素直に伝えるということ
りん子的独り言(エラそう)
父性の海に抱かれながら、心の中のことを素直に伝える。
なんとも魅力的なこと。
それはいやだとか、それは傷つくとか、悲しいとか。
私のように、自分にとって不快に思うという感情を相手に伝えるのが苦手で、それを伝えるくらいならその関係が深まらなくてもかまわないと思ってしまうような女には、それらを素直に伝えられるということは、新しい世界が開けたようでとてもとても魅力的な魔法のようだ。
だけど、それは、なんでも解決「ドラえもんのポケット」だけではない、労力もいるのだ。
もちろん圧倒的に「幸せ甘受」の方が大きいのはわかってるけど、あえて(?)魔法じゃないところも、ちょっと披露。
まず、負の感情を出し慣れていない、故の生みの苦労(?)。
「ああ、それは悲しい」と思っても、「いま忙しそうだし…」とか「この前もぐずってしまったし…」とか、何か障害があるとついいつものクセで「いいや、私が我慢すれば」「黙っとくほうがいいかも」と、逃げ腰になってしまう。
でも、それは心に小さくシミを残すことになって、いままでの失敗を繰り返してしまうだけ。
だから、慣れないことを「えいっ」とする苦労。
いま忙しいなら、諦めずに「悲しい」を保存しておいてでも、ちゃんと伝える。
誰でも負の感情を伝えることはパワーがいるはず、さらにそれが特に苦手な私は逃げてしまったほうが楽だったりもする。
それを、踏み止まって、深呼吸して「えいっ」と、生む。
もうひとつ、伝えることに段々慣れてきて、それを受け止めてもらえていると、今度はエスカレートしてしまう危惧。
受け止めてもらえると言っても「なんでもいいよ〜」というのではない。
存在を肯定した状態で、冷静に判断を下すというような感じ。
だから、間違ってるときはそう言われるし、「ふ〜ん」ですまされてしまうこともある。
それでも上下しない感情で「受け止める」姿勢を取り続けてくれることには、感謝しつつもつい甘えが出てしまうのだ。
悲しいことを悲しいと、怒ってることを怒ってると素直に伝えることと、その負の感情をぶつけて発散することを混同してしまってはいけないのだ。
つい受け止めてもらえることをいいことに、「那智さんを傷つけたく」なってしまう。
その悲しみが那智さんの言動や誤解など直接の原因であっても、それ以外の私のバイオリズムのせいでも、素直に伝えるという大義名分を掲げて「八つ当たり」をしてしまいたくなる。
そこで、また踏み止まる。
私がしなければならないことは、心を伝えること、故意に傷つけることを言ったり八つ当たりしたりは、心じゃなくて、発散方法だ。
そして、そういう方法で発散しても、何も残らない。
だから、勢いで言ってしまいたくなる理不尽な言動をグッと堪えて、心を伝える。
それでも、人間は感情の生き物。
頭でわかっていても、どうしても理不尽をぶつけたくなってしまうこともある。
だから、そういうときは「ごめんなさい、理不尽なこと言います」と言ってから、筋の通らないわがままや八つ当たりをするのだ(笑)
受け入れてくれることに対する自制。
これもけっこうパワーがいる。
甘えるも悲しいも頭に来ているも言う、しゃくりあげて泣いて訴えてもいい。
でも、それを発散にしない。
心がけてること。
メソメソもグズグズも変態も、全部ひっくるめて愛してもらうんだから、これくらいの自制はしなくちゃ、なのです^^;
父性の海に抱かれて素直に心を伝えることの代え難い魅力のために、ほんの少しの努力がいるのでした。
父性の海に抱かれながら、心の中のことを素直に伝える。
なんとも魅力的なこと。
それはいやだとか、それは傷つくとか、悲しいとか。
私のように、自分にとって不快に思うという感情を相手に伝えるのが苦手で、それを伝えるくらいならその関係が深まらなくてもかまわないと思ってしまうような女には、それらを素直に伝えられるということは、新しい世界が開けたようでとてもとても魅力的な魔法のようだ。
だけど、それは、なんでも解決「ドラえもんのポケット」だけではない、労力もいるのだ。
もちろん圧倒的に「幸せ甘受」の方が大きいのはわかってるけど、あえて(?)魔法じゃないところも、ちょっと披露。
まず、負の感情を出し慣れていない、故の生みの苦労(?)。
「ああ、それは悲しい」と思っても、「いま忙しそうだし…」とか「この前もぐずってしまったし…」とか、何か障害があるとついいつものクセで「いいや、私が我慢すれば」「黙っとくほうがいいかも」と、逃げ腰になってしまう。
でも、それは心に小さくシミを残すことになって、いままでの失敗を繰り返してしまうだけ。
だから、慣れないことを「えいっ」とする苦労。
いま忙しいなら、諦めずに「悲しい」を保存しておいてでも、ちゃんと伝える。
誰でも負の感情を伝えることはパワーがいるはず、さらにそれが特に苦手な私は逃げてしまったほうが楽だったりもする。
それを、踏み止まって、深呼吸して「えいっ」と、生む。
もうひとつ、伝えることに段々慣れてきて、それを受け止めてもらえていると、今度はエスカレートしてしまう危惧。
受け止めてもらえると言っても「なんでもいいよ〜」というのではない。
存在を肯定した状態で、冷静に判断を下すというような感じ。
だから、間違ってるときはそう言われるし、「ふ〜ん」ですまされてしまうこともある。
それでも上下しない感情で「受け止める」姿勢を取り続けてくれることには、感謝しつつもつい甘えが出てしまうのだ。
悲しいことを悲しいと、怒ってることを怒ってると素直に伝えることと、その負の感情をぶつけて発散することを混同してしまってはいけないのだ。
つい受け止めてもらえることをいいことに、「那智さんを傷つけたく」なってしまう。
その悲しみが那智さんの言動や誤解など直接の原因であっても、それ以外の私のバイオリズムのせいでも、素直に伝えるという大義名分を掲げて「八つ当たり」をしてしまいたくなる。
そこで、また踏み止まる。
私がしなければならないことは、心を伝えること、故意に傷つけることを言ったり八つ当たりしたりは、心じゃなくて、発散方法だ。
そして、そういう方法で発散しても、何も残らない。
だから、勢いで言ってしまいたくなる理不尽な言動をグッと堪えて、心を伝える。
それでも、人間は感情の生き物。
頭でわかっていても、どうしても理不尽をぶつけたくなってしまうこともある。
だから、そういうときは「ごめんなさい、理不尽なこと言います」と言ってから、筋の通らないわがままや八つ当たりをするのだ(笑)
受け入れてくれることに対する自制。
これもけっこうパワーがいる。
甘えるも悲しいも頭に来ているも言う、しゃくりあげて泣いて訴えてもいい。
でも、それを発散にしない。
心がけてること。
メソメソもグズグズも変態も、全部ひっくるめて愛してもらうんだから、これくらいの自制はしなくちゃ、なのです^^;
父性の海に抱かれて素直に心を伝えることの代え難い魅力のために、ほんの少しの努力がいるのでした。
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