諦念1
非日常的な日常
お尻への1発は、それほど強くはなかった。
続けて同じ力で数発。
徐々に高めていくこのパターンだと快感に繋がりやすいから、ちょっと期待値が上がる。
やっぱり痛いだけより快感になったほうがいいもの。
安堵したのもつかの間。
鞭は太もも、ふくらはぎ、背中と場所を変えた。
力は加減しているけれど、それらは肉が薄いし慣れていない分恐怖が増す。
最近の那智さんは『打つ範囲拡大』をじりじりと狙っているのではないか。
打つ場所も力も増えている。
しょっぱなからのいろいろな場所に一気に安堵は吹き飛んで、不安と恐怖に襲われる。
今日はどうするんだろう。
不安と恐怖が先に立ち、ついつい違う展開にしてもらおうと画策する、わたし。
ねえ、那智さん、先にお風呂しませんか
ねえ、那智さん、今日はもう入れて
ここで「はい、そうしましょう」と言われたらと思うけど、もしかしたら、わたしは『それでもする』を望んでいるのかとさえ疑いたくなるような甘えだ。
ないね〜(笑)
笑いながらかまえる様子はごく普通のたたずまい。
先日の『やる気』とは違う、どちらかというと、この普通であることのほうが那智さんらしいかもしれない。
提案しては却下されをくり返し。
その間も、ずっと鞭は続く。
お尻に強烈な数発を受け、たまらず起き上がりインターバルをせがむと、今度は浮いた腰や表に出た太ももの前に鞭を振るう。
たまらずうつぶせになれば、また背面を打つ。
痛いよ、那智さん。
痛いって言ってるのに!!
言っても聞いてくれない回路。
お願い、那智さん、怖いです
必死に訴える。
それでも、わたしの体勢に合わせて打てる場所を打ってくる。
痛いし、どこに飛ぶかわからないから怖い。
上半身を起こした太ももを狙っている。
今日は何度かそこを打っている。
様子見はたぶんおしまい。
いまかまえているのは、思い切りの空気だ。
怖い。
怖い。
でも、動けばもっと痛いところに当たるかもしれない。
怯え、観念する。
バシン!!
思い切り太ももを打った。
全身に電気が走るような痛みに震える。
くうと苦痛に打震える。
いいリアクションだね〜(笑)
涙がはらはら零れ出す。
那智さん、怖いって言っているのにやめてくれない。
悲しくて、でも、なんだかリアクションを気に入ってくれたことが甘やかな気持ちも誘って静かに泣く。
このときのわたしは恐怖と観念に支配されていた。
なにをどうしても打たれる。
うつぶせでも仰向けでも、起きても。
お尻も胸も背中も腰も太もももふくらはぎも。
鞭を短く持ちベッドに上がる。
目でわかる。
足を開いての支持だ。
どこ?
おまんこ?
それとも太もも?
恐怖と観念に支配されたわたしは怯えながらも支持通り足を開き震える。
どこに飛ぶか、いつまで続くかわからない恐怖と、今日は那智さんの意思が優先されることへの観念。
連続して打たれた。
両方の内腿に縞模様を作る。
上半身を起こした正面から胸や腰に巻きつくように打つ。
もう怖くてしかたがない。
那智さんの動きに連動するように、体が恐怖でビクッとなる。
怖くて悲しくてしかたがない。
ボロボロ溢れる涙。
ビクつくわたしを見て
あ〜、いいこ、いいこ
怖くないよ〜
とこれ以上ないほどの慈しみ。
ああ、なんて甘やかだ。
快感とは違う反応に
悲しくてないてるの?
