空は飛べない 追記アリ
りん子的独り言(生意気)
何度か書いているけれど、わたしは『主従関係』というものに憧れている。
じゃあ、主従関係ってなんだといわれると、じつはちゃんとした定義も自分の中で確立されているわけでもないの。
まあ、定義なんて必要ないのかもしれないのだけど。
だから、わたしは主従という言葉から連想される関係に漠然と憧れているのだ。
あなたの喜びはわたしの喜び
あなたに忠誠を誓い、従う
そして、右を向けといわれたら、何時間でも右を向いていたい
漠然と、こんなふうに『相手のためだけ』の世界に憧れている。
いま、わたしは
那智さんの喜びはわたしの幸せだし
最終的な那智さんの決定には従うし、性的な場面では拒否権ないし
忠誠は誓っていないけど、現段階でおおよそわたしは那智さんにウソをつくことはないだろうと自信が持てる
そして、那智さんに『右を向いてな』といわれたら、喜んで右を向く
だけど、反面
那智さんが『りん子が幸せだと俺もうれしい』と思ってくれて
たくさん話し合って決定してもらって、もし話し合わなくても『従うことで幸福になれる』とたくさん経験させてもらって、那智さんはウソをつかないと信じさせてもらっている
そして、右を向き続けたら退屈だし疲れる(笑)
わたしのデキが悪いのか、那智さんのためだけだと幸福になれないのだ。
かなり『那智さんの喜びはわたしの幸せ』『那智さんの意思はわたしの意志』になっているように思うけど、でも、それは大切にしてもらって、無理なくそう思えるように仕向けてくれているからで、結局たくさんもらっているわけで、那智さんのため『だけ』にはなれない。
わたしはその『だけ』で成り立つ関係が主従だと思っているのだけど、それができない憧れと現実に、ずいぶん歯がゆい思いもする。
那智さんに、どうして、もっと理不尽に自分勝手に『俺のためだけ』としてくれないのかと、食って掛かってしまうこともあった。
以後、エントリー内の『主従関係』=『あなたのためだけという関係』とおおまかに定義します。
(『わたしのため』とか『ふたりのため』だったら、普通の恋人と変わりないと思うのです)
すこし前、Twitterでちょっと毒気味のツイートをした。
それを読んだ那智さんが
不幸になる人がいなくなるようにという思いと主従への憧れのバランスが変わってきていないか?
と問いかけてきた。
ああ、おっしゃる通りです。
それはTwitterだけでなく、日頃の会話やエントリーにも表れているはずです。
わたしは、主従関係に憧れているので、その関係の人に、その関係だと表現している人にヤキモチを焼いています。
とても乱暴なたとえをさせてください。
わたしの憧れている『あなたのためだけ』という主従は、わたしにとって空を飛ぶようなものです。
自分では叶わないもの。
だから、そのような関係を築いていると書いている人を見ると、ヤキモチを焼き、それゆえに、それらを疑ってしまうのです。
本当に空を飛んでいるの?
ミュージカルのピーター○ンのようにじつはワイヤーで吊っているんじゃない?
バンジージャンプみたいに足括ってない?
