緊急エントリー『伝染しますように』
独り言
う〜ん、どうも、最近のわたしはどんどんプチ那智さん化が進んでいるような気がする。
震災から今日で一年。
あの日、わたしは被災地から離れた場所で同じ揺れを体験した。
揺れの大きさ、被害の規模、その後も続く絶望や困難、どれも比較にならないほどの小規模であるけれど。
個人レベルではない『混乱』の渦中にいる経験をした。
あれから一年。
わたしは何もしていない。
すこしの募金と東北の日本酒をいただくことと、忘れないようにしようと思うことしかしていない。
テレビも新聞も個人的な発信も、今日はたくさんのメッセージを表明するだろう。
みんながしていることをすることにすこし抵抗を感じてしまうのは、何もしていないわたしが発言してしまう恥ずかしさか、まったくもう、それとも『人がしていないことに価値を見いだす』那智さん化しているから?
だから、今日もわたしは何もしないで、わたしのできることをしよう。
今日も、わたしは幸せなカップルと祝福に集まった人たちに、最高の笑顔で「おめでとうございます」と言おう。
笑顔はきっと伝染する。
ずっとずっと伝染して、遠くまで届いてくださいという気持ちをいつもよりちょっと上乗せして。
いってきます^^
う〜ん、どうも、最近のわたしはどんどんプチ那智さん化が進んでいるような気がする。
震災から今日で一年。
あの日、わたしは被災地から離れた場所で同じ揺れを体験した。
揺れの大きさ、被害の規模、その後も続く絶望や困難、どれも比較にならないほどの小規模であるけれど。
個人レベルではない『混乱』の渦中にいる経験をした。
あれから一年。
わたしは何もしていない。
すこしの募金と東北の日本酒をいただくことと、忘れないようにしようと思うことしかしていない。
テレビも新聞も個人的な発信も、今日はたくさんのメッセージを表明するだろう。
みんながしていることをすることにすこし抵抗を感じてしまうのは、何もしていないわたしが発言してしまう恥ずかしさか、まったくもう、それとも『人がしていないことに価値を見いだす』那智さん化しているから?
だから、今日もわたしは何もしないで、わたしのできることをしよう。
今日も、わたしは幸せなカップルと祝福に集まった人たちに、最高の笑顔で「おめでとうございます」と言おう。
笑顔はきっと伝染する。
ずっとずっと伝染して、遠くまで届いてくださいという気持ちをいつもよりちょっと上乗せして。
いってきます^^
小旅行覚え書き4
独特な幸福感
翌日はお昼にちょっと趣のあるお食事処へ。
広い敷地に庭園があり食事は離れの個室で、炭火で魚介や地鶏などを焼いていただくのだ。
そこにわたしは浴衣を着ていくことにした。
チェックアウトと食事の時間を見計らって、まだそれほど慣れていない着付けをはじめる。
鶴の恩返しよろしく『見ないでくださいね』と洗面所にこもる。
大きな鏡を前に奮闘をはじめると、ドアの隙間から那智さんがこっそり覗いている。
那智さん!!何を!!
着付けるところを見せるのはどうかと思って洗面所にこもっていますけど、あの、えっと、あなたはわたしの体を遠慮なく見ることができる人物なのですよ。
好きにひっくり返して、ひん剥いて、こねくり回してよい、唯一の人物なのですよ。
見たければ、なんら遠慮なく、バーンとドアを開け放ってご覧になればよろしいのに。
何もそんなこそこそ覗いたりせず。
那智さん、何をそんなところから!!
見たければ、お見せしますよ?あんまり美しく着付けする自信ないけど^^;
いや、こっそり覗くからいいんだよ〜、これが男の夢ってヤツだからさ(笑)
なんでしょ。
見ちゃいけないものをこっそり見る、禁断の果実?
はたまた、見えそうで見えないパンチラ的魅力?
とにかく那智さんの男の夢というのは、そういうものらしい^^;
那智さんの男の夢も満足していただいて、お昼をいただきに〜。
たしかに、庭園を囲むように個室があって、とても風情がある。
外はうだるような暑さ、個室は冷房をきかせて炭火焼きという、なんとも非効率で贅沢な空間だ。
ビールでのどを潤し、ひと通り注文した料理も運んでもらって、あとは焼くだけ。
ここで、わたしたちはある『いけない』計画を実行する。
このお食事処は、たしかに贅沢な作りだからそれも含めたお値段なんだけど、その分、何もかも高い!!(笑)
那智さんは、こういう『足下見られているよな』という値段設定に対して、ちょっと抵抗するところがありまして^^;
わたしたちには一昨日から飲み食いした諸々があるじゃないか!!
じゃあ、すこし食材を残しておいて、ここで一緒にいただいちゃえ〜!!ということなのだ。
うう、ステーキ残しましたし、ワインも焼酎もあります。
本来のわたしは、そういう『いけない』ことは大反対するのだけど、ああ、那智さんの企画に乗っかると楽しいという経験の積み重ねで、この計画さえも受け入れ楽しんでしまっている。
野菜や地鶏に混じって、一昨日のステーキ、うう、おいしい。
ステーキにはやっぱり赤ワインだよね、とりあえず一杯目はちゃんと頼んで、空いたら注ぎ足し、ああ、ごめんなさい!!
ごめんなさいと思いつつ、『いけない』ことを那智さんとしている共犯気分も、また嬉しかったりする。
ビールと日本酒とワイン一杯ずつのはずなのに、ふたりしてずいぶん酔っぱらってしまった^^;(ごめんなさい!!)
さて、そろそろ小旅行もおしまい。
ホテルのあったターミナルに戻ってきて、ここでお別れ。
那智さんとわたしは違う電車に乗る。
大酔っぱらいのふたり。
コインロッカーに預けた荷物を那智さんが取り出してくれている。
なんでかな、ただ荷物を取り出してくれているというだけなのに、そこから感じられる空気がやさしい。
涙が溢れてきた。
那智さん、たのしかったです;;
とってもたのしかったです;;
荷物を取り出して、帰り支度を整えてくれている那智さんの横でわたしはただ泣いている。
はいはい、ちゃんと準備しろよ〜(笑)
那智さんは、一緒に過ごす人と『楽しい時間を過ごそう』と思い、それを実行してくれる達人だ。
誰も入っていない小川で水遊びをすることも、ホテルの廊下で妄想を叶えるのも、『いけない』計画も、どれも『りん子と楽しく過ごそう』としてくれると素直に思えて、それに乗っかれる。
酔っているから余計に感情的になっているのだろうか、委ねる安心感を三日間ずっと感じていられた嬉しさに、涙が溢れていた。
さっきまでわたしより酔っぱらっていたはずなのに、最後はホームまで来てくれて見送ってくれた。
那智さんはわたしにいろいろなものを見せてくれて、いろいろなところに連れて行ってくれる、やっぱりわたしのファルコン^^(ネバーエンディングストーリーのね)
そうそう、か○やのカツ丼もおいしいと世界を広げてもらいました^^
お肉もお酒も残さず、おいしくいただきました。
今朝の「等式」感想です。
覗きとは見られている相手が見られていると意識していない姿を見ること。その警戒していない姿を見るから楽しい、そこから発展し連想したことを言うとりん子に怒られそうなので止めておきます。我々、二人のバーベキュー好きは、全部持ち込みだからかな?(笑)
翌日はお昼にちょっと趣のあるお食事処へ。
広い敷地に庭園があり食事は離れの個室で、炭火で魚介や地鶏などを焼いていただくのだ。
そこにわたしは浴衣を着ていくことにした。
チェックアウトと食事の時間を見計らって、まだそれほど慣れていない着付けをはじめる。
鶴の恩返しよろしく『見ないでくださいね』と洗面所にこもる。
大きな鏡を前に奮闘をはじめると、ドアの隙間から那智さんがこっそり覗いている。
那智さん!!何を!!
