私について(性癖2)
惹かれ合う理由
胸のざわめきがわかったとはいえ明確な道筋ができるわけもなく。
まして、自分の「他者を見下し、自分が不安になる」心に向き合うことや、父性に抱かれる安心感を求めているなんて、子供の私には知るよしもない。
相変わらず、恋多き女ではあるが、いつも不安を抱えたままの恋愛を繰り返していた。
私は、相手が心地よくなることに心を砕く。
これでもかってくらい、良い子。
ケンカもしない、わがままも言わない、機嫌の悪いときもない。
それが当たり前になっていく男性を見下しながら演技をする。
そのくせに、不安だ。
たとえば、いつもだいたい夜10時くらいに電話があるのにある日は11時だったりすると「好きが減ってしまったのではないか」。
たとえば、いつもは、バイバイするとき2回振り返ってくれるのに、その日は1回だったりすると、「何か、いけないことしてしまったの?」。
不安でしかたがないのだ。
それは、抱かれているときも同じだ。
抱かれているときも私は演技をする。
相手が気分良くセックスできるようにと、心を砕く。
決して、気持ち良くないわけではない。
でもいくふりをする私に気付かず、それが自分の実力と思って男は射精する。
射精するときの男は、無防備だ。
かわいらしいくらい無防備。
さっきまで偉そうにしていたのに、私の上で無防備に果てる男を見て、私が欲しかったものはこれなのだろうかと、自分の心に問いかけているのだ。
オナニーは、早くから覚えていた。(小学校5年生。偶然ではなく意識して触った。多分、他の人と比べたことないから、わからないけど早い方?)
だから思春期を迎えても、そこでも惹かれるのは決まっている。
女の人が縛られている。
数人の男性に犯されている。
明らかに外で恥ずかしいことをしている。
あの胸のざわめきと同じものを感じながら、この種類のものだけに惹かれていた。
それらで得た知識といくつかの性体験の後、段々と願望が輪郭を帯びてくる。
「縛られたい」「困らせてほしい」「支配されたい」
普通に抱かれているときに、ここで縛ってくれたらと切望してしまうことが何度もあった。
もちろん、それは私にとって「負の感情」だ、相手に要求など、できるはずもない。
「どうか、誰でもいいから、手首だけでもいいから、拘束してくれないだろうか」
沸き上がる抑えられない感情に困惑して、どうすることもできず、自分のストッキングで、自分の両手首を縛ってみる。
しかし、上手に縛ることもできないし、残るのは虚しさだけだ。
もしかしたら、この欲求を埋めることができれば、私は男の人に抱かれていても、無我夢中になって、相手を見下さずに済むかもしれない。
「愛している」という感覚。
この人はずっと私を好きでいてくれるというような、安心感。
これらは、諦めてはいるけれど、性癖を満たすことができれば、この焦燥感を少しは癒すことができるかもしれない。
でも、その当時の私にとって「SM」というのは、特殊な世界の話だった。
小説だったり、アダルトビデオだったりのお話の中のこと、もしくは、男の人がお金を払って味わえる風俗の世界でのみ存在するもの、と思っていた。
付き合っている人にタオルで拘束されたことはあったけど、前戯のスパイスにしか感じられなかった。「SM」とは思えなかった。
だから、私には、繋がりようのないこと、妄想の海を漂うだけだった。
せめて、妄想の手助けに(おかずっていうの恥ずかしいから、違う言い方♪)と、実家にいたころ読んでいたレディスコミックを、久しぶりに買ってみる。
買うのに勇気がいるので、本当に久しぶりに。
内容は、さして変わりはない。
ただ、思わず手を止めてしまったページがあった。
テレクラの広告のページだ。
「S男性希望」「M女性募集」
私が読んでいた頃のテレクラは、ごく普通の出会いばかりだったはずだ。
「露出・野外プレイ希望」「命令されたい」
さまざまなカテゴリに分かれている。
軽い衝撃と共に、ほんの少し希望が湧いてしまった。
世の中に「サディスト」がいるのか、「O嬢の物語」のステファン卿のようなサディストが。
叶えられるかもしれない。
このとき私は27歳、二度目の結婚をしたすぐあとのことだった。
もちろん悩んだ。
浮気がしたいわけではない。
二度目の結婚生活の相手は、充分に私を「女」と思っている。
でも、幼いころから感じていたこの私の一部が、叶うかもしれない。
随分とためらったのち、私は、書かれているフリーダイヤルの番号をプッシュしていた。
引き返せないかもしれない恐怖と、渇きを潤せるかもしれない一縷の望みと共に。
胸のざわめきがわかったとはいえ明確な道筋ができるわけもなく。
まして、自分の「他者を見下し、自分が不安になる」心に向き合うことや、父性に抱かれる安心感を求めているなんて、子供の私には知るよしもない。
相変わらず、恋多き女ではあるが、いつも不安を抱えたままの恋愛を繰り返していた。
私は、相手が心地よくなることに心を砕く。
これでもかってくらい、良い子。
ケンカもしない、わがままも言わない、機嫌の悪いときもない。
それが当たり前になっていく男性を見下しながら演技をする。
そのくせに、不安だ。
たとえば、いつもだいたい夜10時くらいに電話があるのにある日は11時だったりすると「好きが減ってしまったのではないか」。
たとえば、いつもは、バイバイするとき2回振り返ってくれるのに、その日は1回だったりすると、「何か、いけないことしてしまったの?」。
不安でしかたがないのだ。
それは、抱かれているときも同じだ。
抱かれているときも私は演技をする。
相手が気分良くセックスできるようにと、心を砕く。
決して、気持ち良くないわけではない。
でもいくふりをする私に気付かず、それが自分の実力と思って男は射精する。
射精するときの男は、無防備だ。
かわいらしいくらい無防備。
さっきまで偉そうにしていたのに、私の上で無防備に果てる男を見て、私が欲しかったものはこれなのだろうかと、自分の心に問いかけているのだ。
オナニーは、早くから覚えていた。(小学校5年生。偶然ではなく意識して触った。多分、他の人と比べたことないから、わからないけど早い方?)
