恩義
独特な幸福感
付き合いが長くなればお互いのいろいろなことがわかってくる。
使いなれたシーツのように肌に馴染み、この口調のときはこんな心境とかこういう日はきっと中華とか^^なんとなくの以心伝心は長く付き合って味わえるものだと思う。
ただ、それと同じようにマイナスなことだって当然ある。
出会った当初のほうがずっと那智さん『すばらしい人』だった(笑)
不安定だったわたしの道しるべで何があっても絶対失敗しない、大げさだけど神様みたいに思ってしまいそうでもあった。
那智さんは『カッコ悪いことを隠さないほうがカッコいい』という人なので『森のクマさん』だってするし、酔っぱらいさんだって何度も経験しているし、間違うこともあるし、そしたらちゃんと謝罪だってする。
当たり前だけど、神様ではない。
長年付き合いっているとそういうマイナス(と言えないかもね、人間味?)面もいろいろ見えてくるものだ。
『りん子にウソをつきたくない』に天の邪鬼さんが発動してしまうことがあることだって知り合って半年のわたしだったら気づかなかったと思う。(『誠実な天の邪鬼』)
完璧な人間なんていない。
むしろ、ちょっとダメなところがあったほうが味がある。
当然、そうだけど、出会った頃と変わらず那智さんを尊敬して、いまでもわたしが心地よく『下』でいられるのには、那智さんが大事なポイントは変わらないでいてくれうこともありけど、ある思考回路が役立っていることもあるからだ。
それは『恩義』。
出会って間もないころ。
ものすごく付き合ってくれてわたしは自分改革をしていたころ。
自分の気持ちを言葉にする。
相手を信じる。
不必要に自分を責めない。
安心と自信を与えてもらって、愛される価値はないという足枷を解いていくことができている中、那智さんにこんな質問をしたことがある。
わたしがどんどんしっかりしてきて、いつか那智さんを論破してしまうときがきたらどうします?
いつか那智さんのことを、いまのように尊敬していつも下でってしていられなくなっちゃうんじゃないか。
すこしずつ自己主張ができるようになって、それはいいことなんだけど、すこし強くなっていく自分が不安になって聞いてみたことがあった。
学生時代にお世話になった先生と同窓会で会ってもさ、ずっと先生と生徒のままじゃない?
たとえば、自分が社長とかになっていて、先生がおじいちゃんになってたとしても、頭上がらないだろ?
先生は一生先生なんだよ。
だから、俺は、ずっとりん子の先生なの(笑)
このときは冗談まじりなトーンで答えてくれたけど、わたしにはこの感覚がとてもしみ込んでいるのだ。(『先生』)
これが恩義の気持ち。
いま、
わたしがきちんと主張できるのは那智さんが自信を持たせてくれたから。
自分ばかりを責めないで公平に対処できるようになったのは、心がまえを教えてくれたから。
仕事も家庭も人間関係も、わたしが豊かな人生を送ることができるのは、那智さんがいてくれたから。
あ、わたし、ちゃんと立ててる、ちゃんと言えたと自信のようなものが溢れるとき、それは那智さんのおかげだと思う気持ち。(もちろん、わたしの実力や努力もあるけどね^^)
これを忘れないでいることが、どんなにトホホな部分を知っても(笑)、どんなにりん子さん立派になったね〜となっても、長年尊敬の念を抱いたまま上下の関係を保つことができるのだ。
それでも人の心は変化するもの。
自分が成長するにつれ、恩義の気持ちが薄れていくことだってあり得る。
じゃあ、なぜ、いまなお那智さんを尊敬し、恩義の気持ちを持ち続けることができるのかというと、ひとつ大事なことがあるんだ。
それはね。
いつも、まず最初に那智さんがわたしに与えてくれていた、ということ。
前エントリーに書いたように、成熟した大人の文化は『強者が弱者に手を差し伸べる』ものだと思っている。
那智さんはわたしとの関係において、それをずっとしてくれるのだ。
上下の上が、まず先に与える。
そうすると、下はそれに感謝し、上に対する尊敬の念を持つようになる。
そして、また上は下に手を差し伸べる、すると下は上をより慕い、最終的には上の喜びは下の喜びへの変わっていく。
この循環を作ってくれたのが上の立場なのだから、その記憶が尊敬の気持ちとなってずっとずっと恩義を感じることができるのだ。
以前『卵が先か、鶏が先か』というエントリーを書いた。
上下を作るなら、それが役割り分担のロールプレイングではなく、スイッチオンオフではなく、心から自然に上下である関係を作りたいなら、やはり上の立場から先に与え続けないと成立しない。
上が先に与え、下はそれを受け取ること恩義を感じていつまでも慕い、より忠誠を尽くせる、このよい循環は上の立場が成熟した大人だから作れるものなんだと思うという結論です。
だから、いつまでも那智さんに恩義の気持ちを持ち、良好な上下でいられるのですね^^
ということで、やっぱりわたしは『先に愛情を示したら、愛してやる』という、先にちょうだいするご主人様には尊敬の念も恩義も感じることはできないだろうなと思うのでした。
「等式」感想です。良い気分で読み出したら、最後の言いたいことはそれですか?(笑)個人的には褒められた雰囲気で終了する方が良いのですが。まあ、タイトルが「恩義」なのでそうでもないのでしょうね。