着付けるところを見せるのはどうかと思って洗面所にこもっていますけど、あの、えっと、あなたはわたしの体を遠慮なく見ることができる人物なのですよ。
好きにひっくり返して、ひん剥いて、こねくり回してよい、唯一の人物なのですよ。
見たければ、なんら遠慮なく、バーンとドアを開け放ってご覧になればよろしいのに。
何もそんなこそこそ覗いたりせず。
那智さん、何をそんなところから!!
見たければ、お見せしますよ?あんまり美しく着付けする自信ないけど^^;
いや、こっそり覗くからいいんだよ〜、これが男の夢ってヤツだからさ(笑)
なんでしょ。
見ちゃいけないものをこっそり見る、禁断の果実?
はたまた、見えそうで見えないパンチラ的魅力?
とにかく那智さんの男の夢というのは、そういうものらしい^^;
那智さんの男の夢も満足していただいて、お昼をいただきに〜。
たしかに、庭園を囲むように個室があって、とても風情がある。
外はうだるような暑さ、個室は冷房をきかせて炭火焼きという、なんとも非効率で贅沢な空間だ。
ビールでのどを潤し、ひと通り注文した料理も運んでもらって、あとは焼くだけ。
ここで、わたしたちはある『いけない』計画を実行する。
このお食事処は、たしかに贅沢な作りだからそれも含めたお値段なんだけど、その分、何もかも高い!!(笑)
那智さんは、こういう『足下見られているよな』という値段設定に対して、ちょっと抵抗するところがありまして^^;
わたしたちには一昨日から飲み食いした諸々があるじゃないか!!
じゃあ、すこし食材を残しておいて、ここで一緒にいただいちゃえ〜!!ということなのだ。
うう、ステーキ残しましたし、ワインも焼酎もあります。
本来のわたしは、そういう『いけない』ことは大反対するのだけど、ああ、那智さんの企画に乗っかると楽しいという経験の積み重ねで、この計画さえも受け入れ楽しんでしまっている。
野菜や地鶏に混じって、一昨日のステーキ、うう、おいしい。
ステーキにはやっぱり赤ワインだよね、とりあえず一杯目はちゃんと頼んで、空いたら注ぎ足し、ああ、ごめんなさい!!
ごめんなさいと思いつつ、『いけない』ことを那智さんとしている共犯気分も、また嬉しかったりする。
ビールと日本酒とワイン一杯ずつのはずなのに、ふたりしてずいぶん酔っぱらってしまった^^;(ごめんなさい!!)
さて、そろそろ小旅行もおしまい。
ホテルのあったターミナルに戻ってきて、ここでお別れ。
那智さんとわたしは違う電車に乗る。
大酔っぱらいのふたり。
コインロッカーに預けた荷物を那智さんが取り出してくれている。
なんでかな、ただ荷物を取り出してくれているというだけなのに、そこから感じられる空気がやさしい。
涙が溢れてきた。
那智さん、たのしかったです;;
とってもたのしかったです;;
荷物を取り出して、帰り支度を整えてくれている那智さんの横でわたしはただ泣いている。
はいはい、ちゃんと準備しろよ〜(笑)
那智さんは、一緒に過ごす人と『楽しい時間を過ごそう』と思い、それを実行してくれる達人だ。
誰も入っていない小川で水遊びをすることも、ホテルの廊下で妄想を叶えるのも、『いけない』計画も、どれも『りん子と楽しく過ごそう』としてくれると素直に思えて、それに乗っかれる。
酔っているから余計に感情的になっているのだろうか、委ねる安心感を三日間ずっと感じていられた嬉しさに、涙が溢れていた。
さっきまでわたしより酔っぱらっていたはずなのに、最後はホームまで来てくれて見送ってくれた。
那智さんはわたしにいろいろなものを見せてくれて、いろいろなところに連れて行ってくれる、やっぱりわたしのファルコン^^(ネバーエンディングストーリーのね)
そうそう、か○やのカツ丼もおいしいと世界を広げてもらいました^^
お肉もお酒も残さず、おいしくいただきました。
今朝の「等式」感想です。
覗きとは見られている相手が見られていると意識していない姿を見ること。その警戒していない姿を見るから楽しい、そこから発展し連想したことを言うとりん子に怒られそうなので止めておきます。我々、二人のバーベキュー好きは、全部持ち込みだからかな?(笑)
那智さんのSM(追記あり)
りん子的独り言(生意気)
これは那智少年がSM的な行為に惹かれた初期のころに思いめぐらし、実際にSMをしたいとちょっぴり切実に行動を起こしてたどり着いたこと。
以後、これは那智さんのSMに対する土台となっている。
注:今日は那智さんから聞いた考えを書くので、基本的にには那智さんの意見ということになりますが、わたしが書くのでどうしても所々わたしの思考も混ざってしまっていると思います。
もし、那智さんの直接の言葉で聞いてみたいことがあれば、コメントやメールにて『那智宛て』とわかるように添えていただければお答えいたしますね。
那智さんのSMの土台、それは
SMは女性の快感に繋げないと成立しないということ、ゆえに矛盾を孕んでいるということと。
まずは、その考えにいたった那智少年のお話。
幼い頃から気がつけばSM的行為に性的興奮を覚えていた那智少年。
ご多分に漏れず、時代劇の拷問や悪代官に帯をくるくる~なシーンではワクワク、借金の肩に無理矢理なんてシチュエーションにうずうず。
恥ずかしがり抵抗する女性が崩れていく姿に『もっとやれ~』と期待して観ていたはずだ。
何度か登場しているけれど、『好きな子に自分のうんこを食べさせたい(それもよろこんで食べる)』と小学生くらいで思っていたことを聞くと、那智さんの嗜好を垣間見ることができる。
時代劇や小説で『イヤがる女性を無理矢理』なんてシーンに興奮していた那智少年ですが、中学生くらいになって、ただの妄想からもう少し具体的に考えるようになる。
将来女性と性的なことをする年齢になったときに、犯罪とか借金の肩になんて小説のような非現実な展開は無理なわけで、じゃあ、一般生活で女性を縛るには、恥ずかしがらせるには、どうしたらいいのだろう。
恋人に縛らせてというのだろうか。
いまから35年近く前のこと。
ネットなんて存在していなくて出会いは常にリアル。
しかもSMなんて、おどろおどろしい一部の変質者がすると思われている日陰の存在だった。
ドSとかMっぽいなんて普通にいえるいまとはハードルの高さはまったく違っていたはず。
きっとこの感覚わたしの年齢くらいが最後かもね。もうすこし年下と人からしたらSMはもっとポピュラーな存在になっているかも。
う~ん、どれくらいハードル高いだろう。
たとえば、職場の同僚にいきなり『君のお母さんのうんこを食べさせて』とお願いするくらい?(笑)
SMは認知されていたとしても食糞はまだ少数でしょうし、それをリアルの付き合いのしかも本人ではなくて家族の…きっと那智さんが少年の頃に女性を縛りたいと告白するのはこれくらい勇気のいることだったんじゃないかしら。
(どう?このたとえ、ちょっと気に入ってます^^;)
それとか、いまパソコンや携帯がなく、SMに関する情報や出会いをネット以外で得るとしたらなかなか難しいと思うよね、そんなふうに想像していただくのもいいかもしれない。
いま自分が思い描いていることやSM小説に登場するシーンに似た行為を実現させることを考えて那智少年は途方に暮れた。
彼女にいきなり縛らせてと言ったって驚かれるし、99%嫌われてしまう。
お願いしてやらせてもらうのだろうか。
それだってイヤイヤ付き合ってもらっても何度もお願いしたら嫌がられるはず。
嫌がっていることを無理矢理したら、それは犯罪になってしまうし、そこまでいかなくても関係が破談するのは目に見えている。
どうしたら女性が嫌がらずに変質者扱いされずにSMができるのだろう。
思春期を過ぎある程度大人になっても、まだ30年ほど前の日本ではいまのように手軽に性的嗜好を明かして出会いを求めるネットなんかは普及していない頃。(ツーショットダイヤルとかはギリギリあったかな?)
