お散歩の裏話2
独特な幸福感
ああ、うまくまとめられなかった。
でも、アップしちゃおう。
6mのお散歩を通して那智さんの覚悟や心の一面を知り、わたしの心構えを教えてもらったりして、また少し理解し合えたなと嬉しい気持ちになった。
そして、もうひとつ、これもわたしにとって一歩前進なことがあった。
相変わらずぼんやりとしたままだけど、わたしの『核』を感じさせてくれるような、一歩。
それはね、最初はふたりの認識の違いからわかったことだったんだ。
凹みでカウントを始めたとき。
那智さんは時々カウントダウンをして遊ぶことはあるけれど、ああいう重要な場面ではほとんどしないのね。
『やらせる目』などはあっても、強制するようなことはしないんだ。
那智さんにとって、わたしの喜びに繋がらないと意味がないので、きちんと理由を説明すればそこに至までのプロセスは基本的に自由。
だから、『いま、ちょっと怖いから、わたしのタイミングでやらせてください』と言えば、わかってくれる。
だけど、あのとき、人の流れが収まるまで待ってほしいとお願いしたのに聞き入れてもらえなかった。
だから、なぜわかってもらえないの!!って、結局半ばやけっぱちで四つん這いになったんだ。
で、実は、那智さんはそれを理解できていなかったそうなんだ。
わたしがパニック気味に『人が来ているから』と訴えてたことが、那智さんには伝わっていなくて、ただの拒否にしか見えなかったのだそう。
しかも、人の流れには背を向けて立っていたから、余計に伝わりにくかったみたい。
だから、那智さんとしては『なぜ?』という疑問でカウントダウンだったらしいのだ。
基本的に性的な場面では拒否権のないわたし。
那智さんんがやらせようと思えば、それはもう『やる』ことに決まっている。
それなりの理由があれば拒否も受け入れたとしても、ただの拒否は通用しないとわかっているはずなのに、いくら首を振っても拒否し続けるりん子に、疑問を持ち、仕方なくカウントダウンをしたのだ。
多分、わたしの訴えがまともに伝わっていれば、那智さんは待ってくれたはずなんだ。(ということはお散歩にも発展しなかった?)
お互い『なぜ?』という思いが残ったままのわんこだったということが、後の電話で発覚したのだ。
まあ、わたしは、その後は必死で、さらに足の動きから幸福を感じることはできた。
だけど、那智さんもそれなりに楽しめはしたけど、やはり疑問は残ったままだったのだそう。
声をかけられて驚いた分楽しめなかったことは、仕方ない、今後の参考になるしね。
だけど、わたしとの間のことで疑問を感じながら十分楽しめなかったことは、とても珍しく、わずかな影を残したのだ。
極端な、すごく極端な言い方をすれば。
那智さんにとって、あのカウントダウンは『強制』で、お散歩は結果的に『制裁』になってしまったということになる。
基本的に、『強制』も『制裁』もせずに、わたしに酷いことをして可愛がりたいのだから、那智さんからしたら不本意な結果だったわけです。
だから、拒否をするわたしに『ムカついたり怒ったりはしていないけど、わずかに疑問が残った』ということだったのです。
これを聞いたとき、自分でも驚くほどあっという間に涙が溢れてきた。
面白いくらいに心が急速に悲しくなっていく。
大げさな言い方だけど、絶望を想像するくらい、悲しかった。
なぜだろう。
こんなにわたし頑張ったのに!!という悔しい気持ちでもなくて。
那智さんに満足してもらえなかったという殊勝な気持ちでもなくて。
ああ、共有できていなかったんだという淋しい気持ちだったんだ。
そのとき思ったの。
わたしは那智さんと『幸せの共有』をしていたいんだなって。
好きな人と見る桜はとてもきれいだ。
好きな人と「おいしいね〜」といいながら食べる食事は、格段においしい。
それは『幸せを共有』しているからだよね。
わたしは、桜もお食事ももちろんだけど、どんな場面でも、ギリギリの状態ででも那智さんと『幸せの共有』をしていたいんだ。
違う人間同士、まったく同じ感覚を共有するということは難しいかもしれない。
でも、お互い誤解することなく、相手の気持ちをわかり合えるということが『幸せの共有』になれると思う。
この味ちょっと濃いね。
そう?わたしは好きだよ。
うん、でもこのソースは好きな味。
そうだね、おいしいね。
こんなふうに、大切な人の気持ちを理解できると、感じることは違っても料理はおいしくなると思うのだ。
このような好きな人と気持ちを共有したいという思いは、理解していただきやすいかもしれない。
この先のことがちょっとわかりにくいと思うのだけど、読んでみてください。
わたしは、同化願望が強いので、那智さんと同じ景色を見ていたい、同じ気持ちになることは難しくてもできるだけ気持ちに寄り添っていたいという思いが強いみたいなのだ。
だから、わんこで那智さんがわたしに対して『?』と思いながら散歩をしていたという事実は、同じ景色を見ることができていなかったといことに感じられて、とても悲しかった。
那智さんとわたしには上下関係がある。
優劣ではなく、上下。
上下という立場を選んでいる。
従わせたい人と、従いたい人。
守りたい人と、守られていたい人。
責任を持つ人と、委ねる人。
そういうことを上下を呼んでいる。
これには優劣ないよね?
対等で等価値がある中での上下関係。
ご主人様のための滅私じゃないと理解していただけるかな。
この『下』の立場で感じる『幸せの共有』を求めているんだと、とても感じたのです。
娘がお父さんの膝の上に座って、一緒にテレビを観て笑っている。
違う立場で同じ幸せを共有しているよね。
ボール遊びをしている飼い主と犬も。
拾ってきたボールを受け取りよしよししている飼い主と、撫でられている犬にも幸せの共有があるはずだ。
優劣や、どちらかが我慢するようなこともなく、『上』と『下』双方違う立場で幸せを共有しているよね。
わたしは、投げられたボールを何度も拾いに行く、何度も何度も。(ときどき、すねたりするけど^^;)
そこにあるのは、献身でも忠誠でもない。
原動力は命令や厳しさではなく、下の立場から感じる幸せの共有。
お互い『あれ?』と思うことなく、わかり合う幸せを感じていたい。
例え違う意見を持っていたとしても、それを理解し合いたい。
で、さらに、同化していたい『下』のわたしは、那智さんに寄り添うような感覚で共有していたいと思うのだ。
疑うことなくまっすぐな気持ちで、あなたの気持ちに寄り添いたい。
滅私じゃない、忠誠じゃない、だけど、那智さんの満足はわたしの満足。
そんな感じかな。
だから、今回、わたしの本意が伝わっていなくて、那智さんにとって『わずかな疑問』を持ったままのわんこだったことが、悲しくてしかたなかった。
しゃくり上げるほど泣いている自分を不思議に思いながら、わかり合えていなかったことがこんなにもショックだなんて、わたしは『下』として寄り添いながら『幸せの共有』をしたいんだなと思った。
これってなんだろう。
M?従属?父性?
わたしはマゾです、奴隷です、犬です、娘です、どれもピースがはまりそうではまらないと思ってた。
『奴隷』は違うと気づいたので早々に脱ぎ捨てたけど^^、それ以外のものも、ちょっとサイズの合わない服を着ているような、違わないけどジャストじゃないという感覚。
だから、普段はTPO(?)に合わせて伝わりやすい名称を選んでる感じだった。
ブログでもその時によって、親子や犬やマゾやいろいろ使ってるし、『大切にされながら酷いことをしてほしい』とか『父性の毛布にくるまりたい』とか、いろんな言葉を使ってなんとか伝えたいと四苦八苦している。
だけど『これ!!』というものが、まだわかっていない。
結局今回もぴったりピースははまっていないけど。
わたしの求めているものは『下の立場で幸せの共有をしていたい』だ。
これは『核』に近い感じがする。
お散歩のあといろいろな話しをして、ちょっと『核』に近づけた感じがするので、一歩前進なのでした。
で、これってなんて呼んだらいいのだろう?
なにか当てはまる名称を探しているのだけど、まだ見つかっていない^^;
ああ、うまくまとめられなかった。
でも、アップしちゃおう。
6mのお散歩を通して那智さんの覚悟や心の一面を知り、わたしの心構えを教えてもらったりして、また少し理解し合えたなと嬉しい気持ちになった。
そして、もうひとつ、これもわたしにとって一歩前進なことがあった。
相変わらずぼんやりとしたままだけど、わたしの『核』を感じさせてくれるような、一歩。
それはね、最初はふたりの認識の違いからわかったことだったんだ。
凹みでカウントを始めたとき。
那智さんは時々カウントダウンをして遊ぶことはあるけれど、ああいう重要な場面ではほとんどしないのね。
『やらせる目』などはあっても、強制するようなことはしないんだ。
那智さんにとって、わたしの喜びに繋がらないと意味がないので、きちんと理由を説明すればそこに至までのプロセスは基本的に自由。
だから、『いま、ちょっと怖いから、わたしのタイミングでやらせてください』と言えば、わかってくれる。
だけど、あのとき、人の流れが収まるまで待ってほしいとお願いしたのに聞き入れてもらえなかった。
だから、なぜわかってもらえないの!!って、結局半ばやけっぱちで四つん這いになったんだ。
で、実は、那智さんはそれを理解できていなかったそうなんだ。
わたしがパニック気味に『人が来ているから』と訴えてたことが、那智さんには伝わっていなくて、ただの拒否にしか見えなかったのだそう。
しかも、人の流れには背を向けて立っていたから、余計に伝わりにくかったみたい。
だから、那智さんとしては『なぜ?』という疑問でカウントダウンだったらしいのだ。
基本的に性的な場面では拒否権のないわたし。
那智さんんがやらせようと思えば、それはもう『やる』ことに決まっている。
それなりの理由があれば拒否も受け入れたとしても、ただの拒否は通用しないとわかっているはずなのに、いくら首を振っても拒否し続けるりん子に、疑問を持ち、仕方なくカウントダウンをしたのだ。
多分、わたしの訴えがまともに伝わっていれば、那智さんは待ってくれたはずなんだ。(ということはお散歩にも発展しなかった?)
