覆水盆に返らず
りん子的独り言(エラそう)
似たようなことをたくさん書いている。
それは、誰かの役に立ったらいいなという気持ちと自戒を込めて。
人の付き合い方かいろいろだから正解はひとつではないけれど、ひとつのモデルケースとして。
わたしのような立場は、上の立場に甘えて頼って委ねてとかく小さな子供のようになんでも許されると思い(思われ)がちだけど、ちょっと違う。
わたしたちの上下は『対等』であることも大事な条件。
この『対等』というのは、優劣のない等価値、どちらかがどちらかを見下したりバカにせず、また同じように自分を卑下しないでいること。
『対等』であることが前提で、上の立場が好きな那智さんと下が好きなわたしで上下を作っている。
上は自分のしたいようにして、それで下が幸福になることで喜び、下は上に委ね従い幸福になる、これが上下。
だから、わたしは下の立場ではあるけれど、劣っているわけではないし、自分を卑下しているわけでもないし、那智さんもわたしを見下したりバカにしたりしていない。
これが、ただ『子供のようになんでも許される』と思ってしまうと、途端に大事な前提条件である『対等』が崩れてしまうのだ。
感情を吐き出すことと素直に伝えることは違うと何回か書いてきた。
メールがなくて「もういい!!メールなんかいらない!!」と相手に言い放ったとして、もうちょっと心をひも解いてみたら、実はただ単に「メールをもらえなくて寂しかった」だけなんてことあるはず。
つい人は寂しい思いをさせられた相手に対して切れたり嫌味を言ってしまったり、意地悪な思考が働いてしまうものだ。
そこを、一旦立ち止まり感情のスタートを見つけると意地悪な思考は本当の気持ちじゃなかったりする。
何も言いたいことを言ってはいけないということではないのだよ。
伝えたいことは伝えないといけない。
素直に。
大事なことは感情のスタートを見つけるために一旦立ち止まれるかどうかだと思うんだ。
立ち止まらず感情に任せて暴言を吐くことと、一旦立ち止まり感情のスタートを見つけて那智さんに投げかけることは違う(思いっきり投げるけどね 笑)
那智さんは感情に任せてぶつけるだけだったらきっとわたしをバカにする。(もちろん、わたしもね)
もちろんわたしだってそんなデキた人間ではないから、毎回毎回立ち止まり感情のスタートを見つけ出せるわけではないけど、少なくとも立ち止まる努力、見つける努力はするし、最悪「立ち止まれません!!」と自覚して暴走する^^;
もちろん、付き合いの形はそれぞれ。
本当の娘のようにワガママも意地悪も全部受け止めてくれる関係もあるだろう。
でも、『対等で上下』である続けるために大切なことは『対等』であり続けることなんだ。
ときどき、お相手に感情をぶちまけて、それを受け止めてもらえる様子などを見かけるとちょっぴり羨ましいなと思いつつ、ぶちまけたほうがスッキリするかもしれないけど、それを続けるとお相手にとって『対等』ではなくなってしまわないか、お節介にも心配になってしまう。
思いっきりお相手に感情をぶちまけるのはかまわない。
でも、相手から尊重され続けるには感情のスタートを見つけて、それをぶちまけることが大切だと思うのです。
で、じつはひも解いてみると本当に大好きな人に対しては暴言を吐くような感情はあまり存在しなかったりもする。
関連エントリーをご覧いただくとわかるけど最初の頃(『感情教育』あたり)には、わたしもまだ上手にできていなかったよね。
ただ、ぶちまけている自覚だけはできていたと思う。
きっとね、感情のスタートを見つけるのって訓練でできるようになると思うんだ、かつてのわたしのように。
ああ、こうやって考えたら、わたしぜんぜん『娘』じゃない^^;
けっこう那智さんってシビアかもしれませんね(笑)
とにかく、上の立場の相手から、下の立場は対等でいるために下でありながらも尊敬され続けないといけないのだ^^
<関連エントリー>
『感情教育12』
『素直に伝えるということ』
『疑うことなく身を任せ、素直に伝える』
『感情のスタート』
『続・感情のスタート』
対等な女とのセックスのほうが飽きないのでは?
