咀嚼したピザ
独特な幸福感
那智さんは、わたしに色々な物を食べさせる。
咀嚼して。
咀嚼したピザ。
咀嚼したおにぎり。
咀嚼したハンバーガー。
サラダとおにぎりやコーヒーとデニッシュみたいに、複数を咀嚼して食べさせることもある。
口移しで。
時には、咀嚼して、それを手のひらに出して、そこにわたしが顔を埋めて食べるなんていうこともある。
遊園地などで、咀嚼したポテトを手のひらに出されたときなどは、恥ずかしくて、でも、人前で手のひらから食べ物をもらうということに何とも言えない喜びも感じたものだ。
那智さんが咀嚼した物を食べさせるモチベーションは、基本的に『あげる』だ。
那智さんが噛み砕いて、那智さんの唾液にまみれた食べ物を『あげる』ね、という感じ。
ただ、那智さんはわたしの心を揺らすのが好きなので、普通に『あげる』時もあるし、わざとぐちゃぐちゃにして、わたしに『うう、厳しい』という感情にさせて遊んだりもする。
那智さんがくれたもので、喜ぶわたし。
咀嚼した食べ物をもらって喜ぶ自分を恥ずかしがるわたし。
ちょっと不味くなるように噛み砕いて、厳しそうに、でも嬉しくモグモグするわたし。
那智さんは、自分が施すことでわたしの心が上下し、最後には必ず『幸せ〜』になることが好きなんだな。
で、そこに『落とす』とか『汚す』という欲はほとんどないはずだ。
だから、基本的に『あげるね』。
親鳥がヒナに餌をあげている感覚の、じゃれ合いみたいなものなんだろうな。
他人の噛み砕いた食べ物を口移しされて、果たしておいしいのだろうか。
もちろん『好きな人』という大前提の、それなんだけど。
美味しいと感じるか、不味いと感じるかは、お互いのそれを欲する気持ちで変わってくるように思う。
『汚したい』『落としたい』と欲すると、自ずと噛むほうが『汚す』道具としての咀嚼物になるわけで、そうなると美味しそうな具合に噛むと、汚れるからは遠ざかってしまうよね。
だから、きっと、不味そうな具合に噛むんじゃないかな。
で、わたしたちのように、それで『幸せ〜』を感じ合いたい者の場合は、基本的にそれを『美味しい』と思わせたいのだから、美味しくなるように噛むと思うのだ。
逆に、不味くなるように噛めば、美味しくないもの。
いくら那智さんがくれてもペースト状のポップコーンは美味しいわけないよね^^;
ただ、基本『あげるね』のモチベーションなので美味しく感じられることのほうが多い。
(えっと、汚す方が『幸せ』じゃないなんて思っていませんよ。どちらも喜びに繋がっているけど、ルートが違うってことかな)
どの噛み方が美味しくて、不味いかなんて、わからないけど、でも、咀嚼するほうのモチベーションは噛み具合に影響して、味を左右するんじゃないかな〜と思うのです。
好きな人というのは大前提。
だけど、好きな人だったら、なんでもかんでも美味しくなるというものでもない。
逆に、美味しく感じられないのは、愛がないからだ、とも思わない。
そんなに人の味覚はバカじゃないよね。
だから、美味しいか否かは、モチベーションによって変わってくるとも思うのです。
でもね、実は、咀嚼のスイートスポットがあるのですよ。
好きな人がくれているというのは大前提でも、好きな人だからという割増し感差し引いても『美味しい』瞬間があるのだ。
自分で咀嚼していて、食べ物の旨味が唾液と共に口の中で広がっていく瞬間ってあるでしょ?
あれを那智さんに再現してもらうの。
厳密にいうと、その一歩手前くらいでいただくのだ。
食べ物の旨味が唾液に絡まってジュワッとする瞬間にいただいて、あとひと噛みくらいして『美味しさ』完成状態を口の中で再現してもらう。
そうすると、最初から美味しいというラッキーなことになるのです。
この、噛んでいて『一番美味しくなる』一歩手前で口移しする瞬間が、咀嚼のスイートスポット^^
これは、掛け値なしで美味しい。
ほんとだよ。
でも、このスイートスポットは、那智さんしかわからなくて、でも、那智さん自身も完全に習得できているものでもないようなので、割と『たまたま』だったりする。
それでも、咀嚼した物のほうが美味しいと純粋に言える希有な瞬間も、多分存在するの。
もちろん、好きな人という大前提(しつこい^^)
ちなみに、先日は羊羹と緑茶の組み合わせ。
これは一見ナイスな組み合わせに見えるけど、羊羹と緑茶があまり混ざり合ってくれないらしく、個々の味しかしなかった。
どうせ混ぜるなら、凶と出るか吉と出るか、なほうが楽しいです^^
他人の咀嚼した『おにぎりとコーヒー』とか『サラダとおにぎり』とか、これってかなり『凶』なんだけど、スイートスポットにはまれば『大吉』になるんだ。
信じてもらえるかしら♪
まったく関係ないけど、おにぎり多いぞ、これはコンビニ→ホテルパターンってこと?*^^*
那智さんは、わたしに色々な物を食べさせる。
咀嚼して。
咀嚼したピザ。
咀嚼したおにぎり。
咀嚼したハンバーガー。
サラダとおにぎりやコーヒーとデニッシュみたいに、複数を咀嚼して食べさせることもある。
口移しで。
時には、咀嚼して、それを手のひらに出して、そこにわたしが顔を埋めて食べるなんていうこともある。
遊園地などで、咀嚼したポテトを手のひらに出されたときなどは、恥ずかしくて、でも、人前で手のひらから食べ物をもらうということに何とも言えない喜びも感じたものだ。
那智さんが咀嚼した物を食べさせるモチベーションは、基本的に『あげる』だ。
那智さんが噛み砕いて、那智さんの唾液にまみれた食べ物を『あげる』ね、という感じ。
ただ、那智さんはわたしの心を揺らすのが好きなので、普通に『あげる』時もあるし、わざとぐちゃぐちゃにして、わたしに『うう、厳しい』という感情にさせて遊んだりもする。
那智さんがくれたもので、喜ぶわたし。
咀嚼した食べ物をもらって喜ぶ自分を恥ずかしがるわたし。
ちょっと不味くなるように噛み砕いて、厳しそうに、でも嬉しくモグモグするわたし。
那智さんは、自分が施すことでわたしの心が上下し、最後には必ず『幸せ〜』になることが好きなんだな。
で、そこに『落とす』とか『汚す』という欲はほとんどないはずだ。
だから、基本的に『あげるね』。
親鳥がヒナに餌をあげている感覚の、じゃれ合いみたいなものなんだろうな。
他人の噛み砕いた食べ物を口移しされて、果たしておいしいのだろうか。
もちろん『好きな人』という大前提の、それなんだけど。
美味しいと感じるか、不味いと感じるかは、お互いのそれを欲する気持ちで変わってくるように思う。
『汚したい』『落としたい』と欲すると、自ずと噛むほうが『汚す』道具としての咀嚼物になるわけで、そうなると美味しそうな具合に噛むと、汚れるからは遠ざかってしまうよね。
だから、きっと、不味そうな具合に噛むんじゃないかな。
で、わたしたちのように、それで『幸せ〜』を感じ合いたい者の場合は、基本的にそれを『美味しい』と思わせたいのだから、美味しくなるように噛むと思うのだ。
逆に、不味くなるように噛めば、美味しくないもの。
いくら那智さんがくれてもペースト状のポップコーンは美味しいわけないよね^^;
ただ、基本『あげるね』のモチベーションなので美味しく感じられることのほうが多い。
(えっと、汚す方が『幸せ』じゃないなんて思っていませんよ。どちらも喜びに繋がっているけど、ルートが違うってことかな)
どの噛み方が美味しくて、不味いかなんて、わからないけど、でも、咀嚼するほうのモチベーションは噛み具合に影響して、味を左右するんじゃないかな〜と思うのです。
好きな人というのは大前提。
だけど、好きな人だったら、なんでもかんでも美味しくなるというものでもない。
逆に、美味しく感じられないのは、愛がないからだ、とも思わない。
そんなに人の味覚はバカじゃないよね。
だから、美味しいか否かは、モチベーションによって変わってくるとも思うのです。
でもね、実は、咀嚼のスイートスポットがあるのですよ。
好きな人がくれているというのは大前提でも、好きな人だからという割増し感差し引いても『美味しい』瞬間があるのだ。
自分で咀嚼していて、食べ物の旨味が唾液と共に口の中で広がっていく瞬間ってあるでしょ?
