鬼畜の所業
りん子的独り言(生意気)
昼間の公園でリードをつけてダッシュさせられる。
これって、かなりわたし側としては恥ずかしくて大変なことだと思う。
なかなかこれを『楽しい』と思う人もいないだろうし、快感になる人もいないだろう。
大変で快感にもならず、とてもとても恥ずかしいこと。
でも、あのエントリーを読んで誰も『鬼畜の所業』だとはいわない。
それは鞭もスカトロもどれもだけど。
いや、自分ならぜったい無理だけど、りん子さん、喜んでるものね〜^^;
ということだからだよね。
そうなると、鞭でお尻が痣だらけになっても、乳首に針を刺しても、うんこを体に塗られても、わたし側が喜べば『鬼畜』にはならないのだ。
じゃあ、冷徹な非情なサディストの鬼畜の所業は、その行為の酷さではなく、こちら側がどれほど苦痛を感じているかで計られるものなのだろうか。
たとえば、ペラペラのスリッパでお尻を叩いて泣かせたら鬼畜で、一本鞭で体中痣だらけにしても喜んでいれば鬼畜じゃないということになる。
ときどき見かける『鬼畜発言』は、そういうところで判断しているのかな。
ふむふむ。
と、納得しかけて(笑)
ここで、SM行為の矛盾にぶち当たるのだ。
SMは『酷いことをしたい』加虐嗜好と『酷いことをされたいM』被虐嗜好の組み合わせなのだから、Sがどんなに酷いことをしても、それはMにとっては嗜好を満たしていることになる。
もちろん犯罪にならない常識の範囲内の酷いことでなければならないし、こちらの許容範囲は広がっていくものだから、なんでも『苦痛が即快感』というものではないけれど、それでもMにとっては肉体的精神的に酷いことは最終的には望むところだ。
だから、こちら側の受け取り方で鬼畜かどうかを計るとしたら、基本的にどれも鬼畜にはならないよね。
仮に被虐嗜好はなくて、でも『ご主人様に喜んでいただきたい』などのSMとは違う主従や奴隷嗜好の女性で、痛いこと自体では快感を感じられない場合だったとしても、自らそこに出向き、関係を継続させているのだから、そこには何かしらの快感は存在しているはずなんだ。
脅されたりして強制的に連れて来られないかぎり、行為自体は苦痛でも、それによりやっぱり最終的には受ける側の喜びがあるわけだ。
わたしだって、鞭の一発目から快感になるわけではないし、リードでダッシュだけピックアップしたら『イヤだ!!』もの(笑)
というSMや奴隷嗜好への矛盾はいっぱい書いてきた。
ということは、その関係が継続している限りこちらは喜んでいる、だから、こちらが嫌がっていたら鬼畜だとするならばどれも『鬼畜の所業』にはならないのではないのだ。
じゃあ、何が鬼畜なんだろう?
ひとつ当てはまるとしたら。
やっている側(Sやご主人様)がどんな気持ちで行っているかが判断基準にあるのではないかな。
那智さんはわたしに痛いことをするとき、排泄関係をするとき、お店で四つん這いにするとき、ビンタも針も顔を踏むのも、どのときもわたしを酷いことをして傷つけてやろうとか悲しませてやろうとは思っていない。
一般的には酷いとされる行為で可愛がろうと思っている。
恋人同士、キスをするのと変わらないことだ。
他のSやご主人様がどんな気持ちで酷いことをしているのか知らないけど、違いがあるとしたらそこなんじゃないかな。
わたし側の女性を可愛がろうと思っていないこと。
もっというと傷つけたいとか苦しめたいとか思っていること。
さらにいうと、その女性の感情に興味がない鬼畜さんもいるかもしれないよね。
S側が、M側に対してどんな気持ちで酷いことをしているかで『鬼畜』かどうかが分かれるのかなと思う。
まあ、それでも、そこにいる時点でこちら側は最終的には快感を得ていることになるのだから、『酷いことしてやろう』という気持ちは鬼畜さんの独り相撲になっちゃうんだけどね。
<関連エントリー>
『奴隷願望の矛盾』
『アラシのりん子』
『那智さんのSM』
『奴隷の定義』
「鬼畜の所業」感想です。二人称では鬼畜はないですよね~他者から見たときにだけ、「鬼畜」が存在するのかもしれません。でも、私の行っている行為を、誰も「鬼畜の所業」とは思ってくれないでしょうけれど。(笑)
昼間の公園でリードをつけてダッシュさせられる。
