魔法の呪文
りん子的独り言(生意気)
りん子的独り言(生意気)はSMや主従に対しての主張を書きますが、それで幸福を感じられている人には向けていません。
苦しいと感じている人や疑問や矛盾を感じている人へのヒントの気持ちで書いています。
『寿司とマヨネーズ』という本がある。
ここでも何回か登場しているけれど、この本は夢を叶えたいと旅をはじめた頃のわたしにとって見本市のような本だった。
『SM』と『奴隷』の両方が一緒くたに書かれているので、その中で自分が反応するところと苦手なところとリトマス試験紙になっていたなといま振り返っても思う。
カップル喫茶でご主人様の命令で他者と絡み「よく調教されていますね」という言葉に、所有されたい気持ちと所有されている顕示欲が刺激され、鞭で飛ぶシーンでは憧れが形になっている人の言葉に自分を重ね、夜の公園の散歩は自分がそんなことに反応するのかと驚いたものだ。
逆に、所有されたい支配されたい気持ちはあるくせに、ご主人様である『寿司さま』の横暴な態度に憤り、辛い気持ちを押し殺し媚を売るように食事の支度をするマヨさんに歯がゆい思いをした。
きっと当時から、所有や支配と、尽くすとかご主人様のためにというものは違うものだゾ?と無意識に疑問を感じていたのだろう。
わたしが欲しいものは被虐的行為とリードを持ってもらう安心だとリトマス試験紙に表れていたのだ。
だから、好きなお話とそうじゃないお話が極端に分かれる本だと思う。
(まあ、依存ゆえの不安定を忠誠でごまかしているような関係が根本なので、常に息苦しいのだけどね)
マゾ心を刺激されるシーンの他に、もうひとつ好きな場面がある。
それは二人が5年間の付き合いに終止符を打ち、彼女が自分で違う道を歩こうと思う辺りからのこと。
日記をまとめた本なので時系列で書かれいるのだけど、ある日の日記を境にそれまで呼んでいた『ご主人様』から『彼』と名称を変えたのだ。
名称を変えただけではなく文体も変えているから当然といえば当然なんだけど、文体の変化以上に『ご主人様』から『彼』に変わったことによる変化は、読んでいるこちらにも大きく伝わるような感じがした。
憑き物が落ちたよう、なのだ。
たくさんの葛藤の末の日記だから、そんなに簡単に憑き物は落ちないかもしれないけど、でも、わたしは『ご主人様』を『彼』と書く彼女はじつに清々しく感じた。
「それでも『彼』は愛おしい男」と書く彼女の言葉はずっとずっと心から発しているようで、好感が持てる。
だから、わたしは彼女が『ご主人様』から『彼』へ名称を変える場面が好きなのだ。
魔法の呪文。
いつも言うけど、それが幸せな人には向けていないです。
でも、もし、いま『ご主人様』との関係に悩んでいたら、もし、お別れしてもまだ『何か』に捉われているような感覚で苦しかったら。
ご主人様のことを『彼』と呼んでみよう。
元主を『元彼』と呼んでみよう。
でも、ご主人様はご主人様だからそれ以外はあり得ない?
うん、それもわかるけど、でも、たとえば父親はお父さんだけど、自分に子供が生まれたら『おじいちゃん』と呼び方が変わったりするでしょ(笑)
そんなふうに、柔軟にしてみる^^
『お仕えする』を『お付き合いする』に変えてみよう、『奉仕』を『フェラチオ』にするのだ(笑)
ようは、固執したものを解いてみるのだ。
でも、『お仕えする』と『お付き合いする』は違う?
そうかな?
たとえば、お仕えすることは『ご主人様のために一生懸命になる』ことや『ご主人様の喜びを最優先する』ことだったりしたとして、普通、好きな男性には『一生懸命』になるし『喜んでもらいたい』と自然と思うものだよね。
わざわざ、『お仕え』しなくても、相手を愛し尊敬していればごく自然な感情として『相手の幸福』を願うはず。
大切な人を思うとき、呼び方や名称は本当は関係ないのだ。
繰り返すけど、それが幸福ならいい。
でも、悩んでいたり、疑問に感じていたり、一歩前に進めないとしたら、一度『彼』にしてみません?
