那智さんのSM(追記あり)
りん子的独り言(生意気)
これは那智少年がSM的な行為に惹かれた初期のころに思いめぐらし、実際にSMをしたいとちょっぴり切実に行動を起こしてたどり着いたこと。
以後、これは那智さんのSMに対する土台となっている。
注:今日は那智さんから聞いた考えを書くので、基本的にには那智さんの意見ということになりますが、わたしが書くのでどうしても所々わたしの思考も混ざってしまっていると思います。
もし、那智さんの直接の言葉で聞いてみたいことがあれば、コメントやメールにて『那智宛て』とわかるように添えていただければお答えいたしますね。
那智さんのSMの土台、それは
SMは女性の快感に繋げないと成立しないということ、ゆえに矛盾を孕んでいるということと。
まずは、その考えにいたった那智少年のお話。
幼い頃から気がつけばSM的行為に性的興奮を覚えていた那智少年。
ご多分に漏れず、時代劇の拷問や悪代官に帯をくるくる~なシーンではワクワク、借金の肩に無理矢理なんてシチュエーションにうずうず。
恥ずかしがり抵抗する女性が崩れていく姿に『もっとやれ~』と期待して観ていたはずだ。
何度か登場しているけれど、『好きな子に自分のうんこを食べさせたい(それもよろこんで食べる)』と小学生くらいで思っていたことを聞くと、那智さんの嗜好を垣間見ることができる。
時代劇や小説で『イヤがる女性を無理矢理』なんてシーンに興奮していた那智少年ですが、中学生くらいになって、ただの妄想からもう少し具体的に考えるようになる。
将来女性と性的なことをする年齢になったときに、犯罪とか借金の肩になんて小説のような非現実な展開は無理なわけで、じゃあ、一般生活で女性を縛るには、恥ずかしがらせるには、どうしたらいいのだろう。
恋人に縛らせてというのだろうか。
いまから35年近く前のこと。
ネットなんて存在していなくて出会いは常にリアル。
しかもSMなんて、おどろおどろしい一部の変質者がすると思われている日陰の存在だった。
ドSとかMっぽいなんて普通にいえるいまとはハードルの高さはまったく違っていたはず。
きっとこの感覚わたしの年齢くらいが最後かもね。もうすこし年下と人からしたらSMはもっとポピュラーな存在になっているかも。
う~ん、どれくらいハードル高いだろう。
たとえば、職場の同僚にいきなり『君のお母さんのうんこを食べさせて』とお願いするくらい?(笑)
SMは認知されていたとしても食糞はまだ少数でしょうし、それをリアルの付き合いのしかも本人ではなくて家族の…きっと那智さんが少年の頃に女性を縛りたいと告白するのはこれくらい勇気のいることだったんじゃないかしら。
(どう?このたとえ、ちょっと気に入ってます^^;)
それとか、いまパソコンや携帯がなく、SMに関する情報や出会いをネット以外で得るとしたらなかなか難しいと思うよね、そんなふうに想像していただくのもいいかもしれない。
いま自分が思い描いていることやSM小説に登場するシーンに似た行為を実現させることを考えて那智少年は途方に暮れた。
彼女にいきなり縛らせてと言ったって驚かれるし、99%嫌われてしまう。
お願いしてやらせてもらうのだろうか。
それだってイヤイヤ付き合ってもらっても何度もお願いしたら嫌がられるはず。
嫌がっていることを無理矢理したら、それは犯罪になってしまうし、そこまでいかなくても関係が破談するのは目に見えている。
どうしたら女性が嫌がらずに変質者扱いされずにSMができるのだろう。
思春期を過ぎある程度大人になっても、まだ30年ほど前の日本ではいまのように手軽に性的嗜好を明かして出会いを求めるネットなんかは普及していない頃。(ツーショットダイヤルとかはギリギリあったかな?)
