わたしの『女の子』
りん子的独り言(エラそう)
前エントリーで書いた泡遊びと『女の子』扱い。
プロフィール画像を含めて痛い感じがとっても恥ずかしいのだけど、会話でおわかりいただけるように特殊な倒錯の世界というわけでもないのです。
那智さんがわたしを『子供扱い』するとき、敬語を使わなくなることもあるけれどごく普通の敬語のままの場合のほうが多い、別に『ばぶー』や『〜でちゅ』なんて言っているわけではありません(笑)
今回、ブログを新しくするにあたって、はじめましての方には感想をお聞かせいただくというとても贅沢な思いをさせていただきましたが、その中でも『女の子』に関する感想が多かったのも新しい発見でした。
わたしの心の『痛い』部分を書いていたので、そこに興味や共感を持っている人がいるというのは、ホッとするような気持ちになりました。
『女の子』
『夢見る頃をすぎても』にも書いたけれど。
『等式』の中では比較的認知されている『女の子』(笑)
ただ、ひと口に『女の子』と言っても決まった定義があるわけではなくて、わたしと読んでくれる人、それぞれの『女の子』があるだろうと思っています。
ひとつの言葉から何かを感じ取り、それをブログの中の(なんとなくの^^)共通認識にできるだけでも、すごく貴重なこと。
解釈や定義が違っていたとしても、それを一致させることにあまり意味のないこと、『みんな、それぞれの女の子』であればいいな思っています。
幼い気持ち。
誰かに守られたい気持ち。
わがままを言えるツール。
欲情のスイッチ。
いろいろあるけど、わたしの『女の子』ってなんだろうって思う。
少し前、気持ちが沈んでしまって、どうしても那智さんに対していつものわたしでいられないときがあった。
生理のバイオリズムか欲情か、最近は原因も理解しているので『わかっているけど、どうすることもできない』という状態。(『徒然に「女の性」』)
可愛くない態度を取り、いちいち突っかかってしまう。
どうしたらいいのでしょうと、自分に辟易するわたしに
「女の子の部分が出ていると思えばいいんじゃない?」
と、自覚を促す提案をしてくれた。
確かに『いまは女の子の部分を出して甘えているんだ』とわたしが自覚すれば、那智さんは手を差し伸べることを厭わないし、わたし自身も必要以上に自分を責めないでいられる。
だけど、この提案を聞いたとき。
すこし悲しく、すこし申し訳なく、そしてとても違和感を憶えた。
わたしが求めている『女の子』はこういう状態のことじゃないって思った。
子供のようにわがままを言って甘える。
拗ねる少女の背中を優しくトントンと叩いてもらう。
これはこれでとても甘美な想像だけれども、わたしは那智さんにとって『子供』になることを求めているのではない。
わがままを言って甘えることを『女の子』だと定義付けることに、わたし自身が違和感を感じたのだ。
それはなぜだろう。
『女の子』と言っているから子供の幼さやわがままを言える状態を連想しがちだけど、恐らく、すこし違う。
たぶん。
とても内面のこと。
わたしの『女の子』は、心の在りようだ。
真綿のような心。
キレイなものを素直にキレイだと思い、小さなうれしいに気づく。
真っ白でふわふわで、とてもキレイな心。
些細なことで喜べるということは同じように些細なことで傷つくという側面もあるので、単にキレイとか無垢とかだけではない、その真綿はむき出しの柔らかい心。
よくも悪くも柔らかな心が『女の子』。
もちろんわたしだって極々普通の人。
鈍感なところだってあるし、腹黒い気持ちも意地悪な気持ちも持っているから(たーくさん^^;)、わたしがキレイな心の持ち主だと言っているのではなくてね。
もうすこし詳細にいうと、そういうキレイな心を意識してみることや少しでも持っていることの心地よさを知っていて、それが好きだという心が『女の子』だと思っている。
意地悪な気持ちが湧いたとき、ちょっと意識して優しいほうに心を傾ける。
そのほうが心地よい。
那智さんの前で涙が出そうなとき、人前で泣くのは照れくさいなと思うけど素直に泣いてしまう気持よさ。
ぬいぐるみを可愛いと喜ぶにはあまりにも大人の年齢の自分をほんの少し意識しながら、でも心の中で小さく『可愛い』と抱きしめられる幸福感。
炊きたての白米を前にして至上の喜びを感じる心(これは、単に食い意地 笑)
わたしはいちおう大人だけど、こういう心を持つことの心地よさが好き。
それが『女の子』。
那智さんに女の子扱いをしてもらうことは、大好きだ。
世話を焼いてもらったり『ばかだなぁ』って苦笑されたり、幼子を見るような視線を感じることが嬉しい瞬間ではある。
