球体
りん子的独り言(エラそう)
もしかしたら、ちょっと偏ったことを書いてしまうかもしれない。
物事にはいろんな側面があって、いま見ているものだけが唯一じゃないですよね。
どれが正解かを問いたいのではなくて、こんな側面もあるのではないかな。
そんな反対側からのことです。
こちら側からのことってあまり読んだことないから書いてみますが、そんなこともあるかなと思って読んでいただけるとありがたいです。
半年くらい前になるかな。
少し改まって那智さんに言われた。
まだ、そうじゃないけど、今後そうなる可能性があるから先に忠告しておくね。
りん子は、ずいぶん強くなって自己主張もできるようになった。
強くなることはいいことだ、だけど、自己主張できると優しさが減ってしまうこともある。
強く言えるようになるからね。
だから、りん子の優しさをなくさないように、気をつけること。
ああ、それ、ちょっと危険を孕んでいると思ってました。
確かにこの数年で自己主張する訓練を積めて、その場ででも頭をクリアにして、問題の本質や伝えたいことが多少はわかるようになってきている。
だから、なんでも闇雲に『ごめんなさい』と言わずに済んでいる。
それはとても良いことなんだけど、自己主張してそれがうまくいった場合の爽快感みたいなものも味わっているも確かで、それが危険だなと思っていた。
その爽快感が、人を傷つけていても気づかない無神経さにいつか繋がってしまいそうで。
私も、密かに危惧していた。
でも、見ないフリをしていたことを指摘されたのだ。
那智さん、私、優しさなくなっていますか?
いまは、大丈夫。
ただ、これからその可能性もあるからいまのうちに忠告している。
じゃあ、いつかなくなってしまうでしょうか。
それを意識していれば、大丈夫。
那智さん、あれから半年ほど過ぎています。
私の優しさ減っていませんか?
ずっと昔。
なんだか傷つきやすくて、少しのことで悲しくなって友だちに『もっとしっかりしなよ』『りん子はもう少し強くなったほうがいい』と言われると、いつもひとつのイメージを頭に描いていた。
(すぐ傷ついちゃうことは(『アンテナ』と『チューニング』セットで^^)
それはね、『球体』^^
人の能力というか性格というか、それはその人ごとに体積が決まっていて、それを丸い『球体』で想像していたの。
私の『球』はこの大きさ。
あなたのは、それより大きかったり小さかったり。
人は、その自分の『球体』の体積を大事に抱えて生きていくイメージ。
だから、『もっとしっかりしなよ』『もう少し強くなったほうがいい』と言われるときに。
どうして『強くなれ』『しっかりしろ』とどんどん『こぶ』を増やそうとするの?
まるでそれしか道がないかのように。
じゃあ、この『球体』に強さを出っ張らせたら、きっとどこか凹むよ。
もしかしたら、その凹みは優しさかもしれないよ。
たいして強くなくてすぐメソメソしてしまうけど、人を傷つけたくないといつも思ってる、それだけじゃダメ?
いまだから、それは弱さだけじゃなくて、『アンテナ』の感度のせいでもある(なんでもそのせいだとは思っていませんよ)と思えるから、ずいぶん楽になったけど、以前は、そんなふうに心の中で思っていた。
いまある『球体』でいていいじゃないと、ゴムボールが出っ張ったり凹んだりして歪む姿を想像していた。
那智さんの忠告を聞きながら、この『球体』を思っていた。
なぜ、弱いことは悪いことのように言うのだろう。
なぜ、強く主張できたほうが、弱いほうを正さなきゃいけないんだろう。
那智さんの忠告を聞いて、『球体』を思い、過去といまの自分を交互に比べて、私はどんなふうになれればいいのだろうと、少し困っていた。
ところで、読売新聞に『人生案内』というコーナーがあるのをご存知ですか。
一般の人の悩みに各界の識者が応えるのだ。
いろいろな悩みを抱えている人とそれにそれぞれの個性で応える識者、興味深いのです。
(興味深いお話は別の機会に^^)
先日その中に、ずっと考えていた『球体』のイメージと那智さんの忠告で少し困惑した気持ちに答えてくれるような回答を見つけた。
下記に全文載せます。
<相談>
20歳代前半の女子大学生です。気弱な性格のため、いろいろと損をしてきました。口数が少なく、すぐに泣く。運動が苦手で動作も遅いなど、人から侮られる 要素がたくさんあります。年下の人にも、今までさんざんばかにされ、利用されてきました。小、中、高校と、いじめに遭いました。
大学でも友達がいません。授業で共同作業をすることもあるのですが、また嫌なことを押しつけられるのでは、集中攻撃されるのでは、とビクビクしています。 周囲は、気が強く腹が立つことをされればその場でガツンと言える人たちばかり。私1人、ガツンと言えないために、相手への怒りの気持ちも収まりません。
自分のこんな性格を最近激しく憎むようになりました。何で私をこんなふうに生んだのと、親を恨んでしまうことも。生まれてこなければよかったのにと思ってしまいます。(宮城・R美)
<回答>
ご自分の弱さに対する歯がゆさが、ひしひしと伝わってきます。確かに今は、内向的な人にとっていささか生きづらい世の中なのかもしれない。でも本当は、そ れぞれの個性で生きることこそ、人間に課せられた課題なんです。世の中、みんな勝気な人、明るい人ばかりでは面白くもないし、第一、社会が成立しません よ。
ヒントになるか分かりませんが、中国古代の哲学者・老子が勧める「水のような生き方」を紹介してみます。水は先を争うことなく、あるがままに流れて、人が 好まない低い所にとどまり、万物を潤す。水は柔らかく、突っ張らず、実に弱々しいけれど、硬い岩をゆっくり砕き、長い間に大きな役割を目立たずに果たす。
私もこういう生き方にあこがれているのですが、考えてみると、あなたもあえて強く「ガツンと言える」人に変身する必要がどこにありましょう。ガツンとあち こちで言えば、結局は自分が傷つくんです。小さな自分を声高に主張したって、いくらのものでもありません。対して、控えめで無心で水のようであれば傷つく ことも少ない。
つまり「弱さを貫く」ことこそ、本当の価値ある生き方につながるのではないでしょうか。
(野村 総一郎・精神科医)
http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20090913-OYT8T00191.htm
『水のような生き方』『弱さを貫く』
いいな、これ、なんだかとてもスッキリした。
そうなんだ。
弱いことを、なぜ変える必要があるのだろう。
みんなが強ければ成り立たないし、第一みんなが強くなればまたその中で強弱もできる。
そこで、そこでまた『強くなれ』と正し合う。
それは決して幸福なことではないのではないか。
もちろん、私の友人などは本気で心配してくれて、弱い私に付き合うことでいろんな面倒を引き受けてくれた被害者でもあるので、弱いことが正しいと声高にいうつもりはないのです。
だけど、心ない人の『りん子ちゃん、ダメじゃん』という言葉は、その人の優越感に繋がっていないだろうか。
だとすれば、その人は『弱い人』が存在するから、優越感を味わわせてもらえてるとも言えないだろうか。
しっかりしている人にお手数をかけてしまうような弱さは、厄介かもしれない。
だけど、『まったく弱いんだから』と強い人から言われ続ける傷を、言っているほうは気づいているだろうか。
(この辺り、敢えて極端な言い方してますよ^^)
実は持ちつ持たれつで、優劣なんてないんじゃない?
弱い人も強い人もいて世の中は成り立っているのだとしたら、どちらがえらくて、どちらが劣ってるなんて思わないでいいのではないかしら。
弱いことは正解じゃないかもしれない。
だけど、強いだけが、唯一の正解でもないよね。
両方がただ共存してればいだけのこと。
そう思った。
そしたら、私の『球体』の体積、このままでもよかったんだと思えた。
そして、改めて那智さんの忠告を思い出す。
私は、自己主張できるようになってきっと『球体』にこぶがひとつ増えたのだ。
那智さんは、こぶが増えたことを意識していれば凹まないと忠告している。
無理矢理こぶをくっつける必要なんかない。
人は自然に『球体』の体積を増やすことができるみたいなのだ。
で、新聞を読んで那智さんの忠告に応える私の目標を決めた。
『弱さを貫く』こと。
これからも体積に変動はあるかもしれないけど、『水のように弱さを貫く』強さを持ちたいと憧れることにします^^
ああ、でも、どうやれば『弱さを貫ける』のだろう!?
いまだって、私の水は『かーっ』となって沸騰したり『がーん』となって凍ったりしている。
全然、貫けていない^^;
だけど、憧れを持つだけでも、一歩前進だよね^^
こちら側からの一方的な意見でした。
でも、ずっと正論?常識?の正面からしか見ていなくて、主張できない自分を『球体』なんてイメージしてもがいていたけれど、違う側面もあると気づけたことは、とても安心することでした。
『水のように、弱さを貫く』
こんな考え方もひとつの道として、ありなんじゃないかしら。
偏った話にお付き合いくださってありがとうございました^^
那智さん。
あれから半年過ぎていますけど、私の球体ま〜るいままでいられていますか?
少しは、水のように弱さを貫けていますか?