こんなふうに、わたしは自分ができない現実と憧れに心を波立たせているのです。
『等式』の特に『りん子的独り言(生意気)』はかつて怒れなかった自分のための怒りと、似たような経験をされている方がいれば、自分を見つめ直すヒントになればという思いで書きはじめました。
ずいぶん、過去の怒りを吐き出す浄化作業はできて、ある時期からすこし穏やかになって『りん子的独り言(生意気)』の形も変わってくるのかなって思っていました。
いまでも、そのときの気持ちは変わっていません。
『等式』をはじめてもうすぐ6年、その間にわたしは空は飛べないことを知り、飛ぶことではなく那智さんに手をつないでもらって歩くほうが幸せだということも知りました。
そうしているうちに、浄化やヒントの他に、憧れからくるヤキモチが潜んでいることを那智さんの指摘であらためて見つめることができたいま、『りん子的独り言(生意気)』は、またすこし違う毛色になることを書いておく必要があるだろうと思ったのです。
わたしは主従関係に憧れていました。
だから、たとえ、それがワイヤーで吊っていようと、バンジージャンプのように一瞬の命だとしても、空を飛んでいるように見える形にヤキモチを焼いています。
自分が憧れていたものを叶えているように見える羽を広げ空を切る様子が『ご主人様』と呼んでいる人が羨ましいです。
いまも、もしかしたら、ご主人様に空を飛べと言われて、本当は飛べないのに無理をして飛んだフリをしていたり、飛べない自分を責めてしまっているような人がいたら、わたしも含め、人は基本的に飛べないのだから自分を責めず、よい道を見つけてねとという気持ちはもちろんあります。
でも、これから先『りん子的独り言(生意気)』をお読みいただくにあたって、ちょっと毒気を感じたら、浄化作業とヒントになればという思いに加えて、りん子はヤキモチを焼いているんだなと思ってください。
手をつないで歩くほうが息切れしないし幸せなことはわかっている。
それを全部棚に上げて、羨ましい。
自分で持て余していた毒気がヤキモチというとても情けないものだったと、感情のスタートを理解できたのでエントリーしました。
それをごめんなさいとか許してねとか、どちらもいえないのだけど、よければこれからも読んでくれるとうれしいです。
追記
明日以降のエントリーも予約投稿ですでに前に書いたものがアップされていきます。
『りん子的独り言(生意気)』も当然あります。
この感情のスタートを理解した状態でそのまま修正しないでおきます。
投稿したときの『いまのわたし』だと思って読んでください。
かなり気恥ずかしいのですが^^;
しかも、心波立っているときに投稿したものが多いから『りん子的独り言(生意気)』はちょこちょこ続くという羞恥プレイ。
りん子、すごく憤って、すごくヒントにしてって思って、でも、すごく羨ましがっています^^;
<関連エントリー>
りん子的独り言に対する気持ち
『りん子的独り言って』
『徒然に「りん子的独り言」のこと』
『かつてのわたしに』
『感情のスタート』
今朝の「等式」感想です。
等式のりん子さん格好良いですね~。格好悪い自分を認めて肯定している。りん子自身が「主従・奴隷等」について「言いたい事」があるからなのだと思います。りん子はその部分において「○○は○○であるべきだ。○○ねばならない。」と考えている、それに対する相違があると一言、言いたくなってしまうのでしょう。(笑)
何度か書いているけれど、わたしは『主従関係』というものに憧れている。
じゃあ、主従関係ってなんだといわれると、じつはちゃんとした定義も自分の中で確立されているわけでもないの。
まあ、定義なんて必要ないのかもしれないのだけど。
だから、わたしは主従という言葉から連想される関係に漠然と憧れているのだ。
あなたの喜びはわたしの喜び
あなたに忠誠を誓い、従う
そして、右を向けといわれたら、何時間でも右を向いていたい
漠然と、こんなふうに『相手のためだけ』の世界に憧れている。
いま、わたしは
那智さんの喜びはわたしの幸せだし
最終的な那智さんの決定には従うし、性的な場面では拒否権ないし
忠誠は誓っていないけど、現段階でおおよそわたしは那智さんにウソをつくことはないだろうと自信が持てる
そして、那智さんに『右を向いてな』といわれたら、喜んで右を向く
だけど、反面
那智さんが『りん子が幸せだと俺もうれしい』と思ってくれて
たくさん話し合って決定してもらって、もし話し合わなくても『従うことで幸福になれる』とたくさん経験させてもらって、那智さんはウソをつかないと信じさせてもらっている
そして、右を向き続けたら退屈だし疲れる(笑)
わたしのデキが悪いのか、那智さんのためだけだと幸福になれないのだ。
かなり『那智さんの喜びはわたしの幸せ』『那智さんの意思はわたしの意志』になっているように思うけど、でも、それは大切にしてもらって、無理なくそう思えるように仕向けてくれているからで、結局たくさんもらっているわけで、那智さんのため『だけ』にはなれない。
わたしはその『だけ』で成り立つ関係が主従だと思っているのだけど、それができない憧れと現実に、ずいぶん歯がゆい思いもする。
那智さんに、どうして、もっと理不尽に自分勝手に『俺のためだけ』としてくれないのかと、食って掛かってしまうこともあった。
以後、エントリー内の『主従関係』=『あなたのためだけという関係』とおおまかに定義します。
(『わたしのため』とか『ふたりのため』だったら、普通の恋人と変わりないと思うのです)
すこし前、Twitterでちょっと毒気味のツイートをした。
それを読んだ那智さんが
不幸になる人がいなくなるようにという思いと主従への憧れのバランスが変わってきていないか?
