ゴールを決めない理由
独特な幸福感
前エントリーで『ゴールを決めないでいてくれることは、ありがたい』と書いた。
わたしが生きやすくなるように指針を示してくれることはあるけど、それはゴールじゃなくてアドバイス。
そうじゃなくて、ふたりの関係に於いて『完全なんとか』みたいな目標もないし、日々の行為に於いても『○○しちゃいけない』とか『○○にならないといけない』というような制限もない。
こういうのをゴールを決めないと思って書いていた。
でも、書きながら、もしかしたら那智さんにはゴールがあるかもしれないと思った。
うんとね、どちらかというとストーリーという感じかな。
それも、行為に於いて。
普段、特に目標も決めず、思いつくままにしたいことをしている那智さんですが。
多少ストーリーがある場合もあるのではないかと。
鞭を打つときに。
今日は強く打って早く痴人状態にさせよう、とか。
ゆっくり打って遊ぼう、とか。
電マをするときには。
逃げられるようにして楽しもう、とか。
拘束して限界をちょっと超えてみよう、とか。
いつもではないと思うけど、こんなぼんやりとしたストーリーがあるときもあるんじゃないかと。
もちろん、わたしの反応や那智さんの気分で、簡単に変更するのもありでね。
でも、それをわたしには内緒にしているんだ。
なぜなら、ゴールを決めてそれを伝えてしまうと、那智さんにとってはつまらないものになっちゃうはずだから。
自分のすることでわたしの心を上下させることが好きなのだから、あらかじめゴールを教えてしまうとわたしの反応が自然なものではなくなってしまうので、つまらないのです。
那智さんのすることで、真剣に怖がったり喜んだり驚いたりさせたいのだから、ゴールを知らせない方が面白いのです。
たまには、今日は○○するよ、と予告をすることもあるけど、それは右往左往を楽しんでいるだけで、それに沿わないといけないというものでもないの。
どんなに驚かされようとも、痛いことをされようとも。
わたしは、ただただ。
那智さんを信じ。
疑うことなく身を任せ。
自分の心にウソを付かず。
素直に、素直に、那智さんに委ねていればいい。
那智さんの手のひらの上で、転がされ、時にはもみくしゃにされても、ただ信じて素直な反応をしていればいいのだ。
那智さんにとって大事なことは『那智さんに委ねきったわたし』なんだと思う。
だから、ゴールは内緒だし、ゴール通りじゃなくてもいい。
委ねきって、そこで生まれた感情が思い通りになれば、とても満足で、違うものになればそれは次回のデータになるから、それはそれで満足。
あまり結果で満足は左右しないんじゃないかとも思う。
で、最後には『幸せ』となるのが、ゴールといえばゴールなんだけど。
これは、那智さんにとってのゴールで、わたしのゴールじゃないのだ。
だってね。
わたしは疑うことなく身を任せ、素直な気持ちでることが大事なのだから、例えば『◎×▲#』で『$$$$〜〜〜』の時のように、最後のほうで自己嫌悪になって悲しくなってしまったとしても、それはわたしのせいじゃなくて、那智さんのせいということになる。
だから、最終的に『幸せ〜』というゴールは、わたしには課せられていないのだと思ってる。
(すごい、身勝手な理屈!!)
那智さんの手によって、泣いたり笑ったり、時々失敗して悲しくなったりするとお手間を取らせてしまうけど、それもふたりにとっては必要悪なんですよね。
疑うことなく身を任せた結果の『悲しい』なので、必要悪。
う〜ん、行為に於いてと書いてはみたものの。
これは那智さんとわたしの関係値そのものだと思い直す。
那智さんを信じ。
疑うことなく身を任せ。
自分の心にウソを付かず。
素直に、素直に、那智さんに委ねていればいい。
これは、わたしたちの関係そのものだ。
そりゃあね、人間同士なんだから、うまくいかないこともあるし、曖昧な部分もある。
でも、基本、これ。
で、これがわたしたちのいう『上下関係』なのですね。
『お散歩の裏話2』で書いた一文。
那智さんとわたしには上下関係がある。
優劣ではなく、上下。
上下という立場を選んでいる。
従わせたい人と、従いたい人。
守りたい人と、守られていたい人。
責任を持つ人と、委ねる人。
そういうことを上下を呼んでいる。
これが、これ。
那智さんは自分の好きなように、わたしを驚かせたり喜ばせたりする。
ゴールを知らないわたしはそれを素直に受け取り、素直に表現する。
そこで、転んでしまうようなことがあれば、その那智復も那智さんが責任を持つ。
なだめすかしなんていう方法はほとんど皆無なんだけど、それ以外責任の取り方はいろいろでね。
とこつん付き合ってくれるときもあるし、互いの気持ちを伝え合った後のなかなか浮上できない状態とかには『どうぞ、落ち込んでな』と優しく突き放されたりもする。
どちらにしても、悲しいのは『りん子のせい』にはしない。
それは、信じさせたものの役割なんだ。
那智さんとわたしの上下関係で。
那智さんは、そういう人。
ゴールを示さない那智さんにゴールがあるとするならば。
