お昼からこんな内容(^^;)
非日常的な日常
皆さんはおしっこを飲んだことがありますか?
私が、はじめて那智さんのおしっこを飲んだのは、はじめてホテルに行ったときでした。
余談ですが、「那智さんの」とつけたのは、これを書きながら思い出したことがあるからです!!
そういえば小学生のころ(何年生かは、定かではありません)「おしっこってどんな味がするだろう」と思って、自分のおしっこを飲んだ(舐める程度だったと思う)ことがあったと思い出したのです。
しかもバケツか洗面器か何かにおしっこをして!!
これを思い出して、いまちょっと驚いています。
小さい子ってこんなもの?
私は少数?
これは那智さんにも話していないことです(いま思い出したのですものね)。
これを読んで「やっぱり変態〜」って言われそう・・。
話を戻しますね。
はじめてホテルで抱かれて(SMして)、最後お風呂に一緒に入ったとき。
浴槽に腰掛けた那智さんが、出るよと言って私にくわえさせました。
私はおしっこだなんて思いもしないから「いきなり射精するの?」と、不思議に思いながら従いました。
お口の中に放出されたものの感じが想像していた精子のそれと違ったので、驚いてお口を離してしまいました。
おしっこだったのです。
「えええええっっっっ、いきなり飲むの?はじめて会った人のを?」
ためらいながらも従う私。
この時、はじめて会ったとはいえ、それまでたくさんお電話で向き合っていたから(これはいつかお話ししますね)、那智さんとしては、問題無い行為だったようです。
理解の遅い私は付いて行かれず、驚くばかり。
ところで、「寿司とマヨネーズ」という本をご存知ですか?
SMの話です。
そこでM女性のマヨさんがご主人様のおしっこを飲むシーンが何度か出てくるのですが。
便器としての彼女は、口を開けておしっこを受け、こぼしながらも全部飲もうと努力するのです。
それを読んでいた私は勝手に「おしっこは全部飲むもの」と思い込んでいました。
だからこの時もお口でくわえて、こぼさないように飲んだのでした。
味覚的には、決して美味しいとは言い難いものを連続して喉に流し込むことは、かなり辛いことでした。
でも、なぜか必死に飲んでいた。
あの時、そんなに愛しているなんて自覚できていなかったのに、必死になってしまったのか自分でもわからないです。
とにかく、まさか全部飲むなんて思っていなかった那智さんは、驚き、でも、確信したそうです。
そして、なにより私が誇らしげな表情をしていたと言っていました。
それ以来、かなりな頻度でおしっこを飲んでいます。
多少は慣れてきたとはいえ、特異な味の大量摂取は、毎回ちょっと必死です。
慣れてくると方法も様々で、ベッドの上だったり洋服を着たままだったり(こぼせない!!)、一度ペットボトルに入れて渡され、帰り道で飲みきるように言われたこともありました。
すごいことのようですが、不思議と嫌々しているわけではないのです。
赤ん坊が母乳を飲んで栄養にするように、那智さんから愛や慈しみを注いでもらっているような感じなのです。
そして那智さんもそれができる私を愛しく思い、それができる私という存在で幸せになってくれる。
那智さんが幸せだと私も幸せ、だから、ごくごく飲める。
幸せの相乗効果のような状態ですね。
まあ、ペットボトルの時はさすがに厳しかったですけど(笑)
でも、人間ですから「お腹がいっぱいで、もう無理!!」という時もあるかもしれませんよね。
そんな時は、飲みながら那智さんのお腹あたりをトントンと軽く叩いて知らせてよいことになっています。
でも、だいたい「もう無理」で叩く時点で、ほとんど「もうおしまい」最後の一、二滴だから、その合図が施行されたことはないのですけどね。
ある日、合図を送った時のこと。
どうもまだ、終わりではないようで最後の一、二滴どころか、やっと半分に達したくらいでだったようで、合図は却下されました。
一度「無理かも」と思ってしまうと弱気になってしまうもので、くわえたままトントンを繰り返してしまいます。
那智さんが、この時どう思ったのかわかりませんが、無視します。
そして「もう少しだから、頑張れ」と言うのです。
いつもそうなのですが那智さんの言う通りにしないと、後で私が悲しく淋しくなってしまうのです。
那智さんの意に添っていることが、私の幸せなのです。
だから「頑張れ」と言われれば、頑張るのです。
結局、こぼすことなく全部飲んだ私を那智さんは、「よくできたね」って褒めてくれて、頭を撫でてくれる。
褒めてもらえた喜びとできた満足感に、「もう私の限界さえ、私が決めることができなくなってしまったな」と感じた夜でした。
そんな「愛情の授受」「所有感の確認」として飲尿が数年続いていた、最近の出来事。
ソファでくつろいでいた那智さんが、トイレに行きました。
(もちろんいつもいつも飲んでいるわけではありません。気分や、量によるようです)
戻ってきて、面白そうに、新鮮な感覚を楽しむように那智さんが言いました。
「いまね、トイレに行くのちょっと面倒で、でも、トイレ行きながら、りん子がいるじゃんって思っちゃったよ。」
「愛情の授受」だけではなく、「便利な簡易トイレ」としての飲尿の日々が来てしまう予感でした。
それが、良いか悪いかわかりませんが、その時私も「くつろいでいるなら、私を使えばいいのに」と思ってしまっていたことは、確かです。
果たして、私は「幸せな便器」になることができるでしょうか。
皆さんはおしっこを飲んだことがありますか?