『私的一般論『セックスレス』(男性バージョン)』」
『わたしの『女の子』』
「等式」感想です。これ重要だと思うのですがいかがでしょう?「対等で上下」の観念は明治・大正・昭和の家長制度の考え方があった頃の良好な男女関係であったのではないかと推測しました。
似たようなことをたくさん書いている。
それは、誰かの役に立ったらいいなという気持ちと自戒を込めて。
人の付き合い方かいろいろだから正解はひとつではないけれど、ひとつのモデルケースとして。
わたしのような立場は、上の立場に甘えて頼って委ねてとかく小さな子供のようになんでも許されると思い(思われ)がちだけど、ちょっと違う。
わたしたちの上下は『対等』であることも大事な条件。
この『対等』というのは、優劣のない等価値、どちらかがどちらかを見下したりバカにせず、また同じように自分を卑下しないでいること。
『対等』であることが前提で、上の立場が好きな那智さんと下が好きなわたしで上下を作っている。
上は自分のしたいようにして、それで下が幸福になることで喜び、下は上に委ね従い幸福になる、これが上下。
だから、わたしは下の立場ではあるけれど、劣っているわけではないし、自分を卑下しているわけでもないし、那智さんもわたしを見下したりバカにしたりしていない。
これが、ただ『子供のようになんでも許される』と思ってしまうと、途端に大事な前提条件である『対等』が崩れてしまうのだ。
感情を吐き出すことと素直に伝えることは違うと何回か書いてきた。
メールがなくて「もういい!!メールなんかいらない!!」と相手に言い放ったとして、もうちょっと心をひも解いてみたら、実はただ単に「メールをもらえなくて寂しかった」だけなんてことあるはず。
つい人は寂しい思いをさせられた相手に対して切れたり嫌味を言ってしまったり、意地悪な思考が働いてしまうものだ。
そこを、一旦立ち止まり感情のスタートを見つけると意地悪な思考は本当の気持ちじゃなかったりする。
何も言いたいことを言ってはいけないということではないのだよ。
伝えたいことは伝えないといけない。
素直に。
大事なことは感情のスタートを見つけるために一旦立ち止まれるかどうかだと思うんだ。
立ち止まらず感情に任せて暴言を吐くことと、一旦立ち止まり感情のスタートを見つけて那智さんに投げかけることは違う(思いっきり投げるけどね 笑)
那智さんは感情に任せてぶつけるだけだったらきっとわたしをバカにする。(もちろん、わたしもね)
もちろんわたしだってそんなデキた人間ではないから、毎回毎回立ち止まり感情のスタートを見つけ出せるわけではないけど、少なくとも立ち止まる努力、見つける努力はするし、最悪「立ち止まれません!!」と自覚して暴走する^^;
もちろん、付き合いの形はそれぞれ。
本当の娘のようにワガママも意地悪も全部受け止めてくれる関係もあるだろう。
でも、『対等で上下』である続けるために大切なことは『対等』であり続けることなんだ。
ときどき、お相手に感情をぶちまけて、それを受け止めてもらえる様子などを見かけるとちょっぴり羨ましいなと思いつつ、ぶちまけたほうがスッキリするかもしれないけど、それを続けるとお相手にとって『対等』ではなくなってしまわないか、お節介にも心配になってしまう。
思いっきりお相手に感情をぶちまけるのはかまわない。
でも、相手から尊重され続けるには感情のスタートを見つけて、それをぶちまけることが大切だと思うのです。
で、じつはひも解いてみると本当に大好きな人に対しては暴言を吐くような感情はあまり存在しなかったりもする。
関連エントリーをご覧いただくとわかるけど最初の頃(『感情教育』あたり)には、わたしもまだ上手にできていなかったよね。
ただ、ぶちまけている自覚だけはできていたと思う。
きっとね、感情のスタートを見つけるのって訓練でできるようになると思うんだ、かつてのわたしのように。
ああ、こうやって考えたら、わたしぜんぜん『娘』じゃない^^;
けっこう那智さんってシビアかもしれませんね(笑)
とにかく、上の立場の相手から、下の立場は対等でいるために下でありながらも尊敬され続けないといけないのだ^^
<関連エントリー>
『感情教育12』
『素直に伝えるということ』
『疑うことなく身を任せ、素直に伝える』
『感情のスタート』
『続・感情のスタート』
対等な女とのセックスのほうが飽きないのでは?
『私的一般論『セックスレス』(男性バージョン)』」
『わたしの『女の子』』
「等式」感想です。これ重要だと思うのですがいかがでしょう?「対等で上下」の観念は明治・大正・昭和の家長制度の考え方があった頃の良好な男女関係であったのではないかと推測しました。
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