お互い『なぜ?』という思いが残ったままのわんこだったということが、後の電話で発覚したのだ。
まあ、わたしは、その後は必死で、さらに足の動きから幸福を感じることはできた。
だけど、那智さんもそれなりに楽しめはしたけど、やはり疑問は残ったままだったのだそう。
声をかけられて驚いた分楽しめなかったことは、仕方ない、今後の参考になるしね。
だけど、わたしとの間のことで疑問を感じながら十分楽しめなかったことは、とても珍しく、わずかな影を残したのだ。
極端な、すごく極端な言い方をすれば。
那智さんにとって、あのカウントダウンは『強制』で、お散歩は結果的に『制裁』になってしまったということになる。
基本的に、『強制』も『制裁』もせずに、わたしに酷いことをして可愛がりたいのだから、那智さんからしたら不本意な結果だったわけです。
だから、拒否をするわたしに『ムカついたり怒ったりはしていないけど、わずかに疑問が残った』ということだったのです。
これを聞いたとき、自分でも驚くほどあっという間に涙が溢れてきた。
面白いくらいに心が急速に悲しくなっていく。
大げさな言い方だけど、絶望を想像するくらい、悲しかった。
なぜだろう。
こんなにわたし頑張ったのに!!という悔しい気持ちでもなくて。
那智さんに満足してもらえなかったという殊勝な気持ちでもなくて。
ああ、共有できていなかったんだという淋しい気持ちだったんだ。
そのとき思ったの。
わたしは那智さんと『幸せの共有』をしていたいんだなって。
好きな人と見る桜はとてもきれいだ。
好きな人と「おいしいね〜」といいながら食べる食事は、格段においしい。
それは『幸せを共有』しているからだよね。
わたしは、桜もお食事ももちろんだけど、どんな場面でも、ギリギリの状態ででも那智さんと『幸せの共有』をしていたいんだ。
違う人間同士、まったく同じ感覚を共有するということは難しいかもしれない。
でも、お互い誤解することなく、相手の気持ちをわかり合えるということが『幸せの共有』になれると思う。
この味ちょっと濃いね。
そう?わたしは好きだよ。
うん、でもこのソースは好きな味。
そうだね、おいしいね。
こんなふうに、大切な人の気持ちを理解できると、感じることは違っても料理はおいしくなると思うのだ。
このような好きな人と気持ちを共有したいという思いは、理解していただきやすいかもしれない。
この先のことがちょっとわかりにくいと思うのだけど、読んでみてください。
わたしは、同化願望が強いので、那智さんと同じ景色を見ていたい、同じ気持ちになることは難しくてもできるだけ気持ちに寄り添っていたいという思いが強いみたいなのだ。
だから、わんこで那智さんがわたしに対して『?』と思いながら散歩をしていたという事実は、同じ景色を見ることができていなかったといことに感じられて、とても悲しかった。
那智さんとわたしには上下関係がある。
優劣ではなく、上下。
上下という立場を選んでいる。
従わせたい人と、従いたい人。
守りたい人と、守られていたい人。
責任を持つ人と、委ねる人。
そういうことを上下を呼んでいる。
これには優劣ないよね?
対等で等価値がある中での上下関係。
ご主人様のための滅私じゃないと理解していただけるかな。
この『下』の立場で感じる『幸せの共有』を求めているんだと、とても感じたのです。
娘がお父さんの膝の上に座って、一緒にテレビを観て笑っている。
違う立場で同じ幸せを共有しているよね。
ボール遊びをしている飼い主と犬も。
拾ってきたボールを受け取りよしよししている飼い主と、撫でられている犬にも幸せの共有があるはずだ。
優劣や、どちらかが我慢するようなこともなく、『上』と『下』双方違う立場で幸せを共有しているよね。
わたしは、投げられたボールを何度も拾いに行く、何度も何度も。(ときどき、すねたりするけど^^;)
そこにあるのは、献身でも忠誠でもない。
原動力は命令や厳しさではなく、下の立場から感じる幸せの共有。
お互い『あれ?』と思うことなく、わかり合う幸せを感じていたい。
例え違う意見を持っていたとしても、それを理解し合いたい。
で、さらに、同化していたい『下』のわたしは、那智さんに寄り添うような感覚で共有していたいと思うのだ。
疑うことなくまっすぐな気持ちで、あなたの気持ちに寄り添いたい。
滅私じゃない、忠誠じゃない、だけど、那智さんの満足はわたしの満足。
そんな感じかな。
だから、今回、わたしの本意が伝わっていなくて、那智さんにとって『わずかな疑問』を持ったままのわんこだったことが、悲しくてしかたなかった。
しゃくり上げるほど泣いている自分を不思議に思いながら、わかり合えていなかったことがこんなにもショックだなんて、わたしは『下』として寄り添いながら『幸せの共有』をしたいんだなと思った。
これってなんだろう。
M?従属?父性?
わたしはマゾです、奴隷です、犬です、娘です、どれもピースがはまりそうではまらないと思ってた。
『奴隷』は違うと気づいたので早々に脱ぎ捨てたけど^^、それ以外のものも、ちょっとサイズの合わない服を着ているような、違わないけどジャストじゃないという感覚。
だから、普段はTPO(?)に合わせて伝わりやすい名称を選んでる感じだった。
ブログでもその時によって、親子や犬やマゾやいろいろ使ってるし、『大切にされながら酷いことをしてほしい』とか『父性の毛布にくるまりたい』とか、いろんな言葉を使ってなんとか伝えたいと四苦八苦している。
だけど『これ!!』というものが、まだわかっていない。
結局今回もぴったりピースははまっていないけど。
わたしの求めているものは『下の立場で幸せの共有をしていたい』だ。
これは『核』に近い感じがする。
お散歩のあといろいろな話しをして、ちょっと『核』に近づけた感じがするので、一歩前進なのでした。
で、これってなんて呼んだらいいのだろう?
なにか当てはまる名称を探しているのだけど、まだ見つかっていない^^;
卵が先か、鶏が先か
りん子的独り言(生意気)
わたしが『主従』という言葉を耳にしたのはいつだったのか。
はっきり思い出せないのだけど、そのときからいままで描いていた『主従』というものと、SM?主従?界の常識的な主従は、違うものなんじゃないかと感じている。
わたしの認識が間違っていたのかもしれない。
望んでいたものは『奴隷』ではなく、主従という関係に身を置いたことがないので、想像で言わせていただくことと、関係は千差万別ではあるので一般的なイメージで言わせていただくことをお許しください。
また、いつものように、『奴隷願望』という性癖をお持ちの方はわたしのいうことに該当しないです。
わたしのように、従属、同化、依存願望があり、それと奴隷願望と混同してしまって性癖として『奴隷願望』がないのに、恋心や不安定が故に『理不尽な関係』に身を置いて苦しいと思っている方へ。
その苦しさは正当な苦しさで、改善するべきというエールです。
この考えが浮かんだのは『犬気質』でパイパン大好きさんがくださったコメントを読んだことがきっかけだった。
コメントから考えたことを書かせていただきますね。
ちょっと辛口になっちゃうかもしれないけど、パイパン大好きさんに向けてじゃないからね^^
引っ張り出しちゃってごめんなさい。
コメント無理しないでね^^;
パイパン大好きさんは、『わたしは犬気質で甘えん坊の下の子型だ』というエントリーにコメントをくださって。
犬の行動で飼い主の質も見えるから、躾けるべきときは躾けるメリハリが大事と書かれていました。
そして、ご自身は『頑張り屋さんの上の子』が好みと。
そして、最後に下の言葉で締めくくってくださいました。
『私が思うに
飼い主:「忠実に従ってくれるから 可愛いと褒める、、可愛がる」
イ ヌ:「可愛がってくれるから、、従う、忠誠になる、、更に 可愛がってもらう」
両方アリなのでは?