自分の願望を叶えるためには、やはりリアルに面と向かって見つけるしか方法はなかった。
それでも中学生の頃よりちょっとずつSMがメジャーになってきていたそうで、一般の付き合いの中で女性との会話の中で『SとMだったらどっちだと思う?』とか『SMをするとしたらどんなことが想像できる?』くらいの探りは入れられたそうです。
『どちらかというとMだと思う』
『恥ずかしいのはいいかも?』
なんて、女性側の肯定の言葉を見つけ引き出すことからやっとの思いで最初の一歩をはじめることができたそうだ。
このようにSMが日陰の存在だった少年の頃から考え、ネットのない時代に実際にはじめの一歩を踏み出すために試行錯誤した経験から、那智さんはSMは女性が自ら望み継続して快感を憶えないとできないということに思い至るのです。
仮に『あなたが好きだからいやだけど我慢します』ということがあったとしても、それは『お願いして付き合ってもらう』ことになるので、お願いできる関係性を築かないといけない。
さらに、それを継続させるには我慢して付き合ってもらうだけじゃ女性も途中でイヤになっちゃうだろうから、我慢の先に快感を作るようにしていかないといけなと思うのです。
ようするに、リアルしかない時代に借金の肩に無理矢理とか犯罪なんて特殊な状況以外でSMをするのはすごーーーくハードルが高くて、無理矢理とか苦痛を我慢してなんてあり得なくて、相手ができてからも継続するのも大変だったわけですね。
そこでSM行為は女性が望まないと成立しない、と思い至るのです。
それを知ると、現代社会においてのSMというものの矛盾に突き当たります。
SMは加虐嗜好と被虐嗜好をいいますが、加虐側がどんなに酷いことをしても、酷いことで感じる女にとってそれは喜ばしいことになってしまう。
ということは男は女を喜ばせているのであって、加虐行為にならないわけです。
どんなに酷い行為でも関係が継続しているのは女側に快感はあるわけで。
痛いことや恥ずかしいことで感じる性癖ならもちろんだけど、たとえば『痛いこと』単体ではイヤだとしても、その後のセックスが良くなるとか、行為の後ほめてもらえることがいいとか、全体を見れば女に快感(メリット)あるということになりますよね。
ということは、男が酷いことをしても結果的には女を喜ばせていることになる、加虐嗜好と被虐嗜好の矛盾が存在する。
SMが変質者扱いされるような時代にSMに惹かれて、リアルな出会いしかなくちょっと切実に実現を考えた思春期に那智さんがたどり着いた答えが、SMは矛盾を孕んでいて、ゆえにM側の快感の存在を認めないと実現できないということ。
だから、那智さんはネット上に氾濫している『奴隷に快感はない』とか『奴隷はご主人様の快感のために存在している』というような矛盾を無視する一部の『ご主人様と奴隷』に対して否定的だ。
まず、リアルな出会いしかない時代を経験している那智さんからしたらネットは匿名性を確保できるし、簡単に虚構が作れると思っている。
その中で語られる『奴隷に快感はない、ご主人様の快感のために存在している』という関係も矛盾を無視できる虚構だと思っている。
女性側に快感がないことからスタートにできるのは、『ご主人様と奴隷』という男性目線が作ったお伽噺のフォーマットに乗っ取っているだけだと思っている。
(那智少年のお伽噺は『奴隷の起源』に書いてあります。『何でもいうことをきく奴隷』は那智少年のおかずだったそうです^^)
もちろん『ご主人様と奴隷』だってそれだけじゃない関係だってたくさんあるし、その関係になることで双方幸福を感じている人もいる。
最初は(那智さんから見たら)虚構ではじまったとしても、やはり関係を継続させるには生身の構築が必要になってくるから、結果的に虚構ではない関係もあるはずなので、『ご主人様と奴隷』を否定しているんじゃなくて、女性側の快感を認めないスタートの仕方を疑っているわけです。
ただこの疑いを、ロールプレイだと思えば矛盾しないで考えられる。
加虐と被虐の役割分担の『快感はない』ロールプレイ。
苦痛を与える役割と快感はない役割。
矛盾は矛盾のままだけど、それを自覚して、すきなワールドを展開していく手もある。