いいえ
回らない頭で言葉を絞り出す。
自己憐憫です
そうだ。
恐怖と観念と、自己憐憫。
那智さんの甘い言葉は恐怖と観念を自己憐憫の甘さに変えてくれる。
こんなわたしかわいそう。
恐怖に怯え、追いつめられ、観念する、その目一杯のわたしはかわいそう。
かわいそうで、すき。
歪んだ自己愛の快感は好きな男が叶えてくれる。
<関連エントリー>
やる気のとき
自信家
お尻への1発は、それほど強くはなかった。
続けて同じ力で数発。
徐々に高めていくこのパターンだと快感に繋がりやすいから、ちょっと期待値が上がる。
やっぱり痛いだけより快感になったほうがいいもの。
安堵したのもつかの間。
鞭は太もも、ふくらはぎ、背中と場所を変えた。
力は加減しているけれど、それらは肉が薄いし慣れていない分恐怖が増す。
最近の那智さんは『打つ範囲拡大』をじりじりと狙っているのではないか。
打つ場所も力も増えている。
しょっぱなからのいろいろな場所に一気に安堵は吹き飛んで、不安と恐怖に襲われる。
今日はどうするんだろう。
不安と恐怖が先に立ち、ついつい違う展開にしてもらおうと画策する、わたし。
ねえ、那智さん、先にお風呂しませんか
ねえ、那智さん、今日はもう入れて
ここで「はい、そうしましょう」と言われたらと思うけど、もしかしたら、わたしは『それでもする』を望んでいるのかとさえ疑いたくなるような甘えだ。
ないね〜(笑)
笑いながらかまえる様子はごく普通のたたずまい。
先日の『やる気』とは違う、どちらかというと、この普通であることのほうが那智さんらしいかもしれない。
提案しては却下されをくり返し。
その間も、ずっと鞭は続く。
お尻に強烈な数発を受け、たまらず起き上がりインターバルをせがむと、今度は浮いた腰や表に出た太ももの前に鞭を振るう。
たまらずうつぶせになれば、また背面を打つ。
痛いよ、那智さん。
痛いって言ってるのに!!
言っても聞いてくれない回路。
お願い、那智さん、怖いです
必死に訴える。
それでも、わたしの体勢に合わせて打てる場所を打ってくる。
痛いし、どこに飛ぶかわからないから怖い。
上半身を起こした太ももを狙っている。
今日は何度かそこを打っている。
様子見はたぶんおしまい。
いまかまえているのは、思い切りの空気だ。
怖い。
怖い。
でも、動けばもっと痛いところに当たるかもしれない。
怯え、観念する。
バシン!!
思い切り太ももを打った。
全身に電気が走るような痛みに震える。
くうと苦痛に打震える。
いいリアクションだね〜(笑)
涙がはらはら零れ出す。
那智さん、怖いって言っているのにやめてくれない。
悲しくて、でも、なんだかリアクションを気に入ってくれたことが甘やかな気持ちも誘って静かに泣く。
このときのわたしは恐怖と観念に支配されていた。
なにをどうしても打たれる。
うつぶせでも仰向けでも、起きても。
お尻も胸も背中も腰も太もももふくらはぎも。
鞭を短く持ちベッドに上がる。
目でわかる。
足を開いての支持だ。
どこ?
おまんこ?
それとも太もも?
恐怖と観念に支配されたわたしは怯えながらも支持通り足を開き震える。
どこに飛ぶか、いつまで続くかわからない恐怖と、今日は那智さんの意思が優先されることへの観念。
連続して打たれた。
両方の内腿に縞模様を作る。
上半身を起こした正面から胸や腰に巻きつくように打つ。
もう怖くてしかたがない。
那智さんの動きに連動するように、体が恐怖でビクッとなる。
怖くて悲しくてしかたがない。
ボロボロ溢れる涙。
ビクつくわたしを見て
あ〜、いいこ、いいこ
怖くないよ〜
とこれ以上ないほどの慈しみ。
ああ、なんて甘やかだ。
快感とは違う反応に
悲しくてないてるの?
