事実が作ったもの
独特な幸福感
わたしたちはタラレバ話をして遊ぶことが好きだ。
付き合い当初は『悲しくならないため』の【ルール】を那智さんが作ってくれて、たしか『タイムマシンがあって』なんて夢物語はOKだけど実現可能なことはダメとかそんなのだったかな。
それに基づいて話していたけど、最近はわたしの意識も安定しているのでだいぶ規制緩和されているのでいろいろなタラレバで遊んでいるけど、その中でもやっぱり人気(?)なのが『タイムマシンもの』(笑)
タイムマシンがあったら何才のわたしに会ってみたいですか?
そのとき那智さんはいまの那智さん?
それとも同じように若くなってます?
過去に戻るとき記憶は残しておきます?残すなら全部?一部?
そんなふうに設定を詳細に決めて話すとなかなか盛り上がる^^
まあ、だいたいいつに戻るかは何パターンかあるのでだいぶ新鮮味はなくなってきているのだけど、当の本人たちが年を重ねて変化していて、その時々で戻ったらどうするか、どうなるかも変化するので、なかなか飽きることはない。
先日もその話になった。
そのときは那智さん20代前半、わたし10代の終わりくらいの設定^^
あの頃の俺は毎日やれって言われたら、平気でできてたな〜(笑)
りん子もいまより時間あるから、たくさんやってあげられたよ
きゃあ、きゃあ、毎日(はうはう)♪
なんて話。
少し前のわたしだったら「わたし、そんな淫乱じゃありません!!」と抵抗していたところだけど、最近は淫乱でいやらしいりん子をわたし自身認め許せているので、以前とは違ってそれを受け入れた話に発展できるのだ。
10代のわたし。
まったく普通の、どちらかと言えば奥手の高校生だったけど、いけないことを想像したりいやらしいものを求めたりしていて自分は何かおかしいのではないかと思っていた頃に那智さんと知り合う。
処女だったわたしが1から教えてもらって、はじめは抵抗感を持ちながらも性的に開花していく。
たぶん、想像だけど、かなりどっぷり那智さんの性に溺れてしまっていたのではないだろうか。
那智さんは誠実な人だけど、それでも、もしかしたらセックスもSMも何か逸脱してしまうほどのめり込んでしまったかもしれない、この9年間のわたしに与えた変化の2倍や3倍のものを施されると想像すると甘いだけじゃない気がするのだ。
いまのわたしだからこそ、想像できる。
なんとなく、すごくすごく残念な気持ちとそうならずに済んでホッとする気持ちと、複雑だった。
那智さんも似たようなことを考えていたようで
もし、そうだったらすごかっただろうな(笑)
他と比べたわけじゃないけど、若かりし頃はそれなりの体力と諸々の力強さ(ああ、絶倫とか書けばいいのか!?でもなんか書けない)を持っていた那智さんが未開発のりん子を自分仕様に仕込み育てるとなれば、そりゃあ、那智さんものめり込むでしょう^^
いろんなことやっただろうな〜
複数とか
複数。
その言葉を聞いて、思わず息を吐いた。
ああ、この気持ちはなんだろう。
大事なものをそっと引き出しにしまって静かに立ち去るような感じ。
物悲しさや諦めや、充足感や、いろいろな感情が折り重なる。
『複数の男性』というのはずっと昔からわたしの妄想の比較的大きなひとつだった。
たくさんの男のおもちゃになる、それに快感を覚えるわたし。
那智さんとお付き合いしてからもその妄想は頭の中に居座り続けていた。
那智さんと他の男性。
那智さんのものとして、他の男の性的餌食になる。
いまでもなくなりはしない妄想。
だけど、わたしは知ってしまっている。
