Oの物語
りん子的独り言(生意気)
読書感想文は不得意(笑)
上手にまとめられるかな。とりあえず、パソコンに向かってみる。
お友達から『完訳 Oの物語』をお借りして読んだ。
SMの世界では『Oの物語』の世界を理想としている人は多いと思う。
序文の『奴隷状態における幸福』なんてタイトルにうっとりするような感覚を持った人も少なくないだろう。
わたしもそのひとりだった。
鞭や焼き印、鞭、鉄の輪。
Oには選択の自由はなく(その立場を選ぶ選択はある)、求められるままに体を差し出す、いとしい男性や顔もわからぬ男性たちに。
そんなストーリーに自分を重ねソワソワしたものだ。
でも、なぜか、わたしのまわりで目にする『Oの物語』を理想とする人の言葉や、『奴隷』という状態から受ける印象が、わたしの心を掴んでソワソワさせたものとは違う気がして、なんだかずっと落ち着かない気持ちだった。
今回、ひさしぶりに読み直してみて、その違和感がわたしなりにわかった気がする。
完訳版の結末はネタばれになってしまうから、それ以前澁澤龍彦訳などで書かれている『梟』まで読んで感じたことを書きます。(というか、結末を含めちゃうとわたしの言いたいことの筋が通らなくなっちゃうし^^;)
わたしは外国人の知り合いはいないしヨーロッパへ旅行したこともないし、フランスの歴史や文化にまったくうといので『Oの物語』を当時のフランスの文化と言っていいのか自信ないけど、このエントリーに関してはそう言わせていただきます。
なぜなら、まず、これは『Oの物語』に限ってのことなのか、それともそういう文化や、ううん、そもそも人間というものがそうなのかわからないのだけど、とにかく『Oの物語』の中では愛と性がほとんどイコールとして書かれています。
そこに違和感の正体があるからです。
愛しているは欲情として表現されるし、欲情は愛しているというささやきに書かれている。
『いつでもあなたに体を開く』が愛している証しになるし、『わたしの体を使いたい』で愛されていると感じる。
相手を理解するために話し合うとかキレイな景色を一緒に見て愛情の交流をするみたいな、想像しがちな『愛』ではなくて、愛と性が密接に、ほぼ同じようなものとして描かれている。
(たしかに、まさしくエロス^^)
特にSMの世界を描いているのだから当然といえば当然なのかもしれないけど、愛=性というならば、じつはOはめちゃくちゃ愛されているのだ。
恋人のルネやその後の所有者のスティーブン卿はOに欲情し、Oを自分の好きなように叩くし抱くし、他の男と共有する。
この女は自分のものだとすることでOに欲情し、充分すぎるほど愛しているのだ。
ロワシーでは(覆面していて)誰かもわからないまま他の男に抱かれ鞭を打たれるけれど、美しい衣装をまとい入浴を手伝ってもらったりもしていて、ある意味大切に扱われている。
けして、ルネやスティーブン卿にとってOは最下層でもないし、家畜でもないし、人格無視でもない。
Oは欲情(愛)され、尊重されていて、まったく蔑まれてもいない。
(SMとは無縁の人からの蔑みはあるけど)
愛=性のために受け入れやすい状態に体を変えることはしているけど、それはご主人様の喜びが奴隷の喜びの献身でもなんでもない。
だって、O自身も欲情するし、それらの行為で感じているのだから。
読んでいるうちに、いままでわたしの感じていたモヤモヤがわかってきた気がする。
わたしの周辺で『Oの物語』の世界に憧れているS男性の多くは、いつでも体を開くOや覆面をして好きに鞭を打つ男性たちに対して女を意思のない道具、無機質なものを思い描いているのかなって思った。
だけど、わたしが感じたOへの扱いは、とても大切にされているし愛されているもので、そこには充分女を感情のあるものだと感じさせるものだった。
『Oの物語』の世界に憧れているS男性たちは女に感情を持たせない世界と解釈して、わたし(女)は女に充分感情があり、その中での被虐行為や被所有感に憧れを抱いていたんだよね。
だってさ、キレイに着飾って食事も用意されていて個室もあって、きっと掃除も洗濯もしないでいいんだよ、男たちにお酒を出して、あとは被虐的なセックスができるのだよ、愛する男の意思のもとに、ね、ロワシー、ステキ!!って思うもの^^
SMや主従の関係で『Oの物語』を思い描いている男女がいたとするなら、もしかしたら、同じものを読みながら、違う世界を思い描いてしまっているのではないだろうか。
S(男)は感情のない人ではない道具としてM(女、奴隷)を扱い、M(女、奴隷)はすごく欲情されて愛されて『俺の物』扱いされることを描いている。
