鞭2
足跡
ひさしぶりのカテゴリ『足跡』。
前エントリーに続いて痛いことの、ダメ押し(?)の徒然をと書いていたら、『足跡』になれそうだったから。
『足跡』の『鞭』ははじめのころのパニックから笑い出しちゃうおかしな状態になる辺りまで収めていたので、その続きを。
では、ひとまず、『足跡』にしちゃおうと思った徒然から、どうぞ~^^
わたしにとって『痛いこと』は心と体の両方に作用して快感を形作っている。
心とは『痛いことをされているわたし』や『那智さんがしてくれている』や針山で感じていたような漠然とした酷いことへのモヤモヤの答えのような安堵感や、自分の意思でおしまいにならない絶望感(セーフワードがあるから、そうはいっても甘い絶望感だけどね)やパニック状態や、被虐欲と歪んだ自己愛を那智さんで満たしてもらうことや終わったあとの『ほめてもらう』や(うちはこれはないけど→気持ちよくてよかったね、だから^^;)。
これらは心に作用して快感になる。
で、体のほうは、そのままで『痛いこと=快感』。
とはいえ、何度も書いているけど痛いことは、普通に痛いので(しかも、相当痛くされるから、相当痛い^^;)、痛いことが気持ちいいとは言い難くて、『痛いことをすると体が快感の反応をする』ことを『快感』といっているのだけどね。
とにかく、痛いことが直接体の快感として存在する。
この両方。
これらはハッキリと区別ができるものではなくて、グラデーションのように存在していて、その時々によって、どの色が濃いかはわかる。
今日は自己憐憫の気持ちよさだったな~とか、なんだかわからないけど一発目から体が快感の反応をしていたな~とか。
前エントリーの『スパンキングって気持ちいいの?』は、いろいろモヤモヤしたから『200発くらい打てば』と体の快感として書いたけど、その男性が『スパンキングをするシチュエーションに興奮する?』とか『スパイスとして刺激的?』という意味であれば、まあ、気持ちいいともいえるよね。
(那智さんの感想は、それを指していると思う)
だから、どちらだけが『ある』ってことでもないよね。
ただ、那智さんは最初から『体』に作用させようと思っていたそうだ。
これも何回か似たようなことは書いてきたと思うけど。
那智さんは『心は一定ではない』と思っているのだ。
そのときの感情や気分によって心の感じ方は違ってくるから、確実に快感として与えるには体であるほうがいいと思っている。
たしかに、こちら側からもいわせてもらえば、心はいかようにも表現できてしまうよね。
女性なら、一度くらいは『演技』したことあると思うし^^;
まあ、それも含めて、この男のセックスに酔いたいと思えることはいいことだし、演技することで高揚することもあるから、否定はしないけど。
心の快感はこちら側の裁量でどうにでもやりようがあることは否めないわけで、那智さんの裁量で与えるとしたら『体』のほうが一定で確実だと思っているのだろう。
寒ければ鳥肌が立つくらいはなかなか難しいかもしれないけど、きっとそれに近い感じかな。
そうそう、『溺愛』のころは、そこに『心』を入れ込んで楽しんでいたようにも思うから、那智さんとしても少しくらいはグラデーションを面白がっているかもしれないけどね。
痛いこと=鞭ではないけれど、わたしたちの鞭の形も変化しているってことで^^
出会ったころから何事も『一定』でありたいと思う那智さんだったけど、すこしずつ『心』も楽しみはじめているよう。
鞭で可愛がるようになってきたかな。
意思を持つ鞭1 2 3
鞭の時間
溺愛1 2 3
それとだんだん打つ場所も広がってきている
繰り返し
鞭の一体感
自己憐憫と安堵と肯定、ひと口に快感といってもすくなくともこれだけの快感はある
ひさしぶりの鞭
このころから、痛いことが体の快感に直結してきている
浴衣緊縛1 2 3 4 5
脳を変える1 2 3 4
泣くための
諦念1 2 3
『脳を変える』あたりが一番痛いこと=体の快感だったと思うけど、そんな簡単に脳は変えられるものではないので、それからも那智さんの心や意思、わたしの精神状態によって心が作用していろいろな感情を引き起こし最終的に快感になっている。
痛いこと=気持ちいいの道のりは長いのだ(笑)