付き合いが長くなればお互いのいろいろなことがわかってくる。
使いなれたシーツのように肌に馴染み、この口調のときはこんな心境とかこういう日はきっと中華とか^^なんとなくの以心伝心は長く付き合って味わえるものだと思う。
ただ、それと同じようにマイナスなことだって当然ある。
出会った当初のほうがずっと那智さん『すばらしい人』だった(笑)
不安定だったわたしの道しるべで何があっても絶対失敗しない、大げさだけど神様みたいに思ってしまいそうでもあった。
那智さんは『カッコ悪いことを隠さないほうがカッコいい』という人なので『森のクマさん』だってするし、酔っぱらいさんだって何度も経験しているし、間違うこともあるし、そしたらちゃんと謝罪だってする。
当たり前だけど、神様ではない。
長年付き合いっているとそういうマイナス(と言えないかもね、人間味?)面もいろいろ見えてくるものだ。
『りん子にウソをつきたくない』に天の邪鬼さんが発動してしまうことがあることだって知り合って半年のわたしだったら気づかなかったと思う。(『誠実な天の邪鬼』)
完璧な人間なんていない。
むしろ、ちょっとダメなところがあったほうが味がある。
当然、そうだけど、出会った頃と変わらず那智さんを尊敬して、いまでもわたしが心地よく『下』でいられるのには、那智さんが大事なポイントは変わらないでいてくれうこともありけど、ある思考回路が役立っていることもあるからだ。
それは『恩義』。
出会って間もないころ。
ものすごく付き合ってくれてわたしは自分改革をしていたころ。
自分の気持ちを言葉にする。
相手を信じる。
不必要に自分を責めない。
安心と自信を与えてもらって、愛される価値はないという足枷を解いていくことができている中、那智さんにこんな質問をしたことがある。
わたしがどんどんしっかりしてきて、いつか那智さんを論破してしまうときがきたらどうします?
いつか那智さんのことを、いまのように尊敬していつも下でってしていられなくなっちゃうんじゃないか。
すこしずつ自己主張ができるようになって、それはいいことなんだけど、すこし強くなっていく自分が不安になって聞いてみたことがあった。
学生時代にお世話になった先生と同窓会で会ってもさ、ずっと先生と生徒のままじゃない?
たとえば、自分が社長とかになっていて、先生がおじいちゃんになってたとしても、頭上がらないだろ?
先生は一生先生なんだよ。
だから、俺は、ずっとりん子の先生なの(笑)
このときは冗談まじりなトーンで答えてくれたけど、わたしにはこの感覚がとてもしみ込んでいるのだ。(『先生』)
これが恩義の気持ち。
いま、
わたしがきちんと主張できるのは那智さんが自信を持たせてくれたから。
自分ばかりを責めないで公平に対処できるようになったのは、心がまえを教えてくれたから。
仕事も家庭も人間関係も、わたしが豊かな人生を送ることができるのは、那智さんがいてくれたから。
あ、わたし、ちゃんと立ててる、ちゃんと言えたと自信のようなものが溢れるとき、それは那智さんのおかげだと思う気持ち。(もちろん、わたしの実力や努力もあるけどね^^)
これを忘れないでいることが、どんなにトホホな部分を知っても(笑)、どんなにりん子さん立派になったね〜となっても、長年尊敬の念を抱いたまま上下の関係を保つことができるのだ。
それでも人の心は変化するもの。
自分が成長するにつれ、恩義の気持ちが薄れていくことだってあり得る。
じゃあ、なぜ、いまなお那智さんを尊敬し、恩義の気持ちを持ち続けることができるのかというと、ひとつ大事なことがあるんだ。
それはね。
いつも、まず最初に那智さんがわたしに与えてくれていた、ということ。
前エントリーに書いたように、成熟した大人の文化は『強者が弱者に手を差し伸べる』ものだと思っている。
那智さんはわたしとの関係において、それをずっとしてくれるのだ。
上下の上が、まず先に与える。
そうすると、下はそれに感謝し、上に対する尊敬の念を持つようになる。
そして、また上は下に手を差し伸べる、すると下は上をより慕い、最終的には上の喜びは下の喜びへの変わっていく。
この循環を作ってくれたのが上の立場なのだから、その記憶が尊敬の気持ちとなってずっとずっと恩義を感じることができるのだ。
以前『卵が先か、鶏が先か』というエントリーを書いた。
上下を作るなら、それが役割り分担のロールプレイングではなく、スイッチオンオフではなく、心から自然に上下である関係を作りたいなら、やはり上の立場から先に与え続けないと成立しない。
上が先に与え、下はそれを受け取ること恩義を感じていつまでも慕い、より忠誠を尽くせる、このよい循環は上の立場が成熟した大人だから作れるものなんだと思うという結論です。
だから、いつまでも那智さんに恩義の気持ちを持ち、良好な上下でいられるのですね^^
ということで、やっぱりわたしは『先に愛情を示したら、愛してやる』という、先にちょうだいするご主人様には尊敬の念も恩義も感じることはできないだろうなと思うのでした。