このギャップは、ときどき目にするご主人様と奴隷さんの食い違いと同じような構図に見える。
『調教の定義』でも書いたけど、人は自分の都合のよい解釈をするもの。
同じ本を読んでもぜんぜん違うように解釈するし、同じ言葉を使っても捉え方は様々だ。
『奴隷』や『主従』なんていうのも、そのひとつだろう。
ううん、そんなこと言ったらわたしたちが使っている言葉全部そうだよね、『愛』だって『優しさ』だって『友情』だって、なんでも辞書の文字だけでは描かれない、個々の解釈があるはずだ。
厳しくてもアドバイスすることが優しさだと思う人もいれば、そっと見守ることがそうだと思っている人もいるように。
だとしたら、『oの物語』の解釈なんて人によって違うことは当然あり得る。
『奴隷』や『主従』も自分に都合よく解釈していることだってあり得る。
特に、多くの女性は性的な場面でもの申せない風潮はあるし、そもそも奴隷さんは最初から弱い立場に置かれるのだからご主人様が如何ようにも好きに立ち位置を作れるわけで、強く意識しないと男性(S)側の解釈が関係の主流になりかねない。
それならばせめてパートナーとは可能な限り近い解釈をしていたいよね。
そうすれば、よりよい関係を継続させることができると思うのです。
同じものを見ても、それぞれ思い描くものは違う。
その違いが、わたしの感じたモヤモヤだったのだと思うのです。
ところで、M(女、奴隷)を愛さずに人格無視の道具として扱っているとしたら、ロワシーに訪れる『覆面をしたその他大勢の男たち』は、そう言えるだろう。
『Oの物語』に憧れている男性はこの名もなきその他大勢になれば憧れは叶うのかもしれない。
スティーブン卿ではない、その他大勢。
やっぱり女に人格を求めないならその男性はこちら側から見たらじつは顔のないその他大勢になっているかもしれないね^^
<関連エントリー>
『O』
『鞭』
「等式」感想です。この話は昔、映画をさらっと見ただけで、本は読んでいないし、あまり興味がないよ。エントリーの同一の物を見ても角度によって異なる実態はその通りだね。りん子、解説してね、もう1回感想書くかも。
読書感想文は不得意(笑)
上手にまとめられるかな。とりあえず、パソコンに向かってみる。
お友達から『完訳 Oの物語』をお借りして読んだ。
SMの世界では『Oの物語』の世界を理想としている人は多いと思う。
序文の『奴隷状態における幸福』なんてタイトルにうっとりするような感覚を持った人も少なくないだろう。
わたしもそのひとりだった。
鞭や焼き印、鞭、鉄の輪。
Oには選択の自由はなく(その立場を選ぶ選択はある)、求められるままに体を差し出す、いとしい男性や顔もわからぬ男性たちに。
そんなストーリーに自分を重ねソワソワしたものだ。
でも、なぜか、わたしのまわりで目にする『Oの物語』を理想とする人の言葉や、『奴隷』という状態から受ける印象が、わたしの心を掴んでソワソワさせたものとは違う気がして、なんだかずっと落ち着かない気持ちだった。
今回、ひさしぶりに読み直してみて、その違和感がわたしなりにわかった気がする。
完訳版の結末はネタばれになってしまうから、それ以前澁澤龍彦訳などで書かれている『梟』まで読んで感じたことを書きます。(というか、結末を含めちゃうとわたしの言いたいことの筋が通らなくなっちゃうし^^;)
わたしは外国人の知り合いはいないしヨーロッパへ旅行したこともないし、フランスの歴史や文化にまったくうといので『Oの物語』を当時のフランスの文化と言っていいのか自信ないけど、このエントリーに関してはそう言わせていただきます。
なぜなら、まず、これは『Oの物語』に限ってのことなのか、それともそういう文化や、ううん、そもそも人間というものがそうなのかわからないのだけど、とにかく『Oの物語』の中では愛と性がほとんどイコールとして書かれています。
そこに違和感の正体があるからです。
愛しているは欲情として表現されるし、欲情は愛しているというささやきに書かれている。
『いつでもあなたに体を開く』が愛している証しになるし、『わたしの体を使いたい』で愛されていると感じる。
相手を理解するために話し合うとかキレイな景色を一緒に見て愛情の交流をするみたいな、想像しがちな『愛』ではなくて、愛と性が密接に、ほぼ同じようなものとして描かれている。
(たしかに、まさしくエロス^^)