おそらく、わたしの人生を作ることがゴールなんじゃないかと思う。
とことん依存させ、わたしを那智さんから離れられなくして。
それとは、まったく反対に、たくさんの安定と生きやすい方法を教え、伸び伸びと成功体験を積ませてくれて、ひとりで立っていられるようにする。
『俺がいないと生きていかれないようにして、俺が死んだ瞬間からひとりで生きていかれるように。』
(『生きる』)
このおとぎ話のようなわたしの人生を作るのが、きっと那智さんのゴールなんだと思う。
と、書いていると、なんだか那智さんものすごくかっこいい人になっているようですけど(笑)
それにしても、なぜこの一見大変そうなことを、何年もし続けているのかと思いますよね。
自分の手で相手も喜ばせる喜びというのは理解できると思うけど、那智さんのそれは恐らくそれの何倍もの『喜ばせる喜び』と何倍もの『面倒』を選んでいるのですものね。
これは、単に父性豊かなできた人、では済まされない那智さんの中の歪みがあるからだと思ってる。
歪みっていうと負のイメージがあるけれど、良くも悪くも突出したところがあることを歪みだと思っています。
こちらから見たら負かもしれなけど、反対側から見たら正の場合もあるものね。
また人は誰でも歪みはあるわけで、那智さんのそれはちょっと特徴的な部分くらいだということでお話ししてみようかなと思っています。
と、『歪み』なんて気になる言葉を出しておきながら、ちょっと横道に逸れて。
委ねて守られて責任まで取ってもらうわたしってなんてラッキーな女なのでしょう。
そう、概ねラッキーな女なんだけど、こちら側に必要なことを次回少し書いてみる。
で、歪みは、そのまた次回^^;
でも、そんなドロドロした歪みじゃないから、期待しないでね。
あはは、パートナーの歪みを披露しているところなんてあんまりないよね^^;
前エントリーで『ゴールを決めないでいてくれることは、ありがたい』と書いた。
わたしが生きやすくなるように指針を示してくれることはあるけど、それはゴールじゃなくてアドバイス。
そうじゃなくて、ふたりの関係に於いて『完全なんとか』みたいな目標もないし、日々の行為に於いても『○○しちゃいけない』とか『○○にならないといけない』というような制限もない。
こういうのをゴールを決めないと思って書いていた。
でも、書きながら、もしかしたら那智さんにはゴールがあるかもしれないと思った。
うんとね、どちらかというとストーリーという感じかな。
それも、行為に於いて。
普段、特に目標も決めず、思いつくままにしたいことをしている那智さんですが。
多少ストーリーがある場合もあるのではないかと。
鞭を打つときに。
今日は強く打って早く痴人状態にさせよう、とか。
ゆっくり打って遊ぼう、とか。
電マをするときには。
逃げられるようにして楽しもう、とか。
拘束して限界をちょっと超えてみよう、とか。
いつもではないと思うけど、こんなぼんやりとしたストーリーがあるときもあるんじゃないかと。
もちろん、わたしの反応や那智さんの気分で、簡単に変更するのもありでね。
でも、それをわたしには内緒にしているんだ。
なぜなら、ゴールを決めてそれを伝えてしまうと、那智さんにとってはつまらないものになっちゃうはずだから。
自分のすることでわたしの心を上下させることが好きなのだから、あらかじめゴールを教えてしまうとわたしの反応が自然なものではなくなってしまうので、つまらないのです。
那智さんのすることで、真剣に怖がったり喜んだり驚いたりさせたいのだから、ゴールを知らせない方が面白いのです。
たまには、今日は○○するよ、と予告をすることもあるけど、それは右往左往を楽しんでいるだけで、それに沿わないといけないというものでもないの。
どんなに驚かされようとも、痛いことをされようとも。
わたしは、ただただ。
那智さんを信じ。
疑うことなく身を任せ。
自分の心にウソを付かず。
素直に、素直に、那智さんに委ねていればいい。
那智さんの手のひらの上で、転がされ、時にはもみくしゃにされても、ただ信じて素直な反応をしていればいいのだ。
那智さんにとって大事なことは『那智さんに委ねきったわたし』なんだと思う。
だから、ゴールは内緒だし、ゴール通りじゃなくてもいい。
委ねきって、そこで生まれた感情が思い通りになれば、とても満足で、違うものになればそれは次回のデータになるから、それはそれで満足。
あまり結果で満足は左右しないんじゃないかとも思う。
で、最後には『幸せ』となるのが、ゴールといえばゴールなんだけど。
これは、那智さんにとってのゴールで、わたしのゴールじゃないのだ。
だってね。
わたしは疑うことなく身を任せ、素直な気持ちでることが大事なのだから、例えば『◎×▲#』で『$$$$〜〜〜』の時のように、最後のほうで自己嫌悪になって悲しくなってしまったとしても、それはわたしのせいじゃなくて、那智さんのせいということになる。
だから、最終的に『幸せ〜』というゴールは、わたしには課せられていないのだと思ってる。
(すごい、身勝手な理屈!!)
