最初で最後の棘
りん子的独り言(エラそう)
タイトルの通り「棘」を向けます。
とても個人的で、ある個人に向けるものですので、読んでくださるみなさんに向けたものではありませんが不快な気持ちにさせてしまったら、ごめんなさい。
好きなことを書いているけれど、一応わたしなりにルールはある。
いろんなM女さんのブログを徘徊して、そこから感じたことを書かせてもらっている。
ときどき批判的な意見も書くけれど、個人攻撃にならないように、また個人が特定されないように極力気を付けている。
もともとM女さんの傾向として捉えているので、ひとりの人だけを指しているのではないことが多いから、個人を攻撃するつもりもないし、もしひとりの人から感じたことならば、「白を黒」としたり「右を左」としたり多少脚色をして特定されないように努めている。
星の数ほどあるブログの中で、その方々がわたしのブログを読む可能性などとても低いのだけど、それでも批判的なことを書くときには特に気をつける。
また交流のある方から影響を受けた場合は、それについて書くことを了承してもらって書いている。
メールだけのやり取りをしている方にも、同じようにしている。
例えば、それが批判的な事柄になってしまう可能性があるとき、それをただ批判するだけじゃなくて、そこから前向きな気持ちになれるようなわたしなりのヒントを織り交ぜたりして、ただの批判にならないようにしている。
それが、個人が特定される(ご本人だけがわかる場合でも)ケースのわたしが気を付けていること。
明らかな個人を批判する意見だけは書かないことを、わたしはルールにして、それが「品」のあることだと思ってる。
数が月前、とても残念なことに以前から交流がある方とお付き合いがおしまいになることが起きた。
その方の常識とわたしの常識が違ったのだ。
互いに良いと思っていることが違うのだから、どんなに言葉を尽くしても受け入れてもらえることはなかった。
また、そのときのわたしの対応もその方の常識から外れていたようで、もう取りつく島もなかった。
一方的に絶縁状を叩き付けられてしまった。
もちろん、その方からしたらわたしのほうが非常識で、その方は嫌な思いをされただろう。
とても残念だったけど、それを受け入れた。
というか、メールでかなり批判的な言葉を並べられたので、わたしとしてもこれ以上なにを言っても互いに嫌な気持ちになるだけだろうと、絶縁状にちょっと安堵したくらいだった。
その方は、わたしのブログはもう見ないだろうとおっしゃっていた。
それもしかなのないこと。
きっとその方にとって、「薬指の刺青」はわたしだから読んでいたのだろう。
そのわたしが、その方の常識から外れれば、「薬指の刺青」も見るに値しないものになったとしても仕方がない。
だけど、わたしは、違った。
わたしは、その方のブログが好きだった。
互いの常識に違う部分はあったけど、それですべてを否定する気持ちにはなれなかった。
リンクを作ったときに、絶縁されてはいるけれどリンクを申し出ようかとさえ思っていたほどだった。
昔から、わたしは、人を大嫌いになることが少ない。
そこはよくないな〜と思っても、それはそれ、それでその人を拒絶する気になれないのだ。
だから、頻度は減ったけど、その方のブログはときどき訪れていた。
その方らしいな〜と思いながら、読んでいた。
楽しそうにされているエントリーなどは、大きなお世話だけど「楽しそうでよかった」なんて思ったりもしていた。
数日前、ひさしぶりに訪問してみた。
読んでいなかったものを遡っていくと、見覚えのあるやり取りが文章の中にあった。
その方は、こちらのことを引き合いに出して、そこから批判的なご意見を述べていた。
とてもとても残念だった。
アクセス解析という機能があるはずだから調べれば絶縁状態になったあともわたしが訪ねていることはわかっているはずだ。
しばらく間は空いたけれど、この先だって訪れる可能性があるのも想像できるだろう。
それでも、わたしが読めばひと目でわかるやり取りを批判的に書いているのだ。
わたしもその方とのやり取りで考えさせられたことはあったけど、どう書いても批判的な攻撃になってしまいそうだったから、その方は読まないと言っていたけど、それでもやめたのだ。
それが、わたしのルールで、わたしの「品」だからだ。
余程、いやな思いをさせてしまったのだろうと申し訳ないと思うが、わたしはその行為に「品」を感じない。
でも、それだけなら、わたしはここに書かなかっただろう。
こんなふうに書くことはわたしのルールからは外れた行為だから。
それならなぜ書いたのか。
それは、その方が、わたしだけじゃなくて那智さんのことも書いたからだ。
こちらが非常識だったのなら、それは謝罪しそして絶縁を受け入れる。
でもそれだけではなく、そこに那智さんも出し、そして、わたしにとって「品」のないやり方をした。
だから、わたしはルールを破ってここで個人的な批判をします。
その人は、わたしとのことを踏まえて「読者がひとり減ることは残念だ」と書いていた。
わたしは、まだあなたの読者でした。
そのエントリーを読むまでは。
あなたにとって、わたしたちは「馬鹿」かもしれない。
でも、那智さんはその方法で、那智さんという人でわたしを幸せにできるんだ。
人を傷付けることは簡単、馬鹿にすることだってたやすいこと。
だけど、ひとりの女性にとことん付き合い、幸せにすることはとても力が必要だ。
那智さんは、それを持っている人。
わたしは、その那智さんを尊敬するのです。
わたしがあなたにとって非常識を犯したから絶縁されたのなら、わたしにとって「品」のない行為をし、大切な人を批判したあなたを今度はわたしから絶縁を申し出ます。
あのエントリーを書いて、あなたははじめて読者をひとりなくしたのです。
もう二度とお邪魔することはないでしょう。
あ、それとも、わたしが読んで、本当に読まないように仕向けたくてあれを書いたのなら、さすがですね。
頭の良い方だから、それくらいの思考は当たり前なのかもしれない。
もしそうなら、思惑通りになりましたね。
もし、わざと「品」のないことをされたのなら、それを攻撃してしまったことを謝罪いたします。
とはいっても、もう読まないと言っていたのだから、これはあまり意味のないこと。
もしかしたら、那智さんはこのエントリーでそのことを知り、かえって嫌な思いをさせてしまうかもしれない。(那智さんのことだから、すでに知って、それでもわたしには言わないでいてくれたのかもしれない)
そう考えると、このエントリーは結局黙っていられないわたしの幼さの表れで、情けないことですね。
でも、それでもいい。
わたしが、誰かに棘を向けるとき、それは大切な人を守るときだ。
いまはそのときだと思ってる。
幼い感情だとしても、やり方は稚拙だったとしても、なり振り構わず大切な人の名誉を守るときがあってもいいよね。
だから、このブログの中で最初で最後の「棘」を向けました。
もう読まないと言ったその方の言葉を信じるならば、これはいま読んでくださっているどなたのことでもありませんから、心配なさらないでくださいね。
それと那智さんはこのことは一切関知していません(海外行ってるし^^)、すべてわたしの独断です。
以前なら、すぐ那智さんに相談してるか、那智さんに気付かせないために黙っていたかな(そんで、最後には結局我慢できなくて、泣きつくの^^;)、良いか悪いかわからなけど、わたしも強くなったかな?
さて。
那智さんが海外出張の間、独りよがりの変なテンションエントリーを並べてしまいました。
那智さんは明日帰国します。
いいこで留守番してましたよ^^(変なテンションですが)
みなさんにもかまっていただきました^^
ということで、今週は、ちっとはエロにしましょうか!?