いいえ
回らない頭で言葉を絞り出す。
自己憐憫です
そうだ。
恐怖と観念と、自己憐憫。
那智さんの甘い言葉は恐怖と観念を自己憐憫の甘さに変えてくれる。
こんなわたしかわいそう。
恐怖に怯え、追いつめられ、観念する、その目一杯のわたしはかわいそう。
かわいそうで、すき。
歪んだ自己愛の快感は好きな男が叶えてくれる。
<関連エントリー>
やる気のとき
自信家
諦念2(まとめ1)
非日常的な日常
この日は体の快感の反応はあまりなかったように記憶している。
濡れていたはずだから快感がなかったわけではないのだけど、わかりやすい快感の反応はなかったはずだ。
ただ、とにかく目一杯だった。
鞭に怯え、諦め、途方に暮れる。
それぞれの感情のコップがどれも全部満杯になり溢れ出しているような状態だった。
脳が混乱して、思考停止、手も足も出ない。
とにかく目一杯、必死だった。
だから、終わった後、ものすごく疲労していた。
ヘトヘト。
特別酷く打ったわけではないので、終わってから動けず飲みに行ってもいつもほど飲み食いできず(これ、わたしには重症 笑)、翌日まで疲労を引きずるわたしを那智さんは不思議そうに感じていたけど、脳の混乱は肉体にも影響するということだと思う。
ただ、唯一の頼みの綱は那智さんがしてくれていること。
そんな安心の土台の上に立った思考停止の混乱は、じつはかなり甘美だ。
とにかく、目一杯だった。
何も考えられないほど混乱していた。
痛いし、ヘトヘトだし、体の快感はないに等しいほどだった。
だけど、那智さんの腕の中で作り出される混乱は、日が経つと、また求めてしまうような中毒性のあるものだ。
日々をすごしながら、ふーっと、あのパニックを恋しく思うわたしがいる。
この日は体の快感の反応はあまりなかったように記憶している。
濡れていたはずだから快感がなかったわけではないのだけど、わかりやすい快感の反応はなかったはずだ。
ただ、とにかく目一杯だった。
鞭に怯え、諦め、途方に暮れる。
それぞれの感情のコップがどれも全部満杯になり溢れ出しているような状態だった。
脳が混乱して、思考停止、手も足も出ない。
とにかく目一杯、必死だった。
だから、終わった後、ものすごく疲労していた。
ヘトヘト。
特別酷く打ったわけではないので、終わってから動けず飲みに行ってもいつもほど飲み食いできず(これ、わたしには重症 笑)、翌日まで疲労を引きずるわたしを那智さんは不思議そうに感じていたけど、脳の混乱は肉体にも影響するということだと思う。
ただ、唯一の頼みの綱は那智さんがしてくれていること。
そんな安心の土台の上に立った思考停止の混乱は、じつはかなり甘美だ。
とにかく、目一杯だった。
何も考えられないほど混乱していた。
痛いし、ヘトヘトだし、体の快感はないに等しいほどだった。
だけど、那智さんの腕の中で作り出される混乱は、日が経つと、また求めてしまうような中毒性のあるものだ。
日々をすごしながら、ふーっと、あのパニックを恋しく思うわたしがいる。
諦念3(まとめ2)
非日常的な日常
それにしても、苦痛に震える仕草に「いいリアクション」と褒めたかと思えばビクビクと怖がる様子に慰めてくれたり、那智さんがなにがいいのだろう。
「いいリアクション」と褒めたのは、恐がりながらも受け入れて、痛みをくうと耐えている感じがよかったらしい。
そして、同じようにビクビクと怖がるのを慰めたのは、怖がらせようと思った場面ではなかったからだそうだ。
だから、単に怖がっているとか怯えているとかだったらなんでもいいというわけではないらしい。
怖がらせたいと思ったところでは怖がってもいいし、そうじゃないときは慰めてあげる。
いいリアクションのときは『怯えつつ受け入れる』ことを求め、その通りになり、慰めたときは、怖がらせず、ただいろいろな角度から打ち(いずれ快感になる)たかっただけなのかもしれない。
那智さんがなにを想定しているのか、わたしは都度知ることはない。
だから、自然に振る舞うほかないのだけど、想定通りになってもならなくても、あんなふうに表現してくれることはけっこううれしかったりする^^