自分の願望を叶えるためには、やはりリアルに面と向かって見つけるしか方法はなかった。
それでも中学生の頃よりちょっとずつSMがメジャーになってきていたそうで、一般の付き合いの中で女性との会話の中で『SとMだったらどっちだと思う?』とか『SMをするとしたらどんなことが想像できる?』くらいの探りは入れられたそうです。
『どちらかというとMだと思う』
『恥ずかしいのはいいかも?』
なんて、女性側の肯定の言葉を見つけ引き出すことからやっとの思いで最初の一歩をはじめることができたそうだ。
このようにSMが日陰の存在だった少年の頃から考え、ネットのない時代に実際にはじめの一歩を踏み出すために試行錯誤した経験から、那智さんはSMは女性が自ら望み継続して快感を憶えないとできないということに思い至るのです。
仮に『あなたが好きだからいやだけど我慢します』ということがあったとしても、それは『お願いして付き合ってもらう』ことになるので、お願いできる関係性を築かないといけない。
さらに、それを継続させるには我慢して付き合ってもらうだけじゃ女性も途中でイヤになっちゃうだろうから、我慢の先に快感を作るようにしていかないといけなと思うのです。
ようするに、リアルしかない時代に借金の肩に無理矢理とか犯罪なんて特殊な状況以外でSMをするのはすごーーーくハードルが高くて、無理矢理とか苦痛を我慢してなんてあり得なくて、相手ができてからも継続するのも大変だったわけですね。
そこでSM行為は女性が望まないと成立しない、と思い至るのです。
それを知ると、現代社会においてのSMというものの矛盾に突き当たります。
SMは加虐嗜好と被虐嗜好をいいますが、加虐側がどんなに酷いことをしても、酷いことで感じる女にとってそれは喜ばしいことになってしまう。
ということは男は女を喜ばせているのであって、加虐行為にならないわけです。
どんなに酷い行為でも関係が継続しているのは女側に快感はあるわけで。
痛いことや恥ずかしいことで感じる性癖ならもちろんだけど、たとえば『痛いこと』単体ではイヤだとしても、その後のセックスが良くなるとか、行為の後ほめてもらえることがいいとか、全体を見れば女に快感(メリット)あるということになりますよね。
ということは、男が酷いことをしても結果的には女を喜ばせていることになる、加虐嗜好と被虐嗜好の矛盾が存在する。
SMが変質者扱いされるような時代にSMに惹かれて、リアルな出会いしかなくちょっと切実に実現を考えた思春期に那智さんがたどり着いた答えが、SMは矛盾を孕んでいて、ゆえにM側の快感の存在を認めないと実現できないということ。
だから、那智さんはネット上に氾濫している『奴隷に快感はない』とか『奴隷はご主人様の快感のために存在している』というような矛盾を無視する一部の『ご主人様と奴隷』に対して否定的だ。
まず、リアルな出会いしかない時代を経験している那智さんからしたらネットは匿名性を確保できるし、簡単に虚構が作れると思っている。
その中で語られる『奴隷に快感はない、ご主人様の快感のために存在している』という関係も矛盾を無視できる虚構だと思っている。
女性側に快感がないことからスタートにできるのは、『ご主人様と奴隷』という男性目線が作ったお伽噺のフォーマットに乗っ取っているだけだと思っている。
(那智少年のお伽噺は『奴隷の起源』に書いてあります。『何でもいうことをきく奴隷』は那智少年のおかずだったそうです^^)
もちろん『ご主人様と奴隷』だってそれだけじゃない関係だってたくさんあるし、その関係になることで双方幸福を感じている人もいる。
最初は(那智さんから見たら)虚構ではじまったとしても、やはり関係を継続させるには生身の構築が必要になってくるから、結果的に虚構ではない関係もあるはずなので、『ご主人様と奴隷』を否定しているんじゃなくて、女性側の快感を認めないスタートの仕方を疑っているわけです。
ただこの疑いを、ロールプレイだと思えば矛盾しないで考えられる。
加虐と被虐の役割分担の『快感はない』ロールプレイ。
苦痛を与える役割と快感はない役割。
矛盾は矛盾のままだけど、それを自覚して、すきなワールドを展開していく手もある。
(『寿司とマヨネーズ』にも大人の真剣なロールプレイって書いてあったものね)
奴隷制度でもないし、階級制度があるわけでもない現代の日本において、加虐嗜好と被虐嗜好のSM行為は矛盾している。
それを解消するには、被虐側の快楽を認め発展させることを楽しむ。
それを認めないのは虚構。
これが那智さんのSMにおける考え方の基本。
だから那智さんは、わたしを鞭で打つときもビンタをするときも頭を踏みつけるときも『酷い行いで喜ばせよう』というスタンスでしているのだ。
で、おそらくつらいことを我慢させるより、つらいことを快感に変えるようにするほうが難しいし、那智さんは好きなんだと思う。
だって我慢させてるってことは、お願いしてやらせてもらってるってことになるだろ?ということだ^^;
(『命令というお願い』って好きなブロガーさんも書いていたな~)
追記
那智さんは、どちらかというとその矛盾についてより、矛盾を無視する虚構の関係を生んだ仕組みを表したいようです。
今朝の感想を読んでそう感じたので、ちょっとだけ補足^^
35年前那智少年のずりねただった「なんでも言うことをきく奴隷」と似たものが30年前くらいに誰かの願望と共にPC通信あたりを使って広がったのではなかと那智さんは考えています。(おお、俺の昔のずりねたが!!と思ったんだよね^^)
それを見た女性が後を追うように、「ある日突然現れて自分を変える強い存在」のような憧れを持ち、被虐嗜好の有り無し問わず、「ご主人様」という言葉に夢を見た。(この部分はわたしの思考です)
この需要と供給の一致が「ご主人様と奴隷」を生んだのではないでしょうか。
でも、それらはずりねたと夢、矛盾や無理が生じる。
そこに身を置くことに良し悪しはないけど、矛盾の中にいるものであると認識していたほうが辛くならないよね。
人は、空に憧れるけど、人は空を飛べないんだ。
というお話を次エントリーで^^(←宣伝!?)
