溺愛3(1/15おまけ追加^^)
非日常的な日常
ひさしぶりの鞭は、驚くほどあっさりと快感になった。
欲情している状態だったことや最初スパンキングがら入ってくれたことなどいろいろな要素があるだろうけど、半年以上ぶりという心配は杞憂に終わった。
今回の鞭は、もしかしたらいままでの中で一番気持ちよかったかもしれない。
というか、いままでとはまた違った感覚になっていた。
いままでは痛いことは快感や痴人状態への道筋、痛いことを受け入れた先に何かが待っているという状態だから、とにかくまず痛いことを甘受している感じだったのに対し、このときはほとんど最初から痛いことが気持ちよくて、痛み自体を喜んでいたようだった。
だから、高笑いする痴人状態の突き抜ける感じにはならなかったけど、その代わり、ずっと朦朧とした快感が溢れていた。
そして、その快感を決定付けたのが、淫乱な自分を許し放出する幸福感。
那智さんは終止そのわたしを愛で肯定し歓迎していた。
SMを意識するなと言っていた那智さんが「りん子がマゾでうれしい」とわたしの『マゾ』を名指しして褒めてくれたのは、おそらく、はじめてだ。
那智さんの膝で自慰をするわたしを愛してくれていると感じられると、わたしもそのわたしがとんでもなく愛おしく思えるのだ。
あの窒息しそうなほどの甘い肯定が淫乱なわたしを放出させることを許したのだろう。
このタガを外せてしまえる状態はかなりの快感だった。
痛いことの先の正気を失う時間。
痛いことも気持ちいいことも全部が快感になるほどの那智さんの愛情と欲情に溺れる時間。
どちらも快感だけど、新しい時間だったことはたしかだ。
そして、今回の鞭はじつは那智さんにとっても同じ、もっというと、わたしよりも大きな変換だったかもしれないそうです。
ひさしぶりということもあって、那智さんは最初から『甘い』モードで鞭をしようと思っていました。
だから、打っては抱きしめ、また打ってはキスをしてということを繰り返し可愛がることを表現したのです。
もともと那智さんにとって鞭は『可愛がる』ことだから、一般的な鞭のイメージ、厳しいや鬼畜や冷徹や、とにかくそんなもの?とは違う可愛がる手段としての鞭をしていました。(その他のやSM行為も)
『大切にされながら酷いこと』とか『キスをするように鞭を振るう』なんて表現していたりしていますよね。
だから、方向性としては変わりないのだけど、それを存分に表に出したというところが新しいのです。
いつもなら、わたしがすり寄っていって『いいこいいこ』だったり、キスをねだってしてくれたりと、どこか『可愛がる』を内に秘めているようだったのを、那智さんからキスをして抱きしめて甘々であることをためらわなかったのです。
那智さん自身『可愛がる』ことは自覚していたし、『SMとは』なんてことは排除していたかったはずなんですけど、心のどこかにわずかに『鞭を打つときの空気』に既成のサディスト像を意識してしまって、ちょっと怖い雰囲気だったり厳しい雰囲気だったりを無意識に作っていたんですね。
同じことをするとしても、どのようにやるか。
これは、もしかしたら大きなポイントかもしれません。
痛みと愛撫と愛情をためわらず与える積極的な甘々の鞭をしてみたら、これが思いのほか快適で楽しくて『キスをするように鞭を打つ』ことを心底できたと感じられたそうなのです。
那智さんの満足できる愛し方だったのですね。
で、これは、那智さん自身うれしい発見ではありますが、反面、危険な展開でもあります。
少し危ない世界に足を踏み入れたかもしれない。
あの愛し方は際限がない、過激になる可能性がある。頭を撫でるのと同じならもっとたくさんもっと強くしたくなるかもしれない。
昔から痛覚の分野はエスカレートするから危険だと、常に慎重に進めご自分とわたしの両方を見極めてきた那智さんが、あらためて、そう文字にするということは、おそらく、そうなるし、そうなることを自身に許したのだろう。
わたしはこのメールを震える気持ちで読みました。
それはもちろん怖い気持ちや静かな覚悟。
だけど、それだけじゃない。