鞭=厳しいとか耐えるとか、決まった答えがないのは那智さんらしい^^
続き物、これでおしまいです^^
「等式」感想です。可愛がり方の種類を増やそうとする時、したいことがある時色々気持ちは葛藤するけれど、少なくとも一回でレパートリーに入るか判断するのは難しい。
どんなことが起こるか想定しながらしている。だから、自分に自信を持って行うことができる。
それにしても、苦痛に震える仕草に「いいリアクション」と褒めたかと思えばビクビクと怖がる様子に慰めてくれたり、那智さんがなにがいいのだろう。
「いいリアクション」と褒めたのは、恐がりながらも受け入れて、痛みをくうと耐えている感じがよかったらしい。
そして、同じようにビクビクと怖がるのを慰めたのは、怖がらせようと思った場面ではなかったからだそうだ。
だから、単に怖がっているとか怯えているとかだったらなんでもいいというわけではないらしい。
怖がらせたいと思ったところでは怖がってもいいし、そうじゃないときは慰めてあげる。
いいリアクションのときは『怯えつつ受け入れる』ことを求め、その通りになり、慰めたときは、怖がらせず、ただいろいろな角度から打ち(いずれ快感になる)たかっただけなのかもしれない。
那智さんがなにを想定しているのか、わたしは都度知ることはない。
だから、自然に振る舞うほかないのだけど、想定通りになってもならなくても、あんなふうに表現してくれることはけっこううれしかったりする^^
鞭=厳しいとか耐えるとか、決まった答えがないのは那智さんらしい^^
続き物、これでおしまいです^^
「等式」感想です。可愛がり方の種類を増やそうとする時、したいことがある時色々気持ちは葛藤するけれど、少なくとも一回でレパートリーに入るか判断するのは難しい。
どんなことが起こるか想定しながらしている。だから、自分に自信を持って行うことができる。
ありのまま
りん子的独り言(エラそう)
映画のヒットもあり『ありのまま』という言葉を見聞きすることが多くなった。
もともとは『素の自分』とか『全部さらけ出す』とか、そんな言葉で語られていたものだから、SMや主従の世界でも時々目にする。
で、わたしはこの『ありのまま』に懐疑的だ。
それは『ありのままでわたしを受け止めて』も『ありのままであなたでいい』も、『ありのまま』本体と『ありのまま』容認の他者、の両方に対して。
『ありのまま』って、何?!
『ありのまま』って、何?って聞かれて答えられるような簡単なものではないのと思うのだ。
わたしは那智さんに出会う前は自分が父性を求めているなんて思ってもみなかった。
那智さんに出会い、本に出会い、内省作業を重ね長い時間かけて知っていったことだ。
また、最近のわたしは問題が起こると、感情をコントロールし俯瞰して問題解決に取り組むことができている(当社比ね^^)。
以前なら、ぶつかるとすぐ凹んで泣きついて問題解決を依存先に求めていたわたしが、自分で考えられるようになっているのも新しい自分である。
人は変わるのだ。
成長するし、知らなかった自分を発見するし、逆に劣化もする。
わたしはこの自分を知っていくことが人生の醍醐味だと思っているのだけど、良くも悪くもいまの自分は生涯いまの自分ではない。
10年前と3年前といまのわたしの『ありのまま』は違うのだ、もちろん5年先のわたしも。
それを知っていると『ありのまま』とおいそれと言えるものじゃない。
わたし自身わからないことを他人にわかってもらおうなんて甘い考えは持てない。
たくさんの人やものから影響を受け、内省作業を重ねれば重ね、自分を知れば知るほど。
せいぜい言えるとするなら『いまの時点のありのまま』だ。
だから、『ありのまま』に代表される言葉を目にすると、その人は本当に自分の『ありのまま』を知っているのだろうかと訝しく思ってしまうし、仮に知らないのであれば、自分が知らないことは他者だってわからないだろうと『ありのまま』を受け止めなければならない受け皿に同情してしまう。
(あなた自身がわからないことはご主人様もわからないよ〜ってね^^;)
と思いつつ。
『ありのまま』を容認するご主人様を見ると同じように疑う気持ちになる。
じゃあ、何かい?
