連れションはキライ
りん子的独り言(エラそう)
これから書くことは誤解を招いてしまいそうなことで、ちょっとためらうのだけど。
私はこうだということが言いたいだけで、それ以外を否定するつもりはないと思っていただけるとありがたいです。
また、主に実生活でのことを書くので、ネット環境の場合とは違うつもりでいることもご理解ください。
連れションが苦手だ。
女で連れションっていうのも変かな。
もちろん学生の頃だってお友達と一緒にトイレに行っていたから、それがダメと言ってるのではなくて。
『一緒にトイレに行こ〜』ということから連想される付き合い方が苦手。
だから、なるべくそういう付き合いは避けるようにしている。
こういうと割と賛同を得られることが多い。
みんな『連れション』から想像される『べったりと群れる』ことに対して抵抗感があるのだろう。
ただ、多分わたしの『連れション苦手』はかなり群を抜いていると思う。
なぜかというと『連れション』や『群れる』というマイナスな言葉だけでなく、もっと良い印象を感じさせる言葉にも『連れション』を連想して付き合いを選んでいるからだ。
『連れション』の定義がすごく広いみたいなんだ。
だから、実生活の私は極端に女友達が少ない。
遥よこうさんの本を読んで。
私が、一見良い印象を与える関係さえも『連れション』を連想して付き合いを狭めていること。
それ故に、女友達が少ないこと。
このふたつに気づいたので、私にとっての友達とうことを書きたいと思う。
遥ようこさんの『女ともだち』を読んだ。
この人の本は、フェミニズムのフェの字もわからない私に『生きにくさ』の理由をわかりやすく教えてくれた。
『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』をはじめ、数冊読んだ。
『女ともだち』は納得できることとできないこととあったけど、『女に必要なのは女友達と、応援いてくれる男性』ということが書かれている。
その一部で。
木原光知子さんとの交流が書かれていた。
木原さんは遥ようこさんを見込んでいたようで、彼女はとてもお世話になったそうだ。
そこで目上の人、後輩、人との付き合い方や仕事への姿勢、生き方を学ぶ。
男ばかりの中で全力で地位を築いた木原さんは、さすがに迫力のある生き方を彼女に伝授するのだ。
でも、その中で『あれ?』と思う話があった。
『友達というのは、友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』と言っている。
Aと木原さんは友達で、Aは木原さんを介してBと知り合いになる。
ある日木原さんとBが仲違いして絶縁した。
しばらくして、BがAに会いに行ったら、私は木原さんの友達だからあなたとは付き合えないと門前払いしたそうだ。
木原さんはそれがとても嬉しかったそうなのだ。
木原さんたちの付き合いの深さや絶縁の理由がわからないので、恐らく、とても重大なことだったと想像するので、私が想像したこととは次元が違うと思うけど。
この『友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』という言葉に、私は違和感を覚えた。
『友達の味方は、自分の味方』という一見響きの良い言葉に『連れション』を連想してしまったのだ。
木原さんの言葉からは離れているとは思うけど、何度も私は『味方意識』がおかしな方向に転がることを体験している。
そのたびに、『良い響きの言葉』に潜む怖さを体感する。
高校を卒業して最初に就職したところは女ばかりの職場だった。
高卒の女ばかりが集まるので、まあ、それはそれは中学生時代の理不尽な上下関係がそのまま残ったようなところだった。
新入社員は、研那智期間が終わったら別の店舗に移動が決まってる移動組とそのまま残る残留組とに、それぞれ4人ずつ分かれていた。
移動組だった私は化粧っけのない子供っぽい新入社員だったので、全然先輩たちに目をつけられることもなく、むしろ可愛がられたほうだったけど。
ちょっと派手な子たちは『生意気』と言われ、子供のいじめのような仕打ちをされていた。
特に、残留組の『ジョー』(今日は、若草物語で^^;)は、化粧も上手だし、如才ない立ち回りがかえって鼻につくようで何かと風当たりが強かった。
確かに、ひと言多い感じや先輩さえ持っていないようなブランド物を持っていたりして、もうちょっと気を付けた方がいいのにな〜(特に女の園では)と、人ごとながらヒヤヒヤしていた。
ある日、先輩大勢と私の同僚移動組の『ベス』が休憩室にいて、ジョーの話になって盛り上がっていた。
私もその部屋にいたのだけど、その輪には入らずに一人でいた。
ベスは、新入社員だけでいるとき、知らないブランド品や遊びのスポットの話を自慢げにして如何にジョーが生意気な態度でいるか、先輩たちが盛り上がるのをいいことに、あれこれと話していた。
先輩たちはそれを聞いて、今度どんな仕打ちをジョーにするかで、また盛り上がっていた。
休憩時間が終わって、ベスと2人きりになった私は、こっそりとベスに話した。
私たちは3ヶ月すればここからいなくなるけど、ジョーはずっといるわけで今後のことを考えたら、あまり先輩たちの前でジョーのことを悪く言わないほうがいいのではないかな。
悪いところがあるなら、直接ジョーに言って直すなり考えるなりしてもらえばいい。
そうじゃないただのうわさ話なら、軽はずみに先輩たちに言わないほうがいいんじゃない?
