「いつか」
りん子的独り言(エラそう)
(エラそう)カテでいいよね?
我が子が生まれたとき同じ病院だった女性といまでも友達付き合いが続いている。
たまたま近所だったこともあるのだけど、それ以上にウマが合うのだろう、悪意のないお付き合いをこのまっすぐな女性ともうずっと続けられている。
こんなふうに子供が大きくなってからもふたりで会いたいと思える友達が、彼女ともうひとりだけいる。
ママ友なんて作らなくても、ママ友の輪に入らなくても同じような周波数の人はいて、その人とはずっと友達でいられるものだ。
彼女とは月に一度くらいは夜ご飯を食べている。
子供が小さいうちは子連れで、最近は大人ふたりでちょっとお酒を飲んだりして。
近所だからサクッとできるのもいい。
かなりわたしは聞き役で、でも悪意のない彼女の話題や悩み事は聞きながら自分の意見を言ったり、自分を客観視できたりするので楽しいのだ。
だからね、けっこう彼女の家庭の事情も知ってしまっている。
(彼女は「わたしが死んだらりん子さんに自叙伝書いてもらえるね」と笑う)
お子さんのこと、お姑さんのこと、わたしなりの意見やアドバイスはしているのだけど、一度、答えに詰まってしまった話があった。
『旦那さんとスキンシップをしたい』というのだ。
もともとわりとベタベタ甘えたい人のようで、以前はセックスも含めていちゃいちゃする時間がけっこうあったのだそうだ。
いまもセックスレスではないのだけど、日々のいちゃいちゃをあまりしてくれなくなってしまったらしい。
悩みはわかる。
セックスはもちろんだけど、甘えん坊さんには日々のいちゃいちゃも大事だったりするよね。
とても働き者の彼女なので、そのスキンシップがきっと旦那さんのご実家への献身のご褒美とか意欲にもなると思うし、何よりそれがあるのは夫婦に潤いをもたらすよね。
でも、わたし、どうアドバイスしたらいいか、答えに詰まってしまった。
けっこうデリケートだし個人差のあることだから即解決な策なんてないと思うんだよね。
上手に答えることができないまま、その日はバイバイしたのだけど、翌日、那智さんならどう答えるのかな、男性の立場からの意見もあるかもしれないし、そう思って昨夜の悩みを話してみた。
そしたらね、その件に対するアドバイスじゃなくて、もっと普遍的で実用的な方法を教えてくれた。
そういうときはね
わたしは◯◯してほしい、だから、いつかそういう気持ちになったときに◯◯してくださいっていうんだよ
ああ、なるほど!!
◯◯してとお願いしてその場でしてもらっても、じつはあんまりうれしくない。
自分を振り返ってみると、お願いしてしてもらうとちょっと悔しいというか情けないというかベストな気持ちになれずに、もうひと声!!みたいな気分になって、次々上乗せしてもらうと誘導してしまったりして、結局誘導に失敗してガッカリなんてことになることも多い。
してほしいことって、してもらうよりも、それをしたいと思う相手の気持ちがセットになってはじめてうれしいと思えるものなんだよね。
だから、お願いしてやってももらっても満足感はすくない。
かといって、してほしいことを言わずに悶々としているのはもっとよくない。
じゃあ、自分の気持ちを伝えて『いつか、その気持ちになったら』を加えることで相手に任せる方法にすれば、叶ったときのよろこびは大きいというわけだ。
おそらく、言われる立場からしても、言われたから『いま』するのはなんだかやらされているようで楽しくないよね。
親から勉強しろと言われるとやる気が失せるみたいに(これは勉強できないわたしのような子の言い訳でもあるけど 笑)
人は指摘には反発したくなるものだ。
それが的を射ていればいるほど、責められているように感じてしまって、余計に^^;
『いつか』と言われたら、それは自分のタイミングになるのだから指摘でもないし、自分発信でやる気も起きると思う。
特に那智さんみたいに主導権を握っていたい人には有効^^
至極納得して、後日、友達にもそのように伝えた(その後のことは聞いてないけど)
そして以降わたしの対那智さん対策としても大いに役立っている魔法(?)の方法になるのだった。
那智さんに縛っていただきたいです。
いつか縛りたいと思うときがあったら、縛ってくださいね。
わたし、那智さんに『かわいい』と言ってもらえるのうれしいです。
だから、かわいいと思うときがあったら、ちょっと意識して言葉にしてくださいね。
こんなふうに『いま』じゃなくて『いつか』でほしいものを伝えるようにしている。
ただ、これには難しい点もあって、わかりますよね?(笑)
『いつか』って、そうなかなか訪れてくれないのです(笑)
かなりの確率で叶いません(笑)
純粋に訪れないこともあるし、それを形にすることを忘れちゃってることもある。
だから、これには過度な期待をしないほうがいい(笑)
こちらは、日頃何かの拍子に「かわいいって言ってもらうとうれしいな〜」とか「縛られる夢見ちゃいました」とか、涙ぐましいアピールをして、ひたすら、そのときを待つのだ!!
で、忘れてしまっていることを責めちゃいけないのですよ。
いや、責めたくなる。
じっさい、ぐずっとクレームっぽく言ってしまうこともある、でも、そこは最小限に抑える!!
だって、忘れているかどうかなんてわからない、まだ『いつか』じゃないのかもしれないからね(笑)
責めるより、素直に『いつか』のリクエストとそれを連想させるさりげないアピールを続けることを楽しむほうが得策です^^
もちろん、叶ったときは極上のよろこびになるし、もし叶わなかったとしても、意外と『伝えている』だけでもけっこう半分くらい満足できてしまうもののようなので、お願いの上乗せ要求を誘導するより精神衛生上、互いの関係上、よいはず。
『いつか、お願い』はけっこう使える手だと思うのです^^
でもって、じつは密かにブログも一役買っていたりするのです(笑)
(エラそう)カテでいいよね?
