメを外しても大目に見てもらえる夜の歓楽街などは目的が果たせないから『つまらない』のだ。
もちろん、法に触れないことやあきらかに露出行為とわかって人に不快感を与えないようにすることがスタートだったと思う。
だから裸もないし、下着姿とかでもない(あ、下着は2回くらいある^^;)
一見『?』、気づく人は気づくし気づかない人は気づかないというちょっと変わった露出をするようになっていった。
わかる人だけがわかるという面白さ。
それを特別なことではなく日常のひとコマのように行う充実感。
大胆さを競うつもりはなく、むしろ人がやらないようなこと。
これが那智さんの好みで満足。
それで喜ぶわたしを見てより楽しくなっていったのだろう。
相乗効果だ(笑)
普通の中の異質、どこか欠けていて心許ない様子の中にホクホクとそれを喜ぶ自己愛とヒリヒリとした視線の中で内に籠る快感。
おもちゃを独り占めするような、犬を撫でるような、その存在を愛おしく思うことと思われる快感。
尻尾もわんこもお漏らしも、わたしの露出行為の快感はこんな感じ。
いろいろ見かける『露出画像』、そこに写っている女性たちはどんな快感を得ているのだろうと思う。
あ、裸でも下着姿でもないものを露出といわないのかな(笑)
<関連エントリー>
露出いろいろ^^
『上の立場の視線』
『選ばせてあげる4 5』
『制服とおもらし2 3 4』
お水かけてもらったの〜^^
『夢が叶うとき1 2 3』
似たようなことをもっと詳しく書いてた^^
『徒然に「露出のこと」』
今日の等式感想です。
心を見せる露出が私達は好きなのかなと思います。異質な行為や行動は狭い範囲の嗜好をさらし且つ少数の認識出来る人が存在する。そして、実は認識出来る人は多分その嗜好が少しでもあるから理解出来るのではないかと思う。(笑)
りん子(^-^)そうそう、那智さんは『わかる人だけにわかる』ということも、わりと大事でお好きなのですよね。
感情のスタート
りん子的独り言(エラそう)
『冷蔵庫の大掃除 2』というエントリーを書いたことがあります。
途中まで書いたりテーマだけ書いて保存してある素材たち、結局何が言いたかったのかいまとなっては謎な『下書き状態』をまとめてエントリーにしました。
これらはいわゆる『素材』たちが主だったのだけど、他にも日の目を見ていない『下書き状態』があります。
それは、ほぼ完成しているのだけど、あと一歩仕上がってないとか、書いていたときといまのテンションが合わなくて表に出していないもの。
9月は連休やら諸々でちょっとゆっくり更新の気持ちになれずにいるので、ここでほぼ完成エントリーを一挙大放出!!
みなさんは、普段と何が違っていて完成に至らないのかわからないと思いますが、書いている本人としては『ほぼ完成』な物で恐縮です!!という気持ちでアップしますので、よろしくお願いします^^
普段との違いがあるかないかは、わたしのみぞ知るですけど(笑)
しばらくお付き合いくださいませ〜^^
『ほぼ完成品大放出』期間中、この前置きを最初に掲載しておきます。
しばらく前のこと。
奴隷さんがご主人様の好みの体になるために体を変えようとしていると書かれているのを目にした。
ひとりの女性の体を変えることの重大さをこのご主人様はわかっているのだろうか。
見知らぬご主人様に憤りを感じ、そう思ってしまう奴隷さんに『そうでもしないとつなぎ止められない』と想像して一瞬憐れみ感じ、とても批判的な気持ちになってしまった。
その怒りを那智さんにポツポツとメールで話しながら、あ、これは嫉妬もあるって思ったんだ。
わたしは、ご主人様のために体を変えられる環境にある奴隷さんに嫉妬しているんだ。
いろんなことを全部全部棚に上げて羨ましいと思っているんだ。