「等式」感想です。良い気分で読み出したら、最後の言いたいことはそれですか?(笑)個人的には褒められた雰囲気で終了する方が良いのですが。まあ、タイトルが「恩義」なのでそうでもないのでしょうね。
あなたが心配
独り言
人って利己的だよねって思う。
犬気質だとか同化願望があるから那智さんが嬉しいと幸せ、那智さんがつらいと本人以上に心配しちゃう、なんて殊勝なことを言っているけど、わたしは自分の本心がじつはちゃんとわかっている。
もちろん額面通り那智さんが嬉しいと幸せだし大変なときはこちらまでつらくなってしまうことも事実。
大変な状態が1分でも1秒でも早く軽減されること願うし、協力できることがあれば可能な限りお手伝いする。
だけどね。
『あなたのことが心配』という心の中に、分量はいろいろだけど、わたしのために『あなたが心配』という気持ちがあることも知っている。
体調やトラブルで那智さんの機嫌が変わることはほとんどないので体調不良で八つ当たりされたくないな〜という心配はないのだけど。
那智さんが好調でないと、わたしをかまうエネルギーが減ってしまうんじゃないかというとても利己的な感情から『あなたが心配』と口にしていることは否定できない。
人は無償の愛情なんてそう簡単には持てない。
ほとんどの人間関係は交換しあうものがあるから成立しているのだ、親子だってそうだよね。
自分の利己的な部分を知っているから、恋人のことが心配で何度もメールしていたり、「あなたが心配だから」とあれこれ世話を焼いている様子を見ると、そのうちの何%かは自分のためだよね、と思ったりする。
ここ数日、那智さん、ほんのすこし体調が完璧ではなかった。
最初のうちは心配がほとんどだったけど、会う日が近づくにつれて『わたしのために那智さんが心配』にバランスが変わってきているように感じられて、己の利己的な感情に、ちょっぴり苦笑していた。
そして、しばらくぶりに抱かれる前の日。
体調はほとんど大丈夫になっていたけど、那智さん、ただいまダイエット中で朝ご飯は抜きにしようかという話になったとき、
那智さん、朝ご飯食べましょうよ、小うどんだけでも!!
と、ハッキリと朝食を食べることをススメてしまっていた、ちょっぴり体調を心配する風で。
あちゃ〜。
わたしったら、食べて、より元気になって抱いてもらおうとしているよ^^;
さすがに、情けなくなる。
那智さんもわかっていて
りん子、俺が心配なんじゃなくて、パワーつけさせたいだけだろ?(笑)
と笑う。
ああ、そうです。
わたしの犬気質や同化願望なんて、所詮こんなもの^^;
まあ、委ねる側が委ねられるか心配するのは、致し方ないか。
ヘンデルとグレーテルの魔女だ、わたし。
太らせて食べるつもりなんだ。
那智さんに栄養を摂ってもらって、自分の利益にしようとしている。
女って、こわい生き物。
あ、こわいのはわたしか。
那智さん、ごめんなさい、わたしはこわーい女です(笑)
無償の愛なんてなくて、たいがい人間は利己的だ。
だけど、それがわかっている中で本当に手を合わせて祈るような気持ちになったり、我がことのように走る瞬間がある。
わたしはその気持ちを、どうかわたしのために元気でいてくださいと言葉にするしかないのだ。
14日感想です。私も打算的な部分は当然あるわけで、それでも、その瞬間打算抜きで何秒、思いを「感じる」ことが出来たかに価値があるのでは
人って利己的だよねって思う。
犬気質だとか同化願望があるから那智さんが嬉しいと幸せ、那智さんがつらいと本人以上に心配しちゃう、なんて殊勝なことを言っているけど、わたしは自分の本心がじつはちゃんとわかっている。
もちろん額面通り那智さんが嬉しいと幸せだし大変なときはこちらまでつらくなってしまうことも事実。
大変な状態が1分でも1秒でも早く軽減されること願うし、協力できることがあれば可能な限りお手伝いする。
だけどね。
『あなたのことが心配』という心の中に、分量はいろいろだけど、わたしのために『あなたが心配』という気持ちがあることも知っている。
体調やトラブルで那智さんの機嫌が変わることはほとんどないので体調不良で八つ当たりされたくないな〜という心配はないのだけど。
那智さんが好調でないと、わたしをかまうエネルギーが減ってしまうんじゃないかというとても利己的な感情から『あなたが心配』と口にしていることは否定できない。
人は無償の愛情なんてそう簡単には持てない。
ほとんどの人間関係は交換しあうものがあるから成立しているのだ、親子だってそうだよね。
自分の利己的な部分を知っているから、恋人のことが心配で何度もメールしていたり、「あなたが心配だから」とあれこれ世話を焼いている様子を見ると、そのうちの何%かは自分のためだよね、と思ったりする。
ここ数日、那智さん、ほんのすこし体調が完璧ではなかった。
最初のうちは心配がほとんどだったけど、会う日が近づくにつれて『わたしのために那智さんが心配』にバランスが変わってきているように感じられて、己の利己的な感情に、ちょっぴり苦笑していた。
そして、しばらくぶりに抱かれる前の日。
体調はほとんど大丈夫になっていたけど、那智さん、ただいまダイエット中で朝ご飯は抜きにしようかという話になったとき、
那智さん、朝ご飯食べましょうよ、小うどんだけでも!!