これって、かなりわたし側としては恥ずかしくて大変なことだと思う。
なかなかこれを『楽しい』と思う人もいないだろうし、快感になる人もいないだろう。
大変で快感にもならず、とてもとても恥ずかしいこと。
でも、あのエントリーを読んで誰も『鬼畜の所業』だとはいわない。
それは鞭もスカトロもどれもだけど。
いや、自分ならぜったい無理だけど、りん子さん、喜んでるものね〜^^;
ということだからだよね。
そうなると、鞭でお尻が痣だらけになっても、乳首に針を刺しても、うんこを体に塗られても、わたし側が喜べば『鬼畜』にはならないのだ。
じゃあ、冷徹な非情なサディストの鬼畜の所業は、その行為の酷さではなく、こちら側がどれほど苦痛を感じているかで計られるものなのだろうか。
たとえば、ペラペラのスリッパでお尻を叩いて泣かせたら鬼畜で、一本鞭で体中痣だらけにしても喜んでいれば鬼畜じゃないということになる。
ときどき見かける『鬼畜発言』は、そういうところで判断しているのかな。
ふむふむ。
と、納得しかけて(笑)
ここで、SM行為の矛盾にぶち当たるのだ。
SMは『酷いことをしたい』加虐嗜好と『酷いことをされたいM』被虐嗜好の組み合わせなのだから、Sがどんなに酷いことをしても、それはMにとっては嗜好を満たしていることになる。
もちろん犯罪にならない常識の範囲内の酷いことでなければならないし、こちらの許容範囲は広がっていくものだから、なんでも『苦痛が即快感』というものではないけれど、それでもMにとっては肉体的精神的に酷いことは最終的には望むところだ。
だから、こちら側の受け取り方で鬼畜かどうかを計るとしたら、基本的にどれも鬼畜にはならないよね。
仮に被虐嗜好はなくて、でも『ご主人様に喜んでいただきたい』などのSMとは違う主従や奴隷嗜好の女性で、痛いこと自体では快感を感じられない場合だったとしても、自らそこに出向き、関係を継続させているのだから、そこには何かしらの快感は存在しているはずなんだ。
脅されたりして強制的に連れて来られないかぎり、行為自体は苦痛でも、それによりやっぱり最終的には受ける側の喜びがあるわけだ。
わたしだって、鞭の一発目から快感になるわけではないし、リードでダッシュだけピックアップしたら『イヤだ!!』もの(笑)
というSMや奴隷嗜好への矛盾はいっぱい書いてきた。
ということは、その関係が継続している限りこちらは喜んでいる、だから、こちらが嫌がっていたら鬼畜だとするならばどれも『鬼畜の所業』にはならないのではないのだ。
じゃあ、何が鬼畜なんだろう?
ひとつ当てはまるとしたら。
やっている側(Sやご主人様)がどんな気持ちで行っているかが判断基準にあるのではないかな。
那智さんはわたしに痛いことをするとき、排泄関係をするとき、お店で四つん這いにするとき、ビンタも針も顔を踏むのも、どのときもわたしを酷いことをして傷つけてやろうとか悲しませてやろうとは思っていない。
一般的には酷いとされる行為で可愛がろうと思っている。
恋人同士、キスをするのと変わらないことだ。
他のSやご主人様がどんな気持ちで酷いことをしているのか知らないけど、違いがあるとしたらそこなんじゃないかな。
わたし側の女性を可愛がろうと思っていないこと。
もっというと傷つけたいとか苦しめたいとか思っていること。
さらにいうと、その女性の感情に興味がない鬼畜さんもいるかもしれないよね。
S側が、M側に対してどんな気持ちで酷いことをしているかで『鬼畜』かどうかが分かれるのかなと思う。
まあ、それでも、そこにいる時点でこちら側は最終的には快感を得ていることになるのだから、『酷いことしてやろう』という気持ちは鬼畜さんの独り相撲になっちゃうんだけどね。
<関連エントリー>
『奴隷願望の矛盾』
『アラシのりん子』
『那智さんのSM』
『奴隷の定義』
「鬼畜の所業」感想です。二人称では鬼畜はないですよね~他者から見たときにだけ、「鬼畜」が存在するのかもしれません。でも、私の行っている行為を、誰も「鬼畜の所業」とは思ってくれないでしょうけれど。(笑)
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