あれを那智さんに再現してもらうの。
厳密にいうと、その一歩手前くらいでいただくのだ。
食べ物の旨味が唾液に絡まってジュワッとする瞬間にいただいて、あとひと噛みくらいして『美味しさ』完成状態を口の中で再現してもらう。
そうすると、最初から美味しいというラッキーなことになるのです。
この、噛んでいて『一番美味しくなる』一歩手前で口移しする瞬間が、咀嚼のスイートスポット^^
これは、掛け値なしで美味しい。
ほんとだよ。
でも、このスイートスポットは、那智さんしかわからなくて、でも、那智さん自身も完全に習得できているものでもないようなので、割と『たまたま』だったりする。
それでも、咀嚼した物のほうが美味しいと純粋に言える希有な瞬間も、多分存在するの。
もちろん、好きな人という大前提(しつこい^^)
ちなみに、先日は羊羹と緑茶の組み合わせ。
これは一見ナイスな組み合わせに見えるけど、羊羹と緑茶があまり混ざり合ってくれないらしく、個々の味しかしなかった。
どうせ混ぜるなら、凶と出るか吉と出るか、なほうが楽しいです^^
他人の咀嚼した『おにぎりとコーヒー』とか『サラダとおにぎり』とか、これってかなり『凶』なんだけど、スイートスポットにはまれば『大吉』になるんだ。
信じてもらえるかしら♪
まったく関係ないけど、おにぎり多いぞ、これはコンビニ→ホテルパターンってこと?*^^*
ゴールを決めない
独特な幸福感
去年の6月のエントリー『小学3年生』。
たまたま那智さんが読み返したようで『俺たちなにやってんだろうな〜』と苦笑気味に言った。
居酒屋の入り口でパンツを下げられて、慌てて上げてをただ繰り返す。
『これって、SMっていうのかな?』
言わないような気がします(笑)
先日もお花見に行って、喫煙所でタバコを吸っている那智さんから少し離れて満開の桜の下にある一等席のベンチに座って、桜を見上げスーパー悦に浸っていたら。
そーっと後ろから近づいて、ガシッと肩を掴み後ろに引かれた。
背後の那智さんにもたれ掛かる形になったから倒れずには済んだけど、急に引かれて斜めになる体に、びっくりするわ、ジタバタするわで、大騒ぎ。
こんなことに至ってはもう性的でもなんでもない、やっぱりただの『小学3年生』だ。
わたしが『ものすごいじゃれ合いっこですよね』というと。
『ものすごいというより、めちゃくちゃなじゃれ合いだな』と那智さん。
あ、そっちのほうが言葉が合ってます^^
そうなのですね、わたしたちのしていることは『めちゃくちゃなじゃれ合い』。
この感覚は、鞭でもわんこでも鼻くそでも、どれにでも繋がっている感じがする。
でも、実は、これはわたしにはとてもありがたいことなんだ。
なにがありがたいかって、ただじゃれ合っているわけだからどこに着地してもいいわけなのですよね。
これはゴールが決まっていないということ。
この『ゴールを決めない』ということが、ありがたいのです。
うまくいってもいかなくても。
泣いても怒っても、もちろん喜んでも。
わたしがどんな感情になろうと、ゴールが決まっていないのだからかまわない。
(最終的には『幸せ』が着地点といえば、そうだけど、これはまた別の機会に話します)
無価値感か同化願望か。
とにかくわたしは、褒められたい必要とされたい、相手の希望に添いたいと必死になってしまうところがある。
もちろん、人は褒められたいし必要とされたい生き物だけど、どうもそれが強いらしい。
それで必要以上に無理をしたり、できないことを責めたり、できない故に愛されないのではないかと不安になったりと、頑張る以上の負の感情で苦しくなってしまうのだ。
下手したらウソ付いたり演技をしたりして、無理矢理ゴールしたふりまでしてしまう。
ゴールを決めないでいてくれるのは、その負の感情にならないで済むのですね。
SMでイメージしがちなステップアップや訓練などのゴールが決まっているようなことはなく、そのときふたりが『楽しい』『心地よい』『気持ちいい』ということを軸に動いているように思う(わたしは動かされている?)、これがわたしたちでいうとじゃれ合いっこ。
必要以上に自分を責めてしまうところがあるので、ゴールを決めないじゃれ合いっこは、ありがたい。
唯一、ゴールがあるとするなら。
『那智さんのうんこをおいしそうにむしゃむしゃと食べるりん子』
これに向けて、はっきりと訓練しているということはないかもしれないけど(だって、うんこって計画的に出ないしね)、これがゴールを決めない那智さんの唯一のゴール。
ほしいとか嬉しいというところまでは来て(しまって)いるけど(笑)。
むしゃむしゃとおいしそうにというには、まだほど遠い。
それでも、スカトロNGだった頃に比べたら、那智さんのゴールには着実に近づいているとも言えますね。
これがひとつのゴールだと、ふたりとも認識している唯一のことだと思う。
だから、わたしは、『おえっ』となるととてもとても悲しく、できない自分を責めたくなるし、那智さんごめんなさいと思う。
ゴールを決めているのがこれだけだから大丈夫だけど、これがゴールを目指すことがデフォルトの関係だったら、やはりわたしは苦しくなって、放り投げてしまいそうだ。
行為に於いても関係に於いても、ゴールを作らないでいてくれることはとてもありがたいと思うのです。
でも、どんどんSMというより、じゃれ合いのめちゃくちゃ度合いが増していくだけな感じがするけどね^^;
あ、もうひとつゴールがあった!!
これはちゃんと訓練させられてる!!
でも、恥ずかしくてずっと書かずにいるの。
って、本当はこの訓練していることが本題のはずだったんだけど。
テーマが変わってきちゃったし、やっぱり恥ずかしくて書くのいやになっちゃった。
ということで、こんな生殺し状態でアップします〜^^
あはは、これもじゃれ合いってことで^^
去年の6月のエントリー『小学3年生』。
たまたま那智さんが読み返したようで『俺たちなにやってんだろうな〜』と苦笑気味に言った。
居酒屋の入り口でパンツを下げられて、慌てて上げてをただ繰り返す。
『これって、SMっていうのかな?』
言わないような気がします(笑)
先日もお花見に行って、喫煙所でタバコを吸っている那智さんから少し離れて満開の桜の下にある一等席のベンチに座って、桜を見上げスーパー悦に浸っていたら。
そーっと後ろから近づいて、ガシッと肩を掴み後ろに引かれた。
背後の那智さんにもたれ掛かる形になったから倒れずには済んだけど、急に引かれて斜めになる体に、びっくりするわ、ジタバタするわで、大騒ぎ。
こんなことに至ってはもう性的でもなんでもない、やっぱりただの『小学3年生』だ。
わたしが『ものすごいじゃれ合いっこですよね』というと。
『ものすごいというより、めちゃくちゃなじゃれ合いだな』と那智さん。
あ、そっちのほうが言葉が合ってます^^
そうなのですね、わたしたちのしていることは『めちゃくちゃなじゃれ合い』。
この感覚は、鞭でもわんこでも鼻くそでも、どれにでも繋がっている感じがする。
でも、実は、これはわたしにはとてもありがたいことなんだ。
なにがありがたいかって、ただじゃれ合っているわけだからどこに着地してもいいわけなのですよね。
これはゴールが決まっていないということ。
この『ゴールを決めない』ということが、ありがたいのです。
うまくいってもいかなくても。
泣いても怒っても、もちろん喜んでも。
わたしがどんな感情になろうと、ゴールが決まっていないのだからかまわない。
(最終的には『幸せ』が着地点といえば、そうだけど、これはまた別の機会に話します)
無価値感か同化願望か。
とにかくわたしは、褒められたい必要とされたい、相手の希望に添いたいと必死になってしまうところがある。
もちろん、人は褒められたいし必要とされたい生き物だけど、どうもそれが強いらしい。
それで必要以上に無理をしたり、できないことを責めたり、できない故に愛されないのではないかと不安になったりと、頑張る以上の負の感情で苦しくなってしまうのだ。
下手したらウソ付いたり演技をしたりして、無理矢理ゴールしたふりまでしてしまう。
ゴールを決めないでいてくれるのは、その負の感情にならないで済むのですね。
SMでイメージしがちなステップアップや訓練などのゴールが決まっているようなことはなく、そのときふたりが『楽しい』『心地よい』『気持ちいい』ということを軸に動いているように思う(わたしは動かされている?)、これがわたしたちでいうとじゃれ合いっこ。
必要以上に自分を責めてしまうところがあるので、ゴールを決めないじゃれ合いっこは、ありがたい。
唯一、ゴールがあるとするなら。
『那智さんのうんこをおいしそうにむしゃむしゃと食べるりん子』
これに向けて、はっきりと訓練しているということはないかもしれないけど(だって、うんこって計画的に出ないしね)、これがゴールを決めない那智さんの唯一のゴール。
ほしいとか嬉しいというところまでは来て(しまって)いるけど(笑)。
むしゃむしゃとおいしそうにというには、まだほど遠い。
それでも、スカトロNGだった頃に比べたら、那智さんのゴールには着実に近づいているとも言えますね。
これがひとつのゴールだと、ふたりとも認識している唯一のことだと思う。
だから、わたしは、『おえっ』となるととてもとても悲しく、できない自分を責めたくなるし、那智さんごめんなさいと思う。
ゴールを決めているのがこれだけだから大丈夫だけど、これがゴールを目指すことがデフォルトの関係だったら、やはりわたしは苦しくなって、放り投げてしまいそうだ。
行為に於いても関係に於いても、ゴールを作らないでいてくれることはとてもありがたいと思うのです。
でも、どんどんSMというより、じゃれ合いのめちゃくちゃ度合いが増していくだけな感じがするけどね^^;
あ、もうひとつゴールがあった!!