と、ハッキリと朝食を食べることをススメてしまっていた、ちょっぴり体調を心配する風で。
あちゃ〜。
わたしったら、食べて、より元気になって抱いてもらおうとしているよ^^;
さすがに、情けなくなる。
那智さんもわかっていて
りん子、俺が心配なんじゃなくて、パワーつけさせたいだけだろ?(笑)
と笑う。
ああ、そうです。
わたしの犬気質や同化願望なんて、所詮こんなもの^^;
まあ、委ねる側が委ねられるか心配するのは、致し方ないか。
ヘンデルとグレーテルの魔女だ、わたし。
太らせて食べるつもりなんだ。
那智さんに栄養を摂ってもらって、自分の利益にしようとしている。
女って、こわい生き物。
あ、こわいのはわたしか。
那智さん、ごめんなさい、わたしはこわーい女です(笑)
無償の愛なんてなくて、たいがい人間は利己的だ。
だけど、それがわかっている中で本当に手を合わせて祈るような気持ちになったり、我がことのように走る瞬間がある。
わたしはその気持ちを、どうかわたしのために元気でいてくださいと言葉にするしかないのだ。
14日感想です。私も打算的な部分は当然あるわけで、それでも、その瞬間打算抜きで何秒、思いを「感じる」ことが出来たかに価値があるのでは
いつでも那智さん
独特な幸福感
わたしたちは、いまおそらくとてもコミュニケーションを取ることができている。
一年間お休みが合わない時期などもあったので、いまの環境が一番コミュニケーションを取ることができるようになったというほうが正しいかもしれない。
なかなか思うようにコミュニケーションが取れない環境の人からしたら、とても恵まれた環境にいると感謝している。
ひとりでお仕事をする機会がときどきある那智さん。
そんなときは比較的たくさん繋がっていてくれる。
通話無料の携帯にヘッドセットをつけて。
ほとんどわたしが話題提供をしてそれに反応してくれたら会話になるし、内容や状況によってはカラ返事やスルーなんてこともある(笑)
わたしもパソコンに向かったり用事を済ませたりしながらだから、ずっと会話しているわけではなくて、静かな時間もけっこうある。
でも繋がっているということが一番の目的なのでスルーも無言も、それでいいのだ。
那智さんの足音。
資料をめくる紙の音。
誰かと電話で話す声。
そんなのを聞きながら過ごす静かな時間はわたしの幸福。
それでも来客があったり、わたしのほうが電波が悪くなったりでせいぜい午前中だけとかが多いのだけど、年に一度か二度くらい、タイミングが合って日中ほとんど繋がっていられることもある。
そんな日だった。
この日は携帯ではなくSkypeの音声。
しばらくポツポツと会話はしていたけど、那智さんもいろいろ立て込んできたのだろう、自分のほうの音量はオフにして話せる状況になったらオンにするということになった。
なんと幸運なことに、わたしはほぼ一日中那智さんの気配を感じながら家の中で過ごせるということになったのだ。
あちらの音量がオフなのでほとんど那智さんの意識の中にわたしはいないらしい。
ときどき、あー、忘れてたとオンにしてくれたりするほどの放ったらかし状態。
でも、とてもとても幸せだ。
キーボードを叩く音を聞きながら、咳払いを聞きながら、ときどきどこかへ行ってしまってまた戻ってきたりを感じながら。
こちらもパソコンに向かったり、いろいろ用事を済ませたり。
ほとんど話しかけられることはないけれど、まるでデスクの下でうたた寝をする犬のような幸せを享受していた。
電話で話す声。
来客だろうか、パソコンから離れて何か会話の気配。
様々なおしゃべりが聞こえてくる。
一方的に話すお仕事の会話。
内容はほとんどわからないし、敢えて聞こうとも思わない。
ただ繋がっていることが幸せだからね。
それでも、内容はわからなくても空気は伝わってくる。
そして、ふと思うのだ。
那智さん、変わらない。
人によって態度が変わらない。
スタンスが変わらないのだ。
相手が男性でも女性でも、目上の人や後輩、さらにはお掃除のおばさんにも。
そりゃあ、立場によって敬語や親しい言葉やいろいろ違うけど、でも誰に対しても同じ目線で、那智さんらしさが変わらないのだ。
一日誰かと会話している空気を感じていてわかる。
「正直が一番強いんですよ」
「物に当たるのは嫌いですよ」
なんて、何の会話だかわからないけど、よくわたしが聞く那智さん語録もちょこちょこ挟んだり^^
那智さんは誰に対しても『那智さん』なのだ。
知り合って間もない頃
俺は基本、誰とでも同じように接する。
そうだな、たとえば相手が女子高校生だったとしてもこのままだよ。
と笑いながらお話ししてくれたことを思い出す。
相手の顔色を伺ってしまって、つい相手の求める人に自分を合わせてしまっていたわたしは、それを聞いたときちょっと羨ましいなと思っていた記憶がある。
あの頃と変わらない那智さんが、そして人に対してもスタンスが変わらない那智さんをちょっぴりステキだと思うし、憧れる。
(酔っぱらいさんとときは、う〜ん、ずいぶんいろんなことがゆるむけど、基本スタンスは変わらないはず 笑)
でも、最近感じるのだ。
ブログを通して知り合った人たちに、わたしは『りん子』でいられているような気がする。
