ポルノ映画
独り言
那智さんがわたしに教えてくれた昔のポルノ映画。
わたしにとっては、ほとんどはじめて見る『ストーリーがあって動くSM』だったので充分に刺激的ではあった。
30数年前の物なので登場人物がみんな古めかしいのも、なんだか思春期の頃に雑誌を盗み見したノスタルジーまで感じさせて不思議な刺激になっていた。
でも、いろいろな経験を経てきた那智さんにとってもあれは、いまでも興奮するものなのだそうだ。
思春期の頃の衝撃が印象に残っている分を差し引いても、いま巷に氾濫しているエッチな動画よりずっとずっと那智さんの男心を刺激するらしい。
『ストーリーがある』ことも大きな理由のひとつだとおっしゃるのだけど、『見えそうで見えない』からこそいいということだ。
たしかに、うまい具合に花瓶が置いてあって女性の足の間は映っていないし、セックスの場面だって『入れて、すこし動く』程度の描写しかしていないし、喘ぎ声がBGMでかき消されて女性の表情だけしかわからないなんて演出もあったりの、かなり性描写としては不完全だ。
いまわたしが目にするエッチ動画では性器は見えるし、女性の多彩な喘ぎ声や男性の指の動きまで知ることができる、SMはもちろん、様々な嗜好のジャンルを見ることができるので、ずっと刺激的だ。
それなのに、どうして不完全な描写のほうが興奮するのだろう。
見えそうで見えない官能とかチラリズムとか、まあ、それが答えなんだろうけど、もうちょっと詳しく考えてみる^^
また、那智さんが教えてくれたふたつの映画と、那智さん推薦のエロ動画サイトの一部だけが資料なので、もしかしたら的外れだったら、ごめんなさい^^
興奮するために何を必要とするかがポルノ映画とエロ動画では違うのではないだろうか。
それは想像と刺激。
ポルノ映画は想像でエロ動画は刺激、これが作用して興奮する。
ポルノ映画はもどかしい。
性器は見えないし、たいした喘ぎ声もあげない。
男性の背中に隠れてしまって女性の揺れる足しか見えないシーンなんていうのもある。
わたしの見た限りでは、男性も女性も『イク』描写もなかったはずだ(ふたつしかサンプルないけど^^;)
不完全でもどかしい。
でも、不完全であればあるほど想像することができる。
女性の性器や表情、あのぼやけた先に何があるのか。
2、3回ピストン運動した次のシーンでぐったりしている女性に、その間どんなことが繰り広げられたのか。
もどかしいけど、不完全なほど想像する余地が限りなく広がる。
自分のお気に入りの表情や行為を想像する、どんどん自分だけの世界が出来上がる。
不完全だからまた次の想像の材料がほしくて観る、観てもまだ不完全だから細々パーツを揃えながらも、埋まらないところは、さらに想像を広げる。
この想像が興奮を作っている。
一方、エロ動画の興奮は刺激だ。
丸見えの女性器、様々な体位や様々な変態行為。
わたしたちが受けるのは強い刺激、そして、それにより興奮が発生する。
ありとあらゆることを見ることができて、最後は射精しておしまいとゴールまで示してくれている。
自分をそこに当てはめるくらいしか、想像の余地は残っていないのだ。
わたしも含め少数派な嗜好を持っている人からしたら、そのジャンルが認知されていることへの安堵に繋がるし多様化することは良い面もあるので、一概にエロ動画を否定はしないけど、強い刺激が興奮を呼んでいることは確かだろう。
でも、残念ながら映像からの刺激だけで、どう頑張っても100%の満足は得られないはずなんだ。
生身の人間の肌の感触は触れないと得られないし、実現不可能な変態行為などは映像でも現実でも叶えられないものだから、いずれにしても100%満足というものは、難しい。
100%叶えられないのはポルノ映画だって同じなんだけど、ポルノ映画は想像が興奮を作っているから、そのまま想像を広げて、より満足に近づけることができるけど、『刺激』で興奮を作っているとなかなか想像の余地はない。
だから、結局、また刺激で補うことになる。
刺激は慣れる。
直接的な、強い刺激の穴埋めはさらに強い刺激を求める構図を作る。
想像の余地を残したもどかしい満足と次々強い刺激で埋めていく満足。
じつは、強い刺激より、想像の余地が残るほど不完全なもののほうがより、もどかしいけれど、興奮や満足度が高いのかもしれない。
だから、那智さんのいまでもポルノ映画のほうが興奮するという気持ちにさせるのではないでしょうか。
わたしは「昔のほうがよかった」というセリフがあまり好きじゃないので、言うつもりはないけれど、人は足りないとそこから想像や工夫が生まれるものなんだね。
もしかしたら、より高い満足を得るためには想像力を養うほうがよいのではないかなとは思う。
たまには、刺激的なエロ動画を見ずに小説の文字だけの世界で興奮してみるのもいいかもしれないし、エロ動画をあえて最後まで見ないとか!?(笑)想像を楽しみ、想像力を養う術はいろいろあるよね^^
いまはブログも豊富にあって、SMや主従や、モデルケースはたくさんある。
でも、意外と出揃ってしまうと、それ以外は実っていかないのかもしれない。
刺激より想像力。
目を閉じ、自分の内側から溢れ出る『なにか』を静かに待つ時間も味わい深いのだ。
あ、でも、お花畑を想像していた女性器が実際見たらグロテスクだった!!と萎えてしまう男の子も、昔はいたかもしれないので、不完全の弊害があるとしたら、それ^^
<関連エントリー>
『ポケット』
「等式」感想です。
楽しく、本質的でとてもためになるエントリーだと思います。
女性器は苦労してリアルで見れば「お花畑」容易くPCで見るとグロになる。
だから、このあたりの環境については「昔は良かった。」ではなく「今の人は可哀想」と私の感想にします。語りたくなりました。~(笑)
「草食系男子」などと言われて久しいですが、性に興味を示す思春期に何の苦労もなく「おまんこ動画」を見たらたいして興味が無くなるのも理解出来る。
画像も動画も無く、想像するからお花畑になり、見たい、やりたい、興味が湧きそれが強力なパワーになった。その辺からファッション、バイク、車、など、自分を良く見せるような興味や向上心に結び付いたのではないでしょうか。(笑)
那智さんがわたしに教えてくれた昔のポルノ映画。
わたしにとっては、ほとんどはじめて見る『ストーリーがあって動くSM』だったので充分に刺激的ではあった。