と問いかけてきた。
ああ、おっしゃる通りです。
それはTwitterだけでなく、日頃の会話やエントリーにも表れているはずです。
わたしは、主従関係に憧れているので、その関係の人に、その関係だと表現している人にヤキモチを焼いています。
とても乱暴なたとえをさせてください。
わたしの憧れている『あなたのためだけ』という主従は、わたしにとって空を飛ぶようなものです。
自分では叶わないもの。
だから、そのような関係を築いていると書いている人を見ると、ヤキモチを焼き、それゆえに、それらを疑ってしまうのです。
本当に空を飛んでいるの?
ミュージカルのピーター○ンのようにじつはワイヤーで吊っているんじゃない?
バンジージャンプみたいに足括ってない?
こんなふうに、わたしは自分ができない現実と憧れに心を波立たせているのです。
『等式』の特に『りん子的独り言(生意気)』はかつて怒れなかった自分のための怒りと、似たような経験をされている方がいれば、自分を見つめ直すヒントになればという思いで書きはじめました。
ずいぶん、過去の怒りを吐き出す浄化作業はできて、ある時期からすこし穏やかになって『りん子的独り言(生意気)』の形も変わってくるのかなって思っていました。
いまでも、そのときの気持ちは変わっていません。
『等式』をはじめてもうすぐ6年、その間にわたしは空は飛べないことを知り、飛ぶことではなく那智さんに手をつないでもらって歩くほうが幸せだということも知りました。
そうしているうちに、浄化やヒントの他に、憧れからくるヤキモチが潜んでいることを那智さんの指摘であらためて見つめることができたいま、『りん子的独り言(生意気)』は、またすこし違う毛色になることを書いておく必要があるだろうと思ったのです。
わたしは主従関係に憧れていました。
だから、たとえ、それがワイヤーで吊っていようと、バンジージャンプのように一瞬の命だとしても、空を飛んでいるように見える形にヤキモチを焼いています。
自分が憧れていたものを叶えているように見える羽を広げ空を切る様子が『ご主人様』と呼んでいる人が羨ましいです。
いまも、もしかしたら、ご主人様に空を飛べと言われて、本当は飛べないのに無理をして飛んだフリをしていたり、飛べない自分を責めてしまっているような人がいたら、わたしも含め、人は基本的に飛べないのだから自分を責めず、よい道を見つけてねとという気持ちはもちろんあります。
でも、これから先『りん子的独り言(生意気)』をお読みいただくにあたって、ちょっと毒気を感じたら、浄化作業とヒントになればという思いに加えて、りん子はヤキモチを焼いているんだなと思ってください。
手をつないで歩くほうが息切れしないし幸せなことはわかっている。
それを全部棚に上げて、羨ましい。
自分で持て余していた毒気がヤキモチというとても情けないものだったと、感情のスタートを理解できたのでエントリーしました。
それをごめんなさいとか許してねとか、どちらもいえないのだけど、よければこれからも読んでくれるとうれしいです。
追記
明日以降のエントリーも予約投稿ですでに前に書いたものがアップされていきます。
『りん子的独り言(生意気)』も当然あります。
この感情のスタートを理解した状態でそのまま修正しないでおきます。
投稿したときの『いまのわたし』だと思って読んでください。
かなり気恥ずかしいのですが^^;
しかも、心波立っているときに投稿したものが多いから『りん子的独り言(生意気)』はちょこちょこ続くという羞恥プレイ。
りん子、すごく憤って、すごくヒントにしてって思って、でも、すごく羨ましがっています^^;
<関連エントリー>
りん子的独り言に対する気持ち
『りん子的独り言って』
『徒然に「りん子的独り言」のこと』
『かつてのわたしに』
『感情のスタート』
今朝の「等式」感想です。