どちらが先かなんって「卵が先か! 鶏が先か!」の議論に近いかもと思います。』
これに対するわたしの意見^^
レスにも書いたけど、基本的に人付き合いは『鶏が先か、卵が先か』の両方ありだと思います。
どちらが先ではなく、どちらから『先』でも良くて、親切にされれば、こちらもそうしたいと思う、こちらが親切にすれば、また親切で返ってくる。
職場でも友人関係でもそういう良い循環に、どちらが先っているのはないはずです。
普通の男女の付き合いに於いても。
これは岩月健司さんの本に書いてあったのだけど。
女性は心地よいことが大好きで心地よく愛情をくれた人のことが大好きになります。
そうするとその男性を肯定し応援したくなるのです。
男性というのは肯定して応援してくれる女性をもっと愛するようになる。
で、女性はもっと男性を肯定する。
こういう良い循環になるそうです。
これも、スタートはどちらからでも成立しますよね。
ということは、概ね人付き合いというものは、パイパン大好きさんのおっしゃるように『どちらが先』はないのでしょうね。
でも、『先』が存在する関係もあると思う。
主と従、主と奴隷。
そこに上下をつけたいなら『先』は存在すると思ってる。
そして、その『先』をするのは主従の『主』であり上下の『上』であるべきなんだ。
『上』に立つ人間が、常に『下』に与え、『下』はそれで安心して慕い付いていく。
こういうものを『主従』と呼ぶのだと思っていたし、いまも思ってる。
だけど、そうじゃない『主従』のほうが多いように感じるのはわたしだけだろうか。
もちろん付き合いはそれぞれだ。
だけどね、M女さんのブログを読んでいたり、こっそりメールで聞かせていただく方のお話を耳にすると、どうしてもM女さんが犠牲になっているように感じられることが多い。
そりゃあね、M女さんだって、誰だっていわけなくて、最初にこの人と思えたから主従関係になっているのでしょうけど。
やっぱりね、『最初』だけじゃダメなんだと思うのです。
女は『傷つく性』を持っている。
だから、常に性的な場面では大切にしてもらわないといけないんだ。
それは別に優しいセックスをしてくれと言っているんじゃなくてね、鞭を打つにも露出をするにも『心の交流』ができていないといけないと思うのです。
その『心の交流』を端折って、一方的に搾取している『上』と主従をしている人が多いと思う。
で、犠牲になったり搾取されたり、その一方的な立場で満たされる人もいると思うので、その方はきっと『奴隷願望』を満たしてらっしゃるのでしょう。(もちろん葛藤もされていると思うけど)
そうじゃなくて、一方的に搾取されて、それで苦しいと思っている方もけっこういるんじゃないかと。
もちろん、たくさん与えてもらっているM女さんもいらっしゃるでしょうから、どれが本物!!とは言えないのだけど、どうもこの『一方的に搾取する』関係が主従の主流な印象を受けるのだ。
でもって、それが『美徳』とされている。
ご主人様のためにってね。
で、これが主流だとするなら、わたしの認識は間違っていると思ったのだ。
だけど、ひとつ納得したことがあって。
『寿司とマヨネーズ』という本のプロローグに。
『ご主人様と奴隷という大人のゲームのような関係を、この上なくマジメに貫き通そうとしていました。』
という一節がある。
わたし、これを読んだときすごく腑に落ちたんだ。
お互い『ご主人様』と『奴隷』という役割を担ってこの上なくマジメに貫いていたのだとすれば、受け取るだけと与えるだけの関係は成り立つ。
ゲームなんだから、理不尽でもルールは存在するわけだ。
こういう一方的な、もしくは『1もらって10差し上げる』ような理不尽なバランス、これを『ゲーム』と捉えるならば、納得ができるのです。
ゲームという言葉を使っているから軽い印象を持たせてしまうとそれは本意ではありません。
奴隷という立場の多くの方は強い気持ちを持ってらっしゃると敬服するほどです。
『奴隷願望』をお持ちの方は、なにがしかの『ルール』があって、そこで一方的に搾取されることで満たされているのかもしれない。
そうじゃなくて、混同しやすいのだけど、依存や従属願望を持っている人は、誰かに従いたいのだけど、一方的に搾取されたいわけじゃないのだよね。
ご主人様のために我慢したいわけじゃないよね。
安心して付いていきたいだけだよね。
そういう女性と上下関係を築きたいならば。
『上』が『先』じゃないといけないんだ。
相手を『下』にして跪かせるのではなく、自分が常に『与える存在』でいることで『上』でいられると思うのだ。
それは、『甘やかしでない、甘えさせ』だったり『大きな安心』だったり『支えているというシグナル』だったり。
そういうことで、『下』は『上』を尊敬して従いたいと思うのです。
わたしと那智さんの間にも『性的な場面で拒否権はない』という決まり事はある。
でも、それはそのほうが『わたしが』幸せだからだ。
でもって、その決まり事をなしにするとわたしが決めても、那智さんとの関係は変わらない。
ルールによって成り立つ関係は、そのルールを解消したら関係自体の解消になっちゃうとするなら、この決まり事とは違うと思うのです。
『命令』や『強制』をしたり、『お前が言うことを聞けば、可愛がる』というような『先にちょうだい』をした時点で、上下が逆転してしまうように感じられるのはわたしだけだろうか。
だから、『上』が『先』であるべきなんだ。
もちろんね、形はそれぞれで『ルール』があるように感じるのはわたしの勝手なイメージです。
そうじゃない主従もあるでしょう。
また、その『ルール』があるから満たされる人もいるはずです。
その方たちは該当していないので、どうか流してください。
だけど、『ルール』に疑問を持ち、それで苦しい思いをしている人がいるのなら。
あなたの望む主従と、それは違うかもしれない。
それで、搾取されることに喜びを感じられないことは正当なことで、そう思う自分を責めちゃいけない。
あなたが持っているものは『奴隷願望』じゃない。
ただ、安心して付いていきたいだけだ。
だから、いま流している涙は、自分を労る正当な涙。
『先』に与えてくれて、さらに安心と尊敬を与え続けてくれる人に従いたい。
そこには、誰も犠牲にすることなく心地よい『上下関係』が生まれるはずだ。
『従う』なんていうルールは作らないでいい、常に見極め、その都度『従う』を更新しつづけるのだ。
何度も更新しつづけ、それでも常に従いたいと思うことが『主従』だと思っていた。
でも、もし、はじめから『下』に課せられたルールの上で成り立っていて。
『上』のほうから『先にちょうだい』をして、『下』が与え。
で、そのルールをなくしたら続かないような関係の『主従』があるなら。
わたしの認識は間違っていたことになる。
で、それが『主従』の主流なら、やっぱりわたしは主従じゃなくていい。
我慢するM女が美徳なら、わたしは悪徳M女でいい。
ただ、那智さんとふたりで幸福を共有したいだけだもの。
だから、そこに上下をつけたいならば、鶏が先か、卵が先か、『先』はある。
常に、『上』が『先』でなきゃいけない。
犬だって、まず食住を与えてもらって、はじめて懐くもんね。
わたしが『主従』という言葉を耳にしたのはいつだったのか。
はっきり思い出せないのだけど、そのときからいままで描いていた『主従』というものと、SM?主従?界の常識的な主従は、違うものなんじゃないかと感じている。
わたしの認識が間違っていたのかもしれない。
望んでいたものは『奴隷』ではなく、主従という関係に身を置いたことがないので、想像で言わせていただくことと、関係は千差万別ではあるので一般的なイメージで言わせていただくことをお許しください。
また、いつものように、『奴隷願望』という性癖をお持ちの方はわたしのいうことに該当しないです。
わたしのように、従属、同化、依存願望があり、それと奴隷願望と混同してしまって性癖として『奴隷願望』がないのに、恋心や不安定が故に『理不尽な関係』に身を置いて苦しいと思っている方へ。
その苦しさは正当な苦しさで、改善するべきというエールです。
この考えが浮かんだのは『犬気質』でパイパン大好きさんがくださったコメントを読んだことがきっかけだった。
コメントから考えたことを書かせていただきますね。
ちょっと辛口になっちゃうかもしれないけど、パイパン大好きさんに向けてじゃないからね^^
引っ張り出しちゃってごめんなさい。
コメント無理しないでね^^;
パイパン大好きさんは、『わたしは犬気質で甘えん坊の下の子型だ』というエントリーにコメントをくださって。
犬の行動で飼い主の質も見えるから、躾けるべきときは躾けるメリハリが大事と書かれていました。
そして、ご自身は『頑張り屋さんの上の子』が好みと。
そして、最後に下の言葉で締めくくってくださいました。
『私が思うに
飼い主:「忠実に従ってくれるから 可愛いと褒める、、可愛がる」
イ ヌ:「可愛がってくれるから、、従う、忠誠になる、、更に 可愛がってもらう」
両方アリなのでは?