我が子が生まれたとき同じ病院だった女性といまでも友達付き合いが続いている。
たまたま近所だったこともあるのだけど、それ以上にウマが合うのだろう、悪意のないお付き合いをこのまっすぐな女性ともうずっと続けられている。
こんなふうに子供が大きくなってからもふたりで会いたいと思える友達が、彼女ともうひとりだけいる。
ママ友なんて作らなくても、ママ友の輪に入らなくても同じような周波数の人はいて、その人とはずっと友達でいられるものだ。
彼女とは月に一度くらいは夜ご飯を食べている。
子供が小さいうちは子連れで、最近は大人ふたりでちょっとお酒を飲んだりして。
近所だからサクッとできるのもいい。
かなりわたしは聞き役で、でも悪意のない彼女の話題や悩み事は聞きながら自分の意見を言ったり、自分を客観視できたりするので楽しいのだ。
だからね、けっこう彼女の家庭の事情も知ってしまっている。
(彼女は「わたしが死んだらりん子さんに自叙伝書いてもらえるね」と笑う)
お子さんのこと、お姑さんのこと、わたしなりの意見やアドバイスはしているのだけど、一度、答えに詰まってしまった話があった。
『旦那さんとスキンシップをしたい』というのだ。
もともとわりとベタベタ甘えたい人のようで、以前はセックスも含めていちゃいちゃする時間がけっこうあったのだそうだ。
いまもセックスレスではないのだけど、日々のいちゃいちゃをあまりしてくれなくなってしまったらしい。
悩みはわかる。
セックスはもちろんだけど、甘えん坊さんには日々のいちゃいちゃも大事だったりするよね。
とても働き者の彼女なので、そのスキンシップがきっと旦那さんのご実家への献身のご褒美とか意欲にもなると思うし、何よりそれがあるのは夫婦に潤いをもたらすよね。
でも、わたし、どうアドバイスしたらいいか、答えに詰まってしまった。
けっこうデリケートだし個人差のあることだから即解決な策なんてないと思うんだよね。
上手に答えることができないまま、その日はバイバイしたのだけど、翌日、那智さんならどう答えるのかな、男性の立場からの意見もあるかもしれないし、そう思って昨夜の悩みを話してみた。
そしたらね、その件に対するアドバイスじゃなくて、もっと普遍的で実用的な方法を教えてくれた。
そういうときはね
わたしは◯◯してほしい、だから、いつかそういう気持ちになったときに◯◯してくださいっていうんだよ
ああ、なるほど!!
◯◯してとお願いしてその場でしてもらっても、じつはあんまりうれしくない。
自分を振り返ってみると、お願いしてしてもらうとちょっと悔しいというか情けないというかベストな気持ちになれずに、もうひと声!!みたいな気分になって、次々上乗せしてもらうと誘導してしまったりして、結局誘導に失敗してガッカリなんてことになることも多い。
してほしいことって、してもらうよりも、それをしたいと思う相手の気持ちがセットになってはじめてうれしいと思えるものなんだよね。
だから、お願いしてやってももらっても満足感はすくない。
かといって、してほしいことを言わずに悶々としているのはもっとよくない。
じゃあ、自分の気持ちを伝えて『いつか、その気持ちになったら』を加えることで相手に任せる方法にすれば、叶ったときのよろこびは大きいというわけだ。
おそらく、言われる立場からしても、言われたから『いま』するのはなんだかやらされているようで楽しくないよね。
親から勉強しろと言われるとやる気が失せるみたいに(これは勉強できないわたしのような子の言い訳でもあるけど 笑)
人は指摘には反発したくなるものだ。
それが的を射ていればいるほど、責められているように感じてしまって、余計に^^;
『いつか』と言われたら、それは自分のタイミングになるのだから指摘でもないし、自分発信でやる気も起きると思う。
特に那智さんみたいに主導権を握っていたい人には有効^^
至極納得して、後日、友達にもそのように伝えた(その後のことは聞いてないけど)
そして以降わたしの対那智さん対策としても大いに役立っている魔法(?)の方法になるのだった。
那智さんに縛っていただきたいです。
いつか縛りたいと思うときがあったら、縛ってくださいね。
わたし、那智さんに『かわいい』と言ってもらえるのうれしいです。
だから、かわいいと思うときがあったら、ちょっと意識して言葉にしてくださいね。
こんなふうに『いま』じゃなくて『いつか』でほしいものを伝えるようにしている。
ただ、これには難しい点もあって、わかりますよね?(笑)
『いつか』って、そうなかなか訪れてくれないのです(笑)
かなりの確率で叶いません(笑)
純粋に訪れないこともあるし、それを形にすることを忘れちゃってることもある。
だから、これには過度な期待をしないほうがいい(笑)
こちらは、日頃何かの拍子に「かわいいって言ってもらうとうれしいな〜」とか「縛られる夢見ちゃいました」とか、涙ぐましいアピールをして、ひたすら、そのときを待つのだ!!
で、忘れてしまっていることを責めちゃいけないのですよ。
いや、責めたくなる。
じっさい、ぐずっとクレームっぽく言ってしまうこともある、でも、そこは最小限に抑える!!
だって、忘れているかどうかなんてわからない、まだ『いつか』じゃないのかもしれないからね(笑)
責めるより、素直に『いつか』のリクエストとそれを連想させるさりげないアピールを続けることを楽しむほうが得策です^^
もちろん、叶ったときは極上のよろこびになるし、もし叶わなかったとしても、意外と『伝えている』だけでもけっこう半分くらい満足できてしまうもののようなので、お願いの上乗せ要求を誘導するより精神衛生上、互いの関係上、よいはず。
『いつか、お願い』はけっこう使える手だと思うのです^^
でもって、じつは密かにブログも一役買っていたりするのです(笑)
繰り返し
非日常的な日常
1発目は中ぐらいの力。
くうとなって振り返ると大きく構える様子に次はMAXに近いものになると理解する。
ばん!!
うわ!!
あまりに痛くてうつぶせの体を折り曲げる。
浮いた腰にもう1発。
またほぼMAX。
無理!!
今度は那智さんのほうを向くように体を傾け、お尻を遠ざける。
これは『ちょっと厳しいです』の意思表示。
これで一旦ストップして痛みをやり過ごし、またうつ伏せになってリスタート。
バーンとはじけて小休止を繰り返す、これが徐々におかしなわたしを作ってきていた。
だから、半身を起こして那智さんのほうを向いたのは小休止のお願いの合図、それなのにそのまままた振り下ろされた。
力は最初の中ぐらい。
だけど、鞭が下半身に覆いかぶさるように腰からお尻に巻き込む。
わああ!!
ゴムのバラ鞭を受け入れるにはうつ伏せになってお尻が張っていない状態じゃないととても痛くなる。
だから、いつも体勢を整えるのに。
それを無視しているのだ。
力は加減してくれているからまだ耐えられるけれど、わたしの体勢が整っていないぶんどこに当たるかわからない怖さと不意の強烈な痛さに頭がいっぱいになる。
あうあうと体の位置が定まらないわたしの下半身に、遠慮なく続けて振るう。
リズミカルに、楽しそうに。
巻き込んだゴムの先が内股とおまんこに刺さった。
慣れない痛みに地団駄を踏む。
まだ、終わらない。
次は大きくかまえた。
MAXだ。
朦朧としながら急いでうつ伏せの体勢を取る。
バン、バン、バン!!!