<関連エントリー>
『アラシのりん子』
今朝の「等式」感想です。
「女性側に快感がないことからスタートにできるのは、『ご主人様と奴隷』という男性目線が作ったお伽噺のフォーマットに乗っ取っているだけだと思っている。」これが始まりで、ある日、男が自分の奴隷ズリネタをPCを使いかなえようとした。そうしたら、そんな男が多数でて来た、次は需要に合う供給(奴隷)が出てきた。虚構から始まった現実の1歩前進で、それがリアルになりフォーマットになってしまった。フォーマットがあればなぞる人がいる、そして、その関係性の完成形も出てきているのかもしれない。
歴史が浅いので、その関係の結末は誰も解らない(当然だけれど)。当然、全て私の想像と空想と思いを混ぜた物です。
これは那智少年がSM的な行為に惹かれた初期のころに思いめぐらし、実際にSMをしたいとちょっぴり切実に行動を起こしてたどり着いたこと。
以後、これは那智さんのSMに対する土台となっている。
注:今日は那智さんから聞いた考えを書くので、基本的にには那智さんの意見ということになりますが、わたしが書くのでどうしても所々わたしの思考も混ざってしまっていると思います。
もし、那智さんの直接の言葉で聞いてみたいことがあれば、コメントやメールにて『那智宛て』とわかるように添えていただければお答えいたしますね。
那智さんのSMの土台、それは
SMは女性の快感に繋げないと成立しないということ、ゆえに矛盾を孕んでいるということと。
まずは、その考えにいたった那智少年のお話。
幼い頃から気がつけばSM的行為に性的興奮を覚えていた那智少年。
ご多分に漏れず、時代劇の拷問や悪代官に帯をくるくる~なシーンではワクワク、借金の肩に無理矢理なんてシチュエーションにうずうず。
恥ずかしがり抵抗する女性が崩れていく姿に『もっとやれ~』と期待して観ていたはずだ。
何度か登場しているけれど、『好きな子に自分のうんこを食べさせたい(それもよろこんで食べる)』と小学生くらいで思っていたことを聞くと、那智さんの嗜好を垣間見ることができる。
時代劇や小説で『イヤがる女性を無理矢理』なんてシーンに興奮していた那智少年ですが、中学生くらいになって、ただの妄想からもう少し具体的に考えるようになる。
将来女性と性的なことをする年齢になったときに、犯罪とか借金の肩になんて小説のような非現実な展開は無理なわけで、じゃあ、一般生活で女性を縛るには、恥ずかしがらせるには、どうしたらいいのだろう。
恋人に縛らせてというのだろうか。
いまから35年近く前のこと。
ネットなんて存在していなくて出会いは常にリアル。
しかもSMなんて、おどろおどろしい一部の変質者がすると思われている日陰の存在だった。
ドSとかMっぽいなんて普通にいえるいまとはハードルの高さはまったく違っていたはず。
きっとこの感覚わたしの年齢くらいが最後かもね。もうすこし年下と人からしたらSMはもっとポピュラーな存在になっているかも。
う~ん、どれくらいハードル高いだろう。
たとえば、職場の同僚にいきなり『君のお母さんのうんこを食べさせて』とお願いするくらい?(笑)
SMは認知されていたとしても食糞はまだ少数でしょうし、それをリアルの付き合いのしかも本人ではなくて家族の…きっと那智さんが少年の頃に女性を縛りたいと告白するのはこれくらい勇気のいることだったんじゃないかしら。
(どう?このたとえ、ちょっと気に入ってます^^;)
それとか、いまパソコンや携帯がなく、SMに関する情報や出会いをネット以外で得るとしたらなかなか難しいと思うよね、そんなふうに想像していただくのもいいかもしれない。
いま自分が思い描いていることやSM小説に登場するシーンに似た行為を実現させることを考えて那智少年は途方に暮れた。
彼女にいきなり縛らせてと言ったって驚かれるし、99%嫌われてしまう。
お願いしてやらせてもらうのだろうか。
それだってイヤイヤ付き合ってもらっても何度もお願いしたら嫌がられるはず。
嫌がっていることを無理矢理したら、それは犯罪になってしまうし、そこまでいかなくても関係が破談するのは目に見えている。
どうしたら女性が嫌がらずに変質者扱いされずにSMができるのだろう。
思春期を過ぎある程度大人になっても、まだ30年ほど前の日本ではいまのように手軽に性的嗜好を明かして出会いを求めるネットなんかは普及していない頃。(ツーショットダイヤルとかはギリギリあったかな?)
