徒然に「社会」のこと
りん子的独り言(エラそう)
SMをしているけど、ラブラブな日常も書くし、アダルトカテゴリでも我が子のことも書く。
まったく制限のないブログ。
だから、自由に書きたいことを書きます、今日も^^
いじめによる子供の自殺があると、本当に心が痛むし腹立たしい。
見ず知らずの子供でもそう思うのだから、家族の怒りや無念を想像すると、想像することさえ失礼なんじゃないかと反省してしまうほどだ。
本当にやるせなくて、たまらない。
少年の痛ましい事件を見て。
日頃、思っていた『いじめ』について書きました。
何度も書き直して、なんだかまとまりも勢いもないものになっちゃった^^;
我が子が小さい頃。
ある教材をお下がりでいただいたことがあった。
ほら、キャラクターが出てきて歯磨きを教えたり、ひらがなの勉強したりするの、あるでしょ。
そこについていたビデオでこんな教えをしていた。
公園にトラとウサギが遊んでいて、後からカラスが来る。
トラとウサギはカラスに気づくけど、そのまま砂場で遊んでいた。
一緒に遊びたいカラスはしばらくそばをウロウロしたり一人でブランコに乗ったりしている。
そこに指導するおねえさんが登場して。
「そういうときは「入れて」っていうんだよ」って教える。
カラスは入れてと言って一緒に遊ぶのだ。
うん、これは正解。
自分の要求をきちんと言葉にすることは大事なことだ。
そうすれば、可能性はたくさん広がる。
それを子供が知るのは正解。
だけど、ちょっとだけ、イヤだった。
だって、最初にそこにいることや二人だという情報だけ見たらトラとウサギはこの場合、有利な立場にある。
極端に言わせてもらえば、強者だよね。
わたしは強者が弱者に手を差し伸べる構図のほうが好きだ、弱者が強者に気遣わないといけない構図がキライだ。
だから、この場合トラとウサギが「一緒に遊ぶ?」ということも正解のひとつだよね
強さを作る教育も大切だけど、手を差し伸べる優しさを作る教育も同じくらい大切だと思うのだけど、子育てをしていて、子育て環境の中でそちらに触れている量の少なさは実感する。
強者が手を差し伸べる、その美意識を個々に持てる文化や社会が成熟した大人の社会だと思う。
日本は階級社会ではないから、強者と弱者の区別はつきにくいですよね。
でも、わたしはできるだけ自分の判断で手を差し伸べるべき立場にあるかアンテナを張っていたいと思う。
年齢?
腕力?
いろいろ強者と弱者の計り方はあるでしょうけど、わたしなりの基準のひとつは『複数と個』。
『複数と個』になったら強弱の判断ができると思っています。
だから、さっきのトラとウサギは強者、個のカラスに一歩歩みよることが優しさで強さでだと思う。
いわゆる『いじめ』も、わたしなりの定義がありまして。
基本的に『1対複数』を指しています。
1対1は意地悪な子とかケンカとかだと思っているの、まだ逃げ道はある気がする。
それが1対2になったら、いじめだと定義しています。
(中には1対1でも1対複数に値するもの、それ以上のものもあると思うけど、基本の定義として)
だから、強者が弱者につらい思いをさせるいじめ(という言葉さえ不快)の構図は、まったくの未熟な行いだと、ハッキリ認識したい。
力が強い子が殴るのも、集団でひとりを無視するのも、強者が力を誇示するやり方は、子供っぽくて恥ずかしいこと。
そして、弱いものを攻撃する人は憂さ晴らしをしているのだよね。
じつは鬱屈したものを抱えていてるのだと思う。
だから、いじめをしている子は自分に鬱屈したものを抱えているとみんなに言っているようなものなのだ。
親か兄弟かそれ以外の要素か、とにかく、自分が別の強者に抑圧されている弱者側にいるのだと気づいてほしい。
いじめをしている側は、いじめることで自分の本質を人に見せちゃってる。
(ときどき、性的ないじめの記事などを読むと、いじめる側の性的興味がバレバレで恥ずかしくないのか!?と思うほどです)