そんなふうに問いかけて、ずっと昔から思い描いていた私の『球体』をもう一度思い出してみる。
いまよりちょっと小さかった球体を忘れないように。
追記^^
前エントリーでは、那智さんファン表明をありがとうございました^^
コメントはもちろん拍手コメントでもいただけて、嬉しかったです。
基本的に拍手コメントにはお返事しないのですが、今回は那智さんに変わってお礼をさせていただきます。
お馴染みの方や『自称女の子』さん(うふふ、6歳児かな?)、男性さんからもいただきました。
なんの前触れもなくいきなりアップしたので那智さんとしては、照れ臭いエントリーになってしまったと思いますが、きっと喜んでくれていると思います^^;
ありがとうございました〜♪
もしかしたら、ちょっと偏ったことを書いてしまうかもしれない。
物事にはいろんな側面があって、いま見ているものだけが唯一じゃないですよね。
どれが正解かを問いたいのではなくて、こんな側面もあるのではないかな。
そんな反対側からのことです。
こちら側からのことってあまり読んだことないから書いてみますが、そんなこともあるかなと思って読んでいただけるとありがたいです。
半年くらい前になるかな。
少し改まって那智さんに言われた。
まだ、そうじゃないけど、今後そうなる可能性があるから先に忠告しておくね。
りん子は、ずいぶん強くなって自己主張もできるようになった。
強くなることはいいことだ、だけど、自己主張できると優しさが減ってしまうこともある。
強く言えるようになるからね。
だから、りん子の優しさをなくさないように、気をつけること。
ああ、それ、ちょっと危険を孕んでいると思ってました。
確かにこの数年で自己主張する訓練を積めて、その場ででも頭をクリアにして、問題の本質や伝えたいことが多少はわかるようになってきている。
だから、なんでも闇雲に『ごめんなさい』と言わずに済んでいる。
それはとても良いことなんだけど、自己主張してそれがうまくいった場合の爽快感みたいなものも味わっているも確かで、それが危険だなと思っていた。
その爽快感が、人を傷つけていても気づかない無神経さにいつか繋がってしまいそうで。
私も、密かに危惧していた。
でも、見ないフリをしていたことを指摘されたのだ。
那智さん、私、優しさなくなっていますか?
いまは、大丈夫。
ただ、これからその可能性もあるからいまのうちに忠告している。
じゃあ、いつかなくなってしまうでしょうか。
それを意識していれば、大丈夫。
那智さん、あれから半年ほど過ぎています。
私の優しさ減っていませんか?
ずっと昔。
なんだか傷つきやすくて、少しのことで悲しくなって友だちに『もっとしっかりしなよ』『りん子はもう少し強くなったほうがいい』と言われると、いつもひとつのイメージを頭に描いていた。
(すぐ傷ついちゃうことは(『アンテナ』と『チューニング』セットで^^)
それはね、『球体』^^
人の能力というか性格というか、それはその人ごとに体積が決まっていて、それを丸い『球体』で想像していたの。
私の『球』はこの大きさ。
あなたのは、それより大きかったり小さかったり。
人は、その自分の『球体』の体積を大事に抱えて生きていくイメージ。
だから、『もっとしっかりしなよ』『もう少し強くなったほうがいい』と言われるときに。
どうして『強くなれ』『しっかりしろ』とどんどん『こぶ』を増やそうとするの?
まるでそれしか道がないかのように。
じゃあ、この『球体』に強さを出っ張らせたら、きっとどこか凹むよ。
もしかしたら、その凹みは優しさかもしれないよ。
たいして強くなくてすぐメソメソしてしまうけど、人を傷つけたくないといつも思ってる、それだけじゃダメ?
いまだから、それは弱さだけじゃなくて、『アンテナ』の感度のせいでもある(なんでもそのせいだとは思っていませんよ)と思えるから、ずいぶん楽になったけど、以前は、そんなふうに心の中で思っていた。
いまある『球体』でいていいじゃないと、ゴムボールが出っ張ったり凹んだりして歪む姿を想像していた。
那智さんの忠告を聞きながら、この『球体』を思っていた。
なぜ、弱いことは悪いことのように言うのだろう。
なぜ、強く主張できたほうが、弱いほうを正さなきゃいけないんだろう。
那智さんの忠告を聞いて、『球体』を思い、過去といまの自分を交互に比べて、私はどんなふうになれればいいのだろうと、少し困っていた。
ところで、読売新聞に『人生案内』というコーナーがあるのをご存知ですか。
一般の人の悩みに各界の識者が応えるのだ。
いろいろな悩みを抱えている人とそれにそれぞれの個性で応える識者、興味深いのです。
(興味深いお話は別の機会に^^)
先日その中に、ずっと考えていた『球体』のイメージと那智さんの忠告で少し困惑した気持ちに答えてくれるような回答を見つけた。
下記に全文載せます。
<相談>
20歳代前半の女子大学生です。気弱な性格のため、いろいろと損をしてきました。口数が少なく、すぐに泣く。運動が苦手で動作も遅いなど、人から侮られる 要素がたくさんあります。年下の人にも、今までさんざんばかにされ、利用されてきました。小、中、高校と、いじめに遭いました。
大学でも友達がいません。授業で共同作業をすることもあるのですが、また嫌なことを押しつけられるのでは、集中攻撃されるのでは、とビクビクしています。 周囲は、気が強く腹が立つことをされればその場でガツンと言える人たちばかり。私1人、ガツンと言えないために、相手への怒りの気持ちも収まりません。
自分のこんな性格を最近激しく憎むようになりました。何で私をこんなふうに生んだのと、親を恨んでしまうことも。生まれてこなければよかったのにと思ってしまいます。(宮城・R美)
<回答>
ご自分の弱さに対する歯がゆさが、ひしひしと伝わってきます。確かに今は、内向的な人にとっていささか生きづらい世の中なのかもしれない。でも本当は、そ れぞれの個性で生きることこそ、人間に課せられた課題なんです。世の中、みんな勝気な人、明るい人ばかりでは面白くもないし、第一、社会が成立しません よ。
ヒントになるか分かりませんが、中国古代の哲学者・老子が勧める「水のような生き方」を紹介してみます。水は先を争うことなく、あるがままに流れて、人が 好まない低い所にとどまり、万物を潤す。水は柔らかく、突っ張らず、実に弱々しいけれど、硬い岩をゆっくり砕き、長い間に大きな役割を目立たずに果たす。
私もこういう生き方にあこがれているのですが、考えてみると、あなたもあえて強く「ガツンと言える」人に変身する必要がどこにありましょう。ガツンとあち こちで言えば、結局は自分が傷つくんです。小さな自分を声高に主張したって、いくらのものでもありません。対して、控えめで無心で水のようであれば傷つく ことも少ない。
つまり「弱さを貫く」ことこそ、本当の価値ある生き方につながるのではないでしょうか。
(野村 総一郎・精神科医)
http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20090913-OYT8T00191.htm
『水のような生き方』『弱さを貫く』
いいな、これ、なんだかとてもスッキリした。
そうなんだ。
弱いことを、なぜ変える必要があるのだろう。
みんなが強ければ成り立たないし、第一みんなが強くなればまたその中で強弱もできる。
そこで、そこでまた『強くなれ』と正し合う。
それは決して幸福なことではないのではないか。
もちろん、私の友人などは本気で心配してくれて、弱い私に付き合うことでいろんな面倒を引き受けてくれた被害者でもあるので、弱いことが正しいと声高にいうつもりはないのです。
だけど、心ない人の『りん子ちゃん、ダメじゃん』という言葉は、その人の優越感に繋がっていないだろうか。
だとすれば、その人は『弱い人』が存在するから、優越感を味わわせてもらえてるとも言えないだろうか。
しっかりしている人にお手数をかけてしまうような弱さは、厄介かもしれない。
だけど、『まったく弱いんだから』と強い人から言われ続ける傷を、言っているほうは気づいているだろうか。
(この辺り、敢えて極端な言い方してますよ^^)
実は持ちつ持たれつで、優劣なんてないんじゃない?
弱い人も強い人もいて世の中は成り立っているのだとしたら、どちらがえらくて、どちらが劣ってるなんて思わないでいいのではないかしら。
弱いことは正解じゃないかもしれない。
だけど、強いだけが、唯一の正解でもないよね。
両方がただ共存してればいだけのこと。
そう思った。
そしたら、私の『球体』の体積、このままでもよかったんだと思えた。
そして、改めて那智さんの忠告を思い出す。
私は、自己主張できるようになってきっと『球体』にこぶがひとつ増えたのだ。
那智さんは、こぶが増えたことを意識していれば凹まないと忠告している。
無理矢理こぶをくっつける必要なんかない。
人は自然に『球体』の体積を増やすことができるみたいなのだ。
で、新聞を読んで那智さんの忠告に応える私の目標を決めた。
『弱さを貫く』こと。
これからも体積に変動はあるかもしれないけど、『水のように弱さを貫く』強さを持ちたいと憧れることにします^^
ああ、でも、どうやれば『弱さを貫ける』のだろう!?
いまだって、私の水は『かーっ』となって沸騰したり『がーん』となって凍ったりしている。
全然、貫けていない^^;
だけど、憧れを持つだけでも、一歩前進だよね^^
こちら側からの一方的な意見でした。
でも、ずっと正論?常識?の正面からしか見ていなくて、主張できない自分を『球体』なんてイメージしてもがいていたけれど、違う側面もあると気づけたことは、とても安心することでした。
『水のように、弱さを貫く』
こんな考え方もひとつの道として、ありなんじゃないかしら。
偏った話にお付き合いくださってありがとうございました^^
那智さん。
あれから半年過ぎていますけど、私の球体ま〜るいままでいられていますか?
少しは、水のように弱さを貫けていますか?