どちらが先かなんって「卵が先か! 鶏が先か!」の議論に近いかもと思います。』
これに対するわたしの意見^^
レスにも書いたけど、基本的に人付き合いは『鶏が先か、卵が先か』の両方ありだと思います。
どちらが先ではなく、どちらから『先』でも良くて、親切にされれば、こちらもそうしたいと思う、こちらが親切にすれば、また親切で返ってくる。
職場でも友人関係でもそういう良い循環に、どちらが先っているのはないはずです。
普通の男女の付き合いに於いても。
これは岩月健司さんの本に書いてあったのだけど。
女性は心地よいことが大好きで心地よく愛情をくれた人のことが大好きになります。
そうするとその男性を肯定し応援したくなるのです。
男性というのは肯定して応援してくれる女性をもっと愛するようになる。
で、女性はもっと男性を肯定する。
こういう良い循環になるそうです。
これも、スタートはどちらからでも成立しますよね。
ということは、概ね人付き合いというものは、パイパン大好きさんのおっしゃるように『どちらが先』はないのでしょうね。
でも、『先』が存在する関係もあると思う。
主と従、主と奴隷。
そこに上下をつけたいなら『先』は存在すると思ってる。
そして、その『先』をするのは主従の『主』であり上下の『上』であるべきなんだ。
『上』に立つ人間が、常に『下』に与え、『下』はそれで安心して慕い付いていく。
こういうものを『主従』と呼ぶのだと思っていたし、いまも思ってる。
だけど、そうじゃない『主従』のほうが多いように感じるのはわたしだけだろうか。
もちろん付き合いはそれぞれだ。
だけどね、M女さんのブログを読んでいたり、こっそりメールで聞かせていただく方のお話を耳にすると、どうしてもM女さんが犠牲になっているように感じられることが多い。
そりゃあね、M女さんだって、誰だっていわけなくて、最初にこの人と思えたから主従関係になっているのでしょうけど。
やっぱりね、『最初』だけじゃダメなんだと思うのです。
女は『傷つく性』を持っている。
だから、常に性的な場面では大切にしてもらわないといけないんだ。
それは別に優しいセックスをしてくれと言っているんじゃなくてね、鞭を打つにも露出をするにも『心の交流』ができていないといけないと思うのです。
その『心の交流』を端折って、一方的に搾取している『上』と主従をしている人が多いと思う。
で、犠牲になったり搾取されたり、その一方的な立場で満たされる人もいると思うので、その方はきっと『奴隷願望』を満たしてらっしゃるのでしょう。(もちろん葛藤もされていると思うけど)
そうじゃなくて、一方的に搾取されて、それで苦しいと思っている方もけっこういるんじゃないかと。
もちろん、たくさん与えてもらっているM女さんもいらっしゃるでしょうから、どれが本物!!とは言えないのだけど、どうもこの『一方的に搾取する』関係が主従の主流な印象を受けるのだ。
でもって、それが『美徳』とされている。
ご主人様のためにってね。
で、これが主流だとするなら、わたしの認識は間違っていると思ったのだ。
だけど、ひとつ納得したことがあって。
『寿司とマヨネーズ』という本のプロローグに。
『ご主人様と奴隷という大人のゲームのような関係を、この上なくマジメに貫き通そうとしていました。』
という一節がある。
わたし、これを読んだときすごく腑に落ちたんだ。
お互い『ご主人様』と『奴隷』という役割を担ってこの上なくマジメに貫いていたのだとすれば、受け取るだけと与えるだけの関係は成り立つ。
ゲームなんだから、理不尽でもルールは存在するわけだ。
こういう一方的な、もしくは『1もらって10差し上げる』ような理不尽なバランス、これを『ゲーム』と捉えるならば、納得ができるのです。
ゲームという言葉を使っているから軽い印象を持たせてしまうとそれは本意ではありません。
奴隷という立場の多くの方は強い気持ちを持ってらっしゃると敬服するほどです。
『奴隷願望』をお持ちの方は、なにがしかの『ルール』があって、そこで一方的に搾取されることで満たされているのかもしれない。
そうじゃなくて、混同しやすいのだけど、依存や従属願望を持っている人は、誰かに従いたいのだけど、一方的に搾取されたいわけじゃないのだよね。
ご主人様のために我慢したいわけじゃないよね。
安心して付いていきたいだけだよね。
そういう女性と上下関係を築きたいならば。
『上』が『先』じゃないといけないんだ。
相手を『下』にして跪かせるのではなく、自分が常に『与える存在』でいることで『上』でいられると思うのだ。
それは、『甘やかしでない、甘えさせ』だったり『大きな安心』だったり『支えているというシグナル』だったり。
そういうことで、『下』は『上』を尊敬して従いたいと思うのです。
わたしと那智さんの間にも『性的な場面で拒否権はない』という決まり事はある。
でも、それはそのほうが『わたしが』幸せだからだ。
でもって、その決まり事をなしにするとわたしが決めても、那智さんとの関係は変わらない。
ルールによって成り立つ関係は、そのルールを解消したら関係自体の解消になっちゃうとするなら、この決まり事とは違うと思うのです。
『命令』や『強制』をしたり、『お前が言うことを聞けば、可愛がる』というような『先にちょうだい』をした時点で、上下が逆転してしまうように感じられるのはわたしだけだろうか。
だから、『上』が『先』であるべきなんだ。
もちろんね、形はそれぞれで『ルール』があるように感じるのはわたしの勝手なイメージです。
そうじゃない主従もあるでしょう。
また、その『ルール』があるから満たされる人もいるはずです。
その方たちは該当していないので、どうか流してください。
だけど、『ルール』に疑問を持ち、それで苦しい思いをしている人がいるのなら。
あなたの望む主従と、それは違うかもしれない。
それで、搾取されることに喜びを感じられないことは正当なことで、そう思う自分を責めちゃいけない。
あなたが持っているものは『奴隷願望』じゃない。
ただ、安心して付いていきたいだけだ。
だから、いま流している涙は、自分を労る正当な涙。
『先』に与えてくれて、さらに安心と尊敬を与え続けてくれる人に従いたい。
そこには、誰も犠牲にすることなく心地よい『上下関係』が生まれるはずだ。
『従う』なんていうルールは作らないでいい、常に見極め、その都度『従う』を更新しつづけるのだ。
何度も更新しつづけ、それでも常に従いたいと思うことが『主従』だと思っていた。
でも、もし、はじめから『下』に課せられたルールの上で成り立っていて。
『上』のほうから『先にちょうだい』をして、『下』が与え。
で、そのルールをなくしたら続かないような関係の『主従』があるなら。
わたしの認識は間違っていたことになる。
で、それが『主従』の主流なら、やっぱりわたしは主従じゃなくていい。
我慢するM女が美徳なら、わたしは悪徳M女でいい。
ただ、那智さんとふたりで幸福を共有したいだけだもの。
だから、そこに上下をつけたいならば、鶏が先か、卵が先か、『先』はある。
常に、『上』が『先』でなきゃいけない。
犬だって、まず食住を与えてもらって、はじめて懐くもんね。
生ビールの友
りんりん変態ご飯
お酒好きの友達がずいぶん前に、『ビールはどれがおいしいか』と、ビンと缶と生と全部並べて飲み比べてみたという話しを聞かせてくれた。
結果、ビンが一番おいしいという結論に達したらしい。
なんとなーくずっとそれを信じていて、大きなこだわりがあるわけではないのだけど、どれかを選べる場合にはビンを選んでいた。
だけど、最近、
ビールは生ビールが断然おいしい!!
に、意見を変えることにしました。
取り立ててなにかあったわけじゃないのだけど。
特に昨年の夏くらいからかな、意識して生ビールを選ぶようになった。
もちろんビンだっておいしいし、アウトドアで缶を開けるなんていうのも、また嬉しい。
だけどね、生ビールだと何杯でも飲めちゃうんだよね。
味が飽きないの。
大ジョッキでとりあえず3杯は入る。
まあ、酒豪でもないですし、お腹もいっぱいになっちゃうから、3杯くらいしか挑戦できないのですけど(その後は、別な物にスイッチします〜、こうなるともう酔っぱらい^^;)
『とりあえず』じゃなくて、それが飲みたいのです。
ということで、最近のわたしは生ビール好き。
で、生ビールが好きかも!?と意識したのが昨年のちょうどこの頃。
那智さんとお花見をして、その後に餃子の専門店に入ったことがきっかけだった。
そのときは別段意識せずに定食とちょっと生ビールを注文したの。
那智さんは、そこの一押しの黒豚を使った餃子で、わたしは変わり種の皮が薄くてぱりぱりしている餃子。
あつあつの餃子とご飯。
ぱりぱりの皮に生ビール。
とーってもおいしかった。
実は、そのときは『おいしかった〜』という程度だったのだけど。
しばらくしてから、あの餃子の肉汁と皮と生ビールの組み合わせが恋しくて恋しくてたまらなくなってしまったのだ。
定食を注文したので、それだけでお腹いっぱいで、生ビールは『おまけ』っぽくなっちゃって、それをすごく後悔してしまったの。
餃子とご飯はゴールデンコンビだ。
だから、それをメインにするのは間違っていない。
だけど、多分、餃子と生ビールも、絶対至福の組み合わせなんじゃないかと気づいてしまった。
そこを堪能し損ねたから、余計に恋しさが募ってしまったのだ。
ご飯好きのわたしだけど、ここはご飯に邪魔されない餃子と生ビールの蜜月を味わってみたい。
絶対、おいしいはずだって、ね。
他校の文化祭に行って、チラッと見かけた男子の面影だけで恋をしてしまった女子高生のよう。
絶対かっこよかった、うん、絶対わたしの運命の人だ!!みたいに^^;
それ以来、わたしにとって、餃子と生ビールは憧れの組み合わせになってしまった。
だけど、このコンビって、お手軽に味わえそうなんだけど、なかなか成立しないんだよね。
お酒と一緒に中華系を食べるお店では、あえて餃子を頼むってしないし。
餃子を選ぶようなお店に入るときは、決まってご飯メイン、チャーハンと餃子でがっつり!!みたいな感じで、でビールは頼まない。
居酒屋とかでも餃子がメニューにあるところもあろけど、そこで餃子を選ぶことってあんまりないよね、他の焼き鳥やらポテトのチーズ焼きやらに目移りしちゃう^^;
わたしは餃子と生ビールだけをどっぷりと堪能したいのだ。
他に目移りしたり、他の物も味わいながらというのを望んでいるんじゃない。(けっこう他があると、他いっちゃう…浮気者のわたし)
だから、もう餃子しかない!!という状況の中で、生ビールと至福の組み合わせを確認したいという思いで一年過ごした。
なぜ、一年?
そうです、今年も昨年と同じ場所にお花見に連れて行ってもらったのです。
餃子を食べるために^^
一年越しの餃子と生ビールとの逢瀬^^
堪能してまいりました。
ぱりっとした皮に生ビール。
熱くてはふはふするお肉を生ビールで流し込む。
じゅわっと溢れる肉汁に絡まる生ビール。
ああ、おいしい。
スペアリブも。
ジャーマンポテトも。
もんじゃ焼きも。
どれも生ビールに合うけれど。
いまのわたしのナンバーワン『生ビールの友』を決めるとするならば。
やっぱり、餃子、なのでした^^
段々暖かくなってきて、これからが生ビールシーズン。
ナンバーワン生ビールの友を考えるのが楽しい季節になりますね〜。
お酒好きの友達がずいぶん前に、『ビールはどれがおいしいか』と、ビンと缶と生と全部並べて飲み比べてみたという話しを聞かせてくれた。
結果、ビンが一番おいしいという結論に達したらしい。
なんとなーくずっとそれを信じていて、大きなこだわりがあるわけではないのだけど、どれかを選べる場合にはビンを選んでいた。
だけど、最近、
ビールは生ビールが断然おいしい!!