私が、はじめて那智さんのおしっこを飲んだのは、はじめてホテルに行ったときでした。
余談ですが、「那智さんの」とつけたのは、これを書きながら思い出したことがあるからです!!
そういえば小学生のころ(何年生かは、定かではありません)「おしっこってどんな味がするだろう」と思って、自分のおしっこを飲んだ(舐める程度だったと思う)ことがあったと思い出したのです。
しかもバケツか洗面器か何かにおしっこをして!!
これを思い出して、いまちょっと驚いています。
小さい子ってこんなもの?
私は少数?
これは那智さんにも話していないことです(いま思い出したのですものね)。
これを読んで「やっぱり変態〜」って言われそう・・。
話を戻しますね。
はじめてホテルで抱かれて(SMして)、最後お風呂に一緒に入ったとき。
浴槽に腰掛けた那智さんが、出るよと言って私にくわえさせました。
私はおしっこだなんて思いもしないから「いきなり射精するの?」と、不思議に思いながら従いました。
お口の中に放出されたものの感じが想像していた精子のそれと違ったので、驚いてお口を離してしまいました。
おしっこだったのです。
「えええええっっっっ、いきなり飲むの?はじめて会った人のを?」
ためらいながらも従う私。
この時、はじめて会ったとはいえ、それまでたくさんお電話で向き合っていたから(これはいつかお話ししますね)、那智さんとしては、問題無い行為だったようです。
理解の遅い私は付いて行かれず、驚くばかり。
ところで、「寿司とマヨネーズ」という本をご存知ですか?
SMの話です。
そこでM女性のマヨさんがご主人様のおしっこを飲むシーンが何度か出てくるのですが。
便器としての彼女は、口を開けておしっこを受け、こぼしながらも全部飲もうと努力するのです。
それを読んでいた私は勝手に「おしっこは全部飲むもの」と思い込んでいました。
だからこの時もお口でくわえて、こぼさないように飲んだのでした。
味覚的には、決して美味しいとは言い難いものを連続して喉に流し込むことは、かなり辛いことでした。
でも、なぜか必死に飲んでいた。
あの時、そんなに愛しているなんて自覚できていなかったのに、必死になってしまったのか自分でもわからないです。
とにかく、まさか全部飲むなんて思っていなかった那智さんは、驚き、でも、確信したそうです。
そして、なにより私が誇らしげな表情をしていたと言っていました。
それ以来、かなりな頻度でおしっこを飲んでいます。
多少は慣れてきたとはいえ、特異な味の大量摂取は、毎回ちょっと必死です。
慣れてくると方法も様々で、ベッドの上だったり洋服を着たままだったり(こぼせない!!)、一度ペットボトルに入れて渡され、帰り道で飲みきるように言われたこともありました。
すごいことのようですが、不思議と嫌々しているわけではないのです。
赤ん坊が母乳を飲んで栄養にするように、那智さんから愛や慈しみを注いでもらっているような感じなのです。
そして那智さんもそれができる私を愛しく思い、それができる私という存在で幸せになってくれる。
那智さんが幸せだと私も幸せ、だから、ごくごく飲める。
幸せの相乗効果のような状態ですね。
まあ、ペットボトルの時はさすがに厳しかったですけど(笑)
でも、人間ですから「お腹がいっぱいで、もう無理!!」という時もあるかもしれませんよね。
そんな時は、飲みながら那智さんのお腹あたりをトントンと軽く叩いて知らせてよいことになっています。
でも、だいたい「もう無理」で叩く時点で、ほとんど「もうおしまい」最後の一、二滴だから、その合図が施行されたことはないのですけどね。
ある日、合図を送った時のこと。
どうもまだ、終わりではないようで最後の一、二滴どころか、やっと半分に達したくらいでだったようで、合図は却下されました。
一度「無理かも」と思ってしまうと弱気になってしまうもので、くわえたままトントンを繰り返してしまいます。
那智さんが、この時どう思ったのかわかりませんが、無視します。
そして「もう少しだから、頑張れ」と言うのです。
いつもそうなのですが那智さんの言う通りにしないと、後で私が悲しく淋しくなってしまうのです。
那智さんの意に添っていることが、私の幸せなのです。
だから「頑張れ」と言われれば、頑張るのです。
結局、こぼすことなく全部飲んだ私を那智さんは、「よくできたね」って褒めてくれて、頭を撫でてくれる。
褒めてもらえた喜びとできた満足感に、「もう私の限界さえ、私が決めることができなくなってしまったな」と感じた夜でした。
そんな「愛情の授受」「所有感の確認」として飲尿が数年続いていた、最近の出来事。
ソファでくつろいでいた那智さんが、トイレに行きました。
(もちろんいつもいつも飲んでいるわけではありません。気分や、量によるようです)
戻ってきて、面白そうに、新鮮な感覚を楽しむように那智さんが言いました。
「いまね、トイレに行くのちょっと面倒で、でも、トイレ行きながら、りん子がいるじゃんって思っちゃったよ。」
「愛情の授受」だけではなく、「便利な簡易トイレ」としての飲尿の日々が来てしまう予感でした。
それが、良いか悪いかわかりませんが、その時私も「くつろいでいるなら、私を使えばいいのに」と思ってしまっていたことは、確かです。
果たして、私は「幸せな便器」になることができるでしょうか。