タイトルの通り「棘」を向けます。
とても個人的で、ある個人に向けるものですので、読んでくださるみなさんに向けたものではありませんが不快な気持ちにさせてしまったら、ごめんなさい。
好きなことを書いているけれど、一応わたしなりにルールはある。
いろんなM女さんのブログを徘徊して、そこから感じたことを書かせてもらっている。
ときどき批判的な意見も書くけれど、個人攻撃にならないように、また個人が特定されないように極力気を付けている。
もともとM女さんの傾向として捉えているので、ひとりの人だけを指しているのではないことが多いから、個人を攻撃するつもりもないし、もしひとりの人から感じたことならば、「白を黒」としたり「右を左」としたり多少脚色をして特定されないように努めている。
星の数ほどあるブログの中で、その方々がわたしのブログを読む可能性などとても低いのだけど、それでも批判的なことを書くときには特に気をつける。
また交流のある方から影響を受けた場合は、それについて書くことを了承してもらって書いている。
メールだけのやり取りをしている方にも、同じようにしている。
例えば、それが批判的な事柄になってしまう可能性があるとき、それをただ批判するだけじゃなくて、そこから前向きな気持ちになれるようなわたしなりのヒントを織り交ぜたりして、ただの批判にならないようにしている。
それが、個人が特定される(ご本人だけがわかる場合でも)ケースのわたしが気を付けていること。
明らかな個人を批判する意見だけは書かないことを、わたしはルールにして、それが「品」のあることだと思ってる。
数が月前、とても残念なことに以前から交流がある方とお付き合いがおしまいになることが起きた。
その方の常識とわたしの常識が違ったのだ。
互いに良いと思っていることが違うのだから、どんなに言葉を尽くしても受け入れてもらえることはなかった。
また、そのときのわたしの対応もその方の常識から外れていたようで、もう取りつく島もなかった。
一方的に絶縁状を叩き付けられてしまった。
もちろん、その方からしたらわたしのほうが非常識で、その方は嫌な思いをされただろう。
とても残念だったけど、それを受け入れた。
というか、メールでかなり批判的な言葉を並べられたので、わたしとしてもこれ以上なにを言っても互いに嫌な気持ちになるだけだろうと、絶縁状にちょっと安堵したくらいだった。
その方は、わたしのブログはもう見ないだろうとおっしゃっていた。
それもしかなのないこと。
きっとその方にとって、「薬指の刺青」はわたしだから読んでいたのだろう。
そのわたしが、その方の常識から外れれば、「薬指の刺青」も見るに値しないものになったとしても仕方がない。
だけど、わたしは、違った。
わたしは、その方のブログが好きだった。
互いの常識に違う部分はあったけど、それですべてを否定する気持ちにはなれなかった。
リンクを作ったときに、絶縁されてはいるけれどリンクを申し出ようかとさえ思っていたほどだった。
昔から、わたしは、人を大嫌いになることが少ない。
そこはよくないな〜と思っても、それはそれ、それでその人を拒絶する気になれないのだ。
だから、頻度は減ったけど、その方のブログはときどき訪れていた。
その方らしいな〜と思いながら、読んでいた。
楽しそうにされているエントリーなどは、大きなお世話だけど「楽しそうでよかった」なんて思ったりもしていた。
数日前、ひさしぶりに訪問してみた。
読んでいなかったものを遡っていくと、見覚えのあるやり取りが文章の中にあった。
その方は、こちらのことを引き合いに出して、そこから批判的なご意見を述べていた。
とてもとても残念だった。
アクセス解析という機能があるはずだから調べれば絶縁状態になったあともわたしが訪ねていることはわかっているはずだ。
しばらく間は空いたけれど、この先だって訪れる可能性があるのも想像できるだろう。
それでも、わたしが読めばひと目でわかるやり取りを批判的に書いているのだ。
わたしもその方とのやり取りで考えさせられたことはあったけど、どう書いても批判的な攻撃になってしまいそうだったから、その方は読まないと言っていたけど、それでもやめたのだ。
それが、わたしのルールで、わたしの「品」だからだ。
余程、いやな思いをさせてしまったのだろうと申し訳ないと思うが、わたしはその行為に「品」を感じない。
でも、それだけなら、わたしはここに書かなかっただろう。
こんなふうに書くことはわたしのルールからは外れた行為だから。
それならなぜ書いたのか。
それは、その方が、わたしだけじゃなくて那智さんのことも書いたからだ。
こちらが非常識だったのなら、それは謝罪しそして絶縁を受け入れる。
でもそれだけではなく、そこに那智さんも出し、そして、わたしにとって「品」のないやり方をした。
だから、わたしはルールを破ってここで個人的な批判をします。
その人は、わたしとのことを踏まえて「読者がひとり減ることは残念だ」と書いていた。
わたしは、まだあなたの読者でした。
そのエントリーを読むまでは。
あなたにとって、わたしたちは「馬鹿」かもしれない。
でも、那智さんはその方法で、那智さんという人でわたしを幸せにできるんだ。
人を傷付けることは簡単、馬鹿にすることだってたやすいこと。
だけど、ひとりの女性にとことん付き合い、幸せにすることはとても力が必要だ。
那智さんは、それを持っている人。
わたしは、その那智さんを尊敬するのです。
わたしがあなたにとって非常識を犯したから絶縁されたのなら、わたしにとって「品」のない行為をし、大切な人を批判したあなたを今度はわたしから絶縁を申し出ます。
あのエントリーを書いて、あなたははじめて読者をひとりなくしたのです。
もう二度とお邪魔することはないでしょう。
あ、それとも、わたしが読んで、本当に読まないように仕向けたくてあれを書いたのなら、さすがですね。
頭の良い方だから、それくらいの思考は当たり前なのかもしれない。
もしそうなら、思惑通りになりましたね。
もし、わざと「品」のないことをされたのなら、それを攻撃してしまったことを謝罪いたします。
とはいっても、もう読まないと言っていたのだから、これはあまり意味のないこと。
もしかしたら、那智さんはこのエントリーでそのことを知り、かえって嫌な思いをさせてしまうかもしれない。(那智さんのことだから、すでに知って、それでもわたしには言わないでいてくれたのかもしれない)
そう考えると、このエントリーは結局黙っていられないわたしの幼さの表れで、情けないことですね。
でも、それでもいい。
わたしが、誰かに棘を向けるとき、それは大切な人を守るときだ。
いまはそのときだと思ってる。
幼い感情だとしても、やり方は稚拙だったとしても、なり振り構わず大切な人の名誉を守るときがあってもいいよね。
だから、このブログの中で最初で最後の「棘」を向けました。
もう読まないと言ったその方の言葉を信じるならば、これはいま読んでくださっているどなたのことでもありませんから、心配なさらないでくださいね。
それと那智さんはこのことは一切関知していません(海外行ってるし^^)、すべてわたしの独断です。
以前なら、すぐ那智さんに相談してるか、那智さんに気付かせないために黙っていたかな(そんで、最後には結局我慢できなくて、泣きつくの^^;)、良いか悪いかわからなけど、わたしも強くなったかな?
さて。
那智さんが海外出張の間、独りよがりの変なテンションエントリーを並べてしまいました。
那智さんは明日帰国します。
いいこで留守番してましたよ^^(変なテンションですが)
みなさんにもかまっていただきました^^
ということで、今週は、ちっとはエロにしましょうか!?
女は共感したい生き物である
りん子的独り言(エラそう)
愛読しているパイパン大好きさんのブログ。
男性の女性に対する率直な疑問や意見が書かれていて、いつも楽しく読ませていただいています。
最近の記事で『女性の占い好き』について書かれているものがありました。
真剣なものから軽いものまで、概ね女性は占いが好き。
軽いものは話題のひとつとして楽しむことが問題ないけれど、それを盲信してしまうことは理解できないとおっしゃっています。
コメントをされた方々も、『楽しみのひとつ。でも、それには左右されない』という至極まっとうなご意見で一致されていました。
そんなことで人生決められてたまるか!!とわたしも皆さんのご意見に大賛成。
ただ、ここで、『人の心探り好き』性癖がうずうずしちゃったので、立ち止まり掘り探させていただきたいと思います。
男性心理はわかりませんし、女性についてもまったくの私的一般論なので、的外れやこじつけ感はお許しくださいませ^^
真剣な占いの、それを信じるかどうかの、是非はちょっと置いといて^^;でも、それにも繋がるかもしれないかな?
話のネタとして。
話題のひとつとして。
軽い占いや○○診断に、女性のほうが多く興味を抱くように見えるのは、なぜでしょうか。
以前読んだ本に『女性は共感してほしい生き物である』と書いてあった記憶があります。
これなんじゃないかと思うのです。
占いや○○診断をやって、共通の話題として周囲の人との共感を感じたい。
占いじゃなくても、女性は共通の意識が、多分、好きだ。
同じスイーツを『おいしいね〜』と微笑み。
同じアイドルに熱を上げる。
こう書くとまるで女性がひとりが嫌いなお子様みたいに聞こえるので、わたしなりに表現を変えて。
『女性は共感する心地良さを知っていて、共感する心地良さが好き。』
これで、どうでしょう。
その心地良さを知っているから、共通の意識を持てるものや、共感できる人と一緒にいたいと思うのではないかしら。
特に『占い』は、自分のことを言い当ててくれる機能が備わってるから、スイーツやアイドルと同じ一方通行の対象物のはずなのに人格のようなものを感じて女性に人気があるのではないでしょうか。
『お、よくわかったね〜』とか『それは、どう?』などと、『占い』さんと共通意識を持つことができて、手っ取り早く『ひとり共感』ができる優れたツール。
話逸れますが、ちなみに、男性でもかつては『親衛隊』などとアイドルを応援する団体もありましたし、男性にも共感の喜びのようなものはあるのだと思います。
でもね、そこには『親衛隊長』や『副隊長』といった階級の喜びも強くあったのではないかしら。
『男は社会に属していたくて、女は人に属していたい』
という言葉を聞いたことがあるけど、それは共感の感じ方にも表れていそう。
多分、男性と女性のほしい共感が違うのかな。(かなりのこじつけは、許して!!!)
もとに戻します。
じゃ、なぜ、女性は『共感の心地良さ』を知ってるのでしょう?