その羨ましいという感情を無意識に抑え、常識や正論を盾に憤り同情して溜飲を下げていたんだよね。
(わたしの中では『かわいそう』だという同情もあまりしたくないんだな、これは間違えば優越感になる)
那智さんにメールをしながらそれに気づいた。
感情のスタート地点に気づいたのね。
わたしは決して出来た人ではないので嫉妬もするし頭に来ることだってある。
それはしかたがないと思っている。
だけど、そこまでにしていたい。
人は、意外と感情のスタート地点に気づかないものだ。
相手に対して批判的な気持ちになったりムカついたりする気持ちや、逆に『あの人かわいそうよね』という同情はもとを辿れば、単に羨ましいだけだったりすることもあるだろう。
そこに気づけば相手を攻撃することも見下すことも、ムカついてイヤな気分になることもずいぶん減る。
自分にとってもいいことだよね。
『羨ましい』と思うことは、何かの動機付けにもなるから悪いことじゃない。
怒りは原動力になる。
でもそこからねじ曲がって二次的な感情になってしまうことは、わたしはしたくないなと思うのです。
これがここによく登場する『素直』ということ。
『恋しいは使いよう(笑)』のさみしいと恋しいも、感情のスタートは恋しいことがほとんどなのだ。
さみしいと感じているのは、恋しい気持ちを埋められないことで起こっているのだと解釈している。
『思考のお散歩』で一人暮らしの女性のお宅におじゃまして思考の散歩を楽しんだときも、一瞬湧いた『羨ましい』という感情を理解して『羨ましい』を否定するための同情にねじ曲げないように、わたしはあのとき思考のお散歩を楽しむことができた。
わたしはぜんぜん出来た人じゃないからたーくさん嫉妬するしけっこう根に持つ、とってもドロドロしている(笑)
いま心に浮かんだ感情が本当の気持ちだと言い切れる自信も、実はあまりない。
だからこんなふうに感情のスタート地点を見極めたいなと思うのだ^^
でね、もっともっと手前にスタートがあるかもしれないので、いまスタートだと思っていることも100%信じているわけでもないけどね^^
人に対して批判的な感情が湧いたときには、特にそうしようと心掛けている。
前出の奴隷さんは失敗例。
一人暮らしの女性のときは成功^^
ときどき失敗と成功をくり返してます^^
…
『りん子的独り言』なんて批判だらけじゃん!!と言われてしまいそうですが^^;
できるだけ、嫉妬も同情も持たないように正論や常識とは違う『わたしのような』という価値観で書いているつもりなので、ご理解いただけたらうれしいな^^
と、小さい文字でちょっと保身(笑)
<関連エントリー>
素直とか
『素直に伝えるということ』
『疑うことなく身を任せ、素直に表現する』
『かつてのわたしに』
昨日、「等式」感想です。
りん子には多分、破滅願望に近いような狂気へのあこがれがあるのだと思う。それに+して不幸になりたい症候群と私が呼んでいる、贅沢な感覚がある。(笑)だから、りん子は誰かの不幸が気になり、盲目になっている「人」を感じるとムキになる「部分」があるのかもしれない。
『冷蔵庫の大掃除 2』というエントリーを書いたことがあります。
途中まで書いたりテーマだけ書いて保存してある素材たち、結局何が言いたかったのかいまとなっては謎な『下書き状態』をまとめてエントリーにしました。
これらはいわゆる『素材』たちが主だったのだけど、他にも日の目を見ていない『下書き状態』があります。
それは、ほぼ完成しているのだけど、あと一歩仕上がってないとか、書いていたときといまのテンションが合わなくて表に出していないもの。
9月は連休やら諸々でちょっとゆっくり更新の気持ちになれずにいるので、ここでほぼ完成エントリーを一挙大放出!!