だから思春期を迎えても、そこでも惹かれるのは決まっている。
女の人が縛られている。
数人の男性に犯されている。
明らかに外で恥ずかしいことをしている。
あの胸のざわめきと同じものを感じながら、この種類のものだけに惹かれていた。
それらで得た知識といくつかの性体験の後、段々と願望が輪郭を帯びてくる。
「縛られたい」「困らせてほしい」「支配されたい」
普通に抱かれているときに、ここで縛ってくれたらと切望してしまうことが何度もあった。
もちろん、それは私にとって「負の感情」だ、相手に要求など、できるはずもない。
「どうか、誰でもいいから、手首だけでもいいから、拘束してくれないだろうか」
沸き上がる抑えられない感情に困惑して、どうすることもできず、自分のストッキングで、自分の両手首を縛ってみる。
しかし、上手に縛ることもできないし、残るのは虚しさだけだ。
もしかしたら、この欲求を埋めることができれば、私は男の人に抱かれていても、無我夢中になって、相手を見下さずに済むかもしれない。
「愛している」という感覚。
この人はずっと私を好きでいてくれるというような、安心感。
これらは、諦めてはいるけれど、性癖を満たすことができれば、この焦燥感を少しは癒すことができるかもしれない。
でも、その当時の私にとって「SM」というのは、特殊な世界の話だった。
小説だったり、アダルトビデオだったりのお話の中のこと、もしくは、男の人がお金を払って味わえる風俗の世界でのみ存在するもの、と思っていた。
付き合っている人にタオルで拘束されたことはあったけど、前戯のスパイスにしか感じられなかった。「SM」とは思えなかった。
だから、私には、繋がりようのないこと、妄想の海を漂うだけだった。
せめて、妄想の手助けに(おかずっていうの恥ずかしいから、違う言い方♪)と、実家にいたころ読んでいたレディスコミックを、久しぶりに買ってみる。
買うのに勇気がいるので、本当に久しぶりに。
内容は、さして変わりはない。
ただ、思わず手を止めてしまったページがあった。
テレクラの広告のページだ。
「S男性希望」「M女性募集」
私が読んでいた頃のテレクラは、ごく普通の出会いばかりだったはずだ。
「露出・野外プレイ希望」「命令されたい」
さまざまなカテゴリに分かれている。
軽い衝撃と共に、ほんの少し希望が湧いてしまった。
世の中に「サディスト」がいるのか、「O嬢の物語」のステファン卿のようなサディストが。
叶えられるかもしれない。
このとき私は27歳、二度目の結婚をしたすぐあとのことだった。
もちろん悩んだ。
浮気がしたいわけではない。
二度目の結婚生活の相手は、充分に私を「女」と思っている。
でも、幼いころから感じていたこの私の一部が、叶うかもしれない。
随分とためらったのち、私は、書かれているフリーダイヤルの番号をプッシュしていた。
引き返せないかもしれない恐怖と、渇きを潤せるかもしれない一縷の望みと共に。
- 関連記事
-
- 職業選択5 2006/08/09
- 職業選択(前振り1) 2006/08/03
- 私について(性癖1) 2006/06/23
COMMENT
自分の事が書かれているのかと思う程、ここに書かれている事は、私の過去とそして現在の姿に酷似していました。
同じ様に苦しんでいた人がいたんだな、と感慨深いです。
私は踏み出す勇気のないまま、ここまで(どこまで?)きてしまいましたけど。
同じ様に苦しんでいた人がいたんだな、と感慨深いです。
私は踏み出す勇気のないまま、ここまで(どこまで?)きてしまいましたけど。
コメントありがとうございます。
めいさんの姿と似ているのですね。
かなり心の深部を書いているので、ここで得られる共感はわたしにとってとても心強いものです。
めいさんが『等式』のエントリーのどのくらい読み進めてくださっているかわかりませんが(たくさんあるので^^;)、わたし自身も経験と思考の旅をするうちにマゾ以外にも自分の求めるものがあることを知っていきます。
そのあたりの細部はめいさんとは違うかもしれない。
でも、『乾いた大地が水を求めるような』どうしても自分から切り離せない求めるものを持っている者同士、心の交流ができるとうれしいなと思います^^
めいさんの姿と似ているのですね。
かなり心の深部を書いているので、ここで得られる共感はわたしにとってとても心強いものです。
めいさんが『等式』のエントリーのどのくらい読み進めてくださっているかわかりませんが(たくさんあるので^^;)、わたし自身も経験と思考の旅をするうちにマゾ以外にも自分の求めるものがあることを知っていきます。
そのあたりの細部はめいさんとは違うかもしれない。
でも、『乾いた大地が水を求めるような』どうしても自分から切り離せない求めるものを持っている者同士、心の交流ができるとうれしいなと思います^^