そんなふうに問いかけて、ずっと昔から思い描いていた私の『球体』をもう一度思い出してみる。
いまよりちょっと小さかった球体を忘れないように。
追記^^
前エントリーでは、那智さんファン表明をありがとうございました^^
コメントはもちろん拍手コメントでもいただけて、嬉しかったです。
基本的に拍手コメントにはお返事しないのですが、今回は那智さんに変わってお礼をさせていただきます。
お馴染みの方や『自称女の子』さん(うふふ、6歳児かな?)、男性さんからもいただきました。
なんの前触れもなくいきなりアップしたので那智さんとしては、照れ臭いエントリーになってしまったと思いますが、きっと喜んでくれていると思います^^;
ありがとうございました〜♪
善意
りん子的独り言(エラそう)
ちょっと人として正しいことじゃないかもしれない考え方が浮かんでしまった。
そうなると、書かずにはいられない。
これが正解とは思っていないのだけど、そんな考え方もあるかもと思って読んでいただけるとありがたいです。
ちょっと極端なこと書くから、ビクビクです^^;
『壁にならない常に卵の側に』なんてステキなことを書いているけれど、別に私は博愛の天使でも聖人君子でもない。
(『hotに3周年御礼』『連れションはキライ』
普通に意地悪いことも考えるしとても嫉妬深いし、ずるいところだってたくさんある。
那智さんや気の置けない友人には毒だって吐く。
だから那智さんには『性格悪い』と言われるし、ブログを読んでいる友人は『カッコつけちゃって〜』と思っているかもしれない。
そりゃあ、そうよね。
人間なんだもの。
ただ、毒を吐く時に気を付けていることがふたつある。
ひとつは、毒は吐くけど『その事柄』に対してだけで、『その人』に対してはなるべく吐かないようにしている。
罪を憎んで人を憎まずという感じ。
人って、『あの人って○○だよね〜』という話になるといつの間にかその人の全人格否定みたいな感じになっちゃうでしょ?
まあ、見ず知らずの芸能人とかならそれでもいいけど、その場にいない知り合いに対してでも、そういう傾向ってあるよね。
結果『あいつムカつく』になってしまう^^;
私は、これが苦手。
だから、その人の一部に対して毒は吐くけど、その人自身には吐かないようにしている。
それともうひとつ。
これが『壁にならない』の表れなんだけど。
その毒を吐くのは、基本的に友人とふたりだけの時だけにしている。
ふたりだけだと、そこから壁に発展しないから。
3人になれば、気の合ううちはいいけれど、もしかしたらその毒が3人のうちの1人に向かってしまって2対1という構図ができてしまったりすることあるよね。(そうじゃないこともあるでしょけど)
これは、私にとってはもう壁なのだ。
だから、複数の友人がいるところでは毒は吐かない。
例外はあって、私が毒を吐きそれと同感の意見が出たら、すっと引いてそれ以上毒が広がらないようにしてくれる人がいる場合は3、4人いてもする。
那智さんもそう。
だから私は那智さんを交えてお友達と会っても安心して毒を吐けるのです。
あ、その代わり、普段でも私の怒りに共感してほしくても、別の角度からの見方を言われたりしてつまんなーいってことにもなるけど^^;(『那智さんに足りないもの』)
最近は更に、人数が増えればそれだけ『毒(悪意ともいう)』の量が増えて、その毒にやられちゃうということもあるのかなと思ってます。(『チューニング』)
これは、『卵の側』でもなんでもない保身だよね^^;
まあ、とにかく、いろんなことを含めて『壁にならない卵の側に』とステキ(?)なことを言ってます^^;
私自身もこの『卵の側』という定義が漠然としているのだけど、那智さんも疑問に思うらしい。
本人さえ漠然としているのだから、まあ、当然だよね。
かっこいい考え方だと思うけど、かっこいいと言い切れるほどの根拠がないと思っているらしい。
だから、時々この話をしてくる。
りん子は弱い人の味方ってわけでもないんだよな。
はい、弱い人も集団になれば壁になりますからね。
じゃあ、群衆心理みたいなのがいやなの?
う〜ん、それもあるんですけど、それだけじゃないって感じです。
そんな大勢じゃなくても、少数でも1対複数になる構図がいやという感じかな〜。
割と人って、1対複数になりやすいでしょ?
それって単に、いままでのりん子の周辺の人間関係が良くなかっただけじゃない!?
うう、そうかもしれないです^^;
ここから那智さんシミュレーション。
『壁にならない、卵の側に』に正当性があるか確認してくる。
じゃあ、例えば○○さんや○○さんがいて、その人たちが毒を吐くのはいいの?
と、1対複数の構図を作らなそうな共通の友人の例にあげる。
うう、それでも私の苦手な『空気』になるならいやですね、そうなったら、それ以上壁が大きくならないように私は黙るかもしれない。
その場で提示されるシミュレーションにその場で答えているので、一貫性がないかな〜なんて思いながらも思いつくままに答えていく。
じゃあ、○○さんや○○さんと、同じタイプの人が数人いて、(そんなにたくさんいるかなぁ)いたとして^^
その人たちが誰かに対して『毒』じゃなく、『善意』の気持ちからの意見がでていたら、それは壁?
『◎◎さんのここはよくないから、なんとかしてあげよう』みたいな。
そこで、私は思いもよらない意見を言ってしまって、自分でもびっくり。
善意も集団になった時点で善意じゃなくなります。
うわあ、これ一般的に言ったら間違った考え方だよね!?
でも、意外と私の気持ちから外れていないかもという気分にもなる^^;
へぇ〜、また大胆なこと言うね〜。
面白がる那智さん。
口火を切ったら止まらない。
善意って、基本的に個々で生まれるもので、その善意の種類もそれぞれなはずですよね。
それを一括りの『善意』にする時点で、それは個の善意から離れている。
そうなると、それは善意じゃないのではないでしょうか?
こういうのは?
○○地震の被害に遭われた人に募金をしましょうという集団の善意は、善意じゃないの?
またまた思いつくままに。
えっと、例えばクラスとかで『みんなで募金しましょう』ということになれば、ほんとはしたくない人や家庭の事情で募金をできない人にとっては、それは善意じゃないですよね。
募金は個人でするものです。
個人の善意が集まって結果『集団』になるのはいいけれど、最初から『集団』になってするものは善意じゃないというのは、どうでしょう?
う〜ん、確かにそうかも。
『お年寄りには親切にしましょう』というのは教育として必要です。
でも、それを『集団』として強制するのは、善意じゃないと思いますよ。
例えば、ママさん友だちで1人具合が悪くなって『じゃあ、みんなで毎日交代でおかずを届けてあげましょう』ということになったら、確かにいいことだとは思うけど、それって善意かな?
クラスの○○君は九九が覚えられないから、クラスのみんなで残って教えてあげましょうっていうのも、善意かな?
困っている人に手を差し伸べるのに『みんなの意見』とする必要はないと思うのです。
個々の意志で手を差し伸べてあげたい人が、差し伸べたい方法でしてあげることが善意だと思いますよ。
募金とかは、それがたまたま集まっただけで。
だから、那智さんのおっしゃるケースも、私には『壁』かな。
『善意は集団になった時点で善意じゃない』
『善意は個であるもの』
話ながら、かなり偏った意見を言っていると、自分でもヒヤヒヤしてくる。
私の中でもまだそう言い切れるほど熟考されていないので、これが正しいとは言い切れない。
でも、私の苦手な『壁』のイメージに近い気がして、この考え方が浮かんだときは、若干爽快感さえ感じてしまった。
暴論であることは承知の上で、そんな考え方もあるかもよ〜というエントリーでした^^;
うう、どうしましょう。
かっこいいこと書いてますけど全然立派な人じゃないんです〜と書きたかったのだけど。
なんだか、これじゃぁただの偏屈な女になってしまった気がする^^;
ちょっと人として正しいことじゃないかもしれない考え方が浮かんでしまった。
そうなると、書かずにはいられない。
これが正解とは思っていないのだけど、そんな考え方もあるかもと思って読んでいただけるとありがたいです。
ちょっと極端なこと書くから、ビクビクです^^;
『壁にならない常に卵の側に』なんてステキなことを書いているけれど、別に私は博愛の天使でも聖人君子でもない。
(『hotに3周年御礼』『連れションはキライ』
普通に意地悪いことも考えるしとても嫉妬深いし、ずるいところだってたくさんある。
那智さんや気の置けない友人には毒だって吐く。
だから那智さんには『性格悪い』と言われるし、ブログを読んでいる友人は『カッコつけちゃって〜』と思っているかもしれない。
そりゃあ、そうよね。
人間なんだもの。
ただ、毒を吐く時に気を付けていることがふたつある。
ひとつは、毒は吐くけど『その事柄』に対してだけで、『その人』に対してはなるべく吐かないようにしている。
罪を憎んで人を憎まずという感じ。
人って、『あの人って○○だよね〜』という話になるといつの間にかその人の全人格否定みたいな感じになっちゃうでしょ?
まあ、見ず知らずの芸能人とかならそれでもいいけど、その場にいない知り合いに対してでも、そういう傾向ってあるよね。
結果『あいつムカつく』になってしまう^^;
私は、これが苦手。
だから、その人の一部に対して毒は吐くけど、その人自身には吐かないようにしている。
それともうひとつ。
これが『壁にならない』の表れなんだけど。
その毒を吐くのは、基本的に友人とふたりだけの時だけにしている。
ふたりだけだと、そこから壁に発展しないから。
3人になれば、気の合ううちはいいけれど、もしかしたらその毒が3人のうちの1人に向かってしまって2対1という構図ができてしまったりすることあるよね。(そうじゃないこともあるでしょけど)
これは、私にとってはもう壁なのだ。
だから、複数の友人がいるところでは毒は吐かない。
例外はあって、私が毒を吐きそれと同感の意見が出たら、すっと引いてそれ以上毒が広がらないようにしてくれる人がいる場合は3、4人いてもする。
那智さんもそう。
だから私は那智さんを交えてお友達と会っても安心して毒を吐けるのです。
あ、その代わり、普段でも私の怒りに共感してほしくても、別の角度からの見方を言われたりしてつまんなーいってことにもなるけど^^;(『那智さんに足りないもの』)
最近は更に、人数が増えればそれだけ『毒(悪意ともいう)』の量が増えて、その毒にやられちゃうということもあるのかなと思ってます。(『チューニング』)
これは、『卵の側』でもなんでもない保身だよね^^;
まあ、とにかく、いろんなことを含めて『壁にならない卵の側に』とステキ(?)なことを言ってます^^;
私自身もこの『卵の側』という定義が漠然としているのだけど、那智さんも疑問に思うらしい。
本人さえ漠然としているのだから、まあ、当然だよね。
かっこいい考え方だと思うけど、かっこいいと言い切れるほどの根拠がないと思っているらしい。
だから、時々この話をしてくる。
りん子は弱い人の味方ってわけでもないんだよな。
はい、弱い人も集団になれば壁になりますからね。
じゃあ、群衆心理みたいなのがいやなの?