(『寿司とマヨネーズ』にも大人の真剣なロールプレイって書いてあったものね)
奴隷制度でもないし、階級制度があるわけでもない現代の日本において、加虐嗜好と被虐嗜好のSM行為は矛盾している。
それを解消するには、被虐側の快楽を認め発展させることを楽しむ。
それを認めないのは虚構。
これが那智さんのSMにおける考え方の基本。
だから那智さんは、わたしを鞭で打つときもビンタをするときも頭を踏みつけるときも『酷い行いで喜ばせよう』というスタンスでしているのだ。
で、おそらくつらいことを我慢させるより、つらいことを快感に変えるようにするほうが難しいし、那智さんは好きなんだと思う。
だって我慢させてるってことは、お願いしてやらせてもらってるってことになるだろ?ということだ^^;
(『命令というお願い』って好きなブロガーさんも書いていたな~)
追記
那智さんは、どちらかというとその矛盾についてより、矛盾を無視する虚構の関係を生んだ仕組みを表したいようです。
今朝の感想を読んでそう感じたので、ちょっとだけ補足^^
35年前那智少年のずりねただった「なんでも言うことをきく奴隷」と似たものが30年前くらいに誰かの願望と共にPC通信あたりを使って広がったのではなかと那智さんは考えています。(おお、俺の昔のずりねたが!!と思ったんだよね^^)
それを見た女性が後を追うように、「ある日突然現れて自分を変える強い存在」のような憧れを持ち、被虐嗜好の有り無し問わず、「ご主人様」という言葉に夢を見た。(この部分はわたしの思考です)
この需要と供給の一致が「ご主人様と奴隷」を生んだのではないでしょうか。
でも、それらはずりねたと夢、矛盾や無理が生じる。
そこに身を置くことに良し悪しはないけど、矛盾の中にいるものであると認識していたほうが辛くならないよね。
人は、空に憧れるけど、人は空を飛べないんだ。
というお話を次エントリーで^^(←宣伝!?)
<関連エントリー>
『アラシのりん子』
今朝の「等式」感想です。
「女性側に快感がないことからスタートにできるのは、『ご主人様と奴隷』という男性目線が作ったお伽噺のフォーマットに乗っ取っているだけだと思っている。」これが始まりで、ある日、男が自分の奴隷ズリネタをPCを使いかなえようとした。そうしたら、そんな男が多数でて来た、次は需要に合う供給(奴隷)が出てきた。虚構から始まった現実の1歩前進で、それがリアルになりフォーマットになってしまった。フォーマットがあればなぞる人がいる、そして、その関係性の完成形も出てきているのかもしれない。
歴史が浅いので、その関係の結末は誰も解らない(当然だけれど)。当然、全て私の想像と空想と思いを混ぜた物です。
これは那智少年がSM的な行為に惹かれた初期のころに思いめぐらし、実際にSMをしたいとちょっぴり切実に行動を起こしてたどり着いたこと。
以後、これは那智さんのSMに対する土台となっている。
注:今日は那智さんから聞いた考えを書くので、基本的にには那智さんの意見ということになりますが、わたしが書くのでどうしても所々わたしの思考も混ざってしまっていると思います。
もし、那智さんの直接の言葉で聞いてみたいことがあれば、コメントやメールにて『那智宛て』とわかるように添えていただければお答えいたしますね。
那智さんのSMの土台、それは
SMは女性の快感に繋げないと成立しないということ、ゆえに矛盾を孕んでいるということと。
まずは、その考えにいたった那智少年のお話。
幼い頃から気がつけばSM的行為に性的興奮を覚えていた那智少年。
ご多分に漏れず、時代劇の拷問や悪代官に帯をくるくる~なシーンではワクワク、借金の肩に無理矢理なんてシチュエーションにうずうず。
恥ずかしがり抵抗する女性が崩れていく姿に『もっとやれ~』と期待して観ていたはずだ。
何度か登場しているけれど、『好きな子に自分のうんこを食べさせたい(それもよろこんで食べる)』と小学生くらいで思っていたことを聞くと、那智さんの嗜好を垣間見ることができる。
時代劇や小説で『イヤがる女性を無理矢理』なんてシーンに興奮していた那智少年ですが、中学生くらいになって、ただの妄想からもう少し具体的に考えるようになる。
