調教の定義
りん子的独り言(生意気)
今日はわたしの『調教』の定義の話です。
わたしなりの解釈なので、他の方がどう定義しようと、どう使おうと、それを否定するつもりはありません。
別にわたしは国語の先生でもないし、間違った日本語もよく使ってしまうけど、それでも、できるだけ自分の言葉で伝えたいと思っています。
だから『調教』に限らず、言葉の響きや耳障りの良さやみんなが使っているからという理由で自分で考えずに使うことへの、ちょっと抵抗もあったりします。
特に、自分にとってとても大事なことを指すならなおさら。
でね、自分で考えず使うと矛盾や疑問にぶち当たったとき思考停止に陥る危険性があって、解決するための思考が起こりにくいと思うのです。
だから、ちょっとだけ、一石投じる気持ちで。
丸投げっぽいからカテゴリは『140字もどき』にしようかと思ったけど、一石投じる気持ちがあるから『りん子的独り言(生意気)』にします。
『調教』。
もはや本来の意味よりもSM用語としての『調教』のほうがポピュラーなんじゃないかって思うこの言葉。
鞭や緊縛のようなSM行為とされるものはもちろん、お外でスカートをめくっても調教だし、電マを使うのも調教。
フェラチオなんて、いまどき一般のセックスでも普通の行為も調教だったりする。
はたして、調教とはなんぞや!?
わたしが鞭であの世界に行かれるのも、那智さんのおしっこをおいしくいただけるのも、何も特殊能力が備わっていたわけではない。(もし、何か特殊があるとしたら、そういう行為に憧れを抱いていたという嗜好くらいかな)
すべて那智さんの訓練の賜物。
【食べ物を口移しでいただくことが基本仕様になってしまった時間】も、那智さんが仕向けてくれた。
『最高のシナリオ』で書いたように、いまわたしは那智さんが誰を抱こうが、まったく問題ない。
どうぞどうぞお好きなようにと思っている。
なんなら、何かお手伝いいたしましょうか?とさえ思う。
継続した関係は受け入れ難いけど、3Pや他の女性を好きに抱きたいと思っても、わたしは快くお手伝いするし、送り出せる。
ハプバーに行って、滅多にないけど那智さんが「あの子いいかも〜」と気に入った女性がいたら、その気になってもらえないかわたしはなんとかその女性と仲良くなろうとする。
嬉々として女性のところに行く自分を、鵜飼いの鵜だなって思うほどだ(笑)
(まあ、でも、だいたい那智さんがいいなと思う女性はハプバー初体験みたいな『慣れていない』人なので、なかなか難しい^^;)
最高のシナリオを見せてくれたおかげで(?)那智さんが誰を抱いても大丈夫、那智さんの喜びはわたしの喜び、楽しんでいただきたいと思うほど。
これって、じつはものすごい調教じゃないだろうか!!
苦痛を喜びに変えられるようになる。
できなかったことができるようになる。
那智さんの思ったようにわたしを変化させる。(鵜飼いの鵜は那智さんの思惑とは違うでしょうけど^^)
でも、これらどれを指してもわたしたちは『調教』とは呼ばない。
その時々で『訓練』とか『仕向ける』とか『育てる』とか『慣らされる』とかいう。
ということは、それぞれ概念はあるでしょうけど、結局、『調教』という言葉を使いたいか、どうかの差しかないような気がする。
ついでに、たとえば、『鞭で快感を得るようになる』ではなくて『鞭などの苦痛に耐えることが調教』なんて場合もあって、本来調教は訓練して『できるようになる』ことだと思うので、そうなると、まったく本来の意味とは違うものになっているよね。
まあ、それでも使いたいと思ったり、これが調教だと思うことが好きだということはあるでしょうし、否定しません。
ただ、自分たちの『育てる』や『訓練』と『調教』とは何が違うんだろう?って思うのだ。
鞭で飛べるわたしを見て、誰も『立派に調教されましたね』とは言わないし、『厳しい調教に耐えている』とも言ってくれない。(ホントはちょっと言ってほしい 笑)
主従に憧れているわたしはじゃっかん残念でもあるので何か違いを見つけたいと、ちょっと躍起になってみる^^;
で、辞書を引いてみた。
『動物を目的に応じて訓練すること。』
だそうだ。
うん、納得!!