MAXで数発。
もう無理!!!と体を反転させてお尻をほとんど隠す。
そこに軽めの力でまたもう1発。
腰にゴムがまとわりつく。
反転した勢いでじんじんと痺れたお尻がシーツに触れると、そこから快感の強烈な波紋が広がる。
打たれた場所の産毛に快感の神経が集中しているように。
それに反応した体にまたもう1発。
鞭の痛みと痺れる刺激に、気持ちいいという言葉は当てはまらない。
自分の体をどう動かしたらいいかわからなくなる。
那智さんが鞭を置き、覆いかぶさる。
痺れているお尻にそっと触れるとビクンと体が跳ねる。
2、3度触れ、次に手のひら全部を使ってぎゅーーっと掴む、掴んで揺さぶる。
ぎゃっとなり、快感が押し寄せ腰を振る。
徐々に刺激が引いて快感も落ち着いてしまう。
わたしの反応を見て、また鞭を握る。
それを見て、わたしもうつ伏せの体勢になる。
で、最初に戻る(笑)
その繰り返しの鞭の時間。
「等式」感想です。安全を考え尻しか打たなかった。尻に対してはMaxで打てるようになった、そして満足出来なくなった。Maxで打てない場所に打ちたくなった。今、様子を見ながら他の部位も打っている。加減が必要だが楽しい。
1発目は中ぐらいの力。
くうとなって振り返ると大きく構える様子に次はMAXに近いものになると理解する。
ばん!!
うわ!!
あまりに痛くてうつぶせの体を折り曲げる。
浮いた腰にもう1発。
またほぼMAX。
無理!!
今度は那智さんのほうを向くように体を傾け、お尻を遠ざける。
これは『ちょっと厳しいです』の意思表示。
これで一旦ストップして痛みをやり過ごし、またうつ伏せになってリスタート。
バーンとはじけて小休止を繰り返す、これが徐々におかしなわたしを作ってきていた。
だから、半身を起こして那智さんのほうを向いたのは小休止のお願いの合図、それなのにそのまままた振り下ろされた。
力は最初の中ぐらい。
だけど、鞭が下半身に覆いかぶさるように腰からお尻に巻き込む。
わああ!!
ゴムのバラ鞭を受け入れるにはうつ伏せになってお尻が張っていない状態じゃないととても痛くなる。
だから、いつも体勢を整えるのに。
それを無視しているのだ。
力は加減してくれているからまだ耐えられるけれど、わたしの体勢が整っていないぶんどこに当たるかわからない怖さと不意の強烈な痛さに頭がいっぱいになる。
あうあうと体の位置が定まらないわたしの下半身に、遠慮なく続けて振るう。
リズミカルに、楽しそうに。
巻き込んだゴムの先が内股とおまんこに刺さった。
慣れない痛みに地団駄を踏む。
まだ、終わらない。
次は大きくかまえた。
MAXだ。
朦朧としながら急いでうつ伏せの体勢を取る。
バン、バン、バン!!!
MAXで数発。
もう無理!!!と体を反転させてお尻をほとんど隠す。
そこに軽めの力でまたもう1発。
腰にゴムがまとわりつく。
反転した勢いでじんじんと痺れたお尻がシーツに触れると、そこから快感の強烈な波紋が広がる。
打たれた場所の産毛に快感の神経が集中しているように。
それに反応した体にまたもう1発。
鞭の痛みと痺れる刺激に、気持ちいいという言葉は当てはまらない。
自分の体をどう動かしたらいいかわからなくなる。
那智さんが鞭を置き、覆いかぶさる。
痺れているお尻にそっと触れるとビクンと体が跳ねる。
2、3度触れ、次に手のひら全部を使ってぎゅーーっと掴む、掴んで揺さぶる。
ぎゃっとなり、快感が押し寄せ腰を振る。
徐々に刺激が引いて快感も落ち着いてしまう。
わたしの反応を見て、また鞭を握る。
それを見て、わたしもうつ伏せの体勢になる。
で、最初に戻る(笑)
その繰り返しの鞭の時間。
「等式」感想です。安全を考え尻しか打たなかった。尻に対してはMaxで打てるようになった、そして満足出来なくなった。Maxで打てない場所に打ちたくなった。今、様子を見ながら他の部位も打っている。加減が必要だが楽しい。
にわかフェミ
140字もどき
その1
痴漢は犯罪です。
という広告がる。
もちろん犯罪だけど。
痴漢って暴力だと思う。
性犯罪は女性にとって激しい暴力。
殴らなくても、手のひらで触るだけでも。
暴力なんだ。
これって、女性にも理解を得られないかな。
でも、痴漢ってね、当然やる人がいけないんだけど、どうしても周囲の『ちょっと触られたくらいで』という認識も被害を大きくさせていると思うんだ。
だから、暴力なんだって女性も男性も認識したら、いいのにね。
この前『痴漢冤罪はなぜなくならないか』って記事があったけど、いやいや、そんなことより痴漢自体がなくなれば、冤罪だってなくなるでしょー。
痴漢ありきが、すでにおかしい。
冤罪を憂う男性たちは、まず同性の痴漢犯罪者を糾弾して『なぜ痴漢はなくならないか』を議論するほうが先決だと思うんだけど、どう?
その2
某女性誌の男性編集者のツイートが一時話題になった。
勝手に要約するけど『自分の胸からミルクを平然と製造する女性』に驚き、変形する乳房を『男を近寄らせないための一時的な「可愛くない」トランスフォーム』だと解釈して、だから『妊婦ヌードは売れないんだ』なんちゃってみたいな雰囲気を醸し出して〆ていた。
そもそも少子化自体が問題なのかそれさえも疑問なのだけど、問題だとして、それを解決したいなら、まずこういう男性の意識改革が必要なんじゃないだろうか。
男から『可愛くない』と公言されて、じゃあ、産みましょうって思う女増えると思えないよ。
若いとかスタイルとか、ある意味の『処女性』(ホントの処女じゃなくてね)、そういうことに女の価値を置く社会が少子化の一因だと思うんだけどなぁ。
その3
碁盤の目のように通路が交差するショッピングモール。
直進するわたしの視界に右の通路からこちらに向かってきている人が見えた。
年配の男性ふたり。
スーツに身を包んだ恰幅のよい男性。
いかにも会社の偉い地位の人。
キャリーバッグを引いているから、出張に行くのか、その帰りか、談笑しながら通路を歩いている。
わたしの視界にその男性が入っているのだから、男性からもわたしが見えているはずだ。
少なくとも右側の男性は左側の男性のほうを向いて会話しているので確実に視界には入っている。
距離と速度で計ると、ほぼ同時、わずかにわたしのほうが先に通路の十字路に差しかかるのは読める。
このままの速度で歩けば、1歩早いわたしのほうが彼らの目の前を塞ぐように横切ることになる。
きっと、ぎりぎりぶつかるかもしれないほどの距離だ。
さあ、どうする。
わたしは速度を緩めずに歩いてみる。
彼らも変わらないペースで十字路に向かう。
ねえ、わたしのほうが1歩早いよ。