これもかなり一方向からしか見ていない考え方ですが。
まず、生まれ持った性差ということもありますよね。(学術的なことはわかりませーん)
それと。
女の子は多かれ少なかれ、幼い頃から『共感』の中で育って来たと思うのです。
お父さんの膝に抱かれて、お母さんに『このお花きれいね〜』と微笑まれる。
遊びは、共感の象徴のようなおままごとやリカちゃん人形ごっこ(いや、ここで、けっこう、継母のいじめに遭うなんてストーリー展開したりしてるけど^^;そこはいまは見て見ぬふり!!)。
方や男子は。
大切に育てられていたとしても、どうしても『男の子なんだから』と、甘いお菓子のような共感を味わう機会は少なかったんじゃないかしら。
ヒーローごっこや戦隊もの、鬼ごっこやかけっこと、いつも一番を決めるような遊び。
わたしだって、鬼ごっこや缶蹴りなどもしたし、父親からの『共感』の記憶は少ないけど、それでも男子たるもの、とは違う育ち方をしてるよね。
その違いが『共感の心地良さ』を知ってるか、知らないかの違いになるのかなと思う。
人間、知っていることは、もっとと求められるけど、知らないと同じような体験をしても気付かずにスルーしてしまうもの。
共通の話題から生まれる他者との共感は心地良い、占いや診断には、その手前に『ひとり共感』の気楽さも加わるわけ。
そこに、それらの人気がある理由があるのではないでしょうか?
で、最近は男の子も優しい環境で育ててる方が多いから、もしかしたら性差は埋められなくても環境による違いは減ってくるのかもしれない。
だから、もう少ししたら、占いの大好きな若い男の子も増えるかも?
ああ、そしたら、いいな^^
若い男の子と共感の心地良さを味わえる!?(笑)
なーんて、おばさん的発想はこっそりしまっておきましょう^^;
占いも診断も、心地良さを味わうものだと思えば、それに左右されることもなく楽しいものになりますよね^^
愛読しているパイパン大好きさんのブログ。
男性の女性に対する率直な疑問や意見が書かれていて、いつも楽しく読ませていただいています。
最近の記事で『女性の占い好き』について書かれているものがありました。
真剣なものから軽いものまで、概ね女性は占いが好き。
軽いものは話題のひとつとして楽しむことが問題ないけれど、それを盲信してしまうことは理解できないとおっしゃっています。
コメントをされた方々も、『楽しみのひとつ。でも、それには左右されない』という至極まっとうなご意見で一致されていました。
そんなことで人生決められてたまるか!!とわたしも皆さんのご意見に大賛成。
ただ、ここで、『人の心探り好き』性癖がうずうずしちゃったので、立ち止まり掘り探させていただきたいと思います。
男性心理はわかりませんし、女性についてもまったくの私的一般論なので、的外れやこじつけ感はお許しくださいませ^^
真剣な占いの、それを信じるかどうかの、是非はちょっと置いといて^^;でも、それにも繋がるかもしれないかな?
話のネタとして。
話題のひとつとして。
軽い占いや○○診断に、女性のほうが多く興味を抱くように見えるのは、なぜでしょうか。
以前読んだ本に『女性は共感してほしい生き物である』と書いてあった記憶があります。
これなんじゃないかと思うのです。
占いや○○診断をやって、共通の話題として周囲の人との共感を感じたい。
占いじゃなくても、女性は共通の意識が、多分、好きだ。
同じスイーツを『おいしいね〜』と微笑み。
同じアイドルに熱を上げる。
こう書くとまるで女性がひとりが嫌いなお子様みたいに聞こえるので、わたしなりに表現を変えて。
『女性は共感する心地良さを知っていて、共感する心地良さが好き。』
これで、どうでしょう。
その心地良さを知っているから、共通の意識を持てるものや、共感できる人と一緒にいたいと思うのではないかしら。
特に『占い』は、自分のことを言い当ててくれる機能が備わってるから、スイーツやアイドルと同じ一方通行の対象物のはずなのに人格のようなものを感じて女性に人気があるのではないでしょうか。
『お、よくわかったね〜』とか『それは、どう?』などと、『占い』さんと共通意識を持つことができて、手っ取り早く『ひとり共感』ができる優れたツール。
話逸れますが、ちなみに、男性でもかつては『親衛隊』などとアイドルを応援する団体もありましたし、男性にも共感の喜びのようなものはあるのだと思います。
でもね、そこには『親衛隊長』や『副隊長』といった階級の喜びも強くあったのではないかしら。
『男は社会に属していたくて、女は人に属していたい』
という言葉を聞いたことがあるけど、それは共感の感じ方にも表れていそう。
多分、男性と女性のほしい共感が違うのかな。(かなりのこじつけは、許して!!!)
もとに戻します。
じゃ、なぜ、女性は『共感の心地良さ』を知ってるのでしょう?
これもかなり一方向からしか見ていない考え方ですが。
まず、生まれ持った性差ということもありますよね。(学術的なことはわかりませーん)
それと。
女の子は多かれ少なかれ、幼い頃から『共感』の中で育って来たと思うのです。
お父さんの膝に抱かれて、お母さんに『このお花きれいね〜』と微笑まれる。
遊びは、共感の象徴のようなおままごとやリカちゃん人形ごっこ(いや、ここで、けっこう、継母のいじめに遭うなんてストーリー展開したりしてるけど^^;そこはいまは見て見ぬふり!!)。
方や男子は。
大切に育てられていたとしても、どうしても『男の子なんだから』と、甘いお菓子のような共感を味わう機会は少なかったんじゃないかしら。
ヒーローごっこや戦隊もの、鬼ごっこやかけっこと、いつも一番を決めるような遊び。
わたしだって、鬼ごっこや缶蹴りなどもしたし、父親からの『共感』の記憶は少ないけど、それでも男子たるもの、とは違う育ち方をしてるよね。
その違いが『共感の心地良さ』を知ってるか、知らないかの違いになるのかなと思う。
人間、知っていることは、もっとと求められるけど、知らないと同じような体験をしても気付かずにスルーしてしまうもの。
共通の話題から生まれる他者との共感は心地良い、占いや診断には、その手前に『ひとり共感』の気楽さも加わるわけ。
そこに、それらの人気がある理由があるのではないでしょうか?
で、最近は男の子も優しい環境で育ててる方が多いから、もしかしたら性差は埋められなくても環境による違いは減ってくるのかもしれない。
だから、もう少ししたら、占いの大好きな若い男の子も増えるかも?