30数年前の物なので登場人物がみんな古めかしいのも、なんだか思春期の頃に雑誌を盗み見したノスタルジーまで感じさせて不思議な刺激になっていた。
でも、いろいろな経験を経てきた那智さんにとってもあれは、いまでも興奮するものなのだそうだ。
思春期の頃の衝撃が印象に残っている分を差し引いても、いま巷に氾濫しているエッチな動画よりずっとずっと那智さんの男心を刺激するらしい。
『ストーリーがある』ことも大きな理由のひとつだとおっしゃるのだけど、『見えそうで見えない』からこそいいということだ。
たしかに、うまい具合に花瓶が置いてあって女性の足の間は映っていないし、セックスの場面だって『入れて、すこし動く』程度の描写しかしていないし、喘ぎ声がBGMでかき消されて女性の表情だけしかわからないなんて演出もあったりの、かなり性描写としては不完全だ。
いまわたしが目にするエッチ動画では性器は見えるし、女性の多彩な喘ぎ声や男性の指の動きまで知ることができる、SMはもちろん、様々な嗜好のジャンルを見ることができるので、ずっと刺激的だ。
それなのに、どうして不完全な描写のほうが興奮するのだろう。
見えそうで見えない官能とかチラリズムとか、まあ、それが答えなんだろうけど、もうちょっと詳しく考えてみる^^
また、那智さんが教えてくれたふたつの映画と、那智さん推薦のエロ動画サイトの一部だけが資料なので、もしかしたら的外れだったら、ごめんなさい^^
興奮するために何を必要とするかがポルノ映画とエロ動画では違うのではないだろうか。
それは想像と刺激。
ポルノ映画は想像でエロ動画は刺激、これが作用して興奮する。
ポルノ映画はもどかしい。
性器は見えないし、たいした喘ぎ声もあげない。
男性の背中に隠れてしまって女性の揺れる足しか見えないシーンなんていうのもある。
わたしの見た限りでは、男性も女性も『イク』描写もなかったはずだ(ふたつしかサンプルないけど^^;)
不完全でもどかしい。
でも、不完全であればあるほど想像することができる。
女性の性器や表情、あのぼやけた先に何があるのか。
2、3回ピストン運動した次のシーンでぐったりしている女性に、その間どんなことが繰り広げられたのか。
もどかしいけど、不完全なほど想像する余地が限りなく広がる。
自分のお気に入りの表情や行為を想像する、どんどん自分だけの世界が出来上がる。
不完全だからまた次の想像の材料がほしくて観る、観てもまだ不完全だから細々パーツを揃えながらも、埋まらないところは、さらに想像を広げる。
この想像が興奮を作っている。
一方、エロ動画の興奮は刺激だ。
丸見えの女性器、様々な体位や様々な変態行為。
わたしたちが受けるのは強い刺激、そして、それにより興奮が発生する。
ありとあらゆることを見ることができて、最後は射精しておしまいとゴールまで示してくれている。
自分をそこに当てはめるくらいしか、想像の余地は残っていないのだ。
わたしも含め少数派な嗜好を持っている人からしたら、そのジャンルが認知されていることへの安堵に繋がるし多様化することは良い面もあるので、一概にエロ動画を否定はしないけど、強い刺激が興奮を呼んでいることは確かだろう。
でも、残念ながら映像からの刺激だけで、どう頑張っても100%の満足は得られないはずなんだ。
生身の人間の肌の感触は触れないと得られないし、実現不可能な変態行為などは映像でも現実でも叶えられないものだから、いずれにしても100%満足というものは、難しい。
100%叶えられないのはポルノ映画だって同じなんだけど、ポルノ映画は想像が興奮を作っているから、そのまま想像を広げて、より満足に近づけることができるけど、『刺激』で興奮を作っているとなかなか想像の余地はない。
だから、結局、また刺激で補うことになる。
刺激は慣れる。
直接的な、強い刺激の穴埋めはさらに強い刺激を求める構図を作る。
想像の余地を残したもどかしい満足と次々強い刺激で埋めていく満足。
じつは、強い刺激より、想像の余地が残るほど不完全なもののほうがより、もどかしいけれど、興奮や満足度が高いのかもしれない。
だから、那智さんのいまでもポルノ映画のほうが興奮するという気持ちにさせるのではないでしょうか。
わたしは「昔のほうがよかった」というセリフがあまり好きじゃないので、言うつもりはないけれど、人は足りないとそこから想像や工夫が生まれるものなんだね。
もしかしたら、より高い満足を得るためには想像力を養うほうがよいのではないかなとは思う。
たまには、刺激的なエロ動画を見ずに小説の文字だけの世界で興奮してみるのもいいかもしれないし、エロ動画をあえて最後まで見ないとか!?(笑)想像を楽しみ、想像力を養う術はいろいろあるよね^^
いまはブログも豊富にあって、SMや主従や、モデルケースはたくさんある。
でも、意外と出揃ってしまうと、それ以外は実っていかないのかもしれない。
刺激より想像力。
目を閉じ、自分の内側から溢れ出る『なにか』を静かに待つ時間も味わい深いのだ。
あ、でも、お花畑を想像していた女性器が実際見たらグロテスクだった!!と萎えてしまう男の子も、昔はいたかもしれないので、不完全の弊害があるとしたら、それ^^
<関連エントリー>
『ポケット』
「等式」感想です。
楽しく、本質的でとてもためになるエントリーだと思います。
女性器は苦労してリアルで見れば「お花畑」容易くPCで見るとグロになる。
だから、このあたりの環境については「昔は良かった。」ではなく「今の人は可哀想」と私の感想にします。語りたくなりました。~(笑)
「草食系男子」などと言われて久しいですが、性に興味を示す思春期に何の苦労もなく「おまんこ動画」を見たらたいして興味が無くなるのも理解出来る。
画像も動画も無く、想像するからお花畑になり、見たい、やりたい、興味が湧きそれが強力なパワーになった。その辺からファッション、バイク、車、など、自分を良く見せるような興味や向上心に結び付いたのではないでしょうか。(笑)
人は見かけによらぬもの?
140字もどき
すこし前、ブログを通してはじめての人と会う機会が2度あった。
ひとりはお会いしたとき、もうひとりは後日のメールで、おふたりともわたしの印象が想像していたものとは違っていたと話してくれた。
想像していたより『柔らかい』雰囲気だったとか『酸いも甘いも知り尽くした余裕のM女』を想像されていたけれど初々しい(!)印象だったのだそうだ。
(一部引用させていただきました)
『等式』のりん子、けっこう恐い人のイメージなのか?