いじめは悪いこと、たしかにそうだけど。
集団で攻撃するには子供っぽいこと。
弱いものを攻撃するのは、自分も別なところでいじめられていると公言しているようなこと。
いじめられている子は、いじめられていることを恥ずかしいことだと感じていると思うけど、じつは、いじめているほうがとても恥ずかしいことをしているのだと、思う。
いじめはとーっても恥ずかしいこと。
こんなふうにたくさんの人が思えたらいいのに。
最後に。
日頃から、ネット上に広がる情報の渦にはあまり触れないようにしているのだけど、今回はちょっと引き込まれてしまった。
加害者とされる少年や家族がずいぶん叩かれていて、ネットというのはこういうものなんだなと、あらためて感じました。
ネットなどで加害少年と家族や教師が個人攻撃に遭っているのを見ると、なんとも言えない恐ろしさや焦りみたいなものを感じていました。
たしかに集団でひとりを攻撃し死に至るようなこと、それを責任逃れのように隠匿する体質は、どれも許されることではないけれど、いつの間にか正義が大きな集団となって、本来の解決とは違う様相を呈してくるのを刻々と見てしまっていて、怖かった。
ある瞬間からオセロがひっくり返るように強者から弱者に変わることはよくあること。
だから、わたしはいつも『卵の側にいたい』と思っている。
でも、でも、正直に言ってしまうと、あまりに凄惨な出来事や犯罪行為をいじめという言葉で隠蔽していた大人たちの報道を見てしまうと、その正義がひっくり返る様子にほんのわずかに溜飲を下げている自分もいることもたしかだった。
日頃エラそうに『卵の側に』と書いているクセに、その溜飲を下げている自分をもうひとりの自分が見ていて、ホントに情けなく、とても恥ずかしかった。
情けないけど、わたしはそこまでデキた人間ではないらしい。
それでも、そこに気づき、自分を恥じることならできる。
そして、無関係の人間が正義の鉄拳を振り下ろす恐ろしさも省みることをしたいと思う。
(ただ、今回、いろいろ動かしたのは無関係の人たちの勢いだということも言えなくないので、複雑ではあります)
完璧には無理だとしても、様々な場面でいまは自分のほうが『強く』いられていると判断したら、手を差し伸べられる人でいたいと、思いを巡らせた数週間でした。
緊急避難としてテレビやネットでいじめられている子に対して解決策を教えることは大事だけど、本当は弱い立場が強くなるよりも、『強者は弱者に手を差し伸べる』ということが長く広くたくさんの人の心に浸透したらいいなと夢を見る。
弱者に手を差し伸べる社会。
わたしもまだまだ失敗することもあるけど、でも、心に留めて、わたしの近くからそうしていきたい。
<関連エントリー>
『hotに3周年御礼♪』
『連れションはキライ』
『善意』
『成績表』
『球体』
「等式」感想です。感想を2回程書いたのですが、没です。難しいですね、いじめを考えるとどうしても「勇気」がテーマになります。いじめを「やめなよ」と言う勇気、「やめて」と言う勇気、誰かに「相談する」勇気、勇気は自分自身に勝つことで、他者との比較ではない。このぐらいかな~
SMをしているけど、ラブラブな日常も書くし、アダルトカテゴリでも我が子のことも書く。
まったく制限のないブログ。
だから、自由に書きたいことを書きます、今日も^^
いじめによる子供の自殺があると、本当に心が痛むし腹立たしい。
見ず知らずの子供でもそう思うのだから、家族の怒りや無念を想像すると、想像することさえ失礼なんじゃないかと反省してしまうほどだ。
本当にやるせなくて、たまらない。
少年の痛ましい事件を見て。
日頃、思っていた『いじめ』について書きました。
何度も書き直して、なんだかまとまりも勢いもないものになっちゃった^^;
我が子が小さい頃。
ある教材をお下がりでいただいたことがあった。
ほら、キャラクターが出てきて歯磨きを教えたり、ひらがなの勉強したりするの、あるでしょ。