将来女性と性的なことをする年齢になったときに、犯罪とか借金の肩になんて小説のような非現実な展開は無理なわけで、じゃあ、一般生活で女性を縛るには、恥ずかしがらせるには、どうしたらいいのだろう。
恋人に縛らせてというのだろうか。
いまから35年近く前のこと。
ネットなんて存在していなくて出会いは常にリアル。
しかもSMなんて、おどろおどろしい一部の変質者がすると思われている日陰の存在だった。
ドSとかMっぽいなんて普通にいえるいまとはハードルの高さはまったく違っていたはず。
きっとこの感覚わたしの年齢くらいが最後かもね。もうすこし年下と人からしたらSMはもっとポピュラーな存在になっているかも。
う~ん、どれくらいハードル高いだろう。
たとえば、職場の同僚にいきなり『君のお母さんのうんこを食べさせて』とお願いするくらい?(笑)
SMは認知されていたとしても食糞はまだ少数でしょうし、それをリアルの付き合いのしかも本人ではなくて家族の…きっと那智さんが少年の頃に女性を縛りたいと告白するのはこれくらい勇気のいることだったんじゃないかしら。
(どう?このたとえ、ちょっと気に入ってます^^;)
それとか、いまパソコンや携帯がなく、SMに関する情報や出会いをネット以外で得るとしたらなかなか難しいと思うよね、そんなふうに想像していただくのもいいかもしれない。
いま自分が思い描いていることやSM小説に登場するシーンに似た行為を実現させることを考えて那智少年は途方に暮れた。
彼女にいきなり縛らせてと言ったって驚かれるし、99%嫌われてしまう。
お願いしてやらせてもらうのだろうか。
それだってイヤイヤ付き合ってもらっても何度もお願いしたら嫌がられるはず。
嫌がっていることを無理矢理したら、それは犯罪になってしまうし、そこまでいかなくても関係が破談するのは目に見えている。
どうしたら女性が嫌がらずに変質者扱いされずにSMができるのだろう。
思春期を過ぎある程度大人になっても、まだ30年ほど前の日本ではいまのように手軽に性的嗜好を明かして出会いを求めるネットなんかは普及していない頃。(ツーショットダイヤルとかはギリギリあったかな?)
自分の願望を叶えるためには、やはりリアルに面と向かって見つけるしか方法はなかった。
それでも中学生の頃よりちょっとずつSMがメジャーになってきていたそうで、一般の付き合いの中で女性との会話の中で『SとMだったらどっちだと思う?』とか『SMをするとしたらどんなことが想像できる?』くらいの探りは入れられたそうです。
『どちらかというとMだと思う』
『恥ずかしいのはいいかも?』
なんて、女性側の肯定の言葉を見つけ引き出すことからやっとの思いで最初の一歩をはじめることができたそうだ。
このようにSMが日陰の存在だった少年の頃から考え、ネットのない時代に実際にはじめの一歩を踏み出すために試行錯誤した経験から、那智さんはSMは女性が自ら望み継続して快感を憶えないとできないということに思い至るのです。
仮に『あなたが好きだからいやだけど我慢します』ということがあったとしても、それは『お願いして付き合ってもらう』ことになるので、お願いできる関係性を築かないといけない。
さらに、それを継続させるには我慢して付き合ってもらうだけじゃ女性も途中でイヤになっちゃうだろうから、我慢の先に快感を作るようにしていかないといけなと思うのです。
ようするに、リアルしかない時代に借金の肩に無理矢理とか犯罪なんて特殊な状況以外でSMをするのはすごーーーくハードルが高くて、無理矢理とか苦痛を我慢してなんてあり得なくて、相手ができてからも継続するのも大変だったわけですね。
そこでSM行為は女性が望まないと成立しない、と思い至るのです。
それを知ると、現代社会においてのSMというものの矛盾に突き当たります。
SMは加虐嗜好と被虐嗜好をいいますが、加虐側がどんなに酷いことをしても、酷いことで感じる女にとってそれは喜ばしいことになってしまう。
ということは男は女を喜ばせているのであって、加虐行為にならないわけです。
どんなに酷い行為でも関係が継続しているのは女側に快感はあるわけで。