それでもなお、彼を愛しいと思えば、そうなんだろうし、お付き合いを続けたいと思うなら、そうなんだろう。
『彼』にしてみたら、どう?
『元彼』にしてみたら?
ふわっと体が軽くなるかもしれない。
『寿司とマヨネーズ』でわたしが感じたような清々しさに。
名称でしかアイデンティティを保てないのだとしたら、それまでのものだと思うのだ。
<関連エントリー>
寿司とマヨネーズで検索してみた^^
『お昼からこんな内容^^;』
『予定外不調和』
『卵が先か、鶏が先か』
『りん子式飲尿法』
『アラシのりん子』
『那智さんのSM』
『この世界からM女という言葉をなくしたい』
「等式」感想です。久しぶりに小気味よくバッサリ袈裟掛けの一撃ですね。その通りだと思います。りん子から私への会話は丁寧語と尊敬語。謙譲語は使わない、使って欲しいとも思わないし、使いたければ使って、悦に入れば良いけれどね、(笑)りん子には憧れがあるみたいなので。
「主」「ご奉仕」の感覚はある種の偶像崇拝で、誰かが使っていた言葉で「大人のごっこ遊び」なら楽しそうなのにと思う。話はまったく関係なくなりますが、謙譲語とはあまり、良くない言葉なのではないかと思う。自分を下げて、相手を上げる。そう思える相手に対しては本当に有効だと思うけれど、
少し考えると、相手をバカにしているともいえないか。だって、そうそう、自分を下げてまで相手を上げようと本気に思える人なんてそうそう、いないと思う。例え、特定の相手に謙譲語を使用しても、後日の態度で、自分を下げる程でもないな、と思った瞬間、相手を見下げる感覚になるのかもしれない。
りん子的独り言(生意気)はSMや主従に対しての主張を書きますが、それで幸福を感じられている人には向けていません。
苦しいと感じている人や疑問や矛盾を感じている人へのヒントの気持ちで書いています。
『寿司とマヨネーズ』という本がある。
ここでも何回か登場しているけれど、この本は夢を叶えたいと旅をはじめた頃のわたしにとって見本市のような本だった。
『SM』と『奴隷』の両方が一緒くたに書かれているので、その中で自分が反応するところと苦手なところとリトマス試験紙になっていたなといま振り返っても思う。
カップル喫茶でご主人様の命令で他者と絡み「よく調教されていますね」という言葉に、所有されたい気持ちと所有されている顕示欲が刺激され、鞭で飛ぶシーンでは憧れが形になっている人の言葉に自分を重ね、夜の公園の散歩は自分がそんなことに反応するのかと驚いたものだ。
逆に、所有されたい支配されたい気持ちはあるくせに、ご主人様である『寿司さま』の横暴な態度に憤り、辛い気持ちを押し殺し媚を売るように食事の支度をするマヨさんに歯がゆい思いをした。
きっと当時から、所有や支配と、尽くすとかご主人様のためにというものは違うものだゾ?と無意識に疑問を感じていたのだろう。
わたしが欲しいものは被虐的行為とリードを持ってもらう安心だとリトマス試験紙に表れていたのだ。
だから、好きなお話とそうじゃないお話が極端に分かれる本だと思う。
(まあ、依存ゆえの不安定を忠誠でごまかしているような関係が根本なので、常に息苦しいのだけどね)
マゾ心を刺激されるシーンの他に、もうひとつ好きな場面がある。
それは二人が5年間の付き合いに終止符を打ち、彼女が自分で違う道を歩こうと思う辺りからのこと。
日記をまとめた本なので時系列で書かれいるのだけど、ある日の日記を境にそれまで呼んでいた『ご主人様』から『彼』と名称を変えたのだ。
名称を変えただけではなく文体も変えているから当然といえば当然なんだけど、文体の変化以上に『ご主人様』から『彼』に変わったことによる変化は、読んでいるこちらにも大きく伝わるような感じがした。
憑き物が落ちたよう、なのだ。
たくさんの葛藤の末の日記だから、そんなに簡単に憑き物は落ちないかもしれないけど、でも、わたしは『ご主人様』を『彼』と書く彼女はじつに清々しく感じた。
「それでも『彼』は愛おしい男」と書く彼女の言葉はずっとずっと心から発しているようで、好感が持てる。
だから、わたしは彼女が『ご主人様』から『彼』へ名称を変える場面が好きなのだ。
魔法の呪文。
いつも言うけど、それが幸せな人には向けていないです。
でも、もし、いま『ご主人様』との関係に悩んでいたら、もし、お別れしてもまだ『何か』に捉われているような感覚で苦しかったら。
ご主人様のことを『彼』と呼んでみよう。
元主を『元彼』と呼んでみよう。
でも、ご主人様はご主人様だからそれ以外はあり得ない?