これはちゃんと訓練させられてる!!
でも、恥ずかしくてずっと書かずにいるの。
って、本当はこの訓練していることが本題のはずだったんだけど。
テーマが変わってきちゃったし、やっぱり恥ずかしくて書くのいやになっちゃった。
ということで、こんな生殺し状態でアップします〜^^
あはは、これもじゃれ合いってことで^^
ゴールを決めない理由
独特な幸福感
前エントリーで『ゴールを決めないでいてくれることは、ありがたい』と書いた。
わたしが生きやすくなるように指針を示してくれることはあるけど、それはゴールじゃなくてアドバイス。
そうじゃなくて、ふたりの関係に於いて『完全なんとか』みたいな目標もないし、日々の行為に於いても『○○しちゃいけない』とか『○○にならないといけない』というような制限もない。
こういうのをゴールを決めないと思って書いていた。
でも、書きながら、もしかしたら那智さんにはゴールがあるかもしれないと思った。
うんとね、どちらかというとストーリーという感じかな。
それも、行為に於いて。
普段、特に目標も決めず、思いつくままにしたいことをしている那智さんですが。
多少ストーリーがある場合もあるのではないかと。
鞭を打つときに。
今日は強く打って早く痴人状態にさせよう、とか。
ゆっくり打って遊ぼう、とか。
電マをするときには。
逃げられるようにして楽しもう、とか。
拘束して限界をちょっと超えてみよう、とか。
いつもではないと思うけど、こんなぼんやりとしたストーリーがあるときもあるんじゃないかと。
もちろん、わたしの反応や那智さんの気分で、簡単に変更するのもありでね。
でも、それをわたしには内緒にしているんだ。
なぜなら、ゴールを決めてそれを伝えてしまうと、那智さんにとってはつまらないものになっちゃうはずだから。
自分のすることでわたしの心を上下させることが好きなのだから、あらかじめゴールを教えてしまうとわたしの反応が自然なものではなくなってしまうので、つまらないのです。
那智さんのすることで、真剣に怖がったり喜んだり驚いたりさせたいのだから、ゴールを知らせない方が面白いのです。
たまには、今日は○○するよ、と予告をすることもあるけど、それは右往左往を楽しんでいるだけで、それに沿わないといけないというものでもないの。
どんなに驚かされようとも、痛いことをされようとも。
わたしは、ただただ。
那智さんを信じ。
疑うことなく身を任せ。
自分の心にウソを付かず。
素直に、素直に、那智さんに委ねていればいい。
那智さんの手のひらの上で、転がされ、時にはもみくしゃにされても、ただ信じて素直な反応をしていればいいのだ。
那智さんにとって大事なことは『那智さんに委ねきったわたし』なんだと思う。
だから、ゴールは内緒だし、ゴール通りじゃなくてもいい。
委ねきって、そこで生まれた感情が思い通りになれば、とても満足で、違うものになればそれは次回のデータになるから、それはそれで満足。
あまり結果で満足は左右しないんじゃないかとも思う。
で、最後には『幸せ』となるのが、ゴールといえばゴールなんだけど。
これは、那智さんにとってのゴールで、わたしのゴールじゃないのだ。
だってね。
わたしは疑うことなく身を任せ、素直な気持ちでることが大事なのだから、例えば『◎×▲#』で『$$$$〜〜〜』の時のように、最後のほうで自己嫌悪になって悲しくなってしまったとしても、それはわたしのせいじゃなくて、那智さんのせいということになる。
だから、最終的に『幸せ〜』というゴールは、わたしには課せられていないのだと思ってる。
(すごい、身勝手な理屈!!)
那智さんの手によって、泣いたり笑ったり、時々失敗して悲しくなったりするとお手間を取らせてしまうけど、それもふたりにとっては必要悪なんですよね。
疑うことなく身を任せた結果の『悲しい』なので、必要悪。
う〜ん、行為に於いてと書いてはみたものの。
これは那智さんとわたしの関係値そのものだと思い直す。
那智さんを信じ。
疑うことなく身を任せ。
自分の心にウソを付かず。
素直に、素直に、那智さんに委ねていればいい。
これは、わたしたちの関係そのものだ。
そりゃあね、人間同士なんだから、うまくいかないこともあるし、曖昧な部分もある。
でも、基本、これ。
で、これがわたしたちのいう『上下関係』なのですね。
『お散歩の裏話2』で書いた一文。
那智さんとわたしには上下関係がある。
優劣ではなく、上下。
上下という立場を選んでいる。
従わせたい人と、従いたい人。
守りたい人と、守られていたい人。
責任を持つ人と、委ねる人。
そういうことを上下を呼んでいる。
これが、これ。
那智さんは自分の好きなように、わたしを驚かせたり喜ばせたりする。
ゴールを知らないわたしはそれを素直に受け取り、素直に表現する。
そこで、転んでしまうようなことがあれば、その那智復も那智さんが責任を持つ。
なだめすかしなんていう方法はほとんど皆無なんだけど、それ以外責任の取り方はいろいろでね。
とこつん付き合ってくれるときもあるし、互いの気持ちを伝え合った後のなかなか浮上できない状態とかには『どうぞ、落ち込んでな』と優しく突き放されたりもする。
どちらにしても、悲しいのは『りん子のせい』にはしない。
それは、信じさせたものの役割なんだ。
那智さんとわたしの上下関係で。
那智さんは、そういう人。
ゴールを示さない那智さんにゴールがあるとするならば。
おそらく、わたしの人生を作ることがゴールなんじゃないかと思う。
とことん依存させ、わたしを那智さんから離れられなくして。
それとは、まったく反対に、たくさんの安定と生きやすい方法を教え、伸び伸びと成功体験を積ませてくれて、ひとりで立っていられるようにする。
『俺がいないと生きていかれないようにして、俺が死んだ瞬間からひとりで生きていかれるように。』
(『生きる』)
このおとぎ話のようなわたしの人生を作るのが、きっと那智さんのゴールなんだと思う。
と、書いていると、なんだか那智さんものすごくかっこいい人になっているようですけど(笑)
それにしても、なぜこの一見大変そうなことを、何年もし続けているのかと思いますよね。
自分の手で相手も喜ばせる喜びというのは理解できると思うけど、那智さんのそれは恐らくそれの何倍もの『喜ばせる喜び』と何倍もの『面倒』を選んでいるのですものね。
これは、単に父性豊かなできた人、では済まされない那智さんの中の歪みがあるからだと思ってる。
歪みっていうと負のイメージがあるけれど、良くも悪くも突出したところがあることを歪みだと思っています。
こちらから見たら負かもしれなけど、反対側から見たら正の場合もあるものね。
また人は誰でも歪みはあるわけで、那智さんのそれはちょっと特徴的な部分くらいだということでお話ししてみようかなと思っています。
と、『歪み』なんて気になる言葉を出しておきながら、ちょっと横道に逸れて。
委ねて守られて責任まで取ってもらうわたしってなんてラッキーな女なのでしょう。
そう、概ねラッキーな女なんだけど、こちら側に必要なことを次回少し書いてみる。
で、歪みは、そのまた次回^^;
でも、そんなドロドロした歪みじゃないから、期待しないでね。
あはは、パートナーの歪みを披露しているところなんてあんまりないよね^^;
前エントリーで『ゴールを決めないでいてくれることは、ありがたい』と書いた。