ポイントは『動物』だ。
ようは『人に非ず』なわけだ。
パートナーを、奴隷さんを、M女さんを、対等ではなく人以下という位置づけをしているとしたら、調教はうなずける。
カップルの間に於いてのことで、わたしがその女性を人以下と思っているわけではありません(ここ重要です!!)
当事者以外がその女性を下に見ていい権利はないですから。
だから、カップル間に於いての位置づけとして、動物と同等、人以下である場合に『調教』という言葉を使うなら、とてもスッキリ納得です。
これならわたしたちのそれは『調教』ではないですね。
対等な人間同士、主導権を握る者と握られる者の間の訓練になるよね。
わたしにとっての『調教』の定義は、相手を動物同等(人以下)に見ている関係、もしくは、その時間だけ動物同等(人以下)の扱いを受けるコンセンサスを得ている関係の場合。
プラス、その言葉を使いたい人^^
ということで、納得です^^
いちいち辞書を引きながら生活するわけにはいかないので、本来の意味とは違う使い方をしてしまう言葉はたくさんある。
でも、もともとあった言葉、たとえば『調教』や、『奴隷』も『主従』もそうですよね、そういう言葉を用いて新しい事柄を表すとき、それがなんとなくの共通語みたいになっているとき、人は自分に都合良く解釈してしまうところがあると思う。
それはそれでぜんぜんかまわないのだけど、せめて、自分にとって重要な事柄なら、その解釈を自分なりの言葉に表せられるといいと思う。
パートナーと同じ言葉を共有するなら解釈を一致させる努力はしたほうがいいと思う。
問題や矛盾が起きたときに解決する糸口になるはずだ。
そのたったひとりの大切な相手に自分の身を任せるつもりなら、なおさら共通認識をしていたいよね。
<関連エントリー>
食べ物を口移しでいただくことが基本仕様になってしまった時間
『躾け』
鵜飼いの鵜
『週末用』
『奴隷の定義』
『M女の種類』
「等式」感想です。完璧なエントリーだね~「その通り」で、特に言うことは無いのだけれど、敢えて突っ込むとすれば、「調教」と言う言葉がSM的使用の方が一般的であると言う下りぐらいかな。
ここまで書いて、Googleしたら、エロの記述の方が上位に出ていた、でも、ネットにおけるエロの強さを考えると仕方ないこと、一般的とは言えないのでは。(笑)
今日はわたしの『調教』の定義の話です。
わたしなりの解釈なので、他の方がどう定義しようと、どう使おうと、それを否定するつもりはありません。
別にわたしは国語の先生でもないし、間違った日本語もよく使ってしまうけど、それでも、できるだけ自分の言葉で伝えたいと思っています。
だから『調教』に限らず、言葉の響きや耳障りの良さやみんなが使っているからという理由で自分で考えずに使うことへの、ちょっと抵抗もあったりします。
特に、自分にとってとても大事なことを指すならなおさら。
でね、自分で考えず使うと矛盾や疑問にぶち当たったとき思考停止に陥る危険性があって、解決するための思考が起こりにくいと思うのです。
だから、ちょっとだけ、一石投じる気持ちで。
丸投げっぽいからカテゴリは『140字もどき』にしようかと思ったけど、一石投じる気持ちがあるから『りん子的独り言(生意気)』にします。
『調教』。
もはや本来の意味よりもSM用語としての『調教』のほうがポピュラーなんじゃないかって思うこの言葉。
鞭や緊縛のようなSM行為とされるものはもちろん、お外でスカートをめくっても調教だし、電マを使うのも調教。
フェラチオなんて、いまどき一般のセックスでも普通の行為も調教だったりする。
はたして、調教とはなんぞや!?
わたしが鞭であの世界に行かれるのも、那智さんのおしっこをおいしくいただけるのも、何も特殊能力が備わっていたわけではない。(もし、何か特殊があるとしたら、そういう行為に憧れを抱いていたという嗜好くらいかな)
すべて那智さんの訓練の賜物。
【食べ物を口移しでいただくことが基本仕様になってしまった時間】も、那智さんが仕向けてくれた。
『最高のシナリオ』で書いたように、いまわたしは那智さんが誰を抱こうが、まったく問題ない。
どうぞどうぞお好きなようにと思っている。
なんなら、何かお手伝いいたしましょうか?とさえ思う。
継続した関係は受け入れ難いけど、3Pや他の女性を好きに抱きたいと思っても、わたしは快くお手伝いするし、送り出せる。
ハプバーに行って、滅多にないけど那智さんが「あの子いいかも〜」と気に入った女性がいたら、その気になってもらえないかわたしはなんとかその女性と仲良くなろうとする。
嬉々として女性のところに行く自分を、鵜飼いの鵜だなって思うほどだ(笑)
(まあ、でも、だいたい那智さんがいいなと思う女性はハプバー初体験みたいな『慣れていない』人なので、なかなか難しい^^;)
最高のシナリオを見せてくれたおかげで(?)那智さんが誰を抱いても大丈夫、那智さんの喜びはわたしの喜び、楽しんでいただきたいと思うほど。
これって、じつはものすごい調教じゃないだろうか!!
