『集団の善意』の続き
りん子的独り言(エラそう)
『善意』ではかなり極端な考え方を書きました。
善意は集団になった時点で善意ではない。
九九の覚えられない子にクラスみんなで残って教えてあげよう!!というのは、善意じゃないだろう。
九九の覚えられない子の自尊心もそうだし、もしかしたら早く帰らないといけない子もいるかもしれないし、純粋に面倒って思ってる子もいるかもしれない、そんな様々な気持ちを一括りにしたものは『善意』じゃないだろう。
早く帰らないといけない子には、その子なりの応援の仕方があるはずだし、面倒だと思う子は別なときに『善意』が生まれているかもしれない。
善意は個々に生まれて、個々のやり方で叶えるものなんじゃないかな〜と思うのだ。
すみれさんのコメントレスでも書いたけど、こんなことを言っている私ですが、実は昔は『善意の旗ふり役』だったのだ。(九九は覚えられないほうだったけど^^;)
みんなでいいことしよう!!って、言い出しっぺになるような子だった。
文化祭でクラスTシャツを作ろ〜!!って先頭切ったり。
退職する同僚に思い出のアルバムをプレゼントしようって奔走したり。
いまでも要請があれば闘病している友人に応援メッセージを渡そうと、幹事役を引き受けたりしている。
(『那智さんの嫉妬2』にちょこっとだけ書いてある^^;、ついでに『死を意識する』なってのも)
だけどいつの間にかそれは『要請があれば』になっていて、気がつけば、ちょっと遠いところに入院していた別の同僚のお見舞いに1人で行くような大人になっていた^^;
『集団の善意』の存在を意識したのは中学1年生のとき。
いまとまったく反対側からの意識だ。
そして、その反対側からの意識の記憶が、『集団の善意は善意じゃない』という極論に繋がっているのだ。
それは『優越感』と『差別意識』。
中学1年のとき、当時の担任が独身で毎日お昼に菓子パンや店屋物を食べているのを見て『交代でお弁当を持ってきてあげたらどうか』と旗ふりをしたんだ。
クラス30人、毎日交代ですればひと月に一回回って来るか来ないか程度、みんなお弁当作ってもらっているんだからそのときだけ2人分お願いしてはどうか。
先生に栄養のあるものを食べてもらおうよ!!ってね。
何人かの賛同を得られて、先生に内緒で学級会議にかけて半ば強引に話を進めた。
いま思えばまったく未熟な考えで問題なく行えるわけないのに、そのときはとてもバラ色のとても良いことをしている気持ちになっていた。
案の定、数日してポツポツと反対意見がでてきた。
親から反対されたとか、『何を考えてるんだ』と親から直接先生にクレームが来たり。
先生は知らなかったから驚いて緊急で学級会議になったりした。
授業を潰してもらって開いた会議。
親に反対されている子。
親に言えてさえいない子。
なんで?いいことしてるじゃん。
なんで?秘密の学級会議で決まったじゃない。
結局、有志が集まってすることになったのだけど。
自分がいいことと思うことがすべて正しいわけじゃない、そんな当たり前のことを実感した気分だった。
いま思えば、あれは『善意の優越感』と『差別意識』だったなと思う。
自分はいいことをしている、それで旗ふりをして複数の賛成を得られる優越感。
そして『自分はいいことをしているのに』『なんて頭の固い親、なんて冷たいクラスメイト』と差別する気持ちを持つことで更に優越感を感じていたのだと思う。
その出来事を境に、なんて立派な線引きのできる子じゃなかったけど。
いつの間にか、集団になることで感じる優越感やそこから生まれる差別意識を自覚するようになって、善意は個人で表すものという感覚になったのだと思う。
当然のことだけど、義務として必要な場合は『集団』であるべきだと思うけど、この場合は『善意』という一場面のことという『大前提』のもとに言ってますよ^^
『善意』をアップした朝那智さんから短い感想メールをもらった。