お仕事でわたしを好んでくれる担当者がいる。
といっても、その担当者がわたしに発注するお客様のタイプは限定されているので、たくさん指名が来るというわけではない。
その担当者がわたしを指名するときのお客様のタイプは『不思議ちゃん』とか『人見知り』とか『引っ込み思案』とかそういう新婦の場合が多い。
ほら、司会って、多くはもとはMCコンパニオン(いま、こんな名称ない?)をしていたとか、アナウンサー目指していたとか、どちらかというと華やかとか積極的とか、良くも悪くも『強い』印象がある人が多いのかもしれない。
たとえていうなら、クラスの目立たない女の子や、もしかしたら、不思議キャラでいじられちゃいそうな感じの子にそういう印象の司会者をあてがうと萎縮してしまう可能性があると感じているみたいなのだ。
好みや合う司会者はいろいろだよね。
しっかりした感じの人や盛り上げてくれそうな勢いのある人を好む人もいる。
まあ、それ以外のタイプにはわたしは合わないと判断しているのだろう^^;
彼曰く。
『好きになってもらうことが大事』なのだそうだ。
多少ミスをしたとしても司会者に対して好意的に思っていれば、それは大した問題じゃない。
逆にいうと、好かれないでいるとミスじゃないことまでミスに取られてしまうのだろう。
だから、大事なことは好きになってもらうこと。
彼にとって、ある種のタイプの新婦(特に新婦のようだ)にわたしは好いてもらえると判断してくれるようで、そういう新婦の披露宴のお仕事をいただくことが多いのだ。
とてもありがたいこと。
でも、かなりピンポイントなタイプなので、需要が多いかといえば微妙だったりする(笑)けれど、彼の見立ては正しいようで、わたしはいつも心から祝福でき充実したお仕事をさせていただいている。
ある披露宴も彼からの発注だった。
猫は好きで猫の話以外は、主に新郎が口を開くようなカップル^^;
わたしも猫が好きだったし、そこで盛り上がり徐々に彼女も意見を言ってくれるようになって、特に問題なく打ち合わせは終了した。
当日、ちょこちょこ噛んだりしつつも和やかな披露宴。
新郎新婦の人柄と、その人柄に集まる人たちの雰囲気って似るよね、だから、おっとりした優しい雰囲気の披露宴になった。
お開き後、挨拶のために送賓が終わるのをホワイエで待っていたら、担当の彼がきて「りん子さん、噛むんだもん(笑)」と笑う。
あうう、ごめんなさい;;と恐縮していたら
「でも、そこもりん子さんらしくていいとろこなんだけどね」とかえってフォローしてくれた。
そこにたまたま隣りの会場でこれから仕事の、わたしと同じ事務所のナンバー1司会者がきた。
この女性司会者、小さくて華奢ですごーく『キュート』なのだ。
お化粧ばっちり目がくりっとしていてしなやかな猫のような美人さんなのにおふざけキャラの気取らない人。
いつもキレイだな〜、冗談いう感じもキュートだな〜としみじみ見ちゃう(◯さんってキュートですよね、とたまらず褒めちゃう)
まだ会場に入れないらしく、わたしたちのそばに来て談笑がはじまった。
他愛ない話をしていたら、担当者が冗談で
◯さん、りん子さんにあんまり近寄らないでくれる
りん子さんの天使の白い羽を◯さんの黒い羽で汚さないでよ(笑)
と言い出した。
わわわ、何をいうんだ!!と思ったけど、きっと、そういう軽口を叩ける間柄なのだろう、彼女も別のことで反撃している。
わたしはあんまりそういう冗談に上手に対応できないけど、「え〜、わたしは◯さんの美人さん度合いわけてほしいよ〜」とじゃっかんギクシャクな感じで応対していた。
実際のわたしはどうかわからないけど、この担当者には冗談とはいえ『白い羽』と思われていたことに、思わず仰け反る恥ずかしさだ。
いえ、これって、清楚イメージアピールできちゃってラッキーかもしれないけど、さすがに那智さんにさえ言われたことのない『天使』は、そりゃあないだろと居心地悪いったらありゃしない。
きっとその担当者からしたら、痣だらけになるほど鞭打ってよろこんだり、おしっこ飲んだり、四つん這いで歩いたりしているなんて想像もしないことなんだろうと思うと、ホント、ごめんなさい!!という感じだ。
うんこ塗ってますけど、オナニーの報告してますけど、心から祝福し真摯にお仕事させていただいてますので、これからも、よろしくお願いいたします。
文章と内面と見た目と、いろいろな要素が混ざり合ってその人を作るんだよね。
人にはいろいろな側面があるよねというお話を『白い羽の天使』がお送りいたしました(笑)
「等式」感想です。(笑)天使ですか?うーん。でも、おおよその物が華やかに見えるあの場所だったらりん子の雰囲気が増幅され、堕天使になっているのかもしれません。(堕天使の意味を調べたらおもしろかったです。りん子はインキュバス?(笑))
すこし前、ブログを通してはじめての人と会う機会が2度あった。
ひとりはお会いしたとき、もうひとりは後日のメールで、おふたりともわたしの印象が想像していたものとは違っていたと話してくれた。
想像していたより『柔らかい』雰囲気だったとか『酸いも甘いも知り尽くした余裕のM女』を想像されていたけれど初々しい(!)印象だったのだそうだ。
(一部引用させていただきました)
『等式』のりん子、けっこう恐い人のイメージなのか?
お仕事でわたしを好んでくれる担当者がいる。
といっても、その担当者がわたしに発注するお客様のタイプは限定されているので、たくさん指名が来るというわけではない。
その担当者がわたしを指名するときのお客様のタイプは『不思議ちゃん』とか『人見知り』とか『引っ込み思案』とかそういう新婦の場合が多い。
ほら、司会って、多くはもとはMCコンパニオン(いま、こんな名称ない?)をしていたとか、アナウンサー目指していたとか、どちらかというと華やかとか積極的とか、良くも悪くも『強い』印象がある人が多いのかもしれない。
たとえていうなら、クラスの目立たない女の子や、もしかしたら、不思議キャラでいじられちゃいそうな感じの子にそういう印象の司会者をあてがうと萎縮してしまう可能性があると感じているみたいなのだ。
好みや合う司会者はいろいろだよね。
しっかりした感じの人や盛り上げてくれそうな勢いのある人を好む人もいる。
まあ、それ以外のタイプにはわたしは合わないと判断しているのだろう^^;
彼曰く。
『好きになってもらうことが大事』なのだそうだ。
多少ミスをしたとしても司会者に対して好意的に思っていれば、それは大した問題じゃない。
逆にいうと、好かれないでいるとミスじゃないことまでミスに取られてしまうのだろう。
だから、大事なことは好きになってもらうこと。
彼にとって、ある種のタイプの新婦(特に新婦のようだ)にわたしは好いてもらえると判断してくれるようで、そういう新婦の披露宴のお仕事をいただくことが多いのだ。
とてもありがたいこと。
でも、かなりピンポイントなタイプなので、需要が多いかといえば微妙だったりする(笑)けれど、彼の見立ては正しいようで、わたしはいつも心から祝福でき充実したお仕事をさせていただいている。
ある披露宴も彼からの発注だった。
猫は好きで猫の話以外は、主に新郎が口を開くようなカップル^^;
わたしも猫が好きだったし、そこで盛り上がり徐々に彼女も意見を言ってくれるようになって、特に問題なく打ち合わせは終了した。
当日、ちょこちょこ噛んだりしつつも和やかな披露宴。
新郎新婦の人柄と、その人柄に集まる人たちの雰囲気って似るよね、だから、おっとりした優しい雰囲気の披露宴になった。
お開き後、挨拶のために送賓が終わるのをホワイエで待っていたら、担当の彼がきて「りん子さん、噛むんだもん(笑)」と笑う。
あうう、ごめんなさい;;と恐縮していたら
「でも、そこもりん子さんらしくていいとろこなんだけどね」とかえってフォローしてくれた。
そこにたまたま隣りの会場でこれから仕事の、わたしと同じ事務所のナンバー1司会者がきた。
この女性司会者、小さくて華奢ですごーく『キュート』なのだ。
お化粧ばっちり目がくりっとしていてしなやかな猫のような美人さんなのにおふざけキャラの気取らない人。
いつもキレイだな〜、冗談いう感じもキュートだな〜としみじみ見ちゃう(◯さんってキュートですよね、とたまらず褒めちゃう)
まだ会場に入れないらしく、わたしたちのそばに来て談笑がはじまった。
他愛ない話をしていたら、担当者が冗談で
◯さん、りん子さんにあんまり近寄らないでくれる
りん子さんの天使の白い羽を◯さんの黒い羽で汚さないでよ(笑)
と言い出した。
わわわ、何をいうんだ!!と思ったけど、きっと、そういう軽口を叩ける間柄なのだろう、彼女も別のことで反撃している。
わたしはあんまりそういう冗談に上手に対応できないけど、「え〜、わたしは◯さんの美人さん度合いわけてほしいよ〜」とじゃっかんギクシャクな感じで応対していた。
実際のわたしはどうかわからないけど、この担当者には冗談とはいえ『白い羽』と思われていたことに、思わず仰け反る恥ずかしさだ。
いえ、これって、清楚イメージアピールできちゃってラッキーかもしれないけど、さすがに那智さんにさえ言われたことのない『天使』は、そりゃあないだろと居心地悪いったらありゃしない。
きっとその担当者からしたら、痣だらけになるほど鞭打ってよろこんだり、おしっこ飲んだり、四つん這いで歩いたりしているなんて想像もしないことなんだろうと思うと、ホント、ごめんなさい!!という感じだ。
うんこ塗ってますけど、オナニーの報告してますけど、心から祝福し真摯にお仕事させていただいてますので、これからも、よろしくお願いいたします。
文章と内面と見た目と、いろいろな要素が混ざり合ってその人を作るんだよね。
人にはいろいろな側面があるよねというお話を『白い羽の天使』がお送りいたしました(笑)
「等式」感想です。(笑)天使ですか?うーん。でも、おおよその物が華やかに見えるあの場所だったらりん子の雰囲気が増幅され、堕天使になっているのかもしれません。(堕天使の意味を調べたらおもしろかったです。りん子はインキュバス?(笑))
わがまま?