に、意見を変えることにしました。
取り立ててなにかあったわけじゃないのだけど。
特に昨年の夏くらいからかな、意識して生ビールを選ぶようになった。
もちろんビンだっておいしいし、アウトドアで缶を開けるなんていうのも、また嬉しい。
だけどね、生ビールだと何杯でも飲めちゃうんだよね。
味が飽きないの。
大ジョッキでとりあえず3杯は入る。
まあ、酒豪でもないですし、お腹もいっぱいになっちゃうから、3杯くらいしか挑戦できないのですけど(その後は、別な物にスイッチします〜、こうなるともう酔っぱらい^^;)
『とりあえず』じゃなくて、それが飲みたいのです。
ということで、最近のわたしは生ビール好き。
で、生ビールが好きかも!?と意識したのが昨年のちょうどこの頃。
那智さんとお花見をして、その後に餃子の専門店に入ったことがきっかけだった。
そのときは別段意識せずに定食とちょっと生ビールを注文したの。
那智さんは、そこの一押しの黒豚を使った餃子で、わたしは変わり種の皮が薄くてぱりぱりしている餃子。
あつあつの餃子とご飯。
ぱりぱりの皮に生ビール。
とーってもおいしかった。
実は、そのときは『おいしかった〜』という程度だったのだけど。
しばらくしてから、あの餃子の肉汁と皮と生ビールの組み合わせが恋しくて恋しくてたまらなくなってしまったのだ。
定食を注文したので、それだけでお腹いっぱいで、生ビールは『おまけ』っぽくなっちゃって、それをすごく後悔してしまったの。
餃子とご飯はゴールデンコンビだ。
だから、それをメインにするのは間違っていない。
だけど、多分、餃子と生ビールも、絶対至福の組み合わせなんじゃないかと気づいてしまった。
そこを堪能し損ねたから、余計に恋しさが募ってしまったのだ。
ご飯好きのわたしだけど、ここはご飯に邪魔されない餃子と生ビールの蜜月を味わってみたい。
絶対、おいしいはずだって、ね。
他校の文化祭に行って、チラッと見かけた男子の面影だけで恋をしてしまった女子高生のよう。
絶対かっこよかった、うん、絶対わたしの運命の人だ!!みたいに^^;
それ以来、わたしにとって、餃子と生ビールは憧れの組み合わせになってしまった。
だけど、このコンビって、お手軽に味わえそうなんだけど、なかなか成立しないんだよね。
お酒と一緒に中華系を食べるお店では、あえて餃子を頼むってしないし。
餃子を選ぶようなお店に入るときは、決まってご飯メイン、チャーハンと餃子でがっつり!!みたいな感じで、でビールは頼まない。
居酒屋とかでも餃子がメニューにあるところもあろけど、そこで餃子を選ぶことってあんまりないよね、他の焼き鳥やらポテトのチーズ焼きやらに目移りしちゃう^^;
わたしは餃子と生ビールだけをどっぷりと堪能したいのだ。
他に目移りしたり、他の物も味わいながらというのを望んでいるんじゃない。(けっこう他があると、他いっちゃう…浮気者のわたし)
だから、もう餃子しかない!!という状況の中で、生ビールと至福の組み合わせを確認したいという思いで一年過ごした。
なぜ、一年?
そうです、今年も昨年と同じ場所にお花見に連れて行ってもらったのです。
餃子を食べるために^^
一年越しの餃子と生ビールとの逢瀬^^
堪能してまいりました。
ぱりっとした皮に生ビール。
熱くてはふはふするお肉を生ビールで流し込む。
じゅわっと溢れる肉汁に絡まる生ビール。
ああ、おいしい。
スペアリブも。
ジャーマンポテトも。
もんじゃ焼きも。
どれも生ビールに合うけれど。
いまのわたしのナンバーワン『生ビールの友』を決めるとするならば。
やっぱり、餃子、なのでした^^
段々暖かくなってきて、これからが生ビールシーズン。
ナンバーワン生ビールの友を考えるのが楽しい季節になりますね〜。
司会者に必要なものは
独り言
たまにはお仕事の話。
こういうお話しもお付き合いくださいね♪
良い司会者ってどんな人?
キレイな声?臨機応変な対応?
わたしがこの仕事に就くことになったとき、那智さんはまったく業界の人ではないにも関わらず、こう言っていた。
『祝福の空気』だって。
ちょっとくらい噛んじゃっても、すべてをスマートに進ませられなくても、むしろそのほうが、お客さんと一体になってより祝福の空気を作れる。
で、りん子は、その空気がある。
だから、勧めるんだ。
キャリアも実力もないわたしの背中を、こんな風に言って押してくれた。
実際に仕事を続けてみて、那智さんの言っていたことは、あながち間違いじゃなかったかもと、思えてきている。
確かに『祝福の空気』というものが、『いい披露宴だったね〜』とお客さんの心を温かく印象付けていく様を何度となく感じているのだ。
それは、豪華な会場や料理では、補えない大切な材料になっている。
だいたい、この人を祝福しようと思って集まっているのだから、自ずと祝福の空気は生まれるもの。
だから、わたしはその空気が生まれやすくなるように、ちょっと色を添えたりすることはできているんじゃないかな〜と思っている。
昨年お仕事をした20代後半のカップルは、若いけどとてもしっかりしていて、大学時代からの長い付き合いを経てこの日を迎えることになった。
打ち合せも済み、メールで資料をいただいたりして、あとは当日を待つだけになった披露宴一週間前のある日。
担当者から連絡が来た。
聞くと、その担当者のミスで会場をダブルブッキングしてしまったのだそう。
そのホテルは『ABCD』と同じ大きさの4つの会場があって、それを規模や内容によって仕切ったり広げたりしている。
そのお客様は『AB』とリクエストしていたのだけど、担当者が間違って『A』しか押さえておらず、残りの『BCD』は大規模な謝恩会で使用することになってしまっていたのだった。
人数的にはなんとか収められなくない。
お客様には事情を説明してお詫びした。(もちろんサービスはしているでしょうけど)
仕方がないと大きなクレームにもせずに納得してくださったそうだ。
司会者さんは特にそれに触れる必要はないけど、事情は知っておいてほしいということだった。
何度かお仕事をした担当者だ。
もちろん彼女のミスではあるけれど、対応に追われる彼女を見て。
なにより、仕方がないと気持ちを切り替え、大きなクレームにせずに気持ちよくその日を迎えようとしてくれた、だけど、実際の『A』だけの会場を見て『やっぱり狭いな』と残念そうに言っていたと担当者から聞いて、そんな新郎新婦に。
わたしは何ができるだろうと考えた。
新郎新婦の『狭いな』という気持ちを払拭するのは難しいかもしれないけど。
元の広さを知らない列席者には『広い会場だった』という印象を残すことはできるかもしれない。
そして、実は、大会場より中規模の会場のほうがいい点もあるんだ。
まず、新郎新婦と近いということと、無駄な空間がないから拍手や歓声が凝縮されて、とてもアットホームな雰囲気になるの。
だから、列席者には『広い会場』と印象付けつつ、中規模ならではの一体感も作り、祝福の空気で満たす事ができるんじゃないか。
それなら、わたしにもできるんじゃないかと思った。
いま流行のレストランウェディング。
ごく親しい人だけが集まるそれは、とてもアットホームな雰囲気になるのだけど、一歩間違うとちょっと淋しいものになっちゃうの。
なぜかというと、『祝福の空気』には拍手って割と有効なんだけど、レストランだとみんな拍手することを遠慮してしまうんだよね。
下手すると、ただのお食事会になってしまう。
だから、わたしはこういうとき、新郎新婦が入場する前にお願いしちゃうんだ。
『こういうアットホームなパーティは皆さんの拍手がとても重要なんですよ。だから、今日はいつもより20%増量してくださいね』って。
このひと言があると、みんなリラックスしてくれるんだ。
これを使おうと考えた、まったく逆のパターンで。
普段、ホテルや老舗の会場では、開宴する前から『増量してね』なんて砕けた感じにはしないようにしている。
でも、まあ、問題ないだろう。
恐らくそれでお叱りを受けることも、また逆に何かが大きく好転することもないだろう。
もしかしたら、そんなひと言誰も聞いていないかもしれない。
だけど、例えそのひと言が何も影響しなかったとしても、なんとかしたいと考え『それをしよう』と思ったわたしの気持ちだけでも、きっと祝福の空気を作る一端は担えるんじゃないだろうか。
会場の大きさは変えられない、おふたりの思い通りにならなかったかもしれない。
だけど、新しいスタートを切るふたりにとって、それさえもいい思い出になりますようにと心を込める、わたしにできる仕事は、きっとそれだ。
当日。
問題の披露宴ということで、担当者はもちろん、ホテル側の部長さんやお偉いさんが様子を見に来ていた。
なんとなく、スタッフ全体に緊張が感じられる。
司会台から担当者と目が合い、わたしは深く頷く。
新郎新婦が入場するまで、もう少しある。
『お二人がご入場する前にお願いがあります。こういう大きな会場では皆さんの拍手がとても大事なんです。どうか、今日はこの会場に負けないくらい、20%増量の温かい拍手をお願いしますね』
お偉いさんや、列席者の支店長や取締役やらがいる中で『増量してね♪』ってお願いした。
これがどう影響するか、しないか、わからない。
わたしは、わたしのできる精一杯をするだけだよね。
キャプテンから合図が来る。
わたしの『入場です』のコールに合わせて照明が落ち、音楽が流れる。
スポットライトが当たり、静かに扉が開いた。
先陣を切ってわたしが手を鳴らす。
次の瞬間。
新郎側の友人のテーブルからとてつもなく大きな拍手と歓声が上がった。
それにつられるように、会場全体に割れんばかりの拍手が響く。
大きな大きな歓喜のうねりが会場を揺らす。
すごい。
こんな大きなうねり、はじめてだ。
鳥肌が立った。
いつも拍手は一生懸命する。
手のひらが赤くなるほど。
だけど、このときは、いつも以上に拍手した。
これ以上強く叩けないというほど打った。
ただただ、わたしの祝福を全身で表す。
会場を揺らす大きな歓喜の中、新郎新婦が高砂につき、拍手が静かになるころを見計らってわたしが開宴の辞を述べる。
『皆様、大変お待たせいたしました。』
あれ?
