精神の露出3『SM行為の快感』
非日常的な日常
SM行為の快感のひとつは『欲求が拒否を上回る』だと思っている。
恥ずかしいことはただただ恥ずかしい、だけど、それより気持ちいいが上回る。
痛くてしかたないのだけど、いやだよりももっと痛くしてほしいが勝る。
だから、最初っから『ほらほら恥ずかしいのがいいんだろ?』みたいに言われても『恥ずかしいのは恥ずかしいわい!!』と抵抗したくなります(笑)
(『羞恥系の葛藤』)
『必要なのは慣らすこと?』というエントリーで那智さんも言っていたけど、拒否は拒否のままでも、それを凌駕するほどの欲求が生まれれば、拒否は存在しないことになっちゃうんだよね。
だから、マイナスとは別にプラスになる要素を生む、そのプラス(欲求)がマイナス(拒否)を上回ることがSM行為の快感。
恥ずかしいことが気持ちいいとか、痛いことが気持ちいいという『拒否(マイナス)が快感(プラス)になる』状態もあるんだけど、ちょっと細分化してみると、それぞれあって、それぞれ快感だったりする。
同じ行為、たとえば、鞭だとしても『欲求が拒否を上回る』こともあるし『拒否が快感になる』こともあるし、もっと違う快感もあので、必ず『どれ』というものではないのだけど。
わんこは、まさしくこれ、『欲求が拒否を上回る』なんじゃないかと思う。
多少は慣れもあるけれど、わんこは何度やっても恥ずかしいし申し訳ないし怖い、それは最初の頃とほとんど変わらない。
だけど、あの従属感や異質な姿に自己愛を感じる快感のたまらない大きさの『記憶』が勝って『わんこにしてほしい』という気持ちが生まれる。
わんこの場合は、その最中はかなり夢中で快感を得ているなんて感じる余裕もなくて、唯一首筋に感じる那智さんの指やおでこを押当てる太ももの感触だけが実感している快感なんだけど、後で確認するとものすごく濡れているし、日常、あの嵐のような無我夢中の幸福を思い出して、それが『記憶』となって頭から離れなくなるのだ。
その渦中の実感できる快感と後日わき上がる快感の『記憶』の力で、拒否の気持ちはなくなることはないのだけど、それ以上に『わんこにしてほしい』という気持ちが勝る。
その上回ることが、より快感。
理屈の上での話だけど、『羞恥心50と快感150』と『羞恥心100と快感200』
だとしたらふたつの差は同じ100だけど、快感の数値だけでいえば後者のほうが高いよね。
イメージはそんな感じ。(なにもなくても200になったらそれはなお気持ちいいのかもしれないけどね)
だから多少の慣れは当然あるけど、羞恥心や痛みや怖さなどの『拒否』の気持ちがあるから味わえる。
なくなってしまったら味わえないことなんだよね。
ちょっと横道にそれるけど。
ほら、よく羞恥心を克服するとか痛みを受け入れるなんていう『調教』を聞くけど、それをしていたら、わたし感じているSM行為の快感は得られないのだと思うのだ。(きっと、他の快感はあるのかもしれないけどね)
だから、わたしはいつまでたっても、拒否するし、恥ずかしがるし怖がってぎゃーぎゃーうるさいままでいいのです^^
前回、わんこ未遂に終わって『わたしはわんこにしてほしいんだ』と欲望の片隅を認識してしまった次のデート。
拒否を欲求が上回る感覚にあらためて触れてしまったときのこと、それを『シーン2』で^^
今日の「等式」感想です。
なかなか解りやすいと思うのですがいかがでしょうか。『羞恥心50と快感150』と『羞恥心100と快感200』この数字の説明なんて理解しやすいし、独創的な感じがして嬉しいですね。
別のお話として、気の使い方が洗練されてきているかな~、「気を使っています」と言わんばかりの雰囲気よりも何気なく色々考えている空気が気持ちが良く、洗練されていると思う。