ああ、そしたら、いいな^^
若い男の子と共感の心地良さを味わえる!?(笑)
なーんて、おばさん的発想はこっそりしまっておきましょう^^;
占いも診断も、心地良さを味わうものだと思えば、それに左右されることもなく楽しいものになりますよね^^
チューニング
りん子的独り言(エラそう)
前エントリー『アンテナ』(3/8)を書いていて、またいつものノロケになっちゃったな〜と思いながら、実はわたしにとってとても重要な回路が繋がってもいた。
那智さんの意志を感じ取る『アンテナ』を張ると書いていたけれど、それは那智さんに限ったことじゃないのではないだろうかと思ったのだ。
他の人からしたら些細なことかもしれない。
でも、自分のことをわかっていくのは、生きていく上でとても大事なこと。
それが、わずかに感じていた『生きにくさ』に繋がっているとしたら、尚更だよね。
悲劇のヒロインになるつもりはないのです。
こういう人もいるんだなと思って読んでいただけるとうれしいです。
なぜだかわからないけど。
人の言葉の小さな棘を感じ取ってしまっていた。
冗談と笑って言っていることでも、そこに微かな悪意を感じて途方に暮れることもある。
(ブラックジョークと悪意は違うものなので、ブラックジョークは多いに笑えます)
わたしは、弱いのだろうか、傷つきやすいのだろうか。
いちいち棘が刺さる自分を情けない人間に思っていた。
『アンテナ』を書いていて、もしかしたらアンテナの感度が少し強いのではないかと思ったのだ。
確かに強い精神は持っていないけど^^;、ただ弱いというのではなくて、感度が良すぎるのではないか。
なぜそう思ったかというと。
わたしは自分に向けられるもの以外でも、人の『悪意』にとても敏感みたいなんだ。
女子の輪の中の『冗談』という悪口に敏感だし。
友人でもない、隣のクラスの女の子がシカトされている様子を見つけたり、不良と呼ばれる子たちにちょっかいを出されている男子を見たりしても、正義感や倫理観だけじゃない、別の感情が湧いてしまって苦しくなってしまう。
なんていうのかな、他人事と思えず我がことのようにシンパシーを感じ取ってしまって、苦しい気持ちになってしまっていたんだ。
その男子を庇おうと、その不良たちの前の立ちはだかってしまったこともあるし^^;
女子のシカトに加わらず、結果自分が呼び出されるなんてこともあったし。
ひと事の『悪意』を拾ってしまって、スルーできないのだ。
黙っていればいいのに、それもできず、更に傷つかなくてよい傷まで負ってしまう。
サラリーマンが駅員に怒鳴っていても。
電車で隣に座った男性の貧乏揺すりも。
まったく関係ない他人の発する『負』でさえ、我がことのようでスルーできず、ヒヤヒヤソワソワしてしまう。
自分に関係ない人のことでもいちいち気づいて、いちいち心がささくれ立って刺さってしまうのは、アンテナの感度が良すぎるからではないだろうかと思ったんだ。
那智さんの、メールの一言に込めた小さな意志を感じ取ることができたことは、きっとアンテナのおかげだ。
でも、このアンテナは同じように小さな悪意も拾ってしまうんじゃないかと思ったのです。
もし、そうだとするなら。
わたしは、とても気持ちが楽になる。
だって、それはわたしが『弱い』だけじゃないのだもの。
これは両手を広げて歩いているようなものなんじゃないか。
普通に歩いていれば当たらずに済むナイフも当たってしまう。
拾わなくていい雑音も拾ってしまう。
そりゃあ、痛いよね。
確かに、わたしは決して強くない(えばるな^^)
でも、きっといらない雑音をたくさん拾ってしまっているんだと思うと、なんだか気持が楽になる。
もちろん、人はみんないろんな棘から身を守り、時には立ち向かい、自分の力で生きているのだから、わたしだけが棘刺さってると思っているわけじゃないのですよ。
だけど、他人が他人に向ける『悪意』さえも拾っているということは、わたしのアンテナは少し感度が強いのではないかと思うのだ。
きっと感度強くて、それで苦しくなっているんだと思えれば、自分を責めることなく、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ事実としてそれを受け止められるよね。
ああ、なんで傷ついちゃうんだろうって自分を責めるんじゃなくて。
アンテナの奴、拾っちゃな〜と客観視できるほうが、問題解決に一歩近づけると思うのです。
だから、アンテナの存在がわかったことは、わたしにはとても重要なことだった。
ただ、これは単に悲劇なだけじゃなくて、実はとても良い点もある。
それは、小さな幸福を感じ取ることもできるということ。
それのひとつが、『俺は楽しむ』という言葉から、那智さんの意志を見つけることができたことに表れていると思う。
例えば、ひこうき雲を見つけて『なんだか今日幸せかも〜』と上機嫌になったり。
毎日のご飯は幸福だし、露天風呂で夕立なんてスーパーラッキーなプレゼント。
高校生がおばあさんに席を譲ったりしているのを見ると、わたしまで喜んじゃったり。
昔から、低燃費で幸福を感じられる自分を『安上がりな女だな〜』と思っていたけど。
これも、もしアンテナのおかげだとしたら。
なーんだ、悪いばかりじゃないじゃないアンテナ、とも思える。
物事には、いろんな側面があるなと思う。
その両方がわかっていると、混乱せずシンプルに解決する道が見つけられるのではないかしら。
で、多分。
那智さんも、似たようなアンテナを持っているんだ。
だから、わたしと感性が合うと感じている。
じゃあ、なぜ那智さんは弱くないの?
俺は鎧を着けることも学んでいるし、ここは傷を受けるかもしれないと先回りして力を入れることもできる。
同じようなアンテナを持っている人も、そうやってみんな自衛しているんだよ。
うう、すみません、やっぱり、わたしは根性ないのか…。
だけど、わたしはあなたの『意志』をしっかり感じることができた、鎧を着ていないから気持ちのよい綿毛を感じることもできているかもしれない。
なーんて、開き直らずに^^;
わずかに感じていた『生きにくさ』の理由がわかった気がする。
問題の原因がわかれば解決方法に繋がるよね、もういい年した大人なんだけど、これからでも遅くない。
きっと、時には鎧を着て、普段はたくさんの幸福を感じられるようなわたしになれるはず。
だから『アンテナ』の存在を認知できたことは、わたしにはとても大きな収穫だったのだ。
同じように、なぜ棘刺さってばっかりなんだろうと感じる人がいたら、もしかしたらアンテナの感度が良すぎるのかもしれない。
そして、それと繋がったところで『小さな幸福』を見つける感度も強いかもしれないよ。
悪いことばかりじゃないと思いたい。
アンテナの感度が良くても、しっかりと生きている人もいるでしょう。
上手に自分をコントロールして、幸福の感度だけ上げられる人もいるかもしれない。
わたしも、これが『悲劇』だと言っているのではなくて、自分を客観視できたほうが楽になるなと思って書きました。
だから、悲劇のヒロインになってなければいいのだけど^^;
ブログをはじめて。
思考や問題点がクリアになるのを感じる。
言語化することって大事だな〜と思う。
言語化してクリアになったことを那智さんと話し。
那智さんと話して形になったことをまた言語化する。
本当は、こういう作業は自分の内側で行うものなのでしょうけど。
わたしは、それをブログにしちゃっているわけで、実生活で付き合いのある人のほとんどは、わたしのこういう部分を知らないと思う。
『凹む』とか『傷つく』とは無縁な人と思われているはず。
というくらい、ここは内側のわたし^^;
で、そこにスポットを当てて書いているから、なんだか付き合いにくい女像が出来上がってしまっているかもしれない^^;
それでもって、M女さんブログを読んでつらそうなことが書かれていたりすると、これもアンテナがキャッチしまくりで、ついつい吠えちゃうんだな、きっと^^;
だから、我がことのように生意気なこと書いちゃう。
そんなんだから、なんか、やな奴になっている気がしないでもないけど…。
実物は、けっこういい奴なんだよぉと、最後にちょっとフォローを入れてみる^^
みんなアンテナを持っているのでしょう。
わたしは、多分、正も負も両方に対して感度がちょっと良すぎるみたい。
(もっと良くて、何かの才能を開花させたり、逆に苦しさが増している人もいると思う)
存在がわかれば、チューニングの必要性もわかるはず。
で、この年にして、那智さんからチューニング方法を教えてもらっている。
なんだか情けない気もするけど、伸びしろがあるってことで、良しとしていただこうと思っています^^
前エントリー『アンテナ』(3/8)を書いていて、またいつものノロケになっちゃったな〜と思いながら、実はわたしにとってとても重要な回路が繋がってもいた。
那智さんの意志を感じ取る『アンテナ』を張ると書いていたけれど、それは那智さんに限ったことじゃないのではないだろうかと思ったのだ。
他の人からしたら些細なことかもしれない。
でも、自分のことをわかっていくのは、生きていく上でとても大事なこと。
それが、わずかに感じていた『生きにくさ』に繋がっているとしたら、尚更だよね。
悲劇のヒロインになるつもりはないのです。
こういう人もいるんだなと思って読んでいただけるとうれしいです。
なぜだかわからないけど。
人の言葉の小さな棘を感じ取ってしまっていた。
冗談と笑って言っていることでも、そこに微かな悪意を感じて途方に暮れることもある。
(ブラックジョークと悪意は違うものなので、ブラックジョークは多いに笑えます)
わたしは、弱いのだろうか、傷つきやすいのだろうか。
いちいち棘が刺さる自分を情けない人間に思っていた。
『アンテナ』を書いていて、もしかしたらアンテナの感度が少し強いのではないかと思ったのだ。
確かに強い精神は持っていないけど^^;、ただ弱いというのではなくて、感度が良すぎるのではないか。
なぜそう思ったかというと。
わたしは自分に向けられるもの以外でも、人の『悪意』にとても敏感みたいなんだ。
女子の輪の中の『冗談』という悪口に敏感だし。
友人でもない、隣のクラスの女の子がシカトされている様子を見つけたり、不良と呼ばれる子たちにちょっかいを出されている男子を見たりしても、正義感や倫理観だけじゃない、別の感情が湧いてしまって苦しくなってしまう。
なんていうのかな、他人事と思えず我がことのようにシンパシーを感じ取ってしまって、苦しい気持ちになってしまっていたんだ。
その男子を庇おうと、その不良たちの前の立ちはだかってしまったこともあるし^^;
女子のシカトに加わらず、結果自分が呼び出されるなんてこともあったし。
ひと事の『悪意』を拾ってしまって、スルーできないのだ。
黙っていればいいのに、それもできず、更に傷つかなくてよい傷まで負ってしまう。
サラリーマンが駅員に怒鳴っていても。
電車で隣に座った男性の貧乏揺すりも。
まったく関係ない他人の発する『負』でさえ、我がことのようでスルーできず、ヒヤヒヤソワソワしてしまう。
自分に関係ない人のことでもいちいち気づいて、いちいち心がささくれ立って刺さってしまうのは、アンテナの感度が良すぎるからではないだろうかと思ったんだ。
那智さんの、メールの一言に込めた小さな意志を感じ取ることができたことは、きっとアンテナのおかげだ。
でも、このアンテナは同じように小さな悪意も拾ってしまうんじゃないかと思ったのです。
もし、そうだとするなら。
わたしは、とても気持ちが楽になる。
だって、それはわたしが『弱い』だけじゃないのだもの。
これは両手を広げて歩いているようなものなんじゃないか。
普通に歩いていれば当たらずに済むナイフも当たってしまう。
拾わなくていい雑音も拾ってしまう。
そりゃあ、痛いよね。
確かに、わたしは決して強くない(えばるな^^)
でも、きっといらない雑音をたくさん拾ってしまっているんだと思うと、なんだか気持が楽になる。
もちろん、人はみんないろんな棘から身を守り、時には立ち向かい、自分の力で生きているのだから、わたしだけが棘刺さってると思っているわけじゃないのですよ。
だけど、他人が他人に向ける『悪意』さえも拾っているということは、わたしのアンテナは少し感度が強いのではないかと思うのだ。
きっと感度強くて、それで苦しくなっているんだと思えれば、自分を責めることなく、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ事実としてそれを受け止められるよね。
ああ、なんで傷ついちゃうんだろうって自分を責めるんじゃなくて。
アンテナの奴、拾っちゃな〜と客観視できるほうが、問題解決に一歩近づけると思うのです。
だから、アンテナの存在がわかったことは、わたしにはとても重要なことだった。
ただ、これは単に悲劇なだけじゃなくて、実はとても良い点もある。
それは、小さな幸福を感じ取ることもできるということ。
それのひとつが、『俺は楽しむ』という言葉から、那智さんの意志を見つけることができたことに表れていると思う。
例えば、ひこうき雲を見つけて『なんだか今日幸せかも〜』と上機嫌になったり。
毎日のご飯は幸福だし、露天風呂で夕立なんてスーパーラッキーなプレゼント。
高校生がおばあさんに席を譲ったりしているのを見ると、わたしまで喜んじゃったり。
昔から、低燃費で幸福を感じられる自分を『安上がりな女だな〜』と思っていたけど。
これも、もしアンテナのおかげだとしたら。
なーんだ、悪いばかりじゃないじゃないアンテナ、とも思える。
物事には、いろんな側面があるなと思う。
その両方がわかっていると、混乱せずシンプルに解決する道が見つけられるのではないかしら。
で、多分。
那智さんも、似たようなアンテナを持っているんだ。
だから、わたしと感性が合うと感じている。
じゃあ、なぜ那智さんは弱くないの?