那智さんの手によって、泣いたり笑ったり、時々失敗して悲しくなったりするとお手間を取らせてしまうけど、それもふたりにとっては必要悪なんですよね。
疑うことなく身を任せた結果の『悲しい』なので、必要悪。
う〜ん、行為に於いてと書いてはみたものの。
これは那智さんとわたしの関係値そのものだと思い直す。
那智さんを信じ。
疑うことなく身を任せ。
自分の心にウソを付かず。
素直に、素直に、那智さんに委ねていればいい。
これは、わたしたちの関係そのものだ。
そりゃあね、人間同士なんだから、うまくいかないこともあるし、曖昧な部分もある。
でも、基本、これ。
で、これがわたしたちのいう『上下関係』なのですね。
『お散歩の裏話2』で書いた一文。
那智さんとわたしには上下関係がある。
優劣ではなく、上下。
上下という立場を選んでいる。
従わせたい人と、従いたい人。
守りたい人と、守られていたい人。
責任を持つ人と、委ねる人。
そういうことを上下を呼んでいる。
これが、これ。
那智さんは自分の好きなように、わたしを驚かせたり喜ばせたりする。
ゴールを知らないわたしはそれを素直に受け取り、素直に表現する。
そこで、転んでしまうようなことがあれば、その那智復も那智さんが責任を持つ。
なだめすかしなんていう方法はほとんど皆無なんだけど、それ以外責任の取り方はいろいろでね。
とこつん付き合ってくれるときもあるし、互いの気持ちを伝え合った後のなかなか浮上できない状態とかには『どうぞ、落ち込んでな』と優しく突き放されたりもする。
どちらにしても、悲しいのは『りん子のせい』にはしない。
それは、信じさせたものの役割なんだ。
那智さんとわたしの上下関係で。
那智さんは、そういう人。
ゴールを示さない那智さんにゴールがあるとするならば。
おそらく、わたしの人生を作ることがゴールなんじゃないかと思う。
とことん依存させ、わたしを那智さんから離れられなくして。
それとは、まったく反対に、たくさんの安定と生きやすい方法を教え、伸び伸びと成功体験を積ませてくれて、ひとりで立っていられるようにする。
『俺がいないと生きていかれないようにして、俺が死んだ瞬間からひとりで生きていかれるように。』
(『生きる』)
このおとぎ話のようなわたしの人生を作るのが、きっと那智さんのゴールなんだと思う。
と、書いていると、なんだか那智さんものすごくかっこいい人になっているようですけど(笑)
それにしても、なぜこの一見大変そうなことを、何年もし続けているのかと思いますよね。
自分の手で相手も喜ばせる喜びというのは理解できると思うけど、那智さんのそれは恐らくそれの何倍もの『喜ばせる喜び』と何倍もの『面倒』を選んでいるのですものね。
これは、単に父性豊かなできた人、では済まされない那智さんの中の歪みがあるからだと思ってる。
歪みっていうと負のイメージがあるけれど、良くも悪くも突出したところがあることを歪みだと思っています。
こちらから見たら負かもしれなけど、反対側から見たら正の場合もあるものね。
また人は誰でも歪みはあるわけで、那智さんのそれはちょっと特徴的な部分くらいだということでお話ししてみようかなと思っています。
と、『歪み』なんて気になる言葉を出しておきながら、ちょっと横道に逸れて。
委ねて守られて責任まで取ってもらうわたしってなんてラッキーな女なのでしょう。
そう、概ねラッキーな女なんだけど、こちら側に必要なことを次回少し書いてみる。
で、歪みは、そのまた次回^^;
でも、そんなドロドロした歪みじゃないから、期待しないでね。
あはは、パートナーの歪みを披露しているところなんてあんまりないよね^^;