たぶん、あなたたちの目の前をぶつかる勢いで横切るよ。
でも、彼らは一瞬たりとも速度を緩める気配を見せない。
十字路に差しかかる。
かなりぎりぎりの距離でわたしは彼らの前を横切った。
ああ、きっと、譲られ慣れているんだろうなって思う。
会社でも飲食店でも家でも、たぶん譲られることが当たり前になっていて、譲るとか譲られるという思考回路がつながっていないんだろうな。
無意識に当然譲られるものという感覚でいるから、横から来る女に対して速度を緩めるなんていう発想生まれないのだろう。
もしかしたら、彼らにはわたしは見えていないのかもしれない、わたしの姿は脳に伝達されていないのかもしれない、視界に入っているのに。
なにを持ってして上下、優劣、が決められるかわからないけど、とにかく、それはある。
で、『女』であるというだけで下や劣だと決められてしまうことが、じつはとても多いのだ。
見えないなんてこともあるほどに。
わたしはちゃんとフェミニズムを勉強しているわけではないので、議論できるほどしっかりした考えは持てていない。
でも、基本的に人間に上下も優劣もないはずなのに、性別などのカテゴリ分けでそれが決められている社会が好きじゃないのだ。
その気持ちがフェミニズムに近いと思っている。
根拠のない上下の上は下になにを言ってもかまわないという意識や、根拠のない上下の下は控えめでいないといけないという認識があるのが好きじゃない。
仮に上下や優劣があるとしても、それは個々の関係性や会社などの中のポジションで決めるものだと思う。
けっこう『女』であるということはそういう場面に出くわすことがあったりするんだよね。
<関連エントリー>
『静かな夜に』
「等式」感想です。その1:痴漢の被害より、痴漢冤罪の方が圧倒的に被害が大きいから。「痴漢冤罪はなぜなくならないか」が話題になる。
その2:好みの問題では?妊婦ヌードを作る人、購入する人がいるのだから。この編集者は公の立場があるので、個人の発言としても通用しないだろうが、その姿勢を批判するのであれば雑誌を購入しないことで意思表示できると思う。
その3:通勤時に日常的にある光景だよね、女性にぶつかった事はないが、(女性・子供・老人はよける)年に1~2回肩が対面してぶつかる時がある、つい3日前にもあった「ゴン」と大きな音がして一瞬注目が集った。
あれはきっとチキンレースをしているんだよ。そして、「どけ」のオーラを発する人には対抗する 、急いでいますのオーラには避けてあげる。(笑)
同じような話しで、私は身長が低いので隙があるように見えるらしい、大きな人の流れがありそこを横切ろうとする人は空間を狙う、身長が低いと入りやすいのだと思う。不愉快なので、スピードを緩めないので、私の前を横切る人は、まれに蹴飛ばされる人がいる。
その1
痴漢は犯罪です。
という広告がる。
もちろん犯罪だけど。
痴漢って暴力だと思う。
性犯罪は女性にとって激しい暴力。
殴らなくても、手のひらで触るだけでも。
暴力なんだ。
これって、女性にも理解を得られないかな。
でも、痴漢ってね、当然やる人がいけないんだけど、どうしても周囲の『ちょっと触られたくらいで』という認識も被害を大きくさせていると思うんだ。
だから、暴力なんだって女性も男性も認識したら、いいのにね。
この前『痴漢冤罪はなぜなくならないか』って記事があったけど、いやいや、そんなことより痴漢自体がなくなれば、冤罪だってなくなるでしょー。
痴漢ありきが、すでにおかしい。
冤罪を憂う男性たちは、まず同性の痴漢犯罪者を糾弾して『なぜ痴漢はなくならないか』を議論するほうが先決だと思うんだけど、どう?
その2
某女性誌の男性編集者のツイートが一時話題になった。
勝手に要約するけど『自分の胸からミルクを平然と製造する女性』に驚き、変形する乳房を『男を近寄らせないための一時的な「可愛くない」トランスフォーム』だと解釈して、だから『妊婦ヌードは売れないんだ』なんちゃってみたいな雰囲気を醸し出して〆ていた。
そもそも少子化自体が問題なのかそれさえも疑問なのだけど、問題だとして、それを解決したいなら、まずこういう男性の意識改革が必要なんじゃないだろうか。
男から『可愛くない』と公言されて、じゃあ、産みましょうって思う女増えると思えないよ。
若いとかスタイルとか、ある意味の『処女性』(ホントの処女じゃなくてね)、そういうことに女の価値を置く社会が少子化の一因だと思うんだけどなぁ。
その3
碁盤の目のように通路が交差するショッピングモール。
直進するわたしの視界に右の通路からこちらに向かってきている人が見えた。
年配の男性ふたり。
スーツに身を包んだ恰幅のよい男性。
いかにも会社の偉い地位の人。
キャリーバッグを引いているから、出張に行くのか、その帰りか、談笑しながら通路を歩いている。
わたしの視界にその男性が入っているのだから、男性からもわたしが見えているはずだ。
少なくとも右側の男性は左側の男性のほうを向いて会話しているので確実に視界には入っている。
距離と速度で計ると、ほぼ同時、わずかにわたしのほうが先に通路の十字路に差しかかるのは読める。
このままの速度で歩けば、1歩早いわたしのほうが彼らの目の前を塞ぐように横切ることになる。
きっと、ぎりぎりぶつかるかもしれないほどの距離だ。
さあ、どうする。
わたしは速度を緩めずに歩いてみる。
彼らも変わらないペースで十字路に向かう。
ねえ、わたしのほうが1歩早いよ。
たぶん、あなたたちの目の前をぶつかる勢いで横切るよ。
でも、彼らは一瞬たりとも速度を緩める気配を見せない。
十字路に差しかかる。
かなりぎりぎりの距離でわたしは彼らの前を横切った。
ああ、きっと、譲られ慣れているんだろうなって思う。
会社でも飲食店でも家でも、たぶん譲られることが当たり前になっていて、譲るとか譲られるという思考回路がつながっていないんだろうな。
無意識に当然譲られるものという感覚でいるから、横から来る女に対して速度を緩めるなんていう発想生まれないのだろう。
もしかしたら、彼らにはわたしは見えていないのかもしれない、わたしの姿は脳に伝達されていないのかもしれない、視界に入っているのに。
なにを持ってして上下、優劣、が決められるかわからないけど、とにかく、それはある。
で、『女』であるというだけで下や劣だと決められてしまうことが、じつはとても多いのだ。
見えないなんてこともあるほどに。
わたしはちゃんとフェミニズムを勉強しているわけではないので、議論できるほどしっかりした考えは持てていない。
でも、基本的に人間に上下も優劣もないはずなのに、性別などのカテゴリ分けでそれが決められている社会が好きじゃないのだ。