誰にでも『りん子』というスタンスを変えることなくいられている。
そして、わたしはその『りん子』が好きで、実は日常生活のスタンスも『りん子』と差がなくなっているように思える。
まあ、日常生活ではこんなに自己主張する必要もないけど^^大事な人にはわたしが好きな『わたし』でいられている。
スタンスを変えない那智さんに憧れているけれど、ちょっとわたしもできてるのかなって、最近うれしいと感じている^^
お酒が入るともっとダメ人間になるとか、那智さんがそばにいるとふにゃんとしてしまうとか、いろいろクレームはつくかもしれませんが、それも含めて、わたしはいま『りん子』が快適で大好きなのだ^^
「等式」感想です。人によってスタンスを「変えたくない」との思いが強いのかもしれません。りん子の那智化は善悪しがあるので、そこのところを宜しくね。(笑)
わたしたちは、いまおそらくとてもコミュニケーションを取ることができている。
一年間お休みが合わない時期などもあったので、いまの環境が一番コミュニケーションを取ることができるようになったというほうが正しいかもしれない。
なかなか思うようにコミュニケーションが取れない環境の人からしたら、とても恵まれた環境にいると感謝している。
ひとりでお仕事をする機会がときどきある那智さん。
そんなときは比較的たくさん繋がっていてくれる。
通話無料の携帯にヘッドセットをつけて。
ほとんどわたしが話題提供をしてそれに反応してくれたら会話になるし、内容や状況によってはカラ返事やスルーなんてこともある(笑)
わたしもパソコンに向かったり用事を済ませたりしながらだから、ずっと会話しているわけではなくて、静かな時間もけっこうある。
でも繋がっているということが一番の目的なのでスルーも無言も、それでいいのだ。
那智さんの足音。
資料をめくる紙の音。
誰かと電話で話す声。
そんなのを聞きながら過ごす静かな時間はわたしの幸福。
それでも来客があったり、わたしのほうが電波が悪くなったりでせいぜい午前中だけとかが多いのだけど、年に一度か二度くらい、タイミングが合って日中ほとんど繋がっていられることもある。
そんな日だった。
この日は携帯ではなくSkypeの音声。
しばらくポツポツと会話はしていたけど、那智さんもいろいろ立て込んできたのだろう、自分のほうの音量はオフにして話せる状況になったらオンにするということになった。
なんと幸運なことに、わたしはほぼ一日中那智さんの気配を感じながら家の中で過ごせるということになったのだ。
あちらの音量がオフなのでほとんど那智さんの意識の中にわたしはいないらしい。
ときどき、あー、忘れてたとオンにしてくれたりするほどの放ったらかし状態。
でも、とてもとても幸せだ。
キーボードを叩く音を聞きながら、咳払いを聞きながら、ときどきどこかへ行ってしまってまた戻ってきたりを感じながら。
こちらもパソコンに向かったり、いろいろ用事を済ませたり。
ほとんど話しかけられることはないけれど、まるでデスクの下でうたた寝をする犬のような幸せを享受していた。
電話で話す声。
来客だろうか、パソコンから離れて何か会話の気配。
様々なおしゃべりが聞こえてくる。
一方的に話すお仕事の会話。
内容はほとんどわからないし、敢えて聞こうとも思わない。
ただ繋がっていることが幸せだからね。
それでも、内容はわからなくても空気は伝わってくる。
そして、ふと思うのだ。
那智さん、変わらない。
人によって態度が変わらない。
スタンスが変わらないのだ。
相手が男性でも女性でも、目上の人や後輩、さらにはお掃除のおばさんにも。
そりゃあ、立場によって敬語や親しい言葉やいろいろ違うけど、でも誰に対しても同じ目線で、那智さんらしさが変わらないのだ。
一日誰かと会話している空気を感じていてわかる。
「正直が一番強いんですよ」
「物に当たるのは嫌いですよ」
なんて、何の会話だかわからないけど、よくわたしが聞く那智さん語録もちょこちょこ挟んだり^^
那智さんは誰に対しても『那智さん』なのだ。
知り合って間もない頃
俺は基本、誰とでも同じように接する。
そうだな、たとえば相手が女子高校生だったとしてもこのままだよ。
と笑いながらお話ししてくれたことを思い出す。
相手の顔色を伺ってしまって、つい相手の求める人に自分を合わせてしまっていたわたしは、それを聞いたときちょっと羨ましいなと思っていた記憶がある。
あの頃と変わらない那智さんが、そして人に対してもスタンスが変わらない那智さんをちょっぴりステキだと思うし、憧れる。
(酔っぱらいさんとときは、う〜ん、ずいぶんいろんなことがゆるむけど、基本スタンスは変わらないはず 笑)
でも、最近感じるのだ。
ブログを通して知り合った人たちに、わたしは『りん子』でいられているような気がする。
誰にでも『りん子』というスタンスを変えることなくいられている。
そして、わたしはその『りん子』が好きで、実は日常生活のスタンスも『りん子』と差がなくなっているように思える。
まあ、日常生活ではこんなに自己主張する必要もないけど^^大事な人にはわたしが好きな『わたし』でいられている。