鼻くそほじほじしてテレビを見ながらおならしちゃう『ありのまま』も受け入れるのかい?
『いつも良い子を演じていて本当は泣きたいの』程度の『ありのまま』はあなたの都合のいい範囲の『ありのまま』なんだよ〜って思っちゃう(笑)
とにかく人はそんな単純なものではない。
どちらの立場でも『ありのまま』はそう簡単に口にできるものではないと思ってしまうから懐疑的なのだ。
ところで、そうはいってもあの歌の中で好きなところもある。
歌の最後の部分の
これでいいの 自分を好きになって
これでいいの 自分を信じて
の『自分を好きになって』のところだ。
わたしは那智さんの前では可愛い子ぶっている(笑)
以前、友達と一緒にいるところで後から那智さんが合流することがあったのだけど、遠目に見たわたしの印象が那智さんが日頃見ているわたしちは少し違ったそうだ。
だって、那智さんと一緒のわたしはぶりっ子してるもん、そりゃあ、多少は違うでしょ。
と、わたしも公言してしまうほど、だ。
(ですから、いつもご一緒いただく友達にはぶりっ子を許容していただき感謝しています^^)
那智さんの前にいるわたしは『ありのまま』の自分ではないことは那智さんもわかっている。
(ついでにいうと、友達と一緒にいる自分も『ありのまま』だとは思っていないよ、わたし、自分のありのまま、わからないからね)
じゃあ、なぜ、わたしは那智さんといて幸せなのだろう。
わたしは那智さんと一緒にいるときの自分が好きなのだ。
「わたしの排泄物はピンク色のハート形です」と言えちゃうわたしが。
手首を反らし恥ずかしそうにうつむく仕草をするわたしが!!
聞いて聞いてと、ときどきエラそうに主張するわたしが!!!
好きなのだ。
好きな自分でいることは気持ちいい。
そして、好きな自分でいさせてもらえることが幸福なのだ。
好きな自分でいられること。
この気持ちよさは『ありのまま』より気持ちいいかもしれないよ^^
<関連エントリー>
自分を知ること
海の底
チャット閉鎖に寄せて
ぶりっ子なんだよ〜
徒然に『ぶりっ子』
モテ仕草
ハート型でピンク色♪
「等式」感想です。「自分のことは自身がわからなければ、他者はもっとわからない」これはどうかな?わたしとりん子との間で自分ではわからないことを教えあったりしていると思う。何かりん子の勘違いか、真意が書けていないのではあろうか?(笑)勿論、総論は大きく同意します。
映画のヒットもあり『ありのまま』という言葉を見聞きすることが多くなった。
もともとは『素の自分』とか『全部さらけ出す』とか、そんな言葉で語られていたものだから、SMや主従の世界でも時々目にする。
で、わたしはこの『ありのまま』に懐疑的だ。
それは『ありのままでわたしを受け止めて』も『ありのままであなたでいい』も、『ありのまま』本体と『ありのまま』容認の他者、の両方に対して。
『ありのまま』って、何?!