う〜ん、それもあるんですけど、それだけじゃないって感じです。
そんな大勢じゃなくても、少数でも1対複数になる構図がいやという感じかな〜。
割と人って、1対複数になりやすいでしょ?
それって単に、いままでのりん子の周辺の人間関係が良くなかっただけじゃない!?
うう、そうかもしれないです^^;
ここから那智さんシミュレーション。
『壁にならない、卵の側に』に正当性があるか確認してくる。
じゃあ、例えば○○さんや○○さんがいて、その人たちが毒を吐くのはいいの?
と、1対複数の構図を作らなそうな共通の友人の例にあげる。
うう、それでも私の苦手な『空気』になるならいやですね、そうなったら、それ以上壁が大きくならないように私は黙るかもしれない。
その場で提示されるシミュレーションにその場で答えているので、一貫性がないかな〜なんて思いながらも思いつくままに答えていく。
じゃあ、○○さんや○○さんと、同じタイプの人が数人いて、(そんなにたくさんいるかなぁ)いたとして^^
その人たちが誰かに対して『毒』じゃなく、『善意』の気持ちからの意見がでていたら、それは壁?
『◎◎さんのここはよくないから、なんとかしてあげよう』みたいな。
そこで、私は思いもよらない意見を言ってしまって、自分でもびっくり。
善意も集団になった時点で善意じゃなくなります。
うわあ、これ一般的に言ったら間違った考え方だよね!?
でも、意外と私の気持ちから外れていないかもという気分にもなる^^;
へぇ〜、また大胆なこと言うね〜。
面白がる那智さん。
口火を切ったら止まらない。
善意って、基本的に個々で生まれるもので、その善意の種類もそれぞれなはずですよね。
それを一括りの『善意』にする時点で、それは個の善意から離れている。
そうなると、それは善意じゃないのではないでしょうか?
こういうのは?
○○地震の被害に遭われた人に募金をしましょうという集団の善意は、善意じゃないの?
またまた思いつくままに。
えっと、例えばクラスとかで『みんなで募金しましょう』ということになれば、ほんとはしたくない人や家庭の事情で募金をできない人にとっては、それは善意じゃないですよね。
募金は個人でするものです。
個人の善意が集まって結果『集団』になるのはいいけれど、最初から『集団』になってするものは善意じゃないというのは、どうでしょう?
う〜ん、確かにそうかも。
『お年寄りには親切にしましょう』というのは教育として必要です。
でも、それを『集団』として強制するのは、善意じゃないと思いますよ。
例えば、ママさん友だちで1人具合が悪くなって『じゃあ、みんなで毎日交代でおかずを届けてあげましょう』ということになったら、確かにいいことだとは思うけど、それって善意かな?
クラスの○○君は九九が覚えられないから、クラスのみんなで残って教えてあげましょうっていうのも、善意かな?
困っている人に手を差し伸べるのに『みんなの意見』とする必要はないと思うのです。
個々の意志で手を差し伸べてあげたい人が、差し伸べたい方法でしてあげることが善意だと思いますよ。
募金とかは、それがたまたま集まっただけで。
だから、那智さんのおっしゃるケースも、私には『壁』かな。
『善意は集団になった時点で善意じゃない』
『善意は個であるもの』
話ながら、かなり偏った意見を言っていると、自分でもヒヤヒヤしてくる。
私の中でもまだそう言い切れるほど熟考されていないので、これが正しいとは言い切れない。
でも、私の苦手な『壁』のイメージに近い気がして、この考え方が浮かんだときは、若干爽快感さえ感じてしまった。
暴論であることは承知の上で、そんな考え方もあるかもよ〜というエントリーでした^^;
うう、どうしましょう。
かっこいいこと書いてますけど全然立派な人じゃないんです〜と書きたかったのだけど。
なんだか、これじゃぁただの偏屈な女になってしまった気がする^^;
『集団の善意』の続き
りん子的独り言(エラそう)
『善意』ではかなり極端な考え方を書きました。
善意は集団になった時点で善意ではない。
九九の覚えられない子にクラスみんなで残って教えてあげよう!!というのは、善意じゃないだろう。
九九の覚えられない子の自尊心もそうだし、もしかしたら早く帰らないといけない子もいるかもしれないし、純粋に面倒って思ってる子もいるかもしれない、そんな様々な気持ちを一括りにしたものは『善意』じゃないだろう。
早く帰らないといけない子には、その子なりの応援の仕方があるはずだし、面倒だと思う子は別なときに『善意』が生まれているかもしれない。
善意は個々に生まれて、個々のやり方で叶えるものなんじゃないかな〜と思うのだ。
すみれさんのコメントレスでも書いたけど、こんなことを言っている私ですが、実は昔は『善意の旗ふり役』だったのだ。(九九は覚えられないほうだったけど^^;)
みんなでいいことしよう!!って、言い出しっぺになるような子だった。
文化祭でクラスTシャツを作ろ〜!!って先頭切ったり。
退職する同僚に思い出のアルバムをプレゼントしようって奔走したり。
いまでも要請があれば闘病している友人に応援メッセージを渡そうと、幹事役を引き受けたりしている。
(『那智さんの嫉妬2』にちょこっとだけ書いてある^^;、ついでに『死を意識する』なってのも)
だけどいつの間にかそれは『要請があれば』になっていて、気がつけば、ちょっと遠いところに入院していた別の同僚のお見舞いに1人で行くような大人になっていた^^;
『集団の善意』の存在を意識したのは中学1年生のとき。
いまとまったく反対側からの意識だ。
そして、その反対側からの意識の記憶が、『集団の善意は善意じゃない』という極論に繋がっているのだ。
それは『優越感』と『差別意識』。
中学1年のとき、当時の担任が独身で毎日お昼に菓子パンや店屋物を食べているのを見て『交代でお弁当を持ってきてあげたらどうか』と旗ふりをしたんだ。
クラス30人、毎日交代ですればひと月に一回回って来るか来ないか程度、みんなお弁当作ってもらっているんだからそのときだけ2人分お願いしてはどうか。
先生に栄養のあるものを食べてもらおうよ!!ってね。
何人かの賛同を得られて、先生に内緒で学級会議にかけて半ば強引に話を進めた。
いま思えばまったく未熟な考えで問題なく行えるわけないのに、そのときはとてもバラ色のとても良いことをしている気持ちになっていた。
案の定、数日してポツポツと反対意見がでてきた。
親から反対されたとか、『何を考えてるんだ』と親から直接先生にクレームが来たり。
先生は知らなかったから驚いて緊急で学級会議になったりした。
授業を潰してもらって開いた会議。
親に反対されている子。
親に言えてさえいない子。
なんで?いいことしてるじゃん。
なんで?秘密の学級会議で決まったじゃない。
結局、有志が集まってすることになったのだけど。
自分がいいことと思うことがすべて正しいわけじゃない、そんな当たり前のことを実感した気分だった。
いま思えば、あれは『善意の優越感』と『差別意識』だったなと思う。
自分はいいことをしている、それで旗ふりをして複数の賛成を得られる優越感。
そして『自分はいいことをしているのに』『なんて頭の固い親、なんて冷たいクラスメイト』と差別する気持ちを持つことで更に優越感を感じていたのだと思う。
その出来事を境に、なんて立派な線引きのできる子じゃなかったけど。
いつの間にか、集団になることで感じる優越感やそこから生まれる差別意識を自覚するようになって、善意は個人で表すものという感覚になったのだと思う。
当然のことだけど、義務として必要な場合は『集団』であるべきだと思うけど、この場合は『善意』という一場面のことという『大前提』のもとに言ってますよ^^
『善意』をアップした朝那智さんから短い感想メールをもらった。
基本は個人の善意が良い、でも個人の力は弱いから集団になる。集団の善意は必要悪を考えれば良いのでは?また、人間が出来ている人が少ないので啓蒙も必要だから集団になることも必要。
と。
至極まっとうなご意見^^
その後少し話して。
結局、基本的には個人的なことだけど、集団になることで効果があるものもある。
そういう場合は『その気持ちがあって、環境が整っている人』という限定で集団にする。
そこで、そこに入らなかった人に対して善悪(差別)の意識を持たない。
というのが理想だねということに。
具合の悪いママに交代でおかずを届けようってママ友(私の忌み嫌う言葉)仲間で決まったとして。
料理が苦手で気が進まない人がいたら『私は買い物役を引き受ける』と言えばいいし。
たまたま自分のほうでも忙しくてできないのなら『今回はパス』と言えばいい。
それが『善意』から発生していることならば『気持ちと環境が整っている』人だけでしているという認識があれば、しない人に差別意識を持つこともないし、心地よく断れる土壌ができるよね。
善意はそれをすることで『自分が良い気分にさせてもらってる』という自覚を持てるといいなと思うのです。
(『修行半ば』)
『善意の旗ふり役』の記憶も、そこから感じる『優越感や差別意識』も両端の違う側面を意識したことがあるので、そんなふうに思います。
でもね、そんなにデキた人間じゃないから『優越感や差別意識』を持つなと言われても難しい^^;
だからこそ、それを感じてしまう場面を減らしたいな〜と、ひっそりとした『善意』でいたいなと思うのでした^^
まあ、この極論もかなり『善意の旗ふり』な感じがしないでもないけど^^;
(いや、それいったらブログが成り立たないか!?)