もともと痛いことへの憧れはわたしのほうが強かったと思っている。
まあ、那智さんは実現担当なのでどうしても慎重にならざるを得ないのだけど、それ以外の嗜好の部分に於いても。
鞭は可愛がる手段のひとつで『りん子が喜ぶから』というモチベーションがすこし多めに含まれていると感じていたのだ。
那智さんの中の『どうしてもやりたいこと』とはすこし違うのだろうと。
だから、心のどこかで『してもらっている』という気持ちがわずかにあった。
それが、今回の濃密な時間とその後の話しで、あれは那智さんの『したいこと』にだったと感じられたのだ。
(繰り返すけど、那智さんは自分の中で確信が持てないと発言されないから、かなりの覚悟を持っての発言と感じられるのです)
だから、新しい世界を知り進んでいく怖さと覚悟の他に、理性ではないどこかが震える思いになった。
きっと、それはよろこびという震え。
SM行為の快感にひとつは『快感が拒否を上回る』ことだと書いたことがあるけど、大好きな人の『どうしてもしたいこと』をぶつけられ、それに自分の『どうしてもしたいこと』が絡み合う濃密な時間を共有することも大きなよろこびだと思う。
那智さんのやりたいことでわたしが翻弄され、わたしのしたいことを感じさせてもらう。
これは互いに自分の嗜好や感情と向き合って生まれ、育まれるものだ。
『やりたいことはやる』というエントリーを書いたけど、『やりたいことをやりたいようにやる』ことも、同じように大切なことだと思う。
那智さんは鞭を頭を撫でることと同じような表現方法ですることで、よりふたりのよろこびに繋げることができた。
それは自分の嗜好と感情に真摯に向き合った表れだ。
誰かが作ったSMやご主人様と奴隷像からでは作り出せない。
SMは笑っちゃいけないなんて
サディストは鬼畜じゃないといけないなんて
ご主人様は厳しくないといけないなんて
いったい誰が決めたのだろう。
それもひとつの形とは思うけど、やりたいことをやりたいようにやる、そこには『ご主人様とは』とか『M女とは』なんてなくていい。
最初は既成のものから入ったとしても自分の心に耳を傾け違和感や好みを見極めればいい、それを自分と相手と作っていけばいい。
そのほうが自分たちだけの快感や幸福が手に入るし、それはずーーーっと続けたいと思うのだ。
俺もカッコ悪いよな(笑)
と、SMを意識するなとわたしに言っていたにも関わらず、無意識の中でわずかにその雰囲気を意識していたご自分に照れていう那智さん^^
そう照れ笑いする那智さんをわたしはカッコいいと思うのだ。
それはあなたがどれだけ自分とわたしに向き合ってくれたかの表れだから。
甘々な可愛がるSM、鞭とキスを同時に味わえるSM、愛情と欲情で溺れそうな支配があったって、いいじゃない、ね^^
<関連エントリー>
『やりたいことはやる』
おまけ、ツイートより
りん子(^-^)今回の『溺愛』、タイトル悩んだんだ。最初は『甘い鞭』とか『溺れる』とか考えたけど、同タイトルの本やブログも知っていたからやめた。既知のものとあえて同じにすることもあるんだけど今回はしたくなかったんだ。『溺愛』もたくさんありそうだけどわたしが知らなければいいの(笑
次に考えたのは『溺死』もしくは『窒息』。あまりに濃厚な甘さに、大げさだけど『死』を連想してしまったんだ。そして、あれをする那智さんの甘えさせるという方法の支配欲にすこし畏怖も感じたから。でも、『死』という言葉を使うことには慎重になりたくてボツ。
で、『溺愛』にたどり着いた。『溺愛』というと那智さん側の盲目的な愛という意味になってしまうのだけど、それとは違っていてね、わたしが深く濃い愛情に溺れる雰囲気を伝えたかったんだ。那智さん、わたしのこと盲目的には愛していないはずだから、補足説明でした(笑)
「溺愛3」感想です。そうなんですよ、この格好悪い事この上なかったのです。SMを意識するなといいながら、自分が無意識で鞭を打つ時には「それっぽく」していたことが、どうにもこうにも恥ずかしい。(笑)あまい鞭の魅力は大きいです、お試しに皆さんもいかがですか?