そこについていたビデオでこんな教えをしていた。
公園にトラとウサギが遊んでいて、後からカラスが来る。
トラとウサギはカラスに気づくけど、そのまま砂場で遊んでいた。
一緒に遊びたいカラスはしばらくそばをウロウロしたり一人でブランコに乗ったりしている。
そこに指導するおねえさんが登場して。
「そういうときは「入れて」っていうんだよ」って教える。
カラスは入れてと言って一緒に遊ぶのだ。
うん、これは正解。
自分の要求をきちんと言葉にすることは大事なことだ。
そうすれば、可能性はたくさん広がる。
それを子供が知るのは正解。
だけど、ちょっとだけ、イヤだった。
だって、最初にそこにいることや二人だという情報だけ見たらトラとウサギはこの場合、有利な立場にある。
極端に言わせてもらえば、強者だよね。
わたしは強者が弱者に手を差し伸べる構図のほうが好きだ、弱者が強者に気遣わないといけない構図がキライだ。
だから、この場合トラとウサギが「一緒に遊ぶ?」ということも正解のひとつだよね
強さを作る教育も大切だけど、手を差し伸べる優しさを作る教育も同じくらい大切だと思うのだけど、子育てをしていて、子育て環境の中でそちらに触れている量の少なさは実感する。
強者が手を差し伸べる、その美意識を個々に持てる文化や社会が成熟した大人の社会だと思う。
日本は階級社会ではないから、強者と弱者の区別はつきにくいですよね。
でも、わたしはできるだけ自分の判断で手を差し伸べるべき立場にあるかアンテナを張っていたいと思う。
年齢?
腕力?
いろいろ強者と弱者の計り方はあるでしょうけど、わたしなりの基準のひとつは『複数と個』。
『複数と個』になったら強弱の判断ができると思っています。
だから、さっきのトラとウサギは強者、個のカラスに一歩歩みよることが優しさで強さでだと思う。
いわゆる『いじめ』も、わたしなりの定義がありまして。
基本的に『1対複数』を指しています。
1対1は意地悪な子とかケンカとかだと思っているの、まだ逃げ道はある気がする。
それが1対2になったら、いじめだと定義しています。
(中には1対1でも1対複数に値するもの、それ以上のものもあると思うけど、基本の定義として)
だから、強者が弱者につらい思いをさせるいじめ(という言葉さえ不快)の構図は、まったくの未熟な行いだと、ハッキリ認識したい。
力が強い子が殴るのも、集団でひとりを無視するのも、強者が力を誇示するやり方は、子供っぽくて恥ずかしいこと。
そして、弱いものを攻撃する人は憂さ晴らしをしているのだよね。
じつは鬱屈したものを抱えていてるのだと思う。
だから、いじめをしている子は自分に鬱屈したものを抱えているとみんなに言っているようなものなのだ。
親か兄弟かそれ以外の要素か、とにかく、自分が別の強者に抑圧されている弱者側にいるのだと気づいてほしい。
いじめをしている側は、いじめることで自分の本質を人に見せちゃってる。
(ときどき、性的ないじめの記事などを読むと、いじめる側の性的興味がバレバレで恥ずかしくないのか!?と思うほどです)
いじめは悪いこと、たしかにそうだけど。
集団で攻撃するには子供っぽいこと。
弱いものを攻撃するのは、自分も別なところでいじめられていると公言しているようなこと。
いじめられている子は、いじめられていることを恥ずかしいことだと感じていると思うけど、じつは、いじめているほうがとても恥ずかしいことをしているのだと、思う。
いじめはとーっても恥ずかしいこと。
こんなふうにたくさんの人が思えたらいいのに。
最後に。
日頃から、ネット上に広がる情報の渦にはあまり触れないようにしているのだけど、今回はちょっと引き込まれてしまった。
加害者とされる少年や家族がずいぶん叩かれていて、ネットというのはこういうものなんだなと、あらためて感じました。
ネットなどで加害少年と家族や教師が個人攻撃に遭っているのを見ると、なんとも言えない恐ろしさや焦りみたいなものを感じていました。