りん子的独り言(生意気)
ソフトヴァージョン(笑)
「会いたい」という気持ちを相手に伝えることはわがままなのだろうか。
わたしはそうは思わない。
「会いたい」という気持ちを伝えることはわがままじゃない。
もし、わがままと表現するものがあるとしたら、伝え方よるのではないだろうか。
たとえば、「会いたい」気持ちに、「会いたい」以外の気持ちをくっつける。
「わたしのこと好きじゃないの?」
「会えないなら、もういい!!」
「どうせ、わたしなんか」
疑ったり、拗ねたり、いじけたり、卑屈になったり、二次的な感情を気持ちをくっつけてしまうことが『わがまま』と捉えられてしまうのだと思う。
ときどき『感情のスタート』と書いているけど、それが相手に対する、特に好意からはじまる感情はそのまま素直に伝えることは、わたしはわがままだとは思わない。
会いたいもさみしいも恋しいも助けても、あなたが好きだから、あなたを信頼しているから、生まれる感情だ。
あなたが好きだから会いたい、恋しい。
あなたが好きだから会えないとさみしい。
あなたを信じているから、助けてほしい。
こんな愛情表現をわがままかもといらぬ気遣いで封印してしまうことは、なんてもったいないことだろう!!
仮に那智さんが忙しくて会えなさそうな状態だとわかっていても、わたしはそれを伝える。
だって、忙しいか、会えなさそうか、それを判断するのは那智さんだからだ。
ひとりの立派な大人の那智さんが自分の状況を鑑みて判断するだけのことだ。
お忙しいかな、迷惑かなと勝手に判断せず、わたしはその判断に素直に従うだけ。
会いたい気持ちを伝えることはわがままじゃない。
素直な感情だけを伝えればいいのだ。
それは、単なる愛情表現になる。
もし、それさえわがままと認識される関係が『主従』というなら、主従っていうのはそういうものなのだと認識しておいたほうがいい。
(ちょい、復活^^)
<関連エントリー>
『疑うことなく身を任せ、素直に表現する』
『感情のスタート』
『続・感情のスタート』
「等式」感想です。「感情のスタート」の考え方は私が好きなりん子の思考です。それを受ける私の心構えと気合いも現実はセットの話なのですが。(笑)
りん子(^-^)こちらが素直に気持ちを伝えるなら那智さんは悪いようにはできないわけで、しかも、こんなアンテナ持ってる女の素直な気持ちなんて枯れることがないわけで、全部真正面から取り組まないといけない那智さんは、やっぱり気合いが必要ですね。
ソフトヴァージョン(笑)
「会いたい」という気持ちを相手に伝えることはわがままなのだろうか。
わたしはそうは思わない。
「会いたい」という気持ちを伝えることはわがままじゃない。
もし、わがままと表現するものがあるとしたら、伝え方よるのではないだろうか。
たとえば、「会いたい」気持ちに、「会いたい」以外の気持ちをくっつける。
「わたしのこと好きじゃないの?」
「会えないなら、もういい!!」
「どうせ、わたしなんか」
疑ったり、拗ねたり、いじけたり、卑屈になったり、二次的な感情を気持ちをくっつけてしまうことが『わがまま』と捉えられてしまうのだと思う。
ときどき『感情のスタート』と書いているけど、それが相手に対する、特に好意からはじまる感情はそのまま素直に伝えることは、わたしはわがままだとは思わない。
会いたいもさみしいも恋しいも助けても、あなたが好きだから、あなたを信頼しているから、生まれる感情だ。
あなたが好きだから会いたい、恋しい。
あなたが好きだから会えないとさみしい。
あなたを信じているから、助けてほしい。
こんな愛情表現をわがままかもといらぬ気遣いで封印してしまうことは、なんてもったいないことだろう!!
仮に那智さんが忙しくて会えなさそうな状態だとわかっていても、わたしはそれを伝える。
だって、忙しいか、会えなさそうか、それを判断するのは那智さんだからだ。
ひとりの立派な大人の那智さんが自分の状況を鑑みて判断するだけのことだ。
お忙しいかな、迷惑かなと勝手に判断せず、わたしはその判断に素直に従うだけ。
会いたい気持ちを伝えることはわがままじゃない。
素直な感情だけを伝えればいいのだ。
それは、単なる愛情表現になる。
もし、それさえわがままと認識される関係が『主従』というなら、主従っていうのはそういうものなのだと認識しておいたほうがいい。
(ちょい、復活^^)
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『感情のスタート』
『続・感情のスタート』
「等式」感想です。「感情のスタート」の考え方は私が好きなりん子の思考です。それを受ける私の心構えと気合いも現実はセットの話なのですが。(笑)
りん子(^-^)こちらが素直に気持ちを伝えるなら那智さんは悪いようにはできないわけで、しかも、こんなアンテナ持ってる女の素直な気持ちなんて枯れることがないわけで、全部真正面から取り組まないといけない那智さんは、やっぱり気合いが必要ですね。
女の限界
りん子的独り言(生意気)
追いつめてほしいと思う。
無我夢中になりたいのだ。
痛いことに限らず恥ずかしいことやいろいろ。
もう限界、無理、頭の中がそれ以外のことを考えられなくなるほどの無我夢中状態。
まあ、そもそも人間がそれ以外のことが考えられなくなる状態なんて滅多にないものだから100%我を忘れるなんてことはないのだけど、できる限り、それに近いものを味わいたいと思う。
(それをマゾというのか、わからないけどね)
でも、これってなかなか味わえない。
そもそもそんな状態は希有だということやいろいろあるけど。
なぜなかなか味わえないのかというと、女の限界と男の想像する『女の限界』には差があることもひとつの要因ではないかと思っている。
たとえば、露出をするとしよう。
人のいない公園でスカートをめくるように言われる。
恥ずかしいけど、ドキドキしながら従いめくる。
とっても恥ずかしい、ああ、でも、この無理強いされる状態を待っていたかもしれない。
ほんの少しだけプラス感情も存在する。
指示を出した男性は写真にその姿を収め「よくできたね」と終了を告げる。
惜しい!!(笑)
やっと恥ずかしいことの先に感じる状態が想像できそうだったのに、あと一歩押し込んで。
「下着もおろして」
「そのまま道路のほうを向いて」
「そこでおしっこをしよう」
種類はなんだろう、とにかく、もう一歩踏み込んでほしいのだ。
女の『もじもじ』する程度の恥ずかしがり方は、あえて断言しちゃうけど大した恥ずかしさではない!!