痛いことや恥ずかしいことで感じる性癖ならもちろんだけど、たとえば『痛いこと』単体ではイヤだとしても、その後のセックスが良くなるとか、行為の後ほめてもらえることがいいとか、全体を見れば女に快感(メリット)あるということになりますよね。
ということは、男が酷いことをしても結果的には女を喜ばせていることになる、加虐嗜好と被虐嗜好の矛盾が存在する。
SMが変質者扱いされるような時代にSMに惹かれて、リアルな出会いしかなくちょっと切実に実現を考えた思春期に那智さんがたどり着いた答えが、SMは矛盾を孕んでいて、ゆえにM側の快感の存在を認めないと実現できないということ。
だから、那智さんはネット上に氾濫している『奴隷に快感はない』とか『奴隷はご主人様の快感のために存在している』というような矛盾を無視する一部の『ご主人様と奴隷』に対して否定的だ。
まず、リアルな出会いしかない時代を経験している那智さんからしたらネットは匿名性を確保できるし、簡単に虚構が作れると思っている。
その中で語られる『奴隷に快感はない、ご主人様の快感のために存在している』という関係も矛盾を無視できる虚構だと思っている。
女性側に快感がないことからスタートにできるのは、『ご主人様と奴隷』という男性目線が作ったお伽噺のフォーマットに乗っ取っているだけだと思っている。
(那智少年のお伽噺は『奴隷の起源』に書いてあります。『何でもいうことをきく奴隷』は那智少年のおかずだったそうです^^)
もちろん『ご主人様と奴隷』だってそれだけじゃない関係だってたくさんあるし、その関係になることで双方幸福を感じている人もいる。
最初は(那智さんから見たら)虚構ではじまったとしても、やはり関係を継続させるには生身の構築が必要になってくるから、結果的に虚構ではない関係もあるはずなので、『ご主人様と奴隷』を否定しているんじゃなくて、女性側の快感を認めないスタートの仕方を疑っているわけです。
ただこの疑いを、ロールプレイだと思えば矛盾しないで考えられる。
加虐と被虐の役割分担の『快感はない』ロールプレイ。
苦痛を与える役割と快感はない役割。
矛盾は矛盾のままだけど、それを自覚して、すきなワールドを展開していく手もある。
(『寿司とマヨネーズ』にも大人の真剣なロールプレイって書いてあったものね)
奴隷制度でもないし、階級制度があるわけでもない現代の日本において、加虐嗜好と被虐嗜好のSM行為は矛盾している。
それを解消するには、被虐側の快楽を認め発展させることを楽しむ。
それを認めないのは虚構。
これが那智さんのSMにおける考え方の基本。
だから那智さんは、わたしを鞭で打つときもビンタをするときも頭を踏みつけるときも『酷い行いで喜ばせよう』というスタンスでしているのだ。
で、おそらくつらいことを我慢させるより、つらいことを快感に変えるようにするほうが難しいし、那智さんは好きなんだと思う。
だって我慢させてるってことは、お願いしてやらせてもらってるってことになるだろ?ということだ^^;
(『命令というお願い』って好きなブロガーさんも書いていたな~)
追記
那智さんは、どちらかというとその矛盾についてより、矛盾を無視する虚構の関係を生んだ仕組みを表したいようです。
今朝の感想を読んでそう感じたので、ちょっとだけ補足^^
35年前那智少年のずりねただった「なんでも言うことをきく奴隷」と似たものが30年前くらいに誰かの願望と共にPC通信あたりを使って広がったのではなかと那智さんは考えています。(おお、俺の昔のずりねたが!!と思ったんだよね^^)
それを見た女性が後を追うように、「ある日突然現れて自分を変える強い存在」のような憧れを持ち、被虐嗜好の有り無し問わず、「ご主人様」という言葉に夢を見た。(この部分はわたしの思考です)
この需要と供給の一致が「ご主人様と奴隷」を生んだのではないでしょうか。
でも、それらはずりねたと夢、矛盾や無理が生じる。
そこに身を置くことに良し悪しはないけど、矛盾の中にいるものであると認識していたほうが辛くならないよね。
人は、空に憧れるけど、人は空を飛べないんだ。
というお話を次エントリーで^^(←宣伝!?)