『ふ〜ん』とその場では、ベスはそれ以上何も言わなかった。
その日の帰り道。
同じ移動組の同僚『メグ』と『エイミー』がすごい剣幕で私を呼び止めた。
「ねえ、りん子、あんたはどっちの味方なの?!」って。
どうやら、ベスはメグとエイミーに訴えたらしいのだ。
「りん子は、ジョーの味方をした」と。
味方?
びっくりした。
敵か味方かという気持ちで、ベスに話したつもりはない。
先輩だけで言うのはしかたないとしても、ジョーのためにも、そしてベス自身のためにも加わるべきじゃない。
そこに敵も味方もない。
それを説明してもどうもその価値観は通用しないみたいで、その場では私が『裏切り者』になっていた。
1対多数は卑怯だということが伝えられないもどかしい思いをした。
遥ようこさんのお話とこれが一緒だとは思わないけど。
木原さんの言葉を読んで、この新入社員時代の出来事を思い出してしまった。
そうか、敵か味方かという概念で友情を計るなら、私は友達が少ないのは当然なんだ。
だって、私は『味方だから』という感覚が好きじゃないのだもの。
なぜかというと、味方を作るということは、敵もできるということだよね。
そして、その味方と敵のパワーバランスが崩れると、『味方』はあっという間に『壁』になってしまう。
ブログ3周年の時に、村上春樹さんの『常に卵の側に』というスピーチのことを書いた。(『 hotに3周年御礼』)
どんなに間違っていても、壁(多数)に潰される卵(個)がいるなら常に卵の側にいるということ。
この感性が好きだ。
微力でも、そうしていたいと思ってる。
正しいとされていることでも、善意から発生したことでも、それが多数になれば脅威になるのだ。
『味方』のような響きの良い言葉が、瞬く間に壁の脅威になるのを私は何度も見ている。
学校でも職場でも、子供の親の関係でも。
例えば。
給食が食べられなくて、こっそり捨てようとしている子がいたとして、それを見つけた子が『悪いことしてる』と指摘したとする。
それを聞いた友達やクラスメイトは、捨てようとした子を一斉に非難するようなこと。
中には『謝れ』なんて言い出す子もいたりして。
もっと小さなコミュニティーでも、あるよね。
子供の親が集まって、ふと『○○君乱暴だよね』という話題になると、そこから○○君やその親を目の敵にするようなバランスが生まれる。
翌日からの公園の空気が少し変わったりする。
給食を捨てた子も乱暴する子も、悪いかもしれない。
でも、悪いところがあれば個別に指摘すればいいだけのこと、それを集団で非難することは次元が違うと思うのだ。
私はこういう時、巨大な壁が卵を押し潰そうとする感覚を覚える。
『味方』をはじめとする響きの良い言葉でできたコミュニティーが、何かをきっかけに『壁』に変わっていく可能性を孕んでいるなら、そこに身を置きたくないと思う。
もちろん、『壁』にならない良識を持った『味方』関係を作っている方もいるでしょう。
また、ときには『壁』になったとしても、それと同じくらい助け合ったりして頼りになる『仲間』もいるはずで。
それを否定しているのではないのですよ。
いちおう知り合いはたくさんいる。
困ったときに助け合うお付き合いもある。
元の職場や学校関係のコミュニティーだってある。
こういうのを友達というなら、それなりにいるけど。
やはり味方という感覚はないな。
だから『あなたの味方は私の味方』と思えることが友達だと言われれば、誰も友達じゃない。
誰の味方にもならないし、誰の味方にもなる、そういう感覚。
卵になっているから必然的に味方になるということはあっても、はじめから味方かどうかは付き合いの基準にならないのだ。
私は、巨大な壁を食い止める力もないし、壁になる神経もない。
大概、卵と一緒に傷つくか、卵まで壁と迎合して、私だけ潰れるかだ。
ということで、私は『壁』になるのも、誰かを卵にするのもイヤなので、それを避けるために一見良い印象を与える言葉にも怖さを察知してしまうらしい。
だから、『友達の味方は自分の味方』という基準が友達だということに違和感を覚えたのですね。