恥ずかしそうにしている、だけのこと。
人は本当に恥ずかしかったら、もじもじなんて可愛らしいもんじゃない。
『暴れる』もしくは『固まる』ものだ(笑)
地団駄を踏み、ぶんぶん顔を振って髪を振り乱し暴れたり、どうすることもできず、その場で硬直してしまう。
わたしなんて、すこしでも己をなくしてしまいたくてしゃがみ込み、そこから1ミリも動けなくなってしまったことがあるほど。
そうなると、もはや一緒にいる那智さんのほうが恥ずかしいんじゃないかとさえ思う。
相互羞恥だ(笑)
とにかく、ここまでしてやっと限界に恥ずかしい状態だといえるわけで、『もじもじと恥ずかしそうにスカートをめくる』で「よっしゃ、羞恥煽ってやった」と満足してしまったら、それは、まったく煽れていない。
たとえば、フェラチオをしているとして。
くわえながら徐々に興奮してくる。
彼の手が乳首に伸び、さらに気持ちよくされる。
「入れて」と挿入のお願いをする。
「ダメ」と言われる。
ああ、断られる快感に焦れる。
もう一度「お願い、入れて」とせがむ、そうしたら、入れてくれちゃう。
早い!!(笑)
女のリクエストは、本当に願っている場合と断られる快感を得るためのそれと2種類あることをご存知だろうか。
もちろん、それをしてほしい気持ちは本当のことなんだけど、同時に断られ焦れる快感も味わっている。
だから、1回や2回で応じられてしまうと、心から欲する快感と断られる快感の両方を取り上げられてしまうわかで、残念なのだ。
本当は拒否の快感を味わいながら、とことん焦らされて、心から欲するほどに追いつめてほしい。
女の『入れて』の限界は、きっとずーーーっと先なのだ。
補足1
ちなみに、これは那智さんを指してはいません(笑)
もちろん、すぐに入れてくれることもありますが、「触ってくれない」と逆に泣いてしまうほど焦らされることもあるので『すぐ』はバリエーションのひとつだからです^^
↑これ書いておかないと大変なことになります!
補足2
えっと、中にはセックス自体を早く終わってほしくて「入れて」と促す女性もいると思うので、必ずしも焦らせばいいというものではありません^^
こんなふうにね、おそらく女の限界と男の想像する『女の限界』には、けっこう大きな差があると思うのです。
Mという括りにしてしまっていいのかわからないけど。
とにかく、性的な場面で無我夢中になりたいと思う。
もしかしたら、比較的理性的である人ほどそう思うのかもしれない。
日頃理性的であればあるほど性的な場面でも理性が勝ってしまうから、ちょっとやそっとの追いつめではぜんぜんダメ。
だから、「もう無理!!」というギリギリのところを突いてほしい。
ちょっと恥ずかしがりたいとか、ちょっと焦れたいとか、ちょっと痛くされてみたいというくらいなら、これで充分でしょうけど、わたしがSMに求めるものはこの程度では叶わないのだ。
同じような気持ちでパートナーを求める女性はいると思う。
でも、なかなか味わえないんだよね。
そもそも無我夢中なんて難しい上に、M側はS側に行為を委ねるわけだから限界も男性任せ。
その男性の想像する限界が、まあ、統計を取ったわけじゃないけど、けっこう女の限界とは違うと思う(どう?女性のみなさん^^)
まして、だんだんSM行為もしなくなってフェラチオとマッサージしか命令しなくなってしまうご主人様に当たってしまったら、追いつめられるなんて永遠にやってこない。
もちろん、フェラチオとマッサージをよろこびに変えられるように調教していただければ、それはそれで幸福でしょうけど、上手に調教していただけなければ、それはただの退屈な行為だ。
(好きな人によろこんでほしいという普通の感情はもちろんあるという前提だけどね)
せっかくSMのカテゴリに踏み出したのになんだか『物足りない』と思うのは女の限界と男の考える『女の限界』に大きな差があるから、もひとつの要因。
ならば、女も『物足りない』にきちんと目を向けよう。
それは、決してあなたが贅沢なのでも、パートナーやご主人様が不甲斐ないからでもない、限界の見極めに差が生じているだけかもしれないよね。
だから、まずは女性自身がきとんと自分に目を向けてみましょう^^
で、そこから、どうしたらいいのだろう?
男の想像する『女の限界』の勘違いを指摘するだけで終わらないのが『りん子的独り言』(笑)
どうしたら『女の限界』を男性に広げてもらえるかのお話を次回^^
(あれ?ハードル上げてる?)
<関連エントリー>
『射精の範囲内』
動けなくなっちゃうんだよう
『梟』
「等式」感想です。補足1で一応の歯止めは出来ているのですが、素朴な疑問として、なぜこのエントリーを書こうと思ったかを想像すると、心中穏やかではないです。それが、目的と判断してあげるのが大人の対応でしょうか?(笑)
追いつめてほしいと思う。
無我夢中になりたいのだ。
痛いことに限らず恥ずかしいことやいろいろ。
もう限界、無理、頭の中がそれ以外のことを考えられなくなるほどの無我夢中状態。
まあ、そもそも人間がそれ以外のことが考えられなくなる状態なんて滅多にないものだから100%我を忘れるなんてことはないのだけど、できる限り、それに近いものを味わいたいと思う。
(それをマゾというのか、わからないけどね)
でも、これってなかなか味わえない。
そもそもそんな状態は希有だということやいろいろあるけど。
なぜなかなか味わえないのかというと、女の限界と男の想像する『女の限界』には差があることもひとつの要因ではないかと思っている。
たとえば、露出をするとしよう。
人のいない公園でスカートをめくるように言われる。
恥ずかしいけど、ドキドキしながら従いめくる。
とっても恥ずかしい、ああ、でも、この無理強いされる状態を待っていたかもしれない。
ほんの少しだけプラス感情も存在する。
指示を出した男性は写真にその姿を収め「よくできたね」と終了を告げる。
惜しい!!(笑)
やっと恥ずかしいことの先に感じる状態が想像できそうだったのに、あと一歩押し込んで。
「下着もおろして」
「そのまま道路のほうを向いて」
「そこでおしっこをしよう」
種類はなんだろう、とにかく、もう一歩踏み込んでほしいのだ。
女の『もじもじ』する程度の恥ずかしがり方は、あえて断言しちゃうけど大した恥ずかしさではない!!