わたしが生きやすくなるように指針を示してくれることはあるけど、それはゴールじゃなくてアドバイス。
そうじゃなくて、ふたりの関係に於いて『完全なんとか』みたいな目標もないし、日々の行為に於いても『○○しちゃいけない』とか『○○にならないといけない』というような制限もない。
こういうのをゴールを決めないと思って書いていた。
でも、書きながら、もしかしたら那智さんにはゴールがあるかもしれないと思った。
うんとね、どちらかというとストーリーという感じかな。
それも、行為に於いて。
普段、特に目標も決めず、思いつくままにしたいことをしている那智さんですが。
多少ストーリーがある場合もあるのではないかと。
鞭を打つときに。
今日は強く打って早く痴人状態にさせよう、とか。
ゆっくり打って遊ぼう、とか。
電マをするときには。
逃げられるようにして楽しもう、とか。
拘束して限界をちょっと超えてみよう、とか。
いつもではないと思うけど、こんなぼんやりとしたストーリーがあるときもあるんじゃないかと。
もちろん、わたしの反応や那智さんの気分で、簡単に変更するのもありでね。
でも、それをわたしには内緒にしているんだ。
なぜなら、ゴールを決めてそれを伝えてしまうと、那智さんにとってはつまらないものになっちゃうはずだから。
自分のすることでわたしの心を上下させることが好きなのだから、あらかじめゴールを教えてしまうとわたしの反応が自然なものではなくなってしまうので、つまらないのです。
那智さんのすることで、真剣に怖がったり喜んだり驚いたりさせたいのだから、ゴールを知らせない方が面白いのです。
たまには、今日は○○するよ、と予告をすることもあるけど、それは右往左往を楽しんでいるだけで、それに沿わないといけないというものでもないの。
どんなに驚かされようとも、痛いことをされようとも。
わたしは、ただただ。
那智さんを信じ。
疑うことなく身を任せ。
自分の心にウソを付かず。
素直に、素直に、那智さんに委ねていればいい。
那智さんの手のひらの上で、転がされ、時にはもみくしゃにされても、ただ信じて素直な反応をしていればいいのだ。
那智さんにとって大事なことは『那智さんに委ねきったわたし』なんだと思う。
だから、ゴールは内緒だし、ゴール通りじゃなくてもいい。
委ねきって、そこで生まれた感情が思い通りになれば、とても満足で、違うものになればそれは次回のデータになるから、それはそれで満足。
あまり結果で満足は左右しないんじゃないかとも思う。
で、最後には『幸せ』となるのが、ゴールといえばゴールなんだけど。
これは、那智さんにとってのゴールで、わたしのゴールじゃないのだ。
だってね。
わたしは疑うことなく身を任せ、素直な気持ちでることが大事なのだから、例えば『◎×▲#』で『$$$$〜〜〜』の時のように、最後のほうで自己嫌悪になって悲しくなってしまったとしても、それはわたしのせいじゃなくて、那智さんのせいということになる。
だから、最終的に『幸せ〜』というゴールは、わたしには課せられていないのだと思ってる。
(すごい、身勝手な理屈!!)
那智さんの手によって、泣いたり笑ったり、時々失敗して悲しくなったりするとお手間を取らせてしまうけど、それもふたりにとっては必要悪なんですよね。
疑うことなく身を任せた結果の『悲しい』なので、必要悪。
う〜ん、行為に於いてと書いてはみたものの。
これは那智さんとわたしの関係値そのものだと思い直す。
那智さんを信じ。
疑うことなく身を任せ。
自分の心にウソを付かず。
素直に、素直に、那智さんに委ねていればいい。
これは、わたしたちの関係そのものだ。
そりゃあね、人間同士なんだから、うまくいかないこともあるし、曖昧な部分もある。
でも、基本、これ。
で、これがわたしたちのいう『上下関係』なのですね。
『お散歩の裏話2』で書いた一文。
那智さんとわたしには上下関係がある。
優劣ではなく、上下。
上下という立場を選んでいる。
従わせたい人と、従いたい人。
守りたい人と、守られていたい人。
責任を持つ人と、委ねる人。
そういうことを上下を呼んでいる。
これが、これ。
那智さんは自分の好きなように、わたしを驚かせたり喜ばせたりする。
ゴールを知らないわたしはそれを素直に受け取り、素直に表現する。
そこで、転んでしまうようなことがあれば、その那智復も那智さんが責任を持つ。
なだめすかしなんていう方法はほとんど皆無なんだけど、それ以外責任の取り方はいろいろでね。
とこつん付き合ってくれるときもあるし、互いの気持ちを伝え合った後のなかなか浮上できない状態とかには『どうぞ、落ち込んでな』と優しく突き放されたりもする。
どちらにしても、悲しいのは『りん子のせい』にはしない。
それは、信じさせたものの役割なんだ。
那智さんとわたしの上下関係で。
那智さんは、そういう人。
ゴールを示さない那智さんにゴールがあるとするならば。
おそらく、わたしの人生を作ることがゴールなんじゃないかと思う。
とことん依存させ、わたしを那智さんから離れられなくして。
それとは、まったく反対に、たくさんの安定と生きやすい方法を教え、伸び伸びと成功体験を積ませてくれて、ひとりで立っていられるようにする。
『俺がいないと生きていかれないようにして、俺が死んだ瞬間からひとりで生きていかれるように。』
(『生きる』)
このおとぎ話のようなわたしの人生を作るのが、きっと那智さんのゴールなんだと思う。
と、書いていると、なんだか那智さんものすごくかっこいい人になっているようですけど(笑)
それにしても、なぜこの一見大変そうなことを、何年もし続けているのかと思いますよね。
自分の手で相手も喜ばせる喜びというのは理解できると思うけど、那智さんのそれは恐らくそれの何倍もの『喜ばせる喜び』と何倍もの『面倒』を選んでいるのですものね。
これは、単に父性豊かなできた人、では済まされない那智さんの中の歪みがあるからだと思ってる。
歪みっていうと負のイメージがあるけれど、良くも悪くも突出したところがあることを歪みだと思っています。
こちらから見たら負かもしれなけど、反対側から見たら正の場合もあるものね。
また人は誰でも歪みはあるわけで、那智さんのそれはちょっと特徴的な部分くらいだということでお話ししてみようかなと思っています。
と、『歪み』なんて気になる言葉を出しておきながら、ちょっと横道に逸れて。
委ねて守られて責任まで取ってもらうわたしってなんてラッキーな女なのでしょう。
そう、概ねラッキーな女なんだけど、こちら側に必要なことを次回少し書いてみる。
で、歪みは、そのまた次回^^;
でも、そんなドロドロした歪みじゃないから、期待しないでね。
あはは、パートナーの歪みを披露しているところなんてあんまりないよね^^;
疑うことなく身を任せ、素直に表現する
独特な幸福感
『ゴールを決めない』『ゴールを決めない理由』の続きです。
疑うことなく、信じて身を任せる。
そして、そこで起こる感情を素直に表現する。
ふたりの付き合いに於いて、上下関係の下のわたしの役割。
これって、簡単?難しい?
6年付き合って、やっとできるようになってきているので、思いのほか難しいことかもしれないな〜と思ってます。
人って、物事を額面通りに受け取れないところってありません?