等式のりん子さん格好良いですね~。格好悪い自分を認めて肯定している。りん子自身が「主従・奴隷等」について「言いたい事」があるからなのだと思います。りん子はその部分において「○○は○○であるべきだ。○○ねばならない。」と考えている、それに対する相違があると一言、言いたくなってしまうのでしょう。(笑)
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COMMENT
りん子さんの定義だと、
御主人様とわたしは「主従」ではないのかも(笑)
わたしも「あなたのためだけ」では生きられない。
生身の人間だし生活あるし。
その矛盾もひっくるめて「所有してやろう/所有されよう」というのは
現実的な世界では成り立つわけはなく
やはり「大人のごっこ遊び」でしょう。
だからこそ、かなり真剣に遊んでます。
ファンタジーを生きているのではなく
現実と重なるように、もうひとつの現実=ファンタジーが見えるのが
ごっこ遊びの醍醐味。
空は飛べなくても空を飛んでいると思いこむことはできる。
ありがとう。
わたしの定義も本当は確立できていないんだ。
だからそれに当てはめてくれてコメントくれたことに感謝です。
奴隷さんの立場で、こういうエントリーにコメントくださるということはみゅーさんなりのしっかりした理論があるからだと思うんです(みゅーさん自身は、そんなかしこまってないとおっしゃるかもしれないけど^^)
だから、こそ、真剣に遊んでいるといえるのでしょうし、その言葉が聞けて、わたしはとても納得できました。
ファンタジーを生きるのではなく、もうひとつの現実=ファンタジーという言葉もすんなり目に浮かびます。
みゅーさんは空を飛んでいると思い込むことで醍醐味と生きやすさと手に入れ、わたしは地を歩くことで幸福になる。
それで十分です^^
どちらが正しいとはではまったくなくて、どれだけその関係について自分の言葉と思考で考えているかということが、この人と付き合いたいと思えるものなのでしょうね。
ああ、でもやっぱり全部棚に上げて、真剣なごっこ遊びの醍醐味、うらやましいです^^
わたしの定義も本当は確立できていないんだ。
だからそれに当てはめてくれてコメントくれたことに感謝です。
奴隷さんの立場で、こういうエントリーにコメントくださるということはみゅーさんなりのしっかりした理論があるからだと思うんです(みゅーさん自身は、そんなかしこまってないとおっしゃるかもしれないけど^^)
だから、こそ、真剣に遊んでいるといえるのでしょうし、その言葉が聞けて、わたしはとても納得できました。
ファンタジーを生きるのではなく、もうひとつの現実=ファンタジーという言葉もすんなり目に浮かびます。
みゅーさんは空を飛んでいると思い込むことで醍醐味と生きやすさと手に入れ、わたしは地を歩くことで幸福になる。
それで十分です^^
どちらが正しいとはではまったくなくて、どれだけその関係について自分の言葉と思考で考えているかということが、この人と付き合いたいと思えるものなのでしょうね。
ああ、でもやっぱり全部棚に上げて、真剣なごっこ遊びの醍醐味、うらやましいです^^
りん子さん、こんにちは。
私は、りん子さんが、那智さんとの
6年のなかで、これが心地いいという
距離感や、在り方を「見つけた」と
思えた経験が、すごいな、素敵だなと思って
いつも読んでいます。
りん子さんは、いつも「本物」で「純粋」なものを愛しているんだなとその言葉に思います。
だから、真剣に定義したいし、
フィットする感情を探したい欲求が強いのかなって。
誠実に生きてるお方だなあって思います。
「主従関係」、私にとっても、憧れる言葉です。
いくつかのブログで目にする“主従関係”にも、
羨望の気持ちを持ったりします。
双方向的に強い信頼が感じられる関係。
「ご主人様」のいうことが絶対で、
それに従うことが幸せに感じられる関係。
見上げる瞳と見下ろす眼が