自分の願望を叶えるためには、やはりリアルに面と向かって見つけるしか方法はなかった。
それでも中学生の頃よりちょっとずつSMがメジャーになってきていたそうで、一般の付き合いの中で女性との会話の中で『SとMだったらどっちだと思う?』とか『SMをするとしたらどんなことが想像できる?』くらいの探りは入れられたそうです。
『どちらかというとMだと思う』
『恥ずかしいのはいいかも?』
なんて、女性側の肯定の言葉を見つけ引き出すことからやっとの思いで最初の一歩をはじめることができたそうだ。
このようにSMが日陰の存在だった少年の頃から考え、ネットのない時代に実際にはじめの一歩を踏み出すために試行錯誤した経験から、那智さんはSMは女性が自ら望み継続して快感を憶えないとできないということに思い至るのです。
仮に『あなたが好きだからいやだけど我慢します』ということがあったとしても、それは『お願いして付き合ってもらう』ことになるので、お願いできる関係性を築かないといけない。
さらに、それを継続させるには我慢して付き合ってもらうだけじゃ女性も途中でイヤになっちゃうだろうから、我慢の先に快感を作るようにしていかないといけなと思うのです。
ようするに、リアルしかない時代に借金の肩に無理矢理とか犯罪なんて特殊な状況以外でSMをするのはすごーーーくハードルが高くて、無理矢理とか苦痛を我慢してなんてあり得なくて、相手ができてからも継続するのも大変だったわけですね。
そこでSM行為は女性が望まないと成立しない、と思い至るのです。
それを知ると、現代社会においてのSMというものの矛盾に突き当たります。
SMは加虐嗜好と被虐嗜好をいいますが、加虐側がどんなに酷いことをしても、酷いことで感じる女にとってそれは喜ばしいことになってしまう。
ということは男は女を喜ばせているのであって、加虐行為にならないわけです。
どんなに酷い行為でも関係が継続しているのは女側に快感はあるわけで。
痛いことや恥ずかしいことで感じる性癖ならもちろんだけど、たとえば『痛いこと』単体ではイヤだとしても、その後のセックスが良くなるとか、行為の後ほめてもらえることがいいとか、全体を見れば女に快感(メリット)あるということになりますよね。
ということは、男が酷いことをしても結果的には女を喜ばせていることになる、加虐嗜好と被虐嗜好の矛盾が存在する。
SMが変質者扱いされるような時代にSMに惹かれて、リアルな出会いしかなくちょっと切実に実現を考えた思春期に那智さんがたどり着いた答えが、SMは矛盾を孕んでいて、ゆえにM側の快感の存在を認めないと実現できないということ。
だから、那智さんはネット上に氾濫している『奴隷に快感はない』とか『奴隷はご主人様の快感のために存在している』というような矛盾を無視する一部の『ご主人様と奴隷』に対して否定的だ。
まず、リアルな出会いしかない時代を経験している那智さんからしたらネットは匿名性を確保できるし、簡単に虚構が作れると思っている。
その中で語られる『奴隷に快感はない、ご主人様の快感のために存在している』という関係も矛盾を無視できる虚構だと思っている。
女性側に快感がないことからスタートにできるのは、『ご主人様と奴隷』という男性目線が作ったお伽噺のフォーマットに乗っ取っているだけだと思っている。
(那智少年のお伽噺は『奴隷の起源』に書いてあります。『何でもいうことをきく奴隷』は那智少年のおかずだったそうです^^)
もちろん『ご主人様と奴隷』だってそれだけじゃない関係だってたくさんあるし、その関係になることで双方幸福を感じている人もいる。
最初は(那智さんから見たら)虚構ではじまったとしても、やはり関係を継続させるには生身の構築が必要になってくるから、結果的に虚構ではない関係もあるはずなので、『ご主人様と奴隷』を否定しているんじゃなくて、女性側の快感を認めないスタートの仕方を疑っているわけです。
ただこの疑いを、ロールプレイだと思えば矛盾しないで考えられる。
加虐と被虐の役割分担の『快感はない』ロールプレイ。
苦痛を与える役割と快感はない役割。
矛盾は矛盾のままだけど、それを自覚して、すきなワールドを展開していく手もある。
(『寿司とマヨネーズ』にも大人の真剣なロールプレイって書いてあったものね)
奴隷制度でもないし、階級制度があるわけでもない現代の日本において、加虐嗜好と被虐嗜好のSM行為は矛盾している。
それを解消するには、被虐側の快楽を認め発展させることを楽しむ。
それを認めないのは虚構。
これが那智さんのSMにおける考え方の基本。
だから那智さんは、わたしを鞭で打つときもビンタをするときも頭を踏みつけるときも『酷い行いで喜ばせよう』というスタンスでしているのだ。
で、おそらくつらいことを我慢させるより、つらいことを快感に変えるようにするほうが難しいし、那智さんは好きなんだと思う。
だって我慢させてるってことは、お願いしてやらせてもらってるってことになるだろ?ということだ^^;
(『命令というお願い』って好きなブロガーさんも書いていたな~)
追記
那智さんは、どちらかというとその矛盾についてより、矛盾を無視する虚構の関係を生んだ仕組みを表したいようです。
今朝の感想を読んでそう感じたので、ちょっとだけ補足^^
35年前那智少年のずりねただった「なんでも言うことをきく奴隷」と似たものが30年前くらいに誰かの願望と共にPC通信あたりを使って広がったのではなかと那智さんは考えています。(おお、俺の昔のずりねたが!!と思ったんだよね^^)
それを見た女性が後を追うように、「ある日突然現れて自分を変える強い存在」のような憧れを持ち、被虐嗜好の有り無し問わず、「ご主人様」という言葉に夢を見た。(この部分はわたしの思考です)
この需要と供給の一致が「ご主人様と奴隷」を生んだのではないでしょうか。
でも、それらはずりねたと夢、矛盾や無理が生じる。
そこに身を置くことに良し悪しはないけど、矛盾の中にいるものであると認識していたほうが辛くならないよね。
人は、空に憧れるけど、人は空を飛べないんだ。
というお話を次エントリーで^^(←宣伝!?)
<関連エントリー>
『アラシのりん子』
今朝の「等式」感想です。
「女性側に快感がないことからスタートにできるのは、『ご主人様と奴隷』という男性目線が作ったお伽噺のフォーマットに乗っ取っているだけだと思っている。」これが始まりで、ある日、男が自分の奴隷ズリネタをPCを使いかなえようとした。そうしたら、そんな男が多数でて来た、次は需要に合う供給(奴隷)が出てきた。虚構から始まった現実の1歩前進で、それがリアルになりフォーマットになってしまった。フォーマットがあればなぞる人がいる、そして、その関係性の完成形も出てきているのかもしれない。
歴史が浅いので、その関係の結末は誰も解らない(当然だけれど)。当然、全て私の想像と空想と思いを混ぜた物です。
空は飛べない 追記アリ
りん子的独り言(生意気)
何度か書いているけれど、わたしは『主従関係』というものに憧れている。
じゃあ、主従関係ってなんだといわれると、じつはちゃんとした定義も自分の中で確立されているわけでもないの。
まあ、定義なんて必要ないのかもしれないのだけど。
だから、わたしは主従という言葉から連想される関係に漠然と憧れているのだ。
あなたの喜びはわたしの喜び
あなたに忠誠を誓い、従う
そして、右を向けといわれたら、何時間でも右を向いていたい
漠然と、こんなふうに『相手のためだけ』の世界に憧れている。
いま、わたしは
那智さんの喜びはわたしの幸せだし
最終的な那智さんの決定には従うし、性的な場面では拒否権ないし
忠誠は誓っていないけど、現段階でおおよそわたしは那智さんにウソをつくことはないだろうと自信が持てる
そして、那智さんに『右を向いてな』といわれたら、喜んで右を向く
だけど、反面
那智さんが『りん子が幸せだと俺もうれしい』と思ってくれて
たくさん話し合って決定してもらって、もし話し合わなくても『従うことで幸福になれる』とたくさん経験させてもらって、那智さんはウソをつかないと信じさせてもらっている
そして、右を向き続けたら退屈だし疲れる(笑)
わたしのデキが悪いのか、那智さんのためだけだと幸福になれないのだ。
かなり『那智さんの喜びはわたしの幸せ』『那智さんの意思はわたしの意志』になっているように思うけど、でも、それは大切にしてもらって、無理なくそう思えるように仕向けてくれているからで、結局たくさんもらっているわけで、那智さんのため『だけ』にはなれない。
わたしはその『だけ』で成り立つ関係が主従だと思っているのだけど、それができない憧れと現実に、ずいぶん歯がゆい思いもする。
那智さんに、どうして、もっと理不尽に自分勝手に『俺のためだけ』としてくれないのかと、食って掛かってしまうこともあった。
以後、エントリー内の『主従関係』=『あなたのためだけという関係』とおおまかに定義します。
(『わたしのため』とか『ふたりのため』だったら、普通の恋人と変わりないと思うのです)
すこし前、Twitterでちょっと毒気味のツイートをした。
それを読んだ那智さんが
不幸になる人がいなくなるようにという思いと主従への憧れのバランスが変わってきていないか?