『ありのまま』って、何?って聞かれて答えられるような簡単なものではないのと思うのだ。
わたしは那智さんに出会う前は自分が父性を求めているなんて思ってもみなかった。
那智さんに出会い、本に出会い、内省作業を重ね長い時間かけて知っていったことだ。
また、最近のわたしは問題が起こると、感情をコントロールし俯瞰して問題解決に取り組むことができている(当社比ね^^)。
以前なら、ぶつかるとすぐ凹んで泣きついて問題解決を依存先に求めていたわたしが、自分で考えられるようになっているのも新しい自分である。
人は変わるのだ。
成長するし、知らなかった自分を発見するし、逆に劣化もする。
わたしはこの自分を知っていくことが人生の醍醐味だと思っているのだけど、良くも悪くもいまの自分は生涯いまの自分ではない。
10年前と3年前といまのわたしの『ありのまま』は違うのだ、もちろん5年先のわたしも。
それを知っていると『ありのまま』とおいそれと言えるものじゃない。
わたし自身わからないことを他人にわかってもらおうなんて甘い考えは持てない。
たくさんの人やものから影響を受け、内省作業を重ねれば重ね、自分を知れば知るほど。
せいぜい言えるとするなら『いまの時点のありのまま』だ。
だから、『ありのまま』に代表される言葉を目にすると、その人は本当に自分の『ありのまま』を知っているのだろうかと訝しく思ってしまうし、仮に知らないのであれば、自分が知らないことは他者だってわからないだろうと『ありのまま』を受け止めなければならない受け皿に同情してしまう。
(あなた自身がわからないことはご主人様もわからないよ〜ってね^^;)
と思いつつ。
『ありのまま』を容認するご主人様を見ると同じように疑う気持ちになる。
じゃあ、何かい?
鼻くそほじほじしてテレビを見ながらおならしちゃう『ありのまま』も受け入れるのかい?
『いつも良い子を演じていて本当は泣きたいの』程度の『ありのまま』はあなたの都合のいい範囲の『ありのまま』なんだよ〜って思っちゃう(笑)
とにかく人はそんな単純なものではない。
どちらの立場でも『ありのまま』はそう簡単に口にできるものではないと思ってしまうから懐疑的なのだ。
ところで、そうはいってもあの歌の中で好きなところもある。
歌の最後の部分の
これでいいの 自分を好きになって
これでいいの 自分を信じて
の『自分を好きになって』のところだ。
わたしは那智さんの前では可愛い子ぶっている(笑)
以前、友達と一緒にいるところで後から那智さんが合流することがあったのだけど、遠目に見たわたしの印象が那智さんが日頃見ているわたしちは少し違ったそうだ。
だって、那智さんと一緒のわたしはぶりっ子してるもん、そりゃあ、多少は違うでしょ。
と、わたしも公言してしまうほど、だ。
(ですから、いつもご一緒いただく友達にはぶりっ子を許容していただき感謝しています^^)
那智さんの前にいるわたしは『ありのまま』の自分ではないことは那智さんもわかっている。
(ついでにいうと、友達と一緒にいる自分も『ありのまま』だとは思っていないよ、わたし、自分のありのまま、わからないからね)
じゃあ、なぜ、わたしは那智さんといて幸せなのだろう。
わたしは那智さんと一緒にいるときの自分が好きなのだ。
「わたしの排泄物はピンク色のハート形です」と言えちゃうわたしが。
手首を反らし恥ずかしそうにうつむく仕草をするわたしが!!
聞いて聞いてと、ときどきエラそうに主張するわたしが!!!
好きなのだ。
好きな自分でいることは気持ちいい。
そして、好きな自分でいさせてもらえることが幸福なのだ。
好きな自分でいられること。
この気持ちよさは『ありのまま』より気持ちいいかもしれないよ^^
<関連エントリー>
自分を知ること
海の底
チャット閉鎖に寄せて
ぶりっ子なんだよ〜
徒然に『ぶりっ子』
モテ仕草
ハート型でピンク色♪
「等式」感想です。「自分のことは自身がわからなければ、他者はもっとわからない」これはどうかな?わたしとりん子との間で自分ではわからないことを教えあったりしていると思う。何かりん子の勘違いか、真意が書けていないのではあろうか?(笑)勿論、総論は大きく同意します。