もう、その妄想を叶えることはできないだろうということを。
わたしにとって他者を交えるということは本当に難しいことだ。
よほど慎重に進めないと演技するだけでまったく快感にならない、ただの退屈な、もしくは傷つく行為になりかねない。
いままで二度カップル喫茶に行き、ハプバーには何回も行っている。
男性を募集したこともあったし、ずいぶん昔那智さんが知人に抱かせたこともあった。
男性を募集したときや那智さんの知人のときは複数というより、那智さんの前で那智さん以外の男性に抱かれるというモチベーションだったから少し違うけど、それでも『他者』の存在はあるわけだし、ハプバーで実際に誰かと絡むなんてことはほとんどなかったけど、やはり常に他者は存在していた。
複数に近いことは一度だけあった、それは『男たちの手』というエントリーに書いたけど、あれは、わたしが着衣のまま男性たちに触られる止まりだったからある程度没頭することができたけど、あのままごく普通(?)の複数対ひとりのセックスに突入していったらおそらく途中で冷静さを取り戻し、『恥じらいながらも複数で感じる女』を演じてしまっていただろう。(演じさせたら、うまいよ 笑)
わたしの過剰な自意識と羞恥心と役割期待に応えようとしてしまう性質が『他者』の中自由な心でいさせてくれないこと、それはまったく快感ではない。
そして、演技をするセックスと知らない男たちに体を開くことは傷つくということを長年かけて理解する。
那智さんも納得のいく人選や雰囲気でない限りわたしの体に触れさせるつもりはないだろうし、納得しないとわたしがもっと辛くなっちゃうことも知ってくれている、何より、那智さんにとって『りん子が感じることが満足』なのだから余計に困難なこと。
これらのことで複数で互いが満たされるような状態にはなかなかならないことを知っていった。
そして、もうひとつ、これも大きな要因。
那智さんとふたりで作る時間や空間や感情や快感が、あまりにも良すぎるのだ。
快感は体だけで作られるものではない。
心を解放することで体の快感が育つ。
過剰な自意識や羞恥心や期待に応えようとする性格のわたしに快感を作ることは心と体の両方を育てる必要があったはず。
那智さんは、それを『ふたりだけの世界の中、那智さんでなければ』という形で作り上げた。
それを長年積み重ねて、わたしは那智さんでなければ、もっというと那智さんとふたりでなければ、それを感じられない女になった。
この人でなければと思えることはこの上ない幸福と快感ではあるけれど、この人以外はいらないと思えてしまうもの。
その幸福と快感のあまりの良さを知ってしまったから、他者を交えることは快感でもなんでもないと思えるようになってしまったのだ。
誰かにとってダメなことは誰かにとってよいことである場合もあるので複数で快感を得られる人もいるだろう、だからそれは否定していない。
ただ、わたしの性格と那智さんの育て方が、このようなわたしを作ったということ。
那智さんがタイムマシンに乗って過去のわたしと出会ったら。
いろいろしていたことの中に『複数』は入っていた。
おそらく那智さんにもその嗜好があるのだろう。
だから、もし25年前に出会っていたら、いまの育て方とは違う、もしくは、その先の発展の仕方を変え、わたしが複数を楽しめるように作る余裕があっただろうなと思っての発言だったのだ。
複数はわたしの妄想、那智さんの嗜好のひとつだった。
だけど、必ずしも妄想を形にしたら快感を得られるものではないということ。
わたしの性格による那智さんの育て方から作られたふたりの性的幸福の中では複数は実現が難しいことだということだ。