と問いかけてきた。
ああ、おっしゃる通りです。
それはTwitterだけでなく、日頃の会話やエントリーにも表れているはずです。
わたしは、主従関係に憧れているので、その関係の人に、その関係だと表現している人にヤキモチを焼いています。
とても乱暴なたとえをさせてください。
わたしの憧れている『あなたのためだけ』という主従は、わたしにとって空を飛ぶようなものです。
自分では叶わないもの。
だから、そのような関係を築いていると書いている人を見ると、ヤキモチを焼き、それゆえに、それらを疑ってしまうのです。
本当に空を飛んでいるの?
ミュージカルのピーター○ンのようにじつはワイヤーで吊っているんじゃない?
バンジージャンプみたいに足括ってない?
こんなふうに、わたしは自分ができない現実と憧れに心を波立たせているのです。
『等式』の特に『りん子的独り言(生意気)』はかつて怒れなかった自分のための怒りと、似たような経験をされている方がいれば、自分を見つめ直すヒントになればという思いで書きはじめました。
ずいぶん、過去の怒りを吐き出す浄化作業はできて、ある時期からすこし穏やかになって『りん子的独り言(生意気)』の形も変わってくるのかなって思っていました。
いまでも、そのときの気持ちは変わっていません。
『等式』をはじめてもうすぐ6年、その間にわたしは空は飛べないことを知り、飛ぶことではなく那智さんに手をつないでもらって歩くほうが幸せだということも知りました。
そうしているうちに、浄化やヒントの他に、憧れからくるヤキモチが潜んでいることを那智さんの指摘であらためて見つめることができたいま、『りん子的独り言(生意気)』は、またすこし違う毛色になることを書いておく必要があるだろうと思ったのです。
わたしは主従関係に憧れていました。
だから、たとえ、それがワイヤーで吊っていようと、バンジージャンプのように一瞬の命だとしても、空を飛んでいるように見える形にヤキモチを焼いています。
自分が憧れていたものを叶えているように見える羽を広げ空を切る様子が『ご主人様』と呼んでいる人が羨ましいです。
いまも、もしかしたら、ご主人様に空を飛べと言われて、本当は飛べないのに無理をして飛んだフリをしていたり、飛べない自分を責めてしまっているような人がいたら、わたしも含め、人は基本的に飛べないのだから自分を責めず、よい道を見つけてねとという気持ちはもちろんあります。
でも、これから先『りん子的独り言(生意気)』をお読みいただくにあたって、ちょっと毒気を感じたら、浄化作業とヒントになればという思いに加えて、りん子はヤキモチを焼いているんだなと思ってください。
手をつないで歩くほうが息切れしないし幸せなことはわかっている。
それを全部棚に上げて、羨ましい。
自分で持て余していた毒気がヤキモチというとても情けないものだったと、感情のスタートを理解できたのでエントリーしました。
それをごめんなさいとか許してねとか、どちらもいえないのだけど、よければこれからも読んでくれるとうれしいです。
追記
明日以降のエントリーも予約投稿ですでに前に書いたものがアップされていきます。
『りん子的独り言(生意気)』も当然あります。
この感情のスタートを理解した状態でそのまま修正しないでおきます。
投稿したときの『いまのわたし』だと思って読んでください。
かなり気恥ずかしいのですが^^;
しかも、心波立っているときに投稿したものが多いから『りん子的独り言(生意気)』はちょこちょこ続くという羞恥プレイ。
りん子、すごく憤って、すごくヒントにしてって思って、でも、すごく羨ましがっています^^;
<関連エントリー>
りん子的独り言に対する気持ち
『りん子的独り言って』
『徒然に「りん子的独り言」のこと』
『かつてのわたしに』
『感情のスタート』
今朝の「等式」感想です。
等式のりん子さん格好良いですね~。格好悪い自分を認めて肯定している。りん子自身が「主従・奴隷等」について「言いたい事」があるからなのだと思います。りん子はその部分において「○○は○○であるべきだ。○○ねばならない。」と考えている、それに対する相違があると一言、言いたくなってしまうのでしょう。(笑)
何度か書いているけれど、わたしは『主従関係』というものに憧れている。
じゃあ、主従関係ってなんだといわれると、じつはちゃんとした定義も自分の中で確立されているわけでもないの。
まあ、定義なんて必要ないのかもしれないのだけど。
だから、わたしは主従という言葉から連想される関係に漠然と憧れているのだ。
あなたの喜びはわたしの喜び
あなたに忠誠を誓い、従う
そして、右を向けといわれたら、何時間でも右を向いていたい
漠然と、こんなふうに『相手のためだけ』の世界に憧れている。
いま、わたしは
那智さんの喜びはわたしの幸せだし
最終的な那智さんの決定には従うし、性的な場面では拒否権ないし
忠誠は誓っていないけど、現段階でおおよそわたしは那智さんにウソをつくことはないだろうと自信が持てる
そして、那智さんに『右を向いてな』といわれたら、喜んで右を向く
だけど、反面
那智さんが『りん子が幸せだと俺もうれしい』と思ってくれて
たくさん話し合って決定してもらって、もし話し合わなくても『従うことで幸福になれる』とたくさん経験させてもらって、那智さんはウソをつかないと信じさせてもらっている
そして、右を向き続けたら退屈だし疲れる(笑)
わたしのデキが悪いのか、那智さんのためだけだと幸福になれないのだ。
かなり『那智さんの喜びはわたしの幸せ』『那智さんの意思はわたしの意志』になっているように思うけど、でも、それは大切にしてもらって、無理なくそう思えるように仕向けてくれているからで、結局たくさんもらっているわけで、那智さんのため『だけ』にはなれない。
わたしはその『だけ』で成り立つ関係が主従だと思っているのだけど、それができない憧れと現実に、ずいぶん歯がゆい思いもする。
那智さんに、どうして、もっと理不尽に自分勝手に『俺のためだけ』としてくれないのかと、食って掛かってしまうこともあった。
以後、エントリー内の『主従関係』=『あなたのためだけという関係』とおおまかに定義します。
(『わたしのため』とか『ふたりのため』だったら、普通の恋人と変わりないと思うのです)
すこし前、Twitterでちょっと毒気味のツイートをした。
それを読んだ那智さんが
不幸になる人がいなくなるようにという思いと主従への憧れのバランスが変わってきていないか?
と問いかけてきた。
ああ、おっしゃる通りです。
それはTwitterだけでなく、日頃の会話やエントリーにも表れているはずです。
わたしは、主従関係に憧れているので、その関係の人に、その関係だと表現している人にヤキモチを焼いています。
とても乱暴なたとえをさせてください。
わたしの憧れている『あなたのためだけ』という主従は、わたしにとって空を飛ぶようなものです。
自分では叶わないもの。
だから、そのような関係を築いていると書いている人を見ると、ヤキモチを焼き、それゆえに、それらを疑ってしまうのです。
本当に空を飛んでいるの?
ミュージカルのピーター○ンのようにじつはワイヤーで吊っているんじゃない?
バンジージャンプみたいに足括ってない?