その言葉に裏はないか。
本当は迷惑なのに無理していない?
本当はバカにしているのにうなずいてない?
そんなふうに、裏を読んで疑ってしまうことってあるよね。
特にわたしのように、那智さんが主導権を握り、それに翻弄される立場にある人間は、疑いが頭を過る瞬間がたくさんある。
わんこにさせるとき、本当に守ってくれるのだろうか。(これ、ほんとは疑ったことないです。文章用に疑っただけ)
鞭を打つモチベーションに『ストレス発散』が含まれていないか。(これもほとんどないかな)
恥ずかしい思いをさせるのに、蔑む感情はないだろうか。
『小学3年生』のようにわたしをからかうのに、そこにわずかな悪意がないか。
程度の差はあれやっていることは虐めることなので、疑おうと思えばいくらでも疑える。
悪意、蔑み、八つ当たり、こんな負の感情からわたしを虐めていないか、那智さんは『可愛がる』方法でそれをしているということをそれを疑うことなく素直に感じ取るのだ。
っていうと、なんでも信じろ!!と言っているようですが、全然違うの、これ重要です!!
ともすれば、負の感情を連想してしまいそうなことを疑わず素直な心で受け取るということは、逆に負の感情でそれをした場合は、それもきちんと感じ取れるということなのだ。
だから、負の感情を感じたら、それは素直に感じて、それはそれで問題提示しないといけないのですよ。
長年の付き合いでそれに近いことは1、2回はあるかもしれない、で、それは後になってその都度話し合って解決してる。
それは日々の会話でも同じでね。
メールや電話を『できるときはするし、できないときはできない』と、付き合った当初から言われ続けている。(『白旗を挙げた日』)
これも、疑うことなく、受け取ることが必要でね。
わたしみたいな女は『本当は迷惑なんじゃないか』とか『無理して付き合ってくれてるんじゃないか』とか思っちゃうわけですよ。
そうじゃなくて、那智さんの言葉を額面通り素直に受け取る。
『いまはダメ』と言われれば、そうなんだとシンプルな感情でいる。
まあ、これは、そう思わせてくれるほど土台を安定させてもらってるからできるのですけどね^^;
そういう公平な心で那智さんの言葉や行為を受けることが、疑うことなく身を任せるということだと思ってる。
で、もうひとつ難しいのは、そこで生まれた感情を素直に表現するということなんだ。
素直に表現するというと、なんでも言っていいというような印象を受けるけど、違っててね。
(『素直に伝えるということ』『感情教育1、2』あたりを読んでみてね〜)
那智さんはわたしに、恥ずかしい思いをさせたりからかったりして可愛がるのだけど。
言葉選びやわたしのバイオリズムで、時には『グサッ』ときたり『カチン』ときたりするときもある。
自己嫌悪に発展してしまうこともある。
人ってこういう感情が生まれたときって、そこから別な感情に発展してしまうものですよね。
『グサッ』ときたから傷つけてやろうとか。
『カチン』ときたから言い負かしてやろうとか。
自己嫌悪にさせられたから、押し黙って困らせてしまうとか。
そういう八つ当たりやいじけや自分を卑下するような二次的なねじれた感情を加えず、ただ『傷ついた』『悲しい』という感情だけを伝えることを『素直に表現する』だと思っているのです。
あ、もちろん『悲しい』に蓋をしてしまうことも、素直じゃありません^^
そんでもって、『うれしー!!』とかも、当然すなおーーーに表現します^^
ついでに、わがまま言いたいときは『わがまま言います』と宣言してから、言います、これでオッケイ^^
人はとかく優劣を付けたがるものだ。
言い負かしたいとか、どうせわたしなんてとか、優にも劣にもなってしまいやすいもの。
それをせずに公平な心でいることが、『素直』だと思っている。
これもけっこう難しいと思うのだ。
疑うことなく身を任せ。
生まれた感情を素直に表現する。
那智さんに守られ従い委ねる上下の『下』でいるには、これがとても大事なことなのです。
これは、対等で上下なんていう説明不能なわたしたちの関係に於いて大事なことなので、二次的な感情がいけないといっているのではありませんよ。
そういう感情を元に話し合いが深まっていくこともあるかもしれませんしね。
思うのだけど。
那智さんとわたしは、実は似ているのだ。
わたしが持っているいろんな音を拾ってしまうアンテナ、これに似たものを那智さんも持っているのだと思う。
多分、那智さんはわたしを困らせた『無価値感』や『不安定』のない人だったから、アンテナでいろいろ拾っても対処できていたのだと思うけど、いろいろ拾っていたんじゃないかな〜と思う。
(『アンテナ』『チューニング』)
それとわたしと同じように『相手に快適でいてもらいたい』という気持ちも強い人なんだと思う。
対峙している相手の負の感情、たとえば。
『カチン』ときた→ムカついた→やり返してやろう→傷つく言葉をいう。
『グサッ』ときた→悲しい→いじける→黙り込む。
こんなふうに、相手の不機嫌は察知できて、快適でいてもらおうと気持ちを探るけど、二次的な感情を加えて表現されてしまうと解決の糸口が見つからず困ってしまうのだ。
(勝手にしろ!!とか、逆切れみたいなこと、絶対しない人だからね、頑張って解決したくなっちゃうのですね)
結果、面倒だから言いたいことをいうのをやめようと思ってしまうらしい。
那智さんはわたしと感性が合うと言ってくれている、そして深く付き合いたいと思ってくれている。
だから、言いたいことを抑えようと思いたくないのだ。
それで素直に表現することが課せられているのです。
これを言ったら不機嫌になっちゃうかなとか考えず、りん子には言いたいことを言いたい。
それを受けたわたしは、感情を素直に表現する。
たとえば、それで悲しくなったとしたら、言いたいことを言い、素直に表現させた那智さんの責任。
でも、それで解決できている限り、那智さんはいらぬ気遣いをせずにわたしと付き合っていられるのだ。
基本的に優しい人なので、言いたいことを言うといっても、暴言なんて吐きませんよ^^
だけど、好きなだけからかって遊んで、酷いことをして、ときには、わたしの心にズカズカと踏み込み(『那智マニア』)、思い切り那智さんのやり方でわたしを可愛がるには、こちらの心構えも必要なのです。
わかりにく内容で、ながーい自分フォロー(笑)
更にフォローするために、文中リンクも敢えてタイトル付きで!!
読んでいただけるとうれしいです。
那智さんがわたしにゴールを設定しない理由やその関係を維持するこちらの心構えなどを書いて、次は『じゃあ、なんでそんな面倒なことを』というお話です。
その理由はわかっているのだけど、原因はわかっていないので、ちょっとどうなるか〜^^;
気合い充実できたら次回で、充実できなかったら、そのまた次回とかになっちゃうかも〜^^;
気長に待っていてね^^
話逸れますが。
拍手機能、とても喜んでおります。
おなじみの人、久しぶりの人、はじめましての人、拍手だけじゃなくて拍手コメントもいただけてとても嬉しいです。
でもね、お名前を書いていただけていないと、ちょっと淋しいのでコメント残されるかたはお名前もくださいね。
あと、拍手だけやお名前だけ拍手も嬉しいですよん。
過去エントリーにも拍手とコメントをいただけると、けっこうその方とわたしだけの秘密共有感が持てて楽しいので、気に入った過去エントリーにも歓迎です。
でも、拍手だけってわからないから、これだけエントリーがあるわたしのブログでは確実に埋もれちゃいますので、ご一緒にコメントもお願いします〜。
だけど、お返事できないことが、すごーくもどかしい。
だから、この場を借りて、拍手と拍手コメントくださったかた、ありがとうございました^^
表のコメントも大歓迎です^^
これぞ、気合いの充実^^
『ゴールを決めない』『ゴールを決めない理由』の続きです。
疑うことなく、信じて身を任せる。
そして、そこで起こる感情を素直に表現する。
ふたりの付き合いに於いて、上下関係の下のわたしの役割。
これって、簡単?難しい?
6年付き合って、やっとできるようになってきているので、思いのほか難しいことかもしれないな〜と思ってます。
人って、物事を額面通りに受け取れないところってありません?
その言葉に裏はないか。
本当は迷惑なのに無理していない?
本当はバカにしているのにうなずいてない?