その気持ちがフェミニズムに近いと思っている。
根拠のない上下の上は下になにを言ってもかまわないという意識や、根拠のない上下の下は控えめでいないといけないという認識があるのが好きじゃない。
仮に上下や優劣があるとしても、それは個々の関係性や会社などの中のポジションで決めるものだと思う。
けっこう『女』であるということはそういう場面に出くわすことがあったりするんだよね。
<関連エントリー>
『静かな夜に』
「等式」感想です。その1:痴漢の被害より、痴漢冤罪の方が圧倒的に被害が大きいから。「痴漢冤罪はなぜなくならないか」が話題になる。
その2:好みの問題では?妊婦ヌードを作る人、購入する人がいるのだから。この編集者は公の立場があるので、個人の発言としても通用しないだろうが、その姿勢を批判するのであれば雑誌を購入しないことで意思表示できると思う。
その3:通勤時に日常的にある光景だよね、女性にぶつかった事はないが、(女性・子供・老人はよける)年に1~2回肩が対面してぶつかる時がある、つい3日前にもあった「ゴン」と大きな音がして一瞬注目が集った。
あれはきっとチキンレースをしているんだよ。そして、「どけ」のオーラを発する人には対抗する 、急いでいますのオーラには避けてあげる。(笑)
同じような話しで、私は身長が低いので隙があるように見えるらしい、大きな人の流れがありそこを横切ろうとする人は空間を狙う、身長が低いと入りやすいのだと思う。不愉快なので、スピードを緩めないので、私の前を横切る人は、まれに蹴飛ばされる人がいる。
わたしが子供だったころ
りん子的独り言(エラそう)
『帰ってきたら』『ご飯の前に』と一日何度も手洗いするハンドソープのCMを見て、そんなに洗ってばっかりいたら子供の手カサカサになっちゃうよと思ってしまった。
育児書や先輩ママさんたちはみんな自分が正しいと思うことを語るし、CMや雑誌はまるでそれで一生が決まってしまうかのように不安を煽る。
正解はひとつじゃないし、ほとんどのことはそれで一生は決まらない。
だけど、母親たちはその通りにしないと取り返しがつかないことになってしまうような気になって戦々恐々としてしまう。
我が子が生まれたときわたしはあまり育児書の類いを鵜呑みにするのはやめようと思っていた。
出産前に友達がお下がりでくれた育児書2冊、同じことも書いてあるけど、まったく反対のことも書かれてあるのだ。
(内容忘れちゃったけど、たとえば片方には『寒いときは靴下を履かせて』と書いてあって、もう片方には『寒くても履かせないほうがいい』と書いてあるみたいな感じ)
そんなのを見て、これはあまり気にしすぎるのはよくないぞと直感で思ったのだよね、たまたま実家が近かったこともあってその分は助かったけど、それを差し引いても、その育児書を開くことはあまりなかった。
ある程度の月齢による成長の目安くらいは参考にしたけど、それ以上にわたしの育児の指針になったのは内田春菊さんの『私たちは繁殖している』と伊藤比呂美さんの『コドモより親が大事』だった。
どうしても思い通りに子供がいい子になってくれなくて思わず叩いてしまう母親の悩みに伊藤比呂美さんは(原文まま)「子育てはねんどやブロックとはわけが違って思い通りにはいきません。人知の及ばぬ力が作用しているのですね。非力な母親はなすすべないとあきらめて、せめて自分のしたいことをしましょう。あとはコドモらが将来いろいろ悩んで自力で解決します。わたしだっていろいろ悩んでやってきたことだし、コドモらにだってそれくらいできます。」と書いている。
とくにこの一分はすっと心を軽くしてくれた。
子供は大事だ。
自分の分身のようだし、自分以上に大事だ。
だけど、母親ひとりで何とかしようと思うのは歪みが生まれる。
きっと同じように育ててもかけっこ早い子と遅い子はいるし、野菜が苦手な子もいる。
非力なわたしは無理矢理野菜を食べさせるより、我が子と好きなものを「おいしいね〜」と笑い合いながら一緒に食べたい。
ご飯の時間はたのしいって思ってほしかったし、わたしもたのしみたかった。
だから、育児書も雑誌もテレビCMにもちょっと反発するくらいの気持ちでいた(それくらいの気持ちでいないと負けちゃうのだ 笑)
それでも、雑誌やCMの常識や他のママたちの情報はイヤでも耳に入るし、いろいろ迷うことは出てくる。
そんなとき、わたしの基準は『いかにわたし自身がストレスを感じないか』で選ぶようにしていた。
たとえば、子供用の100%ジュース。
小さな可愛らしいパックに小分けされているもの。
最初はなんとなく買っていたけどたかが数百円のこととはいえ、あの微々たる量のものが普通の1リットル入っている100%ジュースより高いことに疑問を持ちはじめてしまった。
ケチ根性ももちろんあるけど(笑)
何かに乗せられているような納得いかない気持ち。
この気持ちのまま買い続けることはわたしにとってストレスだなって思った。
でも、闇雲に普通の100%にしてしまうほど大胆にもなれず、きっと若干の不安が残って、それはそれでストレスだった思った。
だから、メーカーに電話してみた。
普通の100%ジュースと子供用にどんな違いがあるのか。
もし明確な違いがあるなら納得してそれを買おう、もし納得のいく違いがなかったら安心して大人と一緒の100%ジュースにしようと思ったのだ。
返ってきた答えは『明確な違いはない』だった。
(しかし、素材を厳選して…という苦し紛れの説明をしてくれた)
ああ、スッキリ。
これからはなんのストレスを感じることなくわたしたちが飲んでいる100%リンゴジュースを飲ませてあげられる。
こんなハッキリした行動に出たのはそんなにないけど、基本的には『わたしがストレスがすくないほう』で選んできた。
もちろん、たくさん迷うし不本意なことだってよかれと思ってすることだってあるけど、ただ迷ったときひとつの基準があった。
それは『わたしが子供の頃』を思い出すこと。
あるいは姉の子供の頃、あるいはもっと以前の親戚のお姉さんが子供の頃。
ハッキリした記憶ばかりではないし、生まれる前のことなんていちいち裏を取っているわけではないけど、想像してみる。
わたしが子供の頃。
ヤ◯ルトとかマ◯ーとかあったけど、それは別に子供用じゃなかった。
風呂釜だって時々放水して洗っているだけだったし、便座をいちいち除菌なんてしてなかった。
でも、わたしは元気だ。
そんなふうに考えるとだいたいのことはなんとかなるような気がしてくる。
そして、複雑で詳細で繊細な情報のウィンドウを閉じる。