褒めすぎでしょうか、内輪で失礼致しました。(笑)
SM行為の快感のひとつは『欲求が拒否を上回る』だと思っている。
恥ずかしいことはただただ恥ずかしい、だけど、それより気持ちいいが上回る。
痛くてしかたないのだけど、いやだよりももっと痛くしてほしいが勝る。
だから、最初っから『ほらほら恥ずかしいのがいいんだろ?』みたいに言われても『恥ずかしいのは恥ずかしいわい!!』と抵抗したくなります(笑)
(『羞恥系の葛藤』)
『必要なのは慣らすこと?』というエントリーで那智さんも言っていたけど、拒否は拒否のままでも、それを凌駕するほどの欲求が生まれれば、拒否は存在しないことになっちゃうんだよね。
だから、マイナスとは別にプラスになる要素を生む、そのプラス(欲求)がマイナス(拒否)を上回ることがSM行為の快感。
恥ずかしいことが気持ちいいとか、痛いことが気持ちいいという『拒否(マイナス)が快感(プラス)になる』状態もあるんだけど、ちょっと細分化してみると、それぞれあって、それぞれ快感だったりする。
同じ行為、たとえば、鞭だとしても『欲求が拒否を上回る』こともあるし『拒否が快感になる』こともあるし、もっと違う快感もあので、必ず『どれ』というものではないのだけど。
わんこは、まさしくこれ、『欲求が拒否を上回る』なんじゃないかと思う。
多少は慣れもあるけれど、わんこは何度やっても恥ずかしいし申し訳ないし怖い、それは最初の頃とほとんど変わらない。
だけど、あの従属感や異質な姿に自己愛を感じる快感のたまらない大きさの『記憶』が勝って『わんこにしてほしい』という気持ちが生まれる。
わんこの場合は、その最中はかなり夢中で快感を得ているなんて感じる余裕もなくて、唯一首筋に感じる那智さんの指やおでこを押当てる太ももの感触だけが実感している快感なんだけど、後で確認するとものすごく濡れているし、日常、あの嵐のような無我夢中の幸福を思い出して、それが『記憶』となって頭から離れなくなるのだ。
その渦中の実感できる快感と後日わき上がる快感の『記憶』の力で、拒否の気持ちはなくなることはないのだけど、それ以上に『わんこにしてほしい』という気持ちが勝る。
その上回ることが、より快感。
理屈の上での話だけど、『羞恥心50と快感150』と『羞恥心100と快感200』
だとしたらふたつの差は同じ100だけど、快感の数値だけでいえば後者のほうが高いよね。
イメージはそんな感じ。(なにもなくても200になったらそれはなお気持ちいいのかもしれないけどね)
だから多少の慣れは当然あるけど、羞恥心や痛みや怖さなどの『拒否』の気持ちがあるから味わえる。
なくなってしまったら味わえないことなんだよね。
ちょっと横道にそれるけど。
ほら、よく羞恥心を克服するとか痛みを受け入れるなんていう『調教』を聞くけど、それをしていたら、わたし感じているSM行為の快感は得られないのだと思うのだ。(きっと、他の快感はあるのかもしれないけどね)
だから、わたしはいつまでたっても、拒否するし、恥ずかしがるし怖がってぎゃーぎゃーうるさいままでいいのです^^
前回、わんこ未遂に終わって『わたしはわんこにしてほしいんだ』と欲望の片隅を認識してしまった次のデート。
拒否を欲求が上回る感覚にあらためて触れてしまったときのこと、それを『シーン2』で^^
今日の「等式」感想です。
なかなか解りやすいと思うのですがいかがでしょうか。『羞恥心50と快感150』と『羞恥心100と快感200』この数字の説明なんて理解しやすいし、独創的な感じがして嬉しいですね。
別のお話として、気の使い方が洗練されてきているかな~、「気を使っています」と言わんばかりの雰囲気よりも何気なく色々考えている空気が気持ちが良く、洗練されていると思う。
褒めすぎでしょうか、内輪で失礼致しました。(笑)