俺は鎧を着けることも学んでいるし、ここは傷を受けるかもしれないと先回りして力を入れることもできる。
同じようなアンテナを持っている人も、そうやってみんな自衛しているんだよ。
うう、すみません、やっぱり、わたしは根性ないのか…。
だけど、わたしはあなたの『意志』をしっかり感じることができた、鎧を着ていないから気持ちのよい綿毛を感じることもできているかもしれない。
なーんて、開き直らずに^^;
わずかに感じていた『生きにくさ』の理由がわかった気がする。
問題の原因がわかれば解決方法に繋がるよね、もういい年した大人なんだけど、これからでも遅くない。
きっと、時には鎧を着て、普段はたくさんの幸福を感じられるようなわたしになれるはず。
だから『アンテナ』の存在を認知できたことは、わたしにはとても大きな収穫だったのだ。
同じように、なぜ棘刺さってばっかりなんだろうと感じる人がいたら、もしかしたらアンテナの感度が良すぎるのかもしれない。
そして、それと繋がったところで『小さな幸福』を見つける感度も強いかもしれないよ。
悪いことばかりじゃないと思いたい。
アンテナの感度が良くても、しっかりと生きている人もいるでしょう。
上手に自分をコントロールして、幸福の感度だけ上げられる人もいるかもしれない。
わたしも、これが『悲劇』だと言っているのではなくて、自分を客観視できたほうが楽になるなと思って書きました。
だから、悲劇のヒロインになってなければいいのだけど^^;
ブログをはじめて。
思考や問題点がクリアになるのを感じる。
言語化することって大事だな〜と思う。
言語化してクリアになったことを那智さんと話し。
那智さんと話して形になったことをまた言語化する。
本当は、こういう作業は自分の内側で行うものなのでしょうけど。
わたしは、それをブログにしちゃっているわけで、実生活で付き合いのある人のほとんどは、わたしのこういう部分を知らないと思う。
『凹む』とか『傷つく』とは無縁な人と思われているはず。
というくらい、ここは内側のわたし^^;
で、そこにスポットを当てて書いているから、なんだか付き合いにくい女像が出来上がってしまっているかもしれない^^;
それでもって、M女さんブログを読んでつらそうなことが書かれていたりすると、これもアンテナがキャッチしまくりで、ついつい吠えちゃうんだな、きっと^^;
だから、我がことのように生意気なこと書いちゃう。
そんなんだから、なんか、やな奴になっている気がしないでもないけど…。
実物は、けっこういい奴なんだよぉと、最後にちょっとフォローを入れてみる^^
みんなアンテナを持っているのでしょう。
わたしは、多分、正も負も両方に対して感度がちょっと良すぎるみたい。
(もっと良くて、何かの才能を開花させたり、逆に苦しさが増している人もいると思う)
存在がわかれば、チューニングの必要性もわかるはず。
で、この年にして、那智さんからチューニング方法を教えてもらっている。
なんだか情けない気もするけど、伸びしろがあるってことで、良しとしていただこうと思っています^^
連れションはキライ
りん子的独り言(エラそう)
これから書くことは誤解を招いてしまいそうなことで、ちょっとためらうのだけど。
私はこうだということが言いたいだけで、それ以外を否定するつもりはないと思っていただけるとありがたいです。
また、主に実生活でのことを書くので、ネット環境の場合とは違うつもりでいることもご理解ください。
連れションが苦手だ。
女で連れションっていうのも変かな。
もちろん学生の頃だってお友達と一緒にトイレに行っていたから、それがダメと言ってるのではなくて。
『一緒にトイレに行こ〜』ということから連想される付き合い方が苦手。
だから、なるべくそういう付き合いは避けるようにしている。
こういうと割と賛同を得られることが多い。
みんな『連れション』から想像される『べったりと群れる』ことに対して抵抗感があるのだろう。
ただ、多分わたしの『連れション苦手』はかなり群を抜いていると思う。
なぜかというと『連れション』や『群れる』というマイナスな言葉だけでなく、もっと良い印象を感じさせる言葉にも『連れション』を連想して付き合いを選んでいるからだ。
『連れション』の定義がすごく広いみたいなんだ。
だから、実生活の私は極端に女友達が少ない。
遥よこうさんの本を読んで。
私が、一見良い印象を与える関係さえも『連れション』を連想して付き合いを狭めていること。
それ故に、女友達が少ないこと。
このふたつに気づいたので、私にとっての友達とうことを書きたいと思う。
遥ようこさんの『女ともだち』を読んだ。
この人の本は、フェミニズムのフェの字もわからない私に『生きにくさ』の理由をわかりやすく教えてくれた。
『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』をはじめ、数冊読んだ。
『女ともだち』は納得できることとできないこととあったけど、『女に必要なのは女友達と、応援いてくれる男性』ということが書かれている。
その一部で。
木原光知子さんとの交流が書かれていた。
木原さんは遥ようこさんを見込んでいたようで、彼女はとてもお世話になったそうだ。
そこで目上の人、後輩、人との付き合い方や仕事への姿勢、生き方を学ぶ。
男ばかりの中で全力で地位を築いた木原さんは、さすがに迫力のある生き方を彼女に伝授するのだ。
でも、その中で『あれ?』と思う話があった。
『友達というのは、友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』と言っている。
Aと木原さんは友達で、Aは木原さんを介してBと知り合いになる。
ある日木原さんとBが仲違いして絶縁した。
しばらくして、BがAに会いに行ったら、私は木原さんの友達だからあなたとは付き合えないと門前払いしたそうだ。
木原さんはそれがとても嬉しかったそうなのだ。
木原さんたちの付き合いの深さや絶縁の理由がわからないので、恐らく、とても重大なことだったと想像するので、私が想像したこととは次元が違うと思うけど。
この『友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』という言葉に、私は違和感を覚えた。
『友達の味方は、自分の味方』という一見響きの良い言葉に『連れション』を連想してしまったのだ。
木原さんの言葉からは離れているとは思うけど、何度も私は『味方意識』がおかしな方向に転がることを体験している。
そのたびに、『良い響きの言葉』に潜む怖さを体感する。
高校を卒業して最初に就職したところは女ばかりの職場だった。
高卒の女ばかりが集まるので、まあ、それはそれは中学生時代の理不尽な上下関係がそのまま残ったようなところだった。
新入社員は、研那智期間が終わったら別の店舗に移動が決まってる移動組とそのまま残る残留組とに、それぞれ4人ずつ分かれていた。
移動組だった私は化粧っけのない子供っぽい新入社員だったので、全然先輩たちに目をつけられることもなく、むしろ可愛がられたほうだったけど。
ちょっと派手な子たちは『生意気』と言われ、子供のいじめのような仕打ちをされていた。
特に、残留組の『ジョー』(今日は、若草物語で^^;)は、化粧も上手だし、如才ない立ち回りがかえって鼻につくようで何かと風当たりが強かった。
確かに、ひと言多い感じや先輩さえ持っていないようなブランド物を持っていたりして、もうちょっと気を付けた方がいいのにな〜(特に女の園では)と、人ごとながらヒヤヒヤしていた。
ある日、先輩大勢と私の同僚移動組の『ベス』が休憩室にいて、ジョーの話になって盛り上がっていた。
私もその部屋にいたのだけど、その輪には入らずに一人でいた。
ベスは、新入社員だけでいるとき、知らないブランド品や遊びのスポットの話を自慢げにして如何にジョーが生意気な態度でいるか、先輩たちが盛り上がるのをいいことに、あれこれと話していた。
先輩たちはそれを聞いて、今度どんな仕打ちをジョーにするかで、また盛り上がっていた。
休憩時間が終わって、ベスと2人きりになった私は、こっそりとベスに話した。
私たちは3ヶ月すればここからいなくなるけど、ジョーはずっといるわけで今後のことを考えたら、あまり先輩たちの前でジョーのことを悪く言わないほうがいいのではないかな。
悪いところがあるなら、直接ジョーに言って直すなり考えるなりしてもらえばいい。
そうじゃないただのうわさ話なら、軽はずみに先輩たちに言わないほうがいいんじゃない?