うん、それもわかるけど、でも、たとえば父親はお父さんだけど、自分に子供が生まれたら『おじいちゃん』と呼び方が変わったりするでしょ(笑)
そんなふうに、柔軟にしてみる^^
『お仕えする』を『お付き合いする』に変えてみよう、『奉仕』を『フェラチオ』にするのだ(笑)
ようは、固執したものを解いてみるのだ。
でも、『お仕えする』と『お付き合いする』は違う?
そうかな?
たとえば、お仕えすることは『ご主人様のために一生懸命になる』ことや『ご主人様の喜びを最優先する』ことだったりしたとして、普通、好きな男性には『一生懸命』になるし『喜んでもらいたい』と自然と思うものだよね。
わざわざ、『お仕え』しなくても、相手を愛し尊敬していればごく自然な感情として『相手の幸福』を願うはず。
大切な人を思うとき、呼び方や名称は本当は関係ないのだ。
繰り返すけど、それが幸福ならいい。
でも、悩んでいたり、疑問に感じていたり、一歩前に進めないとしたら、一度『彼』にしてみません?
それでもなお、彼を愛しいと思えば、そうなんだろうし、お付き合いを続けたいと思うなら、そうなんだろう。
『彼』にしてみたら、どう?
『元彼』にしてみたら?
ふわっと体が軽くなるかもしれない。
『寿司とマヨネーズ』でわたしが感じたような清々しさに。
名称でしかアイデンティティを保てないのだとしたら、それまでのものだと思うのだ。
<関連エントリー>
寿司とマヨネーズで検索してみた^^
『お昼からこんな内容^^;』
『予定外不調和』
『卵が先か、鶏が先か』
『りん子式飲尿法』
『アラシのりん子』
『那智さんのSM』
『この世界からM女という言葉をなくしたい』
「等式」感想です。久しぶりに小気味よくバッサリ袈裟掛けの一撃ですね。その通りだと思います。りん子から私への会話は丁寧語と尊敬語。謙譲語は使わない、使って欲しいとも思わないし、使いたければ使って、悦に入れば良いけれどね、(笑)りん子には憧れがあるみたいなので。
「主」「ご奉仕」の感覚はある種の偶像崇拝で、誰かが使っていた言葉で「大人のごっこ遊び」なら楽しそうなのにと思う。話はまったく関係なくなりますが、謙譲語とはあまり、良くない言葉なのではないかと思う。自分を下げて、相手を上げる。そう思える相手に対しては本当に有効だと思うけれど、
少し考えると、相手をバカにしているともいえないか。だって、そうそう、自分を下げてまで相手を上げようと本気に思える人なんてそうそう、いないと思う。例え、特定の相手に謙譲語を使用しても、後日の態度で、自分を下げる程でもないな、と思った瞬間、相手を見下げる感覚になるのかもしれない。