那智さんの「複数」という言葉を聞いたとき。
ああ、わたしはこの先、妄想のひとつだった『複数』が叶うことはないのだろうなぁと静かに確かめたような気持ちになった。
思春期の頃から思い描いていた妄想はいまでもある、性的な刺激を思い描くとき『複数』は3本指に入るほどだ(笑)
だけど、思い描きながら、実際したらふたりの満足にはならないだろうなと半分の冷静な頭が思う。
幸福と快感のもとに『複数』が叶うことはないのだろう。
きっとわたしという人間には合わないことだったのだ。
そして、それ以上の現実の幸福と快感を知ってしまったいま、その妄想は妄想のままそっと心の引き出しにしまっておこうと思った。
すこし寂しいような、でも、満たされた気分で。
法に触れない限り、現代社会で性的妄想を形にするのは意外と簡単かもしれない。
ネットでは様々なものが手に入るし、匿名で他者と交流することもできる、風俗やハプバーのようにニーズに合ったことを体験させてくれるところもある。
妄想は人を豊かにする、だから、妄想も必要なことだし、一歩でも妄想に近づきたいと思うことは否定していない。
だけど、じつは、妄想を形にすることと、それで快感や幸福を味わうことはまったく違うことなのかもしれない。
まして、他者を交えることはものすごくデリケートで、そこから『ふたり』が『極上』の快感や幸福を得ることはものすごく困難なことなんだ。
ときどきネットで貸し出しや複数調教なんていうのを見るけど、そこにいるどれくらいの人が極上の快感と幸福を感じているかと想像すると、おそらく画像のインパクトに比べたら大したことないんじゃないかと思えてしまう。
複数に限らず、妄想を現実のものにすることはお手軽にはできないのだ。
自分の心と向き合い相手の心とすり合せ、長い時間かけて現実の良さに変えていくものなのだろう。
中には合わないものだって当然出てくるけど、それは仕方ないこと。
だから、わたしは過激な妄想の形より、那智さんとふたりで、那智さんが作ってくれた小さな世界で他では味わえない極上の幸福と快感を味わうほうがいい。
那智さんの指と舌とおちんぽ様と視線と皮膚と声で複数だ^^
<関連エントリー>
悲しくならないルール、探したらありました^^
『手を離さないで』
カップル喫茶と知人に抱かせたこと
『嫉妬の効用 2 3』
『ゲストを招く(一場面)』
『ゲストを招く(りん子の心1 2 3)
『男たちの手(前振り もらうセックス)』
『男たちの手1 2』
「等式」感想です。複数について、一般論なのでおもしろくないかもしれません。遊びでも練習が必要ですよね、スポーツ全般も勿論。SEXだって練習しないと良くならないですよね、それと同じくも練習かなとも思います。お互いの、気持ちの切り替えや、慣れ、段取りや打ち合わせなどで随分違うかなと。
わたしたちはタラレバ話をして遊ぶことが好きだ。
付き合い当初は『悲しくならないため』の【ルール】を那智さんが作ってくれて、たしか『タイムマシンがあって』なんて夢物語はOKだけど実現可能なことはダメとかそんなのだったかな。
それに基づいて話していたけど、最近はわたしの意識も安定しているのでだいぶ規制緩和されているのでいろいろなタラレバで遊んでいるけど、その中でもやっぱり人気(?)なのが『タイムマシンもの』(笑)
タイムマシンがあったら何才のわたしに会ってみたいですか?
そのとき那智さんはいまの那智さん?
それとも同じように若くなってます?
過去に戻るとき記憶は残しておきます?残すなら全部?一部?