『ふ〜ん』とその場では、ベスはそれ以上何も言わなかった。
その日の帰り道。
同じ移動組の同僚『メグ』と『エイミー』がすごい剣幕で私を呼び止めた。
「ねえ、りん子、あんたはどっちの味方なの?!」って。
どうやら、ベスはメグとエイミーに訴えたらしいのだ。
「りん子は、ジョーの味方をした」と。
味方?
びっくりした。
敵か味方かという気持ちで、ベスに話したつもりはない。
先輩だけで言うのはしかたないとしても、ジョーのためにも、そしてベス自身のためにも加わるべきじゃない。
そこに敵も味方もない。
それを説明してもどうもその価値観は通用しないみたいで、その場では私が『裏切り者』になっていた。
1対多数は卑怯だということが伝えられないもどかしい思いをした。
遥ようこさんのお話とこれが一緒だとは思わないけど。
木原さんの言葉を読んで、この新入社員時代の出来事を思い出してしまった。
そうか、敵か味方かという概念で友情を計るなら、私は友達が少ないのは当然なんだ。
だって、私は『味方だから』という感覚が好きじゃないのだもの。
なぜかというと、味方を作るということは、敵もできるということだよね。
そして、その味方と敵のパワーバランスが崩れると、『味方』はあっという間に『壁』になってしまう。
ブログ3周年の時に、村上春樹さんの『常に卵の側に』というスピーチのことを書いた。(『 hotに3周年御礼』)
どんなに間違っていても、壁(多数)に潰される卵(個)がいるなら常に卵の側にいるということ。
この感性が好きだ。
微力でも、そうしていたいと思ってる。
正しいとされていることでも、善意から発生したことでも、それが多数になれば脅威になるのだ。
『味方』のような響きの良い言葉が、瞬く間に壁の脅威になるのを私は何度も見ている。
学校でも職場でも、子供の親の関係でも。
例えば。
給食が食べられなくて、こっそり捨てようとしている子がいたとして、それを見つけた子が『悪いことしてる』と指摘したとする。
それを聞いた友達やクラスメイトは、捨てようとした子を一斉に非難するようなこと。
中には『謝れ』なんて言い出す子もいたりして。
もっと小さなコミュニティーでも、あるよね。
子供の親が集まって、ふと『○○君乱暴だよね』という話題になると、そこから○○君やその親を目の敵にするようなバランスが生まれる。
翌日からの公園の空気が少し変わったりする。
給食を捨てた子も乱暴する子も、悪いかもしれない。
でも、悪いところがあれば個別に指摘すればいいだけのこと、それを集団で非難することは次元が違うと思うのだ。
私はこういう時、巨大な壁が卵を押し潰そうとする感覚を覚える。
『味方』をはじめとする響きの良い言葉でできたコミュニティーが、何かをきっかけに『壁』に変わっていく可能性を孕んでいるなら、そこに身を置きたくないと思う。
もちろん、『壁』にならない良識を持った『味方』関係を作っている方もいるでしょう。
また、ときには『壁』になったとしても、それと同じくらい助け合ったりして頼りになる『仲間』もいるはずで。
それを否定しているのではないのですよ。
いちおう知り合いはたくさんいる。
困ったときに助け合うお付き合いもある。
元の職場や学校関係のコミュニティーだってある。
こういうのを友達というなら、それなりにいるけど。
やはり味方という感覚はないな。
だから『あなたの味方は私の味方』と思えることが友達だと言われれば、誰も友達じゃない。
誰の味方にもならないし、誰の味方にもなる、そういう感覚。
卵になっているから必然的に味方になるということはあっても、はじめから味方かどうかは付き合いの基準にならないのだ。
私は、巨大な壁を食い止める力もないし、壁になる神経もない。
大概、卵と一緒に傷つくか、卵まで壁と迎合して、私だけ潰れるかだ。
ということで、私は『壁』になるのも、誰かを卵にするのもイヤなので、それを避けるために一見良い印象を与える言葉にも怖さを察知してしまうらしい。
だから、『友達の味方は自分の味方』という基準が友達だということに違和感を覚えたのですね。
で、矛盾してるけど、そんな私にも実生活で数少ない『味方』の友達はいる。
味方かどうかで選んでいるのではなくて、いざとなったら絶対に味方しようと思える友達だ。
なぜ、その人たちにはそう思えるかというと。
彼女たちも、また『味方』という概念で友情を育まない人たちだから。
そういう人たちは基本的に『連れション』意識がすごく低いから、グループにはならず個で付き合う人たち。『壁』になる可能性が低い人たちなんだ。
でもって、『味方ね』という付き合いをしない人というのは、割と素っ気ないのだ。
だって、連れションしないのだもの、ひとりでトイレ行っちゃう^^;
近くに住んでいる人とか、比較的交流はあるけど。
ちょっと離れた所に住んでる人なんて、年に1、2回メールをするくらい。
近況なんて、知らない。
ただ、とても大事な局面にはまず連絡をくれるから、それでいいのだ。
(だからね、1年振りに連絡が来て『離婚しようと思ってる』なんて言われる)
多分、木原さんもこれくらいの深さの話をしていたと思うのだけど、どうも私の周りで起こる『味方意識』はもう少し軽いように感じられるから、違和感なんだよね。
『味方』になると公言するのって、本当はすごい責任とパワーがいるはずで。
そう簡単に表に出せるものではないともう思うのだ。
私は数少ない友達のために、それを使いたい。
自分が壁にならないために『連れション』というマイナスイメージだけじゃない、『味方』などなどの響きの良い言葉も判断基準にして選んでいるんだな。
そんなふうに壁になる危険性を排除して、壁にならない個と友情を育むという方法でいる。
でも、こういうスタンスはあまり好かれない^^;
だって、人って『あなたの味方』と言ってくれる人たちのほうが、嬉しいものね。
だから少ないことに納得したんだよね。
良いか悪いか別にして、改めて私の友達付き合いを認識したのでした。
私が、ここで『M女さんの味方だ』とか言えるのは、比較的『壁』と『卵』がわかりやすいからなんんじゃないかな。
だから、ここのほうがお友達多い?(笑)
多分、こういうことを言う私とわかってて許容してくれていると(恐る恐る)思っているから^^
私が仲良くしたいと思う人や面白いと思うことに対して、できるだけ素直にしていられるのだ。
だから、実生活の付き合い方より、もしかしたら伸び伸びとしているかもしれないです。
だって、実生活で『常に卵の側に!!』なんて声高に言っていたら変な人って思われちゃう。
ここでは、すでに『変態』だから、いいのだ^^
なんて、こんな話したら、ここでもお友達減っちゃうかもしれないね^^;
『壁』になりたくなくて。
誰の味方でもないし、誰の味方でもある。
これが私の付き合い方。
そして、それでいいと思っている。
だから、私は連れションがキライだ。
これから書くことは誤解を招いてしまいそうなことで、ちょっとためらうのだけど。
私はこうだということが言いたいだけで、それ以外を否定するつもりはないと思っていただけるとありがたいです。
また、主に実生活でのことを書くので、ネット環境の場合とは違うつもりでいることもご理解ください。
連れションが苦手だ。
女で連れションっていうのも変かな。
もちろん学生の頃だってお友達と一緒にトイレに行っていたから、それがダメと言ってるのではなくて。
『一緒にトイレに行こ〜』ということから連想される付き合い方が苦手。
だから、なるべくそういう付き合いは避けるようにしている。
こういうと割と賛同を得られることが多い。
みんな『連れション』から想像される『べったりと群れる』ことに対して抵抗感があるのだろう。
ただ、多分わたしの『連れション苦手』はかなり群を抜いていると思う。
なぜかというと『連れション』や『群れる』というマイナスな言葉だけでなく、もっと良い印象を感じさせる言葉にも『連れション』を連想して付き合いを選んでいるからだ。
『連れション』の定義がすごく広いみたいなんだ。
だから、実生活の私は極端に女友達が少ない。
遥よこうさんの本を読んで。
私が、一見良い印象を与える関係さえも『連れション』を連想して付き合いを狭めていること。
それ故に、女友達が少ないこと。
このふたつに気づいたので、私にとっての友達とうことを書きたいと思う。
遥ようこさんの『女ともだち』を読んだ。
この人の本は、フェミニズムのフェの字もわからない私に『生きにくさ』の理由をわかりやすく教えてくれた。
『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』をはじめ、数冊読んだ。