そんなふうに、裏を読んで疑ってしまうことってあるよね。
特にわたしのように、那智さんが主導権を握り、それに翻弄される立場にある人間は、疑いが頭を過る瞬間がたくさんある。
わんこにさせるとき、本当に守ってくれるのだろうか。(これ、ほんとは疑ったことないです。文章用に疑っただけ)
鞭を打つモチベーションに『ストレス発散』が含まれていないか。(これもほとんどないかな)
恥ずかしい思いをさせるのに、蔑む感情はないだろうか。
『小学3年生』のようにわたしをからかうのに、そこにわずかな悪意がないか。
程度の差はあれやっていることは虐めることなので、疑おうと思えばいくらでも疑える。
悪意、蔑み、八つ当たり、こんな負の感情からわたしを虐めていないか、那智さんは『可愛がる』方法でそれをしているということをそれを疑うことなく素直に感じ取るのだ。
っていうと、なんでも信じろ!!と言っているようですが、全然違うの、これ重要です!!
ともすれば、負の感情を連想してしまいそうなことを疑わず素直な心で受け取るということは、逆に負の感情でそれをした場合は、それもきちんと感じ取れるということなのだ。
だから、負の感情を感じたら、それは素直に感じて、それはそれで問題提示しないといけないのですよ。
長年の付き合いでそれに近いことは1、2回はあるかもしれない、で、それは後になってその都度話し合って解決してる。
それは日々の会話でも同じでね。
メールや電話を『できるときはするし、できないときはできない』と、付き合った当初から言われ続けている。(『白旗を挙げた日』)
これも、疑うことなく、受け取ることが必要でね。
わたしみたいな女は『本当は迷惑なんじゃないか』とか『無理して付き合ってくれてるんじゃないか』とか思っちゃうわけですよ。
そうじゃなくて、那智さんの言葉を額面通り素直に受け取る。
『いまはダメ』と言われれば、そうなんだとシンプルな感情でいる。
まあ、これは、そう思わせてくれるほど土台を安定させてもらってるからできるのですけどね^^;
そういう公平な心で那智さんの言葉や行為を受けることが、疑うことなく身を任せるということだと思ってる。
で、もうひとつ難しいのは、そこで生まれた感情を素直に表現するということなんだ。
素直に表現するというと、なんでも言っていいというような印象を受けるけど、違っててね。
(『素直に伝えるということ』『感情教育1、2』あたりを読んでみてね〜)
那智さんはわたしに、恥ずかしい思いをさせたりからかったりして可愛がるのだけど。
言葉選びやわたしのバイオリズムで、時には『グサッ』ときたり『カチン』ときたりするときもある。
自己嫌悪に発展してしまうこともある。
人ってこういう感情が生まれたときって、そこから別な感情に発展してしまうものですよね。
『グサッ』ときたから傷つけてやろうとか。
『カチン』ときたから言い負かしてやろうとか。
自己嫌悪にさせられたから、押し黙って困らせてしまうとか。
そういう八つ当たりやいじけや自分を卑下するような二次的なねじれた感情を加えず、ただ『傷ついた』『悲しい』という感情だけを伝えることを『素直に表現する』だと思っているのです。
あ、もちろん『悲しい』に蓋をしてしまうことも、素直じゃありません^^
そんでもって、『うれしー!!』とかも、当然すなおーーーに表現します^^
ついでに、わがまま言いたいときは『わがまま言います』と宣言してから、言います、これでオッケイ^^
人はとかく優劣を付けたがるものだ。
言い負かしたいとか、どうせわたしなんてとか、優にも劣にもなってしまいやすいもの。
それをせずに公平な心でいることが、『素直』だと思っている。
これもけっこう難しいと思うのだ。
疑うことなく身を任せ。
生まれた感情を素直に表現する。
那智さんに守られ従い委ねる上下の『下』でいるには、これがとても大事なことなのです。
これは、対等で上下なんていう説明不能なわたしたちの関係に於いて大事なことなので、二次的な感情がいけないといっているのではありませんよ。
そういう感情を元に話し合いが深まっていくこともあるかもしれませんしね。
思うのだけど。
那智さんとわたしは、実は似ているのだ。
わたしが持っているいろんな音を拾ってしまうアンテナ、これに似たものを那智さんも持っているのだと思う。
多分、那智さんはわたしを困らせた『無価値感』や『不安定』のない人だったから、アンテナでいろいろ拾っても対処できていたのだと思うけど、いろいろ拾っていたんじゃないかな〜と思う。
(『アンテナ』『チューニング』)
それとわたしと同じように『相手に快適でいてもらいたい』という気持ちも強い人なんだと思う。
対峙している相手の負の感情、たとえば。
『カチン』ときた→ムカついた→やり返してやろう→傷つく言葉をいう。
『グサッ』ときた→悲しい→いじける→黙り込む。
こんなふうに、相手の不機嫌は察知できて、快適でいてもらおうと気持ちを探るけど、二次的な感情を加えて表現されてしまうと解決の糸口が見つからず困ってしまうのだ。
(勝手にしろ!!とか、逆切れみたいなこと、絶対しない人だからね、頑張って解決したくなっちゃうのですね)
結果、面倒だから言いたいことをいうのをやめようと思ってしまうらしい。
那智さんはわたしと感性が合うと言ってくれている、そして深く付き合いたいと思ってくれている。
だから、言いたいことを抑えようと思いたくないのだ。
それで素直に表現することが課せられているのです。
これを言ったら不機嫌になっちゃうかなとか考えず、りん子には言いたいことを言いたい。
それを受けたわたしは、感情を素直に表現する。
たとえば、それで悲しくなったとしたら、言いたいことを言い、素直に表現させた那智さんの責任。
でも、それで解決できている限り、那智さんはいらぬ気遣いをせずにわたしと付き合っていられるのだ。
基本的に優しい人なので、言いたいことを言うといっても、暴言なんて吐きませんよ^^
だけど、好きなだけからかって遊んで、酷いことをして、ときには、わたしの心にズカズカと踏み込み(『那智マニア』)、思い切り那智さんのやり方でわたしを可愛がるには、こちらの心構えも必要なのです。
わかりにく内容で、ながーい自分フォロー(笑)
更にフォローするために、文中リンクも敢えてタイトル付きで!!
読んでいただけるとうれしいです。
那智さんがわたしにゴールを設定しない理由やその関係を維持するこちらの心構えなどを書いて、次は『じゃあ、なんでそんな面倒なことを』というお話です。
その理由はわかっているのだけど、原因はわかっていないので、ちょっとどうなるか〜^^;
気合い充実できたら次回で、充実できなかったら、そのまた次回とかになっちゃうかも〜^^;
気長に待っていてね^^
話逸れますが。
拍手機能、とても喜んでおります。
おなじみの人、久しぶりの人、はじめましての人、拍手だけじゃなくて拍手コメントもいただけてとても嬉しいです。
でもね、お名前を書いていただけていないと、ちょっと淋しいのでコメント残されるかたはお名前もくださいね。
あと、拍手だけやお名前だけ拍手も嬉しいですよん。
過去エントリーにも拍手とコメントをいただけると、けっこうその方とわたしだけの秘密共有感が持てて楽しいので、気に入った過去エントリーにも歓迎です。
でも、拍手だけってわからないから、これだけエントリーがあるわたしのブログでは確実に埋もれちゃいますので、ご一緒にコメントもお願いします〜。
だけど、お返事できないことが、すごーくもどかしい。
だから、この場を借りて、拍手と拍手コメントくださったかた、ありがとうございました^^
表のコメントも大歓迎です^^
これぞ、気合いの充実^^
対等で上下
独特な幸福感
『ゴールを決めない』『ゴールを決めない理由』『疑うことなく身を任せ、素直に表現する』の続きです。
那智さんとわたしの『上下関係』。
優劣ではなく、上下。
従わせたい人と、従いたい人。
守りたい人と、守られていたい人。
責任を持つ人と、委ねる人。
わたしが『下』でいるために、疑うことなく素直に受け取り、自分の心を偽ることなく素直に伝えることが課せられている。
それにより、安心や快感を得て、わたしの人生自体を豊かにすることができている。
那智さんはどうだろう。
『上』でいるために、わたしの素直な感情を受け止め、対処し、引き続き素直でいられるように責任を果たしてくれている。
それで、那智さんもわたしに対して疑うことなく、好きなことができるという良い循環ができている。
好きな女性を喜ばせ、自分も好きなように振る舞える。
一見等価交換のようにも見えるけど、やはり上下の『上』の責任は大きく、性的な場面でも日常生活でも那智さんなんでこんな大変なことを引き受けてるんだろう?とひと事のように思ってしまう^^;
那智さんの『その類いの力』を使ったら、とりあえず適当な距離を保ちながらも、ある程度女性を好きに扱えるくらいはできそうなのにね。(『その類いの力』(笑)、きっとねある一部の女性のツボ突くのうまいはずだ!!)