恥ずかしそうにしている、だけのこと。
人は本当に恥ずかしかったら、もじもじなんて可愛らしいもんじゃない。
『暴れる』もしくは『固まる』ものだ(笑)
地団駄を踏み、ぶんぶん顔を振って髪を振り乱し暴れたり、どうすることもできず、その場で硬直してしまう。
わたしなんて、すこしでも己をなくしてしまいたくてしゃがみ込み、そこから1ミリも動けなくなってしまったことがあるほど。
そうなると、もはや一緒にいる那智さんのほうが恥ずかしいんじゃないかとさえ思う。
相互羞恥だ(笑)
とにかく、ここまでしてやっと限界に恥ずかしい状態だといえるわけで、『もじもじと恥ずかしそうにスカートをめくる』で「よっしゃ、羞恥煽ってやった」と満足してしまったら、それは、まったく煽れていない。
たとえば、フェラチオをしているとして。
くわえながら徐々に興奮してくる。
彼の手が乳首に伸び、さらに気持ちよくされる。
「入れて」と挿入のお願いをする。
「ダメ」と言われる。
ああ、断られる快感に焦れる。
もう一度「お願い、入れて」とせがむ、そうしたら、入れてくれちゃう。
早い!!(笑)
女のリクエストは、本当に願っている場合と断られる快感を得るためのそれと2種類あることをご存知だろうか。
もちろん、それをしてほしい気持ちは本当のことなんだけど、同時に断られ焦れる快感も味わっている。
だから、1回や2回で応じられてしまうと、心から欲する快感と断られる快感の両方を取り上げられてしまうわかで、残念なのだ。
本当は拒否の快感を味わいながら、とことん焦らされて、心から欲するほどに追いつめてほしい。
女の『入れて』の限界は、きっとずーーーっと先なのだ。
補足1
ちなみに、これは那智さんを指してはいません(笑)
もちろん、すぐに入れてくれることもありますが、「触ってくれない」と逆に泣いてしまうほど焦らされることもあるので『すぐ』はバリエーションのひとつだからです^^
↑これ書いておかないと大変なことになります!
補足2
えっと、中にはセックス自体を早く終わってほしくて「入れて」と促す女性もいると思うので、必ずしも焦らせばいいというものではありません^^
こんなふうにね、おそらく女の限界と男の想像する『女の限界』には、けっこう大きな差があると思うのです。
Mという括りにしてしまっていいのかわからないけど。
とにかく、性的な場面で無我夢中になりたいと思う。
もしかしたら、比較的理性的である人ほどそう思うのかもしれない。
日頃理性的であればあるほど性的な場面でも理性が勝ってしまうから、ちょっとやそっとの追いつめではぜんぜんダメ。
だから、「もう無理!!」というギリギリのところを突いてほしい。
ちょっと恥ずかしがりたいとか、ちょっと焦れたいとか、ちょっと痛くされてみたいというくらいなら、これで充分でしょうけど、わたしがSMに求めるものはこの程度では叶わないのだ。
同じような気持ちでパートナーを求める女性はいると思う。
でも、なかなか味わえないんだよね。
そもそも無我夢中なんて難しい上に、M側はS側に行為を委ねるわけだから限界も男性任せ。
その男性の想像する限界が、まあ、統計を取ったわけじゃないけど、けっこう女の限界とは違うと思う(どう?女性のみなさん^^)
まして、だんだんSM行為もしなくなってフェラチオとマッサージしか命令しなくなってしまうご主人様に当たってしまったら、追いつめられるなんて永遠にやってこない。
もちろん、フェラチオとマッサージをよろこびに変えられるように調教していただければ、それはそれで幸福でしょうけど、上手に調教していただけなければ、それはただの退屈な行為だ。
(好きな人によろこんでほしいという普通の感情はもちろんあるという前提だけどね)
せっかくSMのカテゴリに踏み出したのになんだか『物足りない』と思うのは女の限界と男の考える『女の限界』に大きな差があるから、もひとつの要因。
ならば、女も『物足りない』にきちんと目を向けよう。
それは、決してあなたが贅沢なのでも、パートナーやご主人様が不甲斐ないからでもない、限界の見極めに差が生じているだけかもしれないよね。
だから、まずは女性自身がきとんと自分に目を向けてみましょう^^
で、そこから、どうしたらいいのだろう?
男の想像する『女の限界』の勘違いを指摘するだけで終わらないのが『りん子的独り言』(笑)
どうしたら『女の限界』を男性に広げてもらえるかのお話を次回^^
(あれ?ハードル上げてる?)
<関連エントリー>
『射精の範囲内』
動けなくなっちゃうんだよう
『梟』
「等式」感想です。補足1で一応の歯止めは出来ているのですが、素朴な疑問として、なぜこのエントリーを書こうと思ったかを想像すると、心中穏やかではないです。それが、目的と判断してあげるのが大人の対応でしょうか?(笑)
既成概念をぶっ壊せ
りん子的独り言(生意気)
今日のエントリーは、拷問のようなものでしか興奮できないサディストさんはまったく関係ないお話ですし、『奴隷に快楽はない』とか『主のよろこびは奴隷のよろこび』とかおっしゃるご主人様とそのお付き合いに満足されている女性に方は関係のないお話になっちゃいますので興味があれば読む程度にしてください(笑)
拷問でしか満足できないようなサディストさんは、どうか犯罪を犯すことなく、すこしでも願望に近づけますようにと願いますし、『奴隷に快楽はない』ご主人様はどうかご自分のよろこびを追求していただければと思います^^
SMカテゴリで出会い良好な関係を築き、パートナーの女性を大事に思う男性とちょっぴり物足りないと思う女性へ。
(この前提が今日のポイントです^^)
普通(?)のS的嗜好を持っている男性やちょっと刺激的なセックスをしたい男性は、きっとそんなに拷問のようなものを欲してはいないと思う。
苦痛に顔を歪ませさせるようなことしてもそこから拷問には発展しないだろうし、恥ずかしげな仕草くらいがちょうどよい興奮材料になるくらいだよね。
女がちょっと痛がり、ちょっと恥ずかしがり、そして、快感というのが正解なんだと思う。
まして、それが好意を抱いている女性であればあるほど、痛がったり怖がったりより幸福そうな表情を見たいと思うのは、当然の感情だ。
那智さんのようなS的嗜好のある男性でも苦痛のあとに必ず快感が来るほうが満足なのだから、道筋はどうあれ好きな女を喜ばせたい可愛がりたいと思うのは、まあ、普通の感情だよね。
仮にSMカテゴリで出会ったとしても、好きな女が痛がったり恥ずかしくて「いやいや」したら、そりゃあ、この辺でおしまいにしてあげようって、恋人同士の性行為に流れていくのも自然なこと。
酷いことをしたいと幸福を感じてほしいのバランスが崩れて、じつは男性の踏み込む力が弱くなってしまうのではないだろうか。
人格破綻者、もしくは、その女が大事でない以外は、痛いことするって勇気がいると思うしね。
でもね、前エントリーに書いたように、じつは女の欲は深いもの。
痛いと泣きついても恥ずかしくて「無理!!」と首を振っても、痛いのも恥ずかしいのも本当だとしても、もう一方の心では、やめないでほしい、あと一押し限界を広げてほしいものなのだ。
だとすると、女としてはとても残念ではあるけれど『物足りない』。
まして、SMや『育てる』意味合いでの調教を求めたカテゴリで出会ったのならなおさら。
やっと痛いことをしてもらえた、とても恐いけど徐々にその恐さにも慣れてきて、痛いことを受け入れ快感に繋げられるかもしれない。
調教というくらいなんだから、段階を踏んでいまより追いつめてくれるはずだと期待してしまうのはしかたないこと。
その期待を『エゴマゾ』と称するのだとしたら、当たり前だ、叶えるために踏み出したんだ、やらないこと、できないことをこちらの意識のせいにしないで、こちらがエゴを表に出さずにすむくらい追いつめていただきたいものです(あら、また毒? 笑)
最初はSMや調教っぽいことをしていてもいつのまにかSM行為をしなくなってしまう男性はちょっとSMっぽいことしたかったけど、やってみたら飽きちゃったってこともあると思うけど。
もしかしたら、最初はSMで付き合いはじめたけど、その女性がとても好きになってしまって酷いことをするより普通の愛し合うセックスのほうがしたくなっちゃうという人もいるかもしれない。
勝手に『女の限界』を設定してしまっているのだとしたら。
そういう男性には『等式』の専売特許『可愛がるSM』をオススメしたい!!