でもって、勉強できないし人見知りだし、いろいろちょっと変わっているけど、我が子は元気だ^^
だから、わたしから言わせると、あのCMは一見正しい常識のように見せかけて不安を煽り消費させようとしていると見えるので、NG(笑)
実際、我が子はそんなに手洗いさせてないけど、元気^^
子供用のジュースは飲んでいないけど、元気^^
けっこう人間って子供ってたくましいものだと思う。
<関連エントリー>
『我が子』
「等式」感想です。りん子の言う通りだと思います。学校の校則が改定の度に追加されて荒唐無稽になるように、育児書もおなじは、どうなのでしょう。単純に考えて、丈夫な 子もいれば弱い子もいる、それを一冊の育児書で済まそうとしたら弱い子に合わせると思われます。自分の常識と感覚も頼りにしたいですね。
『帰ってきたら』『ご飯の前に』と一日何度も手洗いするハンドソープのCMを見て、そんなに洗ってばっかりいたら子供の手カサカサになっちゃうよと思ってしまった。
育児書や先輩ママさんたちはみんな自分が正しいと思うことを語るし、CMや雑誌はまるでそれで一生が決まってしまうかのように不安を煽る。
正解はひとつじゃないし、ほとんどのことはそれで一生は決まらない。
だけど、母親たちはその通りにしないと取り返しがつかないことになってしまうような気になって戦々恐々としてしまう。
我が子が生まれたときわたしはあまり育児書の類いを鵜呑みにするのはやめようと思っていた。
出産前に友達がお下がりでくれた育児書2冊、同じことも書いてあるけど、まったく反対のことも書かれてあるのだ。
(内容忘れちゃったけど、たとえば片方には『寒いときは靴下を履かせて』と書いてあって、もう片方には『寒くても履かせないほうがいい』と書いてあるみたいな感じ)
そんなのを見て、これはあまり気にしすぎるのはよくないぞと直感で思ったのだよね、たまたま実家が近かったこともあってその分は助かったけど、それを差し引いても、その育児書を開くことはあまりなかった。
ある程度の月齢による成長の目安くらいは参考にしたけど、それ以上にわたしの育児の指針になったのは内田春菊さんの『私たちは繁殖している』と伊藤比呂美さんの『コドモより親が大事』だった。
どうしても思い通りに子供がいい子になってくれなくて思わず叩いてしまう母親の悩みに伊藤比呂美さんは(原文まま)「子育てはねんどやブロックとはわけが違って思い通りにはいきません。人知の及ばぬ力が作用しているのですね。非力な母親はなすすべないとあきらめて、せめて自分のしたいことをしましょう。あとはコドモらが将来いろいろ悩んで自力で解決します。わたしだっていろいろ悩んでやってきたことだし、コドモらにだってそれくらいできます。」と書いている。
とくにこの一分はすっと心を軽くしてくれた。
子供は大事だ。
自分の分身のようだし、自分以上に大事だ。
だけど、母親ひとりで何とかしようと思うのは歪みが生まれる。
きっと同じように育ててもかけっこ早い子と遅い子はいるし、野菜が苦手な子もいる。
非力なわたしは無理矢理野菜を食べさせるより、我が子と好きなものを「おいしいね〜」と笑い合いながら一緒に食べたい。
ご飯の時間はたのしいって思ってほしかったし、わたしもたのしみたかった。
だから、育児書も雑誌もテレビCMにもちょっと反発するくらいの気持ちでいた(それくらいの気持ちでいないと負けちゃうのだ 笑)
それでも、雑誌やCMの常識や他のママたちの情報はイヤでも耳に入るし、いろいろ迷うことは出てくる。
そんなとき、わたしの基準は『いかにわたし自身がストレスを感じないか』で選ぶようにしていた。
たとえば、子供用の100%ジュース。
小さな可愛らしいパックに小分けされているもの。
最初はなんとなく買っていたけどたかが数百円のこととはいえ、あの微々たる量のものが普通の1リットル入っている100%ジュースより高いことに疑問を持ちはじめてしまった。
ケチ根性ももちろんあるけど(笑)
何かに乗せられているような納得いかない気持ち。
この気持ちのまま買い続けることはわたしにとってストレスだなって思った。
でも、闇雲に普通の100%にしてしまうほど大胆にもなれず、きっと若干の不安が残って、それはそれでストレスだった思った。
だから、メーカーに電話してみた。
普通の100%ジュースと子供用にどんな違いがあるのか。
もし明確な違いがあるなら納得してそれを買おう、もし納得のいく違いがなかったら安心して大人と一緒の100%ジュースにしようと思ったのだ。
返ってきた答えは『明確な違いはない』だった。
(しかし、素材を厳選して…という苦し紛れの説明をしてくれた)
ああ、スッキリ。
これからはなんのストレスを感じることなくわたしたちが飲んでいる100%リンゴジュースを飲ませてあげられる。
こんなハッキリした行動に出たのはそんなにないけど、基本的には『わたしがストレスがすくないほう』で選んできた。
もちろん、たくさん迷うし不本意なことだってよかれと思ってすることだってあるけど、ただ迷ったときひとつの基準があった。
それは『わたしが子供の頃』を思い出すこと。
あるいは姉の子供の頃、あるいはもっと以前の親戚のお姉さんが子供の頃。
ハッキリした記憶ばかりではないし、生まれる前のことなんていちいち裏を取っているわけではないけど、想像してみる。
わたしが子供の頃。
ヤ◯ルトとかマ◯ーとかあったけど、それは別に子供用じゃなかった。
風呂釜だって時々放水して洗っているだけだったし、便座をいちいち除菌なんてしてなかった。
でも、わたしは元気だ。
そんなふうに考えるとだいたいのことはなんとかなるような気がしてくる。
そして、複雑で詳細で繊細な情報のウィンドウを閉じる。
でもって、勉強できないし人見知りだし、いろいろちょっと変わっているけど、我が子は元気だ^^
だから、わたしから言わせると、あのCMは一見正しい常識のように見せかけて不安を煽り消費させようとしていると見えるので、NG(笑)
実際、我が子はそんなに手洗いさせてないけど、元気^^
子供用のジュースは飲んでいないけど、元気^^
けっこう人間って子供ってたくましいものだと思う。
<関連エントリー>
『我が子』
「等式」感想です。りん子の言う通りだと思います。学校の校則が改定の度に追加されて荒唐無稽になるように、育児書もおなじは、どうなのでしょう。単純に考えて、丈夫な 子もいれば弱い子もいる、それを一冊の育児書で済まそうとしたら弱い子に合わせると思われます。自分の常識と感覚も頼りにしたいですね。
『にわかフェミ』の補足
りん子的独り言(エラそう)
『にわかフェミ』にいただいたかげまるさんへのコメントレスです。