じゃあ、なぜ、こんな面倒なことを引き受けてくれているのでしょうか。
ところで
わたしは、本来は簡単に『あなたのために』という思考回路になってしまう女だ。
それにより増長する男をたくさん見てきた。
増長していく男を見下していくのは嫌な感情だし、『あなたのために』を当然とする人では尊敬できない。
だから、上下を叶えるために対等でいたいと思ってる。
できるだけ『あなたのために』回路を使わないようにしているし、那智さんもわかってくれている。
基本は『ふたりのために』だよね。
だれど、M女さんのブログなどで『ご主人様のために』と頑張っている様子を拝見すると、ほんの少し那智さんに申し訳ないような気持ちになったりもするのだ。
なんだか不出来な女のような気がして。
あるとき、こんなふうに聞いてみた。
『わたしも、那智さんのためにという思考回路になったほうがいいですか?』
その答え。
なんで?そりゃあ、たまにはそういうケースがあってもいいかもしれないけど、いつもそれじゃあ違うよね。
だって、常に俺のためにとりん子が動いたら、りん子主導になってるじゃん。
それはつまらない。
俺はプロデュースしたいんだから。
そうなんだ、那智さんはプロデュースしたいんだよね。
先日お会いしたときに熟桃さんがまさにぴったりな形容をしてくださって、物凄くうなずいたのですが。
(お名前出させていただきました〜、こんなエントリーにすみません、熟桃さん)
『那智さんはシェフだ』とおっしゃった。
自分の作った料理でもてなして、それで喜んでもらうことが喜びのシェフ。
喜んでもらうことが目的だからジャンルはそれほどこだわらずに、とにかく自分の作った物で喜ばせたいという思いが強い。(だからか〜、痛いことも露出もノーマルのいろいろするの^^)
熟桃さんの洞察にとても感心させていただきながら、これ以上ぴったりな形容はないな〜と喜んでしまってました。
そうなのですね。
那智さんはプロデューサーもしくはシェフ。
自分のすることで、相手を喜ばせたい。
その思いがとても強い人なのだ。
で、那智さんの『歪んでいる』ところは、それが強く、強いが故に
『普通、それ嫌がるよね』ということで喜ばせたいという嗜好と。(スカトロや、鞭だってそうだよね?)
人生そのものまで手がけてしまいたいという願望。
という、特殊なことをしようとしているところに現れているところだと思う。
そして、それは何に繋がっているかというと。
肯定。
それもちょっとやそっとじゃない、大大大肯定^^
サディストは違うと思うのだけど、ご主人様という立場を選ぶ人ってこの肯定してほしいという感情が根っこにあると思ってるの。
人は肯定してほしい生き物だけど、それが強いのではないかと。(『鼻くそ』にちょこっとだけ書きました)
それが『従わせる』ということで満たしているんじゃないかと思うのだ。
つらいことでもご主人様のために我慢して受け入れる、もしくは、そこから快感に繋がる。
つらいことでもそれを喜べるように仕込んで、普通嫌がるよねということで喜ぶ女にする。
ご主人様という人はこんなことで肯定を求めていると思う。
前者と後者、似てるけど違うと思う、どちらが良いかということじゃなけど、那智さんは後者の方法で肯定を感じたいのだと思う。
だから、シェフ^^
うわ、その食材!?…あ、でも、那智さんが作ったらおいしーーー♪みたいにね。
もうひとつ、那智さんを見ているととても愛情深い人だなと思う。
人によって捉え方は違うと思うけど、関わると決めた人にはとことん関わる様子を見ていると、薄情な人にはできないなと感じる。
那智さんは愛情を注ぎ、相手が豊かになっていくことで、この肯定感を満たしているんだと思う。
でね、これも那智さんとわたしが似ているなと感じるところなんだけど。
わたしの『○○のために』と思ってしまうことに代表されるぬるま湯状態は男性を増長させ、それにいつの間にか『りん子には何をしてもかまわない』と思わせてしまうところがあった。
那智さんの、上下しない感情表現と関わると決めた人に対する深い愛情は、受け取る側が自覚しないとただ甘えるだけになってしまう恐れがあるのだ。
どんなに那智さんが諭しても、受け取る側が甘えることが当然となってしまっては、関係はうまくいかない。
恐らく、那智さんも、違った道筋ではあるけど、増長されていく虚しさを感じたことがあるはずなんだ。
だから、多分那智さんは。
適正な愛情の注ぎ先を求めていたのだと思う。
那智さんの愛情の注ぎ方に対してねじれた気持ちになることなく素直に受け取り、素直に感情を表現する。
こういうことで、那智さんは大大大肯定を感じているのではないかと思うのです。
那智さんは
安心して従えるように。
伸び伸びと生きられるように守り。
委ねたことの責任を取る。
一見とても面倒なことを引き受けているようだけど、それにより他では得ることのできない肯定感を満たしているんじゃないかと思うのです。
これをほしいと思うことが那智さんの『歪み』だと思ってます。
だってね、いくら他で得ることのできないといっても、やっぱりかなり面倒ですものね。
面倒でも大変でもしたいと思うことが那智さんの『歪み』。
で、この歪みが、先天的なものか後天的なものか、まだ探れていないのです。
探れるのはわたしだけだと思うのだけど。
わたし、那智さんみたいにとことん付き合う自信がないから、いまのところしないでいるのです^^
まあ上下の『下』なので、する必要もないかと思ってるけど、何十年かして他に掘り起こすことがなくなったら着手しようかなと、ふたりして思うかもしれないですね、那智さん。
わたしは那智さんの手のひらに乗せてもらって安心して委ねさせてもらうことで、愛される価値があると思えるようになり。
那智さんは、手のひらのわたしが幸せそうに、素直に泣いたり笑ったり眠ったり驚いたりしているのを眺めて、肯定されていると感じることができている。
わたしが、お手間取らせてしまって申し訳ないなと思いながらも自分を卑下することなくいられるのは、わたしの存在が那智さんの幸福に繋がっていると思えるから。
しかも、多分、そこは那智さんの『歪み』なので、恐らく尋常じゃない幸福に繋がっているはずなんだ。
歪みは叶えば、それはきっとすごーい幸福になると思うのです、わたしの父性を求める歪みのように。
互いの存在が同じように相手を幸せにできているから、優劣のないと思える。
これが、対等な上下関係。
お互い人間同士なので、ときどき立ち止まり話し合ったり解決したりもするけれど、基本はこの関係。
これを対等な上下関係と思っているのです。
相手の、特に『上』の歪みを認め合って、それを書いているところなんてあんまりないよね^^;
でも、那智さんのその歪みはとても人間味溢れて、全知全能の神よりもずっと魅力的に思える。
そして、『上』でありながら、歪みを披露するを許してくれて、むしろわたしが伸び伸びと書くことを喜んでくれている。
そんな那智さんは、すごーく『上』だと思うのだ^^
気がつけば4回に渡ってしまったけど、はじめて自分なりに『対等で上下』を言葉に表せたような気がします。
とても個人的なお話にお付き合いくださって、ありがとうございました。
わたし的には、すーっきりです^^
あ、でも、やっぱり、多分、いや絶対、那智さんのほうが大変。
歪みなんて言っちゃってるけど、わたしはその歪みに感謝なのでした^^
『ゴールを決めない』『ゴールを決めない理由』『疑うことなく身を任せ、素直に表現する』の続きです。
那智さんとわたしの『上下関係』。
優劣ではなく、上下。
従わせたい人と、従いたい人。
守りたい人と、守られていたい人。
責任を持つ人と、委ねる人。
わたしが『下』でいるために、疑うことなく素直に受け取り、自分の心を偽ることなく素直に伝えることが課せられている。
それにより、安心や快感を得て、わたしの人生自体を豊かにすることができている。
那智さんはどうだろう。
『上』でいるために、わたしの素直な感情を受け止め、対処し、引き続き素直でいられるように責任を果たしてくれている。
それで、那智さんもわたしに対して疑うことなく、好きなことができるという良い循環ができている。
好きな女性を喜ばせ、自分も好きなように振る舞える。
一見等価交換のようにも見えるけど、やはり上下の『上』の責任は大きく、性的な場面でも日常生活でも那智さんなんでこんな大変なことを引き受けてるんだろう?とひと事のように思ってしまう^^;
那智さんの『その類いの力』を使ったら、とりあえず適当な距離を保ちながらも、ある程度女性を好きに扱えるくらいはできそうなのにね。(『その類いの力』(笑)、きっとねある一部の女性のツボ突くのうまいはずだ!!)