そんなふうに設定を詳細に決めて話すとなかなか盛り上がる^^
まあ、だいたいいつに戻るかは何パターンかあるのでだいぶ新鮮味はなくなってきているのだけど、当の本人たちが年を重ねて変化していて、その時々で戻ったらどうするか、どうなるかも変化するので、なかなか飽きることはない。
先日もその話になった。
そのときは那智さん20代前半、わたし10代の終わりくらいの設定^^
あの頃の俺は毎日やれって言われたら、平気でできてたな〜(笑)
りん子もいまより時間あるから、たくさんやってあげられたよ
きゃあ、きゃあ、毎日(はうはう)♪
なんて話。
少し前のわたしだったら「わたし、そんな淫乱じゃありません!!」と抵抗していたところだけど、最近は淫乱でいやらしいりん子をわたし自身認め許せているので、以前とは違ってそれを受け入れた話に発展できるのだ。
10代のわたし。
まったく普通の、どちらかと言えば奥手の高校生だったけど、いけないことを想像したりいやらしいものを求めたりしていて自分は何かおかしいのではないかと思っていた頃に那智さんと知り合う。
処女だったわたしが1から教えてもらって、はじめは抵抗感を持ちながらも性的に開花していく。
たぶん、想像だけど、かなりどっぷり那智さんの性に溺れてしまっていたのではないだろうか。
那智さんは誠実な人だけど、それでも、もしかしたらセックスもSMも何か逸脱してしまうほどのめり込んでしまったかもしれない、この9年間のわたしに与えた変化の2倍や3倍のものを施されると想像すると甘いだけじゃない気がするのだ。
いまのわたしだからこそ、想像できる。
なんとなく、すごくすごく残念な気持ちとそうならずに済んでホッとする気持ちと、複雑だった。
那智さんも似たようなことを考えていたようで
もし、そうだったらすごかっただろうな(笑)
他と比べたわけじゃないけど、若かりし頃はそれなりの体力と諸々の力強さ(ああ、絶倫とか書けばいいのか!?でもなんか書けない)を持っていた那智さんが未開発のりん子を自分仕様に仕込み育てるとなれば、そりゃあ、那智さんものめり込むでしょう^^
いろんなことやっただろうな〜
複数とか
複数。
その言葉を聞いて、思わず息を吐いた。
ああ、この気持ちはなんだろう。
大事なものをそっと引き出しにしまって静かに立ち去るような感じ。
物悲しさや諦めや、充足感や、いろいろな感情が折り重なる。
『複数の男性』というのはずっと昔からわたしの妄想の比較的大きなひとつだった。
たくさんの男のおもちゃになる、それに快感を覚えるわたし。
那智さんとお付き合いしてからもその妄想は頭の中に居座り続けていた。
那智さんと他の男性。
那智さんのものとして、他の男の性的餌食になる。
いまでもなくなりはしない妄想。
だけど、わたしは知ってしまっている。
もう、その妄想を叶えることはできないだろうということを。
わたしにとって他者を交えるということは本当に難しいことだ。
よほど慎重に進めないと演技するだけでまったく快感にならない、ただの退屈な、もしくは傷つく行為になりかねない。
いままで二度カップル喫茶に行き、ハプバーには何回も行っている。
男性を募集したこともあったし、ずいぶん昔那智さんが知人に抱かせたこともあった。
男性を募集したときや那智さんの知人のときは複数というより、那智さんの前で那智さん以外の男性に抱かれるというモチベーションだったから少し違うけど、それでも『他者』の存在はあるわけだし、ハプバーで実際に誰かと絡むなんてことはほとんどなかったけど、やはり常に他者は存在していた。
複数に近いことは一度だけあった、それは『男たちの手』というエントリーに書いたけど、あれは、わたしが着衣のまま男性たちに触られる止まりだったからある程度没頭することができたけど、あのままごく普通(?)の複数対ひとりのセックスに突入していったらおそらく途中で冷静さを取り戻し、『恥じらいながらも複数で感じる女』を演じてしまっていただろう。(演じさせたら、うまいよ 笑)
わたしの過剰な自意識と羞恥心と役割期待に応えようとしてしまう性質が『他者』の中自由な心でいさせてくれないこと、それはまったく快感ではない。
そして、演技をするセックスと知らない男たちに体を開くことは傷つくということを長年かけて理解する。