ひさしぶりの鞭は、驚くほどあっさりと快感になった。
欲情している状態だったことや最初スパンキングがら入ってくれたことなどいろいろな要素があるだろうけど、半年以上ぶりという心配は杞憂に終わった。
今回の鞭は、もしかしたらいままでの中で一番気持ちよかったかもしれない。
というか、いままでとはまた違った感覚になっていた。
いままでは痛いことは快感や痴人状態への道筋、痛いことを受け入れた先に何かが待っているという状態だから、とにかくまず痛いことを甘受している感じだったのに対し、このときはほとんど最初から痛いことが気持ちよくて、痛み自体を喜んでいたようだった。
だから、高笑いする痴人状態の突き抜ける感じにはならなかったけど、その代わり、ずっと朦朧とした快感が溢れていた。
そして、その快感を決定付けたのが、淫乱な自分を許し放出する幸福感。
那智さんは終止そのわたしを愛で肯定し歓迎していた。
SMを意識するなと言っていた那智さんが「りん子がマゾでうれしい」とわたしの『マゾ』を名指しして褒めてくれたのは、おそらく、はじめてだ。
那智さんの膝で自慰をするわたしを愛してくれていると感じられると、わたしもそのわたしがとんでもなく愛おしく思えるのだ。
あの窒息しそうなほどの甘い肯定が淫乱なわたしを放出させることを許したのだろう。
このタガを外せてしまえる状態はかなりの快感だった。
痛いことの先の正気を失う時間。
痛いことも気持ちいいことも全部が快感になるほどの那智さんの愛情と欲情に溺れる時間。
どちらも快感だけど、新しい時間だったことはたしかだ。
そして、今回の鞭はじつは那智さんにとっても同じ、もっというと、わたしよりも大きな変換だったかもしれないそうです。
ひさしぶりということもあって、那智さんは最初から『甘い』モードで鞭をしようと思っていました。
だから、打っては抱きしめ、また打ってはキスをしてということを繰り返し可愛がることを表現したのです。
もともと那智さんにとって鞭は『可愛がる』ことだから、一般的な鞭のイメージ、厳しいや鬼畜や冷徹や、とにかくそんなもの?とは違う可愛がる手段としての鞭をしていました。(その他のやSM行為も)
『大切にされながら酷いこと』とか『キスをするように鞭を振るう』なんて表現していたりしていますよね。
だから、方向性としては変わりないのだけど、それを存分に表に出したというところが新しいのです。
いつもなら、わたしがすり寄っていって『いいこいいこ』だったり、キスをねだってしてくれたりと、どこか『可愛がる』を内に秘めているようだったのを、那智さんからキスをして抱きしめて甘々であることをためらわなかったのです。
那智さん自身『可愛がる』ことは自覚していたし、『SMとは』なんてことは排除していたかったはずなんですけど、心のどこかにわずかに『鞭を打つときの空気』に既成のサディスト像を意識してしまって、ちょっと怖い雰囲気だったり厳しい雰囲気だったりを無意識に作っていたんですね。
同じことをするとしても、どのようにやるか。
これは、もしかしたら大きなポイントかもしれません。
痛みと愛撫と愛情をためわらず与える積極的な甘々の鞭をしてみたら、これが思いのほか快適で楽しくて『キスをするように鞭を打つ』ことを心底できたと感じられたそうなのです。
那智さんの満足できる愛し方だったのですね。
で、これは、那智さん自身うれしい発見ではありますが、反面、危険な展開でもあります。
少し危ない世界に足を踏み入れたかもしれない。
あの愛し方は際限がない、過激になる可能性がある。頭を撫でるのと同じならもっとたくさんもっと強くしたくなるかもしれない。
昔から痛覚の分野はエスカレートするから危険だと、常に慎重に進めご自分とわたしの両方を見極めてきた那智さんが、あらためて、そう文字にするということは、おそらく、そうなるし、そうなることを自身に許したのだろう。
わたしはこのメールを震える気持ちで読みました。
それはもちろん怖い気持ちや静かな覚悟。
だけど、それだけじゃない。
もともと痛いことへの憧れはわたしのほうが強かったと思っている。
まあ、那智さんは実現担当なのでどうしても慎重にならざるを得ないのだけど、それ以外の嗜好の部分に於いても。
鞭は可愛がる手段のひとつで『りん子が喜ぶから』というモチベーションがすこし多めに含まれていると感じていたのだ。
那智さんの中の『どうしてもやりたいこと』とはすこし違うのだろうと。
だから、心のどこかで『してもらっている』という気持ちがわずかにあった。
それが、今回の濃密な時間とその後の話しで、あれは那智さんの『したいこと』にだったと感じられたのだ。
(繰り返すけど、那智さんは自分の中で確信が持てないと発言されないから、かなりの覚悟を持っての発言と感じられるのです)
だから、新しい世界を知り進んでいく怖さと覚悟の他に、理性ではないどこかが震える思いになった。
きっと、それはよろこびという震え。
