那智さんの指
独特な幸福感
本を読んだ。
知らない作家さんだったからすこしハードル高かったけど、ためらいなく手に入れたのは『どうしても見てしまう』種類の話だったから。
いままでもそれについては書いてきた。
女郎のような立場に憧れているとか、虐待にうずくものがあるとか、針山に自分を投影するとか。
本来なら苦しい内容のものなのに、どうしても見てしまう。
まあ、針山や女郎の妄想なんていうのは、自分でもまぁ勝手にやっててと思うけど(笑)
特に自分の理性と良心が目を背けたくなってしまう『わたし』が見てしまうのは、性的虐待についてなのだ。
絶対的にあってはならないものだし、ニュースなど見て人並みに心を痛める。
街中で理不尽に怒鳴られている子どもなんて見たら、けっこう気になってしまうほうなので、もしかしたら人並み以上かもしれないと思うほどなのに。
それなのに児童買春や性的虐待の文章に触れると、憤りや恐怖や正義感の隙間に性的興奮に近いなんとも言えない感情がわいてしまうのだ。
今回の本は、その性的虐待を受けた著者が半生を振り返るものだった。
幼い頃の苦痛と、その後何十年も続く苦悩は本当にあってはならないものだと再確認するし、吐露する勇気に心の平穏を願わずにはいられない。
この気持ちは本当のものだ。
だけど、だけど、やっぱりわたしは幼い頃にその人が受けた性的虐待の描写から目が離せず、困惑する。
苦痛はもちろんだけど、父に好かれたいという歪んだ愛情のようなものが芽生えたり、実際に性的快感を覚えてしまったりする複雑な感情が描かれ(これは生き抜くための脳のカムフラージュともいえると思うけど)、その苦痛以外のものにも妙に惹かれてしまう自分もいるし。
著者が大人になってからの『父親くらい年の離れた人と楽しく楽しく暮らしたい(意訳)』という願望を持つことや、父を受け入れたいという歪んだ愛情ゆえに男性から迫られると言いなりになってしまう『娼婦性』に至っては、わずかに自分を重ね合わせてしまったり。
文中に『O孃の物語』の文字が出てきたときは息苦しささえ感じたほどだ。
『どうしても見てしまう』ものが自分の中にずっとある。
マゾなのか、変態なのか、淫乱なのか、わからないけど、とにかく見たくないのに目を逸らせないもの。
それをイヤでも感じてしまうと、わたしは自分が恐ろしくなる。
あの人が今日も来る。
やめてほしいくせに、よろこんでほしくて、自ら濡らしておく。
そんな描写から目が離せない自分が怖い。
ああ、那智さん。
那智さんを思う。
それは那智さんの指。
淫乱な女の子のわたしの暗闇のようなおまんこに触れて、慰めてくれるのは那智さんの指。
ああ、早く、那智さんに包んでもらいたい。
そんな恐ろしいものを抱えている淫乱なわたしをいいこいいこと撫でて真っ白くしてほしい。
暗闇から引っぱり上げて可愛がってほしい。
怖さより那智さんに可愛がってもらうほうが強いのだもの。
そんな気持ちを文字で伝えると
そうだね
と返してくれる。
見たくないのにどうしても見てしまうものを抱えていて、じゃあ、見なきゃいいじゃんと思うけど、見てしまって。
それを那智さんによしよししてもらえることで、わたしはもう怖くない。
わたしはマゾ的嗜好を持っているらしいけど、すべてを包括して『那智さんに可愛がってもらう』なのだと、思うのだ。
(で、また見てのくり返しなんだけど^^;)
補足。
岩月謙司さんの著書に『父親から適正な愛情をもらえなかった女はM傾向がある』と書かれていたし、この著者の例を見ても当てはまるように思うけど、わたしの中ではそれは『マゾ』とは違うと思っています。
(これはいつか書けるか!?)