<関連エントリー>
『アラシのりん子』
今朝の「等式」感想です。
「女性側に快感がないことからスタートにできるのは、『ご主人様と奴隷』という男性目線が作ったお伽噺のフォーマットに乗っ取っているだけだと思っている。」これが始まりで、ある日、男が自分の奴隷ズリネタをPCを使いかなえようとした。そうしたら、そんな男が多数でて来た、次は需要に合う供給(奴隷)が出てきた。虚構から始まった現実の1歩前進で、それがリアルになりフォーマットになってしまった。フォーマットがあればなぞる人がいる、そして、その関係性の完成形も出てきているのかもしれない。
歴史が浅いので、その関係の結末は誰も解らない(当然だけれど)。当然、全て私の想像と空想と思いを混ぜた物です。
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COMMENT
空を飛べないから飛べるものを作り出したんだ♪
うまく言えませんが
安全第一、健康第一 です。
肉体面も精神面も。。。
あ、SとMって(主従とか御主人様と奴隷とか言葉の意味合いの違いはさて置き)、主導権はM側が本当は握っている、って時々感じます。
受動的に見えるけど実は能動的なM・・・ちょっと楽しい とか思っちゃう。
相互依存に近いのかなぁ・・。
( ゚д゚)ハッ!
またエントリに添えてない回答になってしまった・・・orz
うまく言えませんが
安全第一、健康第一 です。
肉体面も精神面も。。。
あ、SとMって(主従とか御主人様と奴隷とか言葉の意味合いの違いはさて置き)、主導権はM側が本当は握っている、って時々感じます。
受動的に見えるけど実は能動的なM・・・ちょっと楽しい とか思っちゃう。
相互依存に近いのかなぁ・・。
( ゚д゚)ハッ!