たしかに集団でひとりを攻撃し死に至るようなこと、それを責任逃れのように隠匿する体質は、どれも許されることではないけれど、いつの間にか正義が大きな集団となって、本来の解決とは違う様相を呈してくるのを刻々と見てしまっていて、怖かった。
ある瞬間からオセロがひっくり返るように強者から弱者に変わることはよくあること。
だから、わたしはいつも『卵の側にいたい』と思っている。
でも、でも、正直に言ってしまうと、あまりに凄惨な出来事や犯罪行為をいじめという言葉で隠蔽していた大人たちの報道を見てしまうと、その正義がひっくり返る様子にほんのわずかに溜飲を下げている自分もいることもたしかだった。
日頃エラそうに『卵の側に』と書いているクセに、その溜飲を下げている自分をもうひとりの自分が見ていて、ホントに情けなく、とても恥ずかしかった。
情けないけど、わたしはそこまでデキた人間ではないらしい。
それでも、そこに気づき、自分を恥じることならできる。
そして、無関係の人間が正義の鉄拳を振り下ろす恐ろしさも省みることをしたいと思う。
(ただ、今回、いろいろ動かしたのは無関係の人たちの勢いだということも言えなくないので、複雑ではあります)
完璧には無理だとしても、様々な場面でいまは自分のほうが『強く』いられていると判断したら、手を差し伸べられる人でいたいと、思いを巡らせた数週間でした。
緊急避難としてテレビやネットでいじめられている子に対して解決策を教えることは大事だけど、本当は弱い立場が強くなるよりも、『強者は弱者に手を差し伸べる』ということが長く広くたくさんの人の心に浸透したらいいなと夢を見る。
弱者に手を差し伸べる社会。
わたしもまだまだ失敗することもあるけど、でも、心に留めて、わたしの近くからそうしていきたい。
<関連エントリー>
『hotに3周年御礼♪』
『連れションはキライ』
『善意』
『成績表』
『球体』
「等式」感想です。感想を2回程書いたのですが、没です。難しいですね、いじめを考えるとどうしても「勇気」がテーマになります。いじめを「やめなよ」と言う勇気、「やめて」と言う勇気、誰かに「相談する」勇気、勇気は自分自身に勝つことで、他者との比較ではない。このぐらいかな~
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COMMENT
先週、会社の嘱託社員のおじさんが辞めた。
部署は違ったけど同じフロアで働いていた。
確かに仕事の把握のできない、いつもフォローの必要な人だったし、いつかは自分の失敗で辞めてしまうかも?と思わせる危なっかしい人だったけど、辞めた直接の理由はいじめだった。
仕事ができないことは確かに同僚の足を引っ張ることになる。だから、注意したり指摘するのは必要なことだ…でもそれと相手を嘲笑したり人間性を否定したり傷つけたりするのは違う!何度も主犯格のチームリーダーに意見したけど、大人と言うのは狡猾で始末が悪い。
自分達の行為を正当化する言い訳に終始するだけで、次第にうるさいわたしの前では、嫌みを皮肉や嫌がらせをしなくなった。
でも陰では…うるさい人間がいないところでは堂々いじめをしてたんだよ。
結局おじさんは辞めてしまった。
このチームリーダーの意識変革をしないと、ちょっと仕事ができなくて気の弱い人がきたらまた同じ、わたし達にとって劣悪な職場環境になってしまう。
わたしにはそう会社に訴えるしかできなかった。
もっとわたしがすべき最良の方法があっただろうと思うと悔しい。
いじめはどこにでも氾濫している。
ひとりの力は及ばなくても、りん子さんの言う卵側が協力しあえばなんとかなることもあるかもしれない。
いじめに関しては孤軍奮闘は潰れていくだけだ、助けるために大きな声をあげられる仲間が必要だと思う。
部署は違ったけど同じフロアで働いていた。