それにしても那智さんと話して出た答えは、とーってもまっとうで、とーってもつまんない(笑)
やっぱりまっとうであるということを大前提にして、極論でヒヤヒヤしているほうが面白いかも?
なんて、超小心者のクセに思ってしまった^^
『善意』ではかなり極端な考え方を書きました。
善意は集団になった時点で善意ではない。
九九の覚えられない子にクラスみんなで残って教えてあげよう!!というのは、善意じゃないだろう。
九九の覚えられない子の自尊心もそうだし、もしかしたら早く帰らないといけない子もいるかもしれないし、純粋に面倒って思ってる子もいるかもしれない、そんな様々な気持ちを一括りにしたものは『善意』じゃないだろう。
早く帰らないといけない子には、その子なりの応援の仕方があるはずだし、面倒だと思う子は別なときに『善意』が生まれているかもしれない。
善意は個々に生まれて、個々のやり方で叶えるものなんじゃないかな〜と思うのだ。
すみれさんのコメントレスでも書いたけど、こんなことを言っている私ですが、実は昔は『善意の旗ふり役』だったのだ。(九九は覚えられないほうだったけど^^;)
みんなでいいことしよう!!って、言い出しっぺになるような子だった。
文化祭でクラスTシャツを作ろ〜!!って先頭切ったり。
退職する同僚に思い出のアルバムをプレゼントしようって奔走したり。
いまでも要請があれば闘病している友人に応援メッセージを渡そうと、幹事役を引き受けたりしている。
(『那智さんの嫉妬2』にちょこっとだけ書いてある^^;、ついでに『死を意識する』なってのも)
だけどいつの間にかそれは『要請があれば』になっていて、気がつけば、ちょっと遠いところに入院していた別の同僚のお見舞いに1人で行くような大人になっていた^^;
『集団の善意』の存在を意識したのは中学1年生のとき。
いまとまったく反対側からの意識だ。
そして、その反対側からの意識の記憶が、『集団の善意は善意じゃない』という極論に繋がっているのだ。
それは『優越感』と『差別意識』。
中学1年のとき、当時の担任が独身で毎日お昼に菓子パンや店屋物を食べているのを見て『交代でお弁当を持ってきてあげたらどうか』と旗ふりをしたんだ。
クラス30人、毎日交代ですればひと月に一回回って来るか来ないか程度、みんなお弁当作ってもらっているんだからそのときだけ2人分お願いしてはどうか。
先生に栄養のあるものを食べてもらおうよ!!ってね。
何人かの賛同を得られて、先生に内緒で学級会議にかけて半ば強引に話を進めた。
いま思えばまったく未熟な考えで問題なく行えるわけないのに、そのときはとてもバラ色のとても良いことをしている気持ちになっていた。
案の定、数日してポツポツと反対意見がでてきた。
親から反対されたとか、『何を考えてるんだ』と親から直接先生にクレームが来たり。
先生は知らなかったから驚いて緊急で学級会議になったりした。
授業を潰してもらって開いた会議。
親に反対されている子。
親に言えてさえいない子。
なんで?いいことしてるじゃん。
なんで?秘密の学級会議で決まったじゃない。
結局、有志が集まってすることになったのだけど。
自分がいいことと思うことがすべて正しいわけじゃない、そんな当たり前のことを実感した気分だった。
いま思えば、あれは『善意の優越感』と『差別意識』だったなと思う。
自分はいいことをしている、それで旗ふりをして複数の賛成を得られる優越感。
そして『自分はいいことをしているのに』『なんて頭の固い親、なんて冷たいクラスメイト』と差別する気持ちを持つことで更に優越感を感じていたのだと思う。
その出来事を境に、なんて立派な線引きのできる子じゃなかったけど。
いつの間にか、集団になることで感じる優越感やそこから生まれる差別意識を自覚するようになって、善意は個人で表すものという感覚になったのだと思う。
当然のことだけど、義務として必要な場合は『集団』であるべきだと思うけど、この場合は『善意』という一場面のことという『大前提』のもとに言ってますよ^^
『善意』をアップした朝那智さんから短い感想メールをもらった。
基本は個人の善意が良い、でも個人の力は弱いから集団になる。集団の善意は必要悪を考えれば良いのでは?また、人間が出来ている人が少ないので啓蒙も必要だから集団になることも必要。
と。
至極まっとうなご意見^^
その後少し話して。
結局、基本的には個人的なことだけど、集団になることで効果があるものもある。
そういう場合は『その気持ちがあって、環境が整っている人』という限定で集団にする。
そこで、そこに入らなかった人に対して善悪(差別)の意識を持たない。
というのが理想だねということに。
具合の悪いママに交代でおかずを届けようってママ友(私の忌み嫌う言葉)仲間で決まったとして。
料理が苦手で気が進まない人がいたら『私は買い物役を引き受ける』と言えばいいし。
たまたま自分のほうでも忙しくてできないのなら『今回はパス』と言えばいい。
それが『善意』から発生していることならば『気持ちと環境が整っている』人だけでしているという認識があれば、しない人に差別意識を持つこともないし、心地よく断れる土壌ができるよね。
善意はそれをすることで『自分が良い気分にさせてもらってる』という自覚を持てるといいなと思うのです。
(『修行半ば』)
『善意の旗ふり役』の記憶も、そこから感じる『優越感や差別意識』も両端の違う側面を意識したことがあるので、そんなふうに思います。
でもね、そんなにデキた人間じゃないから『優越感や差別意識』を持つなと言われても難しい^^;
だからこそ、それを感じてしまう場面を減らしたいな〜と、ひっそりとした『善意』でいたいなと思うのでした^^
まあ、この極論もかなり『善意の旗ふり』な感じがしないでもないけど^^;
(いや、それいったらブログが成り立たないか!?)
それにしても那智さんと話して出た答えは、とーってもまっとうで、とーってもつまんない(笑)
やっぱりまっとうであるということを大前提にして、極論でヒヤヒヤしているほうが面白いかも?
なんて、超小心者のクセに思ってしまった^^
薄い氷を歩くように
りん子的独り言(エラそう)
『不快なら読まなければいい』
『自分のところなんだから、好きなことを書けばいい』
時々目にする言葉。
事態を収拾させるためには必要な言葉だと思うけど、私だって『どうしても』の場合は使うけど。
でもできるだけ使いたくないと思っています。
(それを使わずに済んでいる環境に感謝ですね)
前エントリー『やるときは、やる』に関して、もう少し補足をします。
風穴を開けてくださった一市民さんに感謝して、私の考えを書きます。
一市民さんのおっしゃることはもっともなことだと理解しつつ、違う意見になると思いますが、私たちのスタンスをお話しできる良い機会ですので、そんな考え方もあると思って読んでいただけるとありがたいです。
今回のエントリー、私はまったく書く気がしませんでした。
自分のやったことのあまりの非常識さに、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだったから。
あのことがあってからの数ヶ月、折りに触れ『読みたい』とリクエストされていたけど、その都度お断りしていた。
だって、やらせた那智さんの評判も、読んだ方の不快な思いも、ついでに『私嫌われちゃうよ〜』という保身も、全部考えたら書きたくなかったのだもの。
で、今回、またリクエストされたのだ。
なぜなら。
あれは7年間の付き合いの中で、恐らくふたりにとってはじめての感情だったから。
那智さんは『ハリネズミ』だ。
自分からは攻撃しないけど、他者からの攻撃にぐっと力を入れて針を出す。
人の棘を察知しやすい彼は、常に力を入れる準備をしている。
私は、那智さんに棘を向けない。
基本的に争う気持ちがないから、言い負かしてやろうとかやり返してやろうということにならないのだ。
だから『ハリネズミ』が休息できる。
那智さんは私をブンブン振り回す。
それによって悲しいとかイヤだという感情はたまにあって、それは素直に伝えてきた。
で、あのときはじめて『おう、やってやろうじゃん』という反抗心が出たのだ。
この反抗心は、恐らく『ハリネズミ』が力を入れる種類のものだ。(実際力を入れるほどではないけどね)
7年間の付き合いの中ではじめて私が反抗心を持ち、それを表し、那智さんははじめて力を入れるべきか判断しようとしたはずだ。
このはじめての感情が、那智さんは面白く、それを書いたものを読みたいと思ったのですね。
7年間、一度も反抗心を持たなかった私が『やってやろうじゃん』と思うほどに追いつめられ、どんな暴挙に出たのか。
その希有な出来事を伝えるには、那智さんのコンセプト『全部書く』に従うと、その経緯まで書かないといけないのだ。
確かに、反抗心を抱くなんてめずらしいこと、だけど、それを読んだ人のことを思うと書けない。
最後の最後まで抵抗する私に。
「それをさせたのも、書かせたのも俺の責任なんだから、りん子は気にしないでいい」
と。
普段何を書くかは、私の自由だ。
だけど『俺の責任』とはっきりと那智さんが責任の所在を明らかにしてくれたものには、私は従う。
それが私たちの『上下関係』だから。(『対等で上下』)
那智さんが責任の所在を明らかにしてくれるなら、書こう。
そして、あれは2人にとって大事な、不謹慎ではあるけれど笑い合える一コマでもあったからだ。
だから、できるだけ不快な気持ちにさせないように書いてみようと思った。
でも『ハリネズミ』話なんかを出してみて四苦八苦してみたものの、やってることの非常識さは誤摩化せない。
アップしてから最初のコメントをいただくまでの数時間。
その間も、かなりぐずってた^^;
『那智さんがあんなこと書かせた〜。みんなをイヤな気持ちにさせてる〜』って。
そんなときも
「もし謝罪しないといけないようなコメントが来てもりん子は謝るな。謝るのは俺だからね。」
といって気持ちを落ち着かせてくれた。