酷いことは、けしてその女性を虐待しているのではなく、可愛がっているのだ。
キスをしたり髪を撫でたりすることと同じ行為で靴べらで打ちビンタをする。
SMの既成概念を覆し、厳しい調教でも冷徹な行為でもなく、可愛がる行為だと意識を変えればごく普通のセックスと同じ気持ちでSM行為ができる。
痛そうでかわいそうにならない、痛くてうれしいねになる。
既成のSM的雰囲気を捨ててしまえば、とても楽しく心地よくSM行為ができますよ。
ということで、SMカテゴリで出会った女性をとても好きになってしまったら『可愛がるSM』をオススメいたします^^
でね。
『等式』は圧倒的に女性読者さんが多いと思うので、上の部分は理解あるパートナーに読んでいただくとして。
こちら側にもできることがあると思うんだ。
それは『可愛がられるSM』を目指すの!!
痛いけど感じるとか、恥ずかしいことの先に快感があるとか。
とにかく、まず『マイナスから入り、最後のほうにプラスになる』、もっというと『マイナスから入り、我慢と葛藤の末、ご主人様への気持ちがプラスに変える』というお決まりルート、そういう既成概念を女側もやめてしまおう。
恥ずかしいことをする。
恥ずかしいのは恥ずかしいけど、でも、同時に数%は喜んでいるよね?
その喜びも伝えるんだ。
痛がって痛がって、泣いても、それがうれしいとプラスの感情を毎度つけ加えるのだ。
恥ずかしいことを喜んだらSMじゃない?
葛藤の後じゃないと快感を得ちゃダメ?
そんなことないよね。
だって追いつめてほしいんだもん、追いつめはじめてくれたことを素直に喜ぼう。
恥ずかしいくて心臓が飛び出そう、でも、うれしい!!
痛くてもう無理かもしれないけど、こうしてほしかった、またしてほしい。
同時進行で喜びを伝える。
後日、満足を伝える。
だから、SM行為で可愛がってもらうように女が自らを縛っているかもしれないM女や女の既成概念を壊してみよう。
那智さんは、もともと痛いことに特化した嗜好はなかった。
わたしを可愛がる行為のうちのひとつとして痛いことがあったくらいだった。
だから、最近まで鞭の登場率はそれほど高くなかった。
半年鞭をしないなんていうこともあったしね。
それが、最近は痛いことが可愛がる行為のひとつから、痛いことで可愛がりたいという意識に変わってきている。
昔は「普通のりん子もマゾのりん子も好き」と平均的に言葉にしていたけれど、「マゾのりん子が好き」とあえて特別視してくれるようになった。
痛いことでおかしくなるほど感じるわたしのマゾを可愛いと思うようになってくれたのだ。
那智さんの中ではっきりと可愛がるSMを認識したこともあるし、(『溺愛』のころかな)、那智さんのやり方によりわたしが徐々に感じられるようになっていったことも要因だけど、その何%かはわたしの働きかけもあると思っている。
日々の会話やブログの内容や最中の態度、それらの中に『その行為がうれしい、気持ちいい』『またしてほしい』というメッセージをたくさんたくさんチリバメタ。
酷いことで可愛がってもらえるように、限界を広げてもらえるように。
それも那智さんの痛いことで可愛がりたいという気持ちを大きくする手助けになったのではないかと思う。
もし、『あなたの限界』をパートナーが勝手に設定してしまっているなら、こちらは喜びを表現しよう。
足りないことを伝えるんじゃないよ、うれしいこと気持ちいいことを伝えるんだ。
嫌がった末の快感なんて、誰かが決めた道筋なんてヤメちゃおう。
『もっと』と思うなら、『もっと』と言おう。
『ご主人様が与えてくれる痛み』なんて長ったらしく注釈つけずに、追いつめてもらうこと自体がうれしいことを伝えよう。
だって、好きな男にしてもらうことがいいなんてこと、大大大前提だもん^^
注釈つけちゃうと、そこ止まりになっちゃうよ(笑)
わたしは痛くされてうれしい、もっと追いつめてもらえるともっとうれしい!!