またエントリに添えてない回答になってしまった・・・orz
河の対岸にいて
同じ流れを見ている。
流れそのものに感情移入する性と
流れのカタチや乗せて流れゆくものを楽しむ性と
両方があって
でもひとつの流れを見ている。
被虐と可虐にはそんなイメージを持っています。
御主人様って支配者だから
善政を敷く場合も
悪政の場合もある。
それはもう
相性もあるんでしょうが
例えば犬を飼うのでも
保有の責任はつきまとう。
ましてや、人。
みゅーの御主人様みたいに
責任という言葉の意味をわかってる御主人様ばかりだと
いいのになあと思います。
(のろけ)
そのうえで
支配・被支配というか
主従の形をとった方が
とりやすいコミュニケーションがあると思っています。
「ご命令」によってあばかれる
本当の願望、とでもいうのかしら。
平等でないことの居心地良さ。
同じ流れを見ている。
流れそのものに感情移入する性と
流れのカタチや乗せて流れゆくものを楽しむ性と
両方があって
でもひとつの流れを見ている。
被虐と可虐にはそんなイメージを持っています。
御主人様って支配者だから
善政を敷く場合も
悪政の場合もある。
それはもう
相性もあるんでしょうが
例えば犬を飼うのでも
保有の責任はつきまとう。
ましてや、人。
みゅーの御主人様みたいに
責任という言葉の意味をわかってる御主人様ばかりだと
いいのになあと思います。
(のろけ)
そのうえで
支配・被支配というか
主従の形をとった方が
とりやすいコミュニケーションがあると思っています。
「ご命令」によってあばかれる
本当の願望、とでもいうのかしら。
平等でないことの居心地良さ。
主導権ね〜。
わたしもね、ツーショットダイヤルで旅をしていたとき『何がしたいというよりあなたのよいようにしていたいです』というのが常套句だったんだけど(これには男はイチコロよ。すばらしいMだって)、でも、心の中で『そうはいってもSはMがいい反応(拒否とか恥ずかしがるとか)をすることをしてくれるだろうから、結局こちらのしてほしいことをしてくれるはず』って思っていたんだよね。
だって、わたしは恥ずかしがりたいんだし、困って拒否したいんだものね^^
この時点では、わたしが主導権握っていると思っていたなぁ。
これは那智さんの理論に当てはまると思うのだけど、拒否や恥ずかしがるをM側が望んでいるとわかっていてやってあげていると、それはS側が主導権を握ることになるよね。
じつは『やってあげている』もしくは『やっていることを喜んでいるとわかっている』というほうが主導権を握っているのかもしれないね^^
エントリーに添えていると思うけど、そんで、それ以上に核心突いちゃうレスが生まれて、楽しいです♪
わたしもね、ツーショットダイヤルで旅をしていたとき『何がしたいというよりあなたのよいようにしていたいです』というのが常套句だったんだけど(これには男はイチコロよ。すばらしいMだって)、でも、心の中で『そうはいってもSはMがいい反応(拒否とか恥ずかしがるとか)をすることをしてくれるだろうから、結局こちらのしてほしいことをしてくれるはず』って思っていたんだよね。
だって、わたしは恥ずかしがりたいんだし、困って拒否したいんだものね^^
この時点では、わたしが主導権握っていると思っていたなぁ。
これは那智さんの理論に当てはまると思うのだけど、拒否や恥ずかしがるをM側が望んでいるとわかっていてやってあげていると、それはS側が主導権を握ることになるよね。
じつは『やってあげている』もしくは『やっていることを喜んでいるとわかっている』というほうが主導権を握っているのかもしれないね^^
エントリーに添えていると思うけど、そんで、それ以上に核心突いちゃうレスが生まれて、楽しいです♪
なるほど。
みゅーさんのたとえは、抽象的なことをわかりやすく描写してくれます^^
その河の流れを眺めている双方に優劣はないと思うのです、同じ河を眺めているのだからね。
優劣がない中での不平等。
不平等は下の立場が望んではじめて幸福に成り立つし、上の立場の格好がつくと思います。
みゅーさんにとって奴隷であることやご命令をいただくことが幸福に快感に繋がるのだから、それは幸せな不平等ですよね。
なんとなく、下の立場が望む不平等ができていないように見えるところが多いような気がするから、みゅーさんをモデルケース(1)にしてほしいです(いちおう他にもモデルケースあるかもしれないから、(!)で^^)
みゅーさんのたとえは、抽象的なことをわかりやすく描写してくれます^^
その河の流れを眺めている双方に優劣はないと思うのです、同じ河を眺めているのだからね。
優劣がない中での不平等。
不平等は下の立場が望んではじめて幸福に成り立つし、上の立場の格好がつくと思います。
みゅーさんにとって奴隷であることやご命令をいただくことが幸福に快感に繋がるのだから、それは幸せな不平等ですよね。
なんとなく、下の立場が望む不平等ができていないように見えるところが多いような気がするから、みゅーさんをモデルケース(1)にしてほしいです(いちおう他にもモデルケースあるかもしれないから、(!)で^^)