楽しいお遊びや大きな声では言えないけど欲情のポイントにもなったりもするし、ときには自分を解放する手助けをしてくれる。
特に初期の頃、この解放は重要な出来事だった。
ただこれらは二人にとって好きなことではあるけれど、核ではない。
(核って?『徒然に「求めるもの」』)
たぶんわたしの核になる『女の子』は、那智さんとの間で起こる現象ではなくて、わたしの心のことなんだ。
那智さんが関わっているとするならば、わたしが『女の子』の心を好きでいられる環境を作ってくれることなんだと思う。
『チューニング』というエントリーを書いたことがある(よくリンクしてます^^;)
些細なことでつまずいて、なんだか情けない人間だなと感じていた、その『アンテナ』が、実は『女の子』なのではないだろうか。
ずっと厄介だと思っていたものを、那智さんは『良いところ』だと見つけ、好きだと言ってくれる。
おかげで、わたしは伸び伸びと『アンテナ』を張ることができていて、その自分が好きになっている。
『女の子』扱いなどはオプションに過ぎなくて、『核』として那智さんが担ってくれているとしたらこの土台の部分だけなのだと思う。
甘えたり手をかけてもらったり、なんでも言えるなんていうのも『女の子』のひとつだろう。
だけどわたしが求める『女の子』は、那智さんにどうこうしてもらうものではなくて、わたし自身の中にあるものなんだと思う。
キレイなものを素直にキレイだと思い。
うれしいことに素直に喜べる。
もちろん鎧のないむき出しの心は、ダイレクトに悲しいも受け止めてしまう。
それでも柔らかいホクホク、ぬくぬく心の心地よさを知っていて、それを感じることが好きな心。
泡のお風呂で遊ぶのは楽しい。
それを子供を諭すように声をかけてもらうことも大好きだ。
でも、きっと、わたしが生きていくのに必要な『女の子』は、その行為ではなくて、その心地よさが好きな心。
那智さんに本当に叶えてもらっているのは『女の子扱い』ではなくて、その心を認め守ってもらうこと。
それがわたしの『女の子』です。
そして、本物の子供はいちいちこういう心を自覚しているものではないと思うので、おそらく、年齢を重ねたからこそ持つことのできるものではないかなとも思っている。
<関連エントリー>
『女の子』っぽいもの
『毛布』
『全肯定1 2』
『女の子』
『独特な幸福のススメ』
『ぬいぐるみ』
『娘デート1 2 3 4』
今朝の「等式」の感想です。久しぶりのりん子ワールド炸裂ですね~。長いし、りん子語たくさんなのですがリンクを遡れば何とか理解できると思うので最近読み始めた方もお付き合い頂ければ嬉しく思います。
要旨は「もうすこし詳細にいうと、そういうキレイな心を意識してみることや少しでも持っていることの心地よさを知っていて、それが好きだという心が『女の子』だと思っている。」これなのでしょうね、でも難解だろうな~
少し気合いがいるかもしれませんが女の子部分の「等式」を理解できる、エントリーだと思うのでよくわからない人は是非リンク遡りにチャレンジして欲しいと思います。
前エントリーで書いた泡遊びと『女の子』扱い。
プロフィール画像を含めて痛い感じがとっても恥ずかしいのだけど、会話でおわかりいただけるように特殊な倒錯の世界というわけでもないのです。
那智さんがわたしを『子供扱い』するとき、敬語を使わなくなることもあるけれどごく普通の敬語のままの場合のほうが多い、別に『ばぶー』や『〜でちゅ』なんて言っているわけではありません(笑)
今回、ブログを新しくするにあたって、はじめましての方には感想をお聞かせいただくというとても贅沢な思いをさせていただきましたが、その中でも『女の子』に関する感想が多かったのも新しい発見でした。
わたしの心の『痛い』部分を書いていたので、そこに興味や共感を持っている人がいるというのは、ホッとするような気持ちになりました。
『女の子』
『夢見る頃をすぎても』にも書いたけれど。
『等式』の中では比較的認知されている『女の子』(笑)
ただ、ひと口に『女の子』と言っても決まった定義があるわけではなくて、わたしと読んでくれる人、それぞれの『女の子』があるだろうと思っています。
ひとつの言葉から何かを感じ取り、それをブログの中の(なんとなくの^^)共通認識にできるだけでも、すごく貴重なこと。
解釈や定義が違っていたとしても、それを一致させることにあまり意味のないこと、『みんな、それぞれの女の子』であればいいな思っています。
幼い気持ち。
誰かに守られたい気持ち。