那智さんも納得のいく人選や雰囲気でない限りわたしの体に触れさせるつもりはないだろうし、納得しないとわたしがもっと辛くなっちゃうことも知ってくれている、何より、那智さんにとって『りん子が感じることが満足』なのだから余計に困難なこと。
これらのことで複数で互いが満たされるような状態にはなかなかならないことを知っていった。
そして、もうひとつ、これも大きな要因。
那智さんとふたりで作る時間や空間や感情や快感が、あまりにも良すぎるのだ。
快感は体だけで作られるものではない。
心を解放することで体の快感が育つ。
過剰な自意識や羞恥心や期待に応えようとする性格のわたしに快感を作ることは心と体の両方を育てる必要があったはず。
那智さんは、それを『ふたりだけの世界の中、那智さんでなければ』という形で作り上げた。
それを長年積み重ねて、わたしは那智さんでなければ、もっというと那智さんとふたりでなければ、それを感じられない女になった。
この人でなければと思えることはこの上ない幸福と快感ではあるけれど、この人以外はいらないと思えてしまうもの。
その幸福と快感のあまりの良さを知ってしまったから、他者を交えることは快感でもなんでもないと思えるようになってしまったのだ。
誰かにとってダメなことは誰かにとってよいことである場合もあるので複数で快感を得られる人もいるだろう、だからそれは否定していない。
ただ、わたしの性格と那智さんの育て方が、このようなわたしを作ったということ。
那智さんがタイムマシンに乗って過去のわたしと出会ったら。
いろいろしていたことの中に『複数』は入っていた。
おそらく那智さんにもその嗜好があるのだろう。
だから、もし25年前に出会っていたら、いまの育て方とは違う、もしくは、その先の発展の仕方を変え、わたしが複数を楽しめるように作る余裕があっただろうなと思っての発言だったのだ。
複数はわたしの妄想、那智さんの嗜好のひとつだった。
だけど、必ずしも妄想を形にしたら快感を得られるものではないということ。
わたしの性格による那智さんの育て方から作られたふたりの性的幸福の中では複数は実現が難しいことだということだ。
那智さんの「複数」という言葉を聞いたとき。
ああ、わたしはこの先、妄想のひとつだった『複数』が叶うことはないのだろうなぁと静かに確かめたような気持ちになった。
思春期の頃から思い描いていた妄想はいまでもある、性的な刺激を思い描くとき『複数』は3本指に入るほどだ(笑)
だけど、思い描きながら、実際したらふたりの満足にはならないだろうなと半分の冷静な頭が思う。
幸福と快感のもとに『複数』が叶うことはないのだろう。
きっとわたしという人間には合わないことだったのだ。
そして、それ以上の現実の幸福と快感を知ってしまったいま、その妄想は妄想のままそっと心の引き出しにしまっておこうと思った。
すこし寂しいような、でも、満たされた気分で。
法に触れない限り、現代社会で性的妄想を形にするのは意外と簡単かもしれない。
ネットでは様々なものが手に入るし、匿名で他者と交流することもできる、風俗やハプバーのようにニーズに合ったことを体験させてくれるところもある。
妄想は人を豊かにする、だから、妄想も必要なことだし、一歩でも妄想に近づきたいと思うことは否定していない。
だけど、じつは、妄想を形にすることと、それで快感や幸福を味わうことはまったく違うことなのかもしれない。
まして、他者を交えることはものすごくデリケートで、そこから『ふたり』が『極上』の快感や幸福を得ることはものすごく困難なことなんだ。
ときどきネットで貸し出しや複数調教なんていうのを見るけど、そこにいるどれくらいの人が極上の快感と幸福を感じているかと想像すると、おそらく画像のインパクトに比べたら大したことないんじゃないかと思えてしまう。
複数に限らず、妄想を現実のものにすることはお手軽にはできないのだ。
自分の心と向き合い相手の心とすり合せ、長い時間かけて現実の良さに変えていくものなのだろう。
中には合わないものだって当然出てくるけど、それは仕方ないこと。
だから、わたしは過激な妄想の形より、那智さんとふたりで、那智さんが作ってくれた小さな世界で他では味わえない極上の幸福と快感を味わうほうがいい。
那智さんの指と舌とおちんぽ様と視線と皮膚と声で複数だ^^
<関連エントリー>
悲しくならないルール、探したらありました^^
『手を離さないで』
カップル喫茶と知人に抱かせたこと