こんなふうに、わたしは自分ができない現実と憧れに心を波立たせているのです。
『等式』の特に『りん子的独り言(生意気)』はかつて怒れなかった自分のための怒りと、似たような経験をされている方がいれば、自分を見つめ直すヒントになればという思いで書きはじめました。
ずいぶん、過去の怒りを吐き出す浄化作業はできて、ある時期からすこし穏やかになって『りん子的独り言(生意気)』の形も変わってくるのかなって思っていました。
いまでも、そのときの気持ちは変わっていません。
『等式』をはじめてもうすぐ6年、その間にわたしは空は飛べないことを知り、飛ぶことではなく那智さんに手をつないでもらって歩くほうが幸せだということも知りました。
そうしているうちに、浄化やヒントの他に、憧れからくるヤキモチが潜んでいることを那智さんの指摘であらためて見つめることができたいま、『りん子的独り言(生意気)』は、またすこし違う毛色になることを書いておく必要があるだろうと思ったのです。
わたしは主従関係に憧れていました。
だから、たとえ、それがワイヤーで吊っていようと、バンジージャンプのように一瞬の命だとしても、空を飛んでいるように見える形にヤキモチを焼いています。
自分が憧れていたものを叶えているように見える羽を広げ空を切る様子が『ご主人様』と呼んでいる人が羨ましいです。
いまも、もしかしたら、ご主人様に空を飛べと言われて、本当は飛べないのに無理をして飛んだフリをしていたり、飛べない自分を責めてしまっているような人がいたら、わたしも含め、人は基本的に飛べないのだから自分を責めず、よい道を見つけてねとという気持ちはもちろんあります。
でも、これから先『りん子的独り言(生意気)』をお読みいただくにあたって、ちょっと毒気を感じたら、浄化作業とヒントになればという思いに加えて、りん子はヤキモチを焼いているんだなと思ってください。
手をつないで歩くほうが息切れしないし幸せなことはわかっている。
それを全部棚に上げて、羨ましい。
自分で持て余していた毒気がヤキモチというとても情けないものだったと、感情のスタートを理解できたのでエントリーしました。
それをごめんなさいとか許してねとか、どちらもいえないのだけど、よければこれからも読んでくれるとうれしいです。
追記
明日以降のエントリーも予約投稿ですでに前に書いたものがアップされていきます。
『りん子的独り言(生意気)』も当然あります。
この感情のスタートを理解した状態でそのまま修正しないでおきます。
投稿したときの『いまのわたし』だと思って読んでください。
かなり気恥ずかしいのですが^^;
しかも、心波立っているときに投稿したものが多いから『りん子的独り言(生意気)』はちょこちょこ続くという羞恥プレイ。
りん子、すごく憤って、すごくヒントにしてって思って、でも、すごく羨ましがっています^^;
<関連エントリー>
りん子的独り言に対する気持ち
『りん子的独り言って』
『徒然に「りん子的独り言」のこと』
『かつてのわたしに』
『感情のスタート』
今朝の「等式」感想です。
等式のりん子さん格好良いですね~。格好悪い自分を認めて肯定している。りん子自身が「主従・奴隷等」について「言いたい事」があるからなのだと思います。りん子はその部分において「○○は○○であるべきだ。○○ねばならない。」と考えている、それに対する相違があると一言、言いたくなってしまうのでしょう。(笑)
M女の種類
りん子的独り言(生意気)
これから書くことは個人的な考えですし、『等式』は論文でもなんでもないのでブログ内の共通話題程度に読んでください。
『M女』と呼ばれる人をわたしなりに分類したことがある。(『徒然に『M女の快感』』)
ひとつめはいわゆるマゾヒスト。
被虐行為に性的興奮を覚える人。
もともとSMとかM女とかいわれるものは、これだけだったのだよね。
ふたつめは奴隷嗜好。
わたしなりの定義としては、相手から人格無視をされることを求める嗜好。
(これは、またいつかエントリーします)
みっつめが依存体質。
わたしのように『リードを持っていてもらいたい』性質や、ただ恋愛感情に依存しているだけの人もいるはず。
不倫相手に『M女になって』と言われて恋愛依存ゆえに従っているような。
ともかく、何かに依存していたい女性。
じつは、性癖としてのマゾや人格無視されて喜ぶ奴隷嗜好なんて、ある一定人数しかいなくて、ほとんどのM女さんは依存体質なんじゃないかと、ひそかに思っているんだよね。
M女さんは、かまってちゃんが多いとか不安定な人が多いとか聞くのも、そういうことなんだと思う。
でも、性格と性癖は密接している部分もあるので、不安定ゆえに被虐を求めてしまうということある(これは、できれば避けたい密接関係です)ので、どれもハッキリ区別できるものではないけどね。
わたしはマゾヒストと依存体質の両方だと思うし。
こんなふうに分けてみた。
最近、これにもうひとつカテゴリを増やそうと思っております。
それは、『主従志願』の女性。
まずは、人物像の想像^^;
主従志願さんはきっとある程度デキる人。
まじめで、どちらかというと優等生で、学級委員とか部活でキャプテンとか務めるような人。
そこそこいろんな場面で上位でいられて、もしかしたら上司や男性を論破したりなんてこともあって、それなりに自信がある。
だから、自分より強い存在に憧れる。
適わないと思う人に組敷かれる。
圧倒的な存在に否応なく従いたい。
いままであまり負けたことがない自分を負かしてくれる存在。
そんなことに憧れている人を主従志願。
このタイプは優等生だしがんばり屋さんだから、命令に対してとても努力する。
命令が厳しければ厳しいほど、自分への期待と解釈して、また頑張る。
だから、従者としてはけっこう優秀だと思う(少なくても、わたしのような依存体質よりやっかいじゃない^^;)
依存体質に似ているのだけど違いがあるとすれば、『がんばり屋さんでがんばれちゃうがゆえに、さらに強いものへの憧れ』かな。
依存体質は強いものには憧れていなくて強い存在に委ねることも求めているけど、主従志願は強い存在に組敷かれることを求めている(=組敷かれるほど強い存在を求めている)という感じ。
マゾ的嗜好も人格無視願望もないし、不安定を支えてほしいわけでもない。
たいがいの場合自分で立ててしまえるがゆえに、その自分をぺしゃんこにしてくれる存在に憧れている。
だから『主従志願』。
こういうタイプありそうですよね^^
で、ここからはお節介な話題なんだけど。
主従志願の落とし穴があるとすれば、彼女たちは頭がいいということなんじゃないかなと思う。
そもそも、封建社会でもない現代社会において圧倒的な権力やカリスマ性で女性を従わせられる一般男性なんて、そうたくさんいるわけじゃない。
だから、言っていることに矛盾が生じたり、筋が通らないこともあるはずなんだ。
そうなると、頭のよい彼女たちは納得できる答えを求めると思うんだ。
それに対して、きちんと『主従』の筋から外れない答えを出し続けられる男性なら問題ないだろうけど、毎度うまくいくとは限らない。
ぶっちゃけていうと、ある程度の期間、それなりに交流を持って付き合っていればボロが出る。
矛盾をつきつけ、それを修正してもらい、彼女たちは納得する。