確かに仕事の把握のできない、いつもフォローの必要な人だったし、いつかは自分の失敗で辞めてしまうかも?と思わせる危なっかしい人だったけど、辞めた直接の理由はいじめだった。
仕事ができないことは確かに同僚の足を引っ張ることになる。だから、注意したり指摘するのは必要なことだ…でもそれと相手を嘲笑したり人間性を否定したり傷つけたりするのは違う!何度も主犯格のチームリーダーに意見したけど、大人と言うのは狡猾で始末が悪い。
自分達の行為を正当化する言い訳に終始するだけで、次第にうるさいわたしの前では、嫌みを皮肉や嫌がらせをしなくなった。
でも陰では…うるさい人間がいないところでは堂々いじめをしてたんだよ。
結局おじさんは辞めてしまった。
このチームリーダーの意識変革をしないと、ちょっと仕事ができなくて気の弱い人がきたらまた同じ、わたし達にとって劣悪な職場環境になってしまう。
わたしにはそう会社に訴えるしかできなかった。
もっとわたしがすべき最良の方法があっただろうと思うと悔しい。
いじめはどこにでも氾濫している。
ひとりの力は及ばなくても、りん子さんの言う卵側が協力しあえばなんとかなることもあるかもしれない。
いじめに関しては孤軍奮闘は潰れていくだけだ、助けるために大きな声をあげられる仲間が必要だと思う。
一連のいじめ事件でたくさんの著名人や一般人が『いじめ」について語っていました。
その中で、いままであまり目にしなかった『いじめを見ている子』に向けたものが割りとありました。
それを見たとき、なんだか、つらかったな、ああ、こんなことまで子供に伝えないといけなんだって、それくらい環境はよくないのだなって。
ただ、いままで見過ごされがちだった部分にスポットが当たるのはいいことですよね。
『見て見ぬふりは同罪』とか『先生に相談しよう』とか、本当にたくさん見てきた忠告の他で、ちょっといいなと思うのがありました。(ブックマークしてなかったのが残念)
いじめられている子がいたら、その子に『ありがとう』って言える機会をたくさん作ろうって。
いじめられている子と仲良くする勇気はなくても、たとえば、その子のそばで消しゴム忘れちゃったことにして借りるの、で『ありがとう』って返す。
その子に対する『ありがとう』がすこしでも増えれば、同じように見ている子やいじめの主犯じゃなくて加担している程度の子も『もしかしてアイツいいヤツ?』と意識できるようになって、いじめていることが楽しくなくなってくるんじゃないかって。
とても理想の話かもしれないけど、この意見がわたしは好きだったです。
mineさんの職場は大人の環境だから子供のそれとは質が違うかもしれない、でも、この話を思い出しました^^
その中で、いままであまり目にしなかった『いじめを見ている子』に向けたものが割りとありました。
それを見たとき、なんだか、つらかったな、ああ、こんなことまで子供に伝えないといけなんだって、それくらい環境はよくないのだなって。
ただ、いままで見過ごされがちだった部分にスポットが当たるのはいいことですよね。
『見て見ぬふりは同罪』とか『先生に相談しよう』とか、本当にたくさん見てきた忠告の他で、ちょっといいなと思うのがありました。(ブックマークしてなかったのが残念)
いじめられている子がいたら、その子に『ありがとう』って言える機会をたくさん作ろうって。
いじめられている子と仲良くする勇気はなくても、たとえば、その子のそばで消しゴム忘れちゃったことにして借りるの、で『ありがとう』って返す。
その子に対する『ありがとう』がすこしでも増えれば、同じように見ている子やいじめの主犯じゃなくて加担している程度の子も『もしかしてアイツいいヤツ?』と意識できるようになって、いじめていることが楽しくなくなってくるんじゃないかって。
とても理想の話かもしれないけど、この意見がわたしは好きだったです。
mineさんの職場は大人の環境だから子供のそれとは質が違うかもしれない、でも、この話を思い出しました^^