そして一市民さんの進言をいただいた。
那智さんはもっと感情的な誹謗中傷や、もしかしたらいままで好意的に読んでいてくれた方が離れてしまうことも含めて想定していたはずだから、理性的に進言してくれて、それにきちんと謝罪することができたことはありがたかったと思っています。
そんな裏側がありました。
『やるときは、やる』でこんな裏側を書いてもよかったのだけど、あんまり詳しくても那智さんの読みたいものではなくなってしまうと思うので、読んでくださる方の不快を計りながら書いたつもりです。
どんなに裏側を書いても行為は非常識なわけで、それで不快に思われた方の気持ちが治まるかというと、そんなこともないかと思うけど、不快の量が少しでも減ってくれたらいいなと思って補足しています。
それともうひとつ。
これは一市民さんへの反論みたいになっちゃうのだけど。
ルールやマナーを守るということは充分承知の上で、今後『薬指の刺青』を読んでいただくにあたって私たちの考えを述べさせていただきます。
私たちは、自分たちのしたいこと、求めてやまないこと、そして人生の中の大事な大事な出来事を切り取るように積み重ね、付き合っています。
それが時には反社会的な行いもあることも理解しながら。
たかがSM的行為やじゃれ合いですけど。
その行いは2人にとってどんな意味があって、社会にとってどれほど被害を与えるものか、特に他者を巻き込む可能性がある場合は慎重に考えます。
(那智さんはね、迷惑防止条例の中身とかも調べてくれます^^)
私は、那智さんよりずっとそのハードルが高いので、いつも薄氷を踏む思いでその一歩を踏み出します。
那智さんは私の手を取りながら、自分の責任に於いて時々わざと引っ張って薄い氷にヒビを入れたりします。
それが例え人が眉をひそめるようなことだったとしても、したいことをするのです。
自分のしたいこと、それによる責任を負う覚悟で。
事前事後話し、確認して、2人にとって誠実であるように。
で、時々氷にヒビが入ることも、2人の大事な出来事として、ここにできる限り記したいと思っています。
それが那智さんの『全部書け』ですね。
人を気遣うルールやマナーは大切です。
ただ、そのルールやマナーの線引きは誰が決めたのかしら。
私たちは、それも大事なことを理解した上で、一番大事なことは、如何に誠実にどれだけひとつひとつ丁寧に向き合い判断を下すかではないかと思っています。
乱暴な言い方をしてしまいますが、いりん子こにあるマナーがどこか違う場所では非常識かもしれないし、いま非常識なことがもしかしたら10年後にはルールになっているかもしれませんよね。
それを選び判断するのは、やはり個々の真剣さと感性だと思っています。
ビールジョッキにおしっこは非難されても仕方がないことです。
だけど、いまあるルールだけをボーダーラインにするのは、那智さんは好きじゃないのです。
そして『善意』や『連れションはキライ』というエントリーにしましたように、みんながそうだからという線引きを私はできるだけしたくないと思っています。
(一市民さんのご進言がそうだということではありませんよ、私たちのスタンスになってますから話はだいぶ離れています)
ジョッキにおしっこをしたことに苦言を呈した一市民さん。
書きたくないと最後まで抵抗した私。
批判はあると想定してそれを覚悟で書かせた那智さん。
実は、みんなそれが大事なポイントだということで、それほど離れていないボーダーラインを持っているような気がしませんか。
ただ、そこから薄い氷にヒビを入れるかどうか、これは真摯に向き合った結果であれば、個々の感性で違ってくるものだろうし、私はそれが好きです。
だから。
私は、私たちの大事な出来事をできるだけウソ偽りなく書きたいと思います。
薄い氷の上を歩くように怖々と丁寧に、できるだけ誰も傷つけたくないと思いながら。
ときにはヒビが入ってしまうかもしれない。
でも、それは、那智さんがそうしたいと判断して、わかった上でヒビを入れたのだとご理解いただきたいと思います。
(たまーに、私自身の書き方で失敗しちゃうけど。これのほうが多いかな^^;)
もしかしたら、それで不快な思いをさせてしまうかもしれない。
でも私は『それなら読まないで』とは言いたくないです。
私は可能な限りドアを開いていたい。
だから、『それでもよければ、どうぞ読んでください』
と思います。
そんな気持ちでいままでもこれからも更新していきたいと思っていますので、楽しんでいただけたら嬉しいです。
一市民さんには、これを書く機会を与えてくださったことに感謝いたします。
『不快なら読まなければいい』
『自分のところなんだから、好きなことを書けばいい』
時々目にする言葉。
事態を収拾させるためには必要な言葉だと思うけど、私だって『どうしても』の場合は使うけど。
でもできるだけ使いたくないと思っています。
(それを使わずに済んでいる環境に感謝ですね)
前エントリー『やるときは、やる』に関して、もう少し補足をします。
風穴を開けてくださった一市民さんに感謝して、私の考えを書きます。
一市民さんのおっしゃることはもっともなことだと理解しつつ、違う意見になると思いますが、私たちのスタンスをお話しできる良い機会ですので、そんな考え方もあると思って読んでいただけるとありがたいです。
今回のエントリー、私はまったく書く気がしませんでした。
自分のやったことのあまりの非常識さに、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだったから。
あのことがあってからの数ヶ月、折りに触れ『読みたい』とリクエストされていたけど、その都度お断りしていた。
だって、やらせた那智さんの評判も、読んだ方の不快な思いも、ついでに『私嫌われちゃうよ〜』という保身も、全部考えたら書きたくなかったのだもの。
で、今回、またリクエストされたのだ。
なぜなら。
あれは7年間の付き合いの中で、恐らくふたりにとってはじめての感情だったから。
那智さんは『ハリネズミ』だ。
自分からは攻撃しないけど、他者からの攻撃にぐっと力を入れて針を出す。
人の棘を察知しやすい彼は、常に力を入れる準備をしている。
私は、那智さんに棘を向けない。
基本的に争う気持ちがないから、言い負かしてやろうとかやり返してやろうということにならないのだ。
だから『ハリネズミ』が休息できる。
那智さんは私をブンブン振り回す。
それによって悲しいとかイヤだという感情はたまにあって、それは素直に伝えてきた。
で、あのときはじめて『おう、やってやろうじゃん』という反抗心が出たのだ。
この反抗心は、恐らく『ハリネズミ』が力を入れる種類のものだ。(実際力を入れるほどではないけどね)
7年間の付き合いの中ではじめて私が反抗心を持ち、それを表し、那智さんははじめて力を入れるべきか判断しようとしたはずだ。
このはじめての感情が、那智さんは面白く、それを書いたものを読みたいと思ったのですね。
7年間、一度も反抗心を持たなかった私が『やってやろうじゃん』と思うほどに追いつめられ、どんな暴挙に出たのか。
その希有な出来事を伝えるには、那智さんのコンセプト『全部書く』に従うと、その経緯まで書かないといけないのだ。
確かに、反抗心を抱くなんてめずらしいこと、だけど、それを読んだ人のことを思うと書けない。
最後の最後まで抵抗する私に。
「それをさせたのも、書かせたのも俺の責任なんだから、りん子は気にしないでいい」
と。
普段何を書くかは、私の自由だ。
だけど『俺の責任』とはっきりと那智さんが責任の所在を明らかにしてくれたものには、私は従う。
それが私たちの『上下関係』だから。(『対等で上下』)
那智さんが責任の所在を明らかにしてくれるなら、書こう。
そして、あれは2人にとって大事な、不謹慎ではあるけれど笑い合える一コマでもあったからだ。
だから、できるだけ不快な気持ちにさせないように書いてみようと思った。
でも『ハリネズミ』話なんかを出してみて四苦八苦してみたものの、やってることの非常識さは誤摩化せない。
アップしてから最初のコメントをいただくまでの数時間。
その間も、かなりぐずってた^^;
『那智さんがあんなこと書かせた〜。みんなをイヤな気持ちにさせてる〜』って。
そんなときも
「もし謝罪しないといけないようなコメントが来てもりん子は謝るな。謝るのは俺だからね。」
といって気持ちを落ち着かせてくれた。
そして一市民さんの進言をいただいた。
那智さんはもっと感情的な誹謗中傷や、もしかしたらいままで好意的に読んでいてくれた方が離れてしまうことも含めて想定していたはずだから、理性的に進言してくれて、それにきちんと謝罪することができたことはありがたかったと思っています。
そんな裏側がありました。
『やるときは、やる』でこんな裏側を書いてもよかったのだけど、あんまり詳しくても那智さんの読みたいものではなくなってしまうと思うので、読んでくださる方の不快を計りながら書いたつもりです。
どんなに裏側を書いても行為は非常識なわけで、それで不快に思われた方の気持ちが治まるかというと、そんなこともないかと思うけど、不快の量が少しでも減ってくれたらいいなと思って補足しています。
それともうひとつ。
これは一市民さんへの反論みたいになっちゃうのだけど。
ルールやマナーを守るということは充分承知の上で、今後『薬指の刺青』を読んでいただくにあたって私たちの考えを述べさせていただきます。
私たちは、自分たちのしたいこと、求めてやまないこと、そして人生の中の大事な大事な出来事を切り取るように積み重ね、付き合っています。
それが時には反社会的な行いもあることも理解しながら。
たかがSM的行為やじゃれ合いですけど。
その行いは2人にとってどんな意味があって、社会にとってどれほど被害を与えるものか、特に他者を巻き込む可能性がある場合は慎重に考えます。
(那智さんはね、迷惑防止条例の中身とかも調べてくれます^^)
私は、那智さんよりずっとそのハードルが高いので、いつも薄氷を踏む思いでその一歩を踏み出します。