『女ともだち』は納得できることとできないこととあったけど、『女に必要なのは女友達と、応援いてくれる男性』ということが書かれている。
その一部で。
木原光知子さんとの交流が書かれていた。
木原さんは遥ようこさんを見込んでいたようで、彼女はとてもお世話になったそうだ。
そこで目上の人、後輩、人との付き合い方や仕事への姿勢、生き方を学ぶ。
男ばかりの中で全力で地位を築いた木原さんは、さすがに迫力のある生き方を彼女に伝授するのだ。
でも、その中で『あれ?』と思う話があった。
『友達というのは、友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』と言っている。
Aと木原さんは友達で、Aは木原さんを介してBと知り合いになる。
ある日木原さんとBが仲違いして絶縁した。
しばらくして、BがAに会いに行ったら、私は木原さんの友達だからあなたとは付き合えないと門前払いしたそうだ。
木原さんはそれがとても嬉しかったそうなのだ。
木原さんたちの付き合いの深さや絶縁の理由がわからないので、恐らく、とても重大なことだったと想像するので、私が想像したこととは次元が違うと思うけど。
この『友達の味方は自分の味方、友達の敵は自分の敵と思えるかどうかで、決まる』という言葉に、私は違和感を覚えた。
『友達の味方は、自分の味方』という一見響きの良い言葉に『連れション』を連想してしまったのだ。
木原さんの言葉からは離れているとは思うけど、何度も私は『味方意識』がおかしな方向に転がることを体験している。
そのたびに、『良い響きの言葉』に潜む怖さを体感する。
高校を卒業して最初に就職したところは女ばかりの職場だった。
高卒の女ばかりが集まるので、まあ、それはそれは中学生時代の理不尽な上下関係がそのまま残ったようなところだった。
新入社員は、研那智期間が終わったら別の店舗に移動が決まってる移動組とそのまま残る残留組とに、それぞれ4人ずつ分かれていた。
移動組だった私は化粧っけのない子供っぽい新入社員だったので、全然先輩たちに目をつけられることもなく、むしろ可愛がられたほうだったけど。
ちょっと派手な子たちは『生意気』と言われ、子供のいじめのような仕打ちをされていた。
特に、残留組の『ジョー』(今日は、若草物語で^^;)は、化粧も上手だし、如才ない立ち回りがかえって鼻につくようで何かと風当たりが強かった。
確かに、ひと言多い感じや先輩さえ持っていないようなブランド物を持っていたりして、もうちょっと気を付けた方がいいのにな〜(特に女の園では)と、人ごとながらヒヤヒヤしていた。
ある日、先輩大勢と私の同僚移動組の『ベス』が休憩室にいて、ジョーの話になって盛り上がっていた。
私もその部屋にいたのだけど、その輪には入らずに一人でいた。
ベスは、新入社員だけでいるとき、知らないブランド品や遊びのスポットの話を自慢げにして如何にジョーが生意気な態度でいるか、先輩たちが盛り上がるのをいいことに、あれこれと話していた。
先輩たちはそれを聞いて、今度どんな仕打ちをジョーにするかで、また盛り上がっていた。
休憩時間が終わって、ベスと2人きりになった私は、こっそりとベスに話した。
私たちは3ヶ月すればここからいなくなるけど、ジョーはずっといるわけで今後のことを考えたら、あまり先輩たちの前でジョーのことを悪く言わないほうがいいのではないかな。
悪いところがあるなら、直接ジョーに言って直すなり考えるなりしてもらえばいい。
そうじゃないただのうわさ話なら、軽はずみに先輩たちに言わないほうがいいんじゃない?
『ふ〜ん』とその場では、ベスはそれ以上何も言わなかった。
その日の帰り道。
同じ移動組の同僚『メグ』と『エイミー』がすごい剣幕で私を呼び止めた。
「ねえ、りん子、あんたはどっちの味方なの?!」って。
どうやら、ベスはメグとエイミーに訴えたらしいのだ。
「りん子は、ジョーの味方をした」と。
味方?
びっくりした。
敵か味方かという気持ちで、ベスに話したつもりはない。
先輩だけで言うのはしかたないとしても、ジョーのためにも、そしてベス自身のためにも加わるべきじゃない。
そこに敵も味方もない。
それを説明してもどうもその価値観は通用しないみたいで、その場では私が『裏切り者』になっていた。
1対多数は卑怯だということが伝えられないもどかしい思いをした。
遥ようこさんのお話とこれが一緒だとは思わないけど。
木原さんの言葉を読んで、この新入社員時代の出来事を思い出してしまった。
そうか、敵か味方かという概念で友情を計るなら、私は友達が少ないのは当然なんだ。
だって、私は『味方だから』という感覚が好きじゃないのだもの。
なぜかというと、味方を作るということは、敵もできるということだよね。
そして、その味方と敵のパワーバランスが崩れると、『味方』はあっという間に『壁』になってしまう。
ブログ3周年の時に、村上春樹さんの『常に卵の側に』というスピーチのことを書いた。(『 hotに3周年御礼』)
どんなに間違っていても、壁(多数)に潰される卵(個)がいるなら常に卵の側にいるということ。
この感性が好きだ。
微力でも、そうしていたいと思ってる。
正しいとされていることでも、善意から発生したことでも、それが多数になれば脅威になるのだ。
『味方』のような響きの良い言葉が、瞬く間に壁の脅威になるのを私は何度も見ている。
学校でも職場でも、子供の親の関係でも。
例えば。
給食が食べられなくて、こっそり捨てようとしている子がいたとして、それを見つけた子が『悪いことしてる』と指摘したとする。
それを聞いた友達やクラスメイトは、捨てようとした子を一斉に非難するようなこと。
中には『謝れ』なんて言い出す子もいたりして。
もっと小さなコミュニティーでも、あるよね。
子供の親が集まって、ふと『○○君乱暴だよね』という話題になると、そこから○○君やその親を目の敵にするようなバランスが生まれる。
翌日からの公園の空気が少し変わったりする。
給食を捨てた子も乱暴する子も、悪いかもしれない。
でも、悪いところがあれば個別に指摘すればいいだけのこと、それを集団で非難することは次元が違うと思うのだ。
私はこういう時、巨大な壁が卵を押し潰そうとする感覚を覚える。
『味方』をはじめとする響きの良い言葉でできたコミュニティーが、何かをきっかけに『壁』に変わっていく可能性を孕んでいるなら、そこに身を置きたくないと思う。
もちろん、『壁』にならない良識を持った『味方』関係を作っている方もいるでしょう。
また、ときには『壁』になったとしても、それと同じくらい助け合ったりして頼りになる『仲間』もいるはずで。
それを否定しているのではないのですよ。
いちおう知り合いはたくさんいる。
困ったときに助け合うお付き合いもある。
元の職場や学校関係のコミュニティーだってある。
こういうのを友達というなら、それなりにいるけど。
やはり味方という感覚はないな。
だから『あなたの味方は私の味方』と思えることが友達だと言われれば、誰も友達じゃない。
誰の味方にもならないし、誰の味方にもなる、そういう感覚。
卵になっているから必然的に味方になるということはあっても、はじめから味方かどうかは付き合いの基準にならないのだ。
私は、巨大な壁を食い止める力もないし、壁になる神経もない。
大概、卵と一緒に傷つくか、卵まで壁と迎合して、私だけ潰れるかだ。
ということで、私は『壁』になるのも、誰かを卵にするのもイヤなので、それを避けるために一見良い印象を与える言葉にも怖さを察知してしまうらしい。
だから、『友達の味方は自分の味方』という基準が友達だということに違和感を覚えたのですね。
で、矛盾してるけど、そんな私にも実生活で数少ない『味方』の友達はいる。
味方かどうかで選んでいるのではなくて、いざとなったら絶対に味方しようと思える友達だ。
なぜ、その人たちにはそう思えるかというと。
彼女たちも、また『味方』という概念で友情を育まない人たちだから。
そういう人たちは基本的に『連れション』意識がすごく低いから、グループにはならず個で付き合う人たち。『壁』になる可能性が低い人たちなんだ。
でもって、『味方ね』という付き合いをしない人というのは、割と素っ気ないのだ。
だって、連れションしないのだもの、ひとりでトイレ行っちゃう^^;
近くに住んでいる人とか、比較的交流はあるけど。
ちょっと離れた所に住んでる人なんて、年に1、2回メールをするくらい。
近況なんて、知らない。
ただ、とても大事な局面にはまず連絡をくれるから、それでいいのだ。
(だからね、1年振りに連絡が来て『離婚しようと思ってる』なんて言われる)
