女の子
独特な幸福感
那智さんの前で何回か「女の子」になってきた。
ちゃんと名前もあった。(仮に「まあちゃん」としますね。)
一番はじめに「女の子」になったのは知り合って比較的早い段階だった。(「惹かれ合う理由」の「毛布」)
「いいこいいこ」と撫でてもらい、「わたしのこと好き?」なんて甘えて、那智さんの前で小さな女の子になって、ほしかった「父性の海」にどっぷりと浸かる。
すごくためらいはあるものの「お父さん」と呼んでしまったときの、あの甘い喜び。
父性を求めていたわたしは、那智さんを「父性」の対象にすることで、おもしろいくらい涙が溢れて、ああ、わたしはいま確実に何かを埋められてると実感した。
いつしか名前も付き、端から見たら異様な「プレイ」のようなこと、でも、わたしにとっては心を解く貴重な出来事だった。
パソコンの前に向かってお仕事をしている那智さんを眺めているだけで、そこに「父性」を見つけて涙を流すようなこともあった。(「宝物」の「全肯定1、2」)
那智さんの腕に抱かれて乳首に吸い付くときなどは、全身で解放と許容を感じていた。
最初の何回かは号泣していた。
きっかけは那智さんの言葉。
「女の子になっちゃえ」とか「今日はりん子がいい?それともまあちゃん?」とか。
わたしはその時の気分で、りん子のままだったり、まあちゃんになったりする。
別に、急に「〜でちゅ〜」なんて赤ちゃん言葉を話し出すわけじゃないですよ(笑)
大人の「りん子」のまま甘えるか、女の子になって甘えるか、わたしの気持ちの置き場所の違いだけ。
号泣するほどの衝撃はしばらくすると落ち着いて、だんだん「甘えやすいツール」というような感じになっていった。
それでも、静かに涙を流すようなことはあったから、きっと女の子になることで必要なものを取り戻していたんだと思う。
ここ2回くらいかな(といっても数ヶ月くらいの期間)、「いまはどっちの気分?」と那智さんに促されても「りん子のまま」と答えることが続いた。
その前に1回「まあちゃん」になったときがあったのだけど、りん子のまま甘えるのと差を感じられなかったから、無理矢理まあちゃんになることもないかなと思ったのだ。
一段落して。
「那智さん、最近まあちゃんになる必要ないみたいです。」
心に浮かんだことを伝える。
「そうみたいだね。まあちゃん、卒業かもね。」
うん、そんな感じです。
那智さんはなぜわたしを「女の子」にさせたのか。
名前まで付けて(命名はわたしだったけど^^)、異様な状況を作ったのか。
それは「りん子がラクそうだったから」。
そうだったんだ、わたしまあちゃんになってるとき「ラク」だったんだね。
それが、いまは必要なくなっているみたいだ。
(慣れとか、そういうものもあるかもしれないけど、それはちょっとおいといて。)
女の子として十分に愛されて、もう「女の子」は卒業できたのだろうか。
それもあると思うけど、わたしの中で「女の子として可愛がられたい、父性に抱かれたい」という思いは消えてない。
だから、これを欲する気持ちは底がないように思うので、卒業という言葉はちょっと違うかな。
女の子になる必要がなくなったのかもしれない。
何かにならなくても、りん子のままでいいということ。
甘えるのも愛されるのも、父性の海に抱かれるのも、りん子のままでいい。
そう思えるようになれたから、まあちゃんに自分を変える必要がなくなったのだろう。
わたしはわたしのままで愛してもらう。
わたしのままで父性を受け取っていい。
そういう自信が持てるようになったのだろう。
これは、嬉しい変化。
泣きながら抱きしめてもらっていた「まあちゃん」。
きっともう登場することはないだろう。
あの号泣は、魂に触れるような、甘く苦しいものだった。
そのギリギリな感じが懐かしくもある。
一度手放すともう戻ることはないでしょうから、ちょっと寂しい気もしますね。
すこし感傷に浸るのも悪くないよね、と思いながら、今夜エントリーしてわたしは「まあちゃん」を抱きしめる。
今度、1回那智さんにも抱きしめてもらって、おしまいにしよう。
ちょっと感傷的な夜なのでした。
那智さんの前で何回か「女の子」になってきた。