スタンスを変えない那智さんに憧れているけれど、ちょっとわたしもできてるのかなって、最近うれしいと感じている^^
お酒が入るともっとダメ人間になるとか、那智さんがそばにいるとふにゃんとしてしまうとか、いろいろクレームはつくかもしれませんが、それも含めて、わたしはいま『りん子』が快適で大好きなのだ^^
「等式」感想です。人によってスタンスを「変えたくない」との思いが強いのかもしれません。りん子の那智化は善悪しがあるので、そこのところを宜しくね。(笑)
カテゴリ「娘」
140字もどき
ブログを書いているとコメントなどの反応以外でも、なんとなく反応が空気となって感じられる気がしている。
カウンターの数や、それまでのコメントや拍手の数との比較など、数字で想像できるものだけ見ても、その空気はあると思っている。
まあ、超能力があるわけでもないので、思い過ごしだと言ってしまえばそれまでなんだし、おそらく、書いている本人が内容によって勝手に空気を想像してしまっている部分も多いにあると思うけど、でも、感じるものは感じるのだ。
わたしがネットでSM関連のサイトやブログを見始めたのはたぶん7、8年前。
自分がその中に飛び込んでブログをはじめたのが6年前。
ネット上のわたしは視野はきわめて狭いと自覚しているけど、でも、その当時のSM界には『対等な上下関係』と明言している関係はめずらしかったと思う。
SとMのパートナーかご主人様と奴隷がほとんどだった。
しっかり自立した者同士のSとMのパートナーか、絶対服従で『ご主人様のため』のご主人様と奴隷。
その中で対等でありながら主導権を持つ上と委ねる下の上下、まして、相手に父性を求め『お父さんと娘』という関係性などはほとんどなかったと思う。
ペットというのもあったけど、どちらかというと家畜や牝豚というような、蔑み、服従する『奴隷』の動物名ヴァージョンという感じ。
わたし側は服従とか忠誠とか我慢とかそういうことばかりを求められていた。
支配と言いながら、一方で自立を強いられわたし側が依存することはNGのような世界だった。
そんな中。
はっきりと依存しているといい。
父性を求め、父と娘のような上下であるなんて、なかなか書くのに勇気がいることだった。
(スパンキングの世界では父と娘はあるようですけど、それは知らないことでした^^)
那智さんは『SMを意識するな』といい、ブログでも『自分たちは主従ではない』というように指示してくれたので、SM界ではあまり見られなかった『父と娘(対等で上下)』を書き続けても、『それはSMじゃない!!』というような批判が来ることはなかったけど。
でも、ちょっと異端かもしれないと怖々書いているところはあった。
『対等で上下』の関係、とくに『お父さんと娘』の要素を含んだエントリー、たとえば『毛布』や『全肯定1 2』をアップしたときなどは、最初に書いたような『空気』が、それも冷ややかな空気がヒシヒシと伝わってくるようだった。
こんなことを書いたら引かれるだろうな〜という負い目がそう感じさせていたのかもしれないけど、でも、きっと『イタイ女』として映っていたのは間違いじゃないはず。
だから、父性や『父と娘』的なエントリーをアップするときは、ずいぶんヒヤヒヤしていたものだ。
それが徐々に共感してくれるコメントやメールをいただけるようになり、同じような感覚を求めている人がわりといるのではないか、書いてもいいのかもしれないと、すこしずつ書くことにためらいをなくすようになっていった。
そんな中、もしかしたら、服従や奴隷という言葉の中に、わたしのように『安心して依存したい』『父性に守られたい』そんなものを求めて間違った市場を選んでいる人が意外といるのではないか!?と感じるようになって、『奴隷願望と依存体質を混同させないで』というメッセージをたくさん書くようになっていったのだ。
相変わらずネットの視野は狭いけど、それでも、ずいぶんわたし側の選択肢の幅が広がったように思う。
MがSにどっぷり甘えてもいいじゃない。
蔑まされなくても、可愛がる方法としてSMはできるよ。
対等な価値を持って跪くこともできるよ。
なんとなく、こういうことも選択肢に入ってきているようでうれしい気持ちになる。
その中で特に『娘』的な要素のあるブログを見ると、わたしだけじゃなかったんだよねって、うれしくなる^^
そして、その人がSM界の主流ではない『父性や依存や娘』を書くときに、昔わたしが感じたような引かれる空気を感じてしまっているなら、大丈夫、主流じゃないけど、ここにも同じ気持ちの女がいますよ〜って手を振りたくなるのです^
Mはマゾ。
でも、娘のMもジャンルとしてあってもいいよね〜^^
そのジャンルが広がれば、SMでパートナーを探すときに『依存できるお父さんがほしい』と明言できて、適正な相手が見つけられるようになるかもしれないものね^^
<関連エントリー>
引かれてる〜と感じたものたち(笑)
『毛布』
『全肯定12』
『答えの出ていない仮説^^;』
『あっちょんぶりけ』
『お風呂遊び』
わたしたちの関係
『対等で上下』
『お散歩の裏話2』
『独特な幸福感のススメ^^』
奴隷願望と依存体質を混同させないで
『奴隷願望の矛盾』
『奴隷『が』いいの?』
『恋心も支配して♪』