基本は個人の善意が良い、でも個人の力は弱いから集団になる。集団の善意は必要悪を考えれば良いのでは?また、人間が出来ている人が少ないので啓蒙も必要だから集団になることも必要。
と。
至極まっとうなご意見^^
その後少し話して。
結局、基本的には個人的なことだけど、集団になることで効果があるものもある。
そういう場合は『その気持ちがあって、環境が整っている人』という限定で集団にする。
そこで、そこに入らなかった人に対して善悪(差別)の意識を持たない。
というのが理想だねということに。
具合の悪いママに交代でおかずを届けようってママ友(私の忌み嫌う言葉)仲間で決まったとして。
料理が苦手で気が進まない人がいたら『私は買い物役を引き受ける』と言えばいいし。
たまたま自分のほうでも忙しくてできないのなら『今回はパス』と言えばいい。
それが『善意』から発生していることならば『気持ちと環境が整っている』人だけでしているという認識があれば、しない人に差別意識を持つこともないし、心地よく断れる土壌ができるよね。
善意はそれをすることで『自分が良い気分にさせてもらってる』という自覚を持てるといいなと思うのです。
(『修行半ば』)
『善意の旗ふり役』の記憶も、そこから感じる『優越感や差別意識』も両端の違う側面を意識したことがあるので、そんなふうに思います。
でもね、そんなにデキた人間じゃないから『優越感や差別意識』を持つなと言われても難しい^^;
だからこそ、それを感じてしまう場面を減らしたいな〜と、ひっそりとした『善意』でいたいなと思うのでした^^
まあ、この極論もかなり『善意の旗ふり』な感じがしないでもないけど^^;
(いや、それいったらブログが成り立たないか!?)
それにしても那智さんと話して出た答えは、とーってもまっとうで、とーってもつまんない(笑)
やっぱりまっとうであるということを大前提にして、極論でヒヤヒヤしているほうが面白いかも?
なんて、超小心者のクセに思ってしまった^^
『善意』ではかなり極端な考え方を書きました。
善意は集団になった時点で善意ではない。
九九の覚えられない子にクラスみんなで残って教えてあげよう!!というのは、善意じゃないだろう。
九九の覚えられない子の自尊心もそうだし、もしかしたら早く帰らないといけない子もいるかもしれないし、純粋に面倒って思ってる子もいるかもしれない、そんな様々な気持ちを一括りにしたものは『善意』じゃないだろう。
早く帰らないといけない子には、その子なりの応援の仕方があるはずだし、面倒だと思う子は別なときに『善意』が生まれているかもしれない。
善意は個々に生まれて、個々のやり方で叶えるものなんじゃないかな〜と思うのだ。
すみれさんのコメントレスでも書いたけど、こんなことを言っている私ですが、実は昔は『善意の旗ふり役』だったのだ。(九九は覚えられないほうだったけど^^;)
みんなでいいことしよう!!って、言い出しっぺになるような子だった。
文化祭でクラスTシャツを作ろ〜!!って先頭切ったり。
退職する同僚に思い出のアルバムをプレゼントしようって奔走したり。
いまでも要請があれば闘病している友人に応援メッセージを渡そうと、幹事役を引き受けたりしている。
(『那智さんの嫉妬2』にちょこっとだけ書いてある^^;、ついでに『死を意識する』なってのも)
だけどいつの間にかそれは『要請があれば』になっていて、気がつけば、ちょっと遠いところに入院していた別の同僚のお見舞いに1人で行くような大人になっていた^^;
『集団の善意』の存在を意識したのは中学1年生のとき。
いまとまったく反対側からの意識だ。
そして、その反対側からの意識の記憶が、『集団の善意は善意じゃない』という極論に繋がっているのだ。
それは『優越感』と『差別意識』。
中学1年のとき、当時の担任が独身で毎日お昼に菓子パンや店屋物を食べているのを見て『交代でお弁当を持ってきてあげたらどうか』と旗ふりをしたんだ。