『嫉妬の効用 2 3』
『ゲストを招く(一場面)』
『ゲストを招く(りん子の心1 2 3)
『男たちの手(前振り もらうセックス)』
『男たちの手1 2』
「等式」感想です。複数について、一般論なのでおもしろくないかもしれません。遊びでも練習が必要ですよね、スポーツ全般も勿論。SEXだって練習しないと良くならないですよね、それと同じくも練習かなとも思います。お互いの、気持ちの切り替えや、慣れ、段取りや打ち合わせなどで随分違うかなと。
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COMMENT
複数を妄想する女性は意外と多いと思いますが、妄想と現実の違いもあるでしょうね。
そして【互いになくてはならないもの】とした人達が楽しんでいるのかなぁと思います(複数に限らず^^)
きゃ♪最後はオノロケですか♪ご馳走さまでした^^
そして【互いになくてはならないもの】とした人達が楽しんでいるのかなぁと思います(複数に限らず^^)
きゃ♪最後はオノロケですか♪ご馳走さまでした^^
互いになくてはならない、その通りですよね。
『どうしてもやりたいこと』と『その人と』、結論はこのふたつがなければということ。
人によってこの両輪の比重が違ってくるかと思うけど、やっぱりこれを楽しむにはいろんな部分の成熟が必要なのかなって思いました^^
M&M。さんにはこっそりお教えしますけど(気に入ってます 笑)
最後はノロケで〆たけど、じつはまだ終わってないんだ…、まだお付き合いいただきますよ〜♪
『どうしてもやりたいこと』と『その人と』、結論はこのふたつがなければということ。
人によってこの両輪の比重が違ってくるかと思うけど、やっぱりこれを楽しむにはいろんな部分の成熟が必要なのかなって思いました^^
M&M。さんにはこっそりお教えしますけど(気に入ってます 笑)
最後はノロケで〆たけど、じつはまだ終わってないんだ…、まだお付き合いいただきますよ〜♪
現実では叶わない(叶えたい訳ではない)妄想というのもあると思うのです。
私の場合は、例えば痴漢。
電車の中で、とか帰宅途中の道端から突然、とか。
現実に起こったら悲劇ですらあるような事を、【自分の都合のいい様に】妄想する(だから妄想なんですけど)(;^_^A
でも、だからこそ、実現したい訳ではない、空想の産物。
ですが、なんとなく、りん子さんの「複数」は、実現の可能性を秘めたまま、眠っている感じがします。
私の場合は、例えば痴漢。
電車の中で、とか帰宅途中の道端から突然、とか。
現実に起こったら悲劇ですらあるような事を、【自分の都合のいい様に】妄想する(だから妄想なんですけど)(;^_^A
でも、だからこそ、実現したい訳ではない、空想の産物。
ですが、なんとなく、りん子さんの「複数」は、実現の可能性を秘めたまま、眠っている感じがします。
快感は体だけで作られるものではない。
心を解放することで体の快感が育つ。
って素敵な言葉ですね。
心を解放することで体の快感が育つ。
って素敵な言葉ですね。
すごくよくわかります。
現実にあったら不幸な出来事を求めてしまう。
叶わないことや、そんなことを求めてしまう自分に対する嫌悪、とにかく厄介なヤツです。
結局わたしたち側が快感を得ているという認識を持った中で、似た状況を作ることで叶えていくしか幸福な道はないのかなって思います。
> ですが、なんとなく、りん子さんの「複数」は、実現の可能性を秘めたまま、眠っている感じがします。
さすが、大正解!!^^;
現実にあったら不幸な出来事を求めてしまう。
叶わないことや、そんなことを求めてしまう自分に対する嫌悪、とにかく厄介なヤツです。
結局わたしたち側が快感を得ているという認識を持った中で、似た状況を作ることで叶えていくしか幸福な道はないのかなって思います。
> ですが、なんとなく、りん子さんの「複数」は、実現の可能性を秘めたまま、眠っている感じがします。
さすが、大正解!!^^;
これは身を以て経験しました(笑)
那智さんがお膳立てしてくれるだけじゃダメで、引き金まで引いてもらわないとダメでした^^;
何によって心を解放できるかは、人によるのかな。
那智さんがお膳立てしてくれるだけじゃダメで、引き金まで引いてもらわないとダメでした^^;
何によって心を解放できるかは、人によるのかな。