苦痛を喜びに変えられるようになる。
できなかったことができるようになる。
那智さんの思ったようにわたしを変化させる。(鵜飼いの鵜は那智さんの思惑とは違うでしょうけど^^)
でも、これらどれを指してもわたしたちは『調教』とは呼ばない。
その時々で『訓練』とか『仕向ける』とか『育てる』とか『慣らされる』とかいう。
ということは、それぞれ概念はあるでしょうけど、結局、『調教』という言葉を使いたいか、どうかの差しかないような気がする。
ついでに、たとえば、『鞭で快感を得るようになる』ではなくて『鞭などの苦痛に耐えることが調教』なんて場合もあって、本来調教は訓練して『できるようになる』ことだと思うので、そうなると、まったく本来の意味とは違うものになっているよね。
まあ、それでも使いたいと思ったり、これが調教だと思うことが好きだということはあるでしょうし、否定しません。
ただ、自分たちの『育てる』や『訓練』と『調教』とは何が違うんだろう?って思うのだ。
鞭で飛べるわたしを見て、誰も『立派に調教されましたね』とは言わないし、『厳しい調教に耐えている』とも言ってくれない。(ホントはちょっと言ってほしい 笑)
主従に憧れているわたしはじゃっかん残念でもあるので何か違いを見つけたいと、ちょっと躍起になってみる^^;
で、辞書を引いてみた。
『動物を目的に応じて訓練すること。』
だそうだ。
うん、納得!!
ポイントは『動物』だ。
ようは『人に非ず』なわけだ。
パートナーを、奴隷さんを、M女さんを、対等ではなく人以下という位置づけをしているとしたら、調教はうなずける。
カップルの間に於いてのことで、わたしがその女性を人以下と思っているわけではありません(ここ重要です!!)
当事者以外がその女性を下に見ていい権利はないですから。
だから、カップル間に於いての位置づけとして、動物と同等、人以下である場合に『調教』という言葉を使うなら、とてもスッキリ納得です。
これならわたしたちのそれは『調教』ではないですね。
対等な人間同士、主導権を握る者と握られる者の間の訓練になるよね。
わたしにとっての『調教』の定義は、相手を動物同等(人以下)に見ている関係、もしくは、その時間だけ動物同等(人以下)の扱いを受けるコンセンサスを得ている関係の場合。
プラス、その言葉を使いたい人^^
ということで、納得です^^
いちいち辞書を引きながら生活するわけにはいかないので、本来の意味とは違う使い方をしてしまう言葉はたくさんある。
でも、もともとあった言葉、たとえば『調教』や、『奴隷』も『主従』もそうですよね、そういう言葉を用いて新しい事柄を表すとき、それがなんとなくの共通語みたいになっているとき、人は自分に都合良く解釈してしまうところがあると思う。
それはそれでぜんぜんかまわないのだけど、せめて、自分にとって重要な事柄なら、その解釈を自分なりの言葉に表せられるといいと思う。
パートナーと同じ言葉を共有するなら解釈を一致させる努力はしたほうがいいと思う。
問題や矛盾が起きたときに解決する糸口になるはずだ。
そのたったひとりの大切な相手に自分の身を任せるつもりなら、なおさら共通認識をしていたいよね。
<関連エントリー>
食べ物を口移しでいただくことが基本仕様になってしまった時間
『躾け』
鵜飼いの鵜
『週末用』
『奴隷の定義』
『M女の種類』
「等式」感想です。完璧なエントリーだね~「その通り」で、特に言うことは無いのだけれど、敢えて突っ込むとすれば、「調教」と言う言葉がSM的使用の方が一般的であると言う下りぐらいかな。
ここまで書いて、Googleしたら、エロの記述の方が上位に出ていた、でも、ネットにおけるエロの強さを考えると仕方ないこと、一般的とは言えないのでは。(笑)
COMMENT
私も。既存の言葉でも物でも、そのまま安易に使うのは好きじゃないです。
自分でこだわりがある部分は、なっとくできる表現というか、似合うものがほかにあるはずなので。
同じ言葉ではつまんないです。
まったく違う用途のものを、そこで使用する創意工夫も大好きよvうふん。
自分でこだわりがある部分は、なっとくできる表現というか、似合うものがほかにあるはずなので。
同じ言葉ではつまんないです。
まったく違う用途のものを、そこで使用する創意工夫も大好きよvうふん。
ありがと^^
なんとか用語みたいなのもあるからね、一概に悪いことばかりじゃないと思うけど、大きなお世話しちゃいました^^;
まあ、わたしだったら、とても大切な人と特別な事柄を共有するとしたら認識の一致はさせていたいし、できるだけ自分たちの言葉で語り合いたいです。
創意工夫?