普段コメントレスをエントリーにする場合は、長いとか、コメントから派生して違う話になっているとか、一回分稼げるとか、それぞれの理由があります。
今回、一日置きのルーティンを破ったのは、できればコメント欄をご覧にならない方にも読んでいただきたいという気持ちと次回から続き物がはじまるので予約投稿を全部ズラすのが面倒!!(笑)という気持ちで連続更新で『コメントレスでエントリー』に相成りました。
かげまるさん。
わたしの中でとても大事な鍵を見つけることができたので、このエントリーを書くことになるコメントをくださった感謝の気持ちと、コメントのお返事からずいぶん違う話しに発展しているのでかげまるさんへのレスにはなっていないかもしれませんから、どうか切り離してお読みいただきたいし、こちらへのコメントは義務ではありません^^
以下、『かげまるさんへ』でスタートしておりますが、『等式』をお読みいただく皆様にりん子はこんな気持ちなんだ、ひいては、こんな気持ちの女もいるんだという参考にしていただけるとありがたいです。
かげまるさん
コメントありがとうございます。
偏ったエントリーに「こらしめてやろう」という感じがいっさいない意見をいただけることに感謝です。
あー、ひとつ失敗したことがあります(笑)
その1は、最初は「痴漢って暴力なんだよ」ということだけ書いていたのですが、アップ少し前に冤罪のことを読んだから付け加えてしまったのです。
本当に伝えたかったのは、前者だったのだけど、ぼやけてしまったみたい。
那智さんやかげまるさんの反応を拝見していると、おそらく多くの人は後者にスポットが当たってしまうんだなぁとわかるので失敗でした。
冤罪はもちろん悲劇です。
映画にもなりましたよね。
なくなることを願うばかりですが、同じように痴漢って暴力と感じる人もいるんだよってことも心の片隅に置いておいてくれると嬉しいですし、よければ、どうしたら痴漢も冤罪もなくなるか、一緒に考えていただける機会になれたら幸いです。
わたしの『感情』を優先したらまた話しは広がることもあるけど、今回わたしの問題を知ることができたので、いずれいまよりもっと建設的なお話しができると思うので、いまは控えておきます。
何より、冤罪のことと同じように、かげまるさんがおっしゃることは至極まっとうなことなのでおっしゃるとおりとしか言えません(できれば、コメント欄をご覧にならに方にも読んでいただきたいくらいかなり公平な意見を書いてくださっています 笑)
ひとつだけ、その2に関しては、かげまるさんのおっしゃることと同じようなことを、その編集者が言いたかったのだとしたら、わたしとしてはかげまるさんのような言葉を選んでほしかったなと思います。
なぜ、あのような言い方になったのか、その男性の女性に対する見方を誤解してしまうからです。
いつかエントリーにできるかなと思っていたのですが、わたしのフェミのようなものの、特に男性に対する棘や嫌悪感はどうしてこんなに過剰なんだろうと考えていまして、ついこの前、ああ、これは男性に対する『恐怖』なんだってわかったんです。
わたしは力の強い男性が怖い、男性の暴力が怖い、男性が怒鳴るのが怖い、男性の不機嫌が恐い。
電車で隣りに座った男性の貧乏ゆすりにヒヤヒヤしてしまうほど。
一見暴力的ではない男性だとしても、その人の性的な視線が怖い、そこに暴力的なものを見てしまうから。
子どものころ体験した酔っ払いの父や親戚の集まりのおじさんたちや近所のおじさんの乱暴さやタガの外れた様子。
そう見られがちな職場にいたから余計なのかもしれないけど、成長してからは痴漢を含め、夜道で抱きつかれたりとか後つけられたりとかの性的な目(いまはさすがに減ったけど 笑)。
これはがわたしは怖かった。
大げさに思われるかもしれないけど、命の危険さえ感じるほどに。
同じような境遇の女性でもここまで思う人とそうじゃない人もいるだろうし、ここまで思っても、それを跳ね返す努力が功を奏していいる人もいるかもしれないので、特別自分が酷い目に遭ったとは思っていないのだけど、でも、恐いものは恐いのです。
人は恐怖に対して身を守ろうとする、わたしは幼い頃から途方に暮れる方法で逃れてきたいたけど、大人になっていろいろ知り、すこし自分に知識がついたから棘を出し反撃することで身を守ろうとするようで、その気持ちが過剰なフェミ的感情を生んでいるようなのです。
今回、いただいたその3のコメントを読んで、たしかに失礼なことをする人は性別や年齢に関係なくいるのは理解できる(それでも、その失礼を向けられるのが多いのは弱者だとは思うけど)、それなのに、なぜ、わたしはそれを男性(それもある一定の)にばかり感じなんとかしたいと思うのだろうと、改めて考え、それは先に書いた恐怖がリンクしているのではないだろうかと思いました。
おそらく、かげまるさんの感じてらっしゃる『気遣いのできない人』と同じように、わたしも日常老若男女関係なくいかがなものかと感じる人はたくさんいます。
それにより「まったく!!」と思うことはたくさんあります。
きっとここまではきっとかげまるさんとわたしの感じ方は一緒のはずです。
しかし、そこにわたしは『恐い』という感情が加わっているようなのです。
だから、男性にだけ特化して不快感を持って反発してしまうのです。
かげまるさん(及び、その他のわたしの過剰さに『?』と思う人)の不快感にプラスして『恐怖』が加味された状態だと想像してみていただけるとありがたいです。
そんなふうに考えて、わたしに偏見の心があるとすれば(ありますよね^^;)、恐怖と、恐怖を感じたがゆえの怒りのせいなのだと認識することができました。
恐いのだから棘も勘弁してというつもりはありません。
でも、恐怖の感情は一朝一夕で払拭できるものではないと思うので時間がかかるかもしれませんが、わたしから男性に対する恐怖心が消えたら、もう少し偏見のないフェミニズムが語れる日が来ると思うので、よければ、それを期待していただきたいのです。
かげまるさんのコメントで、わたしの解決するべき点(男性に対する恐怖心)を明確にすることができました。
ありがとうございます。
問題がわかれば解決の一歩になれるはずですので、そんな状態なんだなと思って今後のエントリーを読む参考にしていただけるとうれしいです。
と、ここまでがコメントレスの気持ちで一気に書いたものです。
那智さんにも事前に読んでもらってエントリーにすることに決めました。
で。
那智さんに「わたしの男性が恐いという気持ちを払拭することをお手伝いくださいますか?」と聞いたら
りん子は俺は恐くないんだよね?