特にSMの世界を描いているのだから当然といえば当然なのかもしれないけど、愛=性というならば、じつはOはめちゃくちゃ愛されているのだ。
恋人のルネやその後の所有者のスティーブン卿はOに欲情し、Oを自分の好きなように叩くし抱くし、他の男と共有する。
この女は自分のものだとすることでOに欲情し、充分すぎるほど愛しているのだ。
ロワシーでは(覆面していて)誰かもわからないまま他の男に抱かれ鞭を打たれるけれど、美しい衣装をまとい入浴を手伝ってもらったりもしていて、ある意味大切に扱われている。
けして、ルネやスティーブン卿にとってOは最下層でもないし、家畜でもないし、人格無視でもない。
Oは欲情(愛)され、尊重されていて、まったく蔑まれてもいない。
(SMとは無縁の人からの蔑みはあるけど)
愛=性のために受け入れやすい状態に体を変えることはしているけど、それはご主人様の喜びが奴隷の喜びの献身でもなんでもない。
だって、O自身も欲情するし、それらの行為で感じているのだから。
読んでいるうちに、いままでわたしの感じていたモヤモヤがわかってきた気がする。
わたしの周辺で『Oの物語』の世界に憧れているS男性の多くは、いつでも体を開くOや覆面をして好きに鞭を打つ男性たちに対して女を意思のない道具、無機質なものを思い描いているのかなって思った。
だけど、わたしが感じたOへの扱いは、とても大切にされているし愛されているもので、そこには充分女を感情のあるものだと感じさせるものだった。
『Oの物語』の世界に憧れているS男性たちは女に感情を持たせない世界と解釈して、わたし(女)は女に充分感情があり、その中での被虐行為や被所有感に憧れを抱いていたんだよね。
だってさ、キレイに着飾って食事も用意されていて個室もあって、きっと掃除も洗濯もしないでいいんだよ、男たちにお酒を出して、あとは被虐的なセックスができるのだよ、愛する男の意思のもとに、ね、ロワシー、ステキ!!って思うもの^^
SMや主従の関係で『Oの物語』を思い描いている男女がいたとするなら、もしかしたら、同じものを読みながら、違う世界を思い描いてしまっているのではないだろうか。
S(男)は感情のない人ではない道具としてM(女、奴隷)を扱い、M(女、奴隷)はすごく欲情されて愛されて『俺の物』扱いされることを描いている。
このギャップは、ときどき目にするご主人様と奴隷さんの食い違いと同じような構図に見える。
『調教の定義』でも書いたけど、人は自分の都合のよい解釈をするもの。
同じ本を読んでもぜんぜん違うように解釈するし、同じ言葉を使っても捉え方は様々だ。
『奴隷』や『主従』なんていうのも、そのひとつだろう。
ううん、そんなこと言ったらわたしたちが使っている言葉全部そうだよね、『愛』だって『優しさ』だって『友情』だって、なんでも辞書の文字だけでは描かれない、個々の解釈があるはずだ。
厳しくてもアドバイスすることが優しさだと思う人もいれば、そっと見守ることがそうだと思っている人もいるように。
だとしたら、『oの物語』の解釈なんて人によって違うことは当然あり得る。
『奴隷』や『主従』も自分に都合よく解釈していることだってあり得る。
特に、多くの女性は性的な場面でもの申せない風潮はあるし、そもそも奴隷さんは最初から弱い立場に置かれるのだからご主人様が如何ようにも好きに立ち位置を作れるわけで、強く意識しないと男性(S)側の解釈が関係の主流になりかねない。
それならばせめてパートナーとは可能な限り近い解釈をしていたいよね。
そうすれば、よりよい関係を継続させることができると思うのです。
同じものを見ても、それぞれ思い描くものは違う。
その違いが、わたしの感じたモヤモヤだったのだと思うのです。
ところで、M(女、奴隷)を愛さずに人格無視の道具として扱っているとしたら、ロワシーに訪れる『覆面をしたその他大勢の男たち』は、そう言えるだろう。
『Oの物語』に憧れている男性はこの名もなきその他大勢になれば憧れは叶うのかもしれない。
スティーブン卿ではない、その他大勢。
やっぱり女に人格を求めないならその男性はこちら側から見たらじつは顔のないその他大勢になっているかもしれないね^^
<関連エントリー>
『O』
『鞭』
「等式」感想です。この話は昔、映画をさらっと見ただけで、本は読んでいないし、あまり興味がないよ。エントリーの同一の物を見ても角度によって異なる実態はその通りだね。りん子、解説してね、もう1回感想書くかも。
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