みなさんは、普段と何が違っていて完成に至らないのかわからないと思いますが、書いている本人としては『ほぼ完成』な物で恐縮です!!という気持ちでアップしますので、よろしくお願いします^^
普段との違いがあるかないかは、わたしのみぞ知るですけど(笑)
しばらくお付き合いくださいませ〜^^
『ほぼ完成品大放出』期間中、この前置きを最初に掲載しておきます。
しばらく前のこと。
奴隷さんがご主人様の好みの体になるために体を変えようとしていると書かれているのを目にした。
ひとりの女性の体を変えることの重大さをこのご主人様はわかっているのだろうか。
見知らぬご主人様に憤りを感じ、そう思ってしまう奴隷さんに『そうでもしないとつなぎ止められない』と想像して一瞬憐れみ感じ、とても批判的な気持ちになってしまった。
その怒りを那智さんにポツポツとメールで話しながら、あ、これは嫉妬もあるって思ったんだ。
わたしは、ご主人様のために体を変えられる環境にある奴隷さんに嫉妬しているんだ。
いろんなことを全部全部棚に上げて羨ましいと思っているんだ。
その羨ましいという感情を無意識に抑え、常識や正論を盾に憤り同情して溜飲を下げていたんだよね。
(わたしの中では『かわいそう』だという同情もあまりしたくないんだな、これは間違えば優越感になる)
那智さんにメールをしながらそれに気づいた。
感情のスタート地点に気づいたのね。
わたしは決して出来た人ではないので嫉妬もするし頭に来ることだってある。
それはしかたがないと思っている。
だけど、そこまでにしていたい。
人は、意外と感情のスタート地点に気づかないものだ。
相手に対して批判的な気持ちになったりムカついたりする気持ちや、逆に『あの人かわいそうよね』という同情はもとを辿れば、単に羨ましいだけだったりすることもあるだろう。
そこに気づけば相手を攻撃することも見下すことも、ムカついてイヤな気分になることもずいぶん減る。
自分にとってもいいことだよね。
『羨ましい』と思うことは、何かの動機付けにもなるから悪いことじゃない。
怒りは原動力になる。
でもそこからねじ曲がって二次的な感情になってしまうことは、わたしはしたくないなと思うのです。
これがここによく登場する『素直』ということ。
『恋しいは使いよう(笑)』のさみしいと恋しいも、感情のスタートは恋しいことがほとんどなのだ。
さみしいと感じているのは、恋しい気持ちを埋められないことで起こっているのだと解釈している。
『思考のお散歩』で一人暮らしの女性のお宅におじゃまして思考の散歩を楽しんだときも、一瞬湧いた『羨ましい』という感情を理解して『羨ましい』を否定するための同情にねじ曲げないように、わたしはあのとき思考のお散歩を楽しむことができた。
わたしはぜんぜん出来た人じゃないからたーくさん嫉妬するしけっこう根に持つ、とってもドロドロしている(笑)
いま心に浮かんだ感情が本当の気持ちだと言い切れる自信も、実はあまりない。
だからこんなふうに感情のスタート地点を見極めたいなと思うのだ^^
でね、もっともっと手前にスタートがあるかもしれないので、いまスタートだと思っていることも100%信じているわけでもないけどね^^
人に対して批判的な感情が湧いたときには、特にそうしようと心掛けている。
前出の奴隷さんは失敗例。
一人暮らしの女性のときは成功^^
ときどき失敗と成功をくり返してます^^
…
『りん子的独り言』なんて批判だらけじゃん!!と言われてしまいそうですが^^;
できるだけ、嫉妬も同情も持たないように正論や常識とは違う『わたしのような』という価値観で書いているつもりなので、ご理解いただけたらうれしいな^^
と、小さい文字でちょっと保身(笑)
<関連エントリー>
素直とか
『素直に伝えるということ』
『疑うことなく身を任せ、素直に表現する』
『かつてのわたしに』
昨日、「等式」感想です。
りん子には多分、破滅願望に近いような狂気へのあこがれがあるのだと思う。それに+して不幸になりたい症候群と私が呼んでいる、贅沢な感覚がある。(笑)だから、りん子は誰かの不幸が気になり、盲目になっている「人」を感じるとムキになる「部分」があるのかもしれない。