声が不安定だ。
うわずってる。
なんだろ、この高揚は。
お仕事はいつでも緊張する。
でも、この規模で声がうわずるほど緊張する時期は、もう過ぎているはずだ。
このうねりにわたしまで感極まってしまったのだろうか。
確かに感動的だったけど、こんなに声が震えるなんて、ちょっとおかしい。
不思議に思いながらも、密かに息を整え次へ進む。
すぐに落ち着いたので、問題なかった。
披露宴は、友人たちのノリの良さにも助けられ、それはそれは盛り上がった。
途中担当者がわたしのそばに来て『入場のときすごかったですね、鳥肌立ちました』と言ってきた。
まだ安心できる心境ではないだろうけど、ほんの少し彼女の表情晴れやかだった。
滞りなくお開きへと進む。
新婦のお手紙でウルウル。
これはほぼ毎回、ウルウルする^^;
花束贈呈、謝辞。
新郎の立派な謝辞に、またウルウル。
新婦側の友人も泣いているのが見える。
そして、この日最後の拍手をいただく。
新郎新婦と両親が送賓のために先に退場するのだ。
『今日一番の大きな拍手で』と促し、音楽が流れて新郎新婦と両親は歩き出す。
入場のときと同じくらいの、大きな温かい祝福の拍手。
マイクを置き。
わたしも入場と同じように、一生懸命拍手をした。
これ以上ないくらい。
手のひらだけじゃなくて、全身を振るわせて、力の限り拍手を贈った。
扉の外に消えた行くふたりの背中に、おめでとーーって。
扉が閉まり、照明が少し上がる。
もう一度マイクを持ち、最後にお開きの辞。
『それではこれをもちまして○○さん、○○さんおふたりのご結婚披露宴を』
あれ?
また、声が不安定だ。
最初と同じ。
高揚して胸が高鳴っている。
最初の第一声が震えることはあったとしても、このタイミングで緊張をするはずない。
わたしったら、余程感動したのかしら。
『皆様には温かいご協力を賜り』
やだ。
声がうわずってる。
鼓動が激しい。
んん?
もしかして、わたし、息上がってる?
ぜいぜいしてるもの。
うわ、この息切れと動悸。
単に、息上がってるだけじゃないの!!
いや、確かに感動的ではあった。
でも、これ、ただの体力不足故の、息切れだ!!
力一杯拍手をし続けたから、ぜいぜいしてしまっただけ。
だから、入場のときも同じ状態になっていたんだ。
だめじゃない、ね、わたし。
一生懸命なのは悪い事じゃないけれど、息切れしちゃあ元も子もない。
なにより感極まったかと思っていたことが、ただの体力不足だったなんて、トホホだ。
一生懸命というのは、お仕事をする上でわたしには大切なことだろう。
だから、一生懸命はそのまま残していたい。
ということは、もっと体力つけろってことらしいです。
今回の教訓は。
祝福の空気を作るには、体力も必要。
でもね、けっこう息上がるのよ。
思いっきり拍手してみて、2分間くらい。
意外と疲れますよ。
多分、わたしだけじゃないと思うけど…。
なんてオチ付きのお話しでしたが、披露宴は無事済んで、後日担当者から『おふたりが喜んでくれていた』と教えてもらって、ひと安心のわたしなのでした^^
たまにはお仕事の話。
こういうお話しもお付き合いくださいね♪
良い司会者ってどんな人?
キレイな声?臨機応変な対応?
わたしがこの仕事に就くことになったとき、那智さんはまったく業界の人ではないにも関わらず、こう言っていた。
『祝福の空気』だって。
ちょっとくらい噛んじゃっても、すべてをスマートに進ませられなくても、むしろそのほうが、お客さんと一体になってより祝福の空気を作れる。
で、りん子は、その空気がある。
だから、勧めるんだ。
キャリアも実力もないわたしの背中を、こんな風に言って押してくれた。
実際に仕事を続けてみて、那智さんの言っていたことは、あながち間違いじゃなかったかもと、思えてきている。
確かに『祝福の空気』というものが、『いい披露宴だったね〜』とお客さんの心を温かく印象付けていく様を何度となく感じているのだ。
それは、豪華な会場や料理では、補えない大切な材料になっている。
だいたい、この人を祝福しようと思って集まっているのだから、自ずと祝福の空気は生まれるもの。
だから、わたしはその空気が生まれやすくなるように、ちょっと色を添えたりすることはできているんじゃないかな〜と思っている。
昨年お仕事をした20代後半のカップルは、若いけどとてもしっかりしていて、大学時代からの長い付き合いを経てこの日を迎えることになった。
打ち合せも済み、メールで資料をいただいたりして、あとは当日を待つだけになった披露宴一週間前のある日。
担当者から連絡が来た。
聞くと、その担当者のミスで会場をダブルブッキングしてしまったのだそう。
そのホテルは『ABCD』と同じ大きさの4つの会場があって、それを規模や内容によって仕切ったり広げたりしている。
そのお客様は『AB』とリクエストしていたのだけど、担当者が間違って『A』しか押さえておらず、残りの『BCD』は大規模な謝恩会で使用することになってしまっていたのだった。
人数的にはなんとか収められなくない。
お客様には事情を説明してお詫びした。(もちろんサービスはしているでしょうけど)
仕方がないと大きなクレームにもせずに納得してくださったそうだ。
司会者さんは特にそれに触れる必要はないけど、事情は知っておいてほしいということだった。
何度かお仕事をした担当者だ。
もちろん彼女のミスではあるけれど、対応に追われる彼女を見て。
なにより、仕方がないと気持ちを切り替え、大きなクレームにせずに気持ちよくその日を迎えようとしてくれた、だけど、実際の『A』だけの会場を見て『やっぱり狭いな』と残念そうに言っていたと担当者から聞いて、そんな新郎新婦に。
わたしは何ができるだろうと考えた。
新郎新婦の『狭いな』という気持ちを払拭するのは難しいかもしれないけど。
元の広さを知らない列席者には『広い会場だった』という印象を残すことはできるかもしれない。
そして、実は、大会場より中規模の会場のほうがいい点もあるんだ。
まず、新郎新婦と近いということと、無駄な空間がないから拍手や歓声が凝縮されて、とてもアットホームな雰囲気になるの。
だから、列席者には『広い会場』と印象付けつつ、中規模ならではの一体感も作り、祝福の空気で満たす事ができるんじゃないか。
それなら、わたしにもできるんじゃないかと思った。
いま流行のレストランウェディング。
ごく親しい人だけが集まるそれは、とてもアットホームな雰囲気になるのだけど、一歩間違うとちょっと淋しいものになっちゃうの。
なぜかというと、『祝福の空気』には拍手って割と有効なんだけど、レストランだとみんな拍手することを遠慮してしまうんだよね。
下手すると、ただのお食事会になってしまう。
だから、わたしはこういうとき、新郎新婦が入場する前にお願いしちゃうんだ。
『こういうアットホームなパーティは皆さんの拍手がとても重要なんですよ。だから、今日はいつもより20%増量してくださいね』って。
このひと言があると、みんなリラックスしてくれるんだ。
これを使おうと考えた、まったく逆のパターンで。
普段、ホテルや老舗の会場では、開宴する前から『増量してね』なんて砕けた感じにはしないようにしている。
でも、まあ、問題ないだろう。
恐らくそれでお叱りを受けることも、また逆に何かが大きく好転することもないだろう。
もしかしたら、そんなひと言誰も聞いていないかもしれない。
だけど、例えそのひと言が何も影響しなかったとしても、なんとかしたいと考え『それをしよう』と思ったわたしの気持ちだけでも、きっと祝福の空気を作る一端は担えるんじゃないだろうか。
会場の大きさは変えられない、おふたりの思い通りにならなかったかもしれない。
だけど、新しいスタートを切るふたりにとって、それさえもいい思い出になりますようにと心を込める、わたしにできる仕事は、きっとそれだ。
当日。
問題の披露宴ということで、担当者はもちろん、ホテル側の部長さんやお偉いさんが様子を見に来ていた。
なんとなく、スタッフ全体に緊張が感じられる。
司会台から担当者と目が合い、わたしは深く頷く。
新郎新婦が入場するまで、もう少しある。
『お二人がご入場する前にお願いがあります。こういう大きな会場では皆さんの拍手がとても大事なんです。どうか、今日はこの会場に負けないくらい、20%増量の温かい拍手をお願いしますね』
お偉いさんや、列席者の支店長や取締役やらがいる中で『増量してね♪』ってお願いした。
これがどう影響するか、しないか、わからない。
わたしは、わたしのできる精一杯をするだけだよね。
キャプテンから合図が来る。
わたしの『入場です』のコールに合わせて照明が落ち、音楽が流れる。
スポットライトが当たり、静かに扉が開いた。
先陣を切ってわたしが手を鳴らす。
次の瞬間。
新郎側の友人のテーブルからとてつもなく大きな拍手と歓声が上がった。
それにつられるように、会場全体に割れんばかりの拍手が響く。
大きな大きな歓喜のうねりが会場を揺らす。
すごい。
こんな大きなうねり、はじめてだ。
鳥肌が立った。
いつも拍手は一生懸命する。
手のひらが赤くなるほど。
だけど、このときは、いつも以上に拍手した。
これ以上強く叩けないというほど打った。
ただただ、わたしの祝福を全身で表す。
会場を揺らす大きな歓喜の中、新郎新婦が高砂につき、拍手が静かになるころを見計らってわたしが開宴の辞を述べる。
『皆様、大変お待たせいたしました。』
あれ?