クラス30人、毎日交代ですればひと月に一回回って来るか来ないか程度、みんなお弁当作ってもらっているんだからそのときだけ2人分お願いしてはどうか。
先生に栄養のあるものを食べてもらおうよ!!ってね。
何人かの賛同を得られて、先生に内緒で学級会議にかけて半ば強引に話を進めた。
いま思えばまったく未熟な考えで問題なく行えるわけないのに、そのときはとてもバラ色のとても良いことをしている気持ちになっていた。
案の定、数日してポツポツと反対意見がでてきた。
親から反対されたとか、『何を考えてるんだ』と親から直接先生にクレームが来たり。
先生は知らなかったから驚いて緊急で学級会議になったりした。
授業を潰してもらって開いた会議。
親に反対されている子。
親に言えてさえいない子。
なんで?いいことしてるじゃん。
なんで?秘密の学級会議で決まったじゃない。
結局、有志が集まってすることになったのだけど。
自分がいいことと思うことがすべて正しいわけじゃない、そんな当たり前のことを実感した気分だった。
いま思えば、あれは『善意の優越感』と『差別意識』だったなと思う。
自分はいいことをしている、それで旗ふりをして複数の賛成を得られる優越感。
そして『自分はいいことをしているのに』『なんて頭の固い親、なんて冷たいクラスメイト』と差別する気持ちを持つことで更に優越感を感じていたのだと思う。
その出来事を境に、なんて立派な線引きのできる子じゃなかったけど。
いつの間にか、集団になることで感じる優越感やそこから生まれる差別意識を自覚するようになって、善意は個人で表すものという感覚になったのだと思う。
当然のことだけど、義務として必要な場合は『集団』であるべきだと思うけど、この場合は『善意』という一場面のことという『大前提』のもとに言ってますよ^^
『善意』をアップした朝那智さんから短い感想メールをもらった。
基本は個人の善意が良い、でも個人の力は弱いから集団になる。集団の善意は必要悪を考えれば良いのでは?また、人間が出来ている人が少ないので啓蒙も必要だから集団になることも必要。
と。
至極まっとうなご意見^^
その後少し話して。
結局、基本的には個人的なことだけど、集団になることで効果があるものもある。
そういう場合は『その気持ちがあって、環境が整っている人』という限定で集団にする。
そこで、そこに入らなかった人に対して善悪(差別)の意識を持たない。
というのが理想だねということに。
具合の悪いママに交代でおかずを届けようってママ友(私の忌み嫌う言葉)仲間で決まったとして。
料理が苦手で気が進まない人がいたら『私は買い物役を引き受ける』と言えばいいし。
たまたま自分のほうでも忙しくてできないのなら『今回はパス』と言えばいい。
それが『善意』から発生していることならば『気持ちと環境が整っている』人だけでしているという認識があれば、しない人に差別意識を持つこともないし、心地よく断れる土壌ができるよね。
善意はそれをすることで『自分が良い気分にさせてもらってる』という自覚を持てるといいなと思うのです。
(『修行半ば』)
『善意の旗ふり役』の記憶も、そこから感じる『優越感や差別意識』も両端の違う側面を意識したことがあるので、そんなふうに思います。
でもね、そんなにデキた人間じゃないから『優越感や差別意識』を持つなと言われても難しい^^;
だからこそ、それを感じてしまう場面を減らしたいな〜と、ひっそりとした『善意』でいたいなと思うのでした^^
まあ、この極論もかなり『善意の旗ふり』な感じがしないでもないけど^^;
(いや、それいったらブログが成り立たないか!?)
それにしても那智さんと話して出た答えは、とーってもまっとうで、とーってもつまんない(笑)
やっぱりまっとうであるということを大前提にして、極論でヒヤヒヤしているほうが面白いかも?
なんて、超小心者のクセに思ってしまった^^