深く交わる関係。
私には、
“男性性”と“女性性”への憧れがあります。
(女性が男性性を持っていてもいいし、男性が女性性を持っていても同じことです)
世の中がなんとなく中性性に寄っていっているので、さらに憧れているのかもしれないです。
だから、私のなかの「おんな」のイメージ・・・、いやらしくて、可愛くて、優しくて、
温かくて、ちょっと残酷だったり
装うことを愛して、魅せ方を考える
そういうものに「なれる」時間や、
「演じる」時間を非日常的に持つことは
欠けている何かを補ったり潤してくれる大切なもののように思えます。
なので、もしかしたら、
私の「主従関係」への憧れの主な発端は自己愛で、
忠誠を誓うという気持ちを体験させて貰ったり、
差し出したり、奪われたりする
その機会を与えてくれる存在としての
ご主人様をいとしく迎え入れているのかもしれない。
あー、利己的で恥ずかしい(笑)
非日常だから、「奴隷」という身分での迷いや悩みも貴重な体験だと思ってしまうのですよね。
(最近の私のブログに書くところではそうは感じられないと思いますが 笑)
これは私的なことですが、
仕事をしているなかで、たくさんの人と会います。
本当に受け入れられないと思う人や
理解に苦しむ人、
近付きたくない人(笑)
世の中には本当に相容れない価値観というのが
ありますね。働くのって本当に大変。。。
私は、そういう方たちには、仕事なので、
仕事として対応しますけれども、
「許容できない自分」というのを
感じながらしんどさを負っています。
(まあ、仕事とはそういうものでしょうか)
割り切ったうわべや繕いの対応ではなく、
本当に許容が広がればいいなって思います。
“ご主人様”に対する忠誠心の試練は、
その「許容」に対する試験として位置付けているのかも・・・。
人に対して、本当に心をひらくのって、
私にとってはとても難しいことで、
ご主人様という存在を通して
安全な場所で、
許容することを遊んでいるのかもしれないです。
「もうだめ」とか、「痛い」とか、
ダメージを負うことも、
非日常の私の経験としてだから、
吐露したりできるのかな?
三文オペラみたい?(笑)
痛いものは痛いし、
悲しいことは悲しいし、
嫌なものは嫌。
その思いはずっとありますけれど、
その先に、何か、知らなかったものや、
綺麗なものが見える可能性を信じたい。
「ごっこ」の今から、いつか
「本物」になりたいなあと思っています。
「ごっこ」も「ごっこ」の素晴らしさがあり、
「ごっこ」も愛しているのですけれど。
りん子さんの言葉を読むと、いつも、
自分のなかでもやっとしたものを言葉に変換して表現したい欲が出てしまって、
いつも長文になってごめんなさい。
読んで戴いてありがとうございます。
昔は反論されること嫌だから、余り自分の考えをはっきり伝えたいほうではなかったのですが、
ブログを書き始めてから、
反論もありがたいなあと思うようになりました。
反応があるってうれしいことですね。
私は、りん子さんが、那智さんとの
6年のなかで、これが心地いいという
距離感や、在り方を「見つけた」と
思えた経験が、すごいな、素敵だなと思って
いつも読んでいます。
りん子さんは、いつも「本物」で「純粋」なものを愛しているんだなとその言葉に思います。
だから、真剣に定義したいし、
フィットする感情を探したい欲求が強いのかなって。
誠実に生きてるお方だなあって思います。
「主従関係」、私にとっても、憧れる言葉です。
いくつかのブログで目にする“主従関係”にも、
羨望の気持ちを持ったりします。
双方向的に強い信頼が感じられる関係。
「ご主人様」のいうことが絶対で、
それに従うことが幸せに感じられる関係。
見上げる瞳と見下ろす眼が
深く交わる関係。
私には、
“男性性”と“女性性”への憧れがあります。