多分、木原さんもこれくらいの深さの話をしていたと思うのだけど、どうも私の周りで起こる『味方意識』はもう少し軽いように感じられるから、違和感なんだよね。
『味方』になると公言するのって、本当はすごい責任とパワーがいるはずで。
そう簡単に表に出せるものではないともう思うのだ。
私は数少ない友達のために、それを使いたい。
自分が壁にならないために『連れション』というマイナスイメージだけじゃない、『味方』などなどの響きの良い言葉も判断基準にして選んでいるんだな。
そんなふうに壁になる危険性を排除して、壁にならない個と友情を育むという方法でいる。
でも、こういうスタンスはあまり好かれない^^;
だって、人って『あなたの味方』と言ってくれる人たちのほうが、嬉しいものね。
だから少ないことに納得したんだよね。
良いか悪いか別にして、改めて私の友達付き合いを認識したのでした。
私が、ここで『M女さんの味方だ』とか言えるのは、比較的『壁』と『卵』がわかりやすいからなんんじゃないかな。
だから、ここのほうがお友達多い?(笑)
多分、こういうことを言う私とわかってて許容してくれていると(恐る恐る)思っているから^^
私が仲良くしたいと思う人や面白いと思うことに対して、できるだけ素直にしていられるのだ。
だから、実生活の付き合い方より、もしかしたら伸び伸びとしているかもしれないです。
だって、実生活で『常に卵の側に!!』なんて声高に言っていたら変な人って思われちゃう。
ここでは、すでに『変態』だから、いいのだ^^
なんて、こんな話したら、ここでもお友達減っちゃうかもしれないね^^;
『壁』になりたくなくて。
誰の味方でもないし、誰の味方でもある。
これが私の付き合い方。
そして、それでいいと思っている。
だから、私は連れションがキライだ。
成績表
りん子的独り言(エラそう)
わたしは勉強ができない(山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』好きです^^)
中学の数学のテストで3点を取ってしまったこともある。
それも、答えは間違ってるけど途中まで合ってるからとお情けの3点^^;
しかも、運動神経もよくない。
かけっこはいつも、ビリ。
逆上がりも二重飛びもできない。
歌を歌うのは好きだけど、音符は読めないし、特別うまいわけでもない。
唯一、得意と言えたのは絵を描くことだったけど、工作が下手だったから基本中くらい。
成績表はいつも真ん中。
ときどきちょい下になっちゃったり^^;
大人になってからは、ダメな恋愛を繰り返すは、離婚はするは、家族や友だちに心配をかけて、ごめんって思ってた。(『怒らない私』などなど)
いまは『アンテナ』のせいだって思えるようになっているけど、棘を感じて心が痛い自分に『なぜこんなに弱いんだろ』と自責して。
それを知ってる数少ない友人からは『もう少ししっかりしたら?』とため息をつかれる。
なんとなく、人騒がせな人間だった。
だから、ごめんって。
こんなとき、こんなふうに思っていた。
『優しさの成績表』があればいいのに、って。
学校のお勉強は数字で表せる。
かけっこだって、目に見えてわかる。
心配かけたり迷惑かけたり、そんなことも迷惑かけている人がいるから事実として残る。
だけど、優しさって、数字にならないし計れるものじゃないから、ひっそりと目立たないんだ。
だから『優しさの成績表』。
幼なじみの子は、私よりかけっこ早いし、器用だった。
運動会のリレーに選ばれ、家庭科の課題もささっとこなしちゃう。
りん子ちゃんはトロいって、いつも言われていた。
だけど、私は知っていた。
ゴミ収集車の横を通り抜けるとき、作業員のおじさんがいるすぐ横でわざと『くさーい』というその子の無神経さを。
人は目に見えるもので、どうしてこうも優劣をつけたがるんだろって思った。
それなら、わかりにくい優しさにも成績表があればいいのに。
誰もわかってくれないなんて愚痴をいうつもりもないけれど、わかりやすく成績表があればいいのに。
かけっこの順番を決めるみたいに。
そしたら、トロいって言われるばかりじゃなかったかもしれない。
だれか点数つけてくれないかな。
私、人の陰口言わないよ。
みんなが言っていても、言わない。
卵が押し潰されそうになったら、できるだけ側にいる。
言葉を選び、だれも傷つかないでいてほしいと努めている。
だれもそんなことに気づいていないだろうけど、私なりの優しさ。
お勉強ができないことは、褒められたことじゃないけど^^;
その目立たないことに点数をつけて私なりの優しさを評価してくれる成績表があればいいのに。
(私やっぱり正当な評価を望んでいるんだね。『あなたに合う鍵』)
そんなふうに思っていた、ずっと。
数年前のこと。
仕事先の無神経な言葉をスルーできず、泣く私。
那智さん、私、なんでこんなことで傷ついてしまうのでしょう。
なんでこんなに弱いんでしょう。
りん子は弱いんじゃない、優しいだけだ。
ある日、那智さんがくれた成績表。
(『子守唄』)
それはいまでも私のお守り。
優しさの成績表。
きっとあるよね、点数はつけられないしひっそりとしているけど。
誰かと比べるんじゃなくて、はなまるつけてもらえるような。
いまの私はあると信じている。
わたしは勉強ができない(山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』好きです^^)
中学の数学のテストで3点を取ってしまったこともある。
それも、答えは間違ってるけど途中まで合ってるからとお情けの3点^^;
しかも、運動神経もよくない。
かけっこはいつも、ビリ。
逆上がりも二重飛びもできない。
歌を歌うのは好きだけど、音符は読めないし、特別うまいわけでもない。
唯一、得意と言えたのは絵を描くことだったけど、工作が下手だったから基本中くらい。
成績表はいつも真ん中。
ときどきちょい下になっちゃったり^^;
大人になってからは、ダメな恋愛を繰り返すは、離婚はするは、家族や友だちに心配をかけて、ごめんって思ってた。(『怒らない私』などなど)
いまは『アンテナ』のせいだって思えるようになっているけど、棘を感じて心が痛い自分に『なぜこんなに弱いんだろ』と自責して。
それを知ってる数少ない友人からは『もう少ししっかりしたら?』とため息をつかれる。
なんとなく、人騒がせな人間だった。
だから、ごめんって。
こんなとき、こんなふうに思っていた。
『優しさの成績表』があればいいのに、って。
学校のお勉強は数字で表せる。
かけっこだって、目に見えてわかる。
心配かけたり迷惑かけたり、そんなことも迷惑かけている人がいるから事実として残る。
だけど、優しさって、数字にならないし計れるものじゃないから、ひっそりと目立たないんだ。
だから『優しさの成績表』。
幼なじみの子は、私よりかけっこ早いし、器用だった。
運動会のリレーに選ばれ、家庭科の課題もささっとこなしちゃう。
りん子ちゃんはトロいって、いつも言われていた。
だけど、私は知っていた。
ゴミ収集車の横を通り抜けるとき、作業員のおじさんがいるすぐ横でわざと『くさーい』というその子の無神経さを。
人は目に見えるもので、どうしてこうも優劣をつけたがるんだろって思った。
それなら、わかりにくい優しさにも成績表があればいいのに。
誰もわかってくれないなんて愚痴をいうつもりもないけれど、わかりやすく成績表があればいいのに。
かけっこの順番を決めるみたいに。
そしたら、トロいって言われるばかりじゃなかったかもしれない。
だれか点数つけてくれないかな。
私、人の陰口言わないよ。
みんなが言っていても、言わない。
卵が押し潰されそうになったら、できるだけ側にいる。
言葉を選び、だれも傷つかないでいてほしいと努めている。
だれもそんなことに気づいていないだろうけど、私なりの優しさ。
お勉強ができないことは、褒められたことじゃないけど^^;
その目立たないことに点数をつけて私なりの優しさを評価してくれる成績表があればいいのに。
(私やっぱり正当な評価を望んでいるんだね。『あなたに合う鍵』)
そんなふうに思っていた、ずっと。
数年前のこと。
仕事先の無神経な言葉をスルーできず、泣く私。
那智さん、私、なんでこんなことで傷ついてしまうのでしょう。
なんでこんなに弱いんでしょう。
りん子は弱いんじゃない、優しいだけだ。
ある日、那智さんがくれた成績表。
(『子守唄』)
それはいまでも私のお守り。
優しさの成績表。
きっとあるよね、点数はつけられないしひっそりとしているけど。
誰かと比べるんじゃなくて、はなまるつけてもらえるような。
いまの私はあると信じている。