で、矛盾してるけど、そんな私にも実生活で数少ない『味方』の友達はいる。
味方かどうかで選んでいるのではなくて、いざとなったら絶対に味方しようと思える友達だ。
なぜ、その人たちにはそう思えるかというと。
彼女たちも、また『味方』という概念で友情を育まない人たちだから。
そういう人たちは基本的に『連れション』意識がすごく低いから、グループにはならず個で付き合う人たち。『壁』になる可能性が低い人たちなんだ。
でもって、『味方ね』という付き合いをしない人というのは、割と素っ気ないのだ。
だって、連れションしないのだもの、ひとりでトイレ行っちゃう^^;
近くに住んでいる人とか、比較的交流はあるけど。
ちょっと離れた所に住んでる人なんて、年に1、2回メールをするくらい。
近況なんて、知らない。
ただ、とても大事な局面にはまず連絡をくれるから、それでいいのだ。
(だからね、1年振りに連絡が来て『離婚しようと思ってる』なんて言われる)
多分、木原さんもこれくらいの深さの話をしていたと思うのだけど、どうも私の周りで起こる『味方意識』はもう少し軽いように感じられるから、違和感なんだよね。
『味方』になると公言するのって、本当はすごい責任とパワーがいるはずで。
そう簡単に表に出せるものではないともう思うのだ。
私は数少ない友達のために、それを使いたい。
自分が壁にならないために『連れション』というマイナスイメージだけじゃない、『味方』などなどの響きの良い言葉も判断基準にして選んでいるんだな。
そんなふうに壁になる危険性を排除して、壁にならない個と友情を育むという方法でいる。
でも、こういうスタンスはあまり好かれない^^;
だって、人って『あなたの味方』と言ってくれる人たちのほうが、嬉しいものね。
だから少ないことに納得したんだよね。
良いか悪いか別にして、改めて私の友達付き合いを認識したのでした。
私が、ここで『M女さんの味方だ』とか言えるのは、比較的『壁』と『卵』がわかりやすいからなんんじゃないかな。
だから、ここのほうがお友達多い?(笑)
多分、こういうことを言う私とわかってて許容してくれていると(恐る恐る)思っているから^^
私が仲良くしたいと思う人や面白いと思うことに対して、できるだけ素直にしていられるのだ。
だから、実生活の付き合い方より、もしかしたら伸び伸びとしているかもしれないです。
だって、実生活で『常に卵の側に!!』なんて声高に言っていたら変な人って思われちゃう。
ここでは、すでに『変態』だから、いいのだ^^
なんて、こんな話したら、ここでもお友達減っちゃうかもしれないね^^;
『壁』になりたくなくて。
誰の味方でもないし、誰の味方でもある。
これが私の付き合い方。
そして、それでいいと思っている。
だから、私は連れションがキライだ。
これから書くことは誤解を招いてしまいそうなことで、ちょっとためらうのだけど。
私はこうだということが言いたいだけで、それ以外を否定するつもりはないと思っていただけるとありがたいです。
また、主に実生活でのことを書くので、ネット環境の場合とは違うつもりでいることもご理解ください。
連れションが苦手だ。
女で連れションっていうのも変かな。
もちろん学生の頃だってお友達と一緒にトイレに行っていたから、それがダメと言ってるのではなくて。
『一緒にトイレに行こ〜』ということから連想される付き合い方が苦手。
だから、なるべくそういう付き合いは避けるようにしている。
こういうと割と賛同を得られることが多い。
みんな『連れション』から想像される『べったりと群れる』ことに対して抵抗感があるのだろう。
ただ、多分わたしの『連れション苦手』はかなり群を抜いていると思う。
なぜかというと『連れション』や『群れる』というマイナスな言葉だけでなく、もっと良い印象を感じさせる言葉にも『連れション』を連想して付き合いを選んでいるからだ。
『連れション』の定義がすごく広いみたいなんだ。
だから、実生活の私は極端に女友達が少ない。
遥よこうさんの本を読んで。
私が、一見良い印象を与える関係さえも『連れション』を連想して付き合いを狭めていること。