はい
じゃあ、世界で俺だけ恐くないままでいたほうがいいから、このままでいい(笑)
というお返事でした^^;
というのは半分冗談で^^
わたしは那智さんは恐くない。
感情的にならない、不機嫌を知らない那智さんが恐くない。
こんなに安心していられる男ははじめて。
それとともに、『等式』にいただくコメントのように『感情的にならず意見をする』男性と接する機会を重ねていけば、わたしの『男性が恐い』という荷物を徐々に落していかれるような気がしています。
面倒な女だよね^^;
でも、ブログをはじめた頃から比べたら、わたしはずっといろいろ自由に表現できている(昔のエントリー読むと違いがわかるよね^^;)、人って変われるんだよ〜、わたしはこれまらも変わるよ〜という思いを込めて、緊急エントリーでした〜。
さあ、緊急なので、また明日から通常更新です。
次は続き物ですよ〜^^
<関連エントリー>
『チューニング』
「等式」感想です。りん子のフェミに「恐怖」が追加されて過剰な反応になっていたんだ。ようやく、理解出来ました。かげまるさん、ありがとうございます。りん子が生きにくいことを除けば男性に対するりん子の「恐怖」は俺にとっては快適なのかもしれない。(笑)
『にわかフェミ』にいただいたかげまるさんへのコメントレスです。
普段コメントレスをエントリーにする場合は、長いとか、コメントから派生して違う話になっているとか、一回分稼げるとか、それぞれの理由があります。
今回、一日置きのルーティンを破ったのは、できればコメント欄をご覧にならない方にも読んでいただきたいという気持ちと次回から続き物がはじまるので予約投稿を全部ズラすのが面倒!!(笑)という気持ちで連続更新で『コメントレスでエントリー』に相成りました。
かげまるさん。
わたしの中でとても大事な鍵を見つけることができたので、このエントリーを書くことになるコメントをくださった感謝の気持ちと、コメントのお返事からずいぶん違う話しに発展しているのでかげまるさんへのレスにはなっていないかもしれませんから、どうか切り離してお読みいただきたいし、こちらへのコメントは義務ではありません^^
以下、『かげまるさんへ』でスタートしておりますが、『等式』をお読みいただく皆様にりん子はこんな気持ちなんだ、ひいては、こんな気持ちの女もいるんだという参考にしていただけるとありがたいです。
かげまるさん
コメントありがとうございます。
偏ったエントリーに「こらしめてやろう」という感じがいっさいない意見をいただけることに感謝です。
あー、ひとつ失敗したことがあります(笑)
その1は、最初は「痴漢って暴力なんだよ」ということだけ書いていたのですが、アップ少し前に冤罪のことを読んだから付け加えてしまったのです。
本当に伝えたかったのは、前者だったのだけど、ぼやけてしまったみたい。
那智さんやかげまるさんの反応を拝見していると、おそらく多くの人は後者にスポットが当たってしまうんだなぁとわかるので失敗でした。
冤罪はもちろん悲劇です。
映画にもなりましたよね。
なくなることを願うばかりですが、同じように痴漢って暴力と感じる人もいるんだよってことも心の片隅に置いておいてくれると嬉しいですし、よければ、どうしたら痴漢も冤罪もなくなるか、一緒に考えていただける機会になれたら幸いです。
わたしの『感情』を優先したらまた話しは広がることもあるけど、今回わたしの問題を知ることができたので、いずれいまよりもっと建設的なお話しができると思うので、いまは控えておきます。
何より、冤罪のことと同じように、かげまるさんがおっしゃることは至極まっとうなことなのでおっしゃるとおりとしか言えません(できれば、コメント欄をご覧にならに方にも読んでいただきたいくらいかなり公平な意見を書いてくださっています 笑)
ひとつだけ、その2に関しては、かげまるさんのおっしゃることと同じようなことを、その編集者が言いたかったのだとしたら、わたしとしてはかげまるさんのような言葉を選んでほしかったなと思います。
なぜ、あのような言い方になったのか、その男性の女性に対する見方を誤解してしまうからです。
いつかエントリーにできるかなと思っていたのですが、わたしのフェミのようなものの、特に男性に対する棘や嫌悪感はどうしてこんなに過剰なんだろうと考えていまして、ついこの前、ああ、これは男性に対する『恐怖』なんだってわかったんです。
わたしは力の強い男性が怖い、男性の暴力が怖い、男性が怒鳴るのが怖い、男性の不機嫌が恐い。
電車で隣りに座った男性の貧乏ゆすりにヒヤヒヤしてしまうほど。
一見暴力的ではない男性だとしても、その人の性的な視線が怖い、そこに暴力的なものを見てしまうから。
子どものころ体験した酔っ払いの父や親戚の集まりのおじさんたちや近所のおじさんの乱暴さやタガの外れた様子。
そう見られがちな職場にいたから余計なのかもしれないけど、成長してからは痴漢を含め、夜道で抱きつかれたりとか後つけられたりとかの性的な目(いまはさすがに減ったけど 笑)。
これはがわたしは怖かった。
大げさに思われるかもしれないけど、命の危険さえ感じるほどに。
同じような境遇の女性でもここまで思う人とそうじゃない人もいるだろうし、ここまで思っても、それを跳ね返す努力が功を奏していいる人もいるかもしれないので、特別自分が酷い目に遭ったとは思っていないのだけど、でも、恐いものは恐いのです。
人は恐怖に対して身を守ろうとする、わたしは幼い頃から途方に暮れる方法で逃れてきたいたけど、大人になっていろいろ知り、すこし自分に知識がついたから棘を出し反撃することで身を守ろうとするようで、その気持ちが過剰なフェミ的感情を生んでいるようなのです。
今回、いただいたその3のコメントを読んで、たしかに失礼なことをする人は性別や年齢に関係なくいるのは理解できる(それでも、その失礼を向けられるのが多いのは弱者だとは思うけど)、それなのに、なぜ、わたしはそれを男性(それもある一定の)にばかり感じなんとかしたいと思うのだろうと、改めて考え、それは先に書いた恐怖がリンクしているのではないだろうかと思いました。
おそらく、かげまるさんの感じてらっしゃる『気遣いのできない人』と同じように、わたしも日常老若男女関係なくいかがなものかと感じる人はたくさんいます。
それにより「まったく!!」と思うことはたくさんあります。
きっとここまではきっとかげまるさんとわたしの感じ方は一緒のはずです。
しかし、そこにわたしは『恐い』という感情が加わっているようなのです。
だから、男性にだけ特化して不快感を持って反発してしまうのです。
かげまるさん(及び、その他のわたしの過剰さに『?』と思う人)の不快感にプラスして『恐怖』が加味された状態だと想像してみていただけるとありがたいです。
そんなふうに考えて、わたしに偏見の心があるとすれば(ありますよね^^;)、恐怖と、恐怖を感じたがゆえの怒りのせいなのだと認識することができました。
恐いのだから棘も勘弁してというつもりはありません。
でも、恐怖の感情は一朝一夕で払拭できるものではないと思うので時間がかかるかもしれませんが、わたしから男性に対する恐怖心が消えたら、もう少し偏見のないフェミニズムが語れる日が来ると思うので、よければ、それを期待していただきたいのです。
かげまるさんのコメントで、わたしの解決するべき点(男性に対する恐怖心)を明確にすることができました。
ありがとうございます。
問題がわかれば解決の一歩になれるはずですので、そんな状態なんだなと思って今後のエントリーを読む参考にしていただけるとうれしいです。
と、ここまでがコメントレスの気持ちで一気に書いたものです。
那智さんにも事前に読んでもらってエントリーにすることに決めました。
で。
那智さんに「わたしの男性が恐いという気持ちを払拭することをお手伝いくださいますか?」と聞いたら
りん子は俺は恐くないんだよね?
はい
じゃあ、世界で俺だけ恐くないままでいたほうがいいから、このままでいい(笑)
というお返事でした^^;
というのは半分冗談で^^
わたしは那智さんは恐くない。
感情的にならない、不機嫌を知らない那智さんが恐くない。
こんなに安心していられる男ははじめて。
それとともに、『等式』にいただくコメントのように『感情的にならず意見をする』男性と接する機会を重ねていけば、わたしの『男性が恐い』という荷物を徐々に落していかれるような気がしています。
面倒な女だよね^^;
でも、ブログをはじめた頃から比べたら、わたしはずっといろいろ自由に表現できている(昔のエントリー読むと違いがわかるよね^^;)、人って変われるんだよ〜、わたしはこれまらも変わるよ〜という思いを込めて、緊急エントリーでした〜。
さあ、緊急なので、また明日から通常更新です。
次は続き物ですよ〜^^
<関連エントリー>
『チューニング』
「等式」感想です。りん子のフェミに「恐怖」が追加されて過剰な反応になっていたんだ。ようやく、理解出来ました。かげまるさん、ありがとうございます。りん子が生きにくいことを除けば男性に対するりん子の「恐怖」は俺にとっては快適なのかもしれない。(笑)