じゃあ、なぜ、こんな面倒なことを引き受けてくれているのでしょうか。
ところで
わたしは、本来は簡単に『あなたのために』という思考回路になってしまう女だ。
それにより増長する男をたくさん見てきた。
増長していく男を見下していくのは嫌な感情だし、『あなたのために』を当然とする人では尊敬できない。
だから、上下を叶えるために対等でいたいと思ってる。
できるだけ『あなたのために』回路を使わないようにしているし、那智さんもわかってくれている。
基本は『ふたりのために』だよね。
だれど、M女さんのブログなどで『ご主人様のために』と頑張っている様子を拝見すると、ほんの少し那智さんに申し訳ないような気持ちになったりもするのだ。
なんだか不出来な女のような気がして。
あるとき、こんなふうに聞いてみた。
『わたしも、那智さんのためにという思考回路になったほうがいいですか?』
その答え。
なんで?そりゃあ、たまにはそういうケースがあってもいいかもしれないけど、いつもそれじゃあ違うよね。
だって、常に俺のためにとりん子が動いたら、りん子主導になってるじゃん。
それはつまらない。
俺はプロデュースしたいんだから。
そうなんだ、那智さんはプロデュースしたいんだよね。
先日お会いしたときに熟桃さんがまさにぴったりな形容をしてくださって、物凄くうなずいたのですが。
(お名前出させていただきました〜、こんなエントリーにすみません、熟桃さん)
『那智さんはシェフだ』とおっしゃった。
自分の作った料理でもてなして、それで喜んでもらうことが喜びのシェフ。
喜んでもらうことが目的だからジャンルはそれほどこだわらずに、とにかく自分の作った物で喜ばせたいという思いが強い。(だからか〜、痛いことも露出もノーマルのいろいろするの^^)
熟桃さんの洞察にとても感心させていただきながら、これ以上ぴったりな形容はないな〜と喜んでしまってました。
そうなのですね。
那智さんはプロデューサーもしくはシェフ。
自分のすることで、相手を喜ばせたい。
その思いがとても強い人なのだ。
で、那智さんの『歪んでいる』ところは、それが強く、強いが故に
『普通、それ嫌がるよね』ということで喜ばせたいという嗜好と。(スカトロや、鞭だってそうだよね?)
人生そのものまで手がけてしまいたいという願望。
という、特殊なことをしようとしているところに現れているところだと思う。
そして、それは何に繋がっているかというと。
肯定。
それもちょっとやそっとじゃない、大大大肯定^^
サディストは違うと思うのだけど、ご主人様という立場を選ぶ人ってこの肯定してほしいという感情が根っこにあると思ってるの。
人は肯定してほしい生き物だけど、それが強いのではないかと。(『鼻くそ』にちょこっとだけ書きました)
それが『従わせる』ということで満たしているんじゃないかと思うのだ。
つらいことでもご主人様のために我慢して受け入れる、もしくは、そこから快感に繋がる。
つらいことでもそれを喜べるように仕込んで、普通嫌がるよねということで喜ぶ女にする。
ご主人様という人はこんなことで肯定を求めていると思う。
前者と後者、似てるけど違うと思う、どちらが良いかということじゃなけど、那智さんは後者の方法で肯定を感じたいのだと思う。
だから、シェフ^^
うわ、その食材!?…あ、でも、那智さんが作ったらおいしーーー♪みたいにね。
もうひとつ、那智さんを見ているととても愛情深い人だなと思う。
人によって捉え方は違うと思うけど、関わると決めた人にはとことん関わる様子を見ていると、薄情な人にはできないなと感じる。
那智さんは愛情を注ぎ、相手が豊かになっていくことで、この肯定感を満たしているんだと思う。
でね、これも那智さんとわたしが似ているなと感じるところなんだけど。
わたしの『○○のために』と思ってしまうことに代表されるぬるま湯状態は男性を増長させ、それにいつの間にか『りん子には何をしてもかまわない』と思わせてしまうところがあった。
那智さんの、上下しない感情表現と関わると決めた人に対する深い愛情は、受け取る側が自覚しないとただ甘えるだけになってしまう恐れがあるのだ。
どんなに那智さんが諭しても、受け取る側が甘えることが当然となってしまっては、関係はうまくいかない。
恐らく、那智さんも、違った道筋ではあるけど、増長されていく虚しさを感じたことがあるはずなんだ。
だから、多分那智さんは。
適正な愛情の注ぎ先を求めていたのだと思う。
那智さんの愛情の注ぎ方に対してねじれた気持ちになることなく素直に受け取り、素直に感情を表現する。
こういうことで、那智さんは大大大肯定を感じているのではないかと思うのです。
那智さんは
安心して従えるように。
伸び伸びと生きられるように守り。
委ねたことの責任を取る。
一見とても面倒なことを引き受けているようだけど、それにより他では得ることのできない肯定感を満たしているんじゃないかと思うのです。
これをほしいと思うことが那智さんの『歪み』だと思ってます。
だってね、いくら他で得ることのできないといっても、やっぱりかなり面倒ですものね。
面倒でも大変でもしたいと思うことが那智さんの『歪み』。
で、この歪みが、先天的なものか後天的なものか、まだ探れていないのです。
探れるのはわたしだけだと思うのだけど。
わたし、那智さんみたいにとことん付き合う自信がないから、いまのところしないでいるのです^^
まあ上下の『下』なので、する必要もないかと思ってるけど、何十年かして他に掘り起こすことがなくなったら着手しようかなと、ふたりして思うかもしれないですね、那智さん。
わたしは那智さんの手のひらに乗せてもらって安心して委ねさせてもらうことで、愛される価値があると思えるようになり。
那智さんは、手のひらのわたしが幸せそうに、素直に泣いたり笑ったり眠ったり驚いたりしているのを眺めて、肯定されていると感じることができている。
わたしが、お手間取らせてしまって申し訳ないなと思いながらも自分を卑下することなくいられるのは、わたしの存在が那智さんの幸福に繋がっていると思えるから。
しかも、多分、そこは那智さんの『歪み』なので、恐らく尋常じゃない幸福に繋がっているはずなんだ。
歪みは叶えば、それはきっとすごーい幸福になると思うのです、わたしの父性を求める歪みのように。
互いの存在が同じように相手を幸せにできているから、優劣のないと思える。
これが、対等な上下関係。
お互い人間同士なので、ときどき立ち止まり話し合ったり解決したりもするけれど、基本はこの関係。
これを対等な上下関係と思っているのです。
相手の、特に『上』の歪みを認め合って、それを書いているところなんてあんまりないよね^^;
でも、那智さんのその歪みはとても人間味溢れて、全知全能の神よりもずっと魅力的に思える。
そして、『上』でありながら、歪みを披露するを許してくれて、むしろわたしが伸び伸びと書くことを喜んでくれている。
そんな那智さんは、すごーく『上』だと思うのだ^^
気がつけば4回に渡ってしまったけど、はじめて自分なりに『対等で上下』を言葉に表せたような気がします。
とても個人的なお話にお付き合いくださって、ありがとうございました。
わたし的には、すーっきりです^^
あ、でも、やっぱり、多分、いや絶対、那智さんのほうが大変。
歪みなんて言っちゃってるけど、わたしはその歪みに感謝なのでした^^