ひさしぶりのカテゴリ『足跡』。
前エントリーに続いて痛いことの、ダメ押し(?)の徒然をと書いていたら、『足跡』になれそうだったから。
『足跡』の『鞭』ははじめのころのパニックから笑い出しちゃうおかしな状態になる辺りまで収めていたので、その続きを。
では、ひとまず、『足跡』にしちゃおうと思った徒然から、どうぞ~^^
わたしにとって『痛いこと』は心と体の両方に作用して快感を形作っている。
心とは『痛いことをされているわたし』や『那智さんがしてくれている』や針山で感じていたような漠然とした酷いことへのモヤモヤの答えのような安堵感や、自分の意思でおしまいにならない絶望感(セーフワードがあるから、そうはいっても甘い絶望感だけどね)やパニック状態や、被虐欲と歪んだ自己愛を那智さんで満たしてもらうことや終わったあとの『ほめてもらう』や(うちはこれはないけど→気持ちよくてよかったね、だから^^;)。
これらは心に作用して快感になる。
で、体のほうは、そのままで『痛いこと=快感』。
とはいえ、何度も書いているけど痛いことは、普通に痛いので(しかも、相当痛くされるから、相当痛い^^;)、痛いことが気持ちいいとは言い難くて、『痛いことをすると体が快感の反応をする』ことを『快感』といっているのだけどね。
とにかく、痛いことが直接体の快感として存在する。
この両方。
これらはハッキリと区別ができるものではなくて、グラデーションのように存在していて、その時々によって、どの色が濃いかはわかる。
今日は自己憐憫の気持ちよさだったな~とか、なんだかわからないけど一発目から体が快感の反応をしていたな~とか。
前エントリーの『スパンキングって気持ちいいの?』は、いろいろモヤモヤしたから『200発くらい打てば』と体の快感として書いたけど、その男性が『スパンキングをするシチュエーションに興奮する?』とか『スパイスとして刺激的?』という意味であれば、まあ、気持ちいいともいえるよね。
(那智さんの感想は、それを指していると思う)
だから、どちらだけが『ある』ってことでもないよね。
ただ、那智さんは最初から『体』に作用させようと思っていたそうだ。
これも何回か似たようなことは書いてきたと思うけど。
那智さんは『心は一定ではない』と思っているのだ。
そのときの感情や気分によって心の感じ方は違ってくるから、確実に快感として与えるには体であるほうがいいと思っている。
たしかに、こちら側からもいわせてもらえば、心はいかようにも表現できてしまうよね。
女性なら、一度くらいは『演技』したことあると思うし^^;
まあ、それも含めて、この男のセックスに酔いたいと思えることはいいことだし、演技することで高揚することもあるから、否定はしないけど。
心の快感はこちら側の裁量でどうにでもやりようがあることは否めないわけで、那智さんの裁量で与えるとしたら『体』のほうが一定で確実だと思っているのだろう。
寒ければ鳥肌が立つくらいはなかなか難しいかもしれないけど、きっとそれに近い感じかな。
そうそう、『溺愛』のころは、そこに『心』を入れ込んで楽しんでいたようにも思うから、那智さんとしても少しくらいはグラデーションを面白がっているかもしれないけどね。
痛いこと=鞭ではないけれど、わたしたちの鞭の形も変化しているってことで^^
出会ったころから何事も『一定』でありたいと思う那智さんだったけど、すこしずつ『心』も楽しみはじめているよう。
鞭で可愛がるようになってきたかな。
意思を持つ鞭1 2 3
鞭の時間
溺愛1 2 3
それとだんだん打つ場所も広がってきている
繰り返し
鞭の一体感
自己憐憫と安堵と肯定、ひと口に快感といってもすくなくともこれだけの快感はある
ひさしぶりの鞭
このころから、痛いことが体の快感に直結してきている
浴衣緊縛1 2 3 4 5
脳を変える1 2 3 4
泣くための
諦念1 2 3
『脳を変える』あたりが一番痛いこと=体の快感だったと思うけど、そんな簡単に脳は変えられるものではないので、それからも那智さんの心や意思、わたしの精神状態によって心が作用していろいろな感情を引き起こし最終的に快感になっている。
痛いこと=気持ちいいの道のりは長いのだ(笑)