声が不安定だ。
うわずってる。
なんだろ、この高揚は。
お仕事はいつでも緊張する。
でも、この規模で声がうわずるほど緊張する時期は、もう過ぎているはずだ。
このうねりにわたしまで感極まってしまったのだろうか。
確かに感動的だったけど、こんなに声が震えるなんて、ちょっとおかしい。
不思議に思いながらも、密かに息を整え次へ進む。
すぐに落ち着いたので、問題なかった。
披露宴は、友人たちのノリの良さにも助けられ、それはそれは盛り上がった。
途中担当者がわたしのそばに来て『入場のときすごかったですね、鳥肌立ちました』と言ってきた。
まだ安心できる心境ではないだろうけど、ほんの少し彼女の表情晴れやかだった。
滞りなくお開きへと進む。
新婦のお手紙でウルウル。
これはほぼ毎回、ウルウルする^^;
花束贈呈、謝辞。
新郎の立派な謝辞に、またウルウル。
新婦側の友人も泣いているのが見える。
そして、この日最後の拍手をいただく。
新郎新婦と両親が送賓のために先に退場するのだ。
『今日一番の大きな拍手で』と促し、音楽が流れて新郎新婦と両親は歩き出す。
入場のときと同じくらいの、大きな温かい祝福の拍手。
マイクを置き。
わたしも入場と同じように、一生懸命拍手をした。
これ以上ないくらい。
手のひらだけじゃなくて、全身を振るわせて、力の限り拍手を贈った。
扉の外に消えた行くふたりの背中に、おめでとーーって。
扉が閉まり、照明が少し上がる。
もう一度マイクを持ち、最後にお開きの辞。
『それではこれをもちまして○○さん、○○さんおふたりのご結婚披露宴を』
あれ?
また、声が不安定だ。
最初と同じ。
高揚して胸が高鳴っている。
最初の第一声が震えることはあったとしても、このタイミングで緊張をするはずない。
わたしったら、余程感動したのかしら。
『皆様には温かいご協力を賜り』
やだ。
声がうわずってる。
鼓動が激しい。
んん?
もしかして、わたし、息上がってる?
ぜいぜいしてるもの。
うわ、この息切れと動悸。
単に、息上がってるだけじゃないの!!
いや、確かに感動的ではあった。
でも、これ、ただの体力不足故の、息切れだ!!
力一杯拍手をし続けたから、ぜいぜいしてしまっただけ。
だから、入場のときも同じ状態になっていたんだ。
だめじゃない、ね、わたし。
一生懸命なのは悪い事じゃないけれど、息切れしちゃあ元も子もない。
なにより感極まったかと思っていたことが、ただの体力不足だったなんて、トホホだ。
一生懸命というのは、お仕事をする上でわたしには大切なことだろう。
だから、一生懸命はそのまま残していたい。
ということは、もっと体力つけろってことらしいです。
今回の教訓は。
祝福の空気を作るには、体力も必要。
でもね、けっこう息上がるのよ。
思いっきり拍手してみて、2分間くらい。
意外と疲れますよ。
多分、わたしだけじゃないと思うけど…。
なんてオチ付きのお話しでしたが、披露宴は無事済んで、後日担当者から『おふたりが喜んでくれていた』と教えてもらって、ひと安心のわたしなのでした^^
『◎×▲#』で『$$$$〜〜〜』
独特な幸福感
夜、電話で話しをしていると、那智さんはときどきわたしをからかって遊ぶ。
お仕事も一段落、ちょっと一杯ひっかけて、ちょっと遊んでやってから帰るかな〜みたいな感じだろう。
可愛がる。
遊んであげる。
かまう。
からかう。
どれも、那智さんにとっては同義語なんでしょうね。
で、「からかう」バージョンのときは、こんな感じ。
あのね、普段ほとんど撮らないのだけど、少しだけ在庫(?)あって、そのわたしの映像を流すのだ。
パソコンに取り込んであるんだよね、それを流す。
会話をしていると、不意に人の声が聞こえてくるから、最初は驚くの。
だって、那智さんひとりしかいないはずなのに、誰かいるの?
まさか心霊現象!?
なに?なに?なんですか!?とちょっとビビっていると。
さらに、また。
ん?なんか、かすかに喘ぎ声?
やーだー、那智さんエッチ動画見てるのですか〜?
やめてくださいよぉ、わたしと電話中にぃ〜。
なんて、トホホでいると。
また。
んんん?
聞き覚えのある声…。
那智さんと…わたしの声じゃないですかーーー!!
ぎゃーーーー、やめてーーーー。
もう、のたうち回る。
『●×$”して』
『できません…』
『するの』
『…はい…』
『$$…$$$…』
『こっち、見て』
『ああ、×○*##…』
『どう?』
『▲#!&ですぅ…』
『聞こえないよ』
『…▲#!&ですぅ…あ、あ、$$$$$$$$!!!』
だーーーーーーー。
なんじゃーーーー、この女はーーーーーー!!!!
信じられない事を口にして、あり得ない喘ぎ声!!!!!!
「那智さんんんんん!!!!やめてくださいいいいいい!!!」
「なんで?りん子、気持ち良さそうだよ〜」
「いいえ、それわたしじゃありません」
「そんなことないよ、じゃあ、今度見てみる?」
「ぎゃあああ、見るのは厳しい」
『$$$$$$〜〜〜〜』
「あ〜ほら、○○してる」
「うわぁ、やめて、那智さん!!」
『$$$$$$$〜〜』
「ほら、○○して$$だって(笑)」
「やめてーーーーーーー」
うるさいぞーー、どっちのわたしもーー。
「このときのりん子の手って、○○なんだよな〜」
「知りません!!知りませんんんんんん!!!!」
「なんで?かわいいよ」
かわいいという言葉に一瞬ヨロッとしそうだけど、そこは即否定。
だって、絶対かわいいはずないもん。
もちろん『那智さんにとって』ということ限定であれば、ありかもしれないけど。
どう考えても『$$$$$$!!』のわたしが、お腹のぽこや鼻の穴の見え具合に注意を払ってるようには感じられない。
キレイなAV女優さんのそれと重ねてみようとするけど、まったくもって無理がある。
映像は画像以上に、現実的なはずだ。
実は、わたしは、その手の『わたしの動画』をほとんど見たことないんだ。
付き合いはじめのころに一度と那智さんがいないときにこっそり未遂に終わったときくらいしかないの。
だから、こうやって音声だけ聞かされると、もう想像の羽が広がりまくりで大変。
見てみたい気持ちはあるけれど、見たらショック受けそうだし、機会もなくて、結局見ずじまいでいる。
だから、那智さんの言葉で一喜一憂、右往左往。
手って、なに!?
○○してるって、どれくらい!?
かわいい?(ムフ♪)…いいや、あり得ない!!(打ち消し!!)
どこかに救いはないか、無理クリ想像してみても、あり得ない図しか思い描けない。
だから、もう、のたうち回るしかないのだ。
でも、これが厄介なことで。
わたしは、崩れるわたしを嫌悪するところがある。
羞恥心をなくさない、いつまでもはじらいを持って。
こう言葉にすると、とてもかわいらしい女ではあるけど、わたしの場合、これと自己嫌悪が表裏一体なんだ。
本気で恥ずかしいから、『いやん、那智さん♪』じゃ済まされなくなってしまう時もあるの。
そんなになるわたし、きらい!!
段々落ち込んできてしまうのだ。
だから、『那智さん、これ以上続けるとわたし落ち込みそうですよ』と申告する。
那智さんは、わたしが落ち込もうがおかまいなし。
だって基本『かわいがってる』んだという自負があるからね。
やめてくれない。
しかも、酔っぱらいさんだもの、余計だ^^;
『$$$ぅ〜〜〜』
「ああ、このりん子必死なんだよな〜」
「もう、やめてください那智さん、わたしはきらいです。落ち込むっていったのに…」
なんで?
俺は、ああいうりん子が好きなんだよ。
りん子が自己嫌悪してしまうのは、かまわないけど、俺がこのりん子が好きだってことはわかってるよね?
で、俺がりん子を傷つけようと思っていないこともわかってるよね?
はい。
うん、じゃあいい、自己嫌悪してても。俺は好き。
そんな嬉しい言葉をかけてもらえるけど、一度落ち込んでしまうとオセロをひっくり返すようには返られない。
なんだかお手数かけちゃうな、でも、ウソで元気になりたくない。
それに、見せたのも、続けたのも那智さんの意志だから、こうなることも想定内なはず、だから、申し訳ないけど付き合ってもらおう。
しばらく、自己嫌悪話に付き合ってもらう。
こんなわたし、きらい。
きらいって言っているのに、やめてくれない那智さんもいや。
でも、それだけじゃない気持ちに気づいて、正直に伝える。
「那智さん、だって、わたしそこに映ってる『わたし』のこと知らない。だから、置いてきぼり食らってるように感じちゃうみたいです」
「ん?」
「那智さんと、画面の『わたし』だけ、楽しそう」
「へ?」
「…わたし、『わたし』に焼きもちやいているみたいです」
「はあああ!?(笑)」
ふう、文鳥や明太子だけじゃなくて、わたしはとうとう過去の『わたし』にさえ嫉妬してしまうの?
あまりのエゴぶりに、かなりトホホ。
で、信じたくないけど、嫉妬以外のもうひとつの心も、なんとなーく感じ取ってしまう。
見たいんでしょ?りん子。(読んでる皆さんも、ここで頷く?)
いや、見たいわけなじゃい。
絶対ショックを受ける。
でも、感じて崩れているわたし見てみたい気もする。
ううん、死ぬほど恥ずかしい。
ああ、でも、恥ずかしいことは、感じる。
いいや、やっぱり見たくない!!