それ故に、女友達が少ないこと。
このふたつに気づいたので、私にとっての友達とうことを書きたいと思う。
遥ようこさんの『女ともだち』を読んだ。
この人の本は、フェミニズムのフェの字もわからない私に『生きにくさ』の理由をわかりやすく教えてくれた。
『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』をはじめ、数冊読んだ。
『女ともだち』は納得できることとできないこととあったけど、『女に必要なのは女友達と、応援いてくれる男性』ということが書かれている。
その一部で。
木原光知子さんとの交流が書かれていた。
木原さんは遥ようこさんを見込んでいたようで、彼女はとてもお世話になったそうだ。
そこで目上の人、後輩、人との付き合い方や仕事への姿勢、生き方を学ぶ。
男ばかりの中で全力で地位を築いた木原さんは、さすがに迫力のある生き方を彼女に伝授するのだ。
でも、その中で『あれ?』と思う話があった。
『友達というのは、友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』と言っている。
Aと木原さんは友達で、Aは木原さんを介してBと知り合いになる。
ある日木原さんとBが仲違いして絶縁した。
しばらくして、BがAに会いに行ったら、私は木原さんの友達だからあなたとは付き合えないと門前払いしたそうだ。
木原さんはそれがとても嬉しかったそうなのだ。
木原さんたちの付き合いの深さや絶縁の理由がわからないので、恐らく、とても重大なことだったと想像するので、私が想像したこととは次元が違うと思うけど。
この『友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』という言葉に、私は違和感を覚えた。
『友達の味方は、自分の味方』という一見響きの良い言葉に『連れション』を連想してしまったのだ。
木原さんの言葉からは離れているとは思うけど、何度も私は『味方意識』がおかしな方向に転がることを体験している。
そのたびに、『良い響きの言葉』に潜む怖さを体感する。
高校を卒業して最初に就職したところは女ばかりの職場だった。
高卒の女ばかりが集まるので、まあ、それはそれは中学生時代の理不尽な上下関係がそのまま残ったようなところだった。
新入社員は、研那智期間が終わったら別の店舗に移動が決まってる移動組とそのまま残る残留組とに、それぞれ4人ずつ分かれていた。
移動組だった私は化粧っけのない子供っぽい新入社員だったので、全然先輩たちに目をつけられることもなく、むしろ可愛がられたほうだったけど。
ちょっと派手な子たちは『生意気』と言われ、子供のいじめのような仕打ちをされていた。
特に、残留組の『ジョー』(今日は、若草物語で^^;)は、化粧も上手だし、如才ない立ち回りがかえって鼻につくようで何かと風当たりが強かった。
確かに、ひと言多い感じや先輩さえ持っていないようなブランド物を持っていたりして、もうちょっと気を付けた方がいいのにな〜(特に女の園では)と、人ごとながらヒヤヒヤしていた。
ある日、先輩大勢と私の同僚移動組の『ベス』が休憩室にいて、ジョーの話になって盛り上がっていた。
私もその部屋にいたのだけど、その輪には入らずに一人でいた。
ベスは、新入社員だけでいるとき、知らないブランド品や遊びのスポットの話を自慢げにして如何にジョーが生意気な態度でいるか、先輩たちが盛り上がるのをいいことに、あれこれと話していた。
先輩たちはそれを聞いて、今度どんな仕打ちをジョーにするかで、また盛り上がっていた。
休憩時間が終わって、ベスと2人きりになった私は、こっそりとベスに話した。
私たちは3ヶ月すればここからいなくなるけど、ジョーはずっといるわけで今後のことを考えたら、あまり先輩たちの前でジョーのことを悪く言わないほうがいいのではないかな。
悪いところがあるなら、直接ジョーに言って直すなり考えるなりしてもらえばいい。
そうじゃないただのうわさ話なら、軽はずみに先輩たちに言わないほうがいいんじゃない?