那智さんは私の手を取りながら、自分の責任に於いて時々わざと引っ張って薄い氷にヒビを入れたりします。
それが例え人が眉をひそめるようなことだったとしても、したいことをするのです。
自分のしたいこと、それによる責任を負う覚悟で。
事前事後話し、確認して、2人にとって誠実であるように。
で、時々氷にヒビが入ることも、2人の大事な出来事として、ここにできる限り記したいと思っています。
それが那智さんの『全部書け』ですね。
人を気遣うルールやマナーは大切です。
ただ、そのルールやマナーの線引きは誰が決めたのかしら。
私たちは、それも大事なことを理解した上で、一番大事なことは、如何に誠実にどれだけひとつひとつ丁寧に向き合い判断を下すかではないかと思っています。
乱暴な言い方をしてしまいますが、いりん子こにあるマナーがどこか違う場所では非常識かもしれないし、いま非常識なことがもしかしたら10年後にはルールになっているかもしれませんよね。
それを選び判断するのは、やはり個々の真剣さと感性だと思っています。
ビールジョッキにおしっこは非難されても仕方がないことです。
だけど、いまあるルールだけをボーダーラインにするのは、那智さんは好きじゃないのです。
そして『善意』や『連れションはキライ』というエントリーにしましたように、みんながそうだからという線引きを私はできるだけしたくないと思っています。
(一市民さんのご進言がそうだということではありませんよ、私たちのスタンスになってますから話はだいぶ離れています)
ジョッキにおしっこをしたことに苦言を呈した一市民さん。
書きたくないと最後まで抵抗した私。
批判はあると想定してそれを覚悟で書かせた那智さん。
実は、みんなそれが大事なポイントだということで、それほど離れていないボーダーラインを持っているような気がしませんか。
ただ、そこから薄い氷にヒビを入れるかどうか、これは真摯に向き合った結果であれば、個々の感性で違ってくるものだろうし、私はそれが好きです。
だから。
私は、私たちの大事な出来事をできるだけウソ偽りなく書きたいと思います。
薄い氷の上を歩くように怖々と丁寧に、できるだけ誰も傷つけたくないと思いながら。
ときにはヒビが入ってしまうかもしれない。
でも、それは、那智さんがそうしたいと判断して、わかった上でヒビを入れたのだとご理解いただきたいと思います。
(たまーに、私自身の書き方で失敗しちゃうけど。これのほうが多いかな^^;)
もしかしたら、それで不快な思いをさせてしまうかもしれない。
でも私は『それなら読まないで』とは言いたくないです。
私は可能な限りドアを開いていたい。
だから、『それでもよければ、どうぞ読んでください』
と思います。
そんな気持ちでいままでもこれからも更新していきたいと思っていますので、楽しんでいただけたら嬉しいです。
一市民さんには、これを書く機会を与えてくださったことに感謝いたします。
心と事実
りん子的独り言(エラそう)
今日のエントリー、『男は』『女は』と限定して書きますが『概ねそういう傾向がある』というくらいに思って読んでください。
そうじゃない男もいるし女もいる。
いまから書く男女の逆の組み合わせもあるはずで、そんな方にも、なんだか噛み合ないなぁということがあれば、これが原因のひとつかも?と思って読んでみてください。
また私は女なので、どうしても女側からの、女にとって都合のいい意見になってしまうことをお許しください。
時々登場する岩月謙司さんの著書。
信憑性はもちろん、ずいぶん前に読んだので私の解釈や記憶も正確ではないと思うけど。
読んだ本で。
女は心地よいことが大好きで、それを与えてくれる人を好きになり、信頼し、肯定する。
一方男は、肯定されることを必要としていてそれをくれる女をいとしく思い、大事にする。
で、大事にしてもらった女はそれが心地よいものだから、その男をもっと好きになり肯定しようとする。
こんなふうに男女の幸せスパイラルモデルができあがるらしい。
それがうまくいきにくいひとつがセックスなのだそうだ。
そこに男女のセックスに求めるものの違いが書かれてた。
女にとって『心の交流』は心地よいものの重要なポイントだそうで、だからセックスに『心の交流』を求める。
男が求める肯定は『入れさせてくれる』なのだそう。
男は、とにかく挿入させてくれることで受け入れてもらってる肯定されていると満足する。
だから、相手が疲れていようが金銭を介そうが、おかまいない。
入れさせてくれたという『事実』が大事なんだそうです。(極端に書いてますよ〜)
女は心を交流させたいのだから、実はセックスは二の次。
男はとにかく入れたい!!もちろん犯罪になるようなものはしないとしても、多少相手がいやいやででも入れたい。
ね、違うよね。
だとしたら、男女のセックス求めるものが違ってくるのはわかる気がする。
これを読んだとき文章として理解はしたけど、どうもスッキリ納得とまでいかなかった。
人の感覚はそれぞれで全部に共感することは無理だとしても、人類のほぼ半分にあたるの男の気持ちに対して『スッキリ』できないのは、ちょっと残念な気分だった。
それが『どちらとも…』に対するパイパン大好きさんのコメントを読んで、ものすごーくスッキリできたのだ。
耳掃除を面倒だな〜と思いながらする私に、パイパン大好きさんは『好感度が上がる』と評してくださった。
私としては面倒だと思ったわけで、褒めていただいてなんだか申し訳ない気持ちになったけど、どうやらそれは『耳掃除をした』という『事実』が好評を得たらしい。
このコメントを読んで、すごーく納得。(パイパン大好きさん、いつも率直なご意見をありがとうございます)
女(りん子)は面倒と『気持ちよくなってくれて嬉しい』という両方の『心』があることを重要視して、男(パイパン大好きさん)は耳掃除をしたという『事実』で評価している。
これって、心の交流を求める女と挿入して肯定を求める男の話に当てはまるのではないかと思ったら、なんだかすごーくスッキリ納得だったのです。
もちろんその感覚は共感できないけど、ピッタリの事例を目の当たりにさせてもらったので百聞は一見にしかずだったのだ。
おそらく、様々な場面で女は『心』を求め、男は『事実』を求めるのだとしたら、男女の間でよく聞く『なんでわかり合えないの?』の解決のひとつがあると思いません?
なぜかというと、基本人って、自分が求めるものを当然相手にもしますよね。
自分は目玉焼きに醤油をかける人だったら、相手にもまず醤油を差し出す、みたいな(ああ、いい例えじゃないね)
自分が本が好きだったら、ついプレゼントは本を選んでしまうとか。
よく相手を考えれば違う思考も生まれるでしょうけど、日々こなしていく日常は基本的に『自分はこうだから』という基準で無意識に行動していると思う。
だとしたら
『心』がほしいと思う女に対して、『事実』がほしい男は『事実』をあげている。
ということになる?
男は女にメールをする。
一日何往復?
朝『おはよう』夜『おやすみ』?
それとも週に一回?
なんでもいいけど。
男はとにかくメールをしているという『事実』で、あげていることになっている。
だけど『心』がほしい女は、『事実』だけじゃなんだかもらった気がしない。
もらっているはずなのに寂しい。
寂しいと訴えても、男からはあげているという返事しか来ない。
男があげているといっているのだから、寂しいと思う自分はわがままなんじゃないかと思う。
でもそんなことないよね、あげているもの(事実)とほしいもの(心)が違うのだから、女からしたらもらえていないのだ。
だから
なんで私の寂しいをわかってくれないの?
メールしてるじゃん、俺の気持ちわからない?
ということになるのではないでしょうか。
こんなふうに、お互いの『何で満足するか』が明確にわかっていないから、相手のこと好きなのにどうして『何か足りない』『わかってもらえない』のだろうという状態が生まれるのだとしたら。
どうしたら埋められるのかなって考えてみました。
女性の皆さん。
男性は『事実』であげたつもりになっていると知ることは大事ではありませんか。
そして、それを踏まえてお付き合いしたらいいと思うのです。
もちろん、それを甘んじて受け入れるわけじゃないですよ。
女性は『心がほしいのだ』と男性に教えて差し上げるのです。
だって、男性は『事実』をあげることしか知らないのだから。
そしてより確実に質の良い『心』をもらうためには、まず『心』をもらう心地よさを男性に知ってもらうことも必要ですよね。
挿入するだけみたいな『事実』より、たくさん笑って喜んで、時には泣いて仲直りして、上質な『心』のやり取りをする心地よさをいっぱい教えて差し上げる。
そして、「私は『心』をくれないともらった気持ちになりません♪」とお伝え申し上げるのだ。
『おはよう』のメールも『おやすみ』の言葉も嬉しい、だけどそこに『心』を乗っけてくれると女は満たされると。
これが正解じゃないけど、ひとつの例としてね。
『おはよう』より『おはよう。今日は寒いね』、『おやすみ』より『おやすみ。また明日ね』のほうが断然あなたの心が伝わって嬉しいと。
こんなふうに自分がなにでもらった気持ちになれるかを、相手に伝えることが大事だと思う。
これをたくさんしてもらえれば、いつしか『おはよう』も心を感じられるようになると思うけどね(多分、ある程度時間がかかる)
それで、これも大事なことだけど、『事実』で満足してきた男に『心』をくださいというのは、一度言ったからといってもらえ続けるというものではないと思います。
性差だか慣習だか知らないけど、長年『事実』だけだった男に別なものを習慣付けるには、諦めず根気よく何度も折りに触れてお伝え申し上げることも必要です。
そして、それを理解して習慣付けてくれればきっと心が乗っかった言葉やメールをもらえて、はじめてもらえた気持ちになれる。
そうすれば『なんでわかり合えないの?』と思うことも減るような気がしません?