……。
そこがね、エゴで被虐願望があって、羞恥系の葛藤に苦しむわたしのジレンマ。
もう、いい加減自分でも面倒になってくる、この女^^;
で、全然関係ないけれど。
普段いろんなことをはっきりと書いている。
恥ずかしいのは恥ずかしいけど、文章にするのにぼやかすほうがよっぽど恥ずかしいからね。
だけど、なんだかね、自分の喘ぎ声や何かをやっている様子を『聞いたまま再現する』のって、とーっても恥ずかしいのでした。
いつも自分のことを思い出して書いているのだけど、意外とその時の感覚とかを思い出して少し浸ってしまえるんだ。(恥ずかしいけどね)
でも、この過去の映像を再現するというのは、もう、自分を客観視しまくりで、異常なほどに恥ずかしい。
だからね、セリフを『◎×#%▲』とかにしちゃった。
喘ぎ声なんて、書こうと思えば『あ」とか『う』とかを羅列すればいいだけのことなのに、できなかった;;
しかたなく$マークで誤摩化す。
でも、『$$$$$$$〜〜〜!!』にしたほうが、エロティックになってしまった気がするのは、わたしだけでしょうか!?
ただの喘ぎ声なのに、なんだかとんでもないことを口走っているような、必要以上に想像力を掻立ててしまう結果になってしまってない?
モザイクと一緒で隠せば隠すほど、『いけないもの』感が増している気がする。
いまさらながら『あ』とか『う』を並べておいたほうがよかったかもと、思ってます。
こんなことまで、あれこれ考えてしまう面倒な人間だなぁと、やっぱり自分にトホホなんだけど、でも、割とこの『トホホ』なところキライじゃない。
いろいろ考えて、気持ちが行ったり来たりして楽しんでいるところもある^^
ということで、わたしなりに楽しみましたので。
皆さんは『$』とか『◎』にお好みの言葉を当てはめて、お楽しみくださいませ^^
夜、電話で話しをしていると、那智さんはときどきわたしをからかって遊ぶ。
お仕事も一段落、ちょっと一杯ひっかけて、ちょっと遊んでやってから帰るかな〜みたいな感じだろう。
可愛がる。
遊んであげる。
かまう。
からかう。
どれも、那智さんにとっては同義語なんでしょうね。
で、「からかう」バージョンのときは、こんな感じ。
あのね、普段ほとんど撮らないのだけど、少しだけ在庫(?)あって、そのわたしの映像を流すのだ。
パソコンに取り込んであるんだよね、それを流す。
会話をしていると、不意に人の声が聞こえてくるから、最初は驚くの。
だって、那智さんひとりしかいないはずなのに、誰かいるの?
まさか心霊現象!?
なに?なに?なんですか!?とちょっとビビっていると。
さらに、また。
ん?なんか、かすかに喘ぎ声?
やーだー、那智さんエッチ動画見てるのですか〜?
やめてくださいよぉ、わたしと電話中にぃ〜。
なんて、トホホでいると。
また。
んんん?
聞き覚えのある声…。
那智さんと…わたしの声じゃないですかーーー!!
ぎゃーーーー、やめてーーーー。
もう、のたうち回る。
『●×$”して』
『できません…』
『するの』
『…はい…』
『$$…$$$…』
『こっち、見て』
『ああ、×○*##…』
『どう?』
『▲#!&ですぅ…』
『聞こえないよ』
『…▲#!&ですぅ…あ、あ、$$$$$$$$!!!』
だーーーーーーー。
なんじゃーーーー、この女はーーーーーー!!!!
信じられない事を口にして、あり得ない喘ぎ声!!!!!!
「那智さんんんんん!!!!やめてくださいいいいいい!!!」
「なんで?りん子、気持ち良さそうだよ〜」
「いいえ、それわたしじゃありません」
「そんなことないよ、じゃあ、今度見てみる?」
「ぎゃあああ、見るのは厳しい」
『$$$$$$〜〜〜〜』
「あ〜ほら、○○してる」
「うわぁ、やめて、那智さん!!」
『$$$$$$$〜〜』
「ほら、○○して$$だって(笑)」
「やめてーーーーーーー」
うるさいぞーー、どっちのわたしもーー。
「このときのりん子の手って、○○なんだよな〜」
「知りません!!知りませんんんんんん!!!!」
「なんで?かわいいよ」
かわいいという言葉に一瞬ヨロッとしそうだけど、そこは即否定。
だって、絶対かわいいはずないもん。
もちろん『那智さんにとって』ということ限定であれば、ありかもしれないけど。
どう考えても『$$$$$$!!』のわたしが、お腹のぽこや鼻の穴の見え具合に注意を払ってるようには感じられない。
キレイなAV女優さんのそれと重ねてみようとするけど、まったくもって無理がある。
映像は画像以上に、現実的なはずだ。
実は、わたしは、その手の『わたしの動画』をほとんど見たことないんだ。
付き合いはじめのころに一度と那智さんがいないときにこっそり未遂に終わったときくらいしかないの。
だから、こうやって音声だけ聞かされると、もう想像の羽が広がりまくりで大変。
見てみたい気持ちはあるけれど、見たらショック受けそうだし、機会もなくて、結局見ずじまいでいる。
だから、那智さんの言葉で一喜一憂、右往左往。
手って、なに!?
○○してるって、どれくらい!?
かわいい?(ムフ♪)…いいや、あり得ない!!(打ち消し!!)
どこかに救いはないか、無理クリ想像してみても、あり得ない図しか思い描けない。
だから、もう、のたうち回るしかないのだ。
でも、これが厄介なことで。
わたしは、崩れるわたしを嫌悪するところがある。
羞恥心をなくさない、いつまでもはじらいを持って。
こう言葉にすると、とてもかわいらしい女ではあるけど、わたしの場合、これと自己嫌悪が表裏一体なんだ。
本気で恥ずかしいから、『いやん、那智さん♪』じゃ済まされなくなってしまう時もあるの。
そんなになるわたし、きらい!!
段々落ち込んできてしまうのだ。
だから、『那智さん、これ以上続けるとわたし落ち込みそうですよ』と申告する。
那智さんは、わたしが落ち込もうがおかまいなし。
だって基本『かわいがってる』んだという自負があるからね。
やめてくれない。
しかも、酔っぱらいさんだもの、余計だ^^;
『$$$ぅ〜〜〜』
「ああ、このりん子必死なんだよな〜」
「もう、やめてください那智さん、わたしはきらいです。落ち込むっていったのに…」
なんで?
俺は、ああいうりん子が好きなんだよ。
りん子が自己嫌悪してしまうのは、かまわないけど、俺がこのりん子が好きだってことはわかってるよね?
で、俺がりん子を傷つけようと思っていないこともわかってるよね?
はい。
うん、じゃあいい、自己嫌悪してても。俺は好き。
そんな嬉しい言葉をかけてもらえるけど、一度落ち込んでしまうとオセロをひっくり返すようには返られない。
なんだかお手数かけちゃうな、でも、ウソで元気になりたくない。
それに、見せたのも、続けたのも那智さんの意志だから、こうなることも想定内なはず、だから、申し訳ないけど付き合ってもらおう。
しばらく、自己嫌悪話に付き合ってもらう。
こんなわたし、きらい。
きらいって言っているのに、やめてくれない那智さんもいや。
でも、それだけじゃない気持ちに気づいて、正直に伝える。
「那智さん、だって、わたしそこに映ってる『わたし』のこと知らない。だから、置いてきぼり食らってるように感じちゃうみたいです」
「ん?」
「那智さんと、画面の『わたし』だけ、楽しそう」
「へ?」
「…わたし、『わたし』に焼きもちやいているみたいです」
「はあああ!?(笑)」
ふう、文鳥や明太子だけじゃなくて、わたしはとうとう過去の『わたし』にさえ嫉妬してしまうの?
あまりのエゴぶりに、かなりトホホ。
で、信じたくないけど、嫉妬以外のもうひとつの心も、なんとなーく感じ取ってしまう。
見たいんでしょ?りん子。(読んでる皆さんも、ここで頷く?)
いや、見たいわけなじゃい。
絶対ショックを受ける。
でも、感じて崩れているわたし見てみたい気もする。
ううん、死ぬほど恥ずかしい。
ああ、でも、恥ずかしいことは、感じる。
いいや、やっぱり見たくない!!
……。
そこがね、エゴで被虐願望があって、羞恥系の葛藤に苦しむわたしのジレンマ。
もう、いい加減自分でも面倒になってくる、この女^^;
で、全然関係ないけれど。
普段いろんなことをはっきりと書いている。
恥ずかしいのは恥ずかしいけど、文章にするのにぼやかすほうがよっぽど恥ずかしいからね。
だけど、なんだかね、自分の喘ぎ声や何かをやっている様子を『聞いたまま再現する』のって、とーっても恥ずかしいのでした。
いつも自分のことを思い出して書いているのだけど、意外とその時の感覚とかを思い出して少し浸ってしまえるんだ。(恥ずかしいけどね)
でも、この過去の映像を再現するというのは、もう、自分を客観視しまくりで、異常なほどに恥ずかしい。
だからね、セリフを『◎×#%▲』とかにしちゃった。
喘ぎ声なんて、書こうと思えば『あ」とか『う』とかを羅列すればいいだけのことなのに、できなかった;;
しかたなく$マークで誤摩化す。
でも、『$$$$$$$〜〜〜!!』にしたほうが、エロティックになってしまった気がするのは、わたしだけでしょうか!?
ただの喘ぎ声なのに、なんだかとんでもないことを口走っているような、必要以上に想像力を掻立ててしまう結果になってしまってない?
モザイクと一緒で隠せば隠すほど、『いけないもの』感が増している気がする。
いまさらながら『あ』とか『う』を並べておいたほうがよかったかもと、思ってます。
こんなことまで、あれこれ考えてしまう面倒な人間だなぁと、やっぱり自分にトホホなんだけど、でも、割とこの『トホホ』なところキライじゃない。
いろいろ考えて、気持ちが行ったり来たりして楽しんでいるところもある^^
ということで、わたしなりに楽しみましたので。
皆さんは『$』とか『◎』にお好みの言葉を当てはめて、お楽しみくださいませ^^