おまけ
ふたつエントリーは間違いじゃありません^^
ひとつめ短いから。
で、今日デートだから(ここは正直にしました 那智さん 笑)
<関連エントリー>
徒然に「苦悩」
針山
マゾの根っこ
「等式」「那智さんの指」感想です。極端な例でごめんなさい❗アイドルを見てオナニーする男とどこが違うのだろう。引かれる物が違うだけで本質は同じような気がする。自分で考えると反社会的なほど、ネタとして刺激が強く憧れます。
本を読んだ。
知らない作家さんだったからすこしハードル高かったけど、ためらいなく手に入れたのは『どうしても見てしまう』種類の話だったから。
いままでもそれについては書いてきた。
女郎のような立場に憧れているとか、虐待にうずくものがあるとか、針山に自分を投影するとか。
本来なら苦しい内容のものなのに、どうしても見てしまう。
まあ、針山や女郎の妄想なんていうのは、自分でもまぁ勝手にやっててと思うけど(笑)
特に自分の理性と良心が目を背けたくなってしまう『わたし』が見てしまうのは、性的虐待についてなのだ。
絶対的にあってはならないものだし、ニュースなど見て人並みに心を痛める。
街中で理不尽に怒鳴られている子どもなんて見たら、けっこう気になってしまうほうなので、もしかしたら人並み以上かもしれないと思うほどなのに。
それなのに児童買春や性的虐待の文章に触れると、憤りや恐怖や正義感の隙間に性的興奮に近いなんとも言えない感情がわいてしまうのだ。
今回の本は、その性的虐待を受けた著者が半生を振り返るものだった。
幼い頃の苦痛と、その後何十年も続く苦悩は本当にあってはならないものだと再確認するし、吐露する勇気に心の平穏を願わずにはいられない。
この気持ちは本当のものだ。
だけど、だけど、やっぱりわたしは幼い頃にその人が受けた性的虐待の描写から目が離せず、困惑する。
苦痛はもちろんだけど、父に好かれたいという歪んだ愛情のようなものが芽生えたり、実際に性的快感を覚えてしまったりする複雑な感情が描かれ(これは生き抜くための脳のカムフラージュともいえると思うけど)、その苦痛以外のものにも妙に惹かれてしまう自分もいるし。
著者が大人になってからの『父親くらい年の離れた人と楽しく楽しく暮らしたい(意訳)』という願望を持つことや、父を受け入れたいという歪んだ愛情ゆえに男性から迫られると言いなりになってしまう『娼婦性』に至っては、わずかに自分を重ね合わせてしまったり。
文中に『O孃の物語』の文字が出てきたときは息苦しささえ感じたほどだ。
『どうしても見てしまう』ものが自分の中にずっとある。
マゾなのか、変態なのか、淫乱なのか、わからないけど、とにかく見たくないのに目を逸らせないもの。
それをイヤでも感じてしまうと、わたしは自分が恐ろしくなる。
あの人が今日も来る。
やめてほしいくせに、よろこんでほしくて、自ら濡らしておく。
そんな描写から目が離せない自分が怖い。
ああ、那智さん。
那智さんを思う。
それは那智さんの指。
淫乱な女の子のわたしの暗闇のようなおまんこに触れて、慰めてくれるのは那智さんの指。
ああ、早く、那智さんに包んでもらいたい。
そんな恐ろしいものを抱えている淫乱なわたしをいいこいいこと撫でて真っ白くしてほしい。
暗闇から引っぱり上げて可愛がってほしい。
怖さより那智さんに可愛がってもらうほうが強いのだもの。
そんな気持ちを文字で伝えると
そうだね
と返してくれる。
見たくないのにどうしても見てしまうものを抱えていて、じゃあ、見なきゃいいじゃんと思うけど、見てしまって。
それを那智さんによしよししてもらえることで、わたしはもう怖くない。
わたしはマゾ的嗜好を持っているらしいけど、すべてを包括して『那智さんに可愛がってもらう』なのだと、思うのだ。
(で、また見てのくり返しなんだけど^^;)
補足。
岩月謙司さんの著書に『父親から適正な愛情をもらえなかった女はM傾向がある』と書かれていたし、この著者の例を見ても当てはまるように思うけど、わたしの中ではそれは『マゾ』とは違うと思っています。
(これはいつか書けるか!?)
おまけ
ふたつエントリーは間違いじゃありません^^
ひとつめ短いから。
で、今日デートだから(ここは正直にしました 那智さん 笑)
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マゾの根っこ
「等式」「那智さんの指」感想です。極端な例でごめんなさい❗アイドルを見てオナニーする男とどこが違うのだろう。引かれる物が違うだけで本質は同じような気がする。自分で考えると反社会的なほど、ネタとして刺激が強く憧れます。
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