これができれば、逆に、例えば忙しくて『心』をくれないことがあるかもしれなくても『ああ、今日は事実が精一杯なんだな』と優しい気持ちになれるかもしれないよね^^(これも大事な感覚)
良い循環ができあがると思うのです。
ちなみに。
お伝え申し上げ続けていることを『うるさい!!』で一蹴してしまうような質の悪い『心』しかは持っていない男はお付き合いの仕方を考えたほうがいいかもしれませんけど^^
ちゃんと『事実』をくれて(これ重要!!)聞く耳を持っている男あれば、『心』をもらいあげる心地よさを理解してくれる可能性が高いと思うので、こちらも伝える努力を惜しまずいたいと思うのです。
『心』と『事実』
違いを知り、認め、でも諦めない。
そんなふうにパイパン大好きさんのコメントでスッキリさせていただきながら思うのでした。
あ、書いてて、これ男女逆もかなりあるかも?と思ってきました。
ほらロマンティックな男性も多いものね。
男女関わらず『心型』と『事実型』がいるのかな、やっぱり^^
とにかく
いまだに私も『「はい」とか「了解」以外でお返事をください^^』なーんて、時々メールでお伝え申し上げております、ですので、諦めないことが肝心かと思うのでした^^
岩月謙司さんを含め、その手のエントリーもリンク〜^^
『秘訣』
『秘訣の続き』
『女は共感したい生き物である』
今日のエントリー、『男は』『女は』と限定して書きますが『概ねそういう傾向がある』というくらいに思って読んでください。
そうじゃない男もいるし女もいる。
いまから書く男女の逆の組み合わせもあるはずで、そんな方にも、なんだか噛み合ないなぁということがあれば、これが原因のひとつかも?と思って読んでみてください。
また私は女なので、どうしても女側からの、女にとって都合のいい意見になってしまうことをお許しください。
時々登場する岩月謙司さんの著書。
信憑性はもちろん、ずいぶん前に読んだので私の解釈や記憶も正確ではないと思うけど。
読んだ本で。
女は心地よいことが大好きで、それを与えてくれる人を好きになり、信頼し、肯定する。
一方男は、肯定されることを必要としていてそれをくれる女をいとしく思い、大事にする。
で、大事にしてもらった女はそれが心地よいものだから、その男をもっと好きになり肯定しようとする。
こんなふうに男女の幸せスパイラルモデルができあがるらしい。
それがうまくいきにくいひとつがセックスなのだそうだ。
そこに男女のセックスに求めるものの違いが書かれてた。
女にとって『心の交流』は心地よいものの重要なポイントだそうで、だからセックスに『心の交流』を求める。
男が求める肯定は『入れさせてくれる』なのだそう。
男は、とにかく挿入させてくれることで受け入れてもらってる肯定されていると満足する。
だから、相手が疲れていようが金銭を介そうが、おかまいない。
入れさせてくれたという『事実』が大事なんだそうです。(極端に書いてますよ〜)
女は心を交流させたいのだから、実はセックスは二の次。
男はとにかく入れたい!!もちろん犯罪になるようなものはしないとしても、多少相手がいやいやででも入れたい。
ね、違うよね。
だとしたら、男女のセックス求めるものが違ってくるのはわかる気がする。
これを読んだとき文章として理解はしたけど、どうもスッキリ納得とまでいかなかった。
人の感覚はそれぞれで全部に共感することは無理だとしても、人類のほぼ半分にあたるの男の気持ちに対して『スッキリ』できないのは、ちょっと残念な気分だった。
それが『どちらとも…』に対するパイパン大好きさんのコメントを読んで、ものすごーくスッキリできたのだ。
耳掃除を面倒だな〜と思いながらする私に、パイパン大好きさんは『好感度が上がる』と評してくださった。
私としては面倒だと思ったわけで、褒めていただいてなんだか申し訳ない気持ちになったけど、どうやらそれは『耳掃除をした』という『事実』が好評を得たらしい。
このコメントを読んで、すごーく納得。(パイパン大好きさん、いつも率直なご意見をありがとうございます)
女(りん子)は面倒と『気持ちよくなってくれて嬉しい』という両方の『心』があることを重要視して、男(パイパン大好きさん)は耳掃除をしたという『事実』で評価している。
これって、心の交流を求める女と挿入して肯定を求める男の話に当てはまるのではないかと思ったら、なんだかすごーくスッキリ納得だったのです。
もちろんその感覚は共感できないけど、ピッタリの事例を目の当たりにさせてもらったので百聞は一見にしかずだったのだ。
おそらく、様々な場面で女は『心』を求め、男は『事実』を求めるのだとしたら、男女の間でよく聞く『なんでわかり合えないの?』の解決のひとつがあると思いません?
なぜかというと、基本人って、自分が求めるものを当然相手にもしますよね。
自分は目玉焼きに醤油をかける人だったら、相手にもまず醤油を差し出す、みたいな(ああ、いい例えじゃないね)
自分が本が好きだったら、ついプレゼントは本を選んでしまうとか。
よく相手を考えれば違う思考も生まれるでしょうけど、日々こなしていく日常は基本的に『自分はこうだから』という基準で無意識に行動していると思う。
だとしたら
『心』がほしいと思う女に対して、『事実』がほしい男は『事実』をあげている。
ということになる?
男は女にメールをする。
一日何往復?
朝『おはよう』夜『おやすみ』?
それとも週に一回?
なんでもいいけど。
男はとにかくメールをしているという『事実』で、あげていることになっている。
だけど『心』がほしい女は、『事実』だけじゃなんだかもらった気がしない。
もらっているはずなのに寂しい。
寂しいと訴えても、男からはあげているという返事しか来ない。
男があげているといっているのだから、寂しいと思う自分はわがままなんじゃないかと思う。
でもそんなことないよね、あげているもの(事実)とほしいもの(心)が違うのだから、女からしたらもらえていないのだ。
だから
なんで私の寂しいをわかってくれないの?
メールしてるじゃん、俺の気持ちわからない?
ということになるのではないでしょうか。
こんなふうに、お互いの『何で満足するか』が明確にわかっていないから、相手のこと好きなのにどうして『何か足りない』『わかってもらえない』のだろうという状態が生まれるのだとしたら。
どうしたら埋められるのかなって考えてみました。
女性の皆さん。
男性は『事実』であげたつもりになっていると知ることは大事ではありませんか。
そして、それを踏まえてお付き合いしたらいいと思うのです。
もちろん、それを甘んじて受け入れるわけじゃないですよ。
女性は『心がほしいのだ』と男性に教えて差し上げるのです。
だって、男性は『事実』をあげることしか知らないのだから。
そしてより確実に質の良い『心』をもらうためには、まず『心』をもらう心地よさを男性に知ってもらうことも必要ですよね。
挿入するだけみたいな『事実』より、たくさん笑って喜んで、時には泣いて仲直りして、上質な『心』のやり取りをする心地よさをいっぱい教えて差し上げる。
そして、「私は『心』をくれないともらった気持ちになりません♪」とお伝え申し上げるのだ。
『おはよう』のメールも『おやすみ』の言葉も嬉しい、だけどそこに『心』を乗っけてくれると女は満たされると。
これが正解じゃないけど、ひとつの例としてね。
『おはよう』より『おはよう。今日は寒いね』、『おやすみ』より『おやすみ。また明日ね』のほうが断然あなたの心が伝わって嬉しいと。
こんなふうに自分がなにでもらった気持ちになれるかを、相手に伝えることが大事だと思う。
これをたくさんしてもらえれば、いつしか『おはよう』も心を感じられるようになると思うけどね(多分、ある程度時間がかかる)
それで、これも大事なことだけど、『事実』で満足してきた男に『心』をくださいというのは、一度言ったからといってもらえ続けるというものではないと思います。
性差だか慣習だか知らないけど、長年『事実』だけだった男に別なものを習慣付けるには、諦めず根気よく何度も折りに触れてお伝え申し上げることも必要です。
そして、それを理解して習慣付けてくれればきっと心が乗っかった言葉やメールをもらえて、はじめてもらえた気持ちになれる。
そうすれば『なんでわかり合えないの?』と思うことも減るような気がしません?
これができれば、逆に、例えば忙しくて『心』をくれないことがあるかもしれなくても『ああ、今日は事実が精一杯なんだな』と優しい気持ちになれるかもしれないよね^^(これも大事な感覚)
良い循環ができあがると思うのです。
ちなみに。
お伝え申し上げ続けていることを『うるさい!!』で一蹴してしまうような質の悪い『心』しかは持っていない男はお付き合いの仕方を考えたほうがいいかもしれませんけど^^
ちゃんと『事実』をくれて(これ重要!!)聞く耳を持っている男あれば、『心』をもらいあげる心地よさを理解してくれる可能性が高いと思うので、こちらも伝える努力を惜しまずいたいと思うのです。
『心』と『事実』
違いを知り、認め、でも諦めない。
そんなふうにパイパン大好きさんのコメントでスッキリさせていただきながら思うのでした。
あ、書いてて、これ男女逆もかなりあるかも?と思ってきました。
ほらロマンティックな男性も多いものね。
男女関わらず『心型』と『事実型』がいるのかな、やっぱり^^
とにかく
いまだに私も『「はい」とか「了解」以外でお返事をください^^』なーんて、時々メールでお伝え申し上げております、ですので、諦めないことが肝心かと思うのでした^^
岩月謙司さんを含め、その手のエントリーもリンク〜^^
『秘訣』
『秘訣の続き』
『女は共感したい生き物である』