SM行為の快感にひとつは『快感が拒否を上回る』ことだと書いたことがあるけど、大好きな人の『どうしてもしたいこと』をぶつけられ、それに自分の『どうしてもしたいこと』が絡み合う濃密な時間を共有することも大きなよろこびだと思う。
那智さんのやりたいことでわたしが翻弄され、わたしのしたいことを感じさせてもらう。
これは互いに自分の嗜好や感情と向き合って生まれ、育まれるものだ。
『やりたいことはやる』というエントリーを書いたけど、『やりたいことをやりたいようにやる』ことも、同じように大切なことだと思う。
那智さんは鞭を頭を撫でることと同じような表現方法ですることで、よりふたりのよろこびに繋げることができた。
それは自分の嗜好と感情に真摯に向き合った表れだ。
誰かが作ったSMやご主人様と奴隷像からでは作り出せない。
SMは笑っちゃいけないなんて
サディストは鬼畜じゃないといけないなんて
ご主人様は厳しくないといけないなんて
いったい誰が決めたのだろう。
それもひとつの形とは思うけど、やりたいことをやりたいようにやる、そこには『ご主人様とは』とか『M女とは』なんてなくていい。
最初は既成のものから入ったとしても自分の心に耳を傾け違和感や好みを見極めればいい、それを自分と相手と作っていけばいい。
そのほうが自分たちだけの快感や幸福が手に入るし、それはずーーーっと続けたいと思うのだ。
俺もカッコ悪いよな(笑)
と、SMを意識するなとわたしに言っていたにも関わらず、無意識の中でわずかにその雰囲気を意識していたご自分に照れていう那智さん^^
そう照れ笑いする那智さんをわたしはカッコいいと思うのだ。
それはあなたがどれだけ自分とわたしに向き合ってくれたかの表れだから。
甘々な可愛がるSM、鞭とキスを同時に味わえるSM、愛情と欲情で溺れそうな支配があったって、いいじゃない、ね^^
<関連エントリー>
『やりたいことはやる』
おまけ、ツイートより
りん子(^-^)今回の『溺愛』、タイトル悩んだんだ。最初は『甘い鞭』とか『溺れる』とか考えたけど、同タイトルの本やブログも知っていたからやめた。既知のものとあえて同じにすることもあるんだけど今回はしたくなかったんだ。『溺愛』もたくさんありそうだけどわたしが知らなければいいの(笑
次に考えたのは『溺死』もしくは『窒息』。あまりに濃厚な甘さに、大げさだけど『死』を連想してしまったんだ。そして、あれをする那智さんの甘えさせるという方法の支配欲にすこし畏怖も感じたから。でも、『死』という言葉を使うことには慎重になりたくてボツ。
で、『溺愛』にたどり着いた。『溺愛』というと那智さん側の盲目的な愛という意味になってしまうのだけど、それとは違っていてね、わたしが深く濃い愛情に溺れる雰囲気を伝えたかったんだ。那智さん、わたしのこと盲目的には愛していないはずだから、補足説明でした(笑)
「溺愛3」感想です。そうなんですよ、この格好悪い事この上なかったのです。SMを意識するなといいながら、自分が無意識で鞭を打つ時には「それっぽく」していたことが、どうにもこうにも恥ずかしい。(笑)あまい鞭の魅力は大きいです、お試しに皆さんもいかがですか?
COMMENT
可愛がる手段としてのSM行為。
ストンと腑に落ちました。
私の望んでいたものを表現する言葉はこれだったんだなあって。
最近頭を踏まれることが嬉しいんです。
それはまるでギュッと抱きしめてもらっているときと同じ感覚。
もちろん可愛がる手段として踏んでくれていることが第一条件だけど、それでも自分でも不思議な感覚だなあ、と思います。
そんなSMがあったって、いいですよ、ね^^
ストンと腑に落ちました。
私の望んでいたものを表現する言葉はこれだったんだなあって。
最近頭を踏まれることが嬉しいんです。
それはまるでギュッと抱きしめてもらっているときと同じ感覚。
もちろん可愛がる手段として踏んでくれていることが第一条件だけど、それでも自分でも不思議な感覚だなあ、と思います。
そんなSMがあったって、いいですよ、ね^^
レスが遅くなってごめんなさい。
可愛がる手段としてのSM行為^^
そうですね〜。
SMというと行為と関係性を一緒くたにしてしまいがちだけど、本来は別のもので、別のものだと考えると自由度が増しますよね。
踏まれることが抱きしめられていることと感じられることもめいさんにとって自由な感性の中感じることができたのでしょうね^^
いいですね〜、抱きしめるように踏む。
めいさんのコメントで、きっと次踏んでもらうとき、わたしもよりその幸福を実感できそうです^^
可愛がる手段としてのSM行為^^
そうですね〜。
SMというと行為と関係性を一緒くたにしてしまいがちだけど、本来は別のもので、別のものだと考えると自由度が増しますよね。
踏まれることが抱きしめられていることと感じられることもめいさんにとって自由な感性の中感じることができたのでしょうね^^
いいですね〜、抱きしめるように踏む。
めいさんのコメントで、きっと次踏んでもらうとき、わたしもよりその幸福を実感できそうです^^