『ふ〜ん』とその場では、ベスはそれ以上何も言わなかった。
その日の帰り道。
同じ移動組の同僚『メグ』と『エイミー』がすごい剣幕で私を呼び止めた。
「ねえ、りん子、あんたはどっちの味方なの?!」って。
どうやら、ベスはメグとエイミーに訴えたらしいのだ。
「りん子は、ジョーの味方をした」と。
味方?
びっくりした。
敵か味方かという気持ちで、ベスに話したつもりはない。
先輩だけで言うのはしかたないとしても、ジョーのためにも、そしてベス自身のためにも加わるべきじゃない。
そこに敵も味方もない。
それを説明してもどうもその価値観は通用しないみたいで、その場では私が『裏切り者』になっていた。
1対多数は卑怯だということが伝えられないもどかしい思いをした。
遥ようこさんのお話とこれが一緒だとは思わないけど。
木原さんの言葉を読んで、この新入社員時代の出来事を思い出してしまった。
そうか、敵か味方かという概念で友情を計るなら、私は友達が少ないのは当然なんだ。
だって、私は『味方だから』という感覚が好きじゃないのだもの。
なぜかというと、味方を作るということは、敵もできるということだよね。
そして、その味方と敵のパワーバランスが崩れると、『味方』はあっという間に『壁』になってしまう。
ブログ3周年の時に、村上春樹さんの『常に卵の側に』というスピーチのことを書いた。(『 hotに3周年御礼』)
どんなに間違っていても、壁(多数)に潰される卵(個)がいるなら常に卵の側にいるということ。
この感性が好きだ。
微力でも、そうしていたいと思ってる。
正しいとされていることでも、善意から発生したことでも、それが多数になれば脅威になるのだ。
『味方』のような響きの良い言葉が、瞬く間に壁の脅威になるのを私は何度も見ている。
学校でも職場でも、子供の親の関係でも。
例えば。
給食が食べられなくて、こっそり捨てようとしている子がいたとして、それを見つけた子が『悪いことしてる』と指摘したとする。
それを聞いた友達やクラスメイトは、捨てようとした子を一斉に非難するようなこと。
中には『謝れ』なんて言い出す子もいたりして。
もっと小さなコミュニティーでも、あるよね。
子供の親が集まって、ふと『○○君乱暴だよね』という話題になると、そこから○○君やその親を目の敵にするようなバランスが生まれる。
翌日からの公園の空気が少し変わったりする。
給食を捨てた子も乱暴する子も、悪いかもしれない。
でも、悪いところがあれば個別に指摘すればいいだけのこと、それを集団で非難することは次元が違うと思うのだ。
私はこういう時、巨大な壁が卵を押し潰そうとする感覚を覚える。
『味方』をはじめとする響きの良い言葉でできたコミュニティーが、何かをきっかけに『壁』に変わっていく可能性を孕んでいるなら、そこに身を置きたくないと思う。
もちろん、『壁』にならない良識を持った『味方』関係を作っている方もいるでしょう。
また、ときには『壁』になったとしても、それと同じくらい助け合ったりして頼りになる『仲間』もいるはずで。
それを否定しているのではないのですよ。
いちおう知り合いはたくさんいる。
困ったときに助け合うお付き合いもある。
元の職場や学校関係のコミュニティーだってある。
こういうのを友達というなら、それなりにいるけど。
やはり味方という感覚はないな。
だから『あなたの味方は私の味方』と思えることが友達だと言われれば、誰も友達じゃない。