ちゃんと名前もあった。(仮に「まあちゃん」としますね。)
一番はじめに「女の子」になったのは知り合って比較的早い段階だった。(「惹かれ合う理由」の「毛布」)
「いいこいいこ」と撫でてもらい、「わたしのこと好き?」なんて甘えて、那智さんの前で小さな女の子になって、ほしかった「父性の海」にどっぷりと浸かる。
すごくためらいはあるものの「お父さん」と呼んでしまったときの、あの甘い喜び。
父性を求めていたわたしは、那智さんを「父性」の対象にすることで、おもしろいくらい涙が溢れて、ああ、わたしはいま確実に何かを埋められてると実感した。
いつしか名前も付き、端から見たら異様な「プレイ」のようなこと、でも、わたしにとっては心を解く貴重な出来事だった。
パソコンの前に向かってお仕事をしている那智さんを眺めているだけで、そこに「父性」を見つけて涙を流すようなこともあった。(「宝物」の「全肯定1、2」)
那智さんの腕に抱かれて乳首に吸い付くときなどは、全身で解放と許容を感じていた。
最初の何回かは号泣していた。
きっかけは那智さんの言葉。
「女の子になっちゃえ」とか「今日はりん子がいい?それともまあちゃん?」とか。
わたしはその時の気分で、りん子のままだったり、まあちゃんになったりする。
別に、急に「〜でちゅ〜」なんて赤ちゃん言葉を話し出すわけじゃないですよ(笑)
大人の「りん子」のまま甘えるか、女の子になって甘えるか、わたしの気持ちの置き場所の違いだけ。
号泣するほどの衝撃はしばらくすると落ち着いて、だんだん「甘えやすいツール」というような感じになっていった。
それでも、静かに涙を流すようなことはあったから、きっと女の子になることで必要なものを取り戻していたんだと思う。
ここ2回くらいかな(といっても数ヶ月くらいの期間)、「いまはどっちの気分?」と那智さんに促されても「りん子のまま」と答えることが続いた。
その前に1回「まあちゃん」になったときがあったのだけど、りん子のまま甘えるのと差を感じられなかったから、無理矢理まあちゃんになることもないかなと思ったのだ。
一段落して。
「那智さん、最近まあちゃんになる必要ないみたいです。」
心に浮かんだことを伝える。
「そうみたいだね。まあちゃん、卒業かもね。」
うん、そんな感じです。
那智さんはなぜわたしを「女の子」にさせたのか。
名前まで付けて(命名はわたしだったけど^^)、異様な状況を作ったのか。
それは「りん子がラクそうだったから」。
そうだったんだ、わたしまあちゃんになってるとき「ラク」だったんだね。
それが、いまは必要なくなっているみたいだ。
(慣れとか、そういうものもあるかもしれないけど、それはちょっとおいといて。)
女の子として十分に愛されて、もう「女の子」は卒業できたのだろうか。
それもあると思うけど、わたしの中で「女の子として可愛がられたい、父性に抱かれたい」という思いは消えてない。
だから、これを欲する気持ちは底がないように思うので、卒業という言葉はちょっと違うかな。
女の子になる必要がなくなったのかもしれない。
何かにならなくても、りん子のままでいいということ。
甘えるのも愛されるのも、父性の海に抱かれるのも、りん子のままでいい。
そう思えるようになれたから、まあちゃんに自分を変える必要がなくなったのだろう。
わたしはわたしのままで愛してもらう。
わたしのままで父性を受け取っていい。
そういう自信が持てるようになったのだろう。
これは、嬉しい変化。
泣きながら抱きしめてもらっていた「まあちゃん」。
きっともう登場することはないだろう。
あの号泣は、魂に触れるような、甘く苦しいものだった。
そのギリギリな感じが懐かしくもある。
一度手放すともう戻ることはないでしょうから、ちょっと寂しい気もしますね。
すこし感傷に浸るのも悪くないよね、と思いながら、今夜エントリーしてわたしは「まあちゃん」を抱きしめる。
今度、1回那智さんにも抱きしめてもらって、おしまいにしよう。
ちょっと感傷的な夜なのでした。
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