そんなことを何度か繰り返すうちに、いつの間にか主従志願さんのほうが主導権を握り、関係をコントロールしているなんていうことにもなりかねない。
『mother』というエントリーを書いたことがあるけど、お母さん的役割を担っていると自覚していれば問題ないけど、そうじゃないと無理矢理自分を低い位置にして上下を保つ状態になってしまう危険性はあるよね。
何年か前、わたしの中ではこのタイプにまさにピッタリの奴隷さんがいらしたのだけど、彼女はたしかご主人様の矛盾や理不尽やわがままを全部わかっていて、それでも、その人に強引に首根っこ掴まれるの『が』いいというようなことをおっしゃっていた。
ブログの情報しかわからないけど、たしかその女性もいろいろ器用にこなすスーパーウーマンだったはず。
おそらく、主従志願タイプがうまくいく相手は、主従志願タイプさんを論破できるほど頭脳明晰で鼻毛なんて存在しないようなカリスマか、逆になんにも考えないで強引に首根っこ押さえていられる能天気な人なのかなと勝手に想像してみたりする。
あと、もうひとつ、じつは『主従』を意識しないサディストも合うかもしれないね^^
マゾと奴隷嗜好と依存体質と主従志願。
あと他にもあるかな、思い付いたらまた追加します^^
今朝の「等式」感想です。
学位として博士号を贈りたいですね~。(笑)
この分野が、学術的に認められるのかは解りませんが。HPやブログなどから情報を集め聞き取り調査で、エビデンスをとるのでしょうか?被虐嗜好とは臀部において20平方センチメートルに20kgの力を5秒毎に10回以上瞬間的に殴打された時に、脈拍120以上血圧125以上の興奮状態と本人申告によるエクスタシーをともなった快感が必要になるとか・・・・(笑)
これから書くことは個人的な考えですし、『等式』は論文でもなんでもないのでブログ内の共通話題程度に読んでください。
『M女』と呼ばれる人をわたしなりに分類したことがある。(『徒然に『M女の快感』』)
ひとつめはいわゆるマゾヒスト。
被虐行為に性的興奮を覚える人。
もともとSMとかM女とかいわれるものは、これだけだったのだよね。
ふたつめは奴隷嗜好。
わたしなりの定義としては、相手から人格無視をされることを求める嗜好。
(これは、またいつかエントリーします)
みっつめが依存体質。
わたしのように『リードを持っていてもらいたい』性質や、ただ恋愛感情に依存しているだけの人もいるはず。
不倫相手に『M女になって』と言われて恋愛依存ゆえに従っているような。
ともかく、何かに依存していたい女性。
じつは、性癖としてのマゾや人格無視されて喜ぶ奴隷嗜好なんて、ある一定人数しかいなくて、ほとんどのM女さんは依存体質なんじゃないかと、ひそかに思っているんだよね。
M女さんは、かまってちゃんが多いとか不安定な人が多いとか聞くのも、そういうことなんだと思う。
でも、性格と性癖は密接している部分もあるので、不安定ゆえに被虐を求めてしまうということある(これは、できれば避けたい密接関係です)ので、どれもハッキリ区別できるものではないけどね。
わたしはマゾヒストと依存体質の両方だと思うし。
こんなふうに分けてみた。
最近、これにもうひとつカテゴリを増やそうと思っております。
それは、『主従志願』の女性。
まずは、人物像の想像^^;
主従志願さんはきっとある程度デキる人。
まじめで、どちらかというと優等生で、学級委員とか部活でキャプテンとか務めるような人。
そこそこいろんな場面で上位でいられて、もしかしたら上司や男性を論破したりなんてこともあって、それなりに自信がある。
だから、自分より強い存在に憧れる。
適わないと思う人に組敷かれる。
圧倒的な存在に否応なく従いたい。
いままであまり負けたことがない自分を負かしてくれる存在。
そんなことに憧れている人を主従志願。
このタイプは優等生だしがんばり屋さんだから、命令に対してとても努力する。
命令が厳しければ厳しいほど、自分への期待と解釈して、また頑張る。
だから、従者としてはけっこう優秀だと思う(少なくても、わたしのような依存体質よりやっかいじゃない^^;)
依存体質に似ているのだけど違いがあるとすれば、『がんばり屋さんでがんばれちゃうがゆえに、さらに強いものへの憧れ』かな。
依存体質は強いものには憧れていなくて強い存在に委ねることも求めているけど、主従志願は強い存在に組敷かれることを求めている(=組敷かれるほど強い存在を求めている)という感じ。
マゾ的嗜好も人格無視願望もないし、不安定を支えてほしいわけでもない。
たいがいの場合自分で立ててしまえるがゆえに、その自分をぺしゃんこにしてくれる存在に憧れている。
だから『主従志願』。
こういうタイプありそうですよね^^
で、ここからはお節介な話題なんだけど。
主従志願の落とし穴があるとすれば、彼女たちは頭がいいということなんじゃないかなと思う。
そもそも、封建社会でもない現代社会において圧倒的な権力やカリスマ性で女性を従わせられる一般男性なんて、そうたくさんいるわけじゃない。
だから、言っていることに矛盾が生じたり、筋が通らないこともあるはずなんだ。
そうなると、頭のよい彼女たちは納得できる答えを求めると思うんだ。
それに対して、きちんと『主従』の筋から外れない答えを出し続けられる男性なら問題ないだろうけど、毎度うまくいくとは限らない。
ぶっちゃけていうと、ある程度の期間、それなりに交流を持って付き合っていればボロが出る。
矛盾をつきつけ、それを修正してもらい、彼女たちは納得する。
そんなことを何度か繰り返すうちに、いつの間にか主従志願さんのほうが主導権を握り、関係をコントロールしているなんていうことにもなりかねない。
『mother』というエントリーを書いたことがあるけど、お母さん的役割を担っていると自覚していれば問題ないけど、そうじゃないと無理矢理自分を低い位置にして上下を保つ状態になってしまう危険性はあるよね。
何年か前、わたしの中ではこのタイプにまさにピッタリの奴隷さんがいらしたのだけど、彼女はたしかご主人様の矛盾や理不尽やわがままを全部わかっていて、それでも、その人に強引に首根っこ掴まれるの『が』いいというようなことをおっしゃっていた。
ブログの情報しかわからないけど、たしかその女性もいろいろ器用にこなすスーパーウーマンだったはず。
おそらく、主従志願タイプがうまくいく相手は、主従志願タイプさんを論破できるほど頭脳明晰で鼻毛なんて存在しないようなカリスマか、逆になんにも考えないで強引に首根っこ押さえていられる能天気な人なのかなと勝手に想像してみたりする。
あと、もうひとつ、じつは『主従』を意識しないサディストも合うかもしれないね^^
マゾと奴隷嗜好と依存体質と主従志願。
あと他にもあるかな、思い付いたらまた追加します^^
今朝の「等式」感想です。
学位として博士号を贈りたいですね~。(笑)
この分野が、学術的に認められるのかは解りませんが。HPやブログなどから情報を集め聞き取り調査で、エビデンスをとるのでしょうか?被虐嗜好とは臀部において20平方センチメートルに20kgの力を5秒毎に10回以上瞬間的に殴打された時に、脈拍120以上血圧125以上の興奮状態と本人申告によるエクスタシーをともなった快感が必要になるとか・・・・(笑)