誰の味方にもならないし、誰の味方にもなる、そういう感覚。
卵になっているから必然的に味方になるということはあっても、はじめから味方かどうかは付き合いの基準にならないのだ。
私は、巨大な壁を食い止める力もないし、壁になる神経もない。
大概、卵と一緒に傷つくか、卵まで壁と迎合して、私だけ潰れるかだ。
ということで、私は『壁』になるのも、誰かを卵にするのもイヤなので、それを避けるために一見良い印象を与える言葉にも怖さを察知してしまうらしい。
だから、『友達の味方は自分の味方』という基準が友達だということに違和感を覚えたのですね。
で、矛盾してるけど、そんな私にも実生活で数少ない『味方』の友達はいる。
味方かどうかで選んでいるのではなくて、いざとなったら絶対に味方しようと思える友達だ。
なぜ、その人たちにはそう思えるかというと。
彼女たちも、また『味方』という概念で友情を育まない人たちだから。
そういう人たちは基本的に『連れション』意識がすごく低いから、グループにはならず個で付き合う人たち。『壁』になる可能性が低い人たちなんだ。
でもって、『味方ね』という付き合いをしない人というのは、割と素っ気ないのだ。
だって、連れションしないのだもの、ひとりでトイレ行っちゃう^^;
近くに住んでいる人とか、比較的交流はあるけど。
ちょっと離れた所に住んでる人なんて、年に1、2回メールをするくらい。
近況なんて、知らない。
ただ、とても大事な局面にはまず連絡をくれるから、それでいいのだ。
(だからね、1年振りに連絡が来て『離婚しようと思ってる』なんて言われる)
多分、木原さんもこれくらいの深さの話をしていたと思うのだけど、どうも私の周りで起こる『味方意識』はもう少し軽いように感じられるから、違和感なんだよね。
『味方』になると公言するのって、本当はすごい責任とパワーがいるはずで。
そう簡単に表に出せるものではないともう思うのだ。
私は数少ない友達のために、それを使いたい。
自分が壁にならないために『連れション』というマイナスイメージだけじゃない、『味方』などなどの響きの良い言葉も判断基準にして選んでいるんだな。
そんなふうに壁になる危険性を排除して、壁にならない個と友情を育むという方法でいる。
でも、こういうスタンスはあまり好かれない^^;
だって、人って『あなたの味方』と言ってくれる人たちのほうが、嬉しいものね。
だから少ないことに納得したんだよね。
良いか悪いか別にして、改めて私の友達付き合いを認識したのでした。
私が、ここで『M女さんの味方だ』とか言えるのは、比較的『壁』と『卵』がわかりやすいからなんんじゃないかな。
だから、ここのほうがお友達多い?(笑)
多分、こういうことを言う私とわかってて許容してくれていると(恐る恐る)思っているから^^
私が仲良くしたいと思う人や面白いと思うことに対して、できるだけ素直にしていられるのだ。
だから、実生活の付き合い方より、もしかしたら伸び伸びとしているかもしれないです。
だって、実生活で『常に卵の側に!!』なんて声高に言っていたら変な人って思われちゃう。
ここでは、すでに『変態』だから、いいのだ^^
なんて、こんな話したら、ここでもお友達減っちゃうかもしれないね^^;
『壁』になりたくなくて。
誰の味方でもないし、誰の味方でもある。
これが私の付き合い方。
そして、それでいいと思っている。
だから、私は連れションがキライだ。