わがままを言えるツール。
欲情のスイッチ。
いろいろあるけど、わたしの『女の子』ってなんだろうって思う。
少し前、気持ちが沈んでしまって、どうしても那智さんに対していつものわたしでいられないときがあった。
生理のバイオリズムか欲情か、最近は原因も理解しているので『わかっているけど、どうすることもできない』という状態。(『徒然に「女の性」』)
可愛くない態度を取り、いちいち突っかかってしまう。
どうしたらいいのでしょうと、自分に辟易するわたしに
「女の子の部分が出ていると思えばいいんじゃない?」
と、自覚を促す提案をしてくれた。
確かに『いまは女の子の部分を出して甘えているんだ』とわたしが自覚すれば、那智さんは手を差し伸べることを厭わないし、わたし自身も必要以上に自分を責めないでいられる。
だけど、この提案を聞いたとき。
すこし悲しく、すこし申し訳なく、そしてとても違和感を憶えた。
わたしが求めている『女の子』はこういう状態のことじゃないって思った。
子供のようにわがままを言って甘える。
拗ねる少女の背中を優しくトントンと叩いてもらう。
これはこれでとても甘美な想像だけれども、わたしは那智さんにとって『子供』になることを求めているのではない。
わがままを言って甘えることを『女の子』だと定義付けることに、わたし自身が違和感を感じたのだ。
それはなぜだろう。
『女の子』と言っているから子供の幼さやわがままを言える状態を連想しがちだけど、恐らく、すこし違う。
たぶん。
とても内面のこと。
わたしの『女の子』は、心の在りようだ。
真綿のような心。
キレイなものを素直にキレイだと思い、小さなうれしいに気づく。
真っ白でふわふわで、とてもキレイな心。
些細なことで喜べるということは同じように些細なことで傷つくという側面もあるので、単にキレイとか無垢とかだけではない、その真綿はむき出しの柔らかい心。
よくも悪くも柔らかな心が『女の子』。
もちろんわたしだって極々普通の人。
鈍感なところだってあるし、腹黒い気持ちも意地悪な気持ちも持っているから(たーくさん^^;)、わたしがキレイな心の持ち主だと言っているのではなくてね。
もうすこし詳細にいうと、そういうキレイな心を意識してみることや少しでも持っていることの心地よさを知っていて、それが好きだという心が『女の子』だと思っている。
意地悪な気持ちが湧いたとき、ちょっと意識して優しいほうに心を傾ける。
そのほうが心地よい。
那智さんの前で涙が出そうなとき、人前で泣くのは照れくさいなと思うけど素直に泣いてしまう気持よさ。
ぬいぐるみを可愛いと喜ぶにはあまりにも大人の年齢の自分をほんの少し意識しながら、でも心の中で小さく『可愛い』と抱きしめられる幸福感。
炊きたての白米を前にして至上の喜びを感じる心(これは、単に食い意地 笑)
わたしはいちおう大人だけど、こういう心を持つことの心地よさが好き。
それが『女の子』。
那智さんに女の子扱いをしてもらうことは、大好きだ。
世話を焼いてもらったり『ばかだなぁ』って苦笑されたり、幼子を見るような視線を感じることが嬉しい瞬間ではある。
楽しいお遊びや大きな声では言えないけど欲情のポイントにもなったりもするし、ときには自分を解放する手助けをしてくれる。
特に初期の頃、この解放は重要な出来事だった。
ただこれらは二人にとって好きなことではあるけれど、核ではない。
(核って?『徒然に「求めるもの」』)
たぶんわたしの核になる『女の子』は、那智さんとの間で起こる現象ではなくて、わたしの心のことなんだ。
那智さんが関わっているとするならば、わたしが『女の子』の心を好きでいられる環境を作ってくれることなんだと思う。
『チューニング』というエントリーを書いたことがある(よくリンクしてます^^;)
些細なことでつまずいて、なんだか情けない人間だなと感じていた、その『アンテナ』が、実は『女の子』なのではないだろうか。
ずっと厄介だと思っていたものを、那智さんは『良いところ』だと見つけ、好きだと言ってくれる。
おかげで、わたしは伸び伸びと『アンテナ』を張ることができていて、その自分が好きになっている。
『女の子』扱いなどはオプションに過ぎなくて、『核』として那智さんが担ってくれているとしたらこの土台の部分だけなのだと思う。
甘えたり手をかけてもらったり、なんでも言えるなんていうのも『女の子』のひとつだろう。
だけどわたしが求める『女の子』は、那智さんにどうこうしてもらうものではなくて、わたし自身の中にあるものなんだと思う。
キレイなものを素直にキレイだと思い。