今日の「等式」感想です。この「娘」「対等で上下」などの新しいと思える関係のパイオニアとしての自負が書かせたのかな。きっと、りん子が訴えてきた事に共感や賛同、認知が始まっているのかなと思います。少し大袈裟ですけれど。(笑)
ブログを書いているとコメントなどの反応以外でも、なんとなく反応が空気となって感じられる気がしている。
カウンターの数や、それまでのコメントや拍手の数との比較など、数字で想像できるものだけ見ても、その空気はあると思っている。
まあ、超能力があるわけでもないので、思い過ごしだと言ってしまえばそれまでなんだし、おそらく、書いている本人が内容によって勝手に空気を想像してしまっている部分も多いにあると思うけど、でも、感じるものは感じるのだ。
わたしがネットでSM関連のサイトやブログを見始めたのはたぶん7、8年前。
自分がその中に飛び込んでブログをはじめたのが6年前。
ネット上のわたしは視野はきわめて狭いと自覚しているけど、でも、その当時のSM界には『対等な上下関係』と明言している関係はめずらしかったと思う。
SとMのパートナーかご主人様と奴隷がほとんどだった。
しっかり自立した者同士のSとMのパートナーか、絶対服従で『ご主人様のため』のご主人様と奴隷。
その中で対等でありながら主導権を持つ上と委ねる下の上下、まして、相手に父性を求め『お父さんと娘』という関係性などはほとんどなかったと思う。
ペットというのもあったけど、どちらかというと家畜や牝豚というような、蔑み、服従する『奴隷』の動物名ヴァージョンという感じ。
わたし側は服従とか忠誠とか我慢とかそういうことばかりを求められていた。
支配と言いながら、一方で自立を強いられわたし側が依存することはNGのような世界だった。
そんな中。
はっきりと依存しているといい。
父性を求め、父と娘のような上下であるなんて、なかなか書くのに勇気がいることだった。
(スパンキングの世界では父と娘はあるようですけど、それは知らないことでした^^)
那智さんは『SMを意識するな』といい、ブログでも『自分たちは主従ではない』というように指示してくれたので、SM界ではあまり見られなかった『父と娘(対等で上下)』を書き続けても、『それはSMじゃない!!』というような批判が来ることはなかったけど。
でも、ちょっと異端かもしれないと怖々書いているところはあった。
『対等で上下』の関係、とくに『お父さんと娘』の要素を含んだエントリー、たとえば『毛布』や『全肯定1 2』をアップしたときなどは、最初に書いたような『空気』が、それも冷ややかな空気がヒシヒシと伝わってくるようだった。
こんなことを書いたら引かれるだろうな〜という負い目がそう感じさせていたのかもしれないけど、でも、きっと『イタイ女』として映っていたのは間違いじゃないはず。
だから、父性や『父と娘』的なエントリーをアップするときは、ずいぶんヒヤヒヤしていたものだ。
それが徐々に共感してくれるコメントやメールをいただけるようになり、同じような感覚を求めている人がわりといるのではないか、書いてもいいのかもしれないと、すこしずつ書くことにためらいをなくすようになっていった。
そんな中、もしかしたら、服従や奴隷という言葉の中に、わたしのように『安心して依存したい』『父性に守られたい』そんなものを求めて間違った市場を選んでいる人が意外といるのではないか!?と感じるようになって、『奴隷願望と依存体質を混同させないで』というメッセージをたくさん書くようになっていったのだ。
相変わらずネットの視野は狭いけど、それでも、ずいぶんわたし側の選択肢の幅が広がったように思う。
MがSにどっぷり甘えてもいいじゃない。
蔑まされなくても、可愛がる方法としてSMはできるよ。
対等な価値を持って跪くこともできるよ。
なんとなく、こういうことも選択肢に入ってきているようでうれしい気持ちになる。
その中で特に『娘』的な要素のあるブログを見ると、わたしだけじゃなかったんだよねって、うれしくなる^^
そして、その人がSM界の主流ではない『父性や依存や娘』を書くときに、昔わたしが感じたような引かれる空気を感じてしまっているなら、大丈夫、主流じゃないけど、ここにも同じ気持ちの女がいますよ〜って手を振りたくなるのです^
Mはマゾ。
でも、娘のMもジャンルとしてあってもいいよね〜^^
そのジャンルが広がれば、SMでパートナーを探すときに『依存できるお父さんがほしい』と明言できて、適正な相手が見つけられるようになるかもしれないものね^^
<関連エントリー>
引かれてる〜と感じたものたち(笑)
『毛布』
『全肯定12』
『答えの出ていない仮説^^;』
『あっちょんぶりけ』
『お風呂遊び』
わたしたちの関係
『対等で上下』
『お散歩の裏話2』
『独特な幸福感のススメ^^』
奴隷願望と依存体質を混同させないで
『奴隷願望の矛盾』
『奴隷『が』いいの?』
『恋心も支配して♪』
今日の「等式」感想です。この「娘」「対等で上下」などの新しいと思える関係のパイオニアとしての自負が書かせたのかな。きっと、りん子が訴えてきた事に共感や賛同、認知が始まっているのかなと思います。少し大袈裟ですけれど。(笑)
いつ会える?