(女性が男性性を持っていてもいいし、男性が女性性を持っていても同じことです)
世の中がなんとなく中性性に寄っていっているので、さらに憧れているのかもしれないです。
だから、私のなかの「おんな」のイメージ・・・、いやらしくて、可愛くて、優しくて、
温かくて、ちょっと残酷だったり
装うことを愛して、魅せ方を考える
そういうものに「なれる」時間や、
「演じる」時間を非日常的に持つことは
欠けている何かを補ったり潤してくれる大切なもののように思えます。
なので、もしかしたら、
私の「主従関係」への憧れの主な発端は自己愛で、
忠誠を誓うという気持ちを体験させて貰ったり、
差し出したり、奪われたりする
その機会を与えてくれる存在としての
ご主人様をいとしく迎え入れているのかもしれない。
あー、利己的で恥ずかしい(笑)
非日常だから、「奴隷」という身分での迷いや悩みも貴重な体験だと思ってしまうのですよね。
(最近の私のブログに書くところではそうは感じられないと思いますが 笑)
これは私的なことですが、
仕事をしているなかで、たくさんの人と会います。
本当に受け入れられないと思う人や
理解に苦しむ人、
近付きたくない人(笑)
世の中には本当に相容れない価値観というのが
ありますね。働くのって本当に大変。。。
私は、そういう方たちには、仕事なので、
仕事として対応しますけれども、
「許容できない自分」というのを
感じながらしんどさを負っています。
(まあ、仕事とはそういうものでしょうか)
割り切ったうわべや繕いの対応ではなく、
本当に許容が広がればいいなって思います。
“ご主人様”に対する忠誠心の試練は、
その「許容」に対する試験として位置付けているのかも・・・。
人に対して、本当に心をひらくのって、
私にとってはとても難しいことで、
ご主人様という存在を通して
安全な場所で、
許容することを遊んでいるのかもしれないです。
「もうだめ」とか、「痛い」とか、
ダメージを負うことも、
非日常の私の経験としてだから、
吐露したりできるのかな?
三文オペラみたい?(笑)
痛いものは痛いし、
悲しいことは悲しいし、
嫌なものは嫌。
その思いはずっとありますけれど、
その先に、何か、知らなかったものや、
綺麗なものが見える可能性を信じたい。
「ごっこ」の今から、いつか
「本物」になりたいなあと思っています。
「ごっこ」も「ごっこ」の素晴らしさがあり、
「ごっこ」も愛しているのですけれど。
りん子さんの言葉を読むと、いつも、
自分のなかでもやっとしたものを言葉に変換して表現したい欲が出てしまって、
いつも長文になってごめんなさい。
読んで戴いてありがとうございます。
昔は反論されること嫌だから、余り自分の考えをはっきり伝えたいほうではなかったのですが、
ブログを書き始めてから、
反論もありがたいなあと思うようになりました。
反応があるってうれしいことですね。
お返事がすこし遅くなってごめんなさい。
智薫さんは、もしかしたらご自身の気持ちの整理されているのかな〜と思うながら拝見しました。
なので、いただいたコメントに沿わないかもしれないけど、感じたことを書きますね。
以前、智薫さんのブログにコメントしたときに『ダンスが躍りたくて師を仰げる人に指導してもらっている』と智薫さんのことを想像しましたよね(勝手に^^;)
『ダンス』と比喩したそれが、智薫さんにとって、『日常にはない自分への変身願望と強く深い繋がりへの憧れ』これを『主従』『ご主人様と奴隷』という関係を使って叶えたいのかなって思っています。
こういう言い方をしてしまうとロマンもなにもないのですけど、願いを叶えるための有効なツール、もしくは背中を押してくれるきっかけが『主従』『ご主人様と奴隷』なのかな。
もし、そうなら、多いにそれを活用して、ご自身の憧れを『この人と思える方』と叶えられたらいいと思います。