うれしいことに素直に喜べる。
もちろん鎧のないむき出しの心は、ダイレクトに悲しいも受け止めてしまう。
それでも柔らかいホクホク、ぬくぬく心の心地よさを知っていて、それを感じることが好きな心。
泡のお風呂で遊ぶのは楽しい。
それを子供を諭すように声をかけてもらうことも大好きだ。
でも、きっと、わたしが生きていくのに必要な『女の子』は、その行為ではなくて、その心地よさが好きな心。
那智さんに本当に叶えてもらっているのは『女の子扱い』ではなくて、その心を認め守ってもらうこと。
それがわたしの『女の子』です。
そして、本物の子供はいちいちこういう心を自覚しているものではないと思うので、おそらく、年齢を重ねたからこそ持つことのできるものではないかなとも思っている。
<関連エントリー>
『女の子』っぽいもの
『毛布』
『全肯定1 2』
『女の子』
『独特な幸福のススメ』
『ぬいぐるみ』
『娘デート1 2 3 4』
今朝の「等式」の感想です。久しぶりのりん子ワールド炸裂ですね~。長いし、りん子語たくさんなのですがリンクを遡れば何とか理解できると思うので最近読み始めた方もお付き合い頂ければ嬉しく思います。
要旨は「もうすこし詳細にいうと、そういうキレイな心を意識してみることや少しでも持っていることの心地よさを知っていて、それが好きだという心が『女の子』だと思っている。」これなのでしょうね、でも難解だろうな~
少し気合いがいるかもしれませんが女の子部分の「等式」を理解できる、エントリーだと思うのでよくわからない人は是非リンク遡りにチャレンジして欲しいと思います。
COMMENT
正直に思ったこと。
うわーーー!!やられた。読まなければよかったぁ!!と思ってしまったよー
決して悪い意味ではなくて、似たように「女の子持ち」でありたい自分として自分の女の子を考えるとき、嫌でもこのエントリーを意識せずにはいられない~~~
もちろん、りんこさんと私は別人だし女の子の質も違うと思うのだけど なんかそうだよねー!!って激しく同意しちゃうの。
どうしてそんなに気が付けちゃうの?んで、文章にしちゃうの?
嫉妬だわーーその賢しさに嫉妬し続けるよー
りん子さんだなぁって思うよー
うわーーー!!やられた。読まなければよかったぁ!!と思ってしまったよー
決して悪い意味ではなくて、似たように「女の子持ち」でありたい自分として自分の女の子を考えるとき、嫌でもこのエントリーを意識せずにはいられない~~~
もちろん、りんこさんと私は別人だし女の子の質も違うと思うのだけど なんかそうだよねー!!って激しく同意しちゃうの。
どうしてそんなに気が付けちゃうの?んで、文章にしちゃうの?
嫉妬だわーーその賢しさに嫉妬し続けるよー
りん子さんだなぁって思うよー
モカちゃん
いいねぇ、正直な感想うれしいよ。
モカちゃんが自分の『女の子』を意識してみるようになったのはわたしのブログを読んでからだよね。
だとしたら、今後モカちゃんの『女の子』思考にわたしの考えはきっと付いて回る、やっかいな目の上のたんこぶであり続けると思います(笑)
ならば、それをどうか上手く活用して。
取り入れられるものと違うところを考えて、取り入れられるものはどんどん取り入れてください。
わたしだって、いろいろな人の思考や本や会話が蓄積して考えられているのだからね。
今回、わたしが『女の子』を再確認しようと思ったのは、実はあなたの本当に女の子みたいなところに対する憧れからなんだよ^^
憧れるには、自分は何者かをわかって、自分と憧れる対象との共通点と相違点を明確にしてから憧れようと思ったのです。
だからわたしもあなたの『女の子』に嫉妬し続けるよ〜(笑)
いいねぇ、正直な感想うれしいよ。
モカちゃんが自分の『女の子』を意識してみるようになったのはわたしのブログを読んでからだよね。
だとしたら、今後モカちゃんの『女の子』思考にわたしの考えはきっと付いて回る、やっかいな目の上のたんこぶであり続けると思います(笑)
ならば、それをどうか上手く活用して。
取り入れられるものと違うところを考えて、取り入れられるものはどんどん取り入れてください。
わたしだって、いろいろな人の思考や本や会話が蓄積して考えられているのだからね。
今回、わたしが『女の子』を再確認しようと思ったのは、実はあなたの本当に女の子みたいなところに対する憧れからなんだよ^^
憧れるには、自分は何者かをわかって、自分と憧れる対象との共通点と相違点を明確にしてから憧れようと思ったのです。
だからわたしもあなたの『女の子』に嫉妬し続けるよ〜(笑)