その女性が好きならば好きな女が喜ぶことをしたいと思う男性は多いはずだ。
理想のM女像を押し付けることなく理想のM女じゃないと萎えちゃうことのない柔軟な発想と好奇心と探究心が旺盛なステキなパートナーだったらきっと楽しんでくれるはず。
そんなパートナーのためにもこちらの限界を示して差し上げよう。
既成概念をぶっ壊し『可愛がられるSM』を目指すのだ^^
<関連エントリー>
『スイッチのないSM』
『溺愛1 2 3』
ちりばめる〜。
『紅を差す』
『M女の快感』
『徒然に『M女の快感』』
『徒然に『女の快感』』
「等式」感想です。可愛がる行為に画一性なんて必要ない、色んな行為や言葉で可愛がる事が出来たら素敵です。おとなしい感想でした(笑)
今日のエントリーは、拷問のようなものでしか興奮できないサディストさんはまったく関係ないお話ですし、『奴隷に快楽はない』とか『主のよろこびは奴隷のよろこび』とかおっしゃるご主人様とそのお付き合いに満足されている女性に方は関係のないお話になっちゃいますので興味があれば読む程度にしてください(笑)
拷問でしか満足できないようなサディストさんは、どうか犯罪を犯すことなく、すこしでも願望に近づけますようにと願いますし、『奴隷に快楽はない』ご主人様はどうかご自分のよろこびを追求していただければと思います^^
SMカテゴリで出会い良好な関係を築き、パートナーの女性を大事に思う男性とちょっぴり物足りないと思う女性へ。
(この前提が今日のポイントです^^)
普通(?)のS的嗜好を持っている男性やちょっと刺激的なセックスをしたい男性は、きっとそんなに拷問のようなものを欲してはいないと思う。
苦痛に顔を歪ませさせるようなことしてもそこから拷問には発展しないだろうし、恥ずかしげな仕草くらいがちょうどよい興奮材料になるくらいだよね。
女がちょっと痛がり、ちょっと恥ずかしがり、そして、快感というのが正解なんだと思う。
まして、それが好意を抱いている女性であればあるほど、痛がったり怖がったりより幸福そうな表情を見たいと思うのは、当然の感情だ。
那智さんのようなS的嗜好のある男性でも苦痛のあとに必ず快感が来るほうが満足なのだから、道筋はどうあれ好きな女を喜ばせたい可愛がりたいと思うのは、まあ、普通の感情だよね。
仮にSMカテゴリで出会ったとしても、好きな女が痛がったり恥ずかしくて「いやいや」したら、そりゃあ、この辺でおしまいにしてあげようって、恋人同士の性行為に流れていくのも自然なこと。
酷いことをしたいと幸福を感じてほしいのバランスが崩れて、じつは男性の踏み込む力が弱くなってしまうのではないだろうか。
人格破綻者、もしくは、その女が大事でない以外は、痛いことするって勇気がいると思うしね。
でもね、前エントリーに書いたように、じつは女の欲は深いもの。
痛いと泣きついても恥ずかしくて「無理!!」と首を振っても、痛いのも恥ずかしいのも本当だとしても、もう一方の心では、やめないでほしい、あと一押し限界を広げてほしいものなのだ。
だとすると、女としてはとても残念ではあるけれど『物足りない』。
まして、SMや『育てる』意味合いでの調教を求めたカテゴリで出会ったのならなおさら。
やっと痛いことをしてもらえた、とても恐いけど徐々にその恐さにも慣れてきて、痛いことを受け入れ快感に繋げられるかもしれない。
調教というくらいなんだから、段階を踏んでいまより追いつめてくれるはずだと期待してしまうのはしかたないこと。
その期待を『エゴマゾ』と称するのだとしたら、当たり前だ、叶えるために踏み出したんだ、やらないこと、できないことをこちらの意識のせいにしないで、こちらがエゴを表に出さずにすむくらい追いつめていただきたいものです(あら、また毒? 笑)
最初はSMや調教っぽいことをしていてもいつのまにかSM行為をしなくなってしまう男性はちょっとSMっぽいことしたかったけど、やってみたら飽きちゃったってこともあると思うけど。
もしかしたら、最初はSMで付き合いはじめたけど、その女性がとても好きになってしまって酷いことをするより普通の愛し合うセックスのほうがしたくなっちゃうという人もいるかもしれない。
勝手に『女の限界』を設定してしまっているのだとしたら。
そういう男性には『等式』の専売特許『可愛がるSM』をオススメしたい!!
酷いことは、けしてその女性を虐待しているのではなく、可愛がっているのだ。
キスをしたり髪を撫でたりすることと同じ行為で靴べらで打ちビンタをする。
SMの既成概念を覆し、厳しい調教でも冷徹な行為でもなく、可愛がる行為だと意識を変えればごく普通のセックスと同じ気持ちでSM行為ができる。
痛そうでかわいそうにならない、痛くてうれしいねになる。
既成のSM的雰囲気を捨ててしまえば、とても楽しく心地よくSM行為ができますよ。
ということで、SMカテゴリで出会った女性をとても好きになってしまったら『可愛がるSM』をオススメいたします^^
でね。
『等式』は圧倒的に女性読者さんが多いと思うので、上の部分は理解あるパートナーに読んでいただくとして。
こちら側にもできることがあると思うんだ。
それは『可愛がられるSM』を目指すの!!
痛いけど感じるとか、恥ずかしいことの先に快感があるとか。
とにかく、まず『マイナスから入り、最後のほうにプラスになる』、もっというと『マイナスから入り、我慢と葛藤の末、ご主人様への気持ちがプラスに変える』というお決まりルート、そういう既成概念を女側もやめてしまおう。
恥ずかしいことをする。
恥ずかしいのは恥ずかしいけど、でも、同時に数%は喜んでいるよね?
その喜びも伝えるんだ。
痛がって痛がって、泣いても、それがうれしいとプラスの感情を毎度つけ加えるのだ。
恥ずかしいことを喜んだらSMじゃない?
葛藤の後じゃないと快感を得ちゃダメ?
そんなことないよね。
だって追いつめてほしいんだもん、追いつめはじめてくれたことを素直に喜ぼう。
恥ずかしいくて心臓が飛び出そう、でも、うれしい!!
痛くてもう無理かもしれないけど、こうしてほしかった、またしてほしい。
同時進行で喜びを伝える。
後日、満足を伝える。
だから、SM行為で可愛がってもらうように女が自らを縛っているかもしれないM女や女の既成概念を壊してみよう。
那智さんは、もともと痛いことに特化した嗜好はなかった。
わたしを可愛がる行為のうちのひとつとして痛いことがあったくらいだった。
だから、最近まで鞭の登場率はそれほど高くなかった。
半年鞭をしないなんていうこともあったしね。
それが、最近は痛いことが可愛がる行為のひとつから、痛いことで可愛がりたいという意識に変わってきている。
昔は「普通のりん子もマゾのりん子も好き」と平均的に言葉にしていたけれど、「マゾのりん子が好き」とあえて特別視してくれるようになった。
痛いことでおかしくなるほど感じるわたしのマゾを可愛いと思うようになってくれたのだ。
那智さんの中ではっきりと可愛がるSMを認識したこともあるし、(『溺愛』のころかな)、那智さんのやり方によりわたしが徐々に感じられるようになっていったことも要因だけど、その何%かはわたしの働きかけもあると思っている。
日々の会話やブログの内容や最中の態度、それらの中に『その行為がうれしい、気持ちいい』『またしてほしい』というメッセージをたくさんたくさんチリバメタ。
酷いことで可愛がってもらえるように、限界を広げてもらえるように。
それも那智さんの痛いことで可愛がりたいという気持ちを大きくする手助けになったのではないかと思う。
もし、『あなたの限界』をパートナーが勝手に設定してしまっているなら、こちらは喜びを表現しよう。
足りないことを伝えるんじゃないよ、うれしいこと気持ちいいことを伝えるんだ。
嫌がった末の快感なんて、誰かが決めた道筋なんてヤメちゃおう。
『もっと』と思うなら、『もっと』と言おう。
『ご主人様が与えてくれる痛み』なんて長ったらしく注釈つけずに、追いつめてもらうこと自体がうれしいことを伝えよう。
だって、好きな男にしてもらうことがいいなんてこと、大大大前提だもん^^
注釈つけちゃうと、そこ止まりになっちゃうよ(笑)
わたしは痛くされてうれしい、もっと追いつめてもらえるともっとうれしい!!
その女性が好きならば好きな女が喜ぶことをしたいと思う男性は多いはずだ。
理想のM女像を押し付けることなく理想のM女じゃないと萎えちゃうことのない柔軟な発想と好奇心と探究心が旺盛なステキなパートナーだったらきっと楽しんでくれるはず。
そんなパートナーのためにもこちらの限界を示して差し上げよう。
既成概念をぶっ壊し『可愛がられるSM』を目指すのだ^^
<関連エントリー>
『スイッチのないSM』
『溺愛1 2 3』
ちりばめる〜。
『紅を差す』
『M女の快感』
『徒然に『M女の快感』』
『徒然に『女の快感』』
「等式」感想です。可愛がる行為に画一性なんて必要ない、色んな行為や言葉で可愛がる事が出来たら素敵です。おとなしい感想でした(笑)