それが利己的だと言われても、人間は自分にメリットがないものを進んでやり続けたいと思わないものね^^
わたしが主従関係に憧れているのは、もしかしたら性癖や嗜好の部分でなのではないかと思っています。
ただただ『付き従いたい』という欲求なだけ^^;
那智さんは主従という言葉を使わず、わたしのその欲求を自然に叶えてくれているので、いつまでも『主従』に憧れたまま、ときどきは無理強いして!!なんて無理を言ったりしています(笑)
わたしの求めるものが『付き従う』なのであれば、関係の形はなんでもいいのだろうと思いつつも、ほのかな憧れは抱き続けるのだと思います^^
ご自身の心によく触れて、自分の本当に求めるものはなんだろうと問いかけることは大事ですよね。
そうそう、ウチも含めて、よそ様のブログに書かれていることは基本フィルターを通して書いてあると思ったほうがいいですよ^^
わたしもウソは書いていないけど、りん子フィルターを通しているから那智さん物凄いいい男になっていると思うし(笑)
智薫さんは、もしかしたらご自身の気持ちの整理されているのかな〜と思うながら拝見しました。
なので、いただいたコメントに沿わないかもしれないけど、感じたことを書きますね。
以前、智薫さんのブログにコメントしたときに『ダンスが躍りたくて師を仰げる人に指導してもらっている』と智薫さんのことを想像しましたよね(勝手に^^;)
『ダンス』と比喩したそれが、智薫さんにとって、『日常にはない自分への変身願望と強く深い繋がりへの憧れ』これを『主従』『ご主人様と奴隷』という関係を使って叶えたいのかなって思っています。
こういう言い方をしてしまうとロマンもなにもないのですけど、願いを叶えるための有効なツール、もしくは背中を押してくれるきっかけが『主従』『ご主人様と奴隷』なのかな。
もし、そうなら、多いにそれを活用して、ご自身の憧れを『この人と思える方』と叶えられたらいいと思います。
それが利己的だと言われても、人間は自分にメリットがないものを進んでやり続けたいと思わないものね^^
わたしが主従関係に憧れているのは、もしかしたら性癖や嗜好の部分でなのではないかと思っています。
ただただ『付き従いたい』という欲求なだけ^^;
那智さんは主従という言葉を使わず、わたしのその欲求を自然に叶えてくれているので、いつまでも『主従』に憧れたまま、ときどきは無理強いして!!なんて無理を言ったりしています(笑)
わたしの求めるものが『付き従う』なのであれば、関係の形はなんでもいいのだろうと思いつつも、ほのかな憧れは抱き続けるのだと思います^^
ご自身の心によく触れて、自分の本当に求めるものはなんだろうと問いかけることは大事ですよね。
そうそう、ウチも含めて、よそ様のブログに書かれていることは基本フィルターを通して書いてあると思ったほうがいいですよ^^
わたしもウソは書いていないけど、りん子フィルターを通しているから那智さん物凄いいい男になっていると思うし(笑)
割とウザいような長文を書いて失礼しました。(苦笑)
返信コメントくださってありがとうございます。
欲しいものや、すでに持っているものって、
ときどき見えにくくなったりしますね。
返信コメントくださってありがとうございます。
欲しいものや、すでに持っているものって、
ときどき見えにくくなったりしますね。
いえいえ^^
そうなんですよね。
わたしたちの間で『新鮮でいる』というのは、わたしの専売特許なんですけど、すでに手にしているものに対する新鮮さをときどき見失わないようにアンテナ磨かないと、と今日、ちょうど思ってところです。
生きているといろいろありますね(笑)
そうなんですよね。
わたしたちの間で『新鮮でいる』というのは、わたしの専売特許なんですけど、すでに手にしているものに対する新鮮さをときどき見失わないようにアンテナ磨かないと、と今日、ちょうど思ってところです。
生きているといろいろありますね(笑)