140字もどき
出会ったころよりお仕事なんかで忙しくなって、逢瀬やメールの頻度が減ってしまったということはよく見かける。
これってね。
見方を変えれば、それまでは仕事がヒマだったってともいえないかな。
余裕があったから出会い系で相手を見つける時間的気持ち的余裕があった。
忙しいのはしかたないけど。
それが一時的なことなのか、一時的だったらいつまでなのか、それとも忙しいほうが基本なのか、ちゃんと確認したほうがいいよね。
那智さんの仕事でランチ以外に会えなかった時期、休みの目処がまったく立たない状況で3ヶ月ほどして確認した。
『仕事の状態が把握できて休みに融通が利くようになるのに1年間』という目処を立ててもらってから、それ以降気持ちを切り替えて「いつ会えるか」と一切聞かずに待つことができたもの。
(このとき、那智さん、絶対確約できない目処を示さないといけないから、ちょっと苦しそうだったのを覚えている)
会えることが何よりだけど、会えないのだとしたら、ただ会えないよりも『次はいつ』という目処が立っているだけで人の心は落ち着くものだ。
まあ、わたしたちの場合は往復4時間かけてわたしが会いにいけばいつでもランチだけはできたからということもあるけどね。
忙しいときに予定を聞くのは悪いように思う気持ちもわかるけど、落ち着いてあなたを待っていたいからおおよその目処を教えてほしいと聞くことは双方にとって健全なことだ。
心穏やかに待っているほうが互いにとってプラスなことだということに重点を置いて聞くことがポイントだと思うし、そういう聞き方をしてもなお面倒臭そうにしたり真摯に答えてくれないような男性はお付き合いの仕方を考えたほうがいいかと思います。
えっと、待つこともよろこび、逢えないもどかしさも、それもまたよしと思える人はどうぞお好みに、です^^
<関連エントリー>
会えなかった時期
『ノロケとトホホなお話』
『彼岸の入り』
『「たまたま」』
出会ったころよりお仕事なんかで忙しくなって、逢瀬やメールの頻度が減ってしまったということはよく見かける。
これってね。
見方を変えれば、それまでは仕事がヒマだったってともいえないかな。
余裕があったから出会い系で相手を見つける時間的気持ち的余裕があった。
忙しいのはしかたないけど。
それが一時的なことなのか、一時的だったらいつまでなのか、それとも忙しいほうが基本なのか、ちゃんと確認したほうがいいよね。
那智さんの仕事でランチ以外に会えなかった時期、休みの目処がまったく立たない状況で3ヶ月ほどして確認した。
『仕事の状態が把握できて休みに融通が利くようになるのに1年間』という目処を立ててもらってから、それ以降気持ちを切り替えて「いつ会えるか」と一切聞かずに待つことができたもの。
(このとき、那智さん、絶対確約できない目処を示さないといけないから、ちょっと苦しそうだったのを覚えている)
会えることが何よりだけど、会えないのだとしたら、ただ会えないよりも『次はいつ』という目処が立っているだけで人の心は落ち着くものだ。
まあ、わたしたちの場合は往復4時間かけてわたしが会いにいけばいつでもランチだけはできたからということもあるけどね。
忙しいときに予定を聞くのは悪いように思う気持ちもわかるけど、落ち着いてあなたを待っていたいからおおよその目処を教えてほしいと聞くことは双方にとって健全なことだ。
心穏やかに待っているほうが互いにとってプラスなことだということに重点を置いて聞くことがポイントだと思うし、そういう聞き方をしてもなお面倒臭そうにしたり真摯に答えてくれないような男性はお付き合いの仕方を考えたほうがいいかと思います。
えっと、待つこともよろこび、逢えないもどかしさも、それもまたよしと思える人はどうぞお好みに、です^^
<関連エントリー>
会えなかった時期
『ノロケとトホホなお話』
『彼岸の入り』
『「たまたま」』