ナポリタンをはさんだパンに新しい名前をつけたり?
わたしもそういうのは大好きさ!!
なんとか用語みたいなのもあるからね、一概に悪いことばかりじゃないと思うけど、大きなお世話しちゃいました^^;
まあ、わたしだったら、とても大切な人と特別な事柄を共有するとしたら認識の一致はさせていたいし、できるだけ自分たちの言葉で語り合いたいです。
創意工夫?
ナポリタンをはさんだパンに新しい名前をつけたり?
わたしもそういうのは大好きさ!!
最近私は『S男性』『M女性』という言葉にしっくりこなくなって、あえて『攻め手側』『受け手側』という言葉を使うことが多くなりました。
だってそれぞれ『サディスト』でも『マゾヒスト』でもない場合がほとんどなのです。
したい事をしたい人と、して欲しいことをされたい人が、その好みをできる限り擦り合わせて楽しみ、満たされる。
私にとってSM行為というものは、そうあって欲しいものなのかな、と思います。
でもそうなると結局、SMという言葉でのカテゴライズの限界を感じるというか、当初の那智さんの「今後極力SMという言葉は使わないように」を思い出しました。
だってそれぞれ『サディスト』でも『マゾヒスト』でもない場合がほとんどなのです。
したい事をしたい人と、して欲しいことをされたい人が、その好みをできる限り擦り合わせて楽しみ、満たされる。
私にとってSM行為というものは、そうあって欲しいものなのかな、と思います。
でもそうなると結局、SMという言葉でのカテゴライズの限界を感じるというか、当初の那智さんの「今後極力SMという言葉は使わないように」を思い出しました。
『攻め手』じゃなくて『責め手』です(^^;;
わあ、恥ずかしいヽ(;▽;)ノ
わあ、恥ずかしいヽ(;▽;)ノ
う〜ん、困った(笑)
完璧なコメントなので、どうレスをつけたらいいか考えちゃって遅くなりました^^
したい事をする人として欲しい事をされたい人、そこに名前をつけてカテゴライズする必要はないのかもしれませんね(もちろん、その限界を感じたとしてもその名前が好き!!って人もアリ)
そして、そのすり合せをするときにどうしたって人柄に触れるわけで、結果的に人同士の相性も残ると思うのです。
だから、『したい事して欲しいこと』を『その人』としたいの2本柱って思っています^^
那智さんの言葉を思い出してくれて、那智さん、きっと喜んでます♪
完璧なコメントなので、どうレスをつけたらいいか考えちゃって遅くなりました^^
したい事をする人として欲しい事をされたい人、そこに名前をつけてカテゴライズする必要はないのかもしれませんね(もちろん、その限界を感じたとしてもその名前が好き!!って人もアリ)
そして、そのすり合せをするときにどうしたって人柄に触れるわけで、結果的に人同士の相性も残ると思うのです。
だから、『したい事して欲しいこと』を『その人』としたいの2本柱って思っています^^
那智さんの言葉を思い出してくれて、那智さん、きっと喜んでます♪
あらら、わたしも一回でレスするつもりが、ひとつ書き忘れ(笑)
早く名前やカテゴライズの限界に気づき抜け出せたほうが、実は、本当にしたいことに近づけるような気がします^^
って、これも書きたかった^^
早く名前やカテゴライズの限界に気づき抜け出せたほうが、実は、本